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關八州に鉄炮はしまる事

2019年05月14日 19:24

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 19:16:58.68 ID:Sf64um2C
關八州に鉄炮はしまる事

これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、

「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。

私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、

『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。

弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。

今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』

と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」

と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、

「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」

とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。

そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。

「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」

御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。

まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。

しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。

――『北条五代記』

>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事



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後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」

2018年10月11日 13:12

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:56:08.17 ID:6aO+yd8d
後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」



現在サントリー美術館に収蔵されている重要文化財「酒伝童子絵巻」は
江戸時代は鳥取池田家に伝来していたが、元は後北条氏の家宝であった。

北条氏綱は京文化への造詣が深く「酒伝童子絵巻」を作るにあたって
絵を狩野元信、詞書を前関白の近衛尚通、定法寺公助、青蓮院尊鎮ら
奧書を三条西実隆と当代を代表する絵師や能書家に依頼した。
特に尚通とは格別の交流があったらしく、正室・養珠院に先立たれた氏綱は
継室に尚通の娘・北の藤(勝光院)を迎えた程であった。

その後は家宝として伝わっていたが、天正19年(1591年)に北条氏直が病死し
後家となった督姫が、池田輝政に再嫁する際に引出物として持ち込んだという。

池田家伝来のものでは、同じく重文の「後三年合戦絵巻」(現:東京国立博物館)や
北条高時の執事長崎為基の佩刀で、『太平記』に出てくる来太郎の太刀「面影」*
なども、元は後北条氏の家宝で督姫を経由して伝来したものとされる。


――『小田原市史』『池田家履歴略記』など

* 為基の後は、小弓公方・足利義明が敗死したとき佩いていたという。(『後鑑』)
 鳥取城にあったが享保5年に火災で焼身になり、再度の火災で焼失した。


関八州に鉄砲始まること

2018年02月03日 11:55

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 10:39:52.82 ID:Wka7mPI2
関八州に鉄砲始まること

昔、相州小田原に玉瀧坊という、年寄りの山伏が居た。愚老(三浦浄心)がまだ若かった頃、
その山伏からこんな話を聞いた。

「私は関東より毎年大峰に登るのだが、享禄(1528年8月20日~1532年7月)の始まる年、
和泉の堺へ下った折に、大変な鳴り物の音がした。これは何事かと問うた所、鉄砲という、
唐国より永正七年(1510)に初めて渡ってきたのだ、そういって標的を撃った。
私はこれを見て、さても不思議奇特なるものかと思い、この鉄砲を1挺買い取って関東へ
持って下り、当時の屋形であった北条氏綱公へ進上した。そしてこの鉄砲を試射をご覧になると、
『関東に類なき宝である』と、秘蔵された。」

この事を近国他国の、弓矢に携わる侍たちが聞くと、『これは武家の宝である。昔鎮西八郎為朝は
大矢束を引く、日本無双の精兵で、弓の威力を試みるため鎧三領を重ね木の枝にかけ、六重を射落とした
ほどの強弓であったという。保元の合戦で新院(崇徳院)に味方し、八郎一人あって多くの敵を
射殺し、そのため数万騎にて攻めても、その矢を恐れ、院の御門を破ることは出来なかったという。

現在では、弓があっても良き鎧を着けていれば恐るるに足らない。しかしなんといっても、
かの鉄砲は、八郎の弓にも勝るものなのだ。所帯に変えても、一挺欲しきものだ。』

そう願っていた所、氏康公の時代に堺より國康という鉄砲張りの名人を呼び下された。
また根来法師の杉坊、二王坊、岸和田などという者たちが下ってきて、関東を駆け回り鉄砲を教えた。
このような事があって、現代では人ごとに一挺所持している、というような状況となった。

そうして、あの北条氏直公の小田原籠城の時(小田原の陣)、敵は堀際まで押し寄せ、海上も隙間なく
船で包囲した。秀吉は小田原城の西に山城を築き、、小田原城を目の下に見てこう申された
「この秀吉は何度も合戦城攻めをしたが、これほどの軍勢を揃え、鉄砲を用意した事は初めての
幸いである。時刻を定めて、一度に射撃させ、敵味方の鉄砲の様子を観察したい。」
そう、北条方へよびかけた。双方同意し、五月十八日の夜、双方数万挺の鉄砲にて一斉射撃を行った。
これにより盾も矢倉も残り無く撃ち崩されたという。

北条氏直の方も、関八州の鉄砲を兼ねて用意した上で籠城をしたのであるから、敵には劣るまじ、
鉄砲比べせんと、矢狭間一つに鉄砲三挺づつ、さらにその間に大鉄砲を設置し、浜手の衆は船に向けて、
海際まで出、日が暮れるのを待つと、十八日の暮れ方より撃ち初め、敵も味方も、一晩中に渡って
射撃し続けたため、天地振動し月の光も煙に埋もれ、まったくの暗闇となった。
しかしそれにより、射撃による火の光が一層現れ、限り無く見えること、満天の星のようであった。

氏直公は高矢倉よりこれを遥かに見て、狂歌を詠まれた

『地にくだる 星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄砲の火を』

これを口にした所、御前に従う人々が
「御詠歌のごとく、敵は堀辺の草むらに、蛍火が見え隠れするようです。城中の鉄砲は
さながら星、月夜に異なりません。」

そのように語ると、氏直公はニコニコと笑みをお見せになられた。
愚老は相州の住人であった。小田原に籠城した時の事、今のように思い出される。

ともかく、鉄砲は永正七年に唐国より日本に渡り、それ以降繁栄し、この慶長十九年までで
百五年である。関八州にては、享禄元年より今年まで、八十七年となる。

(北條五代記)

