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皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…
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膳城素肌攻め

2019年10月17日 18:09

518 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:21:19.72 ID:HO4sb0ij
天正八年九月下旬、武田勝頼は上野国厩橋城へ出陣した。今回は東上野の先方衆に、西上野の兵を加えて
大胡、山上、伊勢崎などの城を攻め落とすつもりであった。また自身でその周辺も見て廻り、翌日には
膳城の様子を窺おうと、一条右衛門太夫信連、原隼人佐昌勝、真田安房守昌幸、土屋宗蔵昌恒以下を
引き連れ、持小旗だけの軽装で、総勢、武具も付けずに出発した。

当時膳城は、先年に金山の由良信濃守国繁の持城と成り、地勢をよく知っている大胡民部左衛門を主将、
渋皮主膳正を副将として守らせていた。

さて、この時城中では秋の月見の宴が開かれており、皆は気散じの酒盛りをしていた。ところがその席で
思いがけなく、玉村五郎兵衛という侍が渋皮主膳正と口論を始め、それに那波、伊勢崎、片岡と言った者達も
加わり、あまつさえ双方の家人小者たちまでもを巻き込んで、二手に分かれて収拾のつかぬ混乱となった。

この有様に大胡民部左衛門は怒り大声で叱咤した
「このような時に強敵である武田勝頼が攻めてくればどうするのか!勝頼は隣の厩橋城に来ているのだぞ。
そのための防備こそ急がねばならないのに、酒を食らって喧嘩をするとは何事だ!恥を知れ!」

しかし誰の耳のも入らず乱闘を続けていた。

そんな最中、この膳城に武田衆が到着した。
勝頼も城の中がなんとなく普通でないと察したが、自分たちは武器も持たず素手のままであるので
手を出すわけにもいかず、一旦取って帰ろうとした。

膳城の門番は武田衆に気がつくと驚いて城中に注進した。しかし混乱の中下知するものもおおらず、雑兵達は
勝手勝手に柄道具を手に取り出撃し、まず武田方の倉賀淡路守秀景に襲いかかった。
武田方ではこれを見て西上野衆が取って返し、雑兵たちを取り押さえようとしたところ、これに釣られ
武田衆は総勢がどっと引き返してきた。雑兵達はうろたえ城中に逃げ込んだが、武田衆もこれを追いかけ
虜にしようと堀際まで押し寄せた。

この時勝頼は、故信玄より不用意な城攻めを固く戒められていた事を思い出し、皆に引き返すように
下知したのだが、時既に遅く、土屋宗蔵の手の者である脇又市郎という若者が木戸を押し破り廓の一部に
押し入った。続いて同じ手の者の一宮佐太夫も押し入り、城兵六人と渡り合っていた。一宮はかなわじと見て
引き返そうとしたが、脇又市郎だ「死しても退くべからず」り声をかけて踏みこたえ戦った。

この間に武田方では一条信連の組より浅見治部太夫、堀喜右衛門、中根七右衛門などの歴戦の者共が
駆けつけ、平服のまま切り込んで敵を廓内に追い込んだ。
しかし寄せ手は素手のままであるし、城兵は仲間喧嘩の真っ最中で、双方とも不用意の戦となった
わけである。

それでも城中には腕に覚えの有る侍たちも居て、勝頼の家臣でかつて遠州高天神城の戦いでも
高名をはせた、小笠原民部の家来である林平六郎が討ち死にした。また原隼人佐昌勝も攻め入って
敵七人に取り囲まれて戦っているうちに、小溝に足を踏み入れ、立ち直ろうとする所を真っ向から
眉間に切りつけられて倒れた。曲渕勝左衛門が彼を肩に担いで城外に連れ出し、原の付き人に渡したが、
後に甲府に戻ってから死んだ。

脇又市郎は最後まで戦いよく首も取った。彼は甲府の足軽大将・本郷八郎左衛門の甥で、駿州の先鋒である
脇善兵衛の養子となり、かつて三州長篠合戦に於いて二ヶ所の傷を負いながらも功名を上げた侍である。
この時二十五歳であった。

このような中、皆に心すべしと説いていた主将の大胡民部左衛門も寄せ手の浅見治部太夫に討たれ、
残兵悉く撤退して城は落ちた。

519 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:23:30.93 ID:HO4sb0ij
これに勝頼は大いに喜んだ。父である信玄も多くの城を落としたが、勝頼のように防具も付けす
素手のままで城を落とした事はない。宿老の勝八太郎などは、これまで勝頼を少しでも早く成長させ、
采配を渡したら自身は剃髪して介添と成り、先陣を仕ろうと思っていたが、勝頼がこれほど潔く
育ったからには、おそらく敵の三重の柵はおろか、十重の柵も踏み破って戦っても負けることはないだろうと
気を強くした。

このように褒めるものも居たが、批判するものも居た。

「今もし、敵の中に楠正成のような智謀の良将がいて、偽って同士討ちの体に見せかけ、これを見て
好機と思い素手で城攻めすれば、寄せ手は片端から生け捕られ、生きて帰る者は一人も居なかったであろう。
勝頼公は血気盛んで猪武者だったからこそ、五年前長篠の戦いであのような大敗を喫したのではないか。
あの時敵の三重の柵を破ることが出来ず、信玄公以来の名だたる名将を数多く討ち死にさせてしまった
ではないか。」

そのように嘆くものもあり、事実今度の戦いで死んだ原隼人佐は、その長篠の戦いで生き残った
数少ない勇将であったが、跡部、長坂という勝頼の佞奸どもに家法、軍法が歪められていくのを見るより、
いっそ討ち死にしたほうが良いと思って、今度の戦いに自ら身を投げ出し戦死したのだろう、などと
言われたのである。

