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武田信玄公は、軍法を新しくなされた事について

2023年03月22日 19:32

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 22:17:10.16 ID:x6CQOMpB
甲州において、武田法性院大僧正信玄公は、軍法を新しくなされた事について、このような古歌を索かれ説明された

・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし   聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ  達磨大師

『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。

凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。

件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。

さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』

と宣われたのである。

甲陽軍鑑

信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。



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武田信玄公の人を召し使い方は

2023年02月15日 19:06

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/14(火) 20:42:38.59 ID:UZkk1VwY
ある時、馬場美濃守(信春)がこのように申した。

武田信玄公の人を召し使い方は、何とも私の分別に及ばない。どういう事かと言えば、
例えば職(裁判官)を用いての公事(裁判)沙汰などの裁きようは、物を読み物を知って、いかにも慈悲
やわらかなる人の技であると思えるのだが、或る年には原美濃守(虎胤)という大剛強のあら(荒)人に
職を仰せ付けられた。こういった事が不思議だと申したのは私ばかりではなく、各々が取り沙汰したのだが、
結果としてこの原美濃守の抜擢は、なんとも良き仕置であった。

そうではあったが、この原美濃守が公事にかかりきりになると、諸々の境目(国境)における武士道の御用が
困難になるとして奉行を上げられたが、その後しばらく、二,三ヵ月も後任の職が定まらなかった事、
また原美濃守殿ほど公事に理屈、批判を用いる裁判官は無いと言われたことは、信玄公の御工夫が
浅くなかったからこそである。

そのようであったからこそ、信玄公が何処へ御馬を向けられ、しかも敵国深くでの働きが有る時も、
諸々の武士、大小共に侍衆の事は申すに及ばず、誠に雑人まで「定めてこれは勝つだろう」と思い、
少しも撤退すべきなどとは考えなかった。これは信玄公の智略賢くまします故である。」

甲陽軍鑑



669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/15(水) 17:10:30.83 ID:7xbgD4U9
その割に政治力低いのな

朝に志し、夕べに思うほどに

2023年02月11日 14:54

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 11:59:15.16 ID:Jx7Icl4Q
ある時武田信玄公はこのように言われた

「世の中の人は色々である。既に分別が有っても才覚のない人が有り、才覚が有っても慈悲のない人が居る。
慈悲が有っても人を見知らぬ者もある。

人を見知らぬ者は大身の場合、彼をとりまいている者共はその十人の内八人ほどに、役に立たない者が多い。
小身の場合、彼が親しく付き合う朋輩の、悪しき友人に近づく。
このように、人は色々様々に変わって見えるが、要はただ、分別の至らぬ心のゆえである。

分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても能く
行うものだ。そのように、人間は「分別」の二文字を諸色の元であると認識し、朝に志し、夕べに思うほどに
分別をよくせよ。」

そのように信玄公は仰っしゃられたのである。

甲陽軍鑑



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 12:21:33.73 ID:x/H7JQan
甲陽軍鑑の武田褒めは空々しくて寒々しい

これはみな虚言である

2023年02月08日 19:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 20:59:36.20 ID:uH6/DNEA
天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。

新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。

その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。

甲陽軍鑑

野田城の戦いについて



信玄公、人の御使いなされよう

2023年02月03日 18:50

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 18:42:25.15 ID:G38mHENW
信玄公、人の御使いなされよう

信玄公は第一に、後ろ暗さが無いようにとされた。諸人が後ろ暗くなるのは、御恩を下す際、
上中下の詮索もなく、忠節、忠功の走り廻りも無い人々に所領を下すような事をすれば、
手柄のない人々は必ず軽薄を以て、功を繕って立身する故に、実際に忠節、忠功を成した人を嫉み、
悪口して逆に己の党の者を褒める。そういった者たちの奥意は主君への御為も思わず、
意地を貪って、へつらいまわる心である。故に、後ろ暗くなるのである。

信玄公は忠節、武功の武士には大身、小身によらす、尊卑にもよらず、その身の手柄次第に感状、また
御恩も下された。故に人が贔屓を執り成す事も、少しも叶わなかった。そのため、諸人の後ろ暗い事も
少なくなったのである。

