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○ 安造穴(旧福岡町高山)

2017年08月10日 09:24

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/10(木) 02:36:06.65 ID:6Fs6RB2v
○ 安造穴(旧福岡町高山)

昔、安造という賊が隠れ住んだ岩窟と伝えられる。遠山氏は天正の役
で長久手に敗れ、ここに身を隠した。

すると、その愛する白狗がしきりに鳴いて敵襲を報じ、また白馬が来た
のでこれに乗って逃れ、ついに危難を避けることができたという。

以来、苗木では白狗白馬の飼養を禁じた。

また曰く、安造穴は“安子穴”で、お安という女が零落してここに住み、
玉のような子供を産んだとかで、安産の洞といわれるという。

――『恵那郡史』


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○ 枝垂栗(旧静波村)

2017年08月08日 21:06

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/08(火) 12:39:51.62 ID:ynSNdkpH
○ 枝垂栗(旧静波村)

大字東方の澤中に枝垂の栗樹群落がある。元亀3年、武田勢が美濃に入る。

明知城主・遠山相模守景行らはこれと戦い利なく、苗木城主・遠山勘太郎の
もとへ逃れようとして、澤中まで至った。

この時の疲労は激しく、路傍の栗の枝を力にしばし休憩した。これより付近の
栗樹に至るまで、いずれも枝垂れるに至ったという。

――『恵那郡史』



135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/08(火) 19:52:29.25 ID:nEtblIws
折って杖にするんじゃなくて、ぶら下がるように掴まってたのか

苗木城の戦い

2013年05月11日 19:54

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 01:56:42.53 ID:040ewWhl
苗木城の戦い

遠山友忠は言った。
まとめサイト「美濃苗木城主、遠山友忠は悩んでいた。」
で森武蔵がキレているから、近々また来るだろう…

案の定、兵5000与騎にて攻め込んで着ると聞こえて来ました。
時は天正11年5月10日。

鬼武蔵は軍議にて5000与騎を二手に別けた。

「また狙撃されるの嫌だから、俺大手側な、見通しいいし。」
前回の狙撃に懲りた鬼武蔵は大手側(苗木城の正面木曽川対岸)に陣取る。

木曽川は広く、また遠山勢も皆殺しは勘弁とばかりに弓鉄砲、石や木を落とすなど必死に抵抗をするおかげで
ようやく川は渡れたものの苗木城に近づけず、麓に備えをたてて見上げるばかり。
搦め手側2500も遠山勢1200の弓鉄砲隊の防御を突破できず、次第に天候も悪くなり城内は霞がかかり、守備側優位のまま膠着します。

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 01:58:47.12 ID:040ewWhl
その頃苗木城

遠山友忠「鬼武蔵が来ても、さすがは我が城、なんともないぜ! そのうち謀りごとでなんとかなんべえ」
家臣「でも殿、遠山民部(明知遠山利景)の内通によりますと、秀吉が後詰めで攻めて来るそうですよ」
遠山友忠「あー、うちらには後詰めが無いなあ。しかも秀吉、これは… 」
遠山友忠「決めた!ここに至っては仕方がない。皆で城を枕に討ち死にして後代に名を残そう!」
家臣「」

家臣「いや、殿、時節を待ちましょう。そのうちいいこともあります。秀吉の後詰めのないうちに一あてして後退しましょう。」
遠山友忠「然もありなん。その意見採用。 どこに逃げるか… 三河の家康か、相模の北条か。 信長御一門と言うことで家康卿は襲ってこないだろうから、こっちにしよう。」

5月19日 女中老人を密かに逃し…

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 02:00:49.89 ID:040ewWhl
翌日…

出来るだけ華々しい戦果を、と言うことで
派手で有名な 遠山友政弟の勘兵衛(後の苗木藩家老)を指名します。
その日の装いは
萌葱威しの鎧に猩々緋の陣羽織。
重藤の弓と押張染め羽の矢筈を高く背負って、照る日に輝いて鞍掛にすくっと立ち上がり
十三束三伏の箭をつがい…
「亡き三位中将信忠卿が長島の合戦時、私の弓勢を御覧になり、おまえは強弓の者だなあと感嘆された形見はこれだ!」
と矢継ぎ早に雨あられのように射落とします。
さらに城内からは鬨の声を揚げつつ
「武蔵、汚い!森あげて捕らえ給う!!」と口々に悪口を言って挑発します。

一方鬼武蔵の方は… 
内心どうあれ
「天晴れ、弓取って剛の者!」
と評しつつ、
「…とでもいうとおもったか?!」
とやっぱり 総攻撃を命じます。

怒濤の勢いで攻め上る森勢。 苗木城の南側の嶮岨を凌ぎ城の屏下に取り付きます。

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 02:02:59.16 ID:040ewWhl
遠山友忠「計画通り (AA略」

