長坂源五郎の事

2017年02月12日 09:25

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:11:19.37 ID:1YM6JH+R
長坂源五郎の事

武田信玄長坂源五郎の心気を試そうと、
度々美女を源五郎の方へ御用を申し付けて使いに出されました。
すると、度々の事なので後になっていくと、
源五郎は嗜みが緩みその女に戯れた言葉をかけてしまった。
その様子を御側の者から聞かれると、信玄は実際にその様子を御覧になられ、
とうとう源五郎を見限られたといいます。

かりそめにも美童美女等に、たとえ遠くから見る人聞く人がいなくても、
少しも戯れた様子で詞をかけてはならないということです。
嗜むべきなのは『色の道は金銀の事』と
堅く守らなければならないということです。


『武士としては』



596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:39:21.28 ID:rnvBOGUA
ハニートラップしかけて浮気調査

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:40:36.37 ID:vQNGMvww
モニタリング?

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 06:17:26.53 ID:vMpwbjHL
嫌なやつだなw
スポンサーサイト

甲州伝目つぶし之法?活薬

2016年11月16日 21:56

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 23:04:18.80 ID:02+9kijt
甲州伝目つぶし之法?活薬


 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。

『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』

 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。

聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。

『塩 ひき茶』

この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)


信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね~





302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 08:38:58.73 ID:GV3HsWUU
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 11:16:58.83 ID:LWmC7QHM
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''――'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  

かかる心を 武田とや云

2016年10月30日 20:57

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。

その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。

さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。

「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」

――『当代記』



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?

村松芳休の笛

2016年09月16日 14:55

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 00:06:48.75 ID:SRMLoQW2
武田信玄に攻められていた三河野田城に籠城する者の中に、村松芳休(一節に法休)という者があった。
彼は伊勢国山田の出身で、笛の名人(異名を小笛芳休といった)であった。

この者、武田軍に包囲された野田城にあって、毎夜櫓に上って笛を吹いた。寄せ手の諸将も
これを聞いて、大いに感じ入ったと云う。
ある夜、芳休が例のごとく笛を吹き、その妙を極めた。この時武田信玄が陣廻りをしていて
この笛の音を聞き

「優しくも、明日を限りと覚悟して吹いているように感じる。しかし当世の笛の上手の中で、
これに過ぎる者があろうか。」

そう語ると、矢文を城中に射込ませた。その上書きには『笛の殿へ参る』と書かれていた。
その内容はどのようなものであったか、今に伝わっていない。きっと笛の妙技を賞美したのであろう。

菅沼家譜によると、この村松芳休が毎夜笛を吹き、敵もこれに聞き入る中、2月9日、竹を立て
紙を張り巡らせた中で堀端にて笛を聞く者が居た。これを鳥居三左衛門が訝り、この竹を目印にして
鉄砲を仕掛けおいた。

その夜、芳休がまた笛を吹くと、あの竹のあたりに人声が聞こえた。鳥居は敵が笛の音を聞きに
現れたことを知って、矢場より鉄砲を撃った。目当ての竹のあたりで、「大将が撃たれた!」と
叫ぶ声が上がり、敵陣は暫くの間驚動した。この時の鉄砲は、信玄に当たったのだと言い伝わる。

(野田戦記)



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 10:12:01.06 ID:NIv0BKyK
尼子政久「無粋なやつめ」

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 11:09:41.21 ID:BKFh2dMD
三村家親「まったくだぜ」

その書は『人国記』と名付けられ

2016年08月10日 08:00

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 23:46:39.88 ID:btdLeMF6
国により、人の善悪に生まれつきがあると言われます。仕置のため、諸士の本国を聞かれることもあるでしょう。
武田信玄の或夜の話に

「他国の大将について、その国の上下の人々の心を見ず、聞かずに知ることが出来るだろうか?」

そう尋ねられたことが有ります。伺候の面々「どうすれば知ることが出来るでしょうか?」と言うと、
信玄は言われました

「よくよく考えた結果、十に八、九は、その国の人々の作法とその国主の作法は違わないと私は思っている。
日本の内にて、山城、播磨、近江、伊勢、越前、これら五ヶ国の人々は心定まっていない。その他は
国主の作法から考えればだいたい当たる。

