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此の頃の大将弓矢取様之事

2023年07月09日 16:30

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/08(土) 22:09:11.41 ID:58EwJ9sF
此の頃の大将弓矢取様之事

一、北条氏康公は名大将にて度々の軍に勝利を得給う中に、夜軍にて管領上杉の大敵にひとしお付け、
  終に(上杉)憲政に斬り勝ち追い討ち、関東を切従えるように成った。つまり北条家の弓矢は、
  敵の油断を肝要に目を付けるものなのだ。

一、越後の(上杉)謙信は、後の負けにもかまわず差し懸る合戦をしようとするが、それは氾濫した川を
  無理矢理に渡るような仕方である。殊更相手がましい敵に対しては、いつも退き口が荒い。
  謙信は加賀、越中、或いは関東碓氷などで敗軍したことがあるが、武田信玄公と対峙する時は
  無二に仕掛け申された。

一、織田信長は取り囲んだ城の包囲を解いて撤退し、境目の小城をいくつ攻め落とされても問題としない。
  追い崩されて自軍の人数を追い討ちに討たれなければ、世間の取り沙汰は無いのだから。
  攻め難い所は急ぎ引き取り、すぐに(別方面に)出兵して国を多く取って持ち、大身と成れば、
  終にはその名は高きものとなる、という事である。

一、(武田)信玄公は軍に損害の無いように、敵を見て退き口が荒くならないようにした。
  包囲した城に対し敵の後詰め(援軍)が来ても、それを見て(慌てて)包囲を解いたり撤退しないよう、
  出陣の前からその方針を軍勢によく理解させて出る。
  総じて、我が領分の小城を一つも取られないように、跡の勝利を水にしないようにさえ有れば、
  末代まで名は残るものである。
  さて又、国を多く治めることについて信玄公は、その身の果報により少しも怪我無くして名を取ったが、
  この上寿命が長ければ終に扶桑(日本)六十余州の主とも成るだろうと仰せに成られた。

  信玄公の御作法は御小旗に文字で書かれている、四ヶ条の如くである。その古語とは、
  一其疾如風
  一其徐如林
  一其侵掠如火
  一其不動如山

甲陽軍鑑



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武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

2023年06月27日 22:49

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/26(月) 22:49:28.43 ID:BntjdKkv
武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

一、敵討ちについて、親のかたきを子が討つのは順、兄のを弟が討つのは順、
  子のかたきを親が討つのは逆、弟のを兄が討つのは逆である。
  叔父のかたきを甥が討つのは順ではあるが、討たなくても問題はない。

一、合戦、競り合いにおいて相打ちは非義である。強き武士は、大方の場合はしるし(頸)を
  取ろうとするものだが、よき武士というものは、しるしを取らなくても問題としない。
  相打ちは必ず無用である。例えば鑓を合わせる時、相鑓などと言う事は無いではないか。

一、味方討ちは御大将への逆心である。これはまた。ばい頸(売頸?)より劣った行為である。

一、武士の寄り合いの時、互いに仲が悪かったとしても、乗打をしてはならない。この時たとえ
  打ち果たしたとしても、無礼は弓矢神への恐れとなる事であるのだから、そのことをよくよく考え、
  実の道理を深く守るべきである。

一、親はまた、家中に奉公している場合、御旗本に奉公している親兄弟が科をして主人に成敗させられた
  事について、無分別な人々はこれを、「敵討ちの沙汰である」と申すが、それは不案内の儀である。
  能く沙汰してみれば、科有る者は敵討ちを厭い、故に成敗なくしてはおかざるものなのである。
  であるのだから、主に成敗された事を以てかたきと受け取るのなら、御旗本に有る人を屋形様が
  御殺した場合、その子は又屋形様を狙うであろうか。それは非儀であり、あってはならない事だ。
  であれば、「主人に成敗されたのに、その主人を(敵討ちとして)討たない」などと言って
  誹謗するのは、一段の無詮索ではないか。
  もし、前々から遺恨があったというのであれば、討ち手に人を討つ事もあるだろう。
  しかしそれとても、道理に外れた事である、

