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武田総敗軍

2018年11月05日 17:39

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 00:55:12.56 ID:xOwWXg/m
(長篠の戦いの時)

徳川勢先隊の大須賀五郎左衛門(康高)・榊原小平太(康政)・本多平八郎(忠勝)・平岩七之助
(親吉)・鳥居彦右衛門(元忠)・石川伯耆守(数正)の諸将は自身で槍を振るって竹広の方より
まっしぐらに諸勢に抜きん出て突いて掛かる。武田方も和田・安中以下がこれを迎えて突戦する。

勝頼も本陣を進めれば、前備の望月右近・後備の武田左衛門信光も今日を最期と思い切って働き、
ここで本多作左衛門重次は7ヶ所まで手傷を蒙って右の眼を切られた。本多甚九郎・土屋次左衛門

を始め討死の味方も数多なり。敵も味方も討ちつ討たれつ手負い死人数を知らず。大須賀の属兵の
久世三四郎(広宣)・坂部又十郎・筧助太夫・同龍之助・伊藤雁助・浅井九郎左衛門・鷲田伝八・
柘植又十郎・鈴木角太夫・浅原孫七郎・松平助左衛門、その中でも渥美源五郎勝吉は生年19歳の

初陣なり。父に劣らぬ剛勇で敵の首若干を討ち取る。後々も高名を挙げて数え難し。“首取源五”
と異名を取ったのはこの勝吉のことなりけり。榊原の属兵では村上弥右衛門・富田三右衛門・伊藤
弥三・伊奈源左衛門・榊原仁兵衛・鈴木半兵衛も同じく奮戦して伊奈は討死した。

典厩(武田信豊)の勢1千余は返し合わせ返し合わせ突戦すれど、ついに徳川勢に切り立てられて
引き退いた。この時、信長卿の下知あって総軍一同に鬨を揚げて勇み進み追討すれば、勝頼もどう
しようもなく武田勢は総敗軍となり、鳳来寺の方へ敗走した。橋辺という所に至り大軍に追い掛け

られ、滝川に落ちて溺死する者もまた多し。真田源太左衛門信綱は渡辺半十郎政綱に討たれ、典厩
の弟・望月甚八郎信益(信永)は鳥居彦右衛門の同心・永田蘇父助に討たれた。

望月右近は永田澄之助に討たれて、堀無手右衛門は渡辺忠右衛門と小栗又一(忠政)両人がともに
討ち、興津十郎兵衛は高力権左衛門(政長)が討ち取った。その他に河窪兵庫助信実・下曽根源六

政利と弟の源七政秋・同弥右衛門政基・横田十郎兵衛忠重・油川宮内顕則・同左馬允顕重・高坂
又八郎助宣・甘利藤蔵吉利・杉原日向正之・土屋備前直親・高林恵光寺・岩手左馬助胤秀・原隼人

胤長(昌胤)・小山田五郎兵衛昌晟・高力源五郎昌宣・根津甚平伊広・真田兵部幸連(昌輝)・
安中左近広隆(景繁)・馬場彦五郎勝行・米倉丹後正継らは思い思いに奮戦して討死した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』


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名高き兜を敵に取られては如何なものか

2018年10月25日 21:27

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 21:31:02.64 ID:64ZiG2JZ
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、小松ヶ瀬で
馬を止めて待っていた。初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢はこれを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。

勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守
満秀とする)がこれを見て馳せ付け馬から飛び降り、勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、

勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君
に代わって討死します!」と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、

その疲れ馬に乗って轡を引き返し、「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が
12代の子孫、笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」と追い来る敵を

2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。これより後は、追う兵も少なくなく
なったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた

『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も
疲れたので殆ど持ちあぐね、勝頼に断ってその兜を道に捨てた。ところが、その後から来た小山田弥助が

これを見て「名高き兜を敵に取られては如何なものか」と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。勝頼は
大いに喜び再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、しばし梅酸で渇きを休めまた乗り出した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:14:04.87 ID:vu86f/YA
名乗り上げちゃったら身代わりの意味ねえな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 11:14:01.47 ID:Vl28NzIX
身代わりじゃなくって殿でしょ?

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 13:18:13.39 ID:9d1JBdE/
>>360
秘蔵の兜を捨てるほど疲れるってのがもう

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 00:09:24.10 ID:/rskxWzu
まぁ兜も結構重いからな
信玄より譲られた秘蔵の兜って言うからには結構古そうで
当世具足みたいに軽量化とかあまり意識されてなさそうだし
逃走中って事は兜の一部なり結び緒なりつかんで持ってたんじゃ
なおさら重く感じて捨てたくなるのも判らんでもない

「流石に猛将かな」

2018年10月24日 18:18

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 04:42:32.22 ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 06:57:36.06 ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん

勝頼は飢え疲れておられ

2018年09月30日 19:42

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/30(日) 15:01:00.39 ID:3tpAPdKz
按ずるに本文(武田勝頼討死の記事)はかの家に伝わる甲陽軍鑑の説に拠って記したものである。
大久保の物語(三河物語)には勝頼夫婦は田野の河原の草むらに敷皮を敷いて休んでいたところ、

早くも敵が押し寄せてきた。跡部(勝資)がこの時に逃げ去らんとするのを土屋惣藏(昌恒)が
射殺したとある。柏崎物語には勝頼は具足櫃に腰をかけておられたが、滝川義太夫(益氏)が

付け込んで土屋惣藏を討ち取り、伊藤伊右衛門永光が横合より勝頼を討ち取ったと見える。また、
武家閑談には伊藤伊右衛門の話として津田幸庵が物語り、「近年の書物を見るに勝頼切腹と

