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雑人陣にて煩ひの時

2020年05月07日 18:24

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 15:02:17.05 ID:RnSax87m
雑人陣にて煩ひの時

一、虫には曹洞宗の百貫草。水一盃の半分を一盃に煎じて飲ませる。手に1つも握る。口伝。
一、おこり(マラリア)には亀1つを黒焼きにする。水でこれを飲ませる。
一、熱気には拾五気の木。手1束に右の煎じ様で。口伝。

――『甲陽軍鑑



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“勝千代殿”

2020年05月05日 16:53

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 02:24:52.45 ID:iO/doWIk
一、それ、信玄公幼き時の御名を勝千代殿と申す。子細は御父の信虎公28歳の時、駿河のくしま
  (福島)という武士は今川殿を軽視し、結果甲州を取って己の国に仕らんと遠駿の人数を引き
  連れ甲州飯田河原まで来たり、しかも65日余り陣を張っていた。

  その時、甲州御一家の衆はことごとく身構えをして、「武田の御家はもはや滅却するだろう」
  と仕るところに、信虎公の家老・荻原常陸守(常陸介昌勝)と申す大剛の武士の武略をもって、
  信虎公は勝利を得給う。

  敵の大将のくしまを討ち取りなさったその日のその時に誕生なさった故、“勝千代殿”と信玄
  公に幼名を付け申す。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦である。武田信虎公の家老の沙
  汰なり。勝千代殿誕生前に諸々の不思議が信州諏訪明神より告げ来たるという。

一、荻原常陸守は信虎公御幼少の時に弓矢の指南申し、信玄公御幼稚の時分も弓矢の物語りを申し
  上げられた。信玄公12,3歳の御時分に常陸守は70余歳で死去なり。

――『甲陽軍鑑



ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより

2020年04月29日 17:38

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 20:36:36.02 ID:WPub7+sJ
信虎公(武田信虎)の御代には軍法も信玄公の十分の一でしかなかった。

ことさら信虎公28歳の御時のくしま(福島)合戦(飯田河原の合戦)の折、譜代衆は大方が在所へ引き
籠り見物仕る。右のくしまに勝ち給いて、その時より甲州一国の衆を8年の間にことごとく絶やし給うに
付き、2百・3百あるいは5百が立て籠もった城どもを攻め取りなさることによって、矢傷・槍傷・刀傷
をたくさん手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公が家中において、譜代衆・牢人衆中で健壮なる武士を75人選び出しなさった侍衆は、
信玄公の御代に大方討死して、年寄るまで長らえたのは横田備中(高松)・多田淡路・安満(あんま)・
鎌田織部・原美濃(虎胤)・小幡山城、この6人である。

ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより、武辺かせぐ衆はひとしお討死多し。鉄砲は大永6年(1
526)に井上新左衛門という西国牢人が信虎公へ奉公申し、この侍が鉄砲を持ち来たり教えたと申し伝
える。しかしながら、稀であったと聞く。

その後、信玄公の御若き時は、かち路大膳・同又作と申す牢人親子がいた。この侍が各々に教えた。近年
は佐藤一甫斎と申す牢人が来て教えているのである。今は侍衆皆が鉄砲を良く上手に撃っている中で、横
田十郎兵衛(康景)・日向藤九郎の両人は鉄砲を用に立てている。

――『甲陽軍鑑



128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 22:44:35.38 ID:2ocCnCTT
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけ

だから死ぬんだよ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 07:38:57.06 ID:8oiWljdW
>>127
一番槍なんて鉄砲のいい的だろうしなぁ

武田信玄は曾我時致が再生といふ説

2020年04月11日 14:47

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 03:19:39.86 ID:ONtCAS+0
武田信玄曾我時致が再生といふ説