(関八州古戦録)

武田勝頼の有名な「膳城素肌攻め」についてのお話



四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである

2019年07月31日 18:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 18:17:56.42 ID:Yj3Qypa8
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』



125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 20:31:38.19 ID:zlGD2hC1
さすが信長

勝頼が兵を用いることの意味を

2019年03月15日 21:08

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 19:35:17.78 ID:NtugCGIo
勝頼の代に至って、武田の威が衰えたのは、勝頼が兵を用いることの意味を理解していなかったためである。
勝頼は下條越前(信氏もしくは信正の事か)に信濃飯田城を守らせていた。士卒合わせて4,500人の
頭であった。

織田信忠がこれを攻めるという時、勝頼は小幡因幡(信定か)に命じてその加勢とした、因幡は小幡尾張(信貞)
の嗣子にて、五百騎の将である。この加勢の時も、二百騎あまり、総軍二千ばかりの人数であった。
そして小幡因幡は大身であるがゆえに下條越前の下知を受けず、下條越前は本城の守将である故に
小幡因幡の指図を用いず、互いに不和にして。因幡は自分の従兵を引いて遂に城を出たため、その騒動により
守備は崩壊し、士卒は半ば戦う前に離散して、飯田の城は陥ちたという。

(武将感状記)



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 21:38:17.40 ID:/7It3Fsz
>>788
実際は保科正直ってのが逃亡したらしいけど

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:06:50.69 ID:PU3Ax35N
さすが逃げ弾正w

791 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/15(金) 23:01:53.64 ID:Rrpezbrm
>>790
高坂昌信「え?もう亡きお屋形様の所逝ってるんですけど?」

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/17(日) 18:01:12.52 ID:5akfMxjR
槍を合わせずに逃げてる弾正さん

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/18(月) 09:51:18.67 ID:eWwD9w/z
お屋形様の槍を貰いにあの世へ逃げ弾正

武田総敗軍

2018年11月05日 17:39

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 00:55:12.56 ID:xOwWXg/m
(長篠の戦いの時)

徳川勢先隊の大須賀五郎左衛門(康高)・榊原小平太(康政)・本多平八郎(忠勝)・平岩七之助
(親吉)・鳥居彦右衛門(元忠)・石川伯耆守(数正)の諸将は自身で槍を振るって竹広の方より
まっしぐらに諸勢に抜きん出て突いて掛かる。武田方も和田・安中以下がこれを迎えて突戦する。

勝頼も本陣を進めれば、前備の望月右近・後備の武田左衛門信光も今日を最期と思い切って働き、
ここで本多作左衛門重次は7ヶ所まで手傷を蒙って右の眼を切られた。本多甚九郎・土屋次左衛門

を始め討死の味方も数多なり。敵も味方も討ちつ討たれつ手負い死人数を知らず。大須賀の属兵の
久世三四郎(広宣)・坂部又十郎・筧助太夫・同龍之助・伊藤雁助・浅井九郎左衛門・鷲田伝八・
柘植又十郎・鈴木角太夫・浅原孫七郎・松平助左衛門、その中でも渥美源五郎勝吉は生年19歳の

初陣なり。父に劣らぬ剛勇で敵の首若干を討ち取る。後々も高名を挙げて数え難し。“首取源五”
と異名を取ったのはこの勝吉のことなりけり。榊原の属兵では村上弥右衛門・富田三右衛門・伊藤
弥三・伊奈源左衛門・榊原仁兵衛・鈴木半兵衛も同じく奮戦して伊奈は討死した。

典厩(武田信豊)の勢1千余は返し合わせ返し合わせ突戦すれど、ついに徳川勢に切り立てられて
引き退いた。この時、信長卿の下知あって総軍一同に鬨を揚げて勇み進み追討すれば、勝頼もどう
しようもなく武田勢は総敗軍となり、鳳来寺の方へ敗走した。橋辺という所に至り大軍に追い掛け

られ、滝川に落ちて溺死する者もまた多し。真田源太左衛門信綱は渡辺半十郎政綱に討たれ、典厩
の弟・望月甚八郎信益(信永)は鳥居彦右衛門の同心・永田蘇父助に討たれた。

望月右近は永田澄之助に討たれて、堀無手右衛門は渡辺忠右衛門と小栗又一(忠政)両人がともに
討ち、興津十郎兵衛は高力権左衛門(政長)が討ち取った。その他に河窪兵庫助信実・下曽根源六

政利と弟の源七政秋・同弥右衛門政基・横田十郎兵衛忠重・油川宮内顕則・同左馬允顕重・高坂
又八郎助宣・甘利藤蔵吉利・杉原日向正之・土屋備前直親・高林恵光寺・岩手左馬助胤秀・原隼人

胤長(昌胤)・小山田五郎兵衛昌晟・高力源五郎昌宣・根津甚平伊広・真田兵部幸連(昌輝)・
安中左近広隆(景繁)・馬場彦五郎勝行・米倉丹後正継らは思い思いに奮戦して討死した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』


名高き兜を敵に取られては如何なものか

2018年10月25日 21:27

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 21:31:02.64 ID:64ZiG2JZ
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、小松ヶ瀬で
馬を止めて待っていた。初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢はこれを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。

勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守
満秀とする)がこれを見て馳せ付け馬から飛び降り、勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、

勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君
に代わって討死します!」と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、

その疲れ馬に乗って轡を引き返し、「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が
12代の子孫、笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」と追い来る敵を

2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。これより後は、追う兵も少なくなく
なったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた

『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も
疲れたので殆ど持ちあぐね、勝頼に断ってその兜を道に捨てた。ところが、その後から来た小山田弥助が

これを見て「名高き兜を敵に取られては如何なものか」と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。勝頼は
大いに喜び再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、しばし梅酸で渇きを休めまた乗り出した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:14:04.87 ID:vu86f/YA
名乗り上げちゃったら身代わりの意味ねえな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 11:14:01.47 ID:Vl28NzIX
身代わりじゃなくって殿でしょ?

