FC2ブログ

気遣いは分別のいろは

2019年11月11日 18:23

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 10:49:53.46 ID:h1wOUAM7
ある時武田信玄公がこのように仰られた

「世の中にはいろいろな人がある。分別が充分に有っても才覚のない人もある。才覚が有っても
慈悲のない人もある。慈悲が有っても人を解っていない人も有る。

人が解らない者の場合、大身だと、その者が尊敬している人物というのは十人の内八人は役に立たない
という事が多い、小身の場合は、その親交深い傍輩の悪しき知り合いに近づいてしまう。

このように色々様々に変わって見えるが、結局はただ分別が至らぬということだ。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても
良く成すものだ。このように人間にとって分別の二文字こそあらゆる事の基礎であると知り、
朝に志し、ゆうべに思うようにして、分別を良くするべきだ」と言われた。

内藤修理正(昌豊)曰く、「信玄公御錠に、人は分別肝要と仰られた。これは尤もな事である。
それについて、分別と言うことも、学んでその知恵がつくものだ。」

そう申したところ、小山田彌三郎(信有)が「願わくばその方法を教えて頂きたい。」と
しきりに問うてきた。そこで内藤修理は

「気遣いという気持ちがあれば、分別にも近寄るであろう、この気遣いから全ての事に心付て、
自分の至らぬ部分を分別ある人に習い、何事を成す場合でもこの心構えをその度に重ねれば、
自分の心得も出来、猶以て工夫、分別、広才の智のある人に近づく事だろう。
そこを考えれば、気遣いというものは分別のいろはでは無いだろうか。」

そう内藤は小山田に教えた。

(甲陽軍鑑)

分別の基は人に対する気遣い、つまり良い判断に必要なのは思いやりである、という所でしょうか。
現代でも通用しそうな考え方ですね。



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 17:59:45.43 ID:ypIcKaTN
小山田の名前を見るだけで警戒してしまうが、この人は26歳で早逝してるんだな

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 20:57:34.10 ID:3AMDOqwh
信玄公って部下教育にも長けてたんだろうなあ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 22:04:34.10 ID:j9tC0zm8
息子は失敗したけどな

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 22:36:51.09 ID:eLkJFcq7
>>325
その辺も家康は信玄を見習ったなw

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 23:34:19.74 ID:2wX/tis6
武田は奥近習だっけ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 15:07:26.89 ID:AkKEwVuC
小山田は信有だらけなの、どうにかして…

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 16:39:27.95 ID:W5wF8sv2
先代とは意地でも同名を避けるつう命名基準から外れてるし理由を知りたい
スポンサーサイト



相手にすると恐ろしい者

2019年11月10日 17:00

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/10(日) 09:01:59.88 ID:oWdch8EX
ある時武田信玄公が御噺衆に尋ねられた
「奉公人の中の大身、小身は言うに及ばず、下々の者まで相手にすると恐ろしい者がある。
それはどういう者だと思うか。」

御噺衆は誰も答えられなかった。そこで信玄公はこう言われた

「それは無分別な者だ。何故ならこの無分別な人物は、後先を考えず、口に任せ手に任せ、
考えもしないようなことを仕出かす。そういった人物は合戦の鍔迫り合いに成れば遅れ逃げるものだ。
ところが良き分別のある人物は、普段から詮索をよく致すために、逃げる無分別者を発見すれば
逃さず、勝負をつけようとする。こうして良き分別者が悪しき分別者と相手をし、徒に身を果たす
ような事になるとしたら、これをよく思案してみよ、分別なき者は恐ろしい人ではないか。」

そう仰られたのである。

(甲陽軍鑑)

有能な人物がバカに殺されてはかなわん、という話でしょうかね。



562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 03:40:53.26 ID:mGN8Rjs4
無能な味方は敵より厄介

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 20:54:31.95 ID:3AMDOqwh
平凡でも良いから実直であって欲しい
ということも言いたいのかも

無能は不要とかだったら部下のストレスはんぱない

564 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/11(月) 21:53:10.65 ID:l/raO2w7
臆病者でも使い方次第という岩間大蔵左衛門の話も甲陽軍鑑だったっけ。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 23:53:28.42 ID:ypIcKaTN
無能というかアスペや嫌なクズって感じ
これに真面目な人材が殺されたらたまらん

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:41:18.32 ID:l9uYArUl
窮鼠猫を噛む

侮って死んだ分別者w

信玄公御一代敵合の作法三ヶ条

2019年11月07日 16:44

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 10:27:11.88 ID:0KJaQ8DD
信玄公御一代敵合の作法三ヶ条

一、敵の強き弱きについて分析し、またその国の大河、大坂、あるいは分限の模様、その家中諸人の
  行儀、作法、剛の武士、大身、小身、それらの多少のことであっても、味方の物頭衆によくその
  様子を知らせなければならない。

一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、勝負の事について、十分の内六、七分の勝ちこそが十分の勝ちであると
  御定めになった。中でも大合戦は殊更そのようにするのが肝要である。その理由は、八分の勝ちは
  危うく、九分十分の勝ちは味方大敗の下地作りであるからだという。