 武田晴信入道信玄は曽我五郎時致の生まれ変わりであるという俗説がある。
その理由は、ある僧が富士野を通った時、曽我十郎祐成の幽霊が現れた。
「私の弟の時致は生前『法華経』を読経するという功により、甲斐国の領主武田大膳大夫晴信入道信玄として生まれ変わったのだ。
しかし私は女色に愛着していたので、今は六道に沈淪している。
どうかこの旨を信玄に告げて彼に私の弔いをさせて頂けないか?」
と頼んできたという。

 この俗説を考えてみるとしよう。
まず、そもそも再生輪廻の事は理にない事である。
これだけでなく他の理由も今しばらく俗談から検討したいと思う。
 曽我五郎時致は淫奔放蕩の謗りがあるといえど、工藤祐経を討って父の仇に復讐した。
取り所がない者ではない。
武田入道信玄は彼とは異なっている。その罪悪が際立っているものに、父信虎を追放して甲州を領した事が挙げられる。
「不得乎親 不可以為人」という言い伝えもある通り、人に非ざるのなら禽獣である。
ただし虎狼に父子の親しみあり、セキレイに兄弟の情ありという。禽獣にもしかずと言えるだろうか。
ところが物は類を以て集まるというのが世の習いである。
その臣の高坂弾正は主の不孝不義を諫めないだけでなく、信玄が父を追い出したという事実を断りながらも「一生『論語』を手に取られなかった」と『甲陽軍鑑』に記している。
晩年になっても『論語』を手に触れていたら、不孝を悔い旧悪を改める心も有ったのだと思うとひどく恨めしい。
これだけではない。降った諏訪の大祝頼重を誅して所領を奪い、その娘を頂き妾とした。
この妾の讒言により太郎義信飯富兵部を殺害し、欲にふけって親しきを忘れ甥の今川氏真を押し倒して駿州を奪った。
取り所のある人ではない。

(広益俗説弁 続編)

信玄が曽我五郎の生まれ変わりだったという説話があった事も驚きだけど、信玄の人格を否定することで俗説を批判しているのも面白い。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 16:07:42.88 ID:uo9+JVjf
>>969
ボロカスに言われとるな
異論はないけど

気遣いは分別のいろは

2019年11月11日 18:23

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 10:49:53.46 ID:h1wOUAM7
ある時武田信玄公がこのように仰られた

「世の中にはいろいろな人がある。分別が充分に有っても才覚のない人もある。才覚が有っても
慈悲のない人もある。慈悲が有っても人を解っていない人も有る。

人が解らない者の場合、大身だと、その者が尊敬している人物というのは十人の内八人は役に立たない
という事が多い、小身の場合は、その親交深い傍輩の悪しき知り合いに近づいてしまう。

このように色々様々に変わって見えるが、結局はただ分別が至らぬということだ。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても
良く成すものだ。このように人間にとって分別の二文字こそあらゆる事の基礎であると知り、
朝に志し、ゆうべに思うようにして、分別を良くするべきだ」と言われた。

内藤修理正(昌豊)曰く、「信玄公御錠に、人は分別肝要と仰られた。これは尤もな事である。
それについて、分別と言うことも、学んでその知恵がつくものだ。」

そう申したところ、小山田彌三郎(信有)が「願わくばその方法を教えて頂きたい。」と
しきりに問うてきた。そこで内藤修理は

「気遣いという気持ちがあれば、分別にも近寄るであろう、この気遣いから全ての事に心付て、
自分の至らぬ部分を分別ある人に習い、何事を成す場合でもこの心構えをその度に重ねれば、
自分の心得も出来、猶以て工夫、分別、広才の智のある人に近づく事だろう。
そこを考えれば、気遣いというものは分別のいろはでは無いだろうか。」

そう内藤は小山田に教えた。

(甲陽軍鑑)

分別の基は人に対する気遣い、つまり良い判断に必要なのは思いやりである、という所でしょうか。
現代でも通用しそうな考え方ですね。



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 17:59:45.43 ID:ypIcKaTN
小山田の名前を見るだけで警戒してしまうが、この人は26歳で早逝してるんだな

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 20:57:34.10 ID:3AMDOqwh
信玄公って部下教育にも長けてたんだろうなあ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 22:04:34.10 ID:j9tC0zm8
息子は失敗したけどな

