成田顕泰の廻国譚?

2010年04月18日 00:07

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 14:30:02 ID:7ogvEy0q
武州国成田郷の成田氏中興の名君とされる成田顕泰。
彼は嫡男親泰に家督を譲った後、文明十五年七月に武蔵を後にして京都に向かった。

「ワシは乱世の習いとは言え今まで人を殺しすぎた。隠居したからには諸国の神社
仏閣を巡り、罪を償い、子孫繁栄を願うのみだ」

しかし京都は応仁の乱以降、政情不安定となっていた為、信州の善光寺を詣でた後、
奥羽に向かうコトにした。
日本海側を北上し、出羽、鳥海の山々を巡り、太平洋側を松島、鹿島と南下する顕
泰。
翌年文明十六年初頭には安房に到達していた。

しかしココで旅の疲れから病に倒れた顕泰。
話を聞きつけた安房の領主、里見義豊も名医を連れて見舞いに訪れてくれたのだが、
そのかいもなく、六十二歳で死去。
顕泰の旅に付き従っていた正木源五入道と田久兵部入道の二人が主君の遺骨を成田
に届けたと言う。


以上、成田顕泰の廻国譚。
この後、

「ウソくせぇ」
「文明十六年に六十二歳って何? 顕泰はまだ二十歳そこそこのハズ」
「そーゆーのは検証スレで(ry」

と続くワケだが、近年の研究によると『成田記』顕泰前後の記録はどーやら一世代
ずれているらしく、この記録は顕泰の父、資員の事らしいのだ。

この資員、元は山内上杉家に従っていたが、古河公方家に寝返り、岩槻城を築城。
この頃は岩槻氏を名乗っていた武将である。
長尾景春の乱の際、景春に応じて挙兵したものの敗北。惣社長尾氏から顕泰が養子
として岩槻家(成田家)を相続&山内上杉家に帰参するコトになった。

他家からの養子を受け入れ、隠居するハメになった資員。
領地を放逐されたか、自ら落ち延びたか、再起を図って安房里見氏を頼ったという
のはありそうな話だと思う。

そう考えてみれば意外に現実味のある「成田顕泰の廻国譚」改め「岩槻資員の廻国譚」でした。




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