書くものもあり、また仰々しく戦って討死されたように書いているものもあるが、私はその頃は
小平次といって滝川方におり、伊藤伊右衛門とは同輩だったので目の当たりに見たのだが、

左様ではなかった。勝頼は鎧の櫃に腰を掛けて太刀で防戦されるといえども、飢え疲れておられ
何の働きもなく伊右衛門が討ち取った」と板倉周防守(重宗)宅で物語ったと見える。

これなどは実事と思われるのでここに付して一致に備える。

――『改正三河後風土記』


「甲乱記」では勝頼の新府城からの逃亡を

2017年03月05日 18:34

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか


武田勝頼父子の遺体は

2016年08月14日 17:24

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/14(日) 02:25:15.53 ID:bkrryuWC
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』



一代の不仁残忍の報いであり

2016年01月14日 15:53

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 01:27:45.91 ID:GP8sbhlK
 勝頼公まで二十八代の間、武田家は屋形作で城がなく、新羅三郎義光公の嫡孫であるので頼朝公と同様の規模のお館であった。
 そこで、勝頼公は『将来城がないのは危ない』とお考えになられて、新府中の城を築こうとなされた。
しかし、普請している最中に旗下の大将の内の妹聟の木曾殿、伯母聟穴山殿をはじめとした者が信長公へ頼ってしまい、
終いに勝頼公は天目山へ逃げ込み滅亡なされた。
 これは皆父の信玄公に孝なく、嫡子義信公に対し悪意が有ったといはいえ
父の愛を与えず牢暮らしさせたような事に代表される、一代の不仁残忍の報いであり恐るべきことである。

 また勝頼公、信勝公の首実検を信長公がなされた時、ただ何の作法もなく、いつもの服で首に向かい、悪口を仰せられ、
扇子で叩かれなさったようなことをしたので、この君も一、二月の間に亡ばれたのも不思議なことである。

 勝頼公が家老達の申す事を用いなさったら、天下一統の功も建てなさっただろうに、皆長篠合戦で討死したのは残念なことである。
かろうじて信州の川中島に在城してて生き残った高坂が、諫言を申し上げたといっても、長坂、跡部の中傷で忠言も取り上げなされなかった。
 これをひどく残念がって、弾正は甲陽軍鑑という書を編集して、死後勝頼公へ進上せよと遺言した。
ひどく古くさい俗書であったがあっぱれな忠義の武士であった。この忠義をそっくりそのまま武家方にお見せしたい事である。
この書を版にして広く武士である人に見せたいものだ。

 加えて、信玄公の御舎弟の信繁公は至っての賢者である。惜しいことに世の人はこれを知る事は稀である。

(本阿弥行状記)

信玄の尻拭いをさせられる勝頼(´・ω・`)



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 02:33:23.47 ID:YCC7Mq2I
昌信の申すこと尤もじゃな。長坂跡部を更迭するから甲府に留まり助言してくれんか。

いやいや某は先君より川中島の抑えを任されているので動けませぬ。
川中島あっての武田なのですぞ!

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 09:40:22.26 ID:ql3fNf7A
勝頼「お、おう」

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど

2015年08月17日 16:17

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/17(月) 14:43:22.90 ID:6w/B9vgu
天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐により武田勝頼は滅び、織田信長は甲府へと入った。
そこで信長より「春先より、私から計略の書状を送ったが、それを受け取った武田家の侍大将たちは
皆礼を申しに出てくるように」との仰せ触れがあった。

甲州征伐に先立ち、この年の2月末、3月にかけて、信長父子より大量の書状が武田家重臣に
送られていたのだ。そこには、自分たちに味方すれば、或いは『甲州一国を与える』『信濃半国を与える』
『駿河を与えるだろう』などと約束されていた。これを誠と思ったため、武田勝頼の親類を始め、
重臣たちも勝頼の危機に皆引き篭もっていたのである。

そして彼らは、この触れも誠と思い信長のもとに御礼に罷り出た。しかし、
武田方の出頭人、跡部大炊は諏訪にて殺された。武田逍遥軒(信廉)は府中立石にて殺された。
小山田兵部、武田左衛門、小山田八左エ門、小菅五郎兵衛、甲府善光寺にて殺された。
一条(信龍)殿は甲府市川にて徳川家康に仰せ付けられ殺された。出頭人秋山内記は高坂にて殺された。
長坂長閑父子は一条殿御館にて殺された。

仁科(信盛)殿、小山田備中、渡部金太夫というこの3人ばかりは、高遠城において、織田城介(信忠)の
旗本に攻められ、わずか18人になるまで城を保つ天晴な討ち死にをした。
しかし小菅五郎兵衛は、元は山縣三郎兵衛の家臣で大剛の者であったのを、長篠の後勝頼によって
旗本に召し上げられ足軽大将となり、仁科信盛に付けられ高遠へと派遣されたにも関わらず、
卑怯にも織田勢が来る前に「勝頼公のお供をつかまつる!」と言って高遠を出て甲州に帰り、
そこで小山田兵部に合流して武田家への逆心を企てたが、彼も善光寺で織田勢に殺された。

高坂源五郎は沼津から、勝頼の最期の5日前に罷り帰り、勝頼に「お供つかまつる」と申し上げたが、
長坂長閑が「城を開けてやって来たというのは、どのようなつもりがあるのか解らない。
その上彼は侍20騎ばかり、雑兵百四,五十ばかりを引き連れているのも一体どうなのか…」
そう判断し、これを寄せ付けなかった。このため、高坂は井澤から直ぐに信州へと通った。
屋代(秀正)なども若いにもかかわらず、駿河をよく引き払い勝頼に合流したいと申し上げたが、
これも高坂源五郎のように寄せ付けなかった。
このようであったので、高坂源五郎は川中島で殺された。山縣源四郎も殺された。