一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、取り様のこと、四十歳以前ならば勝つように戦い、四十歳以後は
  負けぬように戦うべきであるという。ただし二十歳前後でも、自分より小身の敵に対しては、
  負けないように対処し、勝ちすぎてはならない。大敵には猶以て右のとおりであり、おしなべて、
  よく思案、工夫を以て、位詰めにし、心を長く持って後途の勝を得ることを肝要に仕るべきである、との
  儀であった。

(甲陽軍鑑)


甲陽軍鑑より、武田信玄の敵への対処のありかた三ヶ条



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 21:04:09.27 ID:UyfXPO7g
信玄って油断することあったのかな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 23:36:49.16 ID:7WI7bWrx
油断して浮気がばれたために、誓詞を書く羽目に

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/08(金) 13:21:30.71 ID:cIUGsmSB
貧乏国の形態から父親追放の継承で実際重圧凄かったろうな

翌年の四月十二日になって思い当たった

2019年10月27日 16:53

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/27(日) 14:07:37.07 ID:lugWOShB
元亀三年の正月二十一日に、武田信玄公は法華宗身延山へ御使を遣わされた。その子細は、
去年織田信長が叡山を焼いた事により、身延を新たな叡山になさろうと考えられ、身延山を
御所望になられた。そしてその代わりとりて長野に寺を建て、今の身延より大きく御普請仰せ付けられ、
それを相渡すとの仰せであった。

身延山の各出家は御返事に、「日蓮聖人の御影の前で鬮を取った上で結論を申し上げる。」と、
鬮を三度、五度、七度まで取ったものの、合点の鬮を得ることはなかった。
その上山が変わらない祈念として、壱萬部の法華経を読んだ。また不思議なことに日蓮聖人の
御告げが多く有ったと沙汰された。

しかしそのような事を信玄公は知らず。是非身延を東の叡山にするべきであると内心定められていた。
「出家に悪く当たらぬ物」と言うが、これは翌年の四月十二日になって思い当たったものである。
武田信玄は元亀四年四月十二日に病没した)

(甲陽軍鑑)



信玄の国柄の兜

2019年08月10日 15:47

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/10(土) 02:10:43.98 ID:Q8jcWQdG
武田信玄の国柄の兜として、高二百石で大御番を勤める渡辺左次郎(英(さかえ))の家に伝わっているものを
見た人の語った所によるとmそれは頭形三枚錣(錣が三枚になった兜)にて、一見した所粗末に見えるが、
この錣の裏に切金(金銀の薄板を模様に切り貼り付けたもの)が入っていた。国柄唐草の蒔絵であり、
間庇には信玄の自筆にて歌が認められていた

 いかにせん くずの裏吹く秋風に 下葉の露の残りなき身を
 (葛の葉裏を見せるように吹く秋風によって消える露のように消え去るこの身をいかにするのか)

上州白井の明珍信家による作であるという。甲州の武士であった下條伊豆守が戦国に浪々して、
その倅が渡辺家に養われた故に、今かの家がこれを持ち伝えているのだという。

(耳嚢)



信玄公の御使

2019年08月02日 18:03

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/02(金) 01:49:42.15 ID:br8PQdXr
信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

日向源藤斎(玄東斎。宗立)は、関東・安房国・結城・多賀谷・宇都宮・越前・比叡山への御使である。

雨宮存哲は近江の浅井備前(長政)と四国の長宗我部への御使である。

長遠寺(長延寺。実了師慶)は伊勢の長島や河内国大坂、総じて一向宗の盛んな所へ参られた。ただし
越後の謙信へも1,2度長遠寺が参られると、謙信は誉めて「流石は信玄が気に入ったのも道理かな」
と、信玄公と無事に仕えよと謙信が申されたこと2度であったが、2度とも「まずは長遠寺を遣しなさ
れ」と、輝虎より申し遣されたのである。よって件の如し。

――『甲陽軍鑑』



唐国諸葛孔明八陣図

2019年06月21日 16:31

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 13:14:15.51 ID:f5pcw5Wk
唐国諸葛孔明八陣図

        八      レ
●魚鱗 ●鶴翼(の) ●長蛇(シ ) ●偃月(半月の図) ●鋒矢(个)

●方ヨウ(“向”の口が山)(〇) ●衡軛 ●井鴈行
                    〇
●春は北に向かう ●秋は南に向かうなり(□)これをもって相を取る口伝あり。
                    △

以上を良く信玄公は伝授なさって、その後工夫をなされて新軍法その他諸法度の仕置きを遊ばし
給う事、これは皆、信玄公と合わせて四大将(上杉謙信・北条氏康・織田信長)いずれもが取り
合いをした故である。

そのため、軍法はまず当代の四大将より始まる。昔はあったとはいえども、尊氏公の四代目の御
時分から連々取り失ったと見える。軍法の儀は(軍法といえば)信玄公・謙信公の両君なれども、
これも3分の2は信玄公より濫觴(起源)する。

