武田勝頼父子の遺体は

2016年08月14日 17:24

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/14(日) 02:25:15.53 ID:bkrryuWC
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』



スポンサーサイト

一代の不仁残忍の報いであり

2016年01月14日 15:53

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 01:27:45.91 ID:GP8sbhlK
 勝頼公まで二十八代の間、武田家は屋形作で城がなく、新羅三郎義光公の嫡孫であるので頼朝公と同様の規模のお館であった。
 そこで、勝頼公は『将来城がないのは危ない』とお考えになられて、新府中の城を築こうとなされた。
しかし、普請している最中に旗下の大将の内の妹聟の木曾殿、伯母聟穴山殿をはじめとした者が信長公へ頼ってしまい、
終いに勝頼公は天目山へ逃げ込み滅亡なされた。
 これは皆父の信玄公に孝なく、嫡子義信公に対し悪意が有ったといはいえ
父の愛を与えず牢暮らしさせたような事に代表される、一代の不仁残忍の報いであり恐るべきことである。

 また勝頼公、信勝公の首実検を信長公がなされた時、ただ何の作法もなく、いつもの服で首に向かい、悪口を仰せられ、
扇子で叩かれなさったようなことをしたので、この君も一、二月の間に亡ばれたのも不思議なことである。

 勝頼公が家老達の申す事を用いなさったら、天下一統の功も建てなさっただろうに、皆長篠合戦で討死したのは残念なことである。
かろうじて信州の川中島に在城してて生き残った高坂が、諫言を申し上げたといっても、長坂、跡部の中傷で忠言も取り上げなされなかった。
 これをひどく残念がって、弾正は甲陽軍鑑という書を編集して、死後勝頼公へ進上せよと遺言した。
ひどく古くさい俗書であったがあっぱれな忠義の武士であった。この忠義をそっくりそのまま武家方にお見せしたい事である。
この書を版にして広く武士である人に見せたいものだ。

 加えて、信玄公の御舎弟の信繁公は至っての賢者である。惜しいことに世の人はこれを知る事は稀である。

(本阿弥行状記)

信玄の尻拭いをさせられる勝頼(´・ω・`)



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 02:33:23.47 ID:YCC7Mq2I
昌信の申すこと尤もじゃな。長坂跡部を更迭するから甲府に留まり助言してくれんか。

いやいや某は先君より川中島の抑えを任されているので動けませぬ。
川中島あっての武田なのですぞ!

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 09:40:22.26 ID:ql3fNf7A
勝頼「お、おう」

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど

2015年08月17日 16:17

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/17(月) 14:43:22.90 ID:6w/B9vgu
天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐により武田勝頼は滅び、織田信長は甲府へと入った。
そこで信長より「春先より、私から計略の書状を送ったが、それを受け取った武田家の侍大将たちは
皆礼を申しに出てくるように」との仰せ触れがあった。

甲州征伐に先立ち、この年の2月末、3月にかけて、信長父子より大量の書状が武田家重臣に
送られていたのだ。そこには、自分たちに味方すれば、或いは『甲州一国を与える』『信濃半国を与える』
『駿河を与えるだろう』などと約束されていた。これを誠と思ったため、武田勝頼の親類を始め、
重臣たちも勝頼の危機に皆引き篭もっていたのである。

そして彼らは、この触れも誠と思い信長のもとに御礼に罷り出た。しかし、
武田方の出頭人、跡部大炊は諏訪にて殺された。武田逍遥軒(信廉)は府中立石にて殺された。
小山田兵部、武田左衛門、小山田八左エ門、小菅五郎兵衛、甲府善光寺にて殺された。
一条(信龍)殿は甲府市川にて徳川家康に仰せ付けられ殺された。出頭人秋山内記は高坂にて殺された。
長坂長閑父子は一条殿御館にて殺された。

仁科(信盛)殿、小山田備中、渡部金太夫というこの3人ばかりは、高遠城において、織田城介(信忠)の
旗本に攻められ、わずか18人になるまで城を保つ天晴な討ち死にをした。
しかし小菅五郎兵衛は、元は山縣三郎兵衛の家臣で大剛の者であったのを、長篠の後勝頼によって
旗本に召し上げられ足軽大将となり、仁科信盛に付けられ高遠へと派遣されたにも関わらず、
卑怯にも織田勢が来る前に「勝頼公のお供をつかまつる!」と言って高遠を出て甲州に帰り、
そこで小山田兵部に合流して武田家への逆心を企てたが、彼も善光寺で織田勢に殺された。

高坂源五郎は沼津から、勝頼の最期の5日前に罷り帰り、勝頼に「お供つかまつる」と申し上げたが、
長坂長閑が「城を開けてやって来たというのは、どのようなつもりがあるのか解らない。
その上彼は侍20騎ばかり、雑兵百四,五十ばかりを引き連れているのも一体どうなのか…」
そう判断し、これを寄せ付けなかった。このため、高坂は井澤から直ぐに信州へと通った。
屋代(秀正)なども若いにもかかわらず、駿河をよく引き払い勝頼に合流したいと申し上げたが、
これも高坂源五郎のように寄せ付けなかった。
このようであったので、高坂源五郎は川中島で殺された。山縣源四郎も殺された。

駿河の先方衆も、勝頼公御為を一筋に信じていた者達は成敗された。

こうして、甲信駿の侍大将、家老衆はほとんどが殺された。ただし、信濃の真田、芦田、
上野の小幡、和田、内藤、その他上州衆は皆命を助け、滝川一益に寄騎として付けた。これは
信長の

『3年の内に北条氏政、氏直父子を絶やすべし。これはもし手間取った場合に、真田小幡を始め
彼らに北条家への先手をさせるためだ。』

との考えからこうしたのである。
山上道及という侍があり、彼は元来上野衆であったが、久しく牢人し諸国を武者修業していたが、
彼もこの時信長に1万貫で召しだされた。これも北条を滅ぼしその跡を滝川一益に与える為であった。

下総国佐倉の千葉介国胤は大剛強の大将であったが、この国胤への信長の書状があまりに慮外であると、
信長からの贈り物であった馬の尾を切り追い払い、使者の髪の毛を剃って追い返した。
これは武田四郎(勝頼)が運尽きて滅亡し、このため北条氏政も頭を垂れ信長の被官となった。
しかし自身は、「国胤は小身であっても、たとえ滅亡しても家の誇りを立てる!」と考え
そのようにしたのだ。

(甲陽軍鑑)

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど




新府城建設の経緯

2015年08月14日 14:24

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 20:52:56.14 ID:kjx4sVmM
天正9年7月、穴山信君は武田勝頼に異見申し上げた

「信長、家康の勢力は次第に膨張し、遠州の城東郡も、最早今年3月に家康に取られました。
そのうえ小田原の北条氏政も敵となり、今後は信長、家康、氏政の勢力が一つとなって我らを攻める以上、
諸方の敵が蜂起すること疑いありません。そのような状況では、いずれの敵に向かうことも出来ません。
越後と和平を結びましたが、謙信の時ならば、信長、家康、氏政の3人にも勝つことが出来たでしょうが、
今の景勝は若く、同盟国としては居ないも同然です。

ですので、こちらに良き城をひとつお構えになるべきです。
信玄公の御武勇は尋常成らざるものであったので、お屋敷のみを構え、甲府四郡の内に御城が
ありませんでしたが、それは信玄公の御武勇という強い戒めが在ったため可能であったのです。
ではありますが、信玄公の御内意にも、かつて北条氏康が生きていた頃、氏康が使いを回して
上杉輝虎、織田信長、徳川家康と同盟を組んだという話が聞こえてきた時、駿河の久能、
甲州郡内の岩殿、信濃の吾妻の3ヶ所の城を視察されたのは、もしものときは籠城あるべきとの
事からでした。