甲陽軍鑑



遠州御発向の御備定は

2023年01月24日 19:00

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 16:37:30.54 ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

甲陽軍鑑

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。



御助けなされ忝なし

2023年01月18日 19:34

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/17(火) 22:04:46.04 ID:jYCDJFyo
元亀元年霜月下旬に、諸角助七郎と原甚四郎(盛胤)とが、御城(躑躅ヶ崎館)において喧嘩を仕り、
双方二ヶ所づつ負傷したが、相番の衆が彼らを引き離し、討ち果たすことは無かった。

御前狼藉の故に武田信玄公は大変御立腹されたが、原甚四郎は父である原美濃が度々の御用に立つこと
三十度に及んだ者であったので、それに免じて陣より国に帰らされ、父の武功の御奉公に免じられ、命を
御助けなされた。

諸角の父である豊後も度々の忠功ある侍大将で、その上川中島合戦の時討ち死にを仕った。
この父・豊後に免じて、諸角助七郎も命を御助けなされた。
これらは典厩(武田信豊)、四郎殿(勝頼)御両人を以て仰せ付けになられた。

しかしながら御前の狼藉であり、諸人への見せしめのためにも、原甚四郎も諸角助七郎も、知行同心を
召し上げられ、諸角同心の五十騎は一条右衛門太夫殿へ預けられ、原甚四郎の同心は今福丹波に預けられた。
また原甚四郎の家屋敷共に土屋に下され、この両人は外様のように成ってしまった。

しかし少給、少扶持にて堪忍仕り、物哀れなる体なりと言えども、御成敗有るべき所を、父の武勇、御奉公に
免じられて、御助けなされ忝なしと存じ奉ったのである。

甲陽軍鑑

いわゆる喧嘩両成敗の実態について



千兵は得やすいが一将求め難い

2023年01月17日 19:07

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/16(月) 20:49:29.60 ID:PJyhHbaY
永禄十二年十二月、駿府の今川殿館に岡部次郎右衛門(正綱)と申す三百貫の知行取りは、今川家の
近習、小身の侍達を数多の人数集めて立て籠もった。
これを武田信玄は暫く攻めたが、「次郎右衛門が小身にてこれほどの抵抗をするとは、如何様只者ではない」
と思し召された

「千兵は得やすいが一将求め難い。この次郎右衛門を助け置き、取り立てて我が先鋒をさせれば然るべし。」
として講和され、岡部次郎右衛門は信玄公の御被官衆となった。そして古主である今川殿からは
持たされることのなかった人数を五十騎、次郎右衛門に下され、また三百貫を三千貫になされ、
その時より岡部次郎右衛門を侍大将と成された。

甲陽軍鑑



武田信玄は剣を回して甲府に

2023年01月04日 19:06

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/03(火) 20:33:31.63 ID:dH72IYYe
永禄十二年の駿河における武田と北条の対陣は、正月十八日から同年四月二十日までの九十三日であった。
日夜のせり合いにおいては、武田方の跡部大炊介が一度松田尾張に追われたこと以外は、みな小田原北条衆が
武田に遅れた。
然し乍らあまりの長陣故に、信玄公は家老衆を召し出し、それぞれの意見を聞いた。

内藤修理(昌豊)は、
「薬師は眼の養生に、すねの三里に灸をおろします。」
馬場美濃(信春)は
「けらつつき(キツツキ)が虫を食べるに、他の鳥と違って穴の後ろを突き、口に出てくるのを取ります。」
と申した。

信玄公「さては各々の分別、いずれも同意である。」と、山西の抑えである山縣三郎兵衛(昌景)を駿府より
召寄せ、北条方の陣城を一つ押し散らさせ、山縣の同心である、みしな、広瀬、小菅、その他手柄の者たちに
御証文を下され、二日目の夜は馬場、山縣両大将に仰せ付け、由井の源三郎といって、氏康公の二番めの
子息で武蔵八王子の城主(氏照)の陣屋の前に柵をふり、筵にて囲った。柵が幾つも焼かれたのを
尽く踏み破らせた、