南側の石弓を切って放せば、寄せ手の上にドウと落ち、数千丈の谷底に落ち重なって死んだ。
寄せ手はこれで多く討たれた。
 
友忠「よし、いまのうちに逃げるぞ。 いや待て。まずは酒だ。 みんな飲むぞ!」

このとき討ち取った首級は859首。 遠山方の討ち死にはわずかに256人。

その後遠山友忠・友政親子は 大手の矢倉に火を放って、2000与騎を前後に従え、しずしずと東に退いていった。
このとき敵は一兵も見えなかったという。


で、鬼武蔵はどこに行ったのだろうか?
逸話を知るばかり、報復が恐ろしいのですが…

苗木遠山家に伝わる資料なので一方的な記述ですね。

――『苗木伝記 中』

長文 大変失礼しました。




251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 08:28:18.41 ID:NtE3yEVo
もう少し読み手を意識して書いてみたらいいんじゃないかな?
書き手と読み手でかなり温度差を感じる文章とみた

金さんは明知の一族なんだっけ?

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 11:18:28.25 ID:GOfghqmf
どこぞの馬の骨だろ光秀

明智遠山家顛末

2010年04月05日 00:02

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/04(日) 12:25:44 ID:tvgRt9rv
武田の武将、秋山信友によって攻略され滅びた、美濃遠山氏宗家岩村遠山氏、
武田の攻撃を耐え切ったものの、本能寺後森長可に攻められ落去、関ヶ原で古地を取り戻した苗木遠山氏
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3948.html
それらと共に「三遠山」と称された、美濃明智城、明智遠山家についてのことである。

元亀3年(1572)12月、東美濃に攻め寄せてきた武田の武将秋山信友との戦い「上山合戦」は、織田方の大敗北となった。
明智城主遠山景行はこの敗北により自刃、さらに長子、景玄も討死し、明智遠山家に残されたのは、
未だ幼い遠山一行のみとなった。

叔父の遠山利景はこの一行を補佐しどうにか家を運営するが、一族の中には美濃を捨て地方に移住するものがでるなど
家勢の衰退は隠せず、天正2年(1574)の武田勝頼による侵攻で、ついに明知城は落城してしまった。

が、翌3年の長篠の戦いで状況は一変。明智城も取り戻された。そして天正十年。武田滅亡、本能寺の変、
そして


(^^)「こんにちは。鬼武蔵です。」


森長可の軍勢に、一行と利景は城を捨てて逃げた。利景の妻の実家、三河足助城の鈴木氏の元に身を寄せ
徳川家康の保護を求めた。家康は彼らを受け入れ、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは井伊直政の後援の下
なんと森家の手から明智城を取り戻してしまった。更に調子に乗って岩村城も攻めたのだが、


(^^)「いらっしゃいませ。鬼兵庫です。」


ここでは城代の鬼兵庫ことかがみんこと、各務元正に一族の遠山半左衛門を討ち取られるなどフルボッコに
返り討ちにされたのはご愛嬌。
そして明智城を取り戻したのもつかの間、秀吉と織田信雄の間に和議が整うと、再び森家に返還されることになってしまった。

その後遠山一行、利景は家康に従い、家康配下の信州の大名、依田康国の下に付き信州の経営に参加していた。
が、

天正16年(1586)冬、遠山一行、凍死。

凍死である。なんと信州から駿府へ向かう途中に、甲駿国境の平沢峠で寒波に合い
凍え死んでしまったのだ。この時代の武将としても、かなり珍しい死に様である。

「なんということか」

遠山利景は途方に暮れたが、一行に子はなく、明智遠山家の家督は利景が継いだ。

そして関ヶ原が起こると苗木遠山家の遠山友政らとともに秀忠隊につき、西軍の田丸直昌の軍勢が守る
明智城を見事に攻略。戦後、この功により明智の地は利景に与えられた。

この後明智遠山家は明智を領する大旗本として江戸期を過ごし、やがて「遠山の金さん」として有名な、
江戸町奉行、遠山景元を輩出する。

「三遠山」の一つ、明智遠山家のお話。




195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/04(日) 16:28:02 ID:Y58c3c9I
浅井朝倉の大軍すら退けるかがみん防衛中の城に調子に乗って攻め懸けるとか。

主なくしたときこそ真骨頂だろw

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/04(日) 19:22:42 ID:3ETL6KiH
秋山晴近に大敗北したのは上村合戦じゃないっすか。



関連
田丸具安の開城
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3954.html

美濃苗木城への帰還

2010年04月03日 00:02

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 23:03:22 ID:l23SNEkL
織田勢力圏において美濃苗木城は常に対武田の最前線であり、遠山友勝以来、信長の命によりこの城を任されてきた
苗木遠山氏にとって気の休まる時はなかった。

