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この祖父と孫の別れ

2019年11月02日 17:39

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/02(土) 16:41:10.69 ID:1ELZmBiB
天正十八年、豊臣秀吉による小田原征伐により、北条方の伊豆国山中城にも上方勢がの大軍が押し寄せて
来ること確実と成った。

山中城には。間宮豊前守(康俊)が、嫡子式部少輔の子、すなわち孫の彦次郎、当時十五歳と共に在ったが、
豊前守はこの孫に

「お前はこれより、急ぎ小田原の城中に行って氏直様の先途を見届けてくるのだ。その上で家運があったの
ならば、永く生き残り父祖の名を絶やさぬように継いでほしい。」

このように言いつけた。これに彦次郎は強く反発した
「なにゆえそのような事を言われるのですか!もし私が他の所に居ても、ここに駆けつけるべき時なのに、
そうして小田原へ帰れと言われるのですか!?」

豊前守は孫に言葉にいたく感じ入った、しかしそれを押して答えた
「お前は私の気持ちがわからないのか。これが弓矢を捨てて法師に成れとでも言うのであれば私の
過ちであり、お前の恥辱にも成るだろう。しかし今度の一戦は、重き義のために城を枕に討ち死にをするのだ。

しかしながらお前は未だ幼少により、生き残ってなお主君の大事を見届けよと言っているのであり、これは
少しも悪いことではない。むしろここに留まることこそ主君への不忠であり、父祖への不孝である。
それは我等の立場に違うことであり、それでもなお行かぬというのであればお前を勘当する。
勝手にするが良い。」

そう苦々しく言い捨てた。彦次郎は暫く黙っていたが、ついに頷き、はらはらと涙を流しながら
「承知いたしました。」と両手をついた。

豊前守は大いに喜び、この上はと、譜代の郎党である熊坂六郎兵衛という者の子で十六歳になる者を
呼んで彦次郎に付け、小田原へと送り出した。

豊前守は今やもう思い残すことはないと、岱崎の出丸を受け持ち、子の式部少輔および一族ことごとく
決死の防戦についた。この祖父と孫の別れに感じ入らぬ者は無かった。

(関八州古戦録)

間宮豊前守の勢は山中城の戦いにおいて、豊臣方の一柳直末を打ち取るなど激しく戦い、最期は
「白髪首を敵に供するのは恥」と、これを墨汁で染めて敵陣へ突撃し、討死したという。
なお、後世の探検家・間宮林蔵はこの間宮氏の末裔とされる。



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/02(土) 17:10:50.48 ID:OMIAN1jp
斎藤実盛「さすが坂東武士」
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山中城副将・間宮豊前守康俊

2010年04月23日 00:03

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/21(水) 22:10:34 ID:n1ikz504
以下蛇足

山中城の副将・間宮豊前守康俊は、「上方勢来る」の報に、孫の彦次郎十五歳を呼び寄せた。

「彦次郎、これからお前は急ぎ家人を連れ小田原へ行き、氏直様たちの行く末を見届けよ。
運があったならば生き延びて、わが名跡を永く伝えよ。」
彦次郎は、納得しない。
「なにゆえ、その様な事を…遠くにあっても家族のもとに駆けつけるのが本当でありましょう。
父上やお爺様を見捨て、どうして『間宮』の名字を名乗れましょう!?」

「この不孝者め!弓矢を捨て坊主にでもなれ、というなら、わしの過ちであり、お前の恥辱であろうが、
城を枕に討ち死にする我らに代わり、ご主君の大事を見届け、忠義を果たせ、というのだ。
それでも分からぬなら、不忠であり、不孝である。勘当するゆえ、どこへなりと消え失せよ!!」
「…分かり、ました………」

うつむき、手をつき、涙を流して彦次郎が了承すると、康俊は笑って孫一行を送り出した。

山中城が落ちて康俊が討ち死にしても、小田原城が落ちて北条宗家が滅んでも
彦次郎一党は必死に生き延び、後の世に『間宮』の家名を残した。
その子孫の一人の名を、林蔵という。




297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/22(木) 14:31:48 ID:jbEZIzwI
>>293
これはむしろいい話w