291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/21(水) 21:31:38 ID:1YyCd9U3
遠江の掛川領主で、徳川家康の異父弟である松平隠岐守定勝の嫡男に、松平定吉と言う人がいた。
幼い頃から武芸に励み、伯父である家康から「後々には関東の旗頭ともなるべし。」と
大変可愛がられていたと言う。
慶長8年(1603年)の事。家康上洛の行列が掛川までやって来た。
定勝はこの時19歳の定吉に、行列が遠江を抜けるまでのけ警護を命じた。
そして荒居の渡しに差し掛かり、ここより船を連ねての海路となる。
定吉も家康の船に同船したがこの時、空の彼方に一羽の鷺が飛んでいるのが見えた。
家康も共の者たちも何気なしにそれを眺めていたが、定吉は近くにあった弓を取ると
矢をつがえて遥かかなたの鷺を狙い、見事射抜いた!
これには船に乗った人々拍手喝采で彼を讃えた。
いい気分になった定吉がそのまま家康の御前に出る。
ところが家康、
「定吉、詰まらぬ殺生をするな。飛ぶ鳥も景色のうちではないか。
それに弓矢をとって、万一射損じたらどうするのか?そちは笑いものになるだけだ。
いくら腕に覚えがあると言っても、いたずらにそれを誇るものではないぞ。」
そう、叱った。
定吉は掛川城に戻ると、恥ずかしさのあまりその夜、切腹して果てた。
突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、さらに定吉の後を追って、彼の家来
20数人も殉死した。
父の松平定勝は、定吉とその殉死者を、家康に内密で城外の下俣に葬った。
後、ここに五輪塔が建てられ、いつしか「遠江塚」と呼ばれるようになり、
定吉が武勇に優れた若武者だったことから、それにあやかり自分の子が強く育つようにと、
弓矢、刀、鎧を供えこの塚に願をかける人々が絶えなかった、とのことである。
若気のいたりと言うべきだろうか。「遠江塚」の故事である。
遠江の掛川領主で、徳川家康の異父弟である松平隠岐守定勝の嫡男に、松平定吉と言う人がいた。
幼い頃から武芸に励み、伯父である家康から「後々には関東の旗頭ともなるべし。」と
大変可愛がられていたと言う。
慶長8年(1603年)の事。家康上洛の行列が掛川までやって来た。
定勝はこの時19歳の定吉に、行列が遠江を抜けるまでのけ警護を命じた。
そして荒居の渡しに差し掛かり、ここより船を連ねての海路となる。
定吉も家康の船に同船したがこの時、空の彼方に一羽の鷺が飛んでいるのが見えた。
家康も共の者たちも何気なしにそれを眺めていたが、定吉は近くにあった弓を取ると
矢をつがえて遥かかなたの鷺を狙い、見事射抜いた!
これには船に乗った人々拍手喝采で彼を讃えた。
いい気分になった定吉がそのまま家康の御前に出る。
ところが家康、
「定吉、詰まらぬ殺生をするな。飛ぶ鳥も景色のうちではないか。
それに弓矢をとって、万一射損じたらどうするのか?そちは笑いものになるだけだ。
いくら腕に覚えがあると言っても、いたずらにそれを誇るものではないぞ。」
そう、叱った。
定吉は掛川城に戻ると、恥ずかしさのあまりその夜、切腹して果てた。
突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、さらに定吉の後を追って、彼の家来
20数人も殉死した。
父の松平定勝は、定吉とその殉死者を、家康に内密で城外の下俣に葬った。
後、ここに五輪塔が建てられ、いつしか「遠江塚」と呼ばれるようになり、
定吉が武勇に優れた若武者だったことから、それにあやかり自分の子が強く育つようにと、
弓矢、刀、鎧を供えこの塚に願をかける人々が絶えなかった、とのことである。
若気のいたりと言うべきだろうか。「遠江塚」の故事である。
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