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上杉憲実、その忠義と苦悩

2010年04月14日 01:13

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 00:08:13 ID:sdcRd+tu
書いてみた

上杉憲実と言う人がいる。
鎌倉公方、足利持氏の下で、関東管領を勤めていた人だ。
憲実は非常に有能で、かつ人望も深く、当に関東の要というべき人物であった。

彼の主君持氏は京の将軍、義教と対立を深めたが、憲実は京と関東の融和を心がけ、
持氏が暴発しないように、身をもって防いでいた。
が、将軍の位を求めていた持氏には、彼の存在が目障りでしかなかった。

いたたまれなくなった憲実は関東管領を辞任したが、対立は解消されなかった。
そして持氏は嫡男、賢王丸の元服にあたり、それまでの、将軍の諱一字を受けるという
慣例を破り「義久」と名付けた。これは将軍家からの独立を宣言したに等しい。
憲実はこれを激しく諫め、両者の緊張はピークに達した。

永享十年(1438)八月、持氏は憲実討伐の兵を挙げた。永享の乱である。

憲実は主君に打たれることを恥じ自害しようとしたが、それに気づいた
近習達に止められ、鎌倉を離れ領国上野へと下った。

この挙兵に対して、かねてより持氏を警戒していた幕府の対応はすばやく、
九月初頭には駿河の今川などを中心とした討伐軍が関東に侵攻し、十月十九日、武蔵府中、
分倍河原において、持氏は完全に包囲された。
持氏の挙兵は、完敗に終わったのだ。

足利持氏は剃髪し、罪の許しを請うた。
この時憲実は、自分を殺そうとした持氏とその嫡子義久の助命を幕府に懸命に願い出た。
だがそれは許されず、持氏、義久、ともに自害。
憲実は補佐を果たせなかった責任を取り、出家、隠遁した。

だが、関東はその後も結城合戦が発生するなど、極度に不安定化していた。
乱のたびに憲実はやむを得ず出陣し、それらを平定した。
幕府が関東の安定のために、彼の能力と人望を必要としていたのだ。
何度となく関東管領への復帰を打診されたが、彼はその度に拒絶、さらにその子供達も
皆出家させ、幕府の誘いにのり、還俗して管領職に就くことなど決して許さぬ、そう言い渡した。
後、長男憲忠が還俗し関東管領につくと、最初の言葉通り憲実は、この憲忠を義絶する。

憲実が懸念したように、憲忠は新たな鎌倉公方、足利成氏と対立、
ついに成氏の命を受けた結城氏家臣多賀谷高経によって謀殺され、これにより
享徳の乱が勃発。関東での戦国時代が始まる

憲実は世をはかなみ、持氏親子らの慰霊のため諸国行脚の旅に出る。
その最後は文正元年(1466)、関東から遠く離れた、長門国大寧寺においてであった。

当時、当代一と言われた画僧、宗湛は、憲実の死ををこう評した。

「人皆その風を望み、敬せざる無し。忽ち逝去を聞き、感すべき、慕うべきなり」




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 00:16:28 ID:pKwKyMxN
>>104
関東の大学こと、足利学校を造ったことは試験にも出たりするんだぜ

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 00:44:33 ID:sdcRd+tu
>>106
足利学校については諸説あるので書かなかったのだぜ。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 05:20:11 ID:8HwYodC/
関東管領の主って将軍ではないのん?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 07:40:17 ID:IJ/OC9Mt
>>110
形式上は

室町将軍→鎌倉公方(関東における将軍の代理人)→関東管領(鎌倉公方の補佐役)

って上下関係
しかし関東管領の任命権自体は将軍が握っていたという事なので、まさに板ばさみポジション

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 08:50:52 ID:EkZ9hXs9
鎌倉公方は古河と堀越に別れたんだっけ?

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 09:44:29 ID:0K0hm/D0
>>113
ついでに小弓

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 10:03:28 ID:0K0hm/D0
ごめん
小弓は古河からだ

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 10:31:38 ID:eGq4dtnt
どんなに有能でも持氏がああではうまく立ち回ることが不可能に近いポジションだなぁ。
忠義な人なら、ねw

陰謀が…で暗s…うっ…

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 11:23:47 ID:4Z1zMjly
>>116
鎌倉公方足利氏満の「京に攻め上って義満倒しちゃる!」計画を諫死で断念させた上杉憲春の先例はあるけどなw

陰謀と言えば、憲実の永享のときの上野下向は、実は事前に幕府と示し合わせてのことだったらしく、
助命を懇願してるから殺すつもりはないんだろうが、どうも憲実は計画的に持氏を排除しようとしてたみたいね
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