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 13:18:13.39 ID:9d1JBdE/
>>360
秘蔵の兜を捨てるほど疲れるってのがもう

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 00:09:24.10 ID:/rskxWzu
まぁ兜も結構重いからな
信玄より譲られた秘蔵の兜って言うからには結構古そうで
当世具足みたいに軽量化とかあまり意識されてなさそうだし
逃走中って事は兜の一部なり結び緒なりつかんで持ってたんじゃ
なおさら重く感じて捨てたくなるのも判らんでもない

「流石に猛将かな」

2018年10月24日 18:18

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 04:42:32.22 ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 06:57:36.06 ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん

勝頼は飢え疲れておられ

2018年09月30日 19:42

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/30(日) 15:01:00.39 ID:3tpAPdKz
按ずるに本文(武田勝頼討死の記事)はかの家に伝わる甲陽軍鑑の説に拠って記したものである。
大久保の物語(三河物語)には勝頼夫婦は田野の河原の草むらに敷皮を敷いて休んでいたところ、

早くも敵が押し寄せてきた。跡部(勝資)がこの時に逃げ去らんとするのを土屋惣藏(昌恒)が
射殺したとある。柏崎物語には勝頼は具足櫃に腰をかけておられたが、滝川義太夫(益氏)が

付け込んで土屋惣藏を討ち取り、伊藤伊右衛門永光が横合より勝頼を討ち取ったと見える。また、
武家閑談には伊藤伊右衛門の話として津田幸庵が物語り、「近年の書物を見るに勝頼切腹と

書くものもあり、また仰々しく戦って討死されたように書いているものもあるが、私はその頃は
小平次といって滝川方におり、伊藤伊右衛門とは同輩だったので目の当たりに見たのだが、

左様ではなかった。勝頼は鎧の櫃に腰を掛けて太刀で防戦されるといえども、飢え疲れておられ
何の働きもなく伊右衛門が討ち取った」と板倉周防守(重宗)宅で物語ったと見える。

これなどは実事と思われるのでここに付して一致に備える。

――『改正三河後風土記』


「甲乱記」では勝頼の新府城からの逃亡を

2017年03月05日 18:34

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか


武田勝頼父子の遺体は

2016年08月14日 17:24

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/14(日) 02:25:15.53 ID:bkrryuWC
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』



一代の不仁残忍の報いであり

2016年01月14日 15:53

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 01:27:45.91 ID:GP8sbhlK
 勝頼公まで二十八代の間、武田家は屋形作で城がなく、新羅三郎義光公の嫡孫であるので頼朝公と同様の規模のお館であった。
 そこで、勝頼公は『将来城がないのは危ない』とお考えになられて、新府中の城を築こうとなされた。
しかし、普請している最中に旗下の大将の内の妹聟の木曾殿、伯母聟穴山殿をはじめとした者が信長公へ頼ってしまい、
終いに勝頼公は天目山へ逃げ込み滅亡なされた。
 これは皆父の信玄公に孝なく、嫡子義信公に対し悪意が有ったといはいえ
父の愛を与えず牢暮らしさせたような事に代表される、一代の不仁残忍の報いであり恐るべきことである。

 また勝頼公、信勝公の首実検を信長公がなされた時、ただ何の作法もなく、いつもの服で首に向かい、悪口を仰せられ、
扇子で叩かれなさったようなことをしたので、この君も一、二月の間に亡ばれたのも不思議なことである。

 勝頼公が家老達の申す事を用いなさったら、天下一統の功も建てなさっただろうに、皆長篠合戦で討死したのは残念なことである。
かろうじて信州の川中島に在城してて生き残った高坂が、諫言を申し上げたといっても、長坂、跡部の中傷で忠言も取り上げなされなかった。
 これをひどく残念がって、弾正は甲陽軍鑑という書を編集して、死後勝頼公へ進上せよと遺言した。
ひどく古くさい俗書であったがあっぱれな忠義の武士であった。この忠義をそっくりそのまま武家方にお見せしたい事である。
この書を版にして広く武士である人に見せたいものだ。

 加えて、信玄公の御舎弟の信繁公は至っての賢者である。惜しいことに世の人はこれを知る事は稀である。

(本阿弥行状記)

信玄の尻拭いをさせられる勝頼(´・ω・`)



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 02:33:23.47 ID:YCC7Mq2I
昌信の申すこと尤もじゃな。長坂跡部を更迭するから甲府に留まり助言してくれんか。

いやいや某は先君より川中島の抑えを任されているので動けませぬ。
川中島あっての武田なのですぞ!

