fc2ブログ

長篠の戦いをなされたために

2023年06月21日 21:02

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/21(水) 20:19:14.13 ID:74/agC1t
織田信長は長篠合戦の勝利の威を以て、その年七月越前朝倉を倒し(これは天正三年八月~九月の、
越前一向一揆討伐を指していると考えられる)、すなわち越前に於いて伊勢田丸の城を取り上げ、
二番目の息子、三の介(織田信雄)をかの城に差し置くべきと定められた。
武田勝頼公が若気故にこの合戦(長篠の戦い)をなされたために、朝倉まで簡単に滅びてしまった。

信玄公が御在世の時、伊勢の国司(北畠氏)、江州の浅井、備前、丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉等は
甲府に使者を付け置き、信玄公が御上洛成されるようにと申していたが、信玄公が酉の年四月に御他界
されると、各々力を落とした。その上勝頼公が亥年に長篠にて遅れを取られた故に、彼らには少しも
後ろ盾が無くなり、あのように滅びてしまったのだ。

さりながら、信玄公御他界した次の戌年、遠州高天神城を勝頼公が攻め落とされた時、信長、家康は
叶わぬを聞き、国司(北畠氏)贔屓の伊勢先方衆は歌を作って歌った。その歌は

「ただあそべ夢の世に 上様は三瀬へ御座れば高天神は落」

などと申し、表面上は信長に従う風をしていても、信玄公御他界の後、勝頼公御代までも
長篠の合戦に負けられるまでの間、三年は諸方にて、武田四郎殿を後ろ盾に仕り、信長への面従腹背の姿勢を
維持していたが、長篠合戦で遅れた後は、御旗本衆の事は申すに及ばず、御譜代衆である東美濃岩村の
秋山伯耆守(虎繁)まで、亥の極月に取り詰められた。しかし勝頼公は後詰め成り難く、信州伊奈まで
御馬を出されたが、大雪によって岩村の後詰めは叶わなかった。

このため、信長は岩村の城へ扱いを入れ、『秋山伯耆守は伯母聟なのだから、助けるべし』と言ったが、
これにより彼らは出し抜かれ、伯耆守、座光寺(為清)らは搦め捕られ、機物に上げられた。
これは、徳川家康の味方となった奥平九八郎の女房を、勝頼公が機物に上げた事への返報であったと
言われた。その上、伯耆守の内儀(おつやの方)は信長の伯母であったが、強敵である秋山伯耆守の
妻になった故、伯母子をも信長は成敗した。

甲陽軍鑑
スポンサーサイト



かくの如くなってしまったのは物怪なり

2023年06月18日 18:31

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/18(日) 15:29:30.47 ID:IHoJZb3O
天正三年四月十二日、武田勝頼は武田信玄の薨去を公表し、葬儀を行った。

その後、勝頼公は御馬を出され、諏訪明神へ御社参されたのだが、この時亀の甲の御鑓が折れた。
さらに高遠へ御着されたが、この時堅固であったはずの橋が折れて、御小人衆のうち、一両名が死去した。
勝頼公もこの橋を渡っていたが、公は御馬上手であられたので、蹴り立ててこれを渡られた。
御馬の後ろの左の足が、橋の崩れに近々とかかっており、危険に見えたが御堅固であった。

この事について、めでたしと申す者もあり、堅固なる橋がかくの如くなってしまったのは物怪なりと
つぶやく者もあった。以上。

甲陽軍鑑



武田信玄公は御他界したのか

2023年06月14日 20:30

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/14(水) 19:54:47.90 ID:AbXQ1WrC
小田原の北条氏政より、「武田信玄公は御他界したのか」とあり、これを能く見届け申すために、
板部岡江雪斎を甲府へと差し寄越された。

武田の家老たちははかりごとを江雪斎を暫く留め、仕様を仕り、その後、夜に入道逍遙軒(武田信廉)を
信玄公として御対面なされた。この時、信玄公が八百枚据え置かれた御判の中でも、いかにも御判の
不出来なものを選び、江雪斎に渡した所、さすがに賢き江雪斎もまことと仕り、小田原へ帰り
「信玄公は御在世なり」と、氏政に申し上げた。故に北条家からは御他界の取り沙汰は無くなった。