しかしその時は、上杉謙信が「四人が組んで信玄一人を倒しても、信玄には四人がかりであったと
末代まで言われてしまう!」と、この盟約を破ったため武田家は何事も無くすみました。
また次の年には、北条氏康も他界しました。
ですが、現在は、上杉謙信のような弓取りはどこの大将にもおりません。」

これに武田勝頼も尤もの事だと思い、同年7月より、甲州韮山に新府城の建設を始めた。
しかしこれが武田家滅亡の元となるとは、後にこそ判った事なのである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、新府城建設の経緯である。



勝頼が信長に使いを送った結果

2015年08月04日 12:05

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 22:41:05.92 ID:ea1bPGQk
天正8年、長坂長閑斎武田勝頼に申し上げた
織田信長に使いを送り、音信を行ってしかるべきと存じます。」

しかしこれに、小山田兵衛をはじめ皆反対した
「信長は殊の外威の強き大将ですから、使いを寄越すほど辱い事は無く、彼は当家を手に入れたと
考えるでしょう。ですからそれはやめたほうがいいと考えます。
それに例え使いを送ったとしても、信長が当家を滅ぼすための工夫、思案を止めることはないでしょう。」

長坂長閑斎は反論した
「信玄公の御代、我らは信長の分国である美濃岩村に攻撃したが、信長からは織田掃部、赤澤といった
者たちを甲府までさし寄越した。それを悪しきこととは誰も申さなかった。
また信玄公ご他界の後、越後の上杉輝虎(謙信)は、信長が持っていた加賀の松任を取り、越前にも
焼き討ちを行った。それでも信長は佐々という者を春日山に付け置いていた。

そのような信長のやり方と同じように、当方も行って然るべきなのです。」
この言葉に従い、武田勝頼は安土に使いを送った。

そしてその返事が届くと、その末尾には、日付からはるか一寸も下げた場所に『武田四郎殿へ』と
書かれてた。

4年前の暮れ、上杉輝虎が信長に、「有無の合戦を行おう」と決戦を要求する書状を送った時の
信長からの返答には、日付と同じ位置から少し上げたほどに輝虎の名を書いていたが、それですら
信玄公の時代とは大きく異なっていたというのに、勝頼公への返事には、殊の外下げて書かれていると
沙汰された。
早くも被官扱いの文章、その名付けにも、少しも武田家を尊重する様子はない。このような
信長・家康方の強気に、武田家の者達の恐れること大方無かった。

武辺の儀は勝るとも劣ることはない。だが、信長が軍勢を出せば、野山も埋め尽くすほどの大軍である。
長篠合戦の時の倍以上の軍勢を出してくるだろう。武田家中ではそのように予想したのだ。

(甲陽軍鑑)

勝頼が信長に使いを送った結果、という逸話である。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 09:47:02.16 ID:D6SEtJnd
天正八年◎月X日

                                                                       武田四郎殿へ
こうですね?

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 10:30:11.73 ID:6QDetX0/
何が悪い話?

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 11:06:43.56 ID:6u7F90GO
長閑斎にしてみれば対等のつもりが下に見られたって嘆きでしょ

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 13:22:23.31 ID:AmVPb3SD
窓口があればこそ勝長が帰還できたというもの

当家滅亡の物怪に

2015年07月26日 13:16

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 22:06:45.82 ID:WliaOztJ
卯の年(天正7年 (1579))春より、駿河国、富士の大宮の大杉より煙が立ち上った。これを武田勝頼は聞いて、
吉田守警斎を召し、常の間にて諸人出仕の人々が聞いている中、少しも隠すことなく、先の大杉より
煙の出たことを尋ねた。吉田は承ると、神道にある

 千早振る 我心より成る業を いずれの神がよそとみるべき

 身は社 心の神を持ちながら よそを問こそおろかなりけり

この二首を引き、「お気にさえ懸けられなければ問題はありません。」と申し上げた。

これを聞いて勝頼は言った
「少しも気にしていない。何故なら何事があろうとも、滅亡して退くと思えば心に懸かるべき物はない。
さてまた、この勝頼を押し詰めて滅亡させるべき人物は、日本国中でも大身であるから、
越後の謙信、安土の信長、安芸の毛利、小田原北条氏政、この四人の内以外にはありえない。

第一の候補は大身と言い武功と言い、長尾輝虎であるが、これは去年他界してしまった。
北条氏政は私の8最年長だが、彼の父氏康と違い、武功において恐ろしいことはない。
安芸の毛利も、今は代替わりの最中というし、その上国が隔たっている。

信長・家康は両人力を合わせ我が家を倒そうと企んでいるが、家康こそ5年前の長篠の戦いの後、
駿河に出兵しているものの、信長の方は長篠の後も、信州の内に手を出すこと少しもない。
家康の働きも、我らの旗先を見ては即時に引き上げている。これ偏に信玄公の御威光が残り
斯くの如しだ。

さりながら、信長家康に、北条氏政が内通したようであるから、ついにはこの勝頼、滅亡するであろう。
滅亡しても、信長の旗下に成るなどということは、御旗楯無もご照覧有れ!そんなことはありえない!

それに付き、当家滅亡の物怪に、富士大宮の杉より煙が立ったのであろう。」

この時勝頼は少しも愁いた表情はなく、嘲笑いながら座敷を立ち奥に入っていったと、後に勝頼の近習衆が
語った。

勝頼公はあまりに強き御屋形であると感じ、春日惣二郎、ここに書きつける。

(甲陽軍鑑)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 01:27:08.09 ID:75rkLFJE
大身といいながら家康が出てくるあたりがなんとも

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 04:50:37.16 ID:wCQo3NPd
まさに韓信の化身やな

国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

2015年07月24日 12:44

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 20:52:36.33 ID:pGcxwbcl
上杉謙信の死後、養子の景勝と景虎が争った御館の乱。
景虎への救援として、北条氏政、武田勝頼が援軍を出すと一報が入ると、景勝は
このままでは滅亡疑いないと分別し、勝頼の出頭人である長坂長閑、跡部大炊が欲を構え、万事に礼物を取り
賄賂にて事を済ますという話を聞いて、勝頼に対して手を入れ、長坂長閑・跡部大炊を頼んだ。
謙信が貯め置いた金子を取り出して、長坂、跡部に二千両づつ与え、勝頼に対しては一万両を贈り、その上で

『縁者と成る事を仰せ付けられれば、景勝は勝頼公の旗本と罷り成ります。
東上野は少しも残らず勝頼公に差し上げます。』

そう伝えてきたので、長坂・跡部は勝頼にこう申し上げた。

「信玄公が御他界される前、天下に赴く為として、支度のための金子を調達するため、後家や出家の妻にまで
税金を課しましたが、その時集まった資金は漸く7千両ばかりでした。
今、何事もない所で1万両の金子を集めることが出来れば、勝頼公のご威光は、信玄公の十双倍に増すこと
でしょう。
その上景勝は起請を提出し御旗本となり、未来永劫、ご無沙汰申し上げないと誓っています。
さらに東上野全部を手に入れられるというのは、大いなる徳分です。

景勝には、信玄公御在世の時、長島の一向宗に約束していた、お菊御寮人を、越し参らせるべきでしょう。
また、いかに小舅だからといって。景勝と対立している三郎景虎が勝つ事になれば、彼の兄である
小田原の北条氏政は大佞人であり欲の深い大名ですから、越後を取り、その後は勝頼公も退治しようと
企む事、疑いありません。」