四月二十七日に信玄公より仰せ出があり、次の日の二十八日には信玄公は陣を払い、駿河庵原の山を越えて、
道も無い所を原隼人助(昌胤)の工夫に任せ、終に甲府へと帰還した。
北条家ではこの事について「武田信玄は剣を回して甲府に逃げ込まれた」と申したという。

甲陽軍鑑

武田軍の駿河からの撤退について



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/04(水) 07:13:17.97 ID:1ewKKFZE
つまり大敗だったんですね

信玄公の賢き御智略の故である

2023年01月01日 18:01

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/01(日) 16:17:46.70 ID:lFI7BjNp
永禄十二年正月十八日、小田原の北条氏康・子息氏政は、四万五千の人数を以て、(武田軍の侵攻のため
駿府より逃亡した)今川氏真を駿河へ帰国させるため出陣し、先手衆は薩?山、八幡平、由井、蒲原まで取り続いた。
武田信玄公は使いの甫庵を伊豆の北条のもとに送ったが、彼は牢へと入れられた。

信玄公は氏康の後詰を聞かれると山縣三郎兵衛(昌景)の、千五百の備を山西抑えのために駿府へと残し置き、
一万八千あまりの人数にて興津河原へ打ち出て、北条親子四万の人数と、信玄公一万八千余りの軍勢とで
御対陣となった。

この時期は正月中旬も末の事でもあり、浜風が強く吹いて、敵味方共に寒き嵐に陣を張り難かった。
信玄公は御中間頭の衆に仰せ付けられ、駿府の酒を買い、陣衆の道作り千人に持たせて興津へと取り寄せ、
在の釜を幾口も集めてこの酒を沸かし、信玄公も一つこれを飲み、「家中の大身、小身、上下の区別なく
この酒をを振る舞うように」と仰せ出された。このため、武田の諸勢はみなこの酒を飲んだ。

この時信玄公は尋ねられた
「各々この酒を飲んだが、寒くはないか?」
諸人は、「寒くありません。」と申す者もあり、「これを飲んでも寒いです。」と申す者もあった。
そこで、信玄公は仰せになられた

「平地において酒を飲んでさえ寒いというのに、況や山の上に有る氏康の衆は、酒も飲まずに高所に
陣屋を掛けたといっても、人は山の麓に下りているだろう。
氏康衆の武辺について、彼らは輝虎(上杉謙信)と十八年にわたり取り合いをしているが、輝虎の本国
越後と小田原は遠く隔たっており、一年に一度づつ出会い、五日、十日ばかり戦って、さほど長く
氏康と謙信が対陣する事はない。であるから、上杉は大敵といいながら、大将であった上杉憲政は弱く、
武道不案内故に、氏康に武略を成功させたに過ぎない。

氏康衆は今まで甚だしい敵に遭う事が無かったために、油断しているだろう。たった今飲んだ酒が醒めない内に、
北条家の先衆の掛けた陣屋を破り、あぶなげもなく敵に一入付けよ!」

そう仰せ付けられ、甲州勢先衆は薩?山へ攻め上がった所、実際に陣屋には一、二人ほどしか居らず、
本来居るべき者たちは皆麓へと下りていたため、即座に安々と陣屋を破り、その上小田原先衆の武具、馬具、
鑓などの結構な代物を甲州武田方が取った。これは信玄公の賢き御智略の故である。

甲陽軍鑑



522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/01(日) 17:15:31.77 ID:fw7z4nFs
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1665.html
真田昌幸「GIANT KILLING」三話・いい話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5356.html
信玄と戦略眼

真田昌幸が言ったという話もあるようだ

信玄公秘蔵の足軽大将衆は

2022年11月11日 16:45

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/10(木) 23:08:20.44 ID:4PQ/d/mg
大功の足軽大将である原美濃守入道(虎胤)は病死した(永禄七年一月二八日)。
その遺言には、酉の年(永禄四年)に病死した小幡山城入道(虎盛)のように金言があった。
川中島合戦の時に山本勘介入道道鬼も討ち死にした。多田淡路(三八郎)も、去年亥年(永禄六年)極月(十二月)
に病死した。