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 09:40:22.26 ID:ql3fNf7A
勝頼「お、おう」

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど

2015年08月17日 16:17

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/17(月) 14:43:22.90 ID:6w/B9vgu
天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐により武田勝頼は滅び、織田信長は甲府へと入った。
そこで信長より「春先より、私から計略の書状を送ったが、それを受け取った武田家の侍大将たちは
皆礼を申しに出てくるように」との仰せ触れがあった。

甲州征伐に先立ち、この年の2月末、3月にかけて、信長父子より大量の書状が武田家重臣に
送られていたのだ。そこには、自分たちに味方すれば、或いは『甲州一国を与える』『信濃半国を与える』
『駿河を与えるだろう』などと約束されていた。これを誠と思ったため、武田勝頼の親類を始め、
重臣たちも勝頼の危機に皆引き篭もっていたのである。

そして彼らは、この触れも誠と思い信長のもとに御礼に罷り出た。しかし、
武田方の出頭人、跡部大炊は諏訪にて殺された。武田逍遥軒(信廉)は府中立石にて殺された。
小山田兵部、武田左衛門、小山田八左エ門、小菅五郎兵衛、甲府善光寺にて殺された。
一条(信龍)殿は甲府市川にて徳川家康に仰せ付けられ殺された。出頭人秋山内記は高坂にて殺された。
長坂長閑父子は一条殿御館にて殺された。

仁科(信盛)殿、小山田備中、渡部金太夫というこの3人ばかりは、高遠城において、織田城介(信忠)の
旗本に攻められ、わずか18人になるまで城を保つ天晴な討ち死にをした。
しかし小菅五郎兵衛は、元は山縣三郎兵衛の家臣で大剛の者であったのを、長篠の後勝頼によって
旗本に召し上げられ足軽大将となり、仁科信盛に付けられ高遠へと派遣されたにも関わらず、
卑怯にも織田勢が来る前に「勝頼公のお供をつかまつる!」と言って高遠を出て甲州に帰り、
そこで小山田兵部に合流して武田家への逆心を企てたが、彼も善光寺で織田勢に殺された。

高坂源五郎は沼津から、勝頼の最期の5日前に罷り帰り、勝頼に「お供つかまつる」と申し上げたが、
長坂長閑が「城を開けてやって来たというのは、どのようなつもりがあるのか解らない。
その上彼は侍20騎ばかり、雑兵百四,五十ばかりを引き連れているのも一体どうなのか…」
そう判断し、これを寄せ付けなかった。このため、高坂は井澤から直ぐに信州へと通った。
屋代(秀正)なども若いにもかかわらず、駿河をよく引き払い勝頼に合流したいと申し上げたが、
これも高坂源五郎のように寄せ付けなかった。
このようであったので、高坂源五郎は川中島で殺された。山縣源四郎も殺された。

駿河の先方衆も、勝頼公御為を一筋に信じていた者達は成敗された。

こうして、甲信駿の侍大将、家老衆はほとんどが殺された。ただし、信濃の真田、芦田、
上野の小幡、和田、内藤、その他上州衆は皆命を助け、滝川一益に寄騎として付けた。これは
信長の

『3年の内に北条氏政、氏直父子を絶やすべし。これはもし手間取った場合に、真田小幡を始め
彼らに北条家への先手をさせるためだ。』

との考えからこうしたのである。
山上道及という侍があり、彼は元来上野衆であったが、久しく牢人し諸国を武者修業していたが、
彼もこの時信長に1万貫で召しだされた。これも北条を滅ぼしその跡を滝川一益に与える為であった。

下総国佐倉の千葉介国胤は大剛強の大将であったが、この国胤への信長の書状があまりに慮外であると、
信長からの贈り物であった馬の尾を切り追い払い、使者の髪の毛を剃って追い返した。
これは武田四郎(勝頼)が運尽きて滅亡し、このため北条氏政も頭を垂れ信長の被官となった。
しかし自身は、「国胤は小身であっても、たとえ滅亡しても家の誇りを立てる!」と考え
そのようにしたのだ。

(甲陽軍鑑)

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど




新府城建設の経緯

2015年08月14日 14:24

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 20:52:56.14 ID:kjx4sVmM
天正9年7月、穴山信君は武田勝頼に異見申し上げた

「信長、家康の勢力は次第に膨張し、遠州の城東郡も、最早今年3月に家康に取られました。
そのうえ小田原の北条氏政も敵となり、今後は信長、家康、氏政の勢力が一つとなって我らを攻める以上、
諸方の敵が蜂起すること疑いありません。そのような状況では、いずれの敵に向かうことも出来ません。
越後と和平を結びましたが、謙信の時ならば、信長、家康、氏政の3人にも勝つことが出来たでしょうが、
今の景勝は若く、同盟国としては居ないも同然です。

ですので、こちらに良き城をひとつお構えになるべきです。
信玄公の御武勇は尋常成らざるものであったので、お屋敷のみを構え、甲府四郡の内に御城が
ありませんでしたが、それは信玄公の御武勇という強い戒めが在ったため可能であったのです。
ではありますが、信玄公の御内意にも、かつて北条氏康が生きていた頃、氏康が使いを回して
上杉輝虎、織田信長、徳川家康と同盟を組んだという話が聞こえてきた時、駿河の久能、
甲州郡内の岩殿、信濃の吾妻の3ヶ所の城を視察されたのは、もしものときは籠城あるべきとの
事からでした。

しかしその時は、上杉謙信が「四人が組んで信玄一人を倒しても、信玄には四人がかりであったと
末代まで言われてしまう!」と、この盟約を破ったため武田家は何事も無くすみました。
また次の年には、北条氏康も他界しました。
ですが、現在は、上杉謙信のような弓取りはどこの大将にもおりません。」

これに武田勝頼も尤もの事だと思い、同年7月より、甲州韮山に新府城の建設を始めた。
しかしこれが武田家滅亡の元となるとは、後にこそ判った事なのである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、新府城建設の経緯である。



勝頼が信長に使いを送った結果

2015年08月04日 12:05

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 22:41:05.92 ID:ea1bPGQk
天正8年、長坂長閑斎武田勝頼に申し上げた
織田信長に使いを送り、音信を行ってしかるべきと存じます。」