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 22:36:51.09 ID:eLkJFcq7
>>325
その辺も家康は信玄を見習ったなw

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 23:34:19.74 ID:2wX/tis6
武田は奥近習だっけ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 15:07:26.89 ID:AkKEwVuC
小山田は信有だらけなの、どうにかして…

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 16:39:27.95 ID:W5wF8sv2
先代とは意地でも同名を避けるつう命名基準から外れてるし理由を知りたい

相手にすると恐ろしい者

2019年11月10日 17:00

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/10(日) 09:01:59.88 ID:oWdch8EX
ある時武田信玄公が御噺衆に尋ねられた
「奉公人の中の大身、小身は言うに及ばず、下々の者まで相手にすると恐ろしい者がある。
それはどういう者だと思うか。」

御噺衆は誰も答えられなかった。そこで信玄公はこう言われた

「それは無分別な者だ。何故ならこの無分別な人物は、後先を考えず、口に任せ手に任せ、
考えもしないようなことを仕出かす。そういった人物は合戦の鍔迫り合いに成れば遅れ逃げるものだ。
ところが良き分別のある人物は、普段から詮索をよく致すために、逃げる無分別者を発見すれば
逃さず、勝負をつけようとする。こうして良き分別者が悪しき分別者と相手をし、徒に身を果たす
ような事になるとしたら、これをよく思案してみよ、分別なき者は恐ろしい人ではないか。」

そう仰られたのである。

(甲陽軍鑑)

有能な人物がバカに殺されてはかなわん、という話でしょうかね。



562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 03:40:53.26 ID:mGN8Rjs4
無能な味方は敵より厄介

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 20:54:31.95 ID:3AMDOqwh
平凡でも良いから実直であって欲しい
ということも言いたいのかも

無能は不要とかだったら部下のストレスはんぱない

564 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/11(月) 21:53:10.65 ID:l/raO2w7
臆病者でも使い方次第という岩間大蔵左衛門の話も甲陽軍鑑だったっけ。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 23:53:28.42 ID:ypIcKaTN
無能というかアスペや嫌なクズって感じ
これに真面目な人材が殺されたらたまらん

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:41:18.32 ID:l9uYArUl
窮鼠猫を噛む

侮って死んだ分別者w

信玄公御一代敵合の作法三ヶ条

2019年11月07日 16:44

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 10:27:11.88 ID:0KJaQ8DD
信玄公御一代敵合の作法三ヶ条

一、敵の強き弱きについて分析し、またその国の大河、大坂、あるいは分限の模様、その家中諸人の
  行儀、作法、剛の武士、大身、小身、それらの多少のことであっても、味方の物頭衆によくその
  様子を知らせなければならない。

一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、勝負の事について、十分の内六、七分の勝ちこそが十分の勝ちであると
  御定めになった。中でも大合戦は殊更そのようにするのが肝要である。その理由は、八分の勝ちは
  危うく、九分十分の勝ちは味方大敗の下地作りであるからだという。

一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、取り様のこと、四十歳以前ならば勝つように戦い、四十歳以後は
  負けぬように戦うべきであるという。ただし二十歳前後でも、自分より小身の敵に対しては、
  負けないように対処し、勝ちすぎてはならない。大敵には猶以て右のとおりであり、おしなべて、
  よく思案、工夫を以て、位詰めにし、心を長く持って後途の勝を得ることを肝要に仕るべきである、との
  儀であった。

(甲陽軍鑑)


甲陽軍鑑より、武田信玄の敵への対処のありかた三ヶ条



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 21:04:09.27 ID:UyfXPO7g
信玄って油断することあったのかな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 23:36:49.16 ID:7WI7bWrx
油断して浮気がばれたために、誓詞を書く羽目に

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/08(金) 13:21:30.71 ID:cIUGsmSB
貧乏国の形態から父親追放の継承で実際重圧凄かったろうな