武田信玄公秘蔵の足軽大将衆は、酉の年より子の年までの四年の間に四人死亡し、皆若死にだったのだが、
その子息どもは、戦場で場を引くような誉れが五度、十度づつもあり、弓矢でも、考えつもりにも功の
入った人々多く、そのために跡が空くような事はなかった。

信玄公の若い頃は、毎年のように大合戦が、年中に二度ほどもあった。しかし今では、三、四年経っても
大合戦など無い。たとえあったとしても、今より末は、御旗本にて合戦が有ることも稀であり、
故に実戦の場数も踏むことが出来ない。

昔の、度々合戦が有る中での十度の誉れよりも、現在は一度の誉れを顕す方が少ないほどだ。
しかしだからといって各々は、武士の一道を全く疎略にすべきではない。

甲陽軍鑑



「いさみ賢き大将かな」と

2022年11月04日 19:47

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/04(金) 19:23:34.51 ID:A2ZHoV7J
甲府にてこの度、松山御陣(永禄6年(1563)の北条。武田連合軍による松山城攻め)に出陣するために米を
借用した侍衆について調査なされ、能々身上成らざると、武田信玄公は御分別あそばされ、彼らの寄親衆に
仰せ付けられ、それら侍衆の所領の内、収穫の悪い地を取り上げ、その代わりとして上納の土地を下し、
又或いはその後の忠節、忠功によって、所領の少ない者には御加増もなされた。

この事に諸人は信玄公を忝なく存じ、所領を取る者も取らない者も、「いさみ賢き大将かな」と
感じ奉った。

甲陽軍鑑

武田信玄が、軍役のために借米をした武士たちを救済したというお話ですね。



いやしくもこの晴信、人の使いようは

2022年10月29日 18:50

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/28(金) 21:33:15.59 ID:e/wWnGUB
ある時、武田晴信公は山本勘助を召してこのように仰せになった。

「いやしくもこの晴信、人の使いようは、人を使うのではなく、技を使うのだ。また政道を致すも、技を致すのだ。
悪しき技の無いように人を使えばこそ心地よくなる。

その中において、晴信の人の見様は、無心懸の者は無案内である。無案内の者は不穿鑿である。不穿鑿な者は
必ず慮外である。慮外なる者は必ず過言を申す。過言を申す者は必ず奢り易くめりやすい。奢り易くめりやすい
者は首尾不合である。首尾不合なる者は必ず恥を知らず、恥を知らざる者は何についても、皆仕る技悪しき
物である。

しかしそういった者であっても、その品々において使う事は、国持大将のひとつの慈悲である。
国持大将の慈悲結縁とは、寺社領を付け、出家を馳走仕り、或いは他国の城主が牢人したのを抱え置き、
その国を切り取って本意の地へ安堵させ、また少身の牢人であっても扶助し、国を取ってはその先方を抱え、
諸人の迷惑無きように恵む。

この如き慈悲結縁の施しによって、競り合い合戦をし、城を攻め落とし、または国中仕置のために科人の
死罪、流罪といった罪が消えて退く。この理によって、国持の慈悲結縁は肝要なのだ。

殊更、諸人の申すことに、過言と威言は一つの事としているが、威言は有る事を申すものであり、
過言は無き事を申すものである。であるため、武士の威言は申してもさほど不快ではない。
威言の侍には覚えがあるのだ。憎むべからず。

過言を申す侍は、その内容が作り事である故に、三度が三様に変わって内容が異なる。これは虚言を
言っているため、そのようになるのだ。これは必ず、直すべきことである。」

この晴信公の仰せに、山本勘助も感じ入った。

甲陽軍鑑



464 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/10/29(土) 08:59:24.12 ID:DUqMqWs2
長閑の事を指してんのかな

海野平の対陣

2022年10月26日 19:10

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/25(火) 21:20:54.82 ID:M68BXVm8
天文十八年五月朔日に、武田晴信公と長尾景虎が、信州海野平にて五日間の対陣があり、
六日に景虎より使いを晴信公へ使わされた。その内容は

『私が信州に来たのは、自分の欲を以てではない。村上義清を本地へ返したい、との義である。
これについて御同心無いのであれば、私と有無の一戦をしよう。勝利は互いにその手柄次第である。』