この進言により、勝頼は景勝と和平を結び、景虎を見殺しにした。
これに武田家領内の侍達は大小に及ばず、町人、地下人、長袖の出家衆までこのことを聞くと、
『武田の御家御滅亡疑いない。義理を違え、きたなき欲を構えて金を取り、卑怯なる仕方、
何につけても一つとして良いというべきところがない。長坂長閑・跡部大炊両人ながら分別なく
礼金を取り、義理も恥も知らず、後々のことも考えず己が欲得ばかりに耽り、このように悪し意見を
申し上げたのに、それを良いと思し召し、それに同意するのは、これこそ勝頼公御滅亡の基である。」

そう、大小・上下共に沙汰したのである。

(中略)

この年の暮れ、甲府の三日市場という日市の立ち辻に二首の歌を詠んだ落書が立った

 無常やな 国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

 金故に まつきに恥は大炊助 尻をすべても跡部なりけり


(甲陽軍鑑)



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:20:06.67 ID:Ys5o13aR
甲相越の三国同盟でも織田に対抗するのは無理だから
何やっても滅亡する運命

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:41:42.38 ID:QG9/5ciG
時間は稼げたんじゃないかな。結果は同じだろうけど。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 01:03:42.58 ID:1c405sEe
同盟つーか、武田が北条の傘下に入る代わりに、織田との戦いに援軍を出してもらえれば、かなり持ちこたえるんじゃないかね。
史実武田家の上州に注力している間に徳川に攻められる、ってこともなくなるし。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 02:12:52.44 ID:4sa+4i1A
三郎景虎への援軍をみれば本気で武田を助けると思うかい?

しかし義理を違えてとかさあ
駿河に侵攻した大悪人と比べたら大したことねえよ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 07:43:43.14 ID:A4u3IXsZ
信玄公のがもっと酷いことを、というか酷いことしかやってないよねw

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 08:28:07.04 ID:Oh/+D5ws
上杉に何の義理があるというのだ

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 10:29:56.83 ID:KEIZsXxu
勝頼が三度援軍を出したのに一度も援軍出してくれなかった北条なんて当てに成らんし
そもそもだから上杉にすり寄ったんじゃね

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。

2015年07月04日 12:31

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 20:50:59.40 ID:wVydyIW8
天正4年、武田勝頼は高天神城に兵糧を入れるとして出陣し、この時家康が高天神への
抑えの城として築いた横須賀城の徳川勢と対峙した。

武田勝頼はこの時、十七手の備にて徳川家康が陣を張る山から降り川を越えてくれば決戦をしようと
待ち構えていたが、家康は先年長篠にて勝ち、次第に我が鋒先強くなるべきと、工夫し、勝って兜の緒を締め、
少しも取り合おうとしなかった。
そのため勝頼は、横須賀城を右に見て少し後ろにまわり、徒歩の者30人ばかり引き連れて、横須賀城の
偵察に出た。手を出してこない徳川勢への挑発である。

この様子を高坂弾正は見て、急ぎ後から一騎で乗り付けると勝頼に向かって申し上げた
「敵に対して少しも警戒しないのはどういうことですか!去年の勝ちの勢いに乗じて家康が
たった今でも攻めかかってきたなら、我らは去年長篠の敗北で、ただでさえおくれ心を抱いているのですから、
千に一つも我が方が勝つことはないでしょう。

その上、家康の居城浜松へは、ここから道程5,6里程度ですが、甲州へは、高天神、遠州の小山、
駿河府中、富士の大宮を経由して、五日路です。五日の路を長篠に続けて負けては、どうやって引き取ると
言うのでしょうか?一騎一人、残らないでしょう。
その事をご分別無いのは、口惜しき限りです!」

しかし勝頼はこれを聞くと

「其方の言い分は尤もである。しかし家康は、一人の覚悟で我らと合戦しようとは思わないだろう。
必ず信長を後ろ盾にして戦おうとするはずだ。
去年、長篠において我らは後れを取り、大身・小身共に、法性院殿(信玄)ご秘蔵の衆を多く
討ち死にさせてしまったのは、私の分別違いの故である。

どういう事かといえば、信長は国を多く持つ大身であるのに、合戦において木の柵を二重三重に結った。
まさか信長があれほどまで慎重に戦を行うとは考えなかった事こそ、この勝頼のし損ないであった。
しかし、敵が柵を構築したのは、例えで言えば、碁であれば寝濱(ねばま:不正な手段)を使ったような
ものである。そして我々が柵が構築されている所に攻めかかったのは、先に言う碁打ちならば、見落としという
ものである。

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。これは、我々が元より不利で、敵方が
その強みで勝ったのだとは、いささか考え難い。このように、敵方にそれほど強みがあるとは
私は考えていない。だからこそ、重ねて合戦しようとも、信長・家康の二旗が揃わねば我らと
合戦しないだろう。」

高坂弾正は愕然として言った
「なんと力を落とすご発言でしょうか。信玄公御代の侍大将で生き残ったのは私一人ですが、
その私をも殺すつもりで、そのように仰っているのですか!?
何を申しても、勝頼公の御疵は、無二に強すぎるのは大いなる疵なのです!」

この高坂の言葉に、勝頼も本陣に帰り、早々に引き取った。前線に出ていた小笠原衆、山縣衆も、
撤退時に敵が追撃することはなかった。
次の日、生け捕った徳川軍の兵に尋ねると、徳川の中でも若者たちは攻めかかっての合戦を主張したが、
内藤四郎左衛門という弓矢巧者の兵がしきりに止め、家康に意見したため、合戦が起こらなかったのだという。

(甲陽軍鑑)

長篠の合戦の敗因に関する、武田勝頼の認識が表されている一節である。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 22:59:46.34 ID:TLX/Z1sW
ひとこと脳筋

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 23:51:59.43 ID:57etRZVb
弓矢巧者の内藤四郎左衛門というと、徳川16神将の内藤正成で間違いないかな?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:22:51.74 ID:Xen6Hxvi
>>21
うむ内藤正成で合ってる

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:47:37.20 ID:H6t4ua6a
勝頼って、万を超す様な大軍の総司令官には向いてないよな。

騎兵の千や二千も与えて、
「あの辺で暴れておいで」って指示したら大活躍しそうだが。

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 02:54:27.56 ID:rV9MEbVl
弾正が小姑に見えてくる

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 07:32:39.98 ID:kd25Cj4f
弾正というと真っ先に爆弾正が思い浮かぶようになってしまった

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 09:32:30.73 ID:b1sslmBb
>>24
親父の元愛人だしな

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 14:51:47.26 ID:e+nJ1CZf
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 20:26:02.13 ID:rOGjjh0i
信玄も煩い老臣を合戦で死なせてるからね
長篠は武田家を新にさせるいい合戦

武田の御備色かはる

2015年06月13日 14:23

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/12(金) 21:59:48.96 ID:3gD86tGa
武田の御備色かはる


天正元年4月12日に信玄公は御他界されたが、3年それを隠して3年目に遺骸を言い置いたようにして、
葬儀するようにとの信玄公の御遺言であった。ではあったが、周囲では大方他界したのだろうと
推量し、小田原の北条氏政は越後の上杉謙信に、武田信玄は他界した模様であると使いを送り、
また内々に遠州浜松の徳川家康へもこの情報が氏政より伝えられた。

駿河の武田配下の内にも朝比奈駿河、岡部丹後の両人は信玄によく親しんでいたため、この死去の情報が
伝えられると内々に涙を流し、その夜は岡部次郎右衛門を始め、尽く顔の色が変わったという。

