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遠江塚

2010年04月22日 00:01

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/21(水) 21:31:38 ID:1YyCd9U3
遠江の掛川領主で、徳川家康の異父弟である松平隠岐守定勝の嫡男に、松平定吉と言う人がいた。
幼い頃から武芸に励み、伯父である家康から「後々には関東の旗頭ともなるべし。」と
大変可愛がられていたと言う。

慶長8年(1603年)の事。家康上洛の行列が掛川までやって来た。
定勝はこの時19歳の定吉に、行列が遠江を抜けるまでのけ警護を命じた。
そして荒居の渡しに差し掛かり、ここより船を連ねての海路となる。

定吉も家康の船に同船したがこの時、空の彼方に一羽の鷺が飛んでいるのが見えた。
家康も共の者たちも何気なしにそれを眺めていたが、定吉は近くにあった弓を取ると
矢をつがえて遥かかなたの鷺を狙い、見事射抜いた!

これには船に乗った人々拍手喝采で彼を讃えた。
いい気分になった定吉がそのまま家康の御前に出る。
ところが家康、

「定吉、詰まらぬ殺生をするな。飛ぶ鳥も景色のうちではないか。
それに弓矢をとって、万一射損じたらどうするのか?そちは笑いものになるだけだ。
いくら腕に覚えがあると言っても、いたずらにそれを誇るものではないぞ。」

そう、叱った。

定吉は掛川城に戻ると、恥ずかしさのあまりその夜、切腹して果てた。
突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、さらに定吉の後を追って、彼の家来
20数人も殉死した。

父の松平定勝は、定吉とその殉死者を、家康に内密で城外の下俣に葬った。
後、ここに五輪塔が建てられ、いつしか「遠江塚」と呼ばれるようになり、
定吉が武勇に優れた若武者だったことから、それにあやかり自分の子が強く育つようにと、
弓矢、刀、鎧を供えこの塚に願をかける人々が絶えなかった、とのことである。


若気のいたりと言うべきだろうか。「遠江塚」の故事である。




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