駿河の先方衆も、勝頼公御為を一筋に信じていた者達は成敗された。

こうして、甲信駿の侍大将、家老衆はほとんどが殺された。ただし、信濃の真田、芦田、
上野の小幡、和田、内藤、その他上州衆は皆命を助け、滝川一益に寄騎として付けた。これは
信長の

『3年の内に北条氏政、氏直父子を絶やすべし。これはもし手間取った場合に、真田小幡を始め
彼らに北条家への先手をさせるためだ。』

との考えからこうしたのである。
山上道及という侍があり、彼は元来上野衆であったが、久しく牢人し諸国を武者修業していたが、
彼もこの時信長に1万貫で召しだされた。これも北条を滅ぼしその跡を滝川一益に与える為であった。

下総国佐倉の千葉介国胤は大剛強の大将であったが、この国胤への信長の書状があまりに慮外であると、
信長からの贈り物であった馬の尾を切り追い払い、使者の髪の毛を剃って追い返した。
これは武田四郎(勝頼)が運尽きて滅亡し、このため北条氏政も頭を垂れ信長の被官となった。
しかし自身は、「国胤は小身であっても、たとえ滅亡しても家の誇りを立てる!」と考え
そのようにしたのだ。

(甲陽軍鑑)

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど




新府城建設の経緯

2015年08月14日 14:24

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 20:52:56.14 ID:kjx4sVmM
天正9年7月、穴山信君は武田勝頼に異見申し上げた

「信長、家康の勢力は次第に膨張し、遠州の城東郡も、最早今年3月に家康に取られました。
そのうえ小田原の北条氏政も敵となり、今後は信長、家康、氏政の勢力が一つとなって我らを攻める以上、
諸方の敵が蜂起すること疑いありません。そのような状況では、いずれの敵に向かうことも出来ません。
越後と和平を結びましたが、謙信の時ならば、信長、家康、氏政の3人にも勝つことが出来たでしょうが、
今の景勝は若く、同盟国としては居ないも同然です。

ですので、こちらに良き城をひとつお構えになるべきです。
信玄公の御武勇は尋常成らざるものであったので、お屋敷のみを構え、甲府四郡の内に御城が
ありませんでしたが、それは信玄公の御武勇という強い戒めが在ったため可能であったのです。
ではありますが、信玄公の御内意にも、かつて北条氏康が生きていた頃、氏康が使いを回して
上杉輝虎、織田信長、徳川家康と同盟を組んだという話が聞こえてきた時、駿河の久能、
甲州郡内の岩殿、信濃の吾妻の3ヶ所の城を視察されたのは、もしものときは籠城あるべきとの
事からでした。

しかしその時は、上杉謙信が「四人が組んで信玄一人を倒しても、信玄には四人がかりであったと
末代まで言われてしまう!」と、この盟約を破ったため武田家は何事も無くすみました。
また次の年には、北条氏康も他界しました。
ですが、現在は、上杉謙信のような弓取りはどこの大将にもおりません。」

これに武田勝頼も尤もの事だと思い、同年7月より、甲州韮山に新府城の建設を始めた。
しかしこれが武田家滅亡の元となるとは、後にこそ判った事なのである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、新府城建設の経緯である。



勝頼が信長に使いを送った結果

2015年08月04日 12:05

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 22:41:05.92 ID:ea1bPGQk
天正8年、長坂長閑斎武田勝頼に申し上げた
織田信長に使いを送り、音信を行ってしかるべきと存じます。」

しかしこれに、小山田兵衛をはじめ皆反対した
「信長は殊の外威の強き大将ですから、使いを寄越すほど辱い事は無く、彼は当家を手に入れたと
考えるでしょう。ですからそれはやめたほうがいいと考えます。
それに例え使いを送ったとしても、信長が当家を滅ぼすための工夫、思案を止めることはないでしょう。」

長坂長閑斎は反論した
「信玄公の御代、我らは信長の分国である美濃岩村に攻撃したが、信長からは織田掃部、赤澤といった
者たちを甲府までさし寄越した。それを悪しきこととは誰も申さなかった。
また信玄公ご他界の後、越後の上杉輝虎(謙信)は、信長が持っていた加賀の松任を取り、越前にも
焼き討ちを行った。それでも信長は佐々という者を春日山に付け置いていた。

そのような信長のやり方と同じように、当方も行って然るべきなのです。」
この言葉に従い、武田勝頼は安土に使いを送った。

そしてその返事が届くと、その末尾には、日付からはるか一寸も下げた場所に『武田四郎殿へ』と
書かれてた。

4年前の暮れ、上杉輝虎が信長に、「有無の合戦を行おう」と決戦を要求する書状を送った時の
信長からの返答には、日付と同じ位置から少し上げたほどに輝虎の名を書いていたが、それですら
信玄公の時代とは大きく異なっていたというのに、勝頼公への返事には、殊の外下げて書かれていると
沙汰された。
早くも被官扱いの文章、その名付けにも、少しも武田家を尊重する様子はない。このような
信長・家康方の強気に、武田家の者達の恐れること大方無かった。

武辺の儀は勝るとも劣ることはない。だが、信長が軍勢を出せば、野山も埋め尽くすほどの大軍である。
長篠合戦の時の倍以上の軍勢を出してくるだろう。武田家中ではそのように予想したのだ。

(甲陽軍鑑)

勝頼が信長に使いを送った結果、という逸話である。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 09:47:02.16 ID:D6SEtJnd
天正八年◎月X日

                                                                       武田四郎殿へ
こうですね?

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 10:30:11.73 ID:6QDetX0/
何が悪い話?

