諏訪併呑

2018年03月09日 10:59

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 06:39:05.96 ID:54OcSnrL
小笠原長時公は諏訪頼重を味方として、甲斐国内および柳と申すところまで度々御働きになった。
そんなところに晴信(武田信玄)が典厩(武田信繁)をもって頼重へ仰せられたことには、

「武田の味方となりましたら晴信の妹を人質ながら妻子に遣わしましょう。その上で信濃が治まり
ましたら、諏訪に村上郡を添えて遣わしましょう」と色々無事を作り仰せられ、

それに付き、頼重は同心致されたのである。頼重は長時公の家老・小見と申す者の婿でおられた。
小見の娘を追い出して晴信の妹の婿になり、甲斐上原城で祝言されて頼重の息女は甲斐へ人質に
越され申した。これは頼重の先腹の息女である。それより頼重は晴信の味方になったのである。

長時公が仰せられたことには、「晴信が諏訪頼重と縁組して諏訪を甲斐へ引き付けたのは、伊那・
林へ取り掛かろうという知略のためである。しからば、晴信の旗下になった諏訪頼重を踏み崩し、
晴信へ取り掛かって一戦をなすべし」と仰せられ、伊那衆と仁科衆がひとつになって長時公は

諏訪へ御働き遊ばし、頼重の持ち分を焼き払って上野原へ取り掛かった。4,5日攻めると頼重の
者たちを討ち取り、本城ばかりに攻め寄せていたところに、晴信は後詰に蔦木まで御出馬された。

先手は板垣(信方)、飯富兵部(虎昌)、浅利が諏訪の青柳まで参られた。長時公方は伊那衆の
小笠原民部少信貞、下条、箕輪頼親(藤沢頼親)、万西でこの衆が先手となって、長時公の本陣
より攻め掛かって板垣と飯富兵部を切り崩し、首百100ほどを討ち取った。

長時公は実検なさって勝鬨を作り、諏訪頼重は降参して人質を出し、長時公の旗下になられたに
付き、長時公は林へ御入馬されて、伊那衆も帰陣仕った。その後もまた頼重は晴信方になった。

伊那衆の内、箕輪と申すところは6千貫で箕輪殿の領地であった。福与城(箕輪城)に在城の
ところに諏訪頼重は晴信の先手を仕り、3月上旬福与城へ取り掛かり、60日ほど取り巻き攻め
申した。福与城に籠った箕輪頼親の侍衆・松島、大出、長岡、小河内、福島、木下の衆は箕輪殿の
家中で大身の武士である。その他に野口寺や澤々の者が100余騎、雑兵1500で籠っていた。

右の衆が城際で日夜取り合い申し、その時に箕輪殿の内に藤沢織部と大泉上総といって強弓の
射手がいた。福与城の大手でこの者たちの矢先に当たり、晴信の者たちが多く死んだ。2人の
武士は移って箕輪殿に供仕り、中塔城に籠り申した。伊那衆はことごとく残らず後詰仕り、

箕輪福与の近辺の三日町と申すところに陣を取った。天竜川を隔てて足軽合戦があり、長時公も
後詰に上伊那の内の籠ヶ崎と申すところを御本陣にされ、先手は北大手に陣を取り申した。

その時、それがし(著者・二木重吉)は万太郎と申し、生年庚寅年15歳で初めて具足を着仕り、
御供仕った。天文13年(1544)甲辰のことである。

下伊那の内の小笠原信貞より多科惣蔵を使者として籠ヶ崎へ参った趣は「御馬を福与城の根古屋
へ寄せられて、是非一戦仕るべし」との由を申して来た。ところが伊那衆に対して御憤りに思し
召すことがあったために御馬を御寄せにならなかったのは、御一代の御分別違いであった。

それに付き、伊那衆は引き取り申した。箕輪殿の城は無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質
に出して箕輪殿は牢人となった。そのため長時公も林へ御引き取りになられた。