ことさら、三河の徳川との前線にあった奥平美作守(定能)の子息久八郎(信昌)は寝返った。
仔細は、この武士は占いを信じたため、武田勝頼の酉年の年筮を、前年申年極月月末に卦を立てた所、
その詞に『馬前に人去りてかりぐんと称す』と出たのを、奥平父子は聞いて、

「信玄公は巳の歳であったので、御他界の噂は大方疑いない。」
そう考えて心変わりしたのである。

これについて武田勝頼は、東美濃に同年6月、出兵あるべきと主張した。これについて馬場美濃、内藤修理、
山県三郎兵衛、高坂弾正の四人を始め各家老衆は申し上げた
「それは信玄公の御遺言のように3年目を待ち、その上敵方より当方に攻撃を仕掛けてくるのを
待つのが尤もと存じます。」

これに対し、長坂長閑、跡部大炊介は申し上げた
「御屋形様の御意と、家老衆の分別との間を取って申します。まず当年は武田家分国五ヶ国の総軍勢を
出すことは止められ、甲州一国の軍勢を2つに分けて、山形三郎兵衛を先鋒に、穴山殿、一条殿に、
逍遙軒(武田信廉)を大将分になされ、遠州に出兵することが尤もと考えます。
また三河には馬場美濃を先鋒に、小山田兵衛尉に典厩(武田信豊)を大将にお定めあって、長篠の城を
家康が攻撃しておりますから、その後詰として用いるのが尤もです。」

勝頼は長坂・跡部の意見を受け入れ、三河へは典厩、馬場美濃、小山田を出兵させた。

然しながら、信玄が他界したため、武田軍は上から下まで気力をなくしていた。
長篠城の向かい、いぬの小山に典厩が着陣した時には、長篠城を守っていた信州先方衆は、降伏して
家康に城を明け渡していた。
さらに遠州のもりという場所では、逍遙軒は慎重さの足りない人であったので、家康の家老である
本多作左衛門、本多平八郎、榊原小平太の3人に敗北し、穴山殿と一条殿の二手によってなんとか押し返した。

山県三郎兵衛は家康の構築した小屋(前線基地)を落とすために人数を遣わしていたが、逍遙軒の敗北を聞いて
急遽一騎がけにもりへ駆けつけた。しかし家康の軍勢は勝って兜の緒を締め、早々に引き取っていたため
空振りに終わり、5日には山県を始め武田勢は各々甲州に引き上げた。

信玄公御他界の故に、武田の御備の色が変わったと言われたが、その元はここであった。

(甲陽軍鑑)




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 05:17:55.45 ID:pVaSQUy0
”三年秘す”は休戦して改めて情勢を見ろ、というのが真意だったにしろ
やりたくても実行が難しかったんだろうなあ

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 10:12:18.23 ID:HgrFYgz6
斜陽の武田にどうしろと
晩年の信玄時代にすでにその兆候がwww

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 10:29:23.65 ID:jsEGIf6d
>信玄が他界したため、武田軍は上から下まで気力をなくしていた。

信玄の死って領民は知ってたんかな?
一応、隠してるはずだから、噂として広まったとかかな?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 11:29:43.83 ID:wQSKW9Ij
>>902
そりゃ勘の鋭い農民兵だっていたろうさ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 12:14:38.65 ID:A4+FWdoX
単独では信長に対抗出来ないから浅井、朝倉と連合して決戦に持ち込もうとしてたんだろ。
それなのに三年間引きこもれってどんな呪いの遺言だよ馬鹿w
織田徳川の国人への調略は捗るし、浅井、朝倉、足利は各個撃破されて滅亡するし、武田もジリジリ追い詰められて結局滅亡…

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/13(土) 14:59:26.84 ID:9siNeuPf
信長が死んだらみんな元気になった織田家がうらやましいよね

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 07:49:50.81 ID:KNGRzJLS
氏政が通報とか時系列メタメタだな

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 19:06:13.81 ID:fiBHNssi
でも信玄死んだ後、
勝頼は遠州で家康にいい勝負してたろ

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 20:38:49.49 ID:KNGRzJLS
長篠の戦いまでは武田方が優勢じゃないかな
前年には高天神を落としてるし、長篠の直前には吉田まで押しかけてる。

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/14(日) 20:38:54.32 ID:FMpj9mkM
信長もボコボコにしてたよ

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 00:36:04.72 ID:R6NaIWeM
信長は各地の一向宗に散々痛い目に遭わされて
高天神城救援どころじゃなかった

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 06:32:01.20 ID:ujlbBw6s
信長さん、間に合わなかっただけで
フツーに高天神の救援に来てますがな

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 07:57:45.97 ID:l1MJCQAk
>>911
こんな手紙を受け取った叔父さんはどんな顔したんだろうか。

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 09:06:08.22 ID:R6NaIWeM
>>912
高速移動が得意な信長さんが
間に合わなかったって言うだけで
本気で救援する気がなかったってのは解る

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 11:31:56.76 ID:GRc0GSf0
長篠みたいなの毎回やろうとしてて兵隊集めてる間に逃げられたのかもね

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 14:08:12.32 ID:spbNtHCS
長篠の戦いは鳥居強右衛門が信長さんにヘルプ出したおかげやね

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 16:53:20.29 ID:ZwfcSEVp
酒井が鳶の巣を落としたからじゃないの?

四郎殿にとって、強すぎるのは

2014年10月19日 18:57

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:59:03.23 ID:5L8VGV04
一昨年の4月28日に越後の国の上杉輝虎は小田原の北条殿に頼まれ、信州の国橋・長沼に出陣した時、
信玄公が未だ出馬する前に、伊那より四郎殿(武田勝頼)が夜駆けに駆けつけ、謙信1万5千あまりの兵に、
わずか800の備にて合戦を仕掛けた。

この時謙信は攻めてきたのが四郎殿と聞くと、涙を流しながら「無類の若者かな」と褒め、陣を返し
撤退した。

ただし、殿に下がって物見をする侍が2騎残っていたが、そこに四郎殿は乗り付け1騎を斬り落とした。
その頃我々(高坂弾正)もようやく到着し、もう一人の者も斬り落としたので、さすがの謙信の衆も
撤退の早々にこの両人を捨てて引き下がった。

我らが斬り落とした者は、元来逍遥軒殿(武田信廉)の被官で落合彦介と申す者であった。
そしてそれぞれ御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手であった。

四郎殿は、18歳の初陣から当年26歳まで9年の間に大体の合戦で、このような先陣の強き働きを
なされたのだが、ただあまりに強すぎたので、今年か来年の間には討ち死にするだろうと考えていた。

この時、阿部加賀守は
「今回の陣触れに関しては、今から20日の間に必ず三河・遠江に発向し、家康と手切れをするのだから、
このような合戦は無事に帰ってこそ後に生きるというのに、武士としては立派ではあるが、
四郎殿はひとしお危ういように思う。」
と語った。

これを山県三郎兵衛(昌景)が聞き
「四郎殿にとって、強すぎるのは一つの疵です。しかもこれは、大将としては大きな傷であり、
結局は弱いことよりも劣るのです。」
そう言って座敷を立った。

(甲陽軍鑑)

信玄存命時の、武田家家中の勝頼への評である。




559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 20:45:32.03 ID:lVg2/OKe
謙信が意気に感じて兵を引くのは好きだな
父の留守を守るためにわずかな手勢で健気に向かってくる若武者とかいかにも好きそう

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 03:07:23.14 ID:Tv8WWEMi
もはや源平の時代だよ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 08:52:48.57 ID:TjrpS9Oh
勝頼は伊達成実ポジションだったら大暴れ出来ただろうに