私は常々、国々に人を置いて観察しているが、先の五ヶ国の人の心、その他日本国の人の心を、
西明寺殿(北条時頼)が記された秘書を、羽州の家に伝わっていたのを所望して見てみると、その趣
斜めならず。その書は『人国記』と名付けられ、その後羽州は国々を廻り、貞治元年(1362)の頃、
これを見合わせるようにと書き留められたのだ。

さて、古から今にいたる変化は、末世となるほど悪しきことはあるが、善事はなかなか無い。
この話をするため、先ほど質問をしたのだ。

これは西明寺殿が書かれた書の抜き書きである。これを見よ。」

そう仰せに成り、腰から扇を抜き出して見せられました。その扇には、先の五ヶ国の人の心の善悪が
記されていました。

「西明寺殿の書面にも、関東武者勇なり、京武士は風流なりと書かれている。また、我が甲信の者の心は
真っ直ぐではなく、食料に昼夜心を労するとある。総じて大将は、その国の人々の心から免れない。

諸士の目利きは第一に大切なことだ。義理と非理を知らぬほど恐ろしいことはない。
欲深き士と佞人が交われば、国の乱となる。ただ、恥を知る人を用いなければならない。」


(松のさかへ)

武田信玄が人国記について語った事についての証言である。



966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 03:06:52.40 ID:AlG4uG7A
武田信玄「秘密のケンミンSHOW面白いな」

そのため、武田氏の肖像画などは

2016年07月12日 08:57

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 19:40:46.88 ID:EKvZ1Uei
>>804とよく似た実話がある。
武田氏の肖像画などを高野山の寺院に収めてあった。
江戸時代も供養されていたのだろうが、支払いが滞ったのか、武田の子孫に遺物を一括返却する
ことになった。武田の子孫は上杉家に仕えていた。そこへ荷物一式を届けたのだが、
武田の子孫はそれを見もせず、受け取りもしなかった。そのため、武田氏の肖像画などは勝手に
処分されたのか、離散。
武田信玄像の太った画像とよくにた別の画像が信玄だと勘違いされて、現在に伝わる。


http://kelog2010.up.n.seesaa.net/kelog2010/image/joukeiin.jpg?d=a0


http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/023/201/01/N000/000/001/139716657024254085226.jpg




841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 19:34:26.95 ID:jgitUDjR
>>804
そういえば海音寺潮五郎が「史談と史論」で
謙信は戦に勝つことだけを考えてる性急な活動家だから高血圧
実際中風で死んでるから高血圧で間違いない
信玄は勝った後の領土保全をしっかりやる沈着で相当非活動的だから低血圧
死も肺病らしいから低血圧っぽいと書いた後で

「現在普通に行われている信玄の肖像画は、大兵肥満、アゴは二重にくくれ、口ヒゲ頰ヒゲを生やし、赤ら顔らしく、いかにも高血圧患者的だ。
これは松平楽翁の「集古十種」に収録されているものがもとで、さらにそのもとは高野山の成慶院所蔵の画像から出ているらしいのだが、果して信用出来るものであろうか。
早稲田大学出版部から出ている「通俗日本全史」の「甲越軍記」の巻頭にかかげられた永井如雲氏所蔵の画像は、まるでこれと違う。瘦せてシワ深く、いかにも胸でも病んでいる人らしく見える。」
と肖像画の真贋を考察してた

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 19:35:14.49 ID:jgitUDjR
安価間違えた
上のは>>832あて

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 22:20:30.81 ID:hV/Nn9+Z
>>832
>誤
> http://kelog2010.up.n.seesaa.net/kelog2010/image/joukeiin.jpg?d=a0

畠山なんとかさん!

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 22:40:09.01 ID:Poe8qw0x
>>832
下のは逍遙軒が描いたものなんだね

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 23:38:54.48 ID:hNYAJEGJ
>>841>>842>>843>>844
下のは逍遙軒(信玄の弟)が描いたものだ。武田菱もぎっしり描き込んであるぞ。

上のは畠山なんとかだ。二引両の家紋が書いてある。
http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/283.png←でかい!
二引両といってもどこに描いているか全然わからんけどな。
http://www2.harimaya.com/takeda/html/tk_zou.html
腹の脇差しの、握りのところにある。それでもわからんけどな。
拡大して見たとしても、菱形になっている。
武田菱じゃないよ。糸で斜めに交差して柄を撒いてあるから、菱形に見えるだけであって、
その下地には、○の中に二 と書いてある。それが二引両。超拡大しないとわからんわ。