一般に言われる、鉄砲記の天文12年8月25日(1543年9月23日)伝来説からは、33年も遡っていますね。



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:27:55.53 ID:t7jLHXY4
イゴヨサンガホシイテッボウ

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:36:10.42 ID:bwluwx56
一斉射撃だなんて粋だねえ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 14:05:47.02 ID:T8vcZ8Wi
まとめの1077に
北条氏康が12歳の頃鉄砲の音聞いて驚いて笑われた話があるけど
これはその鉄砲かな

ポルトガルの文書だと1542年だっけ、鉄砲伝来は

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 17:26:41.43 ID:6A/dZne6
いわゆる鉄砲伝来は欧州からのマスケット銃が伝来した史実を指す。
一方、東アジア及び東南アジアでは中国発祥のマスケットである鳥銃が広く普及していて、これが日本に部分的に伝来していた可能性は以前から指摘されている。
というか16世紀中盤時点で銃を知らなかった文化ってアジアでもフィリピンと日本だけなんじゃないか。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 19:05:07.80 ID:7bntfjjr
キリスト教:1世紀前半にできて、日本伝来は1549年(1500年くらいかかった)
鉄砲(マスケット銃):15世紀前半にできて、日本伝来は1549年(100年くらいかかった)
梅毒:1492年くらいにヨーロッパ人が感染し、日本伝来は1512年(20年くらいかかった)

宗教、武器、性病の伝来順序が西欧に現れた逆なのが面白い

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 22:46:11.25 ID:C2CGA8dd
景教の経典として漢語訳された聖書を遣隋使か遣唐使が持ち込んではいるけどな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 11:12:21.53 ID:4RZFuuGH
元代のマニ教の宇宙図が日本にあった、て話はあるけど
景教経典が持ち込まれた、て話はあったっけ
あとは「甲子夜話」で松浦静山が
「群馬県の多胡碑(711年頃)の近くに十字架が発掘された。
おそらく多胡碑の羊というのはキリスト教徒の一族だろう」
と怪しげな説を唱えているくらい

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:27:46.51 ID:s4DWgBB+
景教って平家とか朝倉家にいてもおかしくなさそうな名前

豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

外郎事

2015年03月01日 19:58

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 01:41:54.70 ID:1YOMHe++
外郎

相州小田原における北条氏綱の政道は、無私にて民を慈しんだので、近国他国の人民は
その恵みに懐き移住し、津々浦々の町人職人が遠隔の西国や北国からも群来した。
そのため小田原の街は、古の鎌倉もどうしてこれ程だろうかと覚えるほどに発展した。

東は一色より板橋に至るまで、その間約一里に商店が密集し、数多の売買を行っていた。
山海の珍物、琴碁、書画や細工に至るまで、無いというものは無かった。
異国の唐物で、未だ目に見たこともなく、まして聞いたこともないような器物が、
幾つと言うことも無いほど積み置かれていた。

このような交易の売買で利潤を得た者は、四条、五条の辻にも溢れ、民のカマドも豊穣と成り、
東西の業も繁盛した。

小泉という人が小田原の町奉行に任命されたが、彼は賞罰が厳重で堪否を知り、理非分明で物の正否を
糺したので、不正に嘆く人もなかった。

そのような中、京都より外郎という町人が来て様々な薬を商った。なかでも透順香という霊薬は、
長生不老の薬であると言って、氏綱にも進上されることと成った。
そこで町奉行の小泉がこの町人を伴って登城した。
氏綱の御前において
「かの薬の効能は測れないほどです。先ず第一に口中の臭気を除き、眠気を取り、命を延ばします。」
と言上した。

そこで外郎が申し上げるには
「この霊薬は、唐においては仙家の秘薬ですが、我が先祖が代々これを伝えていました。
そして鎌倉建長寺の開山大覚禅師が来朝する時、お伴して本朝に渡り、以後この国に居住しております。」

氏綱はこれを聞くと
「誠に珍しい貴物である。今後小田原に居住するように。」
と申し付け、明神の前の町家を与えた。今の小田原の外郎の店はこれの事である。

(相州兵亂記)

北条氏綱の時期の、小田原の繁栄と外郎についての記述である。




679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 11:00:14.18 ID:HohDDBDN
ういろうはミステリアスフード
当時のういろうは甘くなくて薬っぽかったんだろうなあ
友人は石けん味の食い物なんぞ食えるかといって嫌ってるw

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 11:27:15.98 ID:LdFAmnHA
小田原のういろううまいよな。また城ついでに買いに行きたい

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 12:33:49.30 ID:Hf4nG+dx
それ仁丹みたいな丸薬の方のういろうやろ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 13:38:18.36 ID:59L9f9Rt
外郎発祥は小田原なのに、何で名古屋が有名なんだろうか

http://i.imgur.com/4pmjg73.jpg
4pmjg73[1]

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 13:53:19.22 ID:qv6GP8+Z
>>685
外郎の発祥は京都。そこから各地に伝わって様々に進化した。
小田原のは外郎の宗家が移住したから小田原発祥というような誤解が伝わっている。
名古屋の外郎が有名になったのは東海道新幹線の開通で車内販売され、おみやげとして有名になったため。

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 21:15:24.09 ID:61zzAPJY
字が違うと分かっているのに、つい「げろう」と読んでしまう、外郎に縁が薄い馬鹿が俺

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 07:45:28.88 ID:HUBXNlue
下がれ!外郎!

