889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/08(土) 22:09:11.41 ID:58EwJ9sF
此の頃の大将弓矢取様之事
一、北条氏康公は名大将にて度々の軍に勝利を得給う中に、夜軍にて管領上杉の大敵にひとしお付け、
終に(上杉)憲政に斬り勝ち追い討ち、関東を切従えるように成った。つまり北条家の弓矢は、
敵の油断を肝要に目を付けるものなのだ。
一、越後の(上杉)謙信は、後の負けにもかまわず差し懸る合戦をしようとするが、それは氾濫した川を
無理矢理に渡るような仕方である。殊更相手がましい敵に対しては、いつも退き口が荒い。
謙信は加賀、越中、或いは関東碓氷などで敗軍したことがあるが、武田信玄公と対峙する時は
無二に仕掛け申された。
一、織田信長は取り囲んだ城の包囲を解いて撤退し、境目の小城をいくつ攻め落とされても問題としない。
追い崩されて自軍の人数を追い討ちに討たれなければ、世間の取り沙汰は無いのだから。
攻め難い所は急ぎ引き取り、すぐに(別方面に)出兵して国を多く取って持ち、大身と成れば、
終にはその名は高きものとなる、という事である。
一、(武田)信玄公は軍に損害の無いように、敵を見て退き口が荒くならないようにした。
包囲した城に対し敵の後詰め(援軍)が来ても、それを見て(慌てて)包囲を解いたり撤退しないよう、
出陣の前からその方針を軍勢によく理解させて出る。
総じて、我が領分の小城を一つも取られないように、跡の勝利を水にしないようにさえ有れば、
末代まで名は残るものである。
さて又、国を多く治めることについて信玄公は、その身の果報により少しも怪我無くして名を取ったが、
この上寿命が長ければ終に扶桑(日本)六十余州の主とも成るだろうと仰せに成られた。
信玄公の御作法は御小旗に文字で書かれている、四ヶ条の如くである。その古語とは、
一其疾如風
一其徐如林
一其侵掠如火
一其不動如山
『甲陽軍鑑』
此の頃の大将弓矢取様之事
一、北条氏康公は名大将にて度々の軍に勝利を得給う中に、夜軍にて管領上杉の大敵にひとしお付け、
終に(上杉)憲政に斬り勝ち追い討ち、関東を切従えるように成った。つまり北条家の弓矢は、
敵の油断を肝要に目を付けるものなのだ。
一、越後の(上杉)謙信は、後の負けにもかまわず差し懸る合戦をしようとするが、それは氾濫した川を
無理矢理に渡るような仕方である。殊更相手がましい敵に対しては、いつも退き口が荒い。
謙信は加賀、越中、或いは関東碓氷などで敗軍したことがあるが、武田信玄公と対峙する時は
無二に仕掛け申された。
一、織田信長は取り囲んだ城の包囲を解いて撤退し、境目の小城をいくつ攻め落とされても問題としない。
追い崩されて自軍の人数を追い討ちに討たれなければ、世間の取り沙汰は無いのだから。
攻め難い所は急ぎ引き取り、すぐに(別方面に)出兵して国を多く取って持ち、大身と成れば、
終にはその名は高きものとなる、という事である。
一、(武田)信玄公は軍に損害の無いように、敵を見て退き口が荒くならないようにした。
包囲した城に対し敵の後詰め(援軍)が来ても、それを見て(慌てて)包囲を解いたり撤退しないよう、
出陣の前からその方針を軍勢によく理解させて出る。
総じて、我が領分の小城を一つも取られないように、跡の勝利を水にしないようにさえ有れば、
末代まで名は残るものである。
さて又、国を多く治めることについて信玄公は、その身の果報により少しも怪我無くして名を取ったが、
この上寿命が長ければ終に扶桑(日本)六十余州の主とも成るだろうと仰せに成られた。
信玄公の御作法は御小旗に文字で書かれている、四ヶ条の如くである。その古語とは、
一其疾如風
一其徐如林
一其侵掠如火
一其不動如山
『甲陽軍鑑』
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