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 23:50:21.21 ID:hNYAJEGJ
これが一番解像度が高かった。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/cb/4edaf550d76c97fd831ece21f5463310.jpg

でも二引両がよく見えない。左の太刀にも二引両の家紋があるという。

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 10:53:53.47 ID:Bb/k+4A7
>>846
写実的な絵だな、こんなんあったんだ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 20:10:55.53 ID:xsHWUkSu
>>832とは別だが
やっぱり若い頃?を描いた信玄像(もうちょっとヒョロッとしてる)と
目鼻立ちが似てるw どっちにしてもちょっとモッサリした印象の顔立ちなんだよなあ

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 21:26:00.07 ID:ICEpYfFT
>>832
武田信清の子孫に一括返納されたのか?
江戸時代に竜芳系の子孫が武田嫡流ってことになったのになんで米沢武田家に返ってきたんだ
それまで高野山に金を納めてたのが米沢武田家だったからだろうか

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 22:04:22.68 ID:yswUSqBa
竜芳系流罪になって金もらえなくて米沢武田家に持ってたんじゃね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 08:00:13.60 ID:gsTyxJTG
>>848
さいとうたかおが描いた武田信玄のコミックは、太ってなくてイケメンだ。





当時は太った姿が信玄だと信じられていたので、さいとうたかおのアレンジだったが、
予想に反してじつはヒョロッとしてる方が真実だったようだ。
ちなみにこのマンガ作品は屈指の名作。

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 08:10:44.19 ID:gsTyxJTG
>>849>>850
米沢武田家に持っていったのに「受け取らなかった」んだ。(原文は、見もしなかった)
困った高野山は、手紙を書いて、荷物一式の名前をそこで記している。
この手紙が現存しているから、武田信玄の画像はその当時、はっきり現存していた。

このあとがややこしい。受取人拒否によって行き先に困った品物の数々は、
つまり、しょうようけんの書いた信玄の肖像画は、江戸の別の寺の所蔵品となってしまった。
そこで、その絵の箱に、吉良頼康だという名札をつけてしまったものだから、混乱のきわみ。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 08:15:58.66 ID:gsTyxJTG
三回忌とか七回忌とか百回忌とか、
いちいちすげーカネを坊主から請求されるからな。
米沢武田家では今までたまった滞納分を、品物交換と一緒に要求されて嫌になったんだろ(推測)

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 12:49:32.68 ID:FYArAkRa
あっはい

恵林寺の蔵、信玄甲冑の事

2016年07月05日 21:28

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 10:30:33.63 ID:45F8YWkQ
恵林寺の蔵、信玄甲冑の事

先年、甲州恵林寺の僧が信玄の遺物甲冑等を携えて江戸に出てきたことがあった。
予はこれを見たいと思い、月桂寺に行ってかの僧と面会し、
その戎器を見た。
兵火の燃え残りかと疑い尋ねると、
「そうではありません。
かつてこの寺は兵乱で焼かれた後に、甲州は神祖の御領となって、寺を御修造されました。
そのときこれらの甲冑は元は信玄の遺物であるので、長く寺に大切におさめよ
と、神祖から賜わったと、伝わっています。
神祖の御文であろうか、時の老職の添え状であろうかといったものが付いてあった思われます。
明細に写して大切に収めて置いてましたが、戊寅(1818年)の火事で焼亡ました。」

惜しいものだ。
(甲子夜話)

火事大杉



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 14:22:01.58 ID:7YH5mLzL
贋作だから焼失しても無問題

新法は当分便利でも良い事は無い

2016年03月20日 18:59

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 23:11:31.28 ID:tWYe0WnB
 運上の事で色々願います者が次第に出てくるでしょうが、古来から無かった事は御取り上げないことがよろしいかと思われます。
とにかく国々では昔から何事にも古掟等があるでしょう。甲州一分は今をもって信玄公の御代の通りにその国限りで使われており、
国の掟も信玄公の御定めの通り権現様はお聞き届け、そのように治めなされたといいます。
以上のように考えますと、新法は当分便利でも良い事は無いと思われます。
(本阿弥行状記)

甲斐では他国との貿易に金を頼らざるをえないので、
信玄は持ち出し禁止にせざるを得なかったのでしょうね





親に不孝な人は運が悪いと申すことは

2016年01月22日 17:08

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 23:02:07.90 ID:XY4nnJys
親に不孝な人は運が悪いと申すことは天のなすことである。
 