翌年の四月十二日になって思い当たった

2019年10月27日 16:53

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/27(日) 14:07:37.07 ID:lugWOShB
元亀三年の正月二十一日に、武田信玄公は法華宗身延山へ御使を遣わされた。その子細は、
去年織田信長が叡山を焼いた事により、身延を新たな叡山になさろうと考えられ、身延山を
御所望になられた。そしてその代わりとりて長野に寺を建て、今の身延より大きく御普請仰せ付けられ、
それを相渡すとの仰せであった。

身延山の各出家は御返事に、「日蓮聖人の御影の前で鬮を取った上で結論を申し上げる。」と、
鬮を三度、五度、七度まで取ったものの、合点の鬮を得ることはなかった。
その上山が変わらない祈念として、壱萬部の法華経を読んだ。また不思議なことに日蓮聖人の
御告げが多く有ったと沙汰された。

しかしそのような事を信玄公は知らず。是非身延を東の叡山にするべきであると内心定められていた。
「出家に悪く当たらぬ物」と言うが、これは翌年の四月十二日になって思い当たったものである。
武田信玄は元亀四年四月十二日に病没した)

(甲陽軍鑑)



信玄の国柄の兜

2019年08月10日 15:47

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/10(土) 02:10:43.98 ID:Q8jcWQdG
武田信玄の国柄の兜として、高二百石で大御番を勤める渡辺左次郎(英(さかえ))の家に伝わっているものを
見た人の語った所によるとmそれは頭形三枚錣(錣が三枚になった兜)にて、一見した所粗末に見えるが、
この錣の裏に切金(金銀の薄板を模様に切り貼り付けたもの)が入っていた。国柄唐草の蒔絵であり、
間庇には信玄の自筆にて歌が認められていた

 いかにせん くずの裏吹く秋風に 下葉の露の残りなき身を
 (葛の葉裏を見せるように吹く秋風によって消える露のように消え去るこの身をいかにするのか)

上州白井の明珍信家による作であるという。甲州の武士であった下條伊豆守が戦国に浪々して、
その倅が渡辺家に養われた故に、今かの家がこれを持ち伝えているのだという。

(耳嚢)



信玄公の御使

2019年08月02日 18:03

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/02(金) 01:49:42.15 ID:br8PQdXr
信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

日向源藤斎(玄東斎。宗立)は、関東・安房国・結城・多賀谷・宇都宮・越前・比叡山への御使である。

雨宮存哲は近江の浅井備前(長政)と四国の長宗我部への御使である。

長遠寺(長延寺。実了師慶)は伊勢の長島や河内国大坂、総じて一向宗の盛んな所へ参られた。ただし
越後の謙信へも1,2度長遠寺が参られると、謙信は誉めて「流石は信玄が気に入ったのも道理かな」
と、信玄公と無事に仕えよと謙信が申されたこと2度であったが、2度とも「まずは長遠寺を遣しなさ
れ」と、輝虎より申し遣されたのである。よって件の如し。

――『甲陽軍鑑』



唐国諸葛孔明八陣図

2019年06月21日 16:31

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 13:14:15.51 ID:f5pcw5Wk
唐国諸葛孔明八陣図

        八      レ
●魚鱗 ●鶴翼(の) ●長蛇(シ ) ●偃月(半月の図) ●鋒矢(个)

●方ヨウ(“向”の口が山)(〇) ●衡軛 ●井鴈行
                    〇
●春は北に向かう ●秋は南に向かうなり(□)これをもって相を取る口伝あり。
                    △

以上を良く信玄公は伝授なさって、その後工夫をなされて新軍法その他諸法度の仕置きを遊ばし
給う事、これは皆、信玄公と合わせて四大将(上杉謙信・北条氏康・織田信長)いずれもが取り
合いをした故である。

そのため、軍法はまず当代の四大将より始まる。昔はあったとはいえども、尊氏公の四代目の御
時分から連々取り失ったと見える。軍法の儀は(軍法といえば)信玄公・謙信公の両君なれども、
これも3分の2は信玄公より濫觴(起源)する。