甲陽軍鑑



本当の合戦

2023年06月10日 17:36

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/10(土) 14:45:15.92 ID:WMKENhuW
ここ百年来、本当の合戦(本来の合戦)というものはほとんど無い。但し二度本当の合戦があった。
それは永禄四年の信州川中島合戦、遠州三方ヶ原合戦の二つである。

北条氏康公が河越において上杉管領八万余の大軍に、氏康八千にて勝たれたが、これは夜軍であったため
敵が油断した故である。そうでなければ八万余の軍勢が、人数八千の北条家にどうして負けるだろうか。
下総の国府台において氏康公は、阿波の義広(里見義弘ヵ)に勝利されたが、義弘ははじめ打ち勝ち、
そのため油断した所に氏康が懸って利運になされた。

この如くに出し抜き、或いはふたまたにて小身となった敵に勝ち、或いは堀を掘り、柵を付け打ち、
自身が逆心、また旗下の侍が合戦の場においてにわかに裏返って敵になる。

こうして無理な勝負を負けても、負けたとあまり心の負担に成ることはない。世間においても
本当の勝負であったという評価はされない。

国持同士が、敵味方ともに二、三万の人数を以て、白昼に合戦参るべく候とて、両方ともに、
他国の加勢はあっても、大将は一人ずつで、堀も川も柵も裏切りも無く打ち合い、正面から鑓を合わせ、
勝負をして実否を付けたものを、本当の合戦と言うのである。

甲陽軍鑑



そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され

2023年06月07日 19:25

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/06(火) 21:28:53.52 ID:BK+o2M/d
元亀四年は天正元年へと替わった。しかれば天正元年四月十二日に、武田信玄公は御他界なされた。
そのため即ち、その年五月より勝頼公が御仕置を執られた。ただし、他国の諸々の敵衆、越後の謙信、
岐阜の信長、浜松の家康、その外関東の新田、足利、飛騨、越中といった、各々小敵まで含めて、
その聞こえのため、また相州北条氏政公は信玄公の旗下にあったが、法性院殿(信玄)の御他界を聞けば
即時に敵対なされるだろうと予想された。そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され、御患いとばかり
申しならわした。

甲陽軍鑑

信玄の死を秘匿したことについての、武田家側の見解。



三月上旬に、武田信玄公の御病気は一段平癒された

2023年06月04日 17:47

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/04(日) 15:03:32.74 ID:F4RPUIsG
天正元年(元亀四年)三月上旬に、武田信玄公の御病気は一段平癒された。その仔細は、板垣法印が薬を進上し、
その上四花の灸をされ給った事で、御快気目出度くましまして、同三月十五日には、織田信長の居城する国の内、
東美濃へ発向有るべきとの旨を公表され、その陣触れが甚だしかった。
諸人は大小・上下共に尽く、この度の陣には一入忠功を励まし御感に預からんと、喜ぶこと限りなかった。

甲陽軍鑑

武田信玄の西上のさい野田城を陥落させた後発病したとされ、その後元亀四年四月十二日に死去するわけですが、
一時的には回復し、東美濃攻略を目指していたらしい、という記述。



【ニュース】“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開

2023年05月15日 20:27

756 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:01:07.43 ID:ZDewH9ua
https://image.shinmai.co.jp/web-image/20230426/CNTS2023042600087_S.jpg
CNTS2023042600087_S.jpg

NHK信州 NEWS WEB“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 下諏訪町
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230502/1010026425.html

戦国武将、武田信玄が実際にかぶったとされる「諏訪法性兜」が、下諏訪町で特別公開されています。
下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館では、今から450年前の1573年に亡くなった武田信玄が、
戦場でかぶったとされる「諏訪法性兜」の実物が特別公開されています。
鉄や革などでつくられたかぶとは幅がおよそ40センチで、前立には金色の角をつけた赤鬼が配され、
頭頂部から肩にかけて施されたヤクの毛が印象的です。
このかぶとは元々、諏訪大社が所有し、信玄は軍神として名高い大社の諏訪明神を厚く信仰し、戦勝祈願を
行った大社で、このかぶとを借りて戦場に向かったと伝えられています。