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 11:06:43.56 ID:6u7F90GO
長閑斎にしてみれば対等のつもりが下に見られたって嘆きでしょ

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 13:22:23.31 ID:AmVPb3SD
窓口があればこそ勝長が帰還できたというもの

当家滅亡の物怪に

2015年07月26日 13:16

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 22:06:45.82 ID:WliaOztJ
卯の年(天正7年 (1579))春より、駿河国、富士の大宮の大杉より煙が立ち上った。これを武田勝頼は聞いて、
吉田守警斎を召し、常の間にて諸人出仕の人々が聞いている中、少しも隠すことなく、先の大杉より
煙の出たことを尋ねた。吉田は承ると、神道にある

 千早振る 我心より成る業を いずれの神がよそとみるべき

 身は社 心の神を持ちながら よそを問こそおろかなりけり

この二首を引き、「お気にさえ懸けられなければ問題はありません。」と申し上げた。

これを聞いて勝頼は言った
「少しも気にしていない。何故なら何事があろうとも、滅亡して退くと思えば心に懸かるべき物はない。
さてまた、この勝頼を押し詰めて滅亡させるべき人物は、日本国中でも大身であるから、
越後の謙信、安土の信長、安芸の毛利、小田原北条氏政、この四人の内以外にはありえない。

第一の候補は大身と言い武功と言い、長尾輝虎であるが、これは去年他界してしまった。
北条氏政は私の8最年長だが、彼の父氏康と違い、武功において恐ろしいことはない。
安芸の毛利も、今は代替わりの最中というし、その上国が隔たっている。

信長・家康は両人力を合わせ我が家を倒そうと企んでいるが、家康こそ5年前の長篠の戦いの後、
駿河に出兵しているものの、信長の方は長篠の後も、信州の内に手を出すこと少しもない。
家康の働きも、我らの旗先を見ては即時に引き上げている。これ偏に信玄公の御威光が残り
斯くの如しだ。

さりながら、信長家康に、北条氏政が内通したようであるから、ついにはこの勝頼、滅亡するであろう。
滅亡しても、信長の旗下に成るなどということは、御旗楯無もご照覧有れ!そんなことはありえない!

それに付き、当家滅亡の物怪に、富士大宮の杉より煙が立ったのであろう。」

この時勝頼は少しも愁いた表情はなく、嘲笑いながら座敷を立ち奥に入っていったと、後に勝頼の近習衆が
語った。

勝頼公はあまりに強き御屋形であると感じ、春日惣二郎、ここに書きつける。

(甲陽軍鑑)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 01:27:08.09 ID:75rkLFJE
大身といいながら家康が出てくるあたりがなんとも

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 04:50:37.16 ID:wCQo3NPd
まさに韓信の化身やな

国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

2015年07月24日 12:44

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 20:52:36.33 ID:pGcxwbcl
上杉謙信の死後、養子の景勝と景虎が争った御館の乱。
景虎への救援として、北条氏政、武田勝頼が援軍を出すと一報が入ると、景勝は
このままでは滅亡疑いないと分別し、勝頼の出頭人である長坂長閑、跡部大炊が欲を構え、万事に礼物を取り
賄賂にて事を済ますという話を聞いて、勝頼に対して手を入れ、長坂長閑・跡部大炊を頼んだ。
謙信が貯め置いた金子を取り出して、長坂、跡部に二千両づつ与え、勝頼に対しては一万両を贈り、その上で

『縁者と成る事を仰せ付けられれば、景勝は勝頼公の旗本と罷り成ります。
東上野は少しも残らず勝頼公に差し上げます。』

そう伝えてきたので、長坂・跡部は勝頼にこう申し上げた。

「信玄公が御他界される前、天下に赴く為として、支度のための金子を調達するため、後家や出家の妻にまで
税金を課しましたが、その時集まった資金は漸く7千両ばかりでした。
今、何事もない所で1万両の金子を集めることが出来れば、勝頼公のご威光は、信玄公の十双倍に増すこと
でしょう。
その上景勝は起請を提出し御旗本となり、未来永劫、ご無沙汰申し上げないと誓っています。
さらに東上野全部を手に入れられるというのは、大いなる徳分です。

景勝には、信玄公御在世の時、長島の一向宗に約束していた、お菊御寮人を、越し参らせるべきでしょう。
また、いかに小舅だからといって。景勝と対立している三郎景虎が勝つ事になれば、彼の兄である
小田原の北条氏政は大佞人であり欲の深い大名ですから、越後を取り、その後は勝頼公も退治しようと
企む事、疑いありません。」

この進言により、勝頼は景勝と和平を結び、景虎を見殺しにした。
これに武田家領内の侍達は大小に及ばず、町人、地下人、長袖の出家衆までこのことを聞くと、
『武田の御家御滅亡疑いない。義理を違え、きたなき欲を構えて金を取り、卑怯なる仕方、
何につけても一つとして良いというべきところがない。長坂長閑・跡部大炊両人ながら分別なく
礼金を取り、義理も恥も知らず、後々のことも考えず己が欲得ばかりに耽り、このように悪し意見を
申し上げたのに、それを良いと思し召し、それに同意するのは、これこそ勝頼公御滅亡の基である。」

そう、大小・上下共に沙汰したのである。

(中略)

この年の暮れ、甲府の三日市場という日市の立ち辻に二首の歌を詠んだ落書が立った

 無常やな 国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

 金故に まつきに恥は大炊助 尻をすべても跡部なりけり


(甲陽軍鑑)



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:20:06.67 ID:Ys5o13aR
甲相越の三国同盟でも織田に対抗するのは無理だから
何やっても滅亡する運命

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:41:42.38 ID:QG9/5ciG
時間は稼げたんじゃないかな。結果は同じだろうけど。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 01:03:42.58 ID:1c405sEe
同盟つーか、武田が北条の傘下に入る代わりに、織田との戦いに援軍を出してもらえれば、かなり持ちこたえるんじゃないかね。
史実武田家の上州に注力している間に徳川に攻められる、ってこともなくなるし。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 02:12:52.44 ID:4sa+4i1A
三郎景虎への援軍をみれば本気で武田を助けると思うかい?