そう申し越したが、晴信公はその御返事に

『その方が村上義清に頼まれ、本地へ村上を返したいがための信州へ出陣、ひとしお心馳せ優しいものだと
この晴信もそう思う、私も人も牢籠致す可能性はある。これは昔から今に至るまで有る習いである。
景虎の心ざしは尤もであるが、その村上の本意については、この晴信が生きている間は成るまじき事である。

であれば、有無の合戦とある事も最もに思えるが、晴信は村上を本地へ返さないことを、我らの働きとしている。
であるので、合戦と思われているのであれば、その方より一戦を始められよ。

もし又、日本国中において誰であっても、我が本国・甲州の内に手勢を入れられた場合は、そこにおいて
晴信は攻めかかって、有無の一戦をするであろう。』

この御返事を六日に景虎は聞き、七日、八日まで八千の人数にて出て、備を立てて一戦を待つ様子を仕り、
そして又、十日の朝に使いを出した。その内容は

『御一戦は成らないように見える。そのため、私は越中か能登の国を心がける。』

と、その日の午の刻に景虎は早々に退散した。

この様子を聞き、木曽衆、小笠原衆、或いは笛吹峠(小田井原の戦い)にて武田に負けたる人々は
「晴信は越後の景虎に会ってはへりまくれ(手出しできないということか)である」などと。面々の手では
叶わなかったことを、人を引きかけて、晴信公を罵った。
彼らは良き大将の奥意を知らず、己を以て人と比較し、餓鬼偏執は武辺不案内の故、この如くである。

甲陽軍鑑

天文十八年にあったとされる、海野平対陣についてのお話。



諏訪衆が屋形様を大切に存じ奉る事

2022年10月20日 18:12

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/19(水) 22:48:37.75 ID:O1hpUpuD
甲府に幽閉された諏訪頼重の自刃により、諏訪の家は断絶した。ただし頼重の息女が、その年十四歳に
なられたが、尋常隠れなき美人であった。これを、武田晴信公は妾にしたいと考えられていた。
しかしこれに対し、板垣信方、飯富兵部、甘利備前の三人を始めとした各家老衆はこれを諌め申し上げた

「退治なされた頼重の息女を召し置かれるという事、彼女は女人といっても敵であるのですから如何かと
考えます。」

しかしながら、三年前に駿河より召し寄せられた、生国は三河牛久保の侍、山本勘助が進み出て、
板垣殿、飯富殿、甘利殿三人の侍大将に申し上げた

「晴信公の御威光が弱いものであれば、内縁者が伝を得たことを幸いと悦び、あらぬ企みを仕掛けることも
あるでしょう。しかし、晴信公の御威光は浅いものではありません。

その理由は、私は日本国中を大方見聞きしてきました。中国では安芸の毛利元就が、本知七百貫より弓矢を
取りすぐり、今や中国の大方を取り従え、四国九州までも御威光強くして、既に以て天下の異見を仕っています。
畿内の三好方も、元就の機嫌を取っているのは隠れなき事であります。

この毛利元就に対しても、晴信公二十五歳の内においてすら、さほど劣っていないその御威光を、私は
駿河において承っていました。
恐れながら私の考えでは、晴信公について日本国中が、若手の弓矢取りの代表と存じ奉る如くです。

甲府へ私が参って二年余たちました。その間、晴信公の発言を承り、また敵への対応の様子を見奉れば、
この屋形様が長命にさえあれば、必ず日本無双・文武二道の名大将と人々から唱えられるでしょう。
ですので、諏訪家の親類や被官たちも、何の企みも存じよる事はありません。
である以上、頼重の息女を召し置かれれば、諏訪衆は悦び、この御腹に御曹司た誕生し給えば、諏訪の家も
立ち申すべきと、出仕を望み、武田の譜代衆に劣り申しまじと、奉公申すでしょう。

このように、頼重の息女を晴信公が召し置かれる事は然るべきです。」

山本勘助がそのように工夫して申した故に、頼重の息女を晴信公は召し置かれた。そして勘介の分別の如く
諏訪衆はこれを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年に四郎殿(勝頼)が誕生された。これによって諏訪衆が屋形様を大切に存じ奉る事、
譜代衆同前となった。

甲陽軍鑑

武田晴信が諏訪頼重の娘を側室として迎える折のお話



456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/20(木) 00:20:51.49 ID:HQmP2XuJ
いい話か…?