諏訪法性の兜について

2023年05月15日 20:25

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:05:37.68 ID:ZDewH9ua
笹間良彦甲冑と名将』より
諏訪法性の兜について

昭和・平成初期の甲冑研究の大家笹間良彦によれば、武田信玄は諏訪明神を篤く信仰し、陣中に諏訪南宮法性大明神の幟を立てたという。
同じく兜に諏訪南宮法性大明神の神号を刻んで、川中島以下の合戦に着用したとされる。
この兜は、現在、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に所蔵されるものがそれである。

月岡芳年の武者絵やこの兜にはふさふさとした白熊(白いヤクの毛)の飾りがついているが、実は長篠合戦の時期に武田勝頼が、徳川方から
鹵獲した唐の頭(同じくヤクの毛飾り)の兜を、「唐の頭を手にとったことがない故、持参して見せよ」と命じたという。

こうなると信玄の兜の飾りを実の息子が知らなかったという矛盾が生じる。
江戸時代後期の浄瑠璃・歌舞伎作品『本朝二十四孝』の中で、上杉家の息女八重垣姫が獅噛の前立に白熊の毛の兜を持って現れるが、
ここから後世誤って実像が作り上げられ、下諏訪の「諏訪法性の兜」も製作されたものと思われる。


以上は歴史研究者にはよく知られた話でありますが、時代劇の信玄と言えばこれ以外の格好は思いつかないくらいの定番なので、テレビドラマでは
なかなか外せない状況のようです。


なお、これが本物であると新庄藩戸沢家に伝来した諏訪法性兜なども、一般非公開だが失われずに実在します。こちらはごく普通なデザインの東国系兜です。



まとめサイトの関連する過去ログはこちら

八重垣姫の像・碑文
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13689.html
名高き兜を敵に取られては如何なものか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
戦国の遺品がなんでそんなところに、「諏訪法性兜」編
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3387.html
武田信玄の「諏訪法性の兜」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html



足軽大将、侍大将の心得

2023年05月14日 17:52

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/14(日) 13:33:46.82 ID:h/ZA9HOh
足軽大将が心得るべきことは、自身で戦働きをするのは過失に繋がるという事である。
脱体の勝負を分別して足軽を扱い、軍の先達をして、味方の勝利を得るよう仕らなければならない。
その上で後に良き敵があれば、それを討つのも尤もである。

侍大将は自身を同心被官が貴むようにしなければ、御大将として成り立たない。
合戦では勝利を見極めて勝負をし、味方を諌め、後軍を二重三重に考え、危なげも無いようにするのが肝要である。
五度の衝突があれば一、二度は敵を崩し、その後敵に能き武者が有れば手にかけても然るべしである。
但し小身より度々覚えある人が(立身して)大将になった場合、自身の働きは一切すべきではない。
もし若い頃の心が出てきてしまえば、大きな過失の元となる。

若き衆は御大将の使いに先へ走り、晴れなる高名をもし、度々を重ねて足軽大将になる、或いは
侍大将にもなるべきである。
信玄公の御渦中は、この如きであった。

甲陽軍鑑

足軽大将、侍大将の心得について



これらが三つの采配であり

2023年05月10日 19:16

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/09(火) 20:18:51.52 ID:z2UNFaNf
大将の三つの采配とは、第一に、常々自国・他国共に武士の手柄、忠節、忠功について、上中下共に
よき評価をすること。

第二に、人をよく見知り、それぞれに役を申しつける事。

第三に、忠節、忠功の武士に、手柄の上中下をよく詮索した上で、三段に恩を与えること。

これらが三つの采配であり、こういった事が悪しければ、諸侍は行儀ばかり慾り、上中下のうち
下の手柄であっても、様々なやりようで上になるのだと心得、戦場での働きを控え、軽薄な者
ばかりとなって、その大将の矛先が弱くなる。