甲陽軍鑑



これをよくよく分別なさるべく候

2023年06月13日 19:57

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/12(月) 20:35:54.19 ID:rldIlKfX
武田信玄公の御他界後、万事勝頼公へ諫言を申し上げるため、長坂長閑斎(光堅)、跡部大炊助(勝資)殿に
申し上げた。
大身小身共に、常々思し召される事について、五ヶ条を深いもの、浅いものの合計十ヶ条である

一、慈悲を深く、欲を浅く。ただし大身の乱国を取られる事、小身の人が忠節忠功の奉公にて、所領を
  取ることは欲深い行為ではない。ここでいうのは邪欲の事である。慈悲も、それは決して罪過の者を
  憐れむことではない。

一、人を深く、我が身を浅く

一、忠節忠功の心がけを深く、所望を浅く

一、遠慮して慇懃を深く、遊山或いは楽事を浅く

一、人を使うに、穿鑿を深く、折檻を浅く

一、第一に国持大名が慈悲を知らないのは、非常に欲深い。理非無く欲深ければ、その下の出頭衆、邪欲をかまえ、
  欲得にふけり、己に音信仕る者を穿鑿も無しに取り立て、諸奉行或いは諸役者に定めてしまい、さらにその
  者共は上に学び、国法軍法に背いたものであっても、自分の気に入った者については、悪事をも押し隠し、
  法外にわたくしをさばき、科なき者であっても押し倒し、慈悲少なく、その大将の危うきも知らず、
  上杉憲政の家中のごとくになって、尽く意地汚い人が多くなるだろう。

一、第二に、国持大名が他の人をあさく、我が身を深く考えれば、出頭衆を始め尽く走り廻るほどの衆は、
  身に高慢して、しっかりとした証拠もない事を互いに褒め合い、誉れとし、そうなれば国を誤るものである。
  そのうえ民の困窮も知らず、下々の迷惑も知らず、殊に凄まじい戦などが有れば、ついにその滅却が
  あるだろう。

一、第三に、国持ち給う大将の、崇敬ある侍衆が、忠節忠功の心懸けが浅ければ、その家の下々まで
  主君の御為を思わず、手柄も無いのに所領を欲しがり、大剛の武士であっても小身であれば証拠もなく誹り、
  たとえ臆病であっても、親から譲られた所領を沢山に持ち、金銀米銭を持つ分限物を、侍については
  言うに及ばず、町人地下人までをも褒めて、しっかりとした証拠もないのに、「手柄の人かな」と
  申し習わす。故に、分限さえあれば町人などまで増長し、剛の武士の居る所にても、武辺雑談を仕り、
  皆尽く慮外がはやり、大平者が繁盛し、能き武士は次第に沙汰が無くなって、その家その国の弓矢は
  弱くなるものである。

一、第四に、出頭衆の遠慮が浅くて慇懃が無ければ、その家の諸人は先の考えもなく遊山にふけり身を飾り、
  恥も知らず、朝暮不足を欠いても恥と思わず、国法に背くもの多く、言い合いがあって過ちを仕り、
  或いは死ぬまじき所にて無駄に命を捨てることもあり、又は昼強盗などを仕り、政道が機能しないのは、
  測ることも出来ないような仕置故である。そのようになるのは、走り廻る衆の遠慮浅きより起こる
  のである。

一、第五に、国持大名が人を使うに穿鑿が浅ければ、取るべきではない人が知行を取り、崇敬ある衆の
  親類の者、大身の親類、分限者の身寄りの者ばかりが幅を利かせて、彼らにしそこないがあっても、
  能き縁者の影に寄って、自分の身には何事も有るまじきと思い、その上、たとえどんな悪事を仕り、
  千に一つ、身体が破れたとしても、主君の命令にも畏怖有るまじきと思っているので、国法を背いても
  苦しからざるを、能き親類を持たない者の、しかも分別のない人々がこれを見て、「能き者の
  よしみさえ背くのに、我らごときは猶以て、大将の御為など、さほど必要ない」と心得、背くこと
  多くして、法度があっても種々の悪事が横行し、訴訟が絶えなくなるだろう。