しかし義理を違えてとかさあ
駿河に侵攻した大悪人と比べたら大したことねえよ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 07:43:43.14 ID:A4u3IXsZ
信玄公のがもっと酷いことを、というか酷いことしかやってないよねw

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 08:28:07.04 ID:Oh/+D5ws
上杉に何の義理があるというのだ

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 10:29:56.83 ID:KEIZsXxu
勝頼が三度援軍を出したのに一度も援軍出してくれなかった北条なんて当てに成らんし
そもそもだから上杉にすり寄ったんじゃね

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。

2015年07月04日 12:31

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 20:50:59.40 ID:wVydyIW8
天正4年、武田勝頼は高天神城に兵糧を入れるとして出陣し、この時家康が高天神への
抑えの城として築いた横須賀城の徳川勢と対峙した。

武田勝頼はこの時、十七手の備にて徳川家康が陣を張る山から降り川を越えてくれば決戦をしようと
待ち構えていたが、家康は先年長篠にて勝ち、次第に我が鋒先強くなるべきと、工夫し、勝って兜の緒を締め、
少しも取り合おうとしなかった。
そのため勝頼は、横須賀城を右に見て少し後ろにまわり、徒歩の者30人ばかり引き連れて、横須賀城の
偵察に出た。手を出してこない徳川勢への挑発である。

この様子を高坂弾正は見て、急ぎ後から一騎で乗り付けると勝頼に向かって申し上げた
「敵に対して少しも警戒しないのはどういうことですか!去年の勝ちの勢いに乗じて家康が
たった今でも攻めかかってきたなら、我らは去年長篠の敗北で、ただでさえおくれ心を抱いているのですから、
千に一つも我が方が勝つことはないでしょう。

その上、家康の居城浜松へは、ここから道程5,6里程度ですが、甲州へは、高天神、遠州の小山、
駿河府中、富士の大宮を経由して、五日路です。五日の路を長篠に続けて負けては、どうやって引き取ると
言うのでしょうか?一騎一人、残らないでしょう。
その事をご分別無いのは、口惜しき限りです!」

しかし勝頼はこれを聞くと

「其方の言い分は尤もである。しかし家康は、一人の覚悟で我らと合戦しようとは思わないだろう。
必ず信長を後ろ盾にして戦おうとするはずだ。
去年、長篠において我らは後れを取り、大身・小身共に、法性院殿(信玄)ご秘蔵の衆を多く
討ち死にさせてしまったのは、私の分別違いの故である。

どういう事かといえば、信長は国を多く持つ大身であるのに、合戦において木の柵を二重三重に結った。
まさか信長があれほどまで慎重に戦を行うとは考えなかった事こそ、この勝頼のし損ないであった。
しかし、敵が柵を構築したのは、例えで言えば、碁であれば寝濱(ねばま:不正な手段)を使ったような
ものである。そして我々が柵が構築されている所に攻めかかったのは、先に言う碁打ちならば、見落としという
ものである。

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。これは、我々が元より不利で、敵方が
その強みで勝ったのだとは、いささか考え難い。このように、敵方にそれほど強みがあるとは
私は考えていない。だからこそ、重ねて合戦しようとも、信長・家康の二旗が揃わねば我らと
合戦しないだろう。」

高坂弾正は愕然として言った
「なんと力を落とすご発言でしょうか。信玄公御代の侍大将で生き残ったのは私一人ですが、
その私をも殺すつもりで、そのように仰っているのですか!?
何を申しても、勝頼公の御疵は、無二に強すぎるのは大いなる疵なのです!」

この高坂の言葉に、勝頼も本陣に帰り、早々に引き取った。前線に出ていた小笠原衆、山縣衆も、
撤退時に敵が追撃することはなかった。
次の日、生け捕った徳川軍の兵に尋ねると、徳川の中でも若者たちは攻めかかっての合戦を主張したが、
内藤四郎左衛門という弓矢巧者の兵がしきりに止め、家康に意見したため、合戦が起こらなかったのだという。

(甲陽軍鑑)

長篠の合戦の敗因に関する、武田勝頼の認識が表されている一節である。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 22:59:46.34 ID:TLX/Z1sW
ひとこと脳筋

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 23:51:59.43 ID:57etRZVb
弓矢巧者の内藤四郎左衛門というと、徳川16神将の内藤正成で間違いないかな?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:22:51.74 ID:Xen6Hxvi
>>21
うむ内藤正成で合ってる

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:47:37.20 ID:H6t4ua6a
勝頼って、万を超す様な大軍の総司令官には向いてないよな。

騎兵の千や二千も与えて、
「あの辺で暴れておいで」って指示したら大活躍しそうだが。

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 02:54:27.56 ID:rV9MEbVl
弾正が小姑に見えてくる

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 07:32:39.98 ID:kd25Cj4f
弾正というと真っ先に爆弾正が思い浮かぶようになってしまった

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 09:32:30.73 ID:b1sslmBb
>>24
親父の元愛人だしな

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 14:51:47.26 ID:e+nJ1CZf
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 20:26:02.13 ID:rOGjjh0i
信玄も煩い老臣を合戦で死なせてるからね
長篠は武田家を新にさせるいい合戦

武田の御備色かはる

2015年06月13日 14:23

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/12(金) 21:59:48.96 ID:3gD86tGa
武田の御備色かはる