当代日本の四大将は御歳増す次第の先に書く。

一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公、53歳にて天正元年4月12日他界。病死。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 13:18:25.83 ID:N0sMwCEt
この陣形のそれぞれがどういう用途で使われるのか解説をきいたことがない

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 17:53:48.61 ID:fa+hDu+v
乃至政彦「戦国の陣形」読むと
甲陽軍鑑で山本勘助は

「軍林宝鑑」という本にある「諸葛孔明八陣の図」として魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月 ・鋒矢 ・方 ・衡軛 ・井雁行

を紹介しているが出典とされる「軍林宝鑑」には八陣として
https://i.imgur.com/HpOEclY.jpg
こんな図があるだけで、魚鱗の名前も鶴翼の名前も見えない
単に大将以外の部隊が八つ並んでいるから八陣とされているだけである
もともと「八陣」には
1.上記の諸葛亮による八陣
2.唐代の知識人李善「雑兵書」に書かれている八陣
「一曰方陣 、二曰円陣 、三曰牝陣 、四曰牡陣 、五曰衝陣 、六曰輪陣 、七曰浮沮陣 、八曰雁行陣 」
3.張良が編み出したとされる日本で口伝で伝わっていた八陣
「魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月等の陣 」
があり、甲陽軍鑑で山本勘助が言ったとされるのはこの三者の折衷である。
甲陽軍鑑によれば山本勘助は信玄から「お前は書物を四、五冊も読んだのか?」と聞かれた際「一冊も読んでません」と答えていることから
耳学問の知識を適当に言ったのだと考えるべきだろう。
実戦の際は部隊長にそれぞれの陣形の形をあらかじめ頭に入れさせておいて
「飯富殿は○○の陣形を、小山田殿は○○の陣形を…」と指図してすぐに陣形を取れるようにした

のように書かれていて、のちに村上義清が編み出した?兵種別の陣形を謙信も採用し、それが諸国に広がったと、書かれてるから
この八陣が使われていたとしても、山本勘助が諸葛亮が考えたものとして献策したのを信玄が一時的に使っただけ
江戸時代に甲州軍学で八陣うんぬんが基礎知識となっただけだから
どういう用途で使われたか、てのはあまり意味がないかと

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 17:56:45.55 ID:fa+hDu+v
ついでにその甲州軍学でも徳川後期となると八陣の知識は忘れ去られた、とあ?

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 21:01:07.53 ID:M9YcI+sb
日本の狭い平地では役に立たなかったのかしら

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 12:22:42.43 ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

信玄公御旗及び御はた本備押の作法十五条の事

2019年05月30日 19:10

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 17:51:20.59 ID:jxVT/vJG
信玄公御旗

一、赤地に八幡大菩薩の旗2本。
一、赤地に将軍地蔵大菩薩の旗2本。
一、武田27代までの御旗1本。

一、其疾如風 一、其静如林 一、侵掠如火 一、不動如山。
これは黒地に金をもって、この4つの語を書きなさった。旗は四方(正方形)なり。この旗
とともに以上の6本である。川中島合戦からこの旗を使いなされた。

また三方ヶ原で家康・信長に勝って、殊に信長と手切りになられて東美濃発向の時、次の語
を前述の旗に入れなさった。一、天上天下 一、唯我独尊。

前述の故事を入れて旗の仕様は、
一、其疾如風 一、其静如林 一、侵掠如火 一、不動如山 一、天上天下 一、唯我独尊。

このような御旗は天正元年酉(1573)の3月に持たせ初めなされ、同4月12日に(信
玄公は)御他界なり。この6本の御旗奉行が1人、惣旗奉行が1人、よって2人なり。

この6本の御旗の中では尊師(孫子)の旗が肝要なり。口伝。

――『甲陽軍鑑』



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 19:22:30.91 ID:apZtFxeX
孫子「天上天下、唯我独尊
なんて原典に無いのを入れるくらいなら
難知如陰、動如雷霆
まで書けよ」