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 08:34:26.54 ID:Ug9IlYrZ
前に出ろ。羊羹。

夜襲じゃない方の河越夜戦の話

2013年01月20日 19:02

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 21:08:55.20 ID:cnHI7wVa
>>202でその話が出たから、
いつか書こう書こうと思っていた話をば
出典は北条五代記

かつて武州江戸城には上杉朝興が居を構えていたが、北条氏綱に城を奪われ河越城に逃げ込んだ
そこに追い込まれて十余年、病気を患い若くしてこの世を去り、その跡は嫡男朝定が継いだ
その朝定、服忌七十七ヶ日も経たないうちに深大寺城を再興し、反撃の準備にかかった
「親父の喪くらいちゃんと服せよJK。軍神も不孝者なんかに加護なんぞを与えないだろうになあ…」と
民衆に噂される始末

さて朝定の動向を察知した氏綱は朝定勢が万全の備えで待ち構えている深大寺城を華麗にスルー、
一挙に上杉本拠の河越城の間近である武州は入間郡の三木まで軍を進めた
これに対して朝定も兵を繰り出し、ついに合戦が…始まらない

両軍の軍師「ちょっとまって、まだ吉兆が出てないから!あと五分、あと五分だけまって!」
 呑気なものである

そうこうしているうちに日もどっぷりくれ丑三つ時、
空は晴れやかで満月の光が露草を美しく照らしだし、旗がたなびく田畑の中、虫達が鳴き声を競い合い、
もののふ達もそのあまりに詩情的な光景に勇者の道も忘れただただ感じ入るしか無かった…

軍師「GO/NOGO判断はGO!MINAGOROSHIにしろー」 空気読めよ、お前

打ち鳴らされる軍太鼓、響き渡る鯨波の声は高き天の雲にまで反響し、地獄の底にまで響き渡るかのようであった
互いに進みぶつかり合い、互いに矢を射かけ、その様はさながら神仏の争いの如き凄まじさ、
その一進一退の攻防にこれはちょっとやそっとのことでは勝負もつくまいと思われかけたその時、
上杉朝定方の一隊が崩れ、あとはもう将棋倒しのように一挙に瓦解し、日が明ける頃には
河越城も北条方の手に落ちた
朝定は難波田弾正の松山城に難を逃れ、上杉家残党もそこに集結した

氏綱はそれを聞くと追撃を決意、勢いに乗って松山城に押し寄せる
難波田弾正は残党を率いて防戦するも、士気の差、数の差はいかんともしがたく敗走した
その時に例の詩合戦(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3372.html)の話になるのであった

夜襲じゃない方の河越夜戦の話

関連
上杉朝興の遺言
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7215.html
難波田憲重、山中主膳の歌に
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3372.html

北条氏綱、小弓公方足利義明への対応

2013年01月13日 19:24

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/13(日) 17:48:04.14 ID:TalaATdP
上総の真里谷武田氏は原氏や千葉氏に負けてばかりであった。
そこでこの状況を打開せんと、古河公方高基の弟・足利義明を大将軍として
軍兵を催した。

この義明は累代武将の家に生まれ、心はどこまでも大胆でおそれを知らず、
力強く骨太で武器に熟達した当代無双の英雄である。

そのため、上総・下総・房州の辺りで管領に背いた輩は一人残らず馳せ来たり、
義明に従った。その勢いは近国を覆い、三年の間に原氏は敗れて小弓城を
奪われた。

その後、高城越前守父子を討ち取り同下野守を追い落とし、原野次郎をも
討つと、近国の兵共は我も我もと群がって付き従った。安房の里見氏は
猛勢の大将であったが、何を思ったかこれもまた義明に従った。

義明は血気無双の人なので、やがては関八州をその手にし古河公方を
配流して鎌倉に御所を立て、関東の公方になるという野心を抱いていた。
彼はこの志を公言することを思いとどめようとしても、すぐに表情に出して
ほのめかすので、付き従う血気の若者たちは皆その願いが叶うようにと励んだ。

そのような情勢だったので古河公方に一味する人々は心穏やかではなかった。
北条氏綱も足利晴氏の舅なので内心苦々しく思っていたが、大敵の上杉と
敵対していたので義明とは無事を保ち、互いに使者を交わして捧げ物を送る
こともあった。これも一時の智謀である。

――『異本小田原記』




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 08:21:17.84 ID:GvNXoUuS
ええ話や・・・って、どこがやねん!

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 09:06:25.84 ID:FuS3BPN2
足利義明でググると義昭のウィキペディアが一番上に。
変換間違いだと思われてるんだろうなあ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 09:32:02.13 ID:u4eFfa2J
義明公は脳筋で里見に呆れられて死ぬんだよなあ
そしてそんな義明公の奮戦する錦絵が船橋の図書館にある(はず)
自分の嗜好で図書を入れたり捨てたりしてたおかしな司書がいたとこだからなあ
いまはどうなってんだろ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 14:49:24.97 ID:HqULihVI
名前で検索すると地球皇帝の件ばかり引っかかる、
二代目堀越公方様と良い、マイナーどころはどうしてもなぁ

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 15:58:06.00 ID:2ox1t7MA
>>86
元ネタの人物しか知らない人が見たら吃驚するだろうなぁこれ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 23:59:12.34 ID:zA74Q8MM
>>85
あれって船橋市だったのか
考えたら怖くなってきたw

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 20:41:34.42 ID:L75Ix7Q/
>>93
市川・船橋って近代でも戦場になってたぞ、地味に

江戸にて初鰹をめづる事

2012年11月16日 19:57

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:05:17.68 ID:zInIO4Sh
江戸にて初鰹をめづる事

天文六年の夏、小田原浦近くに釣舟が多く浮かんでいると聞いた北条氏綱
小舟に乗って海士の働きを見物した。この珍事の御遊の時、氏綱が酒に興じていると、
一尾の鰹が舟に飛び込んで来た。

