野田菅沼家、始まる

2010年03月30日 00:07

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/29(月) 13:26:49 ID:eXiePoaF
「そんな事出来るわけがなかろう」

永正二年 (1505)、設楽郡を支配する富永氏の家宰、今泉四郎兵衛は苛立っていた。富永家の家督、の事である。
かつて設楽全体を治めていた富永氏の領地は、新興の奥平氏、菅沼氏に侵食され、
この頃には館周辺の野田郷四ヶ村だけとなっていた。
その上当主の富永千若丸は家の将来に絶望したのか、嗣子も無いまま乱心し自害してしまった。
これにて富永家は断絶した。この時、富永家の家来たちもその多くが四散したという。

「京の公家の若君に下向して頂き、お家を継いでいただくわけには行かないものか」

富永家は家格だけは高かった。そのため、残った家中の者たちはその家格をどうにか保ちたかった。

「こんな没落したも同然の家に、わざわざ京から継ぎに来る物好きなどいるものか!もっと現実を考えろ。
この上は…」

今泉四郎兵衛は決断した。例え養子を迎えても、このままでは奥平、菅沼に滅ぼされてしまうだけだ。
ならば一方の敵である菅沼から養子を迎え、その勢力下に生き残りを計るべきだ。
四郎兵衛は菅沼氏の本拠地、田峯に出向き、今は菅沼氏に仕える富永の旧家臣。城所道寿信景や城所助之丞直政
を通して交渉、田峯菅沼家当主菅沼定忠の三男竹千代、この時14歳を迎えることで合意した。

田峯の菅沼としてみれば、菅沼の跡継ぎには長男定広が確固として決まっており、本来なら厄介者ですらある
三男竹千代に自らの懐を痛める事なく領地を与えられるのは、渡りに舟であっただろう。
定忠は竹千代に菅沼権之丞、城所助之丞、塩瀬甚兵衛を付け、早速富永館へと出発させた。

ところが事はそう簡単に進まない。
永正二年十一月、野田郷に向かった竹千代一行は、菅沼領との境界で足止めを食らった。
富永の家中が竹千代を迎え入れることに猛反発している、と言うのだ。

「我々は菅沼家に領地を侵食されたため衰退したのだ!そこから養子を迎え入れるなどあってなるものか!」

今泉四郎兵衛が必死に説得している間、竹千代一行は境界の村で様子をみることになった。
説得工作は長引き、竹千代たちはその村で展望も見えぬまま、越年するにまで至る。
しかし、それでも諦めて田峯に帰ることも無く、滞在する邸宅の中に井戸まで掘って説得の成功を待った。
若き竹千代も、もはや実家に帰ることは出来ないと覚悟を決めていたのだろう。

この姿勢が幸いしたのか、足止めから丁度四ヶ月後の永正三年 (1506)二月十一日、ついに竹千代は
富永館に入城を果たした。
この時富永館は、「野田城」と名を改めた。

竹千代は後、菅沼定則と名乗る。そう、二代後に菅沼定盈を輩出し、徳川家譜代大名として菅沼氏族の中で
最も栄えることとなる野田菅沼氏が、ここに始まったのだ。




130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/29(月) 16:29:10 ID:5vcOYG0Z
素朴な疑問だけど、菅沼定則に改名しても富永家の家格は引き継げるものなの?

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/29(月) 16:56:21 ID:eXiePoaF
>>130
正確に言うと富永の名跡は引き継がずに、その領地と家中をまるごと引き継いだ。
社員と機構をまるごと引き継いだ上で社名と社長だけ変わった感じ。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/29(月) 20:26:11 ID:7mriKN6E
風は山河よりでも読んだんか?


133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/29(月) 22:09:30 ID:NPB8d1CG
あの作者は、欠点がないような感じで主人公を描くからなぁ・・・

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/29(月) 22:30:40 ID:dJ7UY9n8
あの作家の作品は、一癖二癖のある主人公を見たことがないな

135 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/29(月) 23:11:26 ID:M1O52gTe
あの作者と出版社は三河者がなんたるかを見たことがないからなぁ。
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