信濃の国柄がこのように強いものであったため

2022年10月15日 18:44

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/14(金) 22:13:16.01 ID:9Ftdyy30
武田晴信公は天文十一年十月二十三日に、信州大門峠において合戦に勝ち、海尻まで御馬を寄せられ、
敵の勢力圏との境目の仕置をなされた。

この信州衆という人々は、相手が強敵だからといっておくれる色を見せず、敵方に味方しようという
者も居ない。他所の国では、合戦に負けた場合、その勢力が保持していた城も、二つも三つも必ず
落ちるものだと聞き及んでいるが、信濃の国においては、他国の勢力が勝った勢いで敵方の小城であっても
取り詰めるような事をすれば、信濃衆は「負けた口惜しさをここにて仕返さん。」と考え、城を持ち固め
味方の後詰を待って支え続ける。


一方、後詰の軍勢の人々は、親子、兄弟、叔父、甥、従弟、はとこ、遠類、知音、近しい人々を討たれ憤っており、
さらに敵が城を攻めている事に、いよいよ以て口惜しく、「是非とも一度仕返しをし、味方が討たれたのと
同じように敵を討ち、或いは追い崩し、敗走する敵のおしつけを見なければ、武士として弓矢を取る甲斐がない。」
そのように言い合う国である。

故に、競いすぎた働きをしてしまうと、後々勝利を無にしてしまう。という事で、晴信公は勝った後は、
猶以て大事にあそばされたが、それは信濃の国柄がこのように強いものであったためである。

甲陽軍鑑

武田家から見た信濃衆について。

これは晴信公十八歳の時の事である

2022年10月12日 19:05

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/11(火) 21:00:09.80 ID:LIz3lhCB
天文七年正月元日に、武田信虎公は子息晴信公に盃を遣わされず、次男次郎殿(信繁)へ御杯を
遣わされた。

そのような事があって正月二十日には、板垣信方を以て信虎公より嫡子・晴信公へ仰せ遣わされた。
その内容は、太郎殿(晴信)は駿河の(今川)義元の肝入を以て、信濃守・大膳大夫晴信と名乗られた事で、
この上は義元に付き添い、万事異見を受け、心の至る者の機、作法をも学ぶように、との事であった。
晴信公はその返事に「ともかくも信虎公の御意次第」と仰せになった。

すると重ねて、飯富兵部ら二名を使いとして信虎公は仰せになった
「当三月より晴信は駿河へ行き、一両年も駿府においてよろず学問をするように。」
この事、ゆくゆくは次郎殿を惣領にするため、嫡子太郎殿を長く甲府へ返さないようにする、との
意図の模様であった。

これは晴信公十八歳の時の事である。

甲陽軍鑑

信玄廃嫡の危機についてのお話。



武田信玄の幼名について

2022年10月11日 19:21

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/10(月) 20:40:27.29 ID:N12PfjLC
武田信玄公は幼名を勝千代殿と申す。その仔細は、御父信虎公が二十八歳の時、駿河のくしま(福島)という武士、
今川殿を軽んじ、さらに甲州を取って己の国に仕らんとして、遠・駿の人数を率いて甲州飯田河原まで来た。
しかも六十五日あまり陣を張っていたが、この間甲州御一家(武田一門)の衆は尽く身構えをして動かず、
武田の御家はもはや滅亡かと見えた所に、信虎公の家老である荻原常陸守という大剛の武士が、武略を以て
信虎公の勝利を得た。

敵の大将であるくしまを討ち取られたその日のその時、誕生された故に、信玄公は「勝千代殿」の
幼名を付けられたのである。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦であるとした、武田信虎公家老の
沙汰であった。