当代日本の四大将は御歳増す次第の先に書く。

一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公、53歳にて天正元年4月12日他界。病死。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 13:18:25.83 ID:N0sMwCEt
この陣形のそれぞれがどういう用途で使われるのか解説をきいたことがない

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 17:53:48.61 ID:fa+hDu+v
乃至政彦「戦国の陣形」読むと
甲陽軍鑑で山本勘助は

「軍林宝鑑」という本にある「諸葛孔明八陣の図」として魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月 ・鋒矢 ・方 ・衡軛 ・井雁行

を紹介しているが出典とされる「軍林宝鑑」には八陣として
https://i.imgur.com/HpOEclY.jpg
こんな図があるだけで、魚鱗の名前も鶴翼の名前も見えない
単に大将以外の部隊が八つ並んでいるから八陣とされているだけである
もともと「八陣」には
1.上記の諸葛亮による八陣
2.唐代の知識人李善「雑兵書」に書かれている八陣
「一曰方陣 、二曰円陣 、三曰牝陣 、四曰牡陣 、五曰衝陣 、六曰輪陣 、七曰浮沮陣 、八曰雁行陣 」
3.張良が編み出したとされる日本で口伝で伝わっていた八陣
「魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月等の陣 」
があり、甲陽軍鑑で山本勘助が言ったとされるのはこの三者の折衷である。
甲陽軍鑑によれば山本勘助は信玄から「お前は書物を四、五冊も読んだのか?」と聞かれた際「一冊も読んでません」と答えていることから
耳学問の知識を適当に言ったのだと考えるべきだろう。
実戦の際は部隊長にそれぞれの陣形の形をあらかじめ頭に入れさせておいて
「飯富殿は○○の陣形を、小山田殿は○○の陣形を…」と指図してすぐに陣形を取れるようにした

のように書かれていて、のちに村上義清が編み出した?兵種別の陣形を謙信も採用し、それが諸国に広がったと、書かれてるから
この八陣が使われていたとしても、山本勘助が諸葛亮が考えたものとして献策したのを信玄が一時的に使っただけ
江戸時代に甲州軍学で八陣うんぬんが基礎知識となっただけだから
どういう用途で使われたか、てのはあまり意味がないかと

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 17:56:45.55 ID:fa+hDu+v
ついでにその甲州軍学でも徳川後期となると八陣の知識は忘れ去られた、とあ?

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 21:01:07.53 ID:M9YcI+sb
日本の狭い平地では役に立たなかったのかしら

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 12:22:42.43 ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

信玄公御旗及び御はた本備押の作法十五条の事

2019年05月30日 19:10

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 17:51:20.59 ID:jxVT/vJG
信玄公御旗

一、赤地に八幡大菩薩の旗2本。
一、赤地に将軍地蔵大菩薩の旗2本。
一、武田27代までの御旗1本。

一、其疾如風 一、其静如林 一、侵掠如火 一、不動如山。
これは黒地に金をもって、この4つの語を書きなさった。旗は四方(正方形)なり。この旗
とともに以上の6本である。川中島合戦からこの旗を使いなされた。

また三方ヶ原で家康・信長に勝って、殊に信長と手切りになられて東美濃発向の時、次の語
を前述の旗に入れなさった。一、天上天下 一、唯我独尊。

前述の故事を入れて旗の仕様は、
一、其疾如風 一、其静如林 一、侵掠如火 一、不動如山 一、天上天下 一、唯我独尊。

このような御旗は天正元年酉(1573)の3月に持たせ初めなされ、同4月12日に(信
玄公は)御他界なり。この6本の御旗奉行が1人、惣旗奉行が1人、よって2人なり。

この6本の御旗の中では尊師(孫子)の旗が肝要なり。口伝。

――『甲陽軍鑑』



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 19:22:30.91 ID:apZtFxeX
孫子「天上天下、唯我独尊
なんて原典に無いのを入れるくらいなら
難知如陰、動如雷霆
まで書けよ」



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 20:04:01.86 ID:jxVT/vJG
御はた本備押の作法十五条の事 八

御旗12本は黒地に、上に日の丸を朱で書き、下に朱の筋、その下に朱で竹菱。これは御家に伝わるところ
の新羅三郎義光公の御旗の写しである。これが一の御先。

次に八幡大菩薩の御旗3本を白地に墨で書き、次に勝軍地蔵の御旗2本。次に諏訪上下大明神の御旗5本。
いずれも三のかけなり。ただしある時は地黒に朱で書いたこともあった。

とりわけ御他界なさる天正元年の3月、東美濃御陣の時、黒地に金で5つの古語を遊ばされた。その語は、

一、其疾如風 二、其徐如林 三、侵掠如火 四、不動如山 五、天上天下唯我独尊。

これはその御陣で初めて御持たせなさったのである。この旗を合わせて12本。その旗奉行は今井刑部左衛
門、子息・新左衛門なり。父は信玄公の御感状11、子息は7つで武功の武士である。御旗の後先に乗り、
当番が先、あけ番が後、これも各番なり。

――『甲陽軍鑑末書』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 20:57:31.27 ID:lsv+hvPP
>>955-957
天上天下唯我独尊は仏教用語
フロイスのこの記述とも合致する