諏訪頼重が晴信公の妹に若子が出来申して心安く存じ、甲斐へ参られたところ、甲斐柳町と申す
ところで晴信より頼重を生害した。それがしが16歳の正月末のことである。それに付き諏訪衆
と晴信とが合戦し、その年中に諏訪と甲斐は治まり、晴信は城代に板垣を置かれ申した。

――『二木寿斎記(二木家記)』


スポンサーサイト

それ故に、士気は常に十倍

2017年11月30日 12:35

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 10:57:46.87 ID:q79QVBiF
武田信玄が大敵と戦う前には、度々配下の軍勢の心合いを抑え、「おそらく合戦は無いだろう」
などと言って、彼らの中に、必ず合戦をするという気を励ました。

彼らは「是非御一戦あるべし!」としきりに戦を好むのを、信玄は尚抑えてその気を養い、
その上で戦わせるのだ。それ故に、士卒の士気は常に十倍したという。

(士談)



468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 18:19:16.28 ID:74SVy9wm
どうかんがえても逆効果

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 18:40:21.74 ID:FEsNPFXR
信玄の話が何でも美談にされちゃうのはやっぱり権現様の力なのかね

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 19:18:58.23 ID:OVNfo8Ez
>>467
ダチョウ倶楽部かよw

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 14:17:46.20 ID:ARHJJxpy
分かってないなー
殺戮と強姦と掠奪に飢えた兵士を焦らすためにやってんだよ
ペットにメシやるとき必ず待てをさせるだろ
あれと一緒

人はただ、学ぶべきである

2017年09月15日 18:05

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/15(金) 17:36:03.52 ID:Uz3vy/o7
ある時、武田信玄はこのように言った

「人はただ、学ぶべきである。
学ぶと言っても読物ばかりではない。何事であっても習うことにより学ぶというのだ。
殊更弓矢の家に生まれた者は、心がけて一日一つ良き事を聞けば、十日には十聴き習い、
工夫分別して物の理に徹するならば、一文不通の人であっても、智者と呼ばれるであろう。

今川氏真は我が聟であり(原文ママ)、北条氏政はまさしく氏康の子である。
何れも物をよく書き、よく読み、短冊色紙に詩歌を記し、自作の文章もよくこなす。
しかし彼らは、当年既に二十五にして、弓矢のこと、武義の備えについて、何であっても
人の口に上る程度の話もないのは、最も文盲な者にも劣るといえる。

こういうことから考えるに、人々は学びというものに心得違いがあり、学ぶべきことを学ばず、
要らぬことを熱心に成し、結果家を失いなお下すに至るわけで、人々はそうならぬよう、慎むべきであろう。

(士談)

信玄が言うと色々複雑な気持ちになりますね。


○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

2017年08月14日 16:42

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 14:19:58.49 ID:O+XKGCMe
○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

吉村源斎の居た址で、木曽川の碧潭に臨んでいる。

天然の巌窟をなし、方9尺余り、その後方に更に一大の巖が河上に突出している。
そこは平坦で方5間余りある。現今もなお、焼米および陶器の破片等を掘り出す。

伝えに曰く、源斎は初めの名を吉村太郎左衛門氏勝といい、智謀優れ、かつ頗る
剛力の人であった。源斎はこの地に住んで付近の原野を開拓し、糧食を蓄えて
ひとえに時世を窺っていた。

武田信玄はその名を聞いて源斎を招いたが、源斎は応じなかった。そこで信玄は
兵を寄こしてその居を焼き、源斎を殺したという。

――『恵那郡史』


武士の作法

2017年07月30日 19:08

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/30(日) 16:42:29.39 ID:GEqodZar
武田信玄の時代、武田家の武士の常々の慣習として、、道において、一人は騎馬、もしくは足駄(雨天用の
高下駄)履いていて、もう一人が歩行で行き会う場合、その両人がたとえ仲が悪くても、歩行の者が
物陰に隠れるのが当然とされた。そして騎馬、もしくは足駄の者は遠くで地面に降りて時候の挨拶をする。

先に歩行の者が物陰に隠れたのは、馬から降ろないでおこうという思いやりであり、武士としての
礼儀である。このように人が礼をしたというのに、これに挨拶を返さないのは非義というものである。
また用心のためにも、騎馬のものは降り足駄を履いていれば脱ぐのは、良き武士の作法である。