氏綱は心から喜んで「勝負にかつを!」と格別の祝辞を述べてその鰹を酒肴とした。

同年七月上旬、上杉朝定が武州へ発向したが氏綱はこれに討ち勝って武州を治めた。
このようなこともあって諸侍は戦場の門出の酒肴にはもっぱら鰹を用いたのである。

――『仮名世説(北条五代記)』

つまり北条の侍は門出のたびに「勝負にかつを!」とか言っていた可能性が…。




361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:26:13.86 ID:pZ5KUHo5
接待笑いの様子が目に浮かぶな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:29:04.16 ID:QKtyiHv1
ほかのとこだって、いくさ前には勝栗で縁起をかついでいたから
駄洒落の程度は変わらない気がする

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:30:58.34 ID:QKtyiHv1
しかし魚が舟に飛び込むって、周の武王や清盛のような話だな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 18:42:15.22 ID:5jyCoJ8y
北条やる夫か…

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 18:58:54.43 ID:OBboKc7M
駄洒落で験担ぎとかwww
てのはごく最近の考えなのかしらね
まあ同じ人間だしそんなことはないか

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 19:34:10.64 ID:4iolDIe7
勝栗とかだってそんなやし、
現代でもキットカットとかカツ丼とか。
まぁ元より掛詞を嗜む民族やから。

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 20:06:19.03 ID:lfgeQGMY
ダツが飛び込み阿鼻叫喚…

369 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/16(金) 21:03:43.07 ID:Mw4z+MRM
>>360

縁起物つながりで隣国武蔵ではかつて神様(大国主命)がデートで待ちぼうけ食らった時に「まつのは嫌じゃ」と言ったのがきっかけで正月飾りが門松じゃなくて門竹になっているし。

きっと東国では駄洒落がマイブ~ムだったんだよw

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:06:03.17 ID:ZgBj9tqX
鰹は今でも魚河岸なんかじゃ「かつを」って書いてるのよく見るよね。
>>360が起源なのか、同じよーな事を思いつくオヤジがほかにもいたのか。
多分たくさんいたんだろうなぁと、親父の駄洒落好きを眺めながら思う。

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:33:05.55 ID:GCwhZs9g
       ____
     /⌒  ⌒\
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   勝負にかつお!
  |     |r┬-|     |
  \      `ー'´     /

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:48:04.37 ID:b1s+1kor
お前ら、なんだかんだ言いながらかつおで大喜びじゃないかw

今の小田原の外郎というのは、これである

2012年11月13日 19:58

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 22:26:20.72 ID:7MWZQl4Y
ういろう家が小田原に行ったのはそういう下地があったのか?



384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 21:21:54.52 ID:065CW0wl
>>374では同じく「關侍傳記」から外郎のお話

北条氏綱の時代、相州小田原では政道に私無く、民を慰撫したので、近国・他国の民も
北条氏の徳に懐いて家を移し、津々浦々の町人・職人、西国・北國より群れ来たった。
それにより小田原の街は、昔の鎌倉もどうしてこれほどだっただろうか、と思うほどの
繁栄を示した。

東は一色より板橋に至るまで、その間一里ほどに、棚を設置し数多の売買を行い、
山海の珍物・琴・碁・書・画の細工に至るまで尽く集まっていた。
異国の唐物でも未だ目にしたこともなく、まして聞いたこともないような器物を数知れないほど
積み置いていた、

小田原における交易売買の利潤は、京の四条、五条の辻にも勝っており、民の収入も豊かで、
小田原を支点にした東西交易は大変繁盛していた。

このころ北条氏は小泉という人物を町奉行に置いた。この人は賞罰厳重にして人の堪否を知り、理非分明にして
物の奸直を糺したので、人の嘆きも無かった。

ここに京都より外郎という町人が来て、様々な薬を売る中にも、透頂香という霊薬を売っていた。
これは長生不死の薬として、北条氏綱にも進上される事となり、小泉はこの外郎を連れて登城した。

外郎は氏綱の前でかの薬の効能を上げ、第一には口中の臭いを除き、眠気を消し去り、
命を延ばすのだと言上した。

外郎の言うところには
『この霊薬は唐にて仙人の秘薬でしたが、我々の先祖がこれを伝え、鎌倉の建長寺の開山・大覚禅師
来朝の時、共をして本朝に渡ってより、この地に居住しています。』
とのこと。

氏綱は
「実に珍しい貴物である。おぬしはここに居住せよ」
と申し付け、明神の前に町家を給わり、小田原に住むことになった。
今の小田原の外郎というのは、これである。

(關侍傳記)




385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 21:50:32.00 ID:GRmcnagB
当時の小田原の繁栄振りを見てみたいわ
今の物があって当然って感じの東京とは違う活気がありそう

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 23:10:12.21 ID:1PEFadOE

レスが拾われるとはw
北条の内政チート話はよく聞くなぁ
滅ぼされなかった歴史が見たいもんだ

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 23:52:28.06 ID:AH7QiWE5
小泉という町奉行は、江戸初期に多摩川を開拓した代官の祖先?