  これら、上記五ヶ条、裏表十ヶ条なり。これをよくよく分別なさるべく候。

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑に見える、武田勝頼への諫言十ヶ条



この二ヶ条を以て、信玄公と義信御父子の仲は

2022年11月01日 17:56

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/01(火) 11:20:20.48 ID:wB7vPYTo
永禄五年六月吉日に、武田太郎義信公は、信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑の三人を
御使として、『四郎勝頼を諏訪頼重の跡目と号し、信州伊那の郡代になされ、高遠に置きたい。』
と伝えられた。これに義信公も「尤も」と仰せになり、四郎勝頼は高遠城代と成った。

この時、勝頼公に付けられた衆は、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、
竹内與五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守の八人であった。

しかし、この八人が勝頼公に付けられた事と、川中島合戦の様子、この二ヶ条を以て、
信玄公と義信御父子の仲は悪しくなったのである。

甲陽軍鑑

武田義信は勝頼が諏訪家を継承することは認めたものの、その時付けられた家臣団の人選が気に入らなかったらしい。



八重垣姫の像・碑文

2022年09月30日 19:08

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/29(木) 16:32:47.56 ID:iX+uE6Pw
この前諏訪湖にいったら「八重垣姫の像」というのが建っていて、碑文の説明によれば

これは歌舞伎の「本朝廿四孝 狐火の段」の主人公・八重垣姫の像です。
上杉謙信の娘である八重垣姫武田勝頼と政略結婚の許嫁でしたが、勝頼が死んでしまったため毎日勝頼の絵図に手を合わせていました。
しかし謙信に新しく仕えた蓑作という下男が勝頼の絵図に瓜二つであったため問いただしたところ、実は勝頼本人であり、謙信に奪われた諏訪法性の兜を奪い返すために変名で仕えたということでした。
それを物陰から聞いていた謙信はわざと塩尻に勝頼を使いに出し、八重垣姫の勝頼助命嘆願も聞かず、討ち手を差し向けました。
八重垣姫は諏訪法性の兜を盗み出し、諏訪明神のお使い狐の狐火に導かれ、諏訪明神の霊力により氷の張られた諏訪湖を渡り、勝頼の元へとむかったのです。

歌舞伎だからいろいろ突っ込みどころはあるけど、この八重垣姫は一説には北条夫人をモデルにしたという話だとか。
ついでに長野県の塩尻には玄蕃之丞狐(玄蕃寮だから玄蕃允では?)という狐の伝承があるそうだけど、それも諏訪明神のお使いだろうか。



『是非死に候へ』と思し召されているのに

2020年12月01日 16:58

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/01(火) 12:01:01.12 ID:YV3sJxZy
武田方に於いては、信長・家康が両旗にて長篠に後詰することを勝頼が聞き家老中を呼び、明日の軍評議が
あった。勝頼はここで、このように仰せになった
「明日は我々より押し懸けて、一戦を仕るべし。」
これに馬場美濃、内藤、山縣らは目を見合わせ、申し上げた。

「明日の御合戦については、御尤とは申し上げられません。何故ならば、敵は両旗にて殊に大軍です。
その上、我々は他国に踏み越えており、一つとして味方勝利を見つけられません。
今度、ここでおくれを取れば、弓矢の御損多く有るでしょう。ですので今回は馬を返されるべきです。
そうすれば、信長・家康の両人も馬を返すでしょうし、その上で又少しの間を置いて勢を出されれば、
信長も手前の上方の用などが有るので、度々はこちらに出陣することは出来ないでしょう。
その時は、長篠は思し召しのままに御手に入ります。」