 今武田流は軍学に一あって二ない軍学であるが、その軍学も間に合わず武田家が滅亡したのは何事であろうか。
 これは信玄公が父信虎公へ不孝であり、その他にも甚だ残忍なことがある大将なので、滅亡なさったのだろう。

 また、川中島合戦は古来から甚だ難しく、この戦で信州一円を信玄は領しなさりましたので、まずは勝ち戦の様に聞こえますが、
武田家は御舎弟左馬頭信繁殿をはじめ、歴々の名のある武士に討ち死にが多かった。
上杉家には格別名のある武士の討ち死を伝え聞いておりません。
 そうであるなら勝ち負けはまずなく互角の戦で、武田家は名のある武士を討ち死にさせて、信州一円を取りなさり、
上杉家は名のある武士を打ち取って、信州を武田家に渡されたということであろう。
(本阿弥行状記)



信玄の旗幟

2015年12月23日 08:20

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 22:09:36.43 ID:Qsqv1Uho
駿河大納言徳川忠長が改易された後、この家より武田信玄の旗幟が出てきた。
将軍家光はこれを怪しみ、糾明を命じた所、甲斐国に長遠寺という親鸞宗の僧があり、
この僧は信玄の時代、大阪、長嶋と信玄との間の使いをして、信長を滅ぼす謀を巡らせた。
信玄は彼を悦び、娘を与え婿とした。そして男子が生まれ、これに二位と名付けた。

彼は信玄の外孫であるとして、武田家に仕えていた人々からの崇敬は大変なものであった。
この長遠寺の元にかの旗幟があったのを、忠長に参らせたであった。
これは大変疑わしいことであると、長遠寺父子は佐渡へと流された。
この時は幕府の武田旧臣の人々も大いに恐れたそうである。

この寺院は破却する予定であったのを、東秦院の門跡が請うたため許し、今は改めて
光澤寺と名付け、かの門跡より兼帯輪番の寺となった。

(藩翰譜)



信玄が死去の前に推測したことには、

2015年12月23日 08:18

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/23(水) 05:13:26.79 ID:Gm4AoDKn
信玄が死去の前に推測したことには、

「私が死ねば3年の間は、その事を隠すことなっているので、知る人はおるまい。
謙信も死ぬであろう。次の3年は私の威光によって何事もあるまい。次の3年は
戦の和談などで時が過ぎることだろう。その後は信長に一統されるであろう」

とのことであった。果たしてその通りである。

――『武功雑記』




「命は僅かの内にある」

2015年11月05日 07:05

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 19:42:20.51 ID:qRWzCR7G
ある時、武田信玄は禅宗の小僧と行き合い、小僧に向かい、
「地獄や極楽はどこにある?」と尋ねた。

これに小僧は、「糞喰らえ」と言った。信玄は顔色を変えて、
「憎き悪口の者だな!」と戒めた。すると小僧は「これが地獄だ」と答えた。

信玄は刀を抜き、小僧に突き付けて、「お前は生ける者か?
それとも死せる者か?」と、問うた。小僧は「死せる者だ」と言った。

信玄は刀を振り上げて、小僧を討とうとした。すると小僧は逃げ去り、
「命は僅かの内にある」と、言ったのだという。

――『一話一言』



935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 23:23:46.36 ID:mNl4RRMn
いや、わかんねえwから

後れたることを隠さず申す所に

2015年08月19日 12:54

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/19(水) 08:14:36.35 ID:+dCwQzYX
武田信玄在世の頃のこと。
比田武右衛門という牢人が、武田家への被官を望み、これに担当の武者奉行が尋ねた
「お主はこれ以前に、どのような武功をどこで成したか?」

ところが武右衛門、合戦において自身の失敗や悪しきことのみを数え立てて奉行に語った。
これには同席した、彼の肝入として推薦した者が怒りだし

「どうしてそんなことを言うのか!?のべて身代を稼ぐものは、覚えある手柄をこそ数え上げて申すものなのに、
そのように悪しき事のみ申しては扶持していただけるわけがない!」

「いいえ、真に信玄公ならば、御思慮あるでしょう。」

武右衛門がそう云うので、武者奉行もありのまま信玄に伝えた。
信玄はこれを聞くと感心した

「その牢人こそ知者である。今は手柄というものを飾り立てて申す習いであるのに、そのように
後れたることを隠さず申す所に、その器量が察せられるではないか。」

そして早々に呼び出すと直々に対面し、相応の手当を申し付けた。

この信玄の眼鏡に違わず、武田の鬼武右衛門と称せられたのが、この者である。
彼は後に、比田の姓を改め奥村と号した。

(明良洪範)