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 00:16:19.06 ID:/UEP4ayn
>>387
小泉次大夫は元今川家臣だね

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 18:05:18.32 ID:m/OfymvL
福岡銘菓の「鶏卵素麺(そうめん)」で知られる福岡市博多区の老舗和菓子店「松屋菓子舗」(松江光社長)が
自己破産申請の準備に入ったことが12日、分かった。信用調査会社の帝国データバンク福岡支店によると、
負債総額は約2億5千万円。本店や福岡市内の百貨店で営業している計7店の閉鎖時期などについては不明。

 同社は1673年(延宝元年)創業。福岡市内の和菓子製造会社としては最も古く、
江戸時代に黒田藩に献上したとされる鶏卵素麺を主力商品に、ようかんや最中などを販売していた。
1996年に株式会社に組織変更。99年4月期には約5億2500万円の売上高があったが、
消費者の和菓子離れなどの影響で、2011年4月期は約3億2千万円に落ち込んでいた。
現在は福岡市・天神の岩田屋本店や福岡三越、博多大丸などに直営店を構えている。

 「鶏卵素麺」はほかのメーカーでも同名の商品がある。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/333828

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 19:24:48.74 ID:12gephJg
>>391
鶏卵素麺はあまり旨くはなかったが古いメーカー潰れるのは残念
鶏卵素麺は南蛮の菓子だが、タイにも伝来してるみたい
日タイ交流協会のイベントで紹介されてた

「北条イラストコンテスト」 優秀作品読者投票

2010年03月23日 00:02

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 00:19:09 ID:dB+DUQm3
これはきっと悪い話


> 「北条イラストコンテスト」 優秀作品読者投票
>
> 神奈川新聞社では、120周年という節目の年に「戦国時代は北条氏に始まり北条氏に終わる」をテーマに、
> 「北条イラストコンテスト」を開催、北条氏一族および北条氏一族にまつわる人物の中から好きな武将を
> 一人選んで頂き、その武将のイラストを募集致しました。たくさんのご応募ありがとうございました。
>
> 厳選な審査の結果、ここに優秀作品を掲載するとともに、読者による人気投票を実施致します。
> 掲載されているイラストの中から、一番優秀だと思われる作品に対し、下記の応募フォームから
> 投票して下さい。
https://www.kanaloco.jp/contact/entry/ho_jo20100316.html


あれ…?早雲と氏康、…だけ?


氏綱公…




489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 00:53:14 ID:tTYjgaQD
まぁ人気投票で票を取れるとも思えないしw

ソレは兎も角、氏綱は外向的失政が多い、それを挽回したのは氏康だって意見も多いよな


490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 01:28:14 ID:9+qTVOY+
>>489
実質藩祖なのに毎度スルーされるどこぞの兄さんに比べたら…

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 06:17:05 ID:J+of4riC
>>489
せっかく鶴岡八幡宮を再建したのに……(´・ω・`)

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 08:36:08 ID:Cda6Fisu
全国的な知名度で氏綱が早雲や氏康に劣るのは分からんでもないが、
地元での氏綱の知名度ってどうなんだろう。


493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 08:54:51 ID:UjefJ/cf
そもそも北条自体がマイナー

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 13:05:30 ID:yiExpJrQ
>>492
うちの親父(67歳)は前北条と後北条との区別がつかなかった。

鎌倉幕府が潰れたのに、なんで秀吉攻めてきたの?とか

大イチョウは見ていた。

2010年03月13日 00:06

606 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/11(木) 21:30:49 ID:Wmo5Y20C
大イチョウは見ていた。

平成22年3月10日午前4時50分鶴岡八幡宮・・・・・
ドーーーーーン!!!!
こま犬A『ヒー何だ?何が起こったんだ?いきなり木が倒れてきたぞ!』
こま犬B『相棒大丈夫か?ん?あわわわわわ・・・・・』
こま犬A『相棒よ、ナニ口あけて固まっているんだよ。確かに俺たちこま犬だけどな。』
舞台『アンタなんかどうでもいいわよ!ご・・・ご神木が倒れているわ。』

そう、樹齢1000年、神奈川県指定天然記念物の大イチョウがついに倒壊をしてしまったのだ。

大イチョウ『皆の衆大丈夫か?騒がせてすまんのう。とうとうこの日が来るとはのう。』
舞台『ご神木様・・・大丈夫ですか?と言ってもこのお姿では・・・』
大イチョウ『舞台よ。傷はなかったかのう。綺麗なお前さんに傷を付けては参拝者に申し訳ないからのう。』
舞台『特には・・・それに傷が付いても『寄付でたて直し』と言う手段もありますわ。それよりご神木様のほうが・・』
大イチョウ『建て直しか・・・ワシの若い頃は・・・・戦国時代はここも酷いものじゃった・・・』

戦国時代:鶴岡八幡宮
宮司「頼朝公以来、武家の崇拝を受けてきた八幡様もまわりの戦乱でコレでは・・・」
禰宜「頼りもヘチマもございません。建て直しどころか、草刈りすら難しい財政です。」

そう、ご多分に漏れず『武家の守り神』鶴岡八幡宮も荒れ果てていた。
関東管領は今や鎌倉におらず。戦国の関東波及により荒れ果ててしまったのだ。
つまり、皆さん忙しかったんですな。

大イチョウ『確かにペンペン草しか生えていないほどの荒れ放題だなこりゃ。
      鎌倉に幕府があったときは、25の僧坊を持ちたくさんの武士が参拝に来たのだが、
      新田義貞がせめてきてからだんだんと衰えてきたもんなぁ。あれ?立派な武士が
      こっちへ来るぞ?衣装の紋は・・・【三つウロコ】!北条家じゃないか!高時の時に
      みんな討ち死にしたと思ったんだが?赤橋か名越の生き残りでもいたのか?帰ってきたのか?』