勝頼はこれに「武田の家に、合戦を回避して、敵に後ろを見せたことはない。その上信長・家康が
大軍で我らを追撃してくれば、家の疵でも有り、また敵に勢いを付けることにも成る。」と仰せになった。
これに対して馬場は申し上げた
「我らを追撃して押し入るのならば、猶以て願うところです。彼等を信州伊那に引き入れて防戦をすれば、
地元での戦いでも有り、勝利疑い有りません。」

しかし勝頼は、全くお聞き入れにならなかった。そこで馬場、山縣、内藤が申し上げた
「そういう事でしたら、明日、長篠城を力攻めにすれば、人数千ばかりは損ずるでしょうが、即時に攻め落とす
事ができるでしょう。そして門城の掃除をし、屋形様を入れ置き、我らはその前の山に出張って防戦を仕ります。
そのようにしては如何でしょうか?」

勝頼はこれに「武田の家にて籠城を仕ったことこれ無し。今私は籠城など思いも寄らない。」と仰せになった。

そこで内藤が申し上げた
「それでしたら、長篠には押さえに二千を置き、屋形様はこの上の山に御陣城をお構えになり、先手の者共は、
あの山に備え、敵を引き受け合戦仕るべし。」

しかし勝頼は「我々から押しかけ合戦有れば、勝利すると思っている。異なことを申す。」と仰せになられた。
この時、長坂長閑斎が申した。「憚りながら、私もそのように存じます。法性院様(信玄)の時分であれば、
何れもこのような反論を申さなかったでしょう。」

これを聞いて内藤は立腹し、長坂と口論に及んだ。これに勝頼は「いやいや、口論はいらない。
旗楯無も上覧、明日の合戦は回避しない!」と仰せに成った。
そこで家老衆も、この誓言の上は料簡を申し上げること出来ず、「下々へも、明日の合戦を申し触れます」と、
その場を立った。
この時、馬場は長坂長閑斎に申した
「御異見申すが、我々は明日の合戦で討ち死に仕る。各々は、我々の討ち死にを見てから甲州に帰り、その事を
物語されるように。」

そして罷り立ち、皆々との別れ際に
「さてさて、法性院様御在世の時は、あはれ討ち死にを仕って御奉公したいと心がけていたのだが、終に
討ち死には出来ず、今まで存命してしまった。
そして、当屋形様には『是非死に候へ』と思し召されているのに、命が惜しいとは。大将の心入とは
このように有るものか。」と、からからと笑って立ち別れた。

(長篠合戰物語)

長篠の戦い前日の、武田方での軍議について



四郎殿の御沙汰は何とも

2020年05月09日 18:47

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/09(土) 15:37:33.73 ID:pj8HJK61
(三増峠の戦いの時)

右の翌日に三増峠で馬場美濃殿(信春)は小勢故に敵と揉み合い勝負がつかなかったところを、勝頼公
武田勝頼)が自身で槍を取って横槍に入り崩しなさったのは、信玄公(武田信玄)の御眼前であった。

その翌日に反畑で馬場美濃と内藤(昌秀)はこの事を沙汰して信玄公の御前で四郎殿を誉め奉り、感涙
を流した。すると信玄公はとかくの御返事もなく仰せられ「“壮夫の涙”といって猛き武士はいずれも涙
もろい。大唐の韓信や樊カイは物を感じてすぐに涙を流した。また我が家でも昔、荻原常陸(昌勝)は
涙もろかったと聞く。方々も同様だ」と御意なされ、四郎殿の御沙汰は何とも仰せられなかった。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



千徳丸の供養墓石

2020年04月25日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 20:03:13.81 ID:POivbMZQ
喧嘩ばかりしててもアレなんで地元の話を市のHPから一つ。

瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。
天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて
瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。
長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、
寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。
なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに
引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、
水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没しました。
また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。
千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」

よくある落人伝説の類ではあろうが、照蓮院の敷地には幼稚園が建っていて今も子供たちを支えている。



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 21:38:46.01 ID:FAijYLAj
勝頼の子に千徳丸なんて子いたのか

皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…

膳城素肌攻め

2019年10月17日 18:09

518 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:21:19.72 ID:HO4sb0ij
天正八年九月下旬、武田勝頼は上野国厩橋城へ出陣した。今回は東上野の先方衆に、西上野の兵を加えて
大胡、山上、伊勢崎などの城を攻め落とすつもりであった。また自身でその周辺も見て廻り、翌日には
膳城の様子を窺おうと、一条右衛門太夫信連、原隼人佐昌勝、真田安房守昌幸、土屋宗蔵昌恒以下を
引き連れ、持小旗だけの軽装で、総勢、武具も付けずに出発した。

当時膳城は、先年に金山の由良信濃守国繁の持城と成り、地勢をよく知っている大胡民部左衛門を主将、
渋皮主膳正を副将として守らせていた。

さて、この時城中では秋の月見の宴が開かれており、皆は気散じの酒盛りをしていた。ところがその席で
思いがけなく、玉村五郎兵衛という侍が渋皮主膳正と口論を始め、それに那波、伊勢崎、片岡と言った者達も
加わり、あまつさえ双方の家人小者たちまでもを巻き込んで、二手に分かれて収拾のつかぬ混乱となった。

この有様に大胡民部左衛門は怒り大声で叱咤した
「このような時に強敵である武田勝頼が攻めてくればどうするのか!勝頼は隣の厩橋城に来ているのだぞ。
そのための防備こそ急がねばならないのに、酒を食らって喧嘩をするとは何事だ!恥を知れ!」

しかし誰の耳のも入らず乱闘を続けていた。

そんな最中、この膳城に武田衆が到着した。
勝頼も城の中がなんとなく普通でないと察したが、自分たちは武器も持たず素手のままであるので
手を出すわけにもいかず、一旦取って帰ろうとした。

膳城の門番は武田衆に気がつくと驚いて城中に注進した。しかし混乱の中下知するものもおおらず、雑兵達は
勝手勝手に柄道具を手に取り出撃し、まず武田方の倉賀淡路守秀景に襲いかかった。
武田方ではこれを見て西上野衆が取って返し、雑兵たちを取り押さえようとしたところ、これに釣られ
武田衆は総勢がどっと引き返してきた。雑兵達はうろたえ城中に逃げ込んだが、武田衆もこれを追いかけ
虜にしようと堀際まで押し寄せた。

この時勝頼は、故信玄より不用意な城攻めを固く戒められていた事を思い出し、皆に引き返すように
下知したのだが、時既に遅く、土屋宗蔵の手の者である脇又市郎という若者が木戸を押し破り廓の一部に
押し入った。続いて同じ手の者の一宮佐太夫も押し入り、城兵六人と渡り合っていた。一宮はかなわじと見て
引き返そうとしたが、脇又市郎だ「死しても退くべからず」り声をかけて踏みこたえ戦った。

この間に武田方では一条信連の組より浅見治部太夫、堀喜右衛門、中根七右衛門などの歴戦の者共が
駆けつけ、平服のまま切り込んで敵を廓内に追い込んだ。
しかし寄せ手は素手のままであるし、城兵は仲間喧嘩の真っ最中で、双方とも不用意の戦となった
わけである。

それでも城中には腕に覚えの有る侍たちも居て、勝頼の家臣でかつて遠州高天神城の戦いでも
高名をはせた、小笠原民部の家来である林平六郎が討ち死にした。また原隼人佐昌勝も攻め入って
敵七人に取り囲まれて戦っているうちに、小溝に足を踏み入れ、立ち直ろうとする所を真っ向から
眉間に切りつけられて倒れた。曲渕勝左衛門が彼を肩に担いで城外に連れ出し、原の付き人に渡したが、
後に甲府に戻ってから死んだ。

脇又市郎は最後まで戦いよく首も取った。彼は甲府の足軽大将・本郷八郎左衛門の甥で、駿州の先鋒である
脇善兵衛の養子となり、かつて三州長篠合戦に於いて二ヶ所の傷を負いながらも功名を上げた侍である。
この時二十五歳であった。