武田信玄公は人を試みるのに

2015年07月09日 15:52

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/08(水) 19:20:19.21 ID:nMspfqpB
武田信玄公は人を試みるのに、まず甲州の中での河川改修、普請、その他鷹狩などにおいて、
在郷の山に、竹木大小の有るのをよく覚えられていて、それを知られないよう、人々に尋ねられた。
そして人々の中から詳しく見憶えていて申し上げる者には

「その場所を度々見たのか?それとも私の供をした時だけで見憶えたのか?」

そう重ねて尋ねた。そのような事が幾度も重なった上でも詳しく説明の出来る人物を、信玄公は
他国への検使に遣わし、国境の模様などを観察させた。

或いは、信玄公はくどく物をお尋ねに成り、その人の心を汲み取ろうとするのが常の儀であった。
その様子は、例えば御前衆の親に患いなどあれば、その者に煩いの様子を詳しく尋ね、その者が親に
孝不孝のどういう感情を持っているかを知ろうとされたが、人々はそれを知らないので、
「信玄公の癖で一つのことを何度もお尋ねになる」と話したりしていたが、それは僻事である。
我らも、よくよく思案、工夫して信玄公の儀に至るべきなのだ。

古人に曰く、『金は火を以って試し、人は言葉を以って試す』というではないか

信玄公はこのように試みて、又その上側近くに置いた近習の内、無二無三に御屋形様の御用に立つだろうと
思われる若者を6人選び出し、彼らの発言を聞こうと考えられ、彼らから、諸人、または他国より来た新参衆の
手柄の虚実について聞き、

「或いは、手柄が在っても嘘を常に申す者か、朋輩で良く近づくものに頼もしさの無い者か、
大身衆にばかり慇懃で、諸朋輩に慮外な人間か、酒を過ごして酔狂をするひとか、総じて諸人に
腹を立てぬようにする人か、武具には万事嗜みのない人か、分限にて諸道具をよく嗜んでも、
弓矢に心を入れない武道への心がけのない人か、一切の善悪を言え」

と仰せに成った

この6人は、曽根孫次郎、金丸平八郎、三枝勘解由左衛門、真田源五郎、三枝新十郎、曽根与一の助の
事である。この内、金丸平八郎は土屋右衛門と、真田源五郎は武藤喜兵衛と呼ばれていたが、これは
勝頼公の時代、長篠合戦において彼らの兄が討ち死にしたため、その後を継いで名が変わったのである。
真田は、この頃は真田安房守と申している。曽根孫次郎は内匠と称している。
三枝勘解由左衛門は長篠で討ち死にした。

彼らはいずれも、弓矢鍛錬は覚えの武士にも劣らぬ人々であるが、それは信玄公のおそば近くで召し使われ、
よろずその御発言を承り、覚えた故である。
(甲陽軍鑑)




甲府法華宗の僧公事の事

2015年06月10日 16:52

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/10(水) 03:25:15.62 ID:coR1VNVY
甲州府中の穴山小路に、新立寺という日蓮宗の寺があった。これには脇寺が14,5あった。
この14,5の中に林生坊、昌沈坊という坊主があり、女房を持っていた。この事を近所の町人である
ぬき名加兵衛、玉越松左衛門の両名が、訴人申し役である岩間大蔵左衛門へ告発した。

さてこの岩間大蔵左衛門であるが、彼が訴人申し役となったのは、数度の臆病をしたためであった。

武田信玄公は慈悲深き大将であったので、この岩間大蔵左衛門は家に久しき者の筋であったから、親の跡目
三百貫の知行を下し、何でも手柄を致すようにと思い、合戦の際には馬具足など与え「これに似合いの
心ばせを仕れ」と仰せになるなどしたが、その時は潔く請け負っても、勝負の時をいつも外し、
しかも遠くまで逃げること度々においてあり、卑怯のたびに牢に入る事7度であった。
7度目には信玄も家老の衆を召して言った

「岩間大蔵左衛門だが、様々におどしすかして取り立ててみたがどうにもならない。生まれつきの
未練者なのだろう。然しながら譜代の者を飢殺すもいかがかと思う。彼に似合わしき役を与えるように。」