北条氏綱「伊勢宗瑞の子、北条氏綱である。宮司はどこか?」
宮司「はい。私にございます。」
氏綱「ずいぶん荒れておるのう。武家の守り神である八幡様を荒れ果てさせるとは嘆かわしい。
   よろしい!私が社殿を寄進し、建て直そう!ワシの代から北条を名乗ったとは言え、
   相模国を収めた我が家が直さなければ面目が立たん!」
大イチョウ『な~んだ。北条家の名前と家紋を利用しただけか。そういえば、建て直してくれるといっていたな。』
氏綱「ちなみに当家は伊勢氏であった。平家つながりで先の北条氏とは遠縁でもある!」
大イチョウ『ス・・・スミマセン』


610 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/11(木) 21:58:39 ID:Wmo5Y20C
こうして、氏綱の号令の下、鶴岡八幡宮再建工事が進められることになった。
もちろん、天下の北条氏である。下手なものを作れば日本全国に恥をさらすことにもなりかねない。

宮司「北条家もずいぶん材料や職人を集めたがよく金がもつなぁ。」
禰宜「たしかに、小田原は豊かなところになったと聞いてはいましたが・・・」

氏綱も時折やってきて視察をしていたようである。
氏綱「当家の面子がかかっているからな。予算が足らなくなったら小田原に報告せよ。」
担当者「はい。現状では材木の手配、職人の手配も滞ってはおりません。」
氏綱「ケチなことは考えるな。良い物を使うようにせよ。」
担当者「はい。」

大イチョウ『こんなににぎわうのは久しぶりだな。』

こうして、戦国時代の鶴岡八幡宮再建工事は天文元年(1532)より天文9年(1540)まで
8年あまりの歳月をかけて行われ、完成した。
ちなみに、秀吉がやってきたときに修理を家康に命じた時の絵図面がこれ。
http://www.hachimangu.or.jp/about/precious/c02_06.html
修理なので、そんなに違わないと思う。

こうして、再建工事は終了した。
氏綱「これで、面目も保てよう。これだけデカイものを独力で作ったのだから、
   関東の連中も我が北条家に従うだろうて。それから宮司よ。困ったことがあったら
   小田原に報告してくれ。すぐに必要なものは用立てよう。」
宮司「ありがとうございますぅぅぅぅぅ。」
氏綱「それから、この刀、奉納する。
  (http://www.hachimangu.or.jp/about/precious/c02_05.html)」
大イチョウ『あ~、まぁ、理由なんてそんなものでしょうね。でも綺麗になった。』

平成22年鶴岡八幡宮
大イチョウ『後北条家はもういないが、あの時はうれしかったものだ。なんといっても
      全部建て替えたのだから。徳川家斉の時の建て替えよりも条件が悪かったのじゃよ。』
舞台『そんなことが・・・』
大イチョウ『ところでワシはどうなるのか?イチョウの木って何に使われるものかのう。』
舞台『まな板とかに使われると聞いたことが、でも、標本になるか裁断されてお守りに
   使われるかも知れないですわ。』
大イチョウ『まな板か、鎌倉には料理店が多いからなぁ。標本で宝物館や市役所で過ごすのも悪くはないが、
      お守りで神社の営業の足しになるのもいいじゃろう、だが、商売繁盛は無理じゃな。』
舞台『?』

大イチョウ『「倒れた」では、シャレにもならんよ。』

みなさん、大イチョウを忘れんでください。



611 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/11(木) 22:05:03 ID:Wmo5Y20C
>>606>>610をかいたものです。
いちおう、舞台は女性としてみてください。
今までと切り口を変えてみました。
ところでどうするんでしょうね、大イチョウ。
デカイだけに・・・・・





612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 22:06:33 ID:NBu00oDq

こういう行為って周辺大名や国人にどの程度効果があったのかなぁ?

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 22:18:52 ID:BafoJxF3
昨夏に見てきたよ大銀杏。舞台では結婚式が執り行われてたw
まあ傾斜地に立って今まで無事だったのが不思議なのかもな。
現宮司の評判が…とか、デスブログ…とか、フラグらしきものもあるけど。

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 23:46:45 ID:pUkEAmJI
>>611
再生出来ないかと試みている。(難しいっぽい
あと、若木が出てくるのを期待して根っこを保存。
更に枝からも若木を育てるそうな。

http://www.asahi.com/national/update/0311/TKY201003110492.html

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 01:01:31 ID:WtHcF13t
根っこまだ残してるんだ…
樹齢何百年~って樹は日本全国に珍しくないんだろうけど
歴史上の出来事と密接な関係のある樹はそんなに数がある訳でもないし
折れたと聞いた時はなんと勿体ないと思ったんで根っこだけでも残ってて嬉しいわ

しかしかえすがえすも惜しいなあ…
樹は自分の周囲環境の情報を完璧に保持してる、なんて話もあるから
もっと科学が進んで情報引き出せるようになったら歴史の証言者になれたかもしらんのにとか妄想してしまう

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 04:49:32 ID:KaJ7EOgh
前にテレビで太閤桜の遺伝子を元に作ったクローン太閤桜を
歳をとって枯れ出した桜の代わりに植えて後世に残すって計画がやってたけど
大銀杏もクローン大銀杏を境内のどっかに植えるとかするかもしれん
まあそれなりに様になるのに数百年もかかるだろうが

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 05:35:50 ID:I0W/0C/a
>>618
ひょっとしたら年輪の間に実朝公の血痕がついてたりせんかなー…… と妄想したことはありまふ

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 06:32:27 ID:hEWyB2pg
実朝公のクローン量産?