しかし馬に乗ったまま通るのなら、降ろすことは無用である。それは相手が武士の作法を知らぬ女侍なのだ。
逆に徒歩の者が傲慢で「降りよ!」などと言い掛けて来るのなら、それは降りる必要はない。
降りるくらいなら相手を討ち果たすべきだ。

もし又、親兄弟の敵のある者が徒歩で通る時、狙われる人が騎馬で行き会った場合、
狙われている者は「御使に参る!御免候へ!」と、嘘を慇懃に言って乗り通れ。
こうすれば狙う人も討たないことが不覚にならず、騎馬のまま退けば追いつかれることもない。

(士談)



『天上天下唯我独尊』の旗

2017年07月20日 21:25

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 23:02:45.18 ID:UmjAh2kJ
武田信玄の軍旗は6つあり、その一つに書して曰く

『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』

この旗は川中島の戦いの時に初めて用いられたと言われる。
後に、三方ヶ原の戦いで大勝を得、新たに加えられた旗には

『天上天下唯我独尊』

の八文字が描かれたという。
凡その物、未だ満ちて欠けない物はない。これは聖人の明戒である。
信玄が加えたこの八文字は、満もまた極まっている、これ覆亡の兆しならずや。
天正元年3月、さらにこの旗を立てて野田城を攻め、たまたま銃弾に傷つき、4月、ついに没した。

(随意録)


信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に

2017年07月20日 21:24

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 11:40:47.67 ID:K/Okvhdd
>>6
信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、
都のキリシタンがはなはだ懸念しているように我らは今後の迫害に備えておく必要がある。
ただ、もしデウスが我らに見方し給うならば、
神の恩寵と御助力によりこの悪魔の怒りがほとばしるのを予期するのはたやすいことであろう。
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白い事があった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己の名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。
すなわち、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と。
これは天台宗の教えの家の最高位者にして修道者なる信玄を意味する。
これに対して信長は、ダイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。
というのも、ダイバ(提婆)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本の全ての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、
かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
しかして今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは
比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。
だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。


1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡より



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 17:38:21.91 ID:raQOLju8
提婆達多の提婆(デーヴァ、神)と
ゾロアスター教の悪神ダエーワと
ラテン語のデウスは同語源
デウスが提婆達多と同様、仏教打倒という魔の所業をしても不思議ではないな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:23:30.87 ID:XOH91jah
にしても、信玄はやっぱり上洛の意図があり、実現の可能性は高いと思われていたのか。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:51:10.51 ID:e2dWouAG
>>9
そう宣伝してたってこととそういう噂が流れてたってことは事実だろうね
ただしこの時フロイスが記した包囲網側侵攻の噂は義昭以外全部ハッタリだったけど

花澤城の鯨波の声

2017年07月10日 17:40

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/10(月) 13:41:31.93 ID:FFhxfwX+
永禄13年、駿河花澤城を武田信玄が攻めた時、武田方の落合治部が討ち死にした。
その頸を敵は取ろうとし、一方治部の弟である左平次は兄の死骸を戦場から退けようとして、
このため敵味方入り乱れての競り合いとなった。

この時、信玄の旗本衆は高台よりこの様子を見て、旗本の総攻めのように、一斉に鯨波の声を上げた。
これを聞いて敵の兵は皆、旗本衆の攻撃があると考え城に入り、左平次は無事、兄の死骸を
退けたという。

(士談)



89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:44:28.37 ID:3R43EUyZ
>>87
前にも「鬨の声と言えば」ていうので出典不明で出ていた

ついでにこの漫画ではなぜか上杉との戦いってことになってる
ttp://i.imgur.com/yLfJKkM.jpg
yLfJKkM.jpg

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:10:38.34 ID:3vZPBYkw
>>89
この頃の民明書房の真実味は異常

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:23:03.03 ID:/jTE09E/
真田信幸も岩櫃城に家族と避難するときに鬨の声をあげて
盗賊や乱波たちを追っ払ってたっけ
加沢記だから信憑性怪しいだろうけど