このような中、皆に心すべしと説いていた主将の大胡民部左衛門も寄せ手の浅見治部太夫に討たれ、
残兵悉く撤退して城は落ちた。

519 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:23:30.93 ID:HO4sb0ij
これに勝頼は大いに喜んだ。父である信玄も多くの城を落としたが、勝頼のように防具も付けす
素手のままで城を落とした事はない。宿老の勝八太郎などは、これまで勝頼を少しでも早く成長させ、
采配を渡したら自身は剃髪して介添と成り、先陣を仕ろうと思っていたが、勝頼がこれほど潔く
育ったからには、おそらく敵の三重の柵はおろか、十重の柵も踏み破って戦っても負けることはないだろうと
気を強くした。

このように褒めるものも居たが、批判するものも居た。

「今もし、敵の中に楠正成のような智謀の良将がいて、偽って同士討ちの体に見せかけ、これを見て
好機と思い素手で城攻めすれば、寄せ手は片端から生け捕られ、生きて帰る者は一人も居なかったであろう。
勝頼公は血気盛んで猪武者だったからこそ、五年前長篠の戦いであのような大敗を喫したのではないか。
あの時敵の三重の柵を破ることが出来ず、信玄公以来の名だたる名将を数多く討ち死にさせてしまった
ではないか。」

そのように嘆くものもあり、事実今度の戦いで死んだ原隼人佐は、その長篠の戦いで生き残った
数少ない勇将であったが、跡部、長坂という勝頼の佞奸どもに家法、軍法が歪められていくのを見るより、
いっそ討ち死にしたほうが良いと思って、今度の戦いに自ら身を投げ出し戦死したのだろう、などと
言われたのである。

(関八州古戦録)

武田勝頼の有名な「膳城素肌攻め」についてのお話



四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである

2019年07月31日 18:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 18:17:56.42 ID:Yj3Qypa8
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』



125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 20:31:38.19 ID:zlGD2hC1
さすが信長

勝頼が兵を用いることの意味を

2019年03月15日 21:08

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 19:35:17.78 ID:NtugCGIo
勝頼の代に至って、武田の威が衰えたのは、勝頼が兵を用いることの意味を理解していなかったためである。
勝頼は下條越前(信氏もしくは信正の事か)に信濃飯田城を守らせていた。士卒合わせて4,500人の
頭であった。

織田信忠がこれを攻めるという時、勝頼は小幡因幡(信定か)に命じてその加勢とした、因幡は小幡尾張(信貞)
の嗣子にて、五百騎の将である。この加勢の時も、二百騎あまり、総軍二千ばかりの人数であった。
そして小幡因幡は大身であるがゆえに下條越前の下知を受けず、下條越前は本城の守将である故に
小幡因幡の指図を用いず、互いに不和にして。因幡は自分の従兵を引いて遂に城を出たため、その騒動により
守備は崩壊し、士卒は半ば戦う前に離散して、飯田の城は陥ちたという。

(武将感状記)



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 21:38:17.40 ID:/7It3Fsz
>>788
実際は保科正直ってのが逃亡したらしいけど

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:06:50.69 ID:PU3Ax35N
さすが逃げ弾正w

791 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/15(金) 23:01:53.64 ID:Rrpezbrm
>>790
高坂昌信「え?もう亡きお屋形様の所逝ってるんですけど?」

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/17(日) 18:01:12.52 ID:5akfMxjR
槍を合わせずに逃げてる弾正さん

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/18(月) 09:51:18.67 ID:eWwD9w/z
お屋形様の槍を貰いにあの世へ逃げ弾正

武田総敗軍

2018年11月05日 17:39

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 00:55:12.56 ID:xOwWXg/m
(長篠の戦いの時)

徳川勢先隊の大須賀五郎左衛門(康高)・榊原小平太(康政)・本多平八郎(忠勝)・平岩七之助
(親吉)・鳥居彦右衛門(元忠)・石川伯耆守(数正)の諸将は自身で槍を振るって竹広の方より
まっしぐらに諸勢に抜きん出て突いて掛かる。武田方も和田・安中以下がこれを迎えて突戦する。