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 09:52:24 ID:SV4dZlrh
>>610
尼子経久なら、松明用の焚き木にして贈り物にするな。

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 10:04:01 ID:S79dd8En
この銀杏、研究すれば年輪から戦国の世の気省が解るんじゃないか?
当時は寒くて初夏に雪が降ったっていうし。

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/12(金) 12:28:29 ID:nTyYy7FT
>>620
根っこの下から首が出てきたりして、なんて妄想したことはあるな

吾妻鏡には銀杏の陰に公暁が隠れてたなんて書いてなかった気がするけど
戦国時代末期にはもうこの銀杏も観光名所だったんだろうな
前田の家臣が鎌倉見物に行っちゃったなんていう話もあったし

浅草寺の弁財天堂

2009年07月17日 00:28

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/15(水) 23:00:30 ID:/cPC+29Y
浅草寺境内 敷石の怪 『突然バラバラ音たて隆起』  
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009071502000108.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/images/PK2009071502100023_size0.jpg
突然敷石が盛り上がった浅草寺の宝蔵門前=東京都台東区で

> 東京都台東区の浅草寺で、参道の敷石の一部が、魚のうろこのように盛り上がる“怪現象”が起こった。
> 「吉兆では」「天変地異の前触れか」「何かの封印が解かれたのでは」。さまざまな憶測を呼んでいる。

こんな記事があったので、500年近く前の浅草寺の怪異譚を巻いてみる。




大永二年(1522)の九月の事、北條氏綱は古河公方足利高基の許へ、、家臣富永三郎左衛門を
重陽の祝いの使者として派遣した。

さて、その帰路の事、富永は浅草の観音堂に参詣した。その日は御縁日と言う事で
多くの人が参拝に訪れていたのだが、にわかに

「弁財天堂のあたりから銭が沸いているぞ!」

との声があり、人々集まり争ってその銭を拾った。寺の僧達が制したが、まったく聞かず、
大変な騒ぎであった。

富永、小田原に帰ってからこの事を言上した。氏綱をはじめ北條家中の人々は一様に
奇異の思いをしていたところ、丁度そこに達乗院の長老が参られた。
長老は氏綱からこの事を聞くと、

「浅草寺と申すは推古天皇の御世に草創された物です。本尊は聖観音、関東最初の伽藍であります。
土師氏の末の漁師、檜熊、浜成、行成の三兄弟の網に、七浦で観音菩薩がかかり、
それが本尊となり、人々に多くの加護を与えられました。

ところが今の世は、国家乱逆の最中であり、人民は困窮しています。そこで観音様は、
大慈大悲のお心をもって、銭を沸かせる事により、人々に利益を与えたのでしょう。

銭の沸いた弁財天堂の弁才天とは、観音が姿を変じられたものであり、御当家守護の
ご本尊ともすべきでしょう。」

この事があったので、氏綱は城北川の堀の内に、江ノ島の弁財天を勧請して、小田原城の鎮守と
崇めたそうである。





456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/16(木) 00:24:20 ID:wMh5XCqy
>>454
このころって、まだ浅草あたりは最前線地域だよな
勧進もそれと関係あるのかな

457 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/07/16(木) 00:39:36 ID:xqv+Cj4j
>>454
弁財天の補足説明のサイトを見つけたので
http://www.post-ad.co.jp/joypost/odawarajo-sanpo8.html

今では旭○高校という女子校になっています。
この話を聞いて、小田原の相○高校の史○研究部にいた私は
弁財天見た事ないしなぁ、と思って探しましたが、
北条以後にどこかに移転したかも知れないですな。

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/16(木) 01:23:02 ID:tRUE9wW3
>>457
地元の方ですかー!
小田原探索するのは、今北条関係の研究が非常に進歩しているだけに、
そう言うの調べてから行くと楽しそうだなあ。

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/16(木) 02:19:05 ID:3hBvfhGM
>456
大永二年だとまだ江戸城が扇谷上杉氏のものなので、
浅草は前線というかバリバリ敵領内かと。
そして氏綱もまだ伊勢と名乗っていた頃。

大永期に氏綱は「相州太守」を自称して、
その肩書きでもって相模国内に大量の寺社造営を行って
既成事実を積み重ねることで相模の支配権をアピールし、
次いで北条を名乗り得宗家のイメージを利用するって流れなので、
北条得宗家の守り神だった江ノ島の弁財天を
本拠地小田原に呼ぶっていうのは強い政治的な意図を感じる。
怪異譚もしたたかなパフォーマンスの一環かも。


北条氏綱の頭痛の種・いい話

2009年05月20日 00:17

687 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/19(火) 00:54:01 ID:9/F4EZJL
なんだかんだといって、意外と影の薄いのが後北条家第2代の北条氏綱。
彼は戦でも確かに強かったし、オヤジの早雲以上に領地も増やした。
だが、この人は内政にも優れていた。
というより、北条家の場合はなぜか内政の方が有名だったりする。
さて、北条氏綱が行った戦国時代内政の大きな事績とは、
1検地の実施(但し相模国内のみ)
2豪族の治外法権の否定
だった。ちなみにこの頃は、戦国大名だって親戚一門衆の権力が強かった時代である。
領主の権力強化と財政基盤をはやいうちに確立しようとしたのだ。
さて、そんな氏綱には一つの頭痛の種、いや、北条家全体に関わる頭痛の種がいた。

コイツである→北条氏康

え?と思った人もいるだろう。北条氏康は英雄じゃねぇか!というのもわかる。
だが、どうも若い頃はよく言えばやんちゃ、悪く言えばヤンキーだったらしく、
一時期は、血のつながりはないが器量のある「地味黄八幡」北条綱成を婿養子にして
跡継がせようかと本気で思った事もあったらしい。
でもそうはいかないのが戦国の世。氏康がごく普通に家督を継ぐ後継者となったが、

お父さんはマジで心配だった。
(長くなりそうなので続く)