>信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 10:35:47.67 ID:iXW+Hetr
旗の色、赤は平氏、白は源氏

信玄公軍法、4人のままになり給う事

2019年05月24日 14:43

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:04:29.85 ID:W72lPDZB
一、馬場美濃(信春)は戦のなされようを申し上げる。

一、山県三郎兵衛(昌景)は「御働きなされて良いかと」と勧め申し上げる。

一、内藤修理(昌豊)は「どこどこへ御働きなされよ」と、指図申し上げる。その様子は北条家を掠め給う
  場合でも伊豆か相模か鉢形か。関東ならば新田・足利か。家康ならば遠州か三河か。信長の東美濃か。
  さては越後かと、様子を推測して内藤が申し上げた。

一、高坂弾正はこのうえなく敵国へ深く働き、あるいは「御一戦は必ず御延引」と計り申し上げる。良く隠
  密することにより、働きは前に知れず。ただし侍大将衆は存じているのである。

一、信玄公軍法の事、馬場美濃守・内藤修理・高坂弾正・山県三郎兵衛4人のままになり給う事、口伝あり。

――『甲陽軍鑑』

hr size="1" />
937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:09:09.84 ID:+ueqcqA2
何言ってんだか良く分かんない



本当の合戦両度ながら、信玄公御勝利なり。

2019年05月19日 12:30

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 17:20:23.05 ID:WLVYKXLa
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

北条氏康公は河越で上杉管領8万余りの大軍に8千で勝ち給うといえども(河越城の戦い)夜軍であるから
敵は油断した故である。そうでなければ8万余りの人数に8千の北条家がどうして争って負け申すだろうか。

下総国府台で氏康公は安房の義広(里見義弘)に勝ち給えども(第二次国府台の戦い)、義広は初めは打ち
勝ち油断したところへ、氏康が掛かって利運になされたのである。

このように出し抜き、あるいは二股(節操がない)で小身な敵に勝ち、あるいは堀を掘って柵を付け打ち、
自分が逆心をし、または旗下の侍が合戦で突然裏返って敵となり、無理な勝ちを負けたとしても、負けとは
あまり心に意地を張るのをやめないのである。世間でも本当の勝負と批判はしないのである。

国持ち達が敵味方ともに2,3万の人数で白昼に合戦参るべしと、両方ともに他国の加勢はあるとしても、
大将が1人ずついて川も柵も裏切りも無く打ち合い、手勢ごとに槍を合わせ勝負をして実否を付けたのを、
本当の合戦と申すのである。これをどれかと分別で見申すと、川中島合戦と三方ヶ原合戦になるのである。
両度ながら、信玄公御勝利なり。

敵味方ともに2千,3千での勝負は諸国にそれこそいかほどもあるだろうが、それは大合戦とは申さない。
大合戦ではないから世間で取沙汰されないのである。信玄公が御勝利された相州みませ合戦(三増峠の戦い)
も氏康公・氏政公父子が到着されない以前に、北条家の先衆ばかり切り崩しなされたので、本当の合戦とは
申しがたい。

北条陸奥守(氏照)・阿波守助五郎(北条氏邦)の各々一類衆がいらしたといえども、大将の氏康父子は到
着なさらなかった。その以前、馬場美濃(信春)方へ向かった武士の中で金の制札と金の提灯を指物にした
2人の武士がいて、これもまた権を争い稼ぐところを、治部と市之尉が見て治部は金の制札を、市之尉は金
の提灯をと目標に致し「討ち申す!」と申して、その如く治部も市之尉もその武士を討って高名仕った。

指物を添えて自分の備の侍大将である馬場美濃守には見せずに、市之尉は治部を訪ね治部は市之尉を訪ねて、
互いに大口を叩くようであった。これは古今でもさほど無き働きである。

(後略。>>926

――『甲陽軍鑑』



信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



現在刀脇差を差すのは

2019年03月22日 12:45

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/22(金) 09:01:12.17 ID:OztkscXW
天文年中に、武田信玄が武器制作のことを諸臣に命じて、その議論を記録した『武具要説』(高坂彈正の
著とされる)という書がある。
その中に刀脇差について、長短得失の論が有る。信玄の頃より刀は大小を差すようになったものと考えられる。
現在刀脇差を差すのは、戦国の風俗が、今に伝わったものである。

(安斉随筆)



740 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/22(金) 10:50:26.30 ID:tK1z/NHF
二本差しって調べたら大小腰にさすだけじゃなくって違う意味もあるのね

その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし

2019年03月13日 19:14

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 18:14:59.38 ID:e+3JSm8n
武田信玄が信濃に発向する時、鳩一羽が庭の前の樹上に来た。人々はこれを見て、口々にささやいて
喜ぶ色があった。信玄がその故を問うと

「鳩がこの樹の上に来る時、合戦大勝にあらざる事はありません。これは御吉例です」

これを聞くや信玄は、その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし、衆の惑いを解いた。
鳩がもし来ない時は、人々に結果に対して疑いくじける心が生まれ、戦が危うくなることを
慮ったのである。

(武将感状記)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:05:54.14 ID:/4hQLrGf
>>717
文章だと一行で終わらせてるが、話聞いてから鉄砲一式持ってこさせて発射するまでどれくらいかかるんだ?

