922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 19:16:58.68 ID:Sf64um2C
關八州に鉄炮はしまる事
これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、
「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。
私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
(北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、
『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。
弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。
今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』
と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」
と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、
「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」
とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。
そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。
「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」
御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。
まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。
しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。
――『北条五代記』
>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事
關八州に鉄炮はしまる事
これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、
「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。
私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
(北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、
『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。
弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。
今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』
と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」
と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、
「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」
とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。
そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。
「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」
御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。
まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。
しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。
――『北条五代記』
>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事
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