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:08:57.49 ID:x/pZEeRK
>>559
この二人わりと近いものがあるよな
同盟してれば仲良くなれたかもしれないのに

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:31:13.46 ID:TUmAzWEe
同盟組むには周辺の係争地が豊かすぎた

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 17:24:33.51 ID:9gmNVTqM
遺言で謙信を頼れとかなかったっけ?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:41:53.76 ID:qtXAqo3a
>>561
諏訪家にやった四男坊扱いのままだったら幸せだったかもなあ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:53:39.12 ID:sunMNw+P
>>568
しようがない
兄貴と親父がダメになっちまったんだし

越甲相(ついでに佐も)の外交戦

2013年12月20日 18:55

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 22:07:55.23 ID:7QhCaGbC
ついでにつまらない小話をひとつ。越甲相(ついでに佐も)の外交戦。

1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。

さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>





武田勝頼、膳城素肌攻め

2013年09月15日 20:47

319 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/15(日) 17:58:44.38 ID:G/PqraFV
まとめにダイジェスト版があるが。

天正8年、上野へと出兵した武田勝頼は厩橋城に入り、東毛・西毛衆に大胡、伊勢崎などの諸城を攻め落とさせ、
自らは国境の物見に向かった。
一行は人々を動揺させぬようにと鎧は着けていなかった。

その一行が敵の膳城(今の前橋市)近くを通りかかった時、城の中では伊勢崎などから逃れてきていた武者たちが酒盛り中に喧嘩しており、
城代の大胡民部左衛門が「強敵武田勝頼が近くまで軍を進めているのに、酒の上の喧嘩とは何事だ」とフラグを立てたが、喧嘩は収まらなかった。

一方で城外では、武田の一行が城の周囲を移動しているのを見かけた膳城の雑兵がこれを討とうと追いかけた。
一行は全軍取って返すとこれをけちらし、雑兵が城内に逃げようとするのを追った。
勝頼は「父信玄以来、定法としてかような不慮の城攻めは固く禁じてあるではないか、引け引け」と下知したが、味方は城に攻めかかってしまった。
武田の一行はもとより鎧も着けていなかったが、城兵も喧嘩の真っ最中だったため混戦となり、結局膳城は落ちた。

合戦後、勝頼は「素肌で一城を攻略したことは父信玄の時にも全くなく、他にもあまり例がない!これほどの武勇をもってすれば、
長篠ぐらいの戦にはもう敗れまい!我が子信勝が早く一人前になればそれを大将とし、自分は頭を剃って家老のようになり先頭に立って
敵を踏み崩そうものを!」と意気盛んとなった。

心ある人々はこれを聞き、武田軍の統率力の減退と勝頼の無謀を嘆いたという。

『勝頼記』より





320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/15(日) 20:26:55.48 ID:clX+j+S3
お前も若い頃は素肌攻めしてたろ

唯一のちょっといい知らせ

2013年07月14日 19:12

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:12:23.32 ID:b5vxQ4Qx
 武田信玄の死後、後を継いだ武田勝頼は家臣たちから常に信玄と比較され、やりづらい
思いをしたが、そんな中でも長坂釣閑・跡部勝資の両名は積極的に支持してくれたので、
勝頼は この二人を側近として重用した。
 長篠合戦から七年後、織田・徳川の連合軍が武田領への侵攻を開始した。部下の寝返りや
領内の城が次々と陥落したなど良くない知らせばかり飛び込んできたため、戦況の不利を
認めざるをえない勝頼は守りの薄い本拠地の新府城を離れ、家臣の小山田信茂の居城である
岩殿城へ移って立てこもることにしたが、前途に不安を感じた将兵たちは移動途中で
次々と脱走していった。 (続く)

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:14:52.69 ID:b5vxQ4Qx
>>688の続き
 手勢の数を大幅に減らしながらようやく笹子峠に辿り着くと迎えに来ていた小山田信茂
の兵は心を変じて勝頼の軍勢に 鉄砲を撃ちかけてきた。このせいで勝頼の兵はさらに逃げ、
わずか43人に減ってしまった。 この時、逃げた者の中に勝頼が重用していた長坂釣閑・
跡部勝資も含まれていた。
「雑人どもが逃げ散るのは仕方ないが、長坂と跡部だけは許せぬ。追いかけて討ち取れ」
 と勝頼は土屋惣蔵と安西平左衛門に命じ、2人は弓に矢をつがえて追いかけた。もう日が
暮れかかっていたが跡部は提灯を馬の鞍の前輪に結び付けていたのでよくわかった。
 土屋惣蔵の放った矢が跡部勝資の背中に命中し、射落とすことが出来たが、長坂の方は
暗闇にまぎれて逃げてしまった。土屋たち2人は跡部の首を持ち帰って勝頼に報告した。
 この報告は織田・徳川連合軍の侵攻以来、良くない知らせばかり耳にしていた勝頼に
とって唯一のちょっといい知らせであった。




690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:26:11.49 ID:b1n0iIqo
>>689
この逸話の出典は何でしょうか?
どこかで読んだような記憶があるんだけど思い出せなくて

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:34:19.15 ID:OpO7ySR5
甲陽軍鑑あたりじゃないの
長坂は勝頼と天目山で最後まで奮戦したはずだし、跡部も逃亡してないようなのに
二人まとめて逃亡したことになってる

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:36:59.79 ID:FMG1rW/R
なんでこんなに嫌われてるんだろう

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:50:01.36 ID:b1n0iIqo
甲陽軍鑑では跡部はいつの間にか逃げたことになってたし、
最近丸島先生に、信頼性が比較的高いと評価されてた甲乱記では、最後まで付いてきてたし…、
と思って調べたらわかった。この話、多分武田三代軍記だね

最後の二行が手元にある武田三代軍記とちょっとニュアンスが違う気もするけど、解釈の違いかな

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 16:09:47.10 ID:b5vxQ4Qx
>>690
688-689の話は武田三代軍記をもとにしました

天正3年5月20日付、武田勝頼書状

2012年05月17日 21:00

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 18:38:07.45 ID:138/PK//
天正3年(1575)5月20日付、武田勝頼が長篠より出した、三浦員久(かずひさ)宛の返書

『あなたの心配はありがたいが、全て我々の思い通りに行っているので安心してほしい。

長篠城に取り詰めた所、織田信長徳川家康が後詰に出張してきたので対陣したが、
敵は戦術を失敗して一段と逼迫しているように見えたので、我々は無二に敵陣に乗りかかり、
信長・家康の双方とも我々の意のままに討ち崩した。

なお、そちらも城の用心を、念を入れて行うのが重要である。』


翌21日、あの「長篠の戦い」が起こり、武田軍は壊乱する。


武田勝頼がこの書状に事実を書いたのだとしたら、勝頼は織田徳川連合軍の「戦略的撤退」に
引っかかったのではないか、と言われる書状である。





238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 19:36:57.33 ID:UJhs5+ct
相手が勝ち誇ったとき、そいつはすでに敗北している
ですね

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 20:17:47.23 ID:BYoEqjru
家康「まったくこんな見え見えの罠にかかるなんてどうかしてるよ。」
信長「おまゆうw」

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 20:38:54.08 ID:XpvLXEAZ
三方ケ原をdisってんの!?