しかしこれに、小山田兵衛をはじめ皆反対した
「信長は殊の外威の強き大将ですから、使いを寄越すほど辱い事は無く、彼は当家を手に入れたと
考えるでしょう。ですからそれはやめたほうがいいと考えます。
それに例え使いを送ったとしても、信長が当家を滅ぼすための工夫、思案を止めることはないでしょう。」

長坂長閑斎は反論した
「信玄公の御代、我らは信長の分国である美濃岩村に攻撃したが、信長からは織田掃部、赤澤といった
者たちを甲府までさし寄越した。それを悪しきこととは誰も申さなかった。
また信玄公ご他界の後、越後の上杉輝虎(謙信)は、信長が持っていた加賀の松任を取り、越前にも
焼き討ちを行った。それでも信長は佐々という者を春日山に付け置いていた。

そのような信長のやり方と同じように、当方も行って然るべきなのです。」
この言葉に従い、武田勝頼は安土に使いを送った。

そしてその返事が届くと、その末尾には、日付からはるか一寸も下げた場所に『武田四郎殿へ』と
書かれてた。

4年前の暮れ、上杉輝虎が信長に、「有無の合戦を行おう」と決戦を要求する書状を送った時の
信長からの返答には、日付と同じ位置から少し上げたほどに輝虎の名を書いていたが、それですら
信玄公の時代とは大きく異なっていたというのに、勝頼公への返事には、殊の外下げて書かれていると
沙汰された。
早くも被官扱いの文章、その名付けにも、少しも武田家を尊重する様子はない。このような
信長・家康方の強気に、武田家の者達の恐れること大方無かった。

武辺の儀は勝るとも劣ることはない。だが、信長が軍勢を出せば、野山も埋め尽くすほどの大軍である。
長篠合戦の時の倍以上の軍勢を出してくるだろう。武田家中ではそのように予想したのだ。

(甲陽軍鑑)

勝頼が信長に使いを送った結果、という逸話である。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 09:47:02.16 ID:D6SEtJnd
天正八年◎月X日

                                                                       武田四郎殿へ
こうですね?

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 10:30:11.73 ID:6QDetX0/
何が悪い話?

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 11:06:43.56 ID:6u7F90GO
長閑斎にしてみれば対等のつもりが下に見られたって嘆きでしょ

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 13:22:23.31 ID:AmVPb3SD
窓口があればこそ勝長が帰還できたというもの

当家滅亡の物怪に

2015年07月26日 13:16

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 22:06:45.82 ID:WliaOztJ
卯の年(天正7年 (1579))春より、駿河国、富士の大宮の大杉より煙が立ち上った。これを武田勝頼は聞いて、
吉田守警斎を召し、常の間にて諸人出仕の人々が聞いている中、少しも隠すことなく、先の大杉より
煙の出たことを尋ねた。吉田は承ると、神道にある

 千早振る 我心より成る業を いずれの神がよそとみるべき

 身は社 心の神を持ちながら よそを問こそおろかなりけり

この二首を引き、「お気にさえ懸けられなければ問題はありません。」と申し上げた。

これを聞いて勝頼は言った
「少しも気にしていない。何故なら何事があろうとも、滅亡して退くと思えば心に懸かるべき物はない。
さてまた、この勝頼を押し詰めて滅亡させるべき人物は、日本国中でも大身であるから、
越後の謙信、安土の信長、安芸の毛利、小田原北条氏政、この四人の内以外にはありえない。

第一の候補は大身と言い武功と言い、長尾輝虎であるが、これは去年他界してしまった。
北条氏政は私の8最年長だが、彼の父氏康と違い、武功において恐ろしいことはない。
安芸の毛利も、今は代替わりの最中というし、その上国が隔たっている。

信長・家康は両人力を合わせ我が家を倒そうと企んでいるが、家康こそ5年前の長篠の戦いの後、
駿河に出兵しているものの、信長の方は長篠の後も、信州の内に手を出すこと少しもない。
家康の働きも、我らの旗先を見ては即時に引き上げている。これ偏に信玄公の御威光が残り
斯くの如しだ。

さりながら、信長家康に、北条氏政が内通したようであるから、ついにはこの勝頼、滅亡するであろう。
滅亡しても、信長の旗下に成るなどということは、御旗楯無もご照覧有れ!そんなことはありえない!

それに付き、当家滅亡の物怪に、富士大宮の杉より煙が立ったのであろう。」

この時勝頼は少しも愁いた表情はなく、嘲笑いながら座敷を立ち奥に入っていったと、後に勝頼の近習衆が
語った。

勝頼公はあまりに強き御屋形であると感じ、春日惣二郎、ここに書きつける。

(甲陽軍鑑)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 01:27:08.09 ID:75rkLFJE
大身といいながら家康が出てくるあたりがなんとも

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 04:50:37.16 ID:wCQo3NPd
まさに韓信の化身やな

国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

2015年07月24日 12:44

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 20:52:36.33 ID:pGcxwbcl
上杉謙信の死後、養子の景勝と景虎が争った御館の乱。
景虎への救援として、北条氏政、武田勝頼が援軍を出すと一報が入ると、景勝は
このままでは滅亡疑いないと分別し、勝頼の出頭人である長坂長閑、跡部大炊が欲を構え、万事に礼物を取り
賄賂にて事を済ますという話を聞いて、勝頼に対して手を入れ、長坂長閑・跡部大炊を頼んだ。
謙信が貯め置いた金子を取り出して、長坂、跡部に二千両づつ与え、勝頼に対しては一万両を贈り、その上で