690 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/19(火) 01:13:56 ID:9/F4EZJL
>>687の続き
さて、氏康がなんで父親の氏綱の頭を抱えさせたのかは記録に残ってないのでわからないが、
まぁ、信玄とか大内義隆にあるような和歌や芸事や京都趣味に走ったのかも知れない。
でも、関東に大領をユウする北条家当主がそれじゃあまずい。いろんな意味で。
そこで、氏綱は息子宛にいろいろな訓戒状を書いて武将としての心構えやスローガン、
統治のあり方を く ど い くらいに説いた。
幸いにもこれは効果を発揮して氏康は戦国時代きっての立派な当主となったのだが、
今度は・・・・

お父さんが心配性になっていた。

でも、ついに爺様になってとどめの五箇条の訓戒状を書いて渡した。
これだ。

一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、
  後世の恥辱を受けるであろう。
一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
一、倹約に勤めて重視すべし。
一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。

面白い事に、初代戦国謀略王の早雲の息子にしては第一に掲げたのが「義」である。
義理は大事にしなさいよって、あんたの父親はその義理を破って
小田原に突撃したジャンといいたいが、
氏綱にとってはとても大事な事だったようだ。
他は見てもわかるように早雲が実行していた内政をそのまま受け継ぐような内容である。

これは「北条氏綱公御書置」として大事に残され、氏康の政治指針の根本となったという。
初代は暴れん坊でも後に続く者がどういう政治方針を持っていたか、
それをどう次の世代に受け継がせるか、
それを怠るといつの世の中も混乱をしますな。ちなみに北条家は秀吉の小田原征伐を除き、
謀反を犯した事例はなかったという。




737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/20(水) 00:25:06 ID:0JgEhav0
>>690
> 義理は大事にしなさいよって、あんたの父親はその義理を破って小田原に突撃したジャンといいたいが、

これって最近の研究だと、小田原城の大森氏が扇谷上杉を裏切って、敵対していた
山内上杉に付いたため、扇谷上杉朝良からの依頼で、伊勢宗瑞が攻め落とした、
って言うのがホントだそうで。

紀州徳川家と北条の血・いい話

2009年02月12日 01:12

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/11(水) 01:20:41 ID:i2ZrLl9v
紀州頼宣と言えば、その生母は有名なお万の方だが、そのお万の方は、
北条氏綱の四男、北条氏尭の娘と正木時長の間に生まれた子で、しかも彼女は
北条家で養育されているから、そう言う意味で、紀州家には後北条氏の血が濃く流れているともいえる。

北条の血がめぐりめぐって、吉宗の時ついに関東に戻ってきたのもむべなるかな。
などとこじつけてみる。




北条氏綱と長尾為景の手紙・いい話

2008年10月16日 13:42

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/08(水) 09:35:24 ID:/o7fKIwi
息子同士は血で血を洗う激戦を繰り広げた、北条氏綱と長尾為景。
実はこの親同士は、親友付き合いをしていた。

なにせ手紙をやりあう時、大名同士だと言うのに、長尾為景に対しては、為景を略して「為」、
北条氏綱にいたっては、氏綱の綱の字を、さらに略して「岡」と呼び合う仲だった。

「岡より

酒と酒の肴送りました。遠路はるばる運んだのだから、きちんと賞味してください。

為へ」

こんな感じでやり取りしてた。



333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/08(水) 09:59:00 ID:svb37UL8
息子どうしも「虎より康へ」みたいな手紙を
出し合う仲だったら関東は平和だったのにw

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/08(水) 10:01:43 ID:zeF7cpDX
ところでなんで諱の略なんだろう?

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/08(水) 10:01:49 ID:tCOt7TG5
関東は平和だったかもしれないが甲信が

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/08(水) 11:41:25 ID:/o7fKIwi
>>334
書状だし、「気軽に諱を使えるほどの仲」って事じゃ無いかね?

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/08(水) 13:26:02 ID:Thk3NZDH
>>335
虎が暴れてるんだからしょうがない

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/08(水) 17:07:45 ID:gtzIri+A
謙信が「とら」って書いた書状とか
信長が「のぶ」って書いた書状とかあるよな。
親近感を見せるのに諱を省略した署名するのは結構ある。

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/08(水) 20:35:19 ID:rQc6VUhG
海外の大統領や首相がファーストネームで呼び合うようなもんだなw
ロン・ヤス関係ってあったな

北条氏綱と長尾為景と絵画・悪い話

2008年10月16日 12:15

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/10(水) 14:09:19 ID:q4JQeDWc
大永4年(1524年)、北条氏綱は扇谷上杉氏の家臣、太田資高を寝返らせて
江戸城を攻略した。

扇谷上杉朝興はこれに対し、北条と対決する事を決意。
そのためには軍勢である。彼は越後を支配する長尾為景(謙信の父親)に、援軍を申し込んだ。

が、為景は、言を左右にして態度をはっきりさせない。
彼の元には氏綱から、このような書状が届いていたのだ。

「為景殿かねてよりお探しの名画、間もなく手に入れられそうです。」

為景は、絵画の愛好家であったのだ。

援兵は来ぬまま、江戸城は北条の元に下る。
為景の元には、羨望していた名画が、北条より届けられた。

為景にとっては主筋の衰亡よりも、絵画のほうが大切であった。
そして氏綱にとっては、個人の趣味趣向も、大切な謀略の種なのであった。




199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/10(水) 15:01:14 ID:t5KG6yFS
為景から氏綱に贈られた鷹を横取りした信虎もなかなかの恐れ知らず。
為景や信虎や氏綱って、絶対息子たちより胆力あるよなw