特に武田の武将、秋山信友が、美濃遠山氏の宗家にあたる岩村遠山氏の居城岩村城に攻め寄せ、信長の派遣した
織田信広、河尻秀隆が率いる援軍も撃退、天正元年(1573)、ついにこれを降伏させると、苗木城は武田の圧力を
正面から受けることとなった。

このような中、苗木城主の遠山友忠、友政親子は信長の信任に答え必死に耐えぬいた。
天正二年の武田勝頼による東美濃侵攻に対しては、友忠の次男で阿寺城を守る遠山友重が討死するなど
多大な犠牲を払いながらも、この撃退に成功した。
天正三年、長篠の戦い、そして同年の岩村城の奪還で武田の圧力は大きく減退する。
そして天正十年、武田家滅亡。苗木城にはようやくの平穏が訪れたかに見えた。だが

同年、本能寺の変

翌天正十一年(1584)五月、苗木城は再び敵の軍勢を迎えた。当然ながら今度の敵は、武田ではない


(^^)「こんにちは。鬼武蔵です。」


織田家の同僚、森長可の軍勢であった。
羽柴秀吉の黙認をとりつけた長可は、東美濃の織田家の同僚たちに襲いかかり、その牙は苗木城にも
向けられたのだ。
武田の攻撃を耐えぬいた苗木城であったが、秀吉の後援を受けた長可に対し、援軍の目処も無く
とても防衛出来るものではない。

城を枕に討死か、一旦落ち延びて再起を図るか、遠山友忠、友政親子は悩んだ末、後者を選択した。
苗木城を落ちた遠山親子と家臣たちは、美濃の山々を越え遠江の浜松城へと向かい、徳川家康を頼った。
家康は彼らを受け入れた。
この亡命と言うべき生活の中、遠山友忠は浜松で客死する。苗木に帰れなかった父の無念、息子友政は帰還の意を
更に強くした。が、その手立てもつかめぬまま時は過ぎる。遠山友政は家康に従い関東に移り、美濃どころか
榊原康政配下として遠く離れた上州の館林にその身を置いていた。が、

慶長五年(1600)、関ヶ原

時や至り!遠山友政は出陣に先立ち、徳川家康に美濃路、木曽路の地理を詳細に報告、さらに西軍に参加している
川尻直次が城主となっていた苗木城の奪還を申し出た。家康はこれを高く評価し、黄金と鉄砲30挺、弾薬2万発を
友政に与え、中山道を通る徳川秀忠隊の先鋒を命じた。

途中上田城で足止めを強いられた秀忠隊であったが、家康からの連絡により関ヶ原に急ぐ。
苗木以来の家臣団を率いた遠山友政の部隊はその先駆けとしてついに、父祖の地、苗木城に迫った!ところが、

城の東から攻め寄せる遠山軍に対し、苗木城主、川尻直次の城代関治兵衛は戦わずして降伏した。

「関ヶ原での決戦の結果西軍は壊滅し、わが主君川尻直次は討死したとの連絡がありました。
この城はお引渡しいたす。」

呆気ないと言えばそれまでである。が、この城を落ちて16年、ついに苗木城を取り戻したのだ。
遠山友政、そして遠山家中の者たちの感激は、いかばかりであっただろうか。
友政はさらに岩村城も攻略し東美濃の平定に大いに活躍。家康はこの功に対し、苗木城を含む
恵那、加茂両郡、一万五百二十一石を与えた。
苗木は再び、苗木遠山家のものとなった。

この後苗木遠山家は美濃苗木藩として、国替えも改易も受けることなく、明治まで続く。
今、苗木城の本丸跡に置かれた石碑には、このような一文が刻まれている。

『戈(ほこ)に枕し膽(きも)を嘗め 百敗屈せず 時や至り よく舊(旧)物を復す』

父祖が血潮で守りぬいた地を取り戻した、苗木遠山家のお話である。




175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 23:16:25 ID:+V3o7bnd
>鉄砲30挺、弾薬2万発

家康もケチだよな
弾だけあっても機関銃じゃないんだから

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 23:23:59 ID:m2G82q2l
ちょうど悪い話スレで小笠原さんの話を読んでいたので、
途中読んでてはらはらした……。

良かったね遠山さん。

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 23:25:01 ID:l23SNEkL
>>175
このころの遠山友政って榊原康政の組下だからせいぜい千~数百石クラスなんで、
軍役で言えば率いるのは多くて20人から、無理して30人くらい。それに鉄砲30挺はむしろ多すぎだぞ。