天正元年4月12日に信玄公は御他界されたが、3年それを隠して3年目に遺骸を言い置いたようにして、
葬儀するようにとの信玄公の御遺言であった。ではあったが、周囲では大方他界したのだろうと
推量し、小田原の北条氏政は越後の上杉謙信に、武田信玄は他界した模様であると使いを送り、
また内々に遠州浜松の徳川家康へもこの情報が氏政より伝えられた。

駿河の武田配下の内にも朝比奈駿河、岡部丹後の両人は信玄によく親しんでいたため、この死去の情報が
伝えられると内々に涙を流し、その夜は岡部次郎右衛門を始め、尽く顔の色が変わったという。

ことさら、三河の徳川との前線にあった奥平美作守(定能)の子息久八郎(信昌)は寝返った。
仔細は、この武士は占いを信じたため、武田勝頼の酉年の年筮を、前年申年極月月末に卦を立てた所、
その詞に『馬前に人去りてかりぐんと称す』と出たのを、奥平父子は聞いて、

「信玄公は巳の歳であったので、御他界の噂は大方疑いない。」
そう考えて心変わりしたのである。

これについて武田勝頼は、東美濃に同年6月、出兵あるべきと主張した。これについて馬場美濃、内藤修理、
山県三郎兵衛、高坂弾正の四人を始め各家老衆は申し上げた
「それは信玄公の御遺言のように3年目を待ち、その上敵方より当方に攻撃を仕掛けてくるのを
待つのが尤もと存じます。」

これに対し、長坂長閑、跡部大炊介は申し上げた
「御屋形様の御意と、家老衆の分別との間を取って申します。まず当年は武田家分国五ヶ国の総軍勢を
出すことは止められ、甲州一国の軍勢を2つに分けて、山形三郎兵衛を先鋒に、穴山殿、一条殿に、
逍遙軒(武田信廉)を大将分になされ、遠州に出兵することが尤もと考えます。
また三河には馬場美濃を先鋒に、小山田兵衛尉に典厩(武田信豊)を大将にお定めあって、長篠の城を
家康が攻撃しておりますから、その後詰として用いるのが尤もです。」

勝頼は長坂・跡部の意見を受け入れ、三河へは典厩、馬場美濃、小山田を出兵させた。

然しながら、信玄が他界したため、武田軍は上から下まで気力をなくしていた。
長篠城の向かい、いぬの小山に典厩が着陣した時には、長篠城を守っていた信州先方衆は、降伏して
家康に城を明け渡していた。
さらに遠州のもりという場所では、逍遙軒は慎重さの足りない人であったので、家康の家老である
本多作左衛門、本多平八郎、榊原小平太の3人に敗北し、穴山殿と一条殿の二手によってなんとか押し返した。

山県三郎兵衛は家康の構築した小屋(前線基地)を落とすために人数を遣わしていたが、逍遙軒の敗北を聞いて
急遽一騎がけにもりへ駆けつけた。しかし家康の軍勢は勝って兜の緒を締め、早々に引き取っていたため
空振りに終わり、5日には山県を始め武田勢は各々甲州に引き上げた。

信玄公御他界の故に、武田の御備の色が変わったと言われたが、その元はここであった。

(甲陽軍鑑)




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 05:17:55.45 ID:pVaSQUy0
”三年秘す”は休戦して改めて情勢を見ろ、というのが真意だったにしろ
やりたくても実行が難しかったんだろうなあ

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 10:12:18.23 ID:HgrFYgz6
斜陽の武田にどうしろと
晩年の信玄時代にすでにその兆候がwww

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 10:29:23.65 ID:jsEGIf6d
>信玄が他界したため、武田軍は上から下まで気力をなくしていた。

信玄の死って領民は知ってたんかな?
一応、隠してるはずだから、噂として広まったとかかな?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 11:29:43.83 ID:wQSKW9Ij
>>902
そりゃ勘の鋭い農民兵だっていたろうさ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 12:14:38.65 ID:A4+FWdoX
単独では信長に対抗出来ないから浅井、朝倉と連合して決戦に持ち込もうとしてたんだろ。
それなのに三年間引きこもれってどんな呪いの遺言だよ馬鹿w
織田徳川の国人への調略は捗るし、浅井、朝倉、足利は各個撃破されて滅亡するし、武田もジリジリ追い詰められて結局滅亡…

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 14:59:26.84 ID:9siNeuPf
信長が死んだらみんな元気になった織田家がうらやましいよね

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 07:49:50.81 ID:KNGRzJLS
氏政が通報とか時系列メタメタだな

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 19:06:13.81 ID:fiBHNssi
でも信玄死んだ後、
勝頼は遠州で家康にいい勝負してたろ

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 20:38:49.49 ID:KNGRzJLS
長篠の戦いまでは武田方が優勢じゃないかな
前年には高天神を落としてるし、長篠の直前には吉田まで押しかけてる。

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 20:38:54.32 ID:FMpj9mkM
信長もボコボコにしてたよ

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 00:36:04.72 ID:R6NaIWeM
信長は各地の一向宗に散々痛い目に遭わされて
高天神城救援どころじゃなかった

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 06:32:01.20 ID:ujlbBw6s
信長さん、間に合わなかっただけで
フツーに高天神の救援に来てますがな

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 07:57:45.97 ID:l1MJCQAk
>>911
こんな手紙を受け取った叔父さんはどんな顔したんだろうか。

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 09:06:08.22 ID:R6NaIWeM
>>912
高速移動が得意な信長さんが
間に合わなかったって言うだけで
本気で救援する気がなかったってのは解る

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 11:31:56.76 ID:GRc0GSf0
長篠みたいなの毎回やろうとしてて兵隊集めてる間に逃げられたのかもね

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 14:08:12.32 ID:spbNtHCS
長篠の戦いは鳥居強右衛門が信長さんにヘルプ出したおかげやね

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 16:53:20.29 ID:ZwfcSEVp
酒井が鳶の巣を落としたからじゃないの?