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:29:38.91 ID:oXS0/r1j
信長は稲生で林の手勢に囲まれたときに、大声でわめいて相手を追い散らしたね

法性院阿闍梨

2017年05月09日 21:31

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/09(火) 00:23:38.79 ID:fJ31A3/a
また信玄(武田信玄)は、後には10年に及んで精進潔斎し、叡山より
袈裟衣を下され申し、“法性院阿闍梨”と号して常に看経三昧だった。

それ故であろうか、その頃所々の陣中において不思議な瑞兆もあった
とかいうことである。

――『当代記』


長坂源五郎の事

2017年02月12日 09:25

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:11:19.37 ID:1YM6JH+R
長坂源五郎の事

武田信玄長坂源五郎の心気を試そうと、
度々美女を源五郎の方へ御用を申し付けて使いに出されました。
すると、度々の事なので後になっていくと、
源五郎は嗜みが緩みその女に戯れた言葉をかけてしまった。
その様子を御側の者から聞かれると、信玄は実際にその様子を御覧になられ、
とうとう源五郎を見限られたといいます。

かりそめにも美童美女等に、たとえ遠くから見る人聞く人がいなくても、
少しも戯れた様子で詞をかけてはならないということです。
嗜むべきなのは『色の道は金銀の事』と
堅く守らなければならないということです。


『武士としては』



596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:39:21.28 ID:rnvBOGUA
ハニートラップしかけて浮気調査

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:40:36.37 ID:vQNGMvww
モニタリング?

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 06:17:26.53 ID:vMpwbjHL
嫌なやつだなw

甲州伝目つぶし之法?活薬

2016年11月16日 21:56

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 23:04:18.80 ID:02+9kijt
甲州伝目つぶし之法?活薬


 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。

『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』

 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。

聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。

『塩 ひき茶』

この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)


信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね~





302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 08:38:58.73 ID:GV3HsWUU
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 11:16:58.83 ID:LWmC7QHM
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''――'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  

かかる心を 武田とや云

2016年10月30日 20:57

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。

その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。

さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。

「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」

――『当代記』



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?

村松芳休の笛

2016年09月16日 14:55

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 00:06:48.75 ID:SRMLoQW2
武田信玄に攻められていた三河野田城に籠城する者の中に、村松芳休(一節に法休)という者があった。
彼は伊勢国山田の出身で、笛の名人(異名を小笛芳休といった)であった。

この者、武田軍に包囲された野田城にあって、毎夜櫓に上って笛を吹いた。寄せ手の諸将も
これを聞いて、大いに感じ入ったと云う。
ある夜、芳休が例のごとく笛を吹き、その妙を極めた。この時武田信玄が陣廻りをしていて
この笛の音を聞き

「優しくも、明日を限りと覚悟して吹いているように感じる。しかし当世の笛の上手の中で、
これに過ぎる者があろうか。」

そう語ると、矢文を城中に射込ませた。その上書きには『笛の殿へ参る』と書かれていた。
その内容はどのようなものであったか、今に伝わっていない。きっと笛の妙技を賞美したのであろう。

菅沼家譜によると、この村松芳休が毎夜笛を吹き、敵もこれに聞き入る中、2月9日、竹を立て
紙を張り巡らせた中で堀端にて笛を聞く者が居た。これを鳥居三左衛門が訝り、この竹を目印にして
鉄砲を仕掛けおいた。

その夜、芳休がまた笛を吹くと、あの竹のあたりに人声が聞こえた。鳥居は敵が笛の音を聞きに
現れたことを知って、矢場より鉄砲を撃った。目当ての竹のあたりで、「大将が撃たれた!」と
叫ぶ声が上がり、敵陣は暫くの間驚動した。この時の鉄砲は、信玄に当たったのだと言い伝わる。

(野田戦記)



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 10:12:01.06 ID:NIv0BKyK
尼子政久「無粋なやつめ」

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 11:09:41.21 ID:BKFh2dMD
三村家親「まったくだぜ」