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:14:20.74 ID:ZvDr02Zm
「これは吉例です」「今日は凶日です」と言われたら、それを敢えて否定しにかかるエピソードは明智光秀や羽柴秀吉にもあったね

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:28:50.52 ID:VWiLU7G0
>>717
太閤「鳩が来ないなら来させてみせよう」
権現「鳩が来ないなら来るまで待とう」
ノブ「やっぱり鳩が来ないなら○す」

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:26:52.61 ID:FIxJ6/9L
ノブは桶狭間の時わざと神社で鳥放たせて吉兆扱いにしたんでは

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:46:03.82 ID:fpOp7GYF
上洛した時サクラ使ってる以上ありえん話ではないが
ノッブくらいになると咄嗟に何か見つけてアドリブで周囲を納得させられるだろう

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:09:20.79 ID:PU3Ax35N
鳩殺して負けたら神の使い殺してバチ当たったと言われそう
そんな逸話何処にでも転がってるよな

永禄12年、武田軍駿河撤退と武田重代の家宝・八幡大菩薩の旗

2019年01月06日 19:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:31:56.44 ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』


569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:32:29.35 ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 00:30:39.58 ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』



570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 20:16:27.89 ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 12:10:41.04 ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 14:28:39.05 ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 08:45:56.18 ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな

すべて信玄の作謀

2018年12月29日 17:14

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 19:44:13.74 ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』


薩た峠の戦い

2018年12月09日 19:09

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:37:48.91 ID:wtlDa408
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

頃は正月末つかた、余寒激しく山々の雪は未だ消えやらず、浜風はいたく吹き立てた。軍勢が堪え凌ぎかねて
いるその様を見て、武田信玄は駿府から多くの酒を取り寄せて諸軍に飲ませれば、諸軍勢はこれを飲んで寒気
を忘れ、大いに喜び勇んだ。

その酔心で気力を得て、「いざや一夜討して敵の眠りを覚まさん!」と2千余人が申し合わせ、各々その用意
をして山上に登ってみると、北条勢は寒気に耐えかねて、陣営ごとに焼火で寒気を凌いで座眠りしている者も
いれば、麓に集まりうずくまって縮み伏している者もおり、いずれも油断の有様なれば、武田勢は「これこそ
天の与えなれ!」と喜び、どっと喚き叫んで陣屋陣屋を蹴破り、弓鉄砲その他武具を分捕り、軽く纏めて引き
返した。

北条勢はその声に驚いて「ああっ夜討の入りたるぞ! 太刀よ、物具よ!」と、ひしめく間に寄手は軽く引き
取れば、北条方の将卒どもは、「余りの寒さに油断して大盗人にあった!」と後悔すれども、その甲斐なし。

この後は相互に夜討の用心をして、昼は両陣より50騎か百騎ずつが出て迫り合うのみとなったが、ある日、
武田方より跡部大炊介勝資が、地黄に紺筋の旗1流をさっと差し上げて、その勢3百余人が撞鐘の馬印を押し
立て乗り出した。北条方よりも松田尾張守憲秀が、白地に山道を黒く染め付けている旗を、これも1流を浜風
に翻して、その勢8百余人が打って出た。

互いに掛け合わせて始めの頃は弓鉄砲で射合い撃ち合ったが、後には双方騎兵を入り交ぜて突き合い切り合う
と見えたところで、武田方は小勢のために掛け立てられて2町余り敗走した。

北条方の松田尾張守が士卒に命じて敗走する敵勢を食い止めんと進んで来れば、跡部大炊介は取って返さんと
すれども、備が乱れ立って士卒の足並みはしどろもどろになり返せず、逃げようとすれば松田勢が近くに追っ
掛けて来て、跡部はどうしようもなく見えたところに、武田方より馬場美濃守氏勝(信房)が2百余騎で掛け
向かい、ひしひしと折敷の姿勢を取り、槍衾を作って一面に備えた。松田はこれを見て「今やこれまでぞ!」
と軍士を招いて引き返した。

この時、馬場の属兵・鴟大弐という者は紀州根来の生まれで大剛の兵のため、信玄は常にこれを寵した。この
大弐はこの日衆に抜きんで先頭に進み出て、松田勢を食い止めんと働いたのだが、鉄砲で腰を撃たれて倒れた
のを見た松田勢20騎ほどが、その首を取らんと馳せ集まった。それをこれも馬場の属兵である金丸弥右衛門
(弥左衛門)が、これを見るなり馳せ寄り大身の槍を取り伸べて、近寄る敵7,8人を突き倒し、大弐を引き
立てて味方の陣へ帰ったのである。

大弐は甲斐へ帰国の後に様々に治療し、腰は少し引いたけれども勝頼の時代まで生き長らえて、長篠の戦いで
勇戦した。その時に飯寄惣兵衛と名乗って討死したのは、この大弐であったのだという。