勝頼も本陣を進めれば、前備の望月右近・後備の武田左衛門信光も今日を最期と思い切って働き、
ここで本多作左衛門重次は7ヶ所まで手傷を蒙って右の眼を切られた。本多甚九郎・土屋次左衛門

を始め討死の味方も数多なり。敵も味方も討ちつ討たれつ手負い死人数を知らず。大須賀の属兵の
久世三四郎(広宣)・坂部又十郎・筧助太夫・同龍之助・伊藤雁助・浅井九郎左衛門・鷲田伝八・
柘植又十郎・鈴木角太夫・浅原孫七郎・松平助左衛門、その中でも渥美源五郎勝吉は生年19歳の

初陣なり。父に劣らぬ剛勇で敵の首若干を討ち取る。後々も高名を挙げて数え難し。“首取源五”
と異名を取ったのはこの勝吉のことなりけり。榊原の属兵では村上弥右衛門・富田三右衛門・伊藤
弥三・伊奈源左衛門・榊原仁兵衛・鈴木半兵衛も同じく奮戦して伊奈は討死した。

典厩(武田信豊)の勢1千余は返し合わせ返し合わせ突戦すれど、ついに徳川勢に切り立てられて
引き退いた。この時、信長卿の下知あって総軍一同に鬨を揚げて勇み進み追討すれば、勝頼もどう
しようもなく武田勢は総敗軍となり、鳳来寺の方へ敗走した。橋辺という所に至り大軍に追い掛け

られ、滝川に落ちて溺死する者もまた多し。真田源太左衛門信綱は渡辺半十郎政綱に討たれ、典厩
の弟・望月甚八郎信益(信永)は鳥居彦右衛門の同心・永田蘇父助に討たれた。

望月右近は永田澄之助に討たれて、堀無手右衛門は渡辺忠右衛門と小栗又一(忠政)両人がともに
討ち、興津十郎兵衛は高力権左衛門(政長)が討ち取った。その他に河窪兵庫助信実・下曽根源六

政利と弟の源七政秋・同弥右衛門政基・横田十郎兵衛忠重・油川宮内顕則・同左馬允顕重・高坂
又八郎助宣・甘利藤蔵吉利・杉原日向正之・土屋備前直親・高林恵光寺・岩手左馬助胤秀・原隼人

胤長(昌胤)・小山田五郎兵衛昌晟・高力源五郎昌宣・根津甚平伊広・真田兵部幸連(昌輝)・
安中左近広隆(景繁)・馬場彦五郎勝行・米倉丹後正継らは思い思いに奮戦して討死した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』


名高き兜を敵に取られては如何なものか

2018年10月25日 21:27

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 21:31:02.64 ID:64ZiG2JZ
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、小松ヶ瀬で
馬を止めて待っていた。初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢はこれを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。

勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守
満秀とする)がこれを見て馳せ付け馬から飛び降り、勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、

勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君
に代わって討死します!」と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、

その疲れ馬に乗って轡を引き返し、「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が
12代の子孫、笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」と追い来る敵を

2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。これより後は、追う兵も少なくなく
なったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた

『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も
疲れたので殆ど持ちあぐね、勝頼に断ってその兜を道に捨てた。ところが、その後から来た小山田弥助が

これを見て「名高き兜を敵に取られては如何なものか」と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。勝頼は
大いに喜び再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、しばし梅酸で渇きを休めまた乗り出した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:14:04.87 ID:vu86f/YA
名乗り上げちゃったら身代わりの意味ねえな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 11:14:01.47 ID:Vl28NzIX
身代わりじゃなくって殿でしょ?