241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 21:00:06.84 ID:dSUi5V82
龍造寺隆信「>>237なにそれワロタwww あ、有馬・島津は雑魚なんでこのまま前進で」

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/17(木) 21:07:21.35 ID:IBBc7xKa
>>238
金柑頭「俺はコケにされると根に持つタイプでな…」

武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと

2012年02月09日 21:56

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 00:23:03.96 ID:1OB5edw3
二俣城の開城(長篠以降の方)の話が読みたくてwiki検索したけどなかったorz
依田信蕃ェ

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 09:51:12.47 ID:lEX13qG0
>>821
世間は武田の攻撃は有名なのに、徳川の逆襲には冷淡
長篠後の徳川大逆襲はそれなりに面白いのに

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 12:05:43.58 ID:46z8qJoE
当面再起不能と思われてた勝頼がなんかあの軍みすぼらしくね?と笑われながらも
万の軍勢率いて徳川大逆襲をなんとか止める所まで含めて興味深い期間だな

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 12:22:52.86 ID:BSGw/QGL
>>825
kwsk

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 15:55:20.28 ID:46z8qJoE
>>826
勝頼は長篠後に若年や隠居や僧や農民でも戦える者は復帰参加して従軍しろと命令を出し
とりあえず軍を再建して遠江駿河救援戦に向かったのだが
武田軍が農民を連れてきてる、なんだかみすぼらしいと兵が噂してると
家忠日記に書かれちゃうくらいの姿だったらしい
しかしそれによって徳川反攻戦は高天神城と小山城-田中城防衛ラインで停滞し
当代記で手際のいい勝頼は侮れない将だとの評されたと。そんなかんじ

雑談・家康の勝頼評はどんな感じ?

2012年02月05日 21:51

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 20:31:14.18 ID:gTIdjLt4
家康の勝頼評はどんな感じ?

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 20:37:11.50 ID:FCwRINLX
>>986
勝頼の首を見た際に「若気故に」と評している

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 20:45:16.75 ID:RkI6YbTe
家康の勝頼評というか、天正壬午の乱の時甲斐に入った家康が真っ先に甲斐の人々に約束した事の一つが、
勝頼の菩提寺の建立なのね。
もちろん甲斐国人人心収攬のためなんだけど、勝頼の菩提を弔うことが甲斐の人の心を取ることに繋がる、
と理解したということで。家康は勝頼が、少なくとも甲斐の人々にとって大切な人であった、という
評価をしていたということなんでしょうね。

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 20:49:36.85 ID:v4AHn37T
>>988
恵林寺の再興も同時に言ってた筈だけど、
甲斐の人がどちらを喜んだのかは判らんと思うのだが。


990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 20:56:44.02 ID:RkI6YbTe
>>989
だから家康の勝頼評価として、ということ。
少なくとも家康の側は、勝頼の菩提寺建立を甲斐の人間は喜ぶと評価していた、
って事でしょ?

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 21:06:02.39 ID:gTIdjLt4
なるほど家康はちゃんと勝頼に敬意を払ったことにより甲斐を瞬時に平定したわけか
恨みを買いまくり逆さに埋められた織田の誰かさんとは違うな~

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 21:06:14.58 ID:pdzXcfYC
鳥居強右衛門が逆さ磔にされたときは、勝頼を酷評していたな

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 21:09:04.38 ID:pdzXcfYC
>>991
あの人は信濃の森さんと似たようなことをやっていたので、
当然といえば当然だろう

森さんみたいにさっさと逃げればよかったのに

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 21:10:36.03 ID:cpmQ9oYN
まあ逃げても結局家康に殺されちゃうんですけどねその森

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 21:27:52.10 ID:99UI8nFM
天正壬午の乱の時の水野さんってどういう立場だったの?
徳川家の家臣だったのそれとも
織田家における家康みたいな立場だったの?

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 21:37:32.05 ID:v4AHn37T
>>998
織田信雄の家臣または与力。
家康が織田家に応援を求めた際に、送られてきた。


1000 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 21:47:02.11 ID:vxNRsRxp
>>998
縁の深い独立大名家の嫡男という扱い

北条夫人の最期

2012年01月14日 21:58

429 名前:421[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 01:37:52.74 ID:AoiLY2l1
日が変わっちゃったけど、今長いの投下してもいい?

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 01:50:55.78 ID:1VYIgHo2
>>429どうぞどうぞ



433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 02:03:40.78 ID:AoiLY2l1
では、お言葉に甘えて、

北条夫人の最期(上)


北条氏康の6女とされる北条夫人は、長篠の戦いに敗れ劣勢に陥った武田家が、
外交関係を立て直すため北条氏との同盟を回復したのに伴い、天正5年に正室として武田勝頼に嫁いだ。
このとき勝頼31歳、北条夫人14歳。親子ほど年が離れた夫婦であるが、その仲は睦まじかったといわれる。
しかし、御館の乱における武田家首脳部による外交判断のミスにより、
北条夫人の実兄上杉景虎は上杉景勝に敗北し自害、北条家と武田家の同盟関係も破綻してしまった。
大名間の同盟に伴って相手国に嫁いだ姫は、
その同盟関係が破綻すると離縁して実家に戻るのが当時一般的であったが、
北条夫人は自らの意思で武田家に残ったといわれる。

そんな仲睦まじい勝頼夫妻にも最期の時が訪れる。
天正10年、織田信長の侵攻により、武田家の統治体制は瓦解、
本拠地韮崎の新府城を脱出し郡内岩殿城へ向かった勝頼主従は、
小山田信茂の裏切りに合い進退窮し、天目山の麓田野で自害することに決した。

勝頼は、ここまで付いてきた北条夫人に、安西伊賀守らを使いに出してこう伝言させた。
「武田家一門の命運は今日を限りとなりました。あなたは女性なのだから自害する必要はない。
 幸いここから小田原へは道も険しくないので、どんなことをしてもあなたを無事にご実家へ送り届けます。」
北条夫人はこれを聞いて、
「なんと嘆かわしいことをおっしゃるのでしょうか。前世の縁が浅くないからこそ、夫婦の契りは深いものなのです。
 たった一夜であっても、お互いのために命を捨てられるのが夫婦の仲なのに、
 私たちは契りを結んで今年で7年にもなります。
 たとえ小田原に落ち延びたとしても、あなたが末の露と消えてしまうのに、
 私だけが残っても何の意味もありません。
 元より夫婦は二世の契りと申します。ここで共に自害して、死出の山も三途の川も手に手を取って渡り、
 来世でも共にありたいと願うのが私の本心です。」
とおっしゃって、全く小田原へ落ち延びようとなさらない。
更に女官に向けて
「長い歳月、一人の子も出来なかったことを悲しんでおりました。
 神や仏に、子が出来ますようにと祈っておりましたが、今となっては、子がいなくて良かったと思っています。
 幼い子がいれば、大層思い悩むことになったでしょうから。」
と穏やかにおっしゃる様を見て、哀れに思わない者はいなかった。

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 02:05:58.87 ID:AoiLY2l1
北条夫人の最期(中)


この時点で、北条夫人の供の者もあらかた逃げ失せており、
早野内匠助、劔持丹波守ら4名が残るばかりであった。
北条夫人は彼らを呼び寄せこうおっしゃった。
「皆が散り散りになるなか、貴方たちがここまで御供してくれたこと大変嬉しく思っております。
 ただ、後の弔いのため、何とかして手紙を小田原に届けたいのです。
 もし手紙を届けてくれれば、貴方達が最後まで御供してくれるよりどれほど嬉しいことでしょうか。」
しかし、早野らも
「妻子を捨て、ここまで御供したのは、姫の最期を見届けるためです。
 ここから小田原へ帰るなど断じて出来ません。」
と首肯しない。
これに対して北条夫人は、
「あなたたちを小田原へ返すのに格別の理由はありません。
 私は女ですので、私がどのような場所でどのように死んだかと、小田原の者達は気にするでしょうから、
 最後の様子をお知らせしておきたいのです。
 それと、北条家は代々武門の家ですので、女ながらも、見苦しい最後ではなかったと、皆へよく伝えてください。」
とおっしゃって、手紙をしたためて、髪を少し切り、手紙に添えて渡そうとなさったので、
早野らは力及ばず受け取るしかなかった。