その書は『人国記』と名付けられ

2016年08月10日 08:00

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 23:46:39.88 ID:btdLeMF6
国により、人の善悪に生まれつきがあると言われます。仕置のため、諸士の本国を聞かれることもあるでしょう。
武田信玄の或夜の話に

「他国の大将について、その国の上下の人々の心を見ず、聞かずに知ることが出来るだろうか?」

そう尋ねられたことが有ります。伺候の面々「どうすれば知ることが出来るでしょうか?」と言うと、
信玄は言われました

「よくよく考えた結果、十に八、九は、その国の人々の作法とその国主の作法は違わないと私は思っている。
日本の内にて、山城、播磨、近江、伊勢、越前、これら五ヶ国の人々は心定まっていない。その他は
国主の作法から考えればだいたい当たる。

私は常々、国々に人を置いて観察しているが、先の五ヶ国の人の心、その他日本国の人の心を、
西明寺殿(北条時頼)が記された秘書を、羽州の家に伝わっていたのを所望して見てみると、その趣
斜めならず。その書は『人国記』と名付けられ、その後羽州は国々を廻り、貞治元年(1362)の頃、
これを見合わせるようにと書き留められたのだ。

さて、古から今にいたる変化は、末世となるほど悪しきことはあるが、善事はなかなか無い。
この話をするため、先ほど質問をしたのだ。

これは西明寺殿が書かれた書の抜き書きである。これを見よ。」

そう仰せに成り、腰から扇を抜き出して見せられました。その扇には、先の五ヶ国の人の心の善悪が
記されていました。

「西明寺殿の書面にも、関東武者勇なり、京武士は風流なりと書かれている。また、我が甲信の者の心は
真っ直ぐではなく、食料に昼夜心を労するとある。総じて大将は、その国の人々の心から免れない。

諸士の目利きは第一に大切なことだ。義理と非理を知らぬほど恐ろしいことはない。
欲深き士と佞人が交われば、国の乱となる。ただ、恥を知る人を用いなければならない。」


(松のさかへ)

武田信玄が人国記について語った事についての証言である。



966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 03:06:52.40 ID:AlG4uG7A
武田信玄「秘密のケンミンSHOW面白いな」

そのため、武田氏の肖像画などは

2016年07月12日 08:57

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 19:40:46.88 ID:EKvZ1Uei
>>804とよく似た実話がある。
武田氏の肖像画などを高野山の寺院に収めてあった。
江戸時代も供養されていたのだろうが、支払いが滞ったのか、武田の子孫に遺物を一括返却する
ことになった。武田の子孫は上杉家に仕えていた。そこへ荷物一式を届けたのだが、
武田の子孫はそれを見もせず、受け取りもしなかった。そのため、武田氏の肖像画などは勝手に
処分されたのか、離散。
武田信玄像の太った画像とよくにた別の画像が信玄だと勘違いされて、現在に伝わる。


http://kelog2010.up.n.seesaa.net/kelog2010/image/joukeiin.jpg?d=a0


http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/023/201/01/N000/000/001/139716657024254085226.jpg




841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 19:34:26.95 ID:jgitUDjR
>>804
そういえば海音寺潮五郎が「史談と史論」で
謙信は戦に勝つことだけを考えてる性急な活動家だから高血圧
実際中風で死んでるから高血圧で間違いない
信玄は勝った後の領土保全をしっかりやる沈着で相当非活動的だから低血圧
死も肺病らしいから低血圧っぽいと書いた後で

「現在普通に行われている信玄の肖像画は、大兵肥満、アゴは二重にくくれ、口ヒゲ頰ヒゲを生やし、赤ら顔らしく、いかにも高血圧患者的だ。
これは松平楽翁の「集古十種」に収録されているものがもとで、さらにそのもとは高野山の成慶院所蔵の画像から出ているらしいのだが、果して信用出来るものであろうか。
早稲田大学出版部から出ている「通俗日本全史」の「甲越軍記」の巻頭にかかげられた永井如雲氏所蔵の画像は、まるでこれと違う。瘦せてシワ深く、いかにも胸でも病んでいる人らしく見える。」
と肖像画の真贋を考察してた

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 19:35:14.49 ID:jgitUDjR
安価間違えた
上のは>>832あて

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 22:20:30.81 ID:hV/Nn9+Z
>>832
>誤
> http://kelog2010.up.n.seesaa.net/kelog2010/image/joukeiin.jpg?d=a0

畠山なんとかさん!