かくて北条と武田は90余日対陣し、4月28日に信玄はついに軍を帰し大地山を越えて甲斐に入った。北条
父子は駿河に入り、ここかしこに隠れていた今川の侍どもを招き集め、その他に小田原勢1万8千人を駿河の
蒲原・三枚橋(原注:今沼津と言う)・興国時・善徳寺・深沢・新庄、また伊豆の戸倉・泉頭・山中・鷹巣・
湯浅などの城々に籠め置いて、小田原へと帰陣した。

――『改正三河後風土記』


550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:45:15.64 ID:wtlDa408
甲斐勢の跡部・栗原(伊豆守か)は3百余騎で押し出すが、松田・富永(政家)の8百余騎に掛け立てられて
立つ足もなく敗北し、薩た山の下へ海際まで追い打ちにされた。剰え松田勢に食い止められ、取って返さんと
すれば備は乱れてしどろもどろとなり、引き退かんとすれば敵が押し掛けて追い詰めた。

跡部・栗原勢は一人も残らず討ち取られると見えたので、馬場美濃守は2百余騎で掛け向かうと、ひたひたと
折り敷いて一面に備えれば、松田勢が妨げられて挫けたところへ、内藤修理(昌豊)が横合に鉄砲を撃ち立て、
松田・富永も叶わず引き返した。

美濃守の同心・鴟大弐という者は大剛の兵で、深く働いて打ち合うも腿を鉄砲で撃ち抜かれて伏してしまった
ところを小田原勢が首を取らんと集まった。それをこれも美濃守の同心・金丸弥左衛門が走り寄って槍で突き
払い、大弐を引き立てて味方の陣に帰った。

しばらくあって敵味方は押し寄せ戦い、引き分かれてはまた寄せ合わせ、火が出るほど戦って両陣は相引きに
引き退いた。その後、信玄は如何に思われたのか、人数を出さず対陣して百騎2百騎の迫り合いのみで虚しく
春を過ごした。

甲斐は隣国ではあるが、大山を越えて通路は難儀なので数月の対陣で兵糧は尽き、4月28日に信玄は高野山
の麓、橘の小島を廻って終夜引き退いた。これによって、氏康父子も帰陣せられた。信玄がすでに今川を追い
落としたにも関わらず、氏康が(駿府を)手に入れたことは、犬の押さえし鶉を鷹に取られ、猟師の網にかか
りし兎を狼に食われたるが如し。

氏真の館を信玄はことごとく焼き払ったので(氏康父子は)久野弾正(宗政)・森川日向守・岡部次郎右衛門
(正綱)・河部大蔵らに御館の普請を言い付け、蒲原の城・大宮・善徳寺・高国寺・三枚橋・戸倉・志師浜・
泉頭に小田原勢を籠められた。

――『小田原北条記』



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/09(日) 16:01:40.91 ID:mbIVt329
>>549-550
両方の記述が一致してると信憑性高くて面白い。専門家はこういう作業ずっとやってるんだろうな。

久能山城

2018年12月03日 21:01

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/03(月) 07:03:54.33 ID:cI3SPXlp
武田信玄は駿府を焼き払わせ自身は久能に在陣した。そのため今川家を亡命した将士どもは降人に出て人質を
献ずる者は日々夜々に絶間なし。信玄は奥津の横山という所に要害を構え、穴山陸奥守信忠入道梅雪をここに
置いて守らせた。奥津に続いている山下という地は梅雪の所領なので、便宜のためにそう定めたのである。

ここにまた今川家の家士に庵原弥兵衛といって小身の者ではあるが、数度の高名比類なき剛の者がいた。特に
山本勘助入道道鬼の第一の弟子である。信玄は弥兵衛を召し出して「小勢で立て籠もり、大敵を引き受けての
防戦が容易な地形はあるか」と尋ねたところ、弥兵衛が申したことには、

「この久能山と申す場所は後ろは山の尾が長く引いて深山に続き、三方は岩石高くそびえて谷深く、そのうえ
用水も乏しくはありません。その中に1つの細道があって羊腸を踏んで雁歯に沿う難路です。秦の函谷、蜀の
剣閣もこれ以上とは覚えませぬ。実に一夫が怒れば三軍の士でさえ押して向かうことはできません。もっとも
要害の名地であります。

この山に城を築いて兵糧を多く蓄え置き、10人の勇士が心を合わせて弓鉄砲を掛け置けば、日本60余州の
総軍勢が残らず押し寄せようとも、容易く落城することはありますまい。

前述のことは先年、山本勘助が浪人して当国(駿河)にいた時に語ったものです」

と弥兵衛が申すと、信玄は大いに喜んで「それならば日を置かずにこの地に城を築かん!」と縄張り地祭りを
執り行い、土木の功が成就すると兵糧や馬の飼料までつぶさに点検して、今福常閑(長閑斎友清)とその子・
丹波(虎孝)に与力40騎を差し添えて、都合3百7十余人をここに籠め置いて守らせ、信玄は一先ず甲斐へ
帰陣したのであった。