そうこうしているうちに、勝頼より、北条夫人の御座所は鉄砲の射程距離に入っているので、
少し引いて岩陰に隠れてくださいと使いがあった。
しかし、北条夫人は
「身を惜しみ、命を惜しむときであれば、矢鉄砲から避けもしましょうが、
 一時も早く消えばや、と思っている身の私が、岩陰に隠れてどうするのです。」
とおっしゃって引こうとしなかった。
この思い切った様子に、女性にも関わらず誠に強健なお心をお持ちの方だと、
兵たちは一層勇気づけられ、最後の進軍をしたという。

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 02:11:45.14 ID:AoiLY2l1
北条夫人の最期(下)


やがて、北条夫人は、正面で戦闘が始まったと聞くと、西に向かい念仏を高らかに唱え、
「勝頼様はどこにいらっしゃいますか。私は先に自害いたします。
 お急ぎください。お待ち申し上げております。」
というお声を最後の言葉にして、脇差を胸元に突き立て、
声も立てずに衣で顔隠して御倒れになった。

そのころ勝頼は、4、5人の敵と渡り合って戦っていたが、
秋山紀伊守より北条夫人が自害したと聞き、北条夫人の元へ引き返した。
勝頼は北条夫人の枕元へ立ち寄ると、衣を除けて顔をご覧になった。
北条夫人の雪のような肌は血に染まり、化粧も消えかけ、朝顔がしおれたような風情になっていた。
剛健で知られた勇将の勝頼も、悲しみのあまり北条夫人の顔を二目と見ることが出来ず、
涙に暮れ心乱れたのも無理がないことであったろう。
ややあって、涙を押さえて、北条夫人のお顔をかき抱くようにして自身の膝に乗せ、
北条夫人がまるで生きているかのようにこう語りかけた。
「不意にこの大乱が起きて、
 そうであってもなんとか反撃しようと思っていたが、結局立て直すことができなかったよ。
 それだけでも情けない思いをしていたのだが、
 最後にこのように涙に沈み切ってしまうほどの悲しみを味わうとは。
 暫く待っていてくれ。死出の三途の川を、手を取って共に渡ろうぞ。」
勝頼は北条夫人に突き立てられた柄まで赤く染まった脇差を抜き取ると、
その脇差で自身の腹を十文字にかき破り、
はらわたを掴んで四方へ投げ捨て、北条夫人と同じ枕に倒れ伏し絶命した。

なお、小田原への手紙を託された4名のうち、劔持丹波守は、一人も北条夫人のお供をしなければ、
あまりに聞こえが悪いとして、小田原へ帰らず田野で討死したとも伝わる。
小田原に遺髪と共に届けられた北条夫人の手紙には、以下の辞世の句が詠まれていた。

黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思に消ゆる 露の玉の緒

乱世に消えた彼女の「思」とは、勝頼への想いであったのだろうか。




以上、「甲乱記」より抜粋、雰囲気訳で。
北条夫人の最期は、理慶尼記に記載されたものもなかなか趣深いのだけれど、
仏教色が強すぎて、さらっと訳すと趣きがなくなるので、こちらを紹介しました。
長文失礼いたしました。




436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 02:23:17.28 ID:rx8PcQ52
乙です
泣いた
残念だったがなんと立派な最期なんだろうか
この夫婦の人柄が垣間見える話だなぁ

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 03:39:29.53 ID:qnI6JcJv
ああ・・・なぜふるさとへ帰らなかったんだ。若いみそらで・・・

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 04:12:40.26 ID:3aoZ5wqk
しぶとくしたたかに生き抜くのも女の道。
これと思った男の側で死ぬのもまた、女の花道よ。

しかし、四郎さんも年の差夫妻だったとは知らんかった

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 07:39:15.36 ID:COCtoorz
忠興「イイハナシダナー」

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 09:15:24.64 ID:oZElkRTa


※前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1316767827/鬼の女房に何を期待しているのやら


441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 14:02:35.26 ID:WP5ixwv9
北条夫人の遺骸は辱められたりすることなく北条氏に届けらえたのだろうか
勝頼らは首を信長に送られてるんだが北条夫人の遺体がどうなったかについてどこでも読んだ記憶がないんだが・・・
氏康が生きてたら怒るだろうなと思ったけどそもそも結婚させないか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 14:58:04.11 ID:rWOLSkhk
八王子にいる氏照は、姫が落ち延びてきた知らせを聞いて、
妹かと思ったら松姫でがっかりしたという話があったような。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 15:15:36.59 ID:I+iO/EFY
北条家の娘というか、嫁に嫁いだ人も含めて
凄く凛としたイメージがある
幻庵さんの教えにもある通り、一族の女性として徹底されてるんだろうな

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 15:24:34.91 ID:4LFd4BvB
今川氏真の嫁になった早川殿(北条氏康娘)は間違いなく傑物

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 17:21:28.65 ID:AoiLY2l1
>>441
武田勝頼と天目山で殉死したその家臣らの菩提を弔うために建立された景徳院には、
勝頼夫妻の御墓とは別に没頭地蔵尊という史跡があって、
そこに首を失った勝頼、信勝のご遺体と北条夫人のご遺体が葬られているといわれているから、
北条夫人のご遺体は現地で葬られたとみてよいのではなかろうか。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 18:09:29.39 ID:Txb+Pfqc
北条嫁を置いて逃げ出す氏真
北条嫁道連れの勝頼

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/14(土) 21:55:12.25 ID:jMjEl+zA
なんで小山田のほうに行ったんだろうな行っても北条は敵だし
嫁の実家があるから返そうとしてずるずるそっちにつられたのか
信濃育ちの勝頼なら信濃方面に逃げたそうだが武田の当主としては甲斐は捨てられなかったか
景勝とか真田を巻き添えにしたくなかったか 嫁はどうせ景勝とか嫌ってそうだしな

雑談・勝頼に頼りになる叔父が…

2011年03月22日 00:00

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 17:09:29.66 ID:x1eyZms2
勝頼の場合は老臣達が本心から従ってくれない上に事あるごとに父親と比べられちゃうから実戦で結果残すしかない
輝みたいに頼りになる叔父が生き残ってたら良かったんだけどね

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 18:56:25.87 ID:iAN9WHGY
>>436
たしかに
信繁(戦死)、信是(早世)、信実(戦死)ときて、
生き残ってるの文化系とカブキ者しかいないもんな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 19:03:02.38 ID:eqlxF85P
信繁生きてたら違ってたかもね
言っても詮ないことだけど

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 19:32:53.43 ID:k4fYL9YC
信豊は・・・駄目か
家臣に裏切られるんだものな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 19:44:25.32 ID:C2fcDgf5
穴山信君が伊賀越えで生き延びてたら、歴史は・・・あんまり変わらないか。

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 19:57:14.17 ID:JbIu/tq1
信繁が生きていたら、勝頼よりも穴山信君よりもふさわしいと危険な存在になったかもしれんな

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 20:20:05.98 ID:MA2qlh5P
信繁さんが生きてたら武田家存続もあったかも
そんな気がしてしまう

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 20:28:17.85 ID:FiDCeB1I
室鳩巣「だから私が信玄は信繁に家督を継がせろと(150年後くらいに)言ったのだ!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4898.html

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 20:32:42.36 ID:RDeMMYHQ
442
天球さんの性格的にそれはないんじゃね?