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 20:04:01.86 ID:jxVT/vJG
御はた本備押の作法十五条の事 八

御旗12本は黒地に、上に日の丸を朱で書き、下に朱の筋、その下に朱で竹菱。これは御家に伝わるところ
の新羅三郎義光公の御旗の写しである。これが一の御先。

次に八幡大菩薩の御旗3本を白地に墨で書き、次に勝軍地蔵の御旗2本。次に諏訪上下大明神の御旗5本。
いずれも三のかけなり。ただしある時は地黒に朱で書いたこともあった。

とりわけ御他界なさる天正元年の3月、東美濃御陣の時、黒地に金で5つの古語を遊ばされた。その語は、

一、其疾如風 二、其徐如林 三、侵掠如火 四、不動如山 五、天上天下唯我独尊。

これはその御陣で初めて御持たせなさったのである。この旗を合わせて12本。その旗奉行は今井刑部左衛
門、子息・新左衛門なり。父は信玄公の御感状11、子息は7つで武功の武士である。御旗の後先に乗り、
当番が先、あけ番が後、これも各番なり。

――『甲陽軍鑑末書』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 20:57:31.27 ID:lsv+hvPP
>>955-957
天上天下唯我独尊は仏教用語
フロイスのこの記述とも合致する

>信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 10:35:47.67 ID:iXW+Hetr
旗の色、赤は平氏、白は源氏

信玄公軍法、4人のままになり給う事

2019年05月24日 14:43

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:04:29.85 ID:W72lPDZB
一、馬場美濃(信春)は戦のなされようを申し上げる。

一、山県三郎兵衛(昌景)は「御働きなされて良いかと」と勧め申し上げる。

一、内藤修理(昌豊)は「どこどこへ御働きなされよ」と、指図申し上げる。その様子は北条家を掠め給う
  場合でも伊豆か相模か鉢形か。関東ならば新田・足利か。家康ならば遠州か三河か。信長の東美濃か。
  さては越後かと、様子を推測して内藤が申し上げた。

一、高坂弾正はこのうえなく敵国へ深く働き、あるいは「御一戦は必ず御延引」と計り申し上げる。良く隠
  密することにより、働きは前に知れず。ただし侍大将衆は存じているのである。

一、信玄公軍法の事、馬場美濃守・内藤修理・高坂弾正・山県三郎兵衛4人のままになり給う事、口伝あり。

――『甲陽軍鑑』

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937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:09:09.84 ID:+ueqcqA2
何言ってんだか良く分かんない



本当の合戦両度ながら、信玄公御勝利なり。

2019年05月19日 12:30

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 17:20:23.05 ID:WLVYKXLa
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

北条氏康公は河越で上杉管領8万余りの大軍に8千で勝ち給うといえども(河越城の戦い)夜軍であるから
敵は油断した故である。そうでなければ8万余りの人数に8千の北条家がどうして争って負け申すだろうか。

下総国府台で氏康公は安房の義広(里見義弘)に勝ち給えども(第二次国府台の戦い)、義広は初めは打ち
勝ち油断したところへ、氏康が掛かって利運になされたのである。

このように出し抜き、あるいは二股(節操がない)で小身な敵に勝ち、あるいは堀を掘って柵を付け打ち、
自分が逆心をし、または旗下の侍が合戦で突然裏返って敵となり、無理な勝ちを負けたとしても、負けとは
あまり心に意地を張るのをやめないのである。世間でも本当の勝負と批判はしないのである。

国持ち達が敵味方ともに2,3万の人数で白昼に合戦参るべしと、両方ともに他国の加勢はあるとしても、
大将が1人ずついて川も柵も裏切りも無く打ち合い、手勢ごとに槍を合わせ勝負をして実否を付けたのを、
本当の合戦と申すのである。これをどれかと分別で見申すと、川中島合戦と三方ヶ原合戦になるのである。
両度ながら、信玄公御勝利なり。