そこで武田家分国の大身小身の侍或いは僧俗一切の人のこと、悪しき儀に関する訴人申し役が
この岩間に仰せ付けられた。一種の検察官である。

さて、これ故さきの林生坊、昌沈坊という新立寺の法華坊主が女房を持っているという事を聞いた
岩間は喜び、訴えでた二人の町人を同道し奉行所に訴え申した。そこで武田家の四奉行は
新立寺院主の御坊へ書状を送付し、林生坊、昌沈坊の二人の僧を御蔵前に召し寄せた。
そして岩間とぬき名加兵衛、玉越松左衛門の二名が呼び出され、二人の僧と対決させた所、
法華坊主は両人ながら負けた。しかし、彼らはここで申し上げた

「妻を持っている僧は我々だけではない!法華の寺の中を数え立てても、何れの寺にも
5人6人は居る。我々の寺の中から10人を訴えたとして、清僧は2,3人いるかどうか。
新立寺の脇寺15間の間にさえ12人いるのなら、甲州中では、在郷の僧も含めれば200人も
罪に問うことに成ってしまうのが、この林生坊、昌沈坊への裁判である!」

諸人はこの裁判の成り行きに関して、法華坊主が際限なく斬首、あるいは火炙りにされると沙汰した。

奉行衆は以前、岩村田の法華坊主を証拠もないのに御分国から追放した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9299.html
ましてこれは大方の裁判ではないと、急ぎ事実関係を改め記録を作り、武田信玄に書面を以って申し上げた。

信玄はこれを聞いて
「この坊主たちは皆日蓮宗か。法華修行の僧ならば問題はない。何故なら法華経に、『貴賤上下
持戒毀戒威儀具足正見利根鈍根等雨法雨』とある。この経は、貴きも賤しきも高も低も、戒を持つも
戒を破るも、袈裟をかけるのもかけないのも、直に成るのも邪に成るのも、等しく法の雨を降らす、とあるのだ。
法の雨とは仏になることである。であれば、出家も俗も仏に成るにおいては別け隔てはないのだから問題ない。
ことに法華の坊主は、自分たちの経をかさにきての事であろう。
顕密(顕教と密教)ではなく日蓮宗の者が、女房を持つのは問題はない。免して持たせよ。

ただし、清僧であればまた問題は別だ。清僧に対する特典は何かしらあるべきだ。でなければ清僧落僧の
隔てが無くなってしまう。清僧落僧の隔てとして、今言ったことを書き立て、落堕の僧たちに、
妻帯役という税を申し付けるようにせよ。」

そうして安間と言う侍を妻帯役の代官にし、その後、妻を持つ法華坊主は、みなこの安間の元に、
年に一度ずつ年貢を出すことと成った。

(甲陽軍鑑)

法華僧妻帯者への、妻帯税設立の話である



895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/11(木) 08:03:19.56 ID:Avv5eweo
信玄うまい

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/11(木) 08:56:22.65 ID:FdeOzc0v
法華坊主「ぐぬぬぬ…」

「大日向の火とぼし」由来

2015年06月09日 17:31

149 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/08(月) 13:46:30.65 ID:aPwIQt1M
初投稿失礼します。
普段、まとめサイトの方を見て楽しませて貰っているものです。

母方の群馬の実家に「大日向の火とぼし」という火祭りがあるのですが。

「火とぼし」は南牧村の大日向地区に4百年以上も昔から伝えられてきた、
県内に残されている最大級の火祭りです。火祭りの方式は「あばれ祭り」の型です。
住民の先祖が永禄4年、武田信玄軍が上州に攻め入った際、武田勢を助け、
領主勢の軍を打ち破った時の喜びを「火祭り」の形で伝えたものといわれています。
笛や太鼓とともに、南牧川に架かる大日向橋の上から、長さ2~3メートルの縄に
くくり付けたワラ束を燃やし、2~3人ずつでぐるぐると回します。
丸い炎の軌跡が闇の中に浮かび上がり、真夏の夜のひととき、力強さと幻想的な雰囲気が辺りを包みます。

https://www.youtube.com/watch?v=-dbVHSKoubE&feature=youtu.be

(南牧村HPから転載)

気になってまとめサイトを調べてみたら、まさにその時の話がありました。

「武田信玄の国峯城攻め・いい話」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2244.html


500年以上前の出来事を地元の人達が文化として綿々と伝えてきたいい話?でした。




信濃国岩村田法華宗の僧公事の事

2015年06月02日 13:57

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/02(火) 05:45:09.09 ID:3bxDsVUV
信濃国岩村田法華宗の僧公事の事