四郎殿にとって、強すぎるのは

2014年10月19日 18:57

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:59:03.23 ID:5L8VGV04
一昨年の4月28日に越後の国の上杉輝虎は小田原の北条殿に頼まれ、信州の国橋・長沼に出陣した時、
信玄公が未だ出馬する前に、伊那より四郎殿(武田勝頼)が夜駆けに駆けつけ、謙信1万5千あまりの兵に、
わずか800の備にて合戦を仕掛けた。

この時謙信は攻めてきたのが四郎殿と聞くと、涙を流しながら「無類の若者かな」と褒め、陣を返し
撤退した。

ただし、殿に下がって物見をする侍が2騎残っていたが、そこに四郎殿は乗り付け1騎を斬り落とした。
その頃我々(高坂弾正)もようやく到着し、もう一人の者も斬り落としたので、さすがの謙信の衆も
撤退の早々にこの両人を捨てて引き下がった。

我らが斬り落とした者は、元来逍遥軒殿(武田信廉)の被官で落合彦介と申す者であった。
そしてそれぞれ御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手であった。

四郎殿は、18歳の初陣から当年26歳まで9年の間に大体の合戦で、このような先陣の強き働きを
なされたのだが、ただあまりに強すぎたので、今年か来年の間には討ち死にするだろうと考えていた。

この時、阿部加賀守は
「今回の陣触れに関しては、今から20日の間に必ず三河・遠江に発向し、家康と手切れをするのだから、
このような合戦は無事に帰ってこそ後に生きるというのに、武士としては立派ではあるが、
四郎殿はひとしお危ういように思う。」
と語った。

これを山県三郎兵衛(昌景)が聞き
「四郎殿にとって、強すぎるのは一つの疵です。しかもこれは、大将としては大きな傷であり、
結局は弱いことよりも劣るのです。」
そう言って座敷を立った。

(甲陽軍鑑)

信玄存命時の、武田家家中の勝頼への評である。




559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 20:45:32.03 ID:lVg2/OKe
謙信が意気に感じて兵を引くのは好きだな
父の留守を守るためにわずかな手勢で健気に向かってくる若武者とかいかにも好きそう

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 03:07:23.14 ID:Tv8WWEMi
もはや源平の時代だよ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 08:52:48.57 ID:TjrpS9Oh
勝頼は伊達成実ポジションだったら大暴れ出来ただろうに

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:08:57.49 ID:x/pZEeRK
>>559
この二人わりと近いものがあるよな
同盟してれば仲良くなれたかもしれないのに

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:31:13.46 ID:TUmAzWEe
同盟組むには周辺の係争地が豊かすぎた

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 17:24:33.51 ID:9gmNVTqM
遺言で謙信を頼れとかなかったっけ?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:41:53.76 ID:qtXAqo3a
>>561
諏訪家にやった四男坊扱いのままだったら幸せだったかもなあ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:53:39.12 ID:sunMNw+P
>>568
しようがない
兄貴と親父がダメになっちまったんだし

越甲相(ついでに佐も)の外交戦

2013年12月20日 18:55

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 22:07:55.23 ID:7QhCaGbC
ついでにつまらない小話をひとつ。越甲相(ついでに佐も)の外交戦。

1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。

さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>





武田勝頼、膳城素肌攻め

2013年09月15日 20:47

319 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/15(日) 17:58:44.38 ID:G/PqraFV
まとめにダイジェスト版があるが。

天正8年、上野へと出兵した武田勝頼は厩橋城に入り、東毛・西毛衆に大胡、伊勢崎などの諸城を攻め落とさせ、
自らは国境の物見に向かった。
一行は人々を動揺させぬようにと鎧は着けていなかった。

その一行が敵の膳城(今の前橋市)近くを通りかかった時、城の中では伊勢崎などから逃れてきていた武者たちが酒盛り中に喧嘩しており、
城代の大胡民部左衛門が「強敵武田勝頼が近くまで軍を進めているのに、酒の上の喧嘩とは何事だ」とフラグを立てたが、喧嘩は収まらなかった。

一方で城外では、武田の一行が城の周囲を移動しているのを見かけた膳城の雑兵がこれを討とうと追いかけた。
一行は全軍取って返すとこれをけちらし、雑兵が城内に逃げようとするのを追った。
勝頼は「父信玄以来、定法としてかような不慮の城攻めは固く禁じてあるではないか、引け引け」と下知したが、味方は城に攻めかかってしまった。
武田の一行はもとより鎧も着けていなかったが、城兵も喧嘩の真っ最中だったため混戦となり、結局膳城は落ちた。

合戦後、勝頼は「素肌で一城を攻略したことは父信玄の時にも全くなく、他にもあまり例がない!これほどの武勇をもってすれば、
長篠ぐらいの戦にはもう敗れまい!我が子信勝が早く一人前になればそれを大将とし、自分は頭を剃って家老のようになり先頭に立って
敵を踏み崩そうものを!」と意気盛んとなった。

心ある人々はこれを聞き、武田軍の統率力の減退と勝頼の無謀を嘆いたという。

『勝頼記』より





320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/15(日) 20:26:55.48 ID:clX+j+S3
お前も若い頃は素肌攻めしてたろ