敵味方ともに2千,3千での勝負は諸国にそれこそいかほどもあるだろうが、それは大合戦とは申さない。
大合戦ではないから世間で取沙汰されないのである。信玄公が御勝利された相州みませ合戦(三増峠の戦い)
も氏康公・氏政公父子が到着されない以前に、北条家の先衆ばかり切り崩しなされたので、本当の合戦とは
申しがたい。

北条陸奥守(氏照)・阿波守助五郎(北条氏邦)の各々一類衆がいらしたといえども、大将の氏康父子は到
着なさらなかった。その以前、馬場美濃(信春)方へ向かった武士の中で金の制札と金の提灯を指物にした
2人の武士がいて、これもまた権を争い稼ぐところを、治部と市之尉が見て治部は金の制札を、市之尉は金
の提灯をと目標に致し「討ち申す!」と申して、その如く治部も市之尉もその武士を討って高名仕った。

指物を添えて自分の備の侍大将である馬場美濃守には見せずに、市之尉は治部を訪ね治部は市之尉を訪ねて、
互いに大口を叩くようであった。これは古今でもさほど無き働きである。

(後略。>>926

――『甲陽軍鑑』



信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



現在刀脇差を差すのは

2019年03月22日 12:45

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/22(金) 09:01:12.17 ID:OztkscXW
天文年中に、武田信玄が武器制作のことを諸臣に命じて、その議論を記録した『武具要説』(高坂彈正の
著とされる)という書がある。
その中に刀脇差について、長短得失の論が有る。信玄の頃より刀は大小を差すようになったものと考えられる。
現在刀脇差を差すのは、戦国の風俗が、今に伝わったものである。

(安斉随筆)



740 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/22(金) 10:50:26.30 ID:tK1z/NHF
二本差しって調べたら大小腰にさすだけじゃなくって違う意味もあるのね

その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし

2019年03月13日 19:14

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 18:14:59.38 ID:e+3JSm8n
武田信玄が信濃に発向する時、鳩一羽が庭の前の樹上に来た。人々はこれを見て、口々にささやいて
喜ぶ色があった。信玄がその故を問うと

「鳩がこの樹の上に来る時、合戦大勝にあらざる事はありません。これは御吉例です」

これを聞くや信玄は、その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし、衆の惑いを解いた。
鳩がもし来ない時は、人々に結果に対して疑いくじける心が生まれ、戦が危うくなることを
慮ったのである。

(武将感状記)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:05:54.14 ID:/4hQLrGf
>>717
文章だと一行で終わらせてるが、話聞いてから鉄砲一式持ってこさせて発射するまでどれくらいかかるんだ?

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:14:20.74 ID:ZvDr02Zm
「これは吉例です」「今日は凶日です」と言われたら、それを敢えて否定しにかかるエピソードは明智光秀や羽柴秀吉にもあったね

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:28:50.52 ID:VWiLU7G0
>>717
太閤「鳩が来ないなら来させてみせよう」
権現「鳩が来ないなら来るまで待とう」
ノブ「やっぱり鳩が来ないなら○す」

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:26:52.61 ID:FIxJ6/9L
ノブは桶狭間の時わざと神社で鳥放たせて吉兆扱いにしたんでは

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:46:03.82 ID:fpOp7GYF
上洛した時サクラ使ってる以上ありえん話ではないが
ノッブくらいになると咄嗟に何か見つけてアドリブで周囲を納得させられるだろう

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:09:20.79 ID:PU3Ax35N
鳩殺して負けたら神の使い殺してバチ当たったと言われそう
そんな逸話何処にでも転がってるよな

永禄12年、武田軍駿河撤退と武田重代の家宝・八幡大菩薩の旗

2019年01月06日 19:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:31:56.44 ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』


569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:32:29.35 ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 00:30:39.58 ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』



570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 20:16:27.89 ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 12:10:41.04 ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 14:28:39.05 ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 08:45:56.18 ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな

すべて信玄の作謀

2018年12月29日 17:14

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 19:44:13.74 ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』