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 22:40:09.01 ID:Poe8qw0x
>>832
下のは逍遙軒が描いたものなんだね

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 23:38:54.48 ID:hNYAJEGJ
>>841>>842>>843>>844
下のは逍遙軒(信玄の弟)が描いたものだ。武田菱もぎっしり描き込んであるぞ。

上のは畠山なんとかだ。二引両の家紋が書いてある。
http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/283.png←でかい!
二引両といってもどこに描いているか全然わからんけどな。
http://www2.harimaya.com/takeda/html/tk_zou.html
腹の脇差しの、握りのところにある。それでもわからんけどな。
拡大して見たとしても、菱形になっている。
武田菱じゃないよ。糸で斜めに交差して柄を撒いてあるから、菱形に見えるだけであって、
その下地には、○の中に二 と書いてある。それが二引両。超拡大しないとわからんわ。

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 23:50:21.21 ID:hNYAJEGJ
これが一番解像度が高かった。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/cb/4edaf550d76c97fd831ece21f5463310.jpg

でも二引両がよく見えない。左の太刀にも二引両の家紋があるという。

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 10:53:53.47 ID:Bb/k+4A7
>>846
写実的な絵だな、こんなんあったんだ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 20:10:55.53 ID:xsHWUkSu
>>832とは別だが
やっぱり若い頃?を描いた信玄像(もうちょっとヒョロッとしてる)と
目鼻立ちが似てるw どっちにしてもちょっとモッサリした印象の顔立ちなんだよなあ

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 21:26:00.07 ID:ICEpYfFT
>>832
武田信清の子孫に一括返納されたのか?
江戸時代に竜芳系の子孫が武田嫡流ってことになったのになんで米沢武田家に返ってきたんだ
それまで高野山に金を納めてたのが米沢武田家だったからだろうか

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 22:04:22.68 ID:yswUSqBa
竜芳系流罪になって金もらえなくて米沢武田家に持ってたんじゃね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 08:00:13.60 ID:gsTyxJTG
>>848
さいとうたかおが描いた武田信玄のコミックは、太ってなくてイケメンだ。





当時は太った姿が信玄だと信じられていたので、さいとうたかおのアレンジだったが、
予想に反してじつはヒョロッとしてる方が真実だったようだ。
ちなみにこのマンガ作品は屈指の名作。

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 08:10:44.19 ID:gsTyxJTG
>>849>>850
米沢武田家に持っていったのに「受け取らなかった」んだ。(原文は、見もしなかった)
困った高野山は、手紙を書いて、荷物一式の名前をそこで記している。
この手紙が現存しているから、武田信玄の画像はその当時、はっきり現存していた。

このあとがややこしい。受取人拒否によって行き先に困った品物の数々は、
つまり、しょうようけんの書いた信玄の肖像画は、江戸の別の寺の所蔵品となってしまった。
そこで、その絵の箱に、吉良頼康だという名札をつけてしまったものだから、混乱のきわみ。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 08:15:58.66 ID:gsTyxJTG
三回忌とか七回忌とか百回忌とか、
いちいちすげーカネを坊主から請求されるからな。
米沢武田家では今までたまった滞納分を、品物交換と一緒に要求されて嫌になったんだろ(推測)

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 12:49:32.68 ID:FYArAkRa
あっはい

恵林寺の蔵、信玄甲冑の事

2016年07月05日 21:28

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 10:30:33.63 ID:45F8YWkQ
恵林寺の蔵、信玄甲冑の事