また神君(徳川家康)は先年、御異父同母の御弟・松平源三郎康俊と酒井左衛門尉忠次の娘を今川家へ人質に
出されていたが、氏真はかねてよりその家人・三浦与一に預け置いていた。ところがこの度の駿府没落により、
与一も信玄に降参したため、与一は何かしら勤功にしようと思って氏真がかねがね預け置いていた人質を伴い、
甲府へと連れて行った。

これによって信玄は大いに喜び「この人質を我が方に留めて置けば、徳川殿も後々には私めの幕下に属される
ことは必定である!」とその人質を受け取り、甲府で番人に厳重に申し付けて守護させたのである。

――『改正三河後風土記』


甲斐もなき大僧正の官賊が 欲に駿河を追倒す見よ

2018年12月02日 17:56

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 19:16:47.19 ID:OplMdQS/
今川氏真の駿府退去後)

今川氏真の無二の寵臣・三浦右衛門佐(義鎮)は、氏真を伴い砥城の山家に忍んでいたが、朝比奈泰能(泰朝
の誤り)が使者を立てて氏真を遠江掛川城に迎え入れるに及び、右衛門佐も氏真に付き添って掛川へ参らねば
叶い難き身ではあるが、この年来に右衛門佐は氏真の寵に誇って古老武功の輩に無礼を振舞ったため、朝比奈
は右衛門佐を甚だ憎んでいたので、右衛門佐は大いに恐れて氏真と別れて、父・小原肥前守(鎮実)が守って
いる花沢城に入り、父子一緒に武田勢と一戦せんと立て籠った。

長谷川次郎右衛門(正長)は一族21人軍兵3百余人が藤枝の城(徳之一色城)に籠り、他に由比・浅原・
斎藤などの輩も伊具山に備えて一防せんと控えていた。故に信玄は容易には駿府へも入り難く、先手の山県
三郎兵衛(昌景)・馬場美濃守(信房)・小山田右兵衛尉(信成)・小幡上総介(信貞)・真田源太左衛門
(信綱)・同兵部少輔(昌輝)・内藤修理亮(昌豊)などを遣わして、駿府の城を焼かしめた。

折しも烈風が吹いて櫓やその他楼閣は一円に燃え上がり、黒煙は天地をかすめた。今川家数代の間に富貴奢侈
を極めて積み蓄えた財宝・珍器・名物は尽く焼亡し、金銀を散りばめた大廈高楼が一夕の灰燼となった有様は、
姑蘇城一夜の煙や咸陽宮三月の火もこうであったのか、呉越秦楚の古も思いやられて哀れというのも愚かなり。

(原注:『烈祖成積』『東遷基業』などには、信玄が賄賂で招くと留守を預かっている岡部次郎右衛門正綱は
信玄に降参して安部大蔵元真は退去し、後に神君に帰順した。その後に信玄は駿府の城を焼いたとある。

しかしながら翌年5月に神君が氏真と御和睦の後、氏真を駿府に帰任なさしめんと駿府の城を経営された時に、
岡部正綱兄弟にその事を命じられた。岡部がもし信玄に降参したなら、何故氏真のために築き給う城を岡部に
命じられようか。

まったく岡部はこの時までは信玄へ降参せず、氏真の味方であった故にこの普請を仰せ付けられたのであろう。
12年の11月より信玄は駿河に攻め入り、12月再び駿府を攻めた時に岡部はついに信玄に降ったのである。
安部もその時に退去したのであろう。よってここは成積・基業の説を取らない)

信玄は山県三郎兵衛に駿府を守らせ、自身は久能山に陣を取った。如何なる滑稽の者の仕業であろうか、翌月
駿府の焼き跡に一首の狂歌を大札に書いて立てたのである。

「甲斐もなき大僧正の官職を 慾に駿河の甥倒し見よ」
(欲のままに甥から駿河を奪わんとする大僧正の徳の無さを見よ)

信玄と氏真は舅甥の仲であるから、たとえ救援することは無いとしても、信玄は姦謀を巧みにして氏真の家人
どもを貨財をもって誘い、ついに国郡を奪い取ったことを憎まぬ者はいなかった故、このように誹謗したので
あろう。信玄は武門にあって何の故にか比叡山明応院に賄賂を送って大僧正の僧綱に任じ、今また甲斐を領し
ながら駿河を奪って甥・氏真の所領を失わしめた故、諸人はその無道を謗り憎むのも道理と知られたり。

これのみならず信玄が無道というのは、父・信虎を追い出して家国を押領し、罪なき嫡子・太郎義信を殺害し、
諏訪刑部大輔頼重と和睦し、頼重を甲斐へ招き寄せて偽り殺してその国郡を奪い、そのうえ頼重の娘を妾とし、
その腹に勝頼を設けた。

このような暴悪の所行は挙げて数え難し。今川家の重宝である京極黄門定家卿真蹟の古今集を借りて、ついに
返さず、国中の盲人を召し集めて焼き殺すといった類は物の数ではない。老算妙謀古今に比類なく、軍法戦術
は孫呉を彷彿させるといえども、子孫の繁盛は覚束ないと思わぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記』