であるから、この三ヶ条は国持大将の采配である。
そしてまた、手で采配を振るうというのは、国持大将の下である侍大将、或いは足軽大将の役目である。

甲陽軍鑑



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/10(水) 10:33:50.91 ID:f26oxxe6
じゃあその三条の具体例が続くのかな
それともここまでに書いてるのかな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/10(水) 12:16:35.86 ID:tcUmS+y+
ワイは人を見る目は確かで適材適所ができて適切な評価で褒賞授与できる大将(笑

戦いには、勝ち様が三つ有る

2023年05月06日 16:13

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/06(土) 14:50:46.01 ID:MCigo0Yu
武田信玄公は大将衆への御仕置において、このように御諚された

「競り合い・合戦といった戦いには、勝ち様が三つ有る。

十のうち六分・七分の勝ちが一つ。
十のうち八分・九分の勝ちが一つ。
十のうち十全の勝ちが一つ。

第一に、十のうち六・七分の勝ちは、これ十分の勝ちである。
第二に、十のうち八・九分の勝ちは危うい。
第三に、十のうち十分の勝ちは、その後必ず過失があって、跡の誉れを無にしてしまうだろう。」

また信玄公は宣われた

「若き大将が十分に勝っても、そのため過失があっては、その後どれほどの勝利を得ても、
若き時の過失による敗北を引き出され、後々までその過失を指摘されるものである。

必ず大将たらんとする者に、十を十ながら勝ちたいという思案があれば、それは自分の心中より
大敵・強敵を数々作り出し、勝利を失うであろう。

そういった意識は悪事を招くものなのだと、相心得るように。」


甲陽軍鑑



敵討ちのことについて

2023年04月02日 17:20

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/02(日) 16:24:46.07 ID:0/464KFC
敵討ちのことについて。

先ず、狙われる側の人は常に寝所を変え、昼夜用心し、その上路次を行く所に、先に敵が待っていると聞けば、
脇道を通って迂回するなど、どのように仕るとも討たれるようにするのが分別尤もと言える。
この事を、無案内な人々から卑怯であると言われても、全く問題はない(此儀を無案内なる人々比興という共不苦)。
信玄家の作法はそのようになっているのだ。

次に狙う人は、その身が怪我をしたことへの意趣であるなら、夜昼共に狙って討ち果たそうという時、
その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを
手柄といたすべきである。

自分の意趣で討つ場合でも、敵討ちであっても、その敵の家に忍び込んで討ち果たすのは、ひとしお良き
心馳せと申すものである。

他の家はどうであれ、信玄家の作法は斯くの如しである。

甲陽軍鑑



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 09:10:38.20 ID:d0SphvuW
>その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
>さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを手柄といたすべきである。

ここすき

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/04(火) 21:14:50.13 ID:Flu5Hexi
この書き方だと、妻や子供の敵討ちというのは、弓や鉄砲は駄目なんだな。

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/04(火) 21:22:08.31 ID:mUM08mQR
そもそも目上の男性の敵以外は敵討にならないよ

武田信玄公は、軍法を新しくなされた事について

2023年03月22日 19:32

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 22:17:10.16 ID:x6CQOMpB
甲州において、武田法性院大僧正信玄公は、軍法を新しくなされた事について、このような古歌を索かれ説明された

・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし   聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ  達磨大師

『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。

凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。

件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。

さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』

と宣われたのである。

甲陽軍鑑

信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。



武田信玄公の人を召し使い方は

2023年02月15日 19:06

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/14(火) 20:42:38.59 ID:UZkk1VwY
ある時、馬場美濃守(信春)がこのように申した。