また勝千代殿の誕生前に種々の不思議が、信州諏訪明神より告げ来たと言われている。

甲陽軍鑑

武田信玄の幼名についてのお話。



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/10(月) 21:02:15.88 ID:QBpDoS3b
あれ、武田家代々の幼名と違うの?
…信虎がパパじゃないとすると色んな事が腑に落ちるんだけどどうなんだろ

442 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/10/10(月) 22:46:20.57 ID:I5XffvIN
信虎は種無しだったもんな

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/10(月) 22:53:17.60 ID:RSFjfb0/
信玄の幼名は太郎だけどな

これこそが大将の第一の願いである

2022年10月07日 15:47

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/06(木) 23:42:13.99 ID:QGrWWrsf
前代にも伝え聞く、国持大名が城に籠もって敵と講和を結んでも、籠もった大将の利に成ったことは殆ど無い。
これは末代であっても定めて変わらないであろう。このような考え方により、武田信玄公は甲州一国の内に
城普請はされず、御構えは、狭い堀を浅く掘った、ただ一重であった。

これについては家老衆が打ち寄り諌めを申した。「御城が小さく御座います。その上防御設備も粗末で、
これでは如何かと存じます。」

信玄公は仰せに成られた
「事の仔細を分別してみよ。国持大名が城に籠もって運を開くというのは稀である。ただし、主を持つ
侍が後詰(援軍)を待つ必要がある場合は、いかほどでも堅固な地を丈夫に要害化することが肝要である。

三ヶ国ほども支配仕る大将が、巨大な城いっぱいに籠もるほどの人を持っているのなら、その人数を使い
敵対している相手と国境において、一も二もなく平地で合戦を仕り、相手を打ち果たすべき事こそ尤もである。
人数を多く持つのにそういった合戦が出来ないようなら、たとえ籠城しても、敵の矢・鉄砲の中をくぐり、
妻子を捨てて走り逃げるだろう。

大将たる者は兵を崇敬して法度を定め、軍法を定め、合戦することを朝夕の作事と心得なければならない。
心のなかで、自分一人で合戦の計画という普請を仕るのは、城を普請するよりも遥かに大作事である。
そしてこれこそが、大将が一人で多人数の働きをする場所である。
であるから、大合戦で、二万、三万の軍勢で勝った事も、「信玄の勝利」と呼ばれるのだ。

大将一人の覚悟を以て諸人に勝たせ、諸人の勝ちが大将の勝ちと呼ばれる。これこそが大将の第一の
願いである。皆々諸侍、老若共に、この事を心得るように。」

甲陽軍鑑

おそらく「人は城、人は石垣~」の元ネタの一つと考えられる、武田信玄の城についての考え方。



435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/07(金) 12:05:41.31 ID:LvhANc1y
これは武田は裏切りで滅ぶとか予言されてな
信長もどんな居城を建てても死んだのは城じゃ無かったし
無意味だから陣屋で十分

武田信玄の「大将としての心得」

2022年10月02日 14:18

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/01(土) 21:23:20.92 ID:2d4/4eEe
武田信玄公はこのように仰せになった。

「この信玄が思うことは、各々を思っているわけではない。ただ、この信玄の身を思っている。
どういう事かと言えば、ああいった兵(つわもの)たちを集め、多く持ち、戦に勝たんという事である。

軍に勝つという事は、国を取り広げるという事である。国を取り広げてこそ、面々、方々諸人、
大小、上下共に加恩を与えて喜ばせる事が出来る。
所領を取って、その上に増知行を取り、立身してこそ侍の本意である。

この本意の「本」という物は、諸侍、大小、忰(かせ)者、中間、小者までも、遍くその褒賞を
過分に思い存ずるように仕る事であり、これは大将第一の理でなければならない。
それは例えば、日月の光のようなものである。

日光、月光の何れが、自分自身を照らすだろうか。私無くして照らしているのに日陰が出来るのは
己の科である。こういった私の無い事を摩利支天と申し奉る。

摩利支天は弓矢の神にましますが、既に軍配団扇を取って神体を顕し給うも、私の無いように、
侍のことは申すに及ばず、下々まで訴えがあるのなら告げ来たれ!」

甲陽軍鑑

武田信玄の「大将としての心得」