信濃国岩村田に、いかにも小分の百姓があった。この家の夫は浄土宗、女房は法華宗にて、
夫は妻を我が宗に成るように言い、女房は夫に法華になり給えと申し、決着つかず
この事で夫婦の仲も悪くなった。

夫は亡き父母のために、毎月それぞれの月命日に浄土宗の出家を招いたが、女房はこれを気に入らず、
女房は母の月命日に法華坊主を呼べば、夫は殊の外腹を立てた。

夏の頃のこと、夫が馬の秣を刈りに明け方家を出た。その日は女房の母の月命日にあたり、この日は必ず
法華の坊主も家に来ていた。

その坊主も、日が高くなって気温が高くなるのを嫌い早朝にその百姓家に来て、衣を脱いで垣にかけて、
川のせせらぎの傍らに立って小便の用をたし、井戸の元に来て手水をつかい、衣を取って着ようとした。
この様子に気づいた女房は、「御坊が早くお越しになった」と、急ぎ起きて窓から
「御坊、お早くお着きになりましたね」と言葉をかけた。と、ここにどうしたわけか夫が戻ってきた。

法華の坊主はまだ衣を着けておらず、夫の姿を見て慌てて衣の紐を結んだ。
この姿に夫は激怒した
「前々から気にいらなかったが、こんな事になるとは聞いたこともない話だ!」
夫は様々に坊主を罵り押さえつけて縛り上げた。

この事態に、出家と同じ宗旨の僧たちが近郷より数多来て、重ねてこのようなことがあってはいけないと、
目安を書いて所の領主に提出した。

領主は、仮初であっても出家の事について、私的な裁きは出来ないと、現地の代官を添えて甲府の
四奉行にこの案件を上げた。奉行たちは状況を聞いて

「この件は、出家に非があるというにはいかなる証拠もない。しかし百姓が無理を言っている様子でもない。
だからといって小さな訴えであるのだから、正しさを証明させるため。双方に鉄火、あるいは
みたけの鐘というような事をやらせる程でもない。」

このように色々詮議したものの、奉行四人の分別にかなわず、仕方なく主君・武田信玄の判断を仰ぐことにした。

信玄はこの件を説明されると即座に
「その縄のかかった出家の所業は、他の宗旨ならば様々な解釈もあるだろうが、日蓮宗においては先ず
誤りを犯している。どういう事かといえば、法華経の五巻に『入里乞食将一比丘若無比丘一心念仏』とあり、
これを訓読みすれば『里に入り乞食するならば、まさに一人の比丘を連れよ。もし比丘なければ、
一つ心に仏を念じよ』とある。どうしてその出家は、他の僧を一人連れて行かなかったのか。

仮に、雇われる坊主に事欠くならば、その身一人で行ったとしても、数珠を取っていかにも殊勝な体にてこそと、
法華宗では申している。衣を脱ぎ、人の不審を抱くような姿をみだりにして出家の威儀を乱すこと、
法華経の宗旨に照らしても法に背く道理である。

さりながら、いやしくも仏に仕える出家に、証拠もなく粗忽に縄を掛けることは、わたくしにやっていい
事ではない。一方でこの百姓を、狼藉であると頸を斬れば、相手が出家であるだけに、その仏の慈悲が
隠れてしまう。

であるので、百姓には百日の籠居とし、彼の女房は、このままその男と添い遂げるのも、離別するのも
女次第であり、これは申し下すにも及ばない。
またこの出家は、いかに田舎に住む無学の僧であるとしても、その経文に背くのは曲事である。
であるが先の百姓の申すことにも証拠がないので、これも罪科にはならない。彼の罪は
経文相違の事だけである。

経文に相違した出家をそのまま置くのは宜しくない。よって経に背かないよう志し、他国に参って
出家として修行すべきだ。よって、我が分国から追放せよ。」

このように青沼介兵衛、市川宮内ノ助両人に仰せ付け、遠国を精査させ、出家を能登国へと遣わした。
(甲陽軍鑑)



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 08:53:18.18 ID:l/rm9zfQ
>>867
お屋形さまは本当に博識だな 軍学だけでなく法華経の一節にまでもくわしい