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 13:18:13.39 ID:9d1JBdE/
>>360
秘蔵の兜を捨てるほど疲れるってのがもう

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 00:09:24.10 ID:/rskxWzu
まぁ兜も結構重いからな
信玄より譲られた秘蔵の兜って言うからには結構古そうで
当世具足みたいに軽量化とかあまり意識されてなさそうだし
逃走中って事は兜の一部なり結び緒なりつかんで持ってたんじゃ
なおさら重く感じて捨てたくなるのも判らんでもない

「流石に猛将かな」

2018年10月24日 18:18

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 04:42:32.22 ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 06:57:36.06 ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん

勝頼は飢え疲れておられ

2018年09月30日 19:42

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/30(日) 15:01:00.39 ID:3tpAPdKz
按ずるに本文(武田勝頼討死の記事)はかの家に伝わる甲陽軍鑑の説に拠って記したものである。
大久保の物語(三河物語)には勝頼夫婦は田野の河原の草むらに敷皮を敷いて休んでいたところ、

早くも敵が押し寄せてきた。跡部(勝資)がこの時に逃げ去らんとするのを土屋惣藏(昌恒)が
射殺したとある。柏崎物語には勝頼は具足櫃に腰をかけておられたが、滝川義太夫(益氏)が

付け込んで土屋惣藏を討ち取り、伊藤伊右衛門永光が横合より勝頼を討ち取ったと見える。また、
武家閑談には伊藤伊右衛門の話として津田幸庵が物語り、「近年の書物を見るに勝頼切腹と

書くものもあり、また仰々しく戦って討死されたように書いているものもあるが、私はその頃は
小平次といって滝川方におり、伊藤伊右衛門とは同輩だったので目の当たりに見たのだが、

左様ではなかった。勝頼は鎧の櫃に腰を掛けて太刀で防戦されるといえども、飢え疲れておられ
何の働きもなく伊右衛門が討ち取った」と板倉周防守(重宗)宅で物語ったと見える。

これなどは実事と思われるのでここに付して一致に備える。

――『改正三河後風土記』


「甲乱記」では勝頼の新府城からの逃亡を

2017年03月05日 18:34

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか


武田勝頼父子の遺体は

2016年08月14日 17:24

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/14(日) 02:25:15.53 ID:bkrryuWC
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』



一代の不仁残忍の報いであり

2016年01月14日 15:53

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 01:27:45.91 ID:GP8sbhlK
 勝頼公まで二十八代の間、武田家は屋形作で城がなく、新羅三郎義光公の嫡孫であるので頼朝公と同様の規模のお館であった。
 そこで、勝頼公は『将来城がないのは危ない』とお考えになられて、新府中の城を築こうとなされた。
しかし、普請している最中に旗下の大将の内の妹聟の木曾殿、伯母聟穴山殿をはじめとした者が信長公へ頼ってしまい、
終いに勝頼公は天目山へ逃げ込み滅亡なされた。
 これは皆父の信玄公に孝なく、嫡子義信公に対し悪意が有ったといはいえ
父の愛を与えず牢暮らしさせたような事に代表される、一代の不仁残忍の報いであり恐るべきことである。

 また勝頼公、信勝公の首実検を信長公がなされた時、ただ何の作法もなく、いつもの服で首に向かい、悪口を仰せられ、
扇子で叩かれなさったようなことをしたので、この君も一、二月の間に亡ばれたのも不思議なことである。

 勝頼公が家老達の申す事を用いなさったら、天下一統の功も建てなさっただろうに、皆長篠合戦で討死したのは残念なことである。
かろうじて信州の川中島に在城してて生き残った高坂が、諫言を申し上げたといっても、長坂、跡部の中傷で忠言も取り上げなされなかった。
 これをひどく残念がって、弾正は甲陽軍鑑という書を編集して、死後勝頼公へ進上せよと遺言した。
ひどく古くさい俗書であったがあっぱれな忠義の武士であった。この忠義をそっくりそのまま武家方にお見せしたい事である。
この書を版にして広く武士である人に見せたいものだ。

 加えて、信玄公の御舎弟の信繁公は至っての賢者である。惜しいことに世の人はこれを知る事は稀である。

(本阿弥行状記)

信玄の尻拭いをさせられる勝頼(´・ω・`)



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 02:33:23.47 ID:YCC7Mq2I
昌信の申すこと尤もじゃな。長坂跡部を更迭するから甲府に留まり助言してくれんか。

いやいや某は先君より川中島の抑えを任されているので動けませぬ。
川中島あっての武田なのですぞ!

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 09:40:22.26 ID:ql3fNf7A
勝頼「お、おう」