武田信玄公の人を召し使い方は、何とも私の分別に及ばない。どういう事かと言えば、
例えば職(裁判官)を用いての公事(裁判)沙汰などの裁きようは、物を読み物を知って、いかにも慈悲
やわらかなる人の技であると思えるのだが、或る年には原美濃守(虎胤)という大剛強のあら(荒)人に
職を仰せ付けられた。こういった事が不思議だと申したのは私ばかりではなく、各々が取り沙汰したのだが、
結果としてこの原美濃守の抜擢は、なんとも良き仕置であった。

そうではあったが、この原美濃守が公事にかかりきりになると、諸々の境目(国境)における武士道の御用が
困難になるとして奉行を上げられたが、その後しばらく、二,三ヵ月も後任の職が定まらなかった事、
また原美濃守殿ほど公事に理屈、批判を用いる裁判官は無いと言われたことは、信玄公の御工夫が
浅くなかったからこそである。

そのようであったからこそ、信玄公が何処へ御馬を向けられ、しかも敵国深くでの働きが有る時も、
諸々の武士、大小共に侍衆の事は申すに及ばず、誠に雑人まで「定めてこれは勝つだろう」と思い、
少しも撤退すべきなどとは考えなかった。これは信玄公の智略賢くまします故である。」

甲陽軍鑑



669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/15(水) 17:10:30.83 ID:7xbgD4U9
その割に政治力低いのな

朝に志し、夕べに思うほどに

2023年02月11日 14:54

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 11:59:15.16 ID:Jx7Icl4Q
ある時武田信玄公はこのように言われた

「世の中の人は色々である。既に分別が有っても才覚のない人が有り、才覚が有っても慈悲のない人が居る。
慈悲が有っても人を見知らぬ者もある。

人を見知らぬ者は大身の場合、彼をとりまいている者共はその十人の内八人ほどに、役に立たない者が多い。
小身の場合、彼が親しく付き合う朋輩の、悪しき友人に近づく。
このように、人は色々様々に変わって見えるが、要はただ、分別の至らぬ心のゆえである。

分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても能く
行うものだ。そのように、人間は「分別」の二文字を諸色の元であると認識し、朝に志し、夕べに思うほどに
分別をよくせよ。」

そのように信玄公は仰っしゃられたのである。

甲陽軍鑑



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 12:21:33.73 ID:x/H7JQan
甲陽軍鑑の武田褒めは空々しくて寒々しい

これはみな虚言である

2023年02月08日 19:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 20:59:36.20 ID:uH6/DNEA
天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。

新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。

その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。

甲陽軍鑑

野田城の戦いについて



信玄公、人の御使いなされよう

2023年02月03日 18:50

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 18:42:25.15 ID:G38mHENW
信玄公、人の御使いなされよう

信玄公は第一に、後ろ暗さが無いようにとされた。諸人が後ろ暗くなるのは、御恩を下す際、
上中下の詮索もなく、忠節、忠功の走り廻りも無い人々に所領を下すような事をすれば、
手柄のない人々は必ず軽薄を以て、功を繕って立身する故に、実際に忠節、忠功を成した人を嫉み、
悪口して逆に己の党の者を褒める。そういった者たちの奥意は主君への御為も思わず、
意地を貪って、へつらいまわる心である。故に、後ろ暗くなるのである。

信玄公は忠節、武功の武士には大身、小身によらす、尊卑にもよらず、その身の手柄次第に感状、また
御恩も下された。故に人が贔屓を執り成す事も、少しも叶わなかった。そのため、諸人の後ろ暗い事も
少なくなったのである。

甲陽軍鑑



遠州御発向の御備定は

2023年01月24日 19:00

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 16:37:30.54 ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

甲陽軍鑑

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。



御助けなされ忝なし

2023年01月18日 19:34

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/17(火) 22:04:46.04 ID:jYCDJFyo
元亀元年霜月下旬に、諸角助七郎と原甚四郎(盛胤)とが、御城(躑躅ヶ崎館)において喧嘩を仕り、
双方二ヶ所づつ負傷したが、相番の衆が彼らを引き離し、討ち果たすことは無かった。