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 20:37:17.01 ID:piyfrYi4
>>438
信実「存在感なくてすみませんね」

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 20:39:45.82 ID:k4fYL9YC
五郎君じゃ四郎君の助けにはならんかったのかな?

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 20:42:47.15 ID:Gz9sJK3s
>>441
武田信吉と保科正之の人生が変わってたかもな。正之は、信玄の娘に保護されて、武田の継承者にも目論まれてたという話もあるし

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 20:45:15.16 ID:JbIu/tq1
>>447
年齢的に無理でしょう

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 23:52:24.20 ID:5KcQmPYs
後典厩のふがいなさはガチ

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 00:21:30.74 ID:QiwQxwrY
北条と徳川に挟撃されたとき
5万(信長公記)の北条軍を10分の1の兵で押さえた後典厩をふがいないとな?

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 00:24:18.33 ID:vylA11jo
北条が弱すぎるだけ

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 00:35:57.21 ID:KFKqow82
信豊って全然人物像みたいなもの伝わってないよな

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 09:56:47.66 ID:A9P++xDh
>>453
どこか(滝山城?)で勝頼と一緒に怒られたって話なかったっけ?

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 18:39:54.31 ID:Zmq0WPZA
>>455
駿河攻めの蒲原城かなんかで勝頼&信豊が大将にもかかわらず矢玉が降り注ぐ中
真っ先に城に飛びついていって困ったよ…^^;って真田幸隆宛の書状があったような
素肌攻めといい二人とも力攻め大好きっ子で気が合ったのじゃなかろうか

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 19:32:21.70 ID:7iKaAAWh
>>457
山県(内藤だったかも?)は慌てて援軍を差し向けることになり、信玄は怒り呆れ心配したというアレか。

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/22(火) 12:26:08.52 ID:+zQ8+Ds8
>>458
呆れたとみせてうちの息子すげー勇猛だぜと自慢する親バカ丸出しなry

天正10年(1582)3月3日、武田勝頼の後悔

2010年05月02日 00:00

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 17:11:19 ID:lC20mPYg
天正10年(1582)3月3日、織田、徳川による甲州攻めが進行しているさなか。
武田勝頼は一条右衛門太夫屋敷において、高遠城落城、仁科盛信、小山田昌成たちの討死の報を聞いた。
この時勝頼は土屋惣蔵、安倍加賀守に向かって

「返す返すも残念なことが有る。正月のはじめのことだ、信長の重臣である明智光秀が藤田伝五郎と言う者を
使いによこし、

『自分は信長を殺すつもりだ。その時は直ぐに準備を整え都に向かって軍勢を発してもらいたい。
もし徳川家康があなたの上洛を妨げる、もしくは我ら明智を討とうとするようなら、武田勢と明智勢で
前後より挟み撃ちにしてこれを滅ぼしましょう。柴田勝家や羽柴秀吉は織田家の勇将ですが、武田勝頼が
我らに味方するとあれば、その武威をおそれ簡単に攻めてくるとは思えません。
その上秀吉に関しては中国の毛利に押さえを頼み、勝家に関しては上杉景勝に押さえを任せます。
これ故孤立した家康は、我々の手で即時に滅ぼすことが出来ます。』

そう言ってきた。わしはこれを長坂や跡部に相談してみたが、彼らは、これは謀であると判断し
使者に取り合わないことに決めた。それでも藤田伝五郎は数日間この一条邸に逗留し、この事を
何度も言上しようとしたが、終にわしはこれを取り上げなかった。
もしあれを取り上げておけばどうなったか…

しかしこれも全て運の末というものだろう。今このようになってしまった事について、ここに至る過去のこと
千悔しても足らない。」

そう嘆いたという。

まあ事実かどうかはともかく、このような、光秀が武田勝頼と連携を取ろうとしたと言う話も伝わっていたらしい、と言うお話。




504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 21:03:19 ID:fE6reytS
明智のみっちゃんはだから好きさ
信玄公のマブダチ快川紹喜の親戚だともいうしな

505 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/02(日) 06:29:23 ID:w2rZi5XS
かごめかごめとの関連性を指摘されているとか>光秀

僧、洗岸、勝頼からの賜刀を見て

2010年04月28日 00:00

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 04:44:59 ID:EEKCZLGB
武田信玄が死去し、武田軍が甲斐に帰国した頃のことだそうだ。

甲州の侍に、塩崎千次郎と言う者があった。この塩崎は年来、洗岸という僧を尊敬し帰依していた。
この洗岸は元々山法師だったそうだが、数年前甲斐に来て草庵を結んでいた。
天台、真言の二教を学んだ、博識の沙門だったという。

さて、その洗岸がある時、塩崎の家に来て言った

「愚僧、諸縁がありまして、近々奥州に下ることになりました。
住所も定めの無いような拙僧のことです、奥州で朽ち果てると言うことも有るでしょう。
今生の別れになるかとも思い、こうして暇乞いに参りました。」

塩崎はそれを聞くと

「なんと、私は貴方に言い残していることが沢山あります。であれば今夜は我が家に
泊まっていき、語り明かしましょう。」

そうして終夜饗応し様々な物語をした。
この時塩崎、ふと

「私はこの武田家に仕えて数年になりますが、身命をとして戦忠をなしたおかげでしょう、
お屋形様である勝頼様にも覚えめでたく、昨日など、お小姓の跡部殿を通じて吉光の刀を
賜りました。誠に生前の面目、子孫までの名誉、何事がこれに勝りましょうか?」

そう言うと、その刀を取り出して洗岸に見せた。
洗岸、「それはそれは、あなたに取って実に素晴らしいことですな。」と、その刀を手にとり
鞘を外してじっと刀身を見た、そして

「…わたくしとあなたは、何事であっても隠さず言い合う仲です。であれば、今ここに気付いたことを
心中に隠すべきではないでしょう。どうか、疑わずに聞いて下さい。

惜しいかな、武田殿の御家、滅亡が近くにあります。
今の御屋形様、四郎勝頼殿のお命も、幾程も無いでしょう。

愚僧は若年の頃から、刀剣の相を見る修行をし、深くこれを修め、そこから色々なことを知ることが
出来るようになりました。

勘違いしてはいけません。勝頼殿の行いが無道だから武田家が滅びる、と言うことではないのです。
武田家が十九代を迎えて滅亡する、これは天道によって決められたことなのです。
神仏であってもこれを救うことはできません。
これは驚くようなことではなく、生あるものは滅し盛んなる者は衰える、満つるを欠くは天道の常なのです。」

そう言った洗岸は翌日、暇を乞い塩崎の家を出て行った。
かの剣は箱に入れていたのだが、それから30日ほどたった頃取り出してみると、不思議なことに
その中ほどから折れていた、とのことだ。

塩崎はこの事誰にも語らずにいたが、長篠で武田が大敗した後、真田昌幸に語ったのだと言う。
ある僧が剣を見て予言した武田家の滅亡、と言うお話。




430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 10:18:11 ID:QvO3nFu1
真田昌幸「兄貴たちが死んだ後でそんな事言われても……」

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 10:42:29 ID:alq0vi8b
その兄貴が勇猛に戦ったおかげで真田の家を継げたわけで

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 12:30:09 ID:A5ZC9yY6
塩崎「あと、あなたのご長男の縁談ついてついでに聞いたみたら刀が砕けました」

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 12:31:56 ID:Wb6hizZP
占うなら筮竹とかもっと安いもんでやってくれw

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 13:58:20 ID:nsC6gCO3
江戸時代くらいまで剣相占いって結構あったのよ