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 10:55:06.11 ID:l09lLSZr
甲斐の総本山様と上手く付き合う上で必須だったんだろ

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 10:58:43.81 ID:9FEhlndk
自称天台座主だし八宗兼学でもおかしくない

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/04(木) 00:03:46.44 ID:foP/Vm+p
>>867
これはむしろいい話では。
さすが信玄公、経文を踏まえた見事なお裁き。
家中を乱す宗門間の争いの抑制もお考えかと。
百日籠居はちと重い気はしますが。

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/04(木) 00:17:39.85 ID:FpuC+TTb
出家を追放するにもちゃんと行く先まで面倒みてくれるなんていたれりつくせりだよw

武田信玄、上野に出陣する

2015年04月19日 15:49

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/18(土) 18:17:08.14 ID:KCRda4ih
>>677の後日談

弘治3年正月7日に、相州小田原の北条氏康より、武田信玄に大藤金谷斎栄永を以って申し入れがあった。
それによると

『10年以上前に武田殿が上野に軍を出す事のないようにと、駿河の今川義元を頼んで申し入れましたが、
上杉憲政が越後国の長尾景虎を頼み、越後に行ってからは、景虎が年々関東で働きをするように成り、
それを頼って、独り立ち出来ない上杉家の侍大将どもに、上杉を帰還させることも嫌がり、かといって
この氏康に従うことも嫌い、敵になり味方になって、関東は治まりかねております。

上杉家のそのような者達は多き中に、武州にて太田三楽と申す侍大将と、上野の長野信濃守(業正)は
特に大いなる徒者にて、景虎の後ろ盾を当てにして氏康に盾を突き、末々は、両人の動向を見るに、
太田三楽は武蔵国すべての領有を望み、長野信濃守は上野を望んでいると考えられます。

そこで、大田三楽はこの氏康が討伐し従えましょう。長野信濃守について、信玄殿がご成敗なされ、
上野を甲州より御支配なされるように。』

これにより弘治3年3月中旬より、信玄公は上野へ出陣された。

(甲陽軍鑑)




信玄の悪名

2015年02月09日 18:46

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/09(月) 16:56:39.34 ID:7geQzkwY
武田信玄の武勇は盛んになったが、行く末は如何であろうか。
古には小松殿・平家の一族も西海の波底に沈んでしまった。名を後代に残すにしても、
今の信玄は貴むべき人ではない。

彼の年々の戦いは、ここかしこ、南でも北でもあちこちで、信玄の軍と聞けば女子供まで
恥ずかしい、悲しいと言う有り様である。
その上数多の命を失わせ、神社仏閣を破却し、言葉にも出来ないような悪事を行った故であろう、
数年の軍功も、勝頼の代に至って草場の露となってしまった。
誠に、前車の覆るを見て後車の戒めにしなければならないというが、中々出来ることではない。

武田には侍と生まれてきてあるまじき事どもがあった。例えば、夫のある女であっても召し寄せるよう
遣わし、従わぬ女は刺殺し、又は牢に入れ拷問をした。その人々の泣き叫ぶ声は、身の毛のもよだつ
恐ろしいものであった。

この一冊は箕輪軍記と名付けたが、実際には治乱記である。
箕輪軍記は世に類ない書籍である。この軍記は、末の代までも当国の事、言説、聞説を
人民の身持ちのためにも伝えるのである。

この後、信玄は4,5年の間武勇を振るい軍勢を押し出したが、非道を行い正路に帰る事無く、
天道にかなわなかったためこれを許すことはなかった。
武家、その他出家沙門に至るまで非道の罪は皆同じである。
身分の軽い人々にないしては、なお無理非道の事が多く、世間に悪名を表した。

(簑輪軍記)

箕輪軍記より、武田信玄に対する評である。




武田信玄の屏風

2014年12月05日 18:31

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 10:00:37.77 ID:B+kjcUVK
武田信玄の屏風

武田信玄は甲斐の太守で人傑(英雄・才武に優れた人物)を好んだ。
その信玄は寝室の枕元に日の本の名だたる武将の名を記し「敵としてでも一度は相まみえてみたいものである」と語ったと言われる

屏風には遠く九州は戸次鑑連・湯布らの名が記されてあったが、我ら最上家に仕える伊良子宗牛爺(翁)の名も頭から十指に入る内に記されていたと聞く

「最上記(上山満兼生涯之事)」「山形古話」ほか

信玄公がチョイスした残りの人物名が気になるところ