『縁者と成る事を仰せ付けられれば、景勝は勝頼公の旗本と罷り成ります。
東上野は少しも残らず勝頼公に差し上げます。』

そう伝えてきたので、長坂・跡部は勝頼にこう申し上げた。

「信玄公が御他界される前、天下に赴く為として、支度のための金子を調達するため、後家や出家の妻にまで
税金を課しましたが、その時集まった資金は漸く7千両ばかりでした。
今、何事もない所で1万両の金子を集めることが出来れば、勝頼公のご威光は、信玄公の十双倍に増すこと
でしょう。
その上景勝は起請を提出し御旗本となり、未来永劫、ご無沙汰申し上げないと誓っています。
さらに東上野全部を手に入れられるというのは、大いなる徳分です。

景勝には、信玄公御在世の時、長島の一向宗に約束していた、お菊御寮人を、越し参らせるべきでしょう。
また、いかに小舅だからといって。景勝と対立している三郎景虎が勝つ事になれば、彼の兄である
小田原の北条氏政は大佞人であり欲の深い大名ですから、越後を取り、その後は勝頼公も退治しようと
企む事、疑いありません。」

この進言により、勝頼は景勝と和平を結び、景虎を見殺しにした。
これに武田家領内の侍達は大小に及ばず、町人、地下人、長袖の出家衆までこのことを聞くと、
『武田の御家御滅亡疑いない。義理を違え、きたなき欲を構えて金を取り、卑怯なる仕方、
何につけても一つとして良いというべきところがない。長坂長閑・跡部大炊両人ながら分別なく
礼金を取り、義理も恥も知らず、後々のことも考えず己が欲得ばかりに耽り、このように悪し意見を
申し上げたのに、それを良いと思し召し、それに同意するのは、これこそ勝頼公御滅亡の基である。」

そう、大小・上下共に沙汰したのである。

(中略)

この年の暮れ、甲府の三日市場という日市の立ち辻に二首の歌を詠んだ落書が立った

 無常やな 国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

 金故に まつきに恥は大炊助 尻をすべても跡部なりけり


(甲陽軍鑑)



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:20:06.67 ID:Ys5o13aR
甲相越の三国同盟でも織田に対抗するのは無理だから
何やっても滅亡する運命

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:41:42.38 ID:QG9/5ciG
時間は稼げたんじゃないかな。結果は同じだろうけど。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 01:03:42.58 ID:1c405sEe
同盟つーか、武田が北条の傘下に入る代わりに、織田との戦いに援軍を出してもらえれば、かなり持ちこたえるんじゃないかね。
史実武田家の上州に注力している間に徳川に攻められる、ってこともなくなるし。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 02:12:52.44 ID:4sa+4i1A
三郎景虎への援軍をみれば本気で武田を助けると思うかい?

しかし義理を違えてとかさあ
駿河に侵攻した大悪人と比べたら大したことねえよ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 07:43:43.14 ID:A4u3IXsZ
信玄公のがもっと酷いことを、というか酷いことしかやってないよねw

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 08:28:07.04 ID:Oh/+D5ws
上杉に何の義理があるというのだ

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 10:29:56.83 ID:KEIZsXxu
勝頼が三度援軍を出したのに一度も援軍出してくれなかった北条なんて当てに成らんし
そもそもだから上杉にすり寄ったんじゃね

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。

2015年07月04日 12:31

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 20:50:59.40 ID:wVydyIW8
天正4年、武田勝頼は高天神城に兵糧を入れるとして出陣し、この時家康が高天神への
抑えの城として築いた横須賀城の徳川勢と対峙した。

武田勝頼はこの時、十七手の備にて徳川家康が陣を張る山から降り川を越えてくれば決戦をしようと
待ち構えていたが、家康は先年長篠にて勝ち、次第に我が鋒先強くなるべきと、工夫し、勝って兜の緒を締め、
少しも取り合おうとしなかった。
そのため勝頼は、横須賀城を右に見て少し後ろにまわり、徒歩の者30人ばかり引き連れて、横須賀城の
偵察に出た。手を出してこない徳川勢への挑発である。

この様子を高坂弾正は見て、急ぎ後から一騎で乗り付けると勝頼に向かって申し上げた
「敵に対して少しも警戒しないのはどういうことですか!去年の勝ちの勢いに乗じて家康が
たった今でも攻めかかってきたなら、我らは去年長篠の敗北で、ただでさえおくれ心を抱いているのですから、
千に一つも我が方が勝つことはないでしょう。

その上、家康の居城浜松へは、ここから道程5,6里程度ですが、甲州へは、高天神、遠州の小山、
駿河府中、富士の大宮を経由して、五日路です。五日の路を長篠に続けて負けては、どうやって引き取ると
言うのでしょうか?一騎一人、残らないでしょう。
その事をご分別無いのは、口惜しき限りです!」

しかし勝頼はこれを聞くと

「其方の言い分は尤もである。しかし家康は、一人の覚悟で我らと合戦しようとは思わないだろう。
必ず信長を後ろ盾にして戦おうとするはずだ。
去年、長篠において我らは後れを取り、大身・小身共に、法性院殿(信玄)ご秘蔵の衆を多く
討ち死にさせてしまったのは、私の分別違いの故である。

どういう事かといえば、信長は国を多く持つ大身であるのに、合戦において木の柵を二重三重に結った。
まさか信長があれほどまで慎重に戦を行うとは考えなかった事こそ、この勝頼のし損ないであった。
しかし、敵が柵を構築したのは、例えで言えば、碁であれば寝濱(ねばま:不正な手段)を使ったような
ものである。そして我々が柵が構築されている所に攻めかかったのは、先に言う碁打ちならば、見落としという
ものである。

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。これは、我々が元より不利で、敵方が
その強みで勝ったのだとは、いささか考え難い。このように、敵方にそれほど強みがあるとは
私は考えていない。だからこそ、重ねて合戦しようとも、信長・家康の二旗が揃わねば我らと
合戦しないだろう。」