唯一のちょっといい知らせ

2013年07月14日 19:12

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:12:23.32 ID:b5vxQ4Qx
 武田信玄の死後、後を継いだ武田勝頼は家臣たちから常に信玄と比較され、やりづらい
思いをしたが、そんな中でも長坂釣閑・跡部勝資の両名は積極的に支持してくれたので、
勝頼は この二人を側近として重用した。
 長篠合戦から七年後、織田・徳川の連合軍が武田領への侵攻を開始した。部下の寝返りや
領内の城が次々と陥落したなど良くない知らせばかり飛び込んできたため、戦況の不利を
認めざるをえない勝頼は守りの薄い本拠地の新府城を離れ、家臣の小山田信茂の居城である
岩殿城へ移って立てこもることにしたが、前途に不安を感じた将兵たちは移動途中で
次々と脱走していった。 (続く)

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:14:52.69 ID:b5vxQ4Qx
>>688の続き
 手勢の数を大幅に減らしながらようやく笹子峠に辿り着くと迎えに来ていた小山田信茂
の兵は心を変じて勝頼の軍勢に 鉄砲を撃ちかけてきた。このせいで勝頼の兵はさらに逃げ、
わずか43人に減ってしまった。 この時、逃げた者の中に勝頼が重用していた長坂釣閑・
跡部勝資も含まれていた。
「雑人どもが逃げ散るのは仕方ないが、長坂と跡部だけは許せぬ。追いかけて討ち取れ」
 と勝頼は土屋惣蔵と安西平左衛門に命じ、2人は弓に矢をつがえて追いかけた。もう日が
暮れかかっていたが跡部は提灯を馬の鞍の前輪に結び付けていたのでよくわかった。
 土屋惣蔵の放った矢が跡部勝資の背中に命中し、射落とすことが出来たが、長坂の方は
暗闇にまぎれて逃げてしまった。土屋たち2人は跡部の首を持ち帰って勝頼に報告した。
 この報告は織田・徳川連合軍の侵攻以来、良くない知らせばかり耳にしていた勝頼に
とって唯一のちょっといい知らせであった。




690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:26:11.49 ID:b1n0iIqo
>>689
この逸話の出典は何でしょうか?
どこかで読んだような記憶があるんだけど思い出せなくて

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:34:19.15 ID:OpO7ySR5
甲陽軍鑑あたりじゃないの
長坂は勝頼と天目山で最後まで奮戦したはずだし、跡部も逃亡してないようなのに
二人まとめて逃亡したことになってる

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:36:59.79 ID:FMG1rW/R
なんでこんなに嫌われてるんだろう

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:50:01.36 ID:b1n0iIqo
甲陽軍鑑では跡部はいつの間にか逃げたことになってたし、
最近丸島先生に、信頼性が比較的高いと評価されてた甲乱記では、最後まで付いてきてたし…、
と思って調べたらわかった。この話、多分武田三代軍記だね

最後の二行が手元にある武田三代軍記とちょっとニュアンスが違う気もするけど、解釈の違いかな

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 16:09:47.10 ID:b5vxQ4Qx
>>690
688-689の話は武田三代軍記をもとにしました

天正3年5月20日付、武田勝頼書状

2012年05月17日 21:00

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 18:38:07.45 ID:138/PK//
天正3年(1575)5月20日付、武田勝頼が長篠より出した、三浦員久(かずひさ)宛の返書

『あなたの心配はありがたいが、全て我々の思い通りに行っているので安心してほしい。

長篠城に取り詰めた所、織田信長徳川家康が後詰に出張してきたので対陣したが、
敵は戦術を失敗して一段と逼迫しているように見えたので、我々は無二に敵陣に乗りかかり、
信長・家康の双方とも我々の意のままに討ち崩した。

なお、そちらも城の用心を、念を入れて行うのが重要である。』


翌21日、あの「長篠の戦い」が起こり、武田軍は壊乱する。


武田勝頼がこの書状に事実を書いたのだとしたら、勝頼は織田徳川連合軍の「戦略的撤退」に
引っかかったのではないか、と言われる書状である。





238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 19:36:57.33 ID:UJhs5+ct
相手が勝ち誇ったとき、そいつはすでに敗北している
ですね

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 20:17:47.23 ID:BYoEqjru
家康「まったくこんな見え見えの罠にかかるなんてどうかしてるよ。」
信長「おまゆうw」

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 20:38:54.08 ID:XpvLXEAZ
三方ケ原をdisってんの!?


241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 21:00:06.84 ID:dSUi5V82
龍造寺隆信「>>237なにそれワロタwww あ、有馬・島津は雑魚なんでこのまま前進で」

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 21:07:21.35 ID:IBBc7xKa
>>238
金柑頭「俺はコケにされると根に持つタイプでな…」

武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと

2012年02月09日 21:56

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 00:23:03.96 ID:1OB5edw3
二俣城の開城(長篠以降の方)の話が読みたくてwiki検索したけどなかったorz
依田信蕃ェ

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 09:51:12.47 ID:lEX13qG0
>>821
世間は武田の攻撃は有名なのに、徳川の逆襲には冷淡
長篠後の徳川大逆襲はそれなりに面白いのに

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 12:05:43.58 ID:46z8qJoE
当面再起不能と思われてた勝頼がなんかあの軍みすぼらしくね?と笑われながらも
万の軍勢率いて徳川大逆襲をなんとか止める所まで含めて興味深い期間だな

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 12:22:52.86 ID:BSGw/QGL
>>825
kwsk

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 15:55:20.28 ID:46z8qJoE
>>826
勝頼は長篠後に若年や隠居や僧や農民でも戦える者は復帰参加して従軍しろと命令を出し
とりあえず軍を再建して遠江駿河救援戦に向かったのだが
武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと兵が噂してると
家忠日記に書かれちゃうくらいの姿だったらしい
しかしそれによって徳川反攻戦は高天神城と小山城-田中城防衛ラインで停滞し
当代記で手際のいい勝頼は侮れない将だとの評されたと。そんなかんじ