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/01(木) 23:46:25 ID:oEE6UxDR
>>174
遠山さん家は撤退あたりの混乱に乗じて鬼武蔵殺そうとした主犯だから報復は避けられんかっただろうw

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 00:08:18 ID:we2iwgU3
>>178
鬼武蔵謀殺計画って、東美濃のほぼ全ての国人が参加してたらしいねw
長可はご近所から、もうこれ以上無いくらい嫌われていたらしい。


180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 00:09:55 ID:qUyDSIGc
>>179
鬼武蔵の行動は一応自衛行為なんだよねw
周り全部敵なんだから。

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 00:11:09 ID:jdghEh/4
鬼武蔵は好きとか嫌いとかそういう次元じゃない
退治すべき妖怪とか鬼とかそういうレベルの話だったんだろう

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 00:15:21 ID:we2iwgU3
>>180
まあ「敵」の方も、自分達こそ自衛だと疑いも無く信じていただろうけどねw

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 02:18:53 ID:jgJS0SFy
>>177
その場合、鉄砲30丁ってのは鉄砲足軽30人ってことじゃないのかな。
火力に欠ける小規模部隊に軍役とほぼ同数の鉄砲隊をつける事例は他でもあるし。


184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 09:18:07 ID:Y/jHQw1O
>>182
「あれ」は人の形をした災害ですから……ヒューマノイド・タイフーンってゆう

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 09:30:15 ID:MmGwBl9/
鬼武蔵が出たってだけで、どうなることかとハラハラしたw

でも明治までしっかり残ったってのはすごいことだな。
石碑の一文はちょっと感動した。

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 12:29:30 ID:rzqNrPue
>>184
地震、雷、鬼武蔵

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 14:45:24 ID:y2Ev1eax
森長可の死亡は
鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ死亡
安藤直次に討ち取られ死亡
どっちなの

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 14:49:49 ID:3F2IKj0/
安藤直次に討たれたのは池田恒興

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 14:51:02 ID:ipGHtxWr
眉間を打ち抜かれた後も猛威を振るっていた鬼武蔵を安藤が討ち取ったでいいじゃないw

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 14:52:58 ID:3F2IKj0/
じゃなかった、元助

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 15:02:26 ID:y2Ev1eax
>>188
ありがとうございます

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/03(土) 01:13:51 ID:ZHg8ltVv
永井直勝 「池田勝入を討ち取りしは安藤直次殿にござる」

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/03(土) 16:02:57 ID:JbqY1XkF
>>192
「なんのなんの、若侍があっぱれな働きでございましたぞ」



関連
明智遠山家顛末
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3955.html

田丸具安の開城
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3954.html

赤壁城

2010年04月03日 00:01

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 07:14:51 ID:ZruSZdxH
強風とかの悪天候に関する話し無い?

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 09:14:23 ID:Y/jHQw1O
>>852
鍋島サンダー




854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 12:12:02 ID:we2iwgU3
>>852
いい話スレに出てた苗木城の話


赤壁城

美濃の苗木城が完成したときは、白壁の非常に美しい城であった。
時の城主もこれが自慢であったが、その完成の夜、にわかに嵐が起こった。

さて、夜が明けてみると城の白壁はすべて剥げ落ち、土台の赤土がむき出しとなっていた。
壁には爪でひっかいたような跡があったと言う。

城主はこれに大変驚いたが、多くの左官を集め再び白壁を塗りなおした。
ところがこれが完成すると、その夜又も嵐がおき、夜が明けるとやはり白壁は
無残に掻き剥がされていた。
以降白壁を何度補修しても、そのたびに嵐がおき、赤土の壁にと戻された。

一体何が起こっているのか?城主は何度目かの白壁を補修した夜、天守に籠り夜を徹して
白壁を見張った。

夜になり、風が強くなり嵐となった。するとその嵐と共に一匹の龍が現れ、苗木城の白壁を掻き落とし、
それを終えると嵐とともに木曽川の方へと帰っていった。

「これは白の色を嫌う、木曽川に棲む龍の仕業であったのか。」

それ以後城主は白壁を諦め苗木城の壁は地の赤土のままとし、世の人から「赤壁城」と呼ばれた、とのことである。

苗木に伝わる、赤壁城の伝説。




857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 15:36:39 ID:uFv5wDlP
苗木城にちょっと興味を持ったのでウィキペディアを覗いたら
>>854とほぼ同じ伝説が載っていて、更にオチまでついてた。

>実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかった、というのが真相である。

まあ、真実とはそんなモンでしょうねw

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 18:16:28 ID:T5K8ckH1
身も蓋もないけど、やっぱりそんなもんだよね。w

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 18:41:59 ID:j98h8f7M
>>857
なんというオチ
しかし藩の面子を守るための伝説だとしても
考えた人はなかなか夢があると思う