高坂弾正は愕然として言った
「なんと力を落とすご発言でしょうか。信玄公御代の侍大将で生き残ったのは私一人ですが、
その私をも殺すつもりで、そのように仰っているのですか!?
何を申しても、勝頼公の御疵は、無二に強すぎるのは大いなる疵なのです!」

この高坂の言葉に、勝頼も本陣に帰り、早々に引き取った。前線に出ていた小笠原衆、山縣衆も、
撤退時に敵が追撃することはなかった。
次の日、生け捕った徳川軍の兵に尋ねると、徳川の中でも若者たちは攻めかかっての合戦を主張したが、
内藤四郎左衛門という弓矢巧者の兵がしきりに止め、家康に意見したため、合戦が起こらなかったのだという。

(甲陽軍鑑)

長篠の合戦の敗因に関する、武田勝頼の認識が表されている一節である。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 22:59:46.34 ID:TLX/Z1sW
ひとこと脳筋

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 23:51:59.43 ID:57etRZVb
弓矢巧者の内藤四郎左衛門というと、徳川16神将の内藤正成で間違いないかな?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:22:51.74 ID:Xen6Hxvi
>>21
うむ内藤正成で合ってる

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:47:37.20 ID:H6t4ua6a
勝頼って、万を超す様な大軍の総司令官には向いてないよな。

騎兵の千や二千も与えて、
「あの辺で暴れておいで」って指示したら大活躍しそうだが。

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 02:54:27.56 ID:rV9MEbVl
弾正が小姑に見えてくる

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 07:32:39.98 ID:kd25Cj4f
弾正というと真っ先に爆弾正が思い浮かぶようになってしまった

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 09:32:30.73 ID:b1sslmBb
>>24
親父の元愛人だしな

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 14:51:47.26 ID:e+nJ1CZf
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 20:26:02.13 ID:rOGjjh0i
信玄も煩い老臣を合戦で死なせてるからね
長篠は武田家を新にさせるいい合戦

武田の御備色かはる

2015年06月13日 14:23

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/12(金) 21:59:48.96 ID:3gD86tGa
武田の御備色かはる


天正元年4月12日に信玄公は御他界されたが、3年それを隠して3年目に遺骸を言い置いたようにして、
葬儀するようにとの信玄公の御遺言であった。ではあったが、周囲では大方他界したのだろうと
推量し、小田原の北条氏政は越後の上杉謙信に、武田信玄は他界した模様であると使いを送り、
また内々に遠州浜松の徳川家康へもこの情報が氏政より伝えられた。

駿河の武田配下の内にも朝比奈駿河、岡部丹後の両人は信玄によく親しんでいたため、この死去の情報が
伝えられると内々に涙を流し、その夜は岡部次郎右衛門を始め、尽く顔の色が変わったという。

ことさら、三河の徳川との前線にあった奥平美作守(定能)の子息久八郎(信昌)は寝返った。
仔細は、この武士は占いを信じたため、武田勝頼の酉年の年筮を、前年申年極月月末に卦を立てた所、
その詞に『馬前に人去りてかりぐんと称す』と出たのを、奥平父子は聞いて、

「信玄公は巳の歳であったので、御他界の噂は大方疑いない。」
そう考えて心変わりしたのである。

これについて武田勝頼は、東美濃に同年6月、出兵あるべきと主張した。これについて馬場美濃、内藤修理、
山県三郎兵衛、高坂弾正の四人を始め各家老衆は申し上げた
「それは信玄公の御遺言のように3年目を待ち、その上敵方より当方に攻撃を仕掛けてくるのを
待つのが尤もと存じます。」

これに対し、長坂長閑、跡部大炊介は申し上げた
「御屋形様の御意と、家老衆の分別との間を取って申します。まず当年は武田家分国五ヶ国の総軍勢を
出すことは止められ、甲州一国の軍勢を2つに分けて、山形三郎兵衛を先鋒に、穴山殿、一条殿に、
逍遙軒(武田信廉)を大将分になされ、遠州に出兵することが尤もと考えます。
また三河には馬場美濃を先鋒に、小山田兵衛尉に典厩(武田信豊)を大将にお定めあって、長篠の城を
家康が攻撃しておりますから、その後詰として用いるのが尤もです。」

勝頼は長坂・跡部の意見を受け入れ、三河へは典厩、馬場美濃、小山田を出兵させた。

然しながら、信玄が他界したため、武田軍は上から下まで気力をなくしていた。
長篠城の向かい、いぬの小山に典厩が着陣した時には、長篠城を守っていた信州先方衆は、降伏して
家康に城を明け渡していた。
さらに遠州のもりという場所では、逍遙軒は慎重さの足りない人であったので、家康の家老である
本多作左衛門、本多平八郎、榊原小平太の3人に敗北し、穴山殿と一条殿の二手によってなんとか押し返した。

山県三郎兵衛は家康の構築した小屋(前線基地)を落とすために人数を遣わしていたが、逍遙軒の敗北を聞いて
急遽一騎がけにもりへ駆けつけた。しかし家康の軍勢は勝って兜の緒を締め、早々に引き取っていたため
空振りに終わり、5日には山県を始め武田勢は各々甲州に引き上げた。

信玄公御他界の故に、武田の御備の色が変わったと言われたが、その元はここであった。

(甲陽軍鑑)




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 05:17:55.45 ID:pVaSQUy0
”三年秘す”は休戦して改めて情勢を見ろ、というのが真意だったにしろ
やりたくても実行が難しかったんだろうなあ

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 10:12:18.23 ID:HgrFYgz6
斜陽の武田にどうしろと
晩年の信玄時代にすでにその兆候がwww