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 01:14:12.53 ID:7oc/IBR2
武田先手の山県三郎兵衛・馬場美濃守・小山田・小幡・内藤の3千5百余騎は江尻・宇和原まで押し来たる。

駿府の地下町人は申すに及ばず、城中の男女は慌てふためき徒歩裸足で走り出て、どことも知らず迷い行く
のを、情けも知らぬ下部どもがここかしこに乱れ散って衣装を剥ぎ、手に持っている物を奪い取れば、喚き
叫んで悲しむ有様は、哀れというだけでは言い尽くせない。

そうして信玄の手に触る者もなく武田の軍兵は城中へ乱れ入り、今川の館を焼き払った。さしも長年作り磨か
れた大廈の構えが一時に灰燼となってしまったのは、何とも酷いものであった。

翌日に如何なる滑稽の者がしたものか、御館の焼け跡に、

「甲斐もなき大僧正の官賊が 欲に駿河を追(甥)倒す見よ」

と書き立てたのである。末代といえども氏真は信玄の甥であるから、親しき誼を疎んで捨てるまでは良いと
しても、押し倒して国を奪い取ることは無道至極であると眉を顰める人が多かった。

信玄は駿河衆を手に入れ、その人質を取って甲斐へ遣わされた。駿河花沢の城主・小原肥前、同藤枝の城主・
長谷川次郎左衛門、遠江掛川の城主・朝比奈備中守、その他に戸久・一色の城代らは無二の忠臣で、まず氏真
を掛川の城へ迎え入れて、その勢7千余騎は城を堅固に持ち堅め、用心は厳しく見えた。

この度、忠義を忘れて敵に与し、譜代重恩の主君を押し倒す輩はまさに人皮畜生と言えよう。

――『小田原北条記』


氏真はこの事を夢にも知らず

2018年11月26日 17:46

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 18:14:09.89 ID:ZB80nPSy
(薩た峠の戦いの時)

永禄11年(1568)11月6日、信玄は3万5千余人を引き連れて甲府を出軍し、下山通を経て由井八幡坂を左に
見なし、長坂を越え宇津総というところへ日数7日で押し付けて松野に陣を取った。信玄にかねがね内通する今川方の

諸将へ「いよいよ忠勤を励むべし。恩賞は望みのままであろう」と申し送った。氏真はこの事を夢にも知らず、信玄が
出軍したと聞き「さらば出向かい蹴散らさん!」と人数を催した。先陣の庵原左馬進忠宗と同安芸守忠胤は2千余騎で

薩た峠を前にして陣を取った。2陣は岡部忠兵衛長宗(土屋貞綱)・小倉内蔵助直次(資久)が7千余騎で八幡に陣を
取る。総大将・今川氏真は2万5千余騎で清見寺に備えていた。今川家一族や旧好の宿将老臣かれこれ21頭は

総じてその勢3万4千余。「股肱金鉄の勇士どもも今日を大事と兜の星を輝かし、具足の袖を連ねて雲霞の如く列して
いるから、今川と武田の雌雄を決する大合戦、さぞやいかめしき事であろう」と敵も味方も固唾を飲んで今日を最期と

思っていた。そこへ信玄方先手の旗の手が見えると、そのまま後陣に備えている今川方の朝比奈兵衛太夫秀盛(信置)
は早々に陣を払い駿府へ逃げ帰った。これを見て瀬名陸奥守親隆(氏俊)とその子・中務大輔氏範(信輝)や三浦与一
義高・葛山備中守氏信(氏元)、ならびに武田陸奥守信虎が駿府で設けた上野介信隆(信友)らを始めとしてかねがね

信玄に内通する侍大将21人の輩が同じく評議したことには「氏真の暗愚ではとても駿河・遠江領国を長く守ることは
できない。ついには織田・徳川両家のために切り取られるよりも、かねがね信玄が所望の如く信玄に授けて、その功を
もって我らは恩賞に郡邑を数多申し受けよう。これこそ家名を失わずに富貴を得る妙計である」と評議一決して各々

駿府へ逃げ入った。数代恩顧の老臣がすでにこの如くなれば、前後に隙間なく居並んでいる諸軍勢は氏真を顧みもせず、
しばらくの間に我も我もと逃げ帰り近辺に人ありとも見えざりけり。先陣の庵原左馬進と同安芸守が後ろを振り返って

見ると、後陣はにわかに群れ立って引き退くかと見えたので「これはいかがしたことぞ! 八幡辺りに控えている味方は
堪えているか見て来い!」と使者を遣わすと、やがて馳せ帰って「この近辺にいた味方の勢は1人も見えません!」と

言った。庵原は聞いて「それではこの勢だけでは武田との合戦は叶わない! ひとまずは駿府へ引き返し、重ねて軍議を
定めて合戦する!」と申し、21人の老臣どもを召し集めたところ各々別心を企てたのかもしくは武田勢に恐れたのか、
一言も存慮を申し出す者もなく途方に暮れた有様であった。

――『改正三河後風土記』



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 20:24:40.17 ID:542rKWP7
信玄視点だとまさに戦わずして勝つを体現したいい話かな
氏真視点だと眼も当てられないが