先年、甲州恵林寺の僧が信玄の遺物甲冑等を携えて江戸に出てきたことがあった。
予はこれを見たいと思い、月桂寺に行ってかの僧と面会し、
その戎器を見た。
兵火の燃え残りかと疑い尋ねると、
「そうではありません。
かつてこの寺は兵乱で焼かれた後に、甲州は神祖の御領となって、寺を御修造されました。
そのときこれらの甲冑は元は信玄の遺物であるので、長く寺に大切におさめよ
と、神祖から賜わったと、伝わっています。
神祖の御文であろうか、時の老職の添え状であろうかといったものが付いてあった思われます。
明細に写して大切に収めて置いてましたが、戊寅(1818年)の火事で焼亡ました。」

惜しいものだ。
(甲子夜話)

火事大杉



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 14:22:01.58 ID:7YH5mLzL
贋作だから焼失しても無問題

新法は当分便利でも良い事は無い

2016年03月20日 18:59

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 23:11:31.28 ID:tWYe0WnB
 運上の事で色々願います者が次第に出てくるでしょうが、古来から無かった事は御取り上げないことがよろしいかと思われます。
とにかく国々では昔から何事にも古掟等があるでしょう。甲州一分は今をもって信玄公の御代の通りにその国限りで使われており、
国の掟も信玄公の御定めの通り権現様はお聞き届け、そのように治めなされたといいます。
以上のように考えますと、新法は当分便利でも良い事は無いと思われます。
(本阿弥行状記)

甲斐では他国との貿易に金を頼らざるをえないので、
信玄は持ち出し禁止にせざるを得なかったのでしょうね





親に不孝な人は運が悪いと申すことは

2016年01月22日 17:08

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 23:02:07.90 ID:XY4nnJys
親に不孝な人は運が悪いと申すことは天のなすことである。
 
 今武田流は軍学に一あって二ない軍学であるが、その軍学も間に合わず武田家が滅亡したのは何事であろうか。
 これは信玄公が父信虎公へ不孝であり、その他にも甚だ残忍なことがある大将なので、滅亡なさったのだろう。

 また、川中島合戦は古来から甚だ難しく、この戦で信州一円を信玄は領しなさりましたので、まずは勝ち戦の様に聞こえますが、
武田家は御舎弟左馬頭信繁殿をはじめ、歴々の名のある武士に討ち死にが多かった。
上杉家には格別名のある武士の討ち死を伝え聞いておりません。
 そうであるなら勝ち負けはまずなく互角の戦で、武田家は名のある武士を討ち死にさせて、信州一円を取りなさり、
上杉家は名のある武士を打ち取って、信州を武田家に渡されたということであろう。
(本阿弥行状記)



信玄の旗幟

2015年12月23日 08:20

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 22:09:36.43 ID:Qsqv1Uho
駿河大納言徳川忠長が改易された後、この家より武田信玄の旗幟が出てきた。
将軍家光はこれを怪しみ、糾明を命じた所、甲斐国に長遠寺という親鸞宗の僧があり、
この僧は信玄の時代、大阪、長嶋と信玄との間の使いをして、信長を滅ぼす謀を巡らせた。
信玄は彼を悦び、娘を与え婿とした。そして男子が生まれ、これに二位と名付けた。

彼は信玄の外孫であるとして、武田家に仕えていた人々からの崇敬は大変なものであった。
この長遠寺の元にかの旗幟があったのを、忠長に参らせたであった。
これは大変疑わしいことであると、長遠寺父子は佐渡へと流された。
この時は幕府の武田旧臣の人々も大いに恐れたそうである。

この寺院は破却する予定であったのを、東秦院の門跡が請うたため許し、今は改めて
光澤寺と名付け、かの門跡より兼帯輪番の寺となった。

(藩翰譜)



信玄が死去の前に推測したことには、

2015年12月23日 08:18

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/23(水) 05:13:26.79 ID:Gm4AoDKn
信玄が死去の前に推測したことには、

「私が死ねば3年の間は、その事を隠すことなっているので、知る人はおるまい。
謙信も死ぬであろう。次の3年は私の威光によって何事もあるまい。次の3年は
戦の和談などで時が過ぎることだろう。その後は信長に一統されるであろう」

とのことであった。果たしてその通りである。

――『武功雑記』