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 10:29:23.65 ID:jsEGIf6d
>信玄が他界したため、武田軍は上から下まで気力をなくしていた。

信玄の死って領民は知ってたんかな?
一応、隠してるはずだから、噂として広まったとかかな?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 11:29:43.83 ID:wQSKW9Ij
>>902
そりゃ勘の鋭い農民兵だっていたろうさ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 12:14:38.65 ID:A4+FWdoX
単独では信長に対抗出来ないから浅井、朝倉と連合して決戦に持ち込もうとしてたんだろ。
それなのに三年間引きこもれってどんな呪いの遺言だよ馬鹿w
織田徳川の国人への調略は捗るし、浅井、朝倉、足利は各個撃破されて滅亡するし、武田もジリジリ追い詰められて結局滅亡…

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 14:59:26.84 ID:9siNeuPf
信長が死んだらみんな元気になった織田家がうらやましいよね

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 07:49:50.81 ID:KNGRzJLS
氏政が通報とか時系列メタメタだな

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 19:06:13.81 ID:fiBHNssi
でも信玄死んだ後、
勝頼は遠州で家康にいい勝負してたろ

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 20:38:49.49 ID:KNGRzJLS
長篠の戦いまでは武田方が優勢じゃないかな
前年には高天神を落としてるし、長篠の直前には吉田まで押しかけてる。

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 20:38:54.32 ID:FMpj9mkM
信長もボコボコにしてたよ

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 00:36:04.72 ID:R6NaIWeM
信長は各地の一向宗に散々痛い目に遭わされて
高天神城救援どころじゃなかった

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 06:32:01.20 ID:ujlbBw6s
信長さん、間に合わなかっただけで
フツーに高天神の救援に来てますがな

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 07:57:45.97 ID:l1MJCQAk
>>911
こんな手紙を受け取った叔父さんはどんな顔したんだろうか。

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 09:06:08.22 ID:R6NaIWeM
>>912
高速移動が得意な信長さんが
間に合わなかったって言うだけで
本気で救援する気がなかったってのは解る

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 11:31:56.76 ID:GRc0GSf0
長篠みたいなの毎回やろうとしてて兵隊集めてる間に逃げられたのかもね

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 14:08:12.32 ID:spbNtHCS
長篠の戦いは鳥居強右衛門が信長さんにヘルプ出したおかげやね

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 16:53:20.29 ID:ZwfcSEVp
酒井が鳶の巣を落としたからじゃないの?

四郎殿にとって、強すぎるのは

2014年10月19日 18:57

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:59:03.23 ID:5L8VGV04
一昨年の4月28日に越後の国の上杉輝虎は小田原の北条殿に頼まれ、信州の国橋・長沼に出陣した時、
信玄公が未だ出馬する前に、伊那より四郎殿(武田勝頼)が夜駆けに駆けつけ、謙信1万5千あまりの兵に、
わずか800の備にて合戦を仕掛けた。

この時謙信は攻めてきたのが四郎殿と聞くと、涙を流しながら「無類の若者かな」と褒め、陣を返し
撤退した。

ただし、殿に下がって物見をする侍が2騎残っていたが、そこに四郎殿は乗り付け1騎を斬り落とした。
その頃我々(高坂弾正)もようやく到着し、もう一人の者も斬り落としたので、さすがの謙信の衆も
撤退の早々にこの両人を捨てて引き下がった。

我らが斬り落とした者は、元来逍遥軒殿(武田信廉)の被官で落合彦介と申す者であった。
そしてそれぞれ御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手であった。

四郎殿は、18歳の初陣から当年26歳まで9年の間に大体の合戦で、このような先陣の強き働きを
なされたのだが、ただあまりに強すぎたので、今年か来年の間には討ち死にするだろうと考えていた。

この時、阿部加賀守は
「今回の陣触れに関しては、今から20日の間に必ず三河・遠江に発向し、家康と手切れをするのだから、
このような合戦は無事に帰ってこそ後に生きるというのに、武士としては立派ではあるが、
四郎殿はひとしお危ういように思う。」
と語った。

これを山県三郎兵衛(昌景)が聞き
「四郎殿にとって、強すぎるのは一つの疵です。しかもこれは、大将としては大きな傷であり、
結局は弱いことよりも劣るのです。」
そう言って座敷を立った。

(甲陽軍鑑)

信玄存命時の、武田家家中の勝頼への評である。




559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 20:45:32.03 ID:lVg2/OKe
謙信が意気に感じて兵を引くのは好きだな
父の留守を守るためにわずかな手勢で健気に向かってくる若武者とかいかにも好きそう

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 03:07:23.14 ID:Tv8WWEMi
もはや源平の時代だよ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 08:52:48.57 ID:TjrpS9Oh
勝頼は伊達成実ポジションだったら大暴れ出来ただろうに

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:08:57.49 ID:x/pZEeRK
>>559
この二人わりと近いものがあるよな
同盟してれば仲良くなれたかもしれないのに

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:31:13.46 ID:TUmAzWEe
同盟組むには周辺の係争地が豊かすぎた

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 17:24:33.51 ID:9gmNVTqM
遺言で謙信を頼れとかなかったっけ?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:41:53.76 ID:qtXAqo3a
>>561
諏訪家にやった四男坊扱いのままだったら幸せだったかもなあ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:53:39.12 ID:sunMNw+P
>>568
しようがない
兄貴と親父がダメになっちまったんだし

越甲相(ついでに佐も)の外交戦

2013年12月20日 18:55

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 22:07:55.23 ID:7QhCaGbC
ついでにつまらない小話をひとつ。越甲相(ついでに佐も)の外交戦。

1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。

さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>