御前狼藉の故に武田信玄公は大変御立腹されたが、原甚四郎は父である原美濃が度々の御用に立つこと
三十度に及んだ者であったので、それに免じて陣より国に帰らされ、父の武功の御奉公に免じられ、命を
御助けなされた。

諸角の父である豊後も度々の忠功ある侍大将で、その上川中島合戦の時討ち死にを仕った。
この父・豊後に免じて、諸角助七郎も命を御助けなされた。
これらは典厩(武田信豊)、四郎殿(勝頼)御両人を以て仰せ付けになられた。

しかしながら御前の狼藉であり、諸人への見せしめのためにも、原甚四郎も諸角助七郎も、知行同心を
召し上げられ、諸角同心の五十騎は一条右衛門太夫殿へ預けられ、原甚四郎の同心は今福丹波に預けられた。
また原甚四郎の家屋敷共に土屋に下され、この両人は外様のように成ってしまった。

しかし少給、少扶持にて堪忍仕り、物哀れなる体なりと言えども、御成敗有るべき所を、父の武勇、御奉公に
免じられて、御助けなされ忝なしと存じ奉ったのである。

甲陽軍鑑

いわゆる喧嘩両成敗の実態について



千兵は得やすいが一将求め難い

2023年01月17日 19:07

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/16(月) 20:49:29.60 ID:PJyhHbaY
永禄十二年十二月、駿府の今川殿館に岡部次郎右衛門(正綱)と申す三百貫の知行取りは、今川家の
近習、小身の侍達を数多の人数集めて立て籠もった。
これを武田信玄は暫く攻めたが、「次郎右衛門が小身にてこれほどの抵抗をするとは、如何様只者ではない」
と思し召された

「千兵は得やすいが一将求め難い。この次郎右衛門を助け置き、取り立てて我が先鋒をさせれば然るべし。」
として講和され、岡部次郎右衛門は信玄公の御被官衆となった。そして古主である今川殿からは
持たされることのなかった人数を五十騎、次郎右衛門に下され、また三百貫を三千貫になされ、
その時より岡部次郎右衛門を侍大将と成された。

甲陽軍鑑



武田信玄は剣を回して甲府に

2023年01月04日 19:06

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/03(火) 20:33:31.63 ID:dH72IYYe
永禄十二年の駿河における武田と北条の対陣は、正月十八日から同年四月二十日までの九十三日であった。
日夜のせり合いにおいては、武田方の跡部大炊介が一度松田尾張に追われたこと以外は、みな小田原北条衆が
武田に遅れた。
然し乍らあまりの長陣故に、信玄公は家老衆を召し出し、それぞれの意見を聞いた。

内藤修理(昌豊)は、
「薬師は眼の養生に、すねの三里に灸をおろします。」
馬場美濃(信春)は
「けらつつき(キツツキ)が虫を食べるに、他の鳥と違って穴の後ろを突き、口に出てくるのを取ります。」
と申した。

信玄公「さては各々の分別、いずれも同意である。」と、山西の抑えである山縣三郎兵衛(昌景)を駿府より
召寄せ、北条方の陣城を一つ押し散らさせ、山縣の同心である、みしな、広瀬、小菅、その他手柄の者たちに
御証文を下され、二日目の夜は馬場、山縣両大将に仰せ付け、由井の源三郎といって、氏康公の二番めの
子息で武蔵八王子の城主(氏照)の陣屋の前に柵をふり、筵にて囲った。柵が幾つも焼かれたのを
尽く踏み破らせた、

四月二十七日に信玄公より仰せ出があり、次の日の二十八日には信玄公は陣を払い、駿河庵原の山を越えて、
道も無い所を原隼人助(昌胤)の工夫に任せ、終に甲府へと帰還した。
北条家ではこの事について「武田信玄は剣を回して甲府に逃げ込まれた」と申したという。

甲陽軍鑑

武田軍の駿河からの撤退について



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/04(水) 07:13:17.97 ID:1ewKKFZE
つまり大敗だったんですね