秀次事件シリーズ・粟野秀用

2010年05月08日 00:00

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/07(金) 00:57:42 ID:wGctwaPD
秀次事件シリーズ

粟野秀用(ひでもち)という武将がいた。
彼はもともと伊達家の家臣であったがある時罪を得、それにより処刑されると知り伊達家を出奔、
やがてまだ織田家の武将で、対毛利戦の最中であった羽柴秀吉に仕えた。
(一説に粟野は政宗の弟小次郎の傅役であり、政宗による小次郎手打ちの再出奔したともいわれるが、
それでは時代が合わない)

伊達家は粟野が羽柴家に仕えたことを知ると大いに怒り、わざわざ使者を使わして抗議した
『あなたの御家に粟野木工頭と言う者がいると思いますが、この粟野は伊達家譜代のものですが
法外のことがあり、勘当した上押籠ておいたのに、奥州を出奔して貴方に仕えました。
彼者は仔細があり、当国において訪ねたいことがありますので早々にお返し下さるよう。」

これに対して秀吉
『粟野のことですが、以前我が家に仕えることを望んだ時、何者であるかとその履歴を尋ねたところ、
あなた方伊達家が言ってきたようなことを、相違なく私に申しました。あなた達が勘当した者をこの秀吉が
扶持したことについては、多少の心苦しさを覚えますが、奥州よりはるばる私を頼み来て、その詳細を語り
嘆くゆえに、その心底不憫と思い召抱えますと、非常に忠功を現してくれています。

粟野は伊達家のご法度に背いたかもしれませんが、この秀吉に免じて御免あれ』

そう返答した。

このあと伊達家より何事か言って来るようなことはなく、粟野は秀吉の元で軍功を重ね、
四国征伐の後はなんと、伊予柾木城主、15万石の大名となった。
さらに秀吉の命により関白秀次の重心の一人ともなり、その威勢はかつての主家、伊達家をしのぐほどであったと言う。

が、文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次切腹。粟野秀用もその重臣として責任をとり、同日、京の東山において切腹した。
彼には子も一族も無く、その家も断絶となった。


粟野の死に対し京雀達はこのように批評した
「粟野はもともと卑しい身分のものであったが、にわかに15万石の大名となった。だが、それゆえに滅んだのだ。
痩せ子が多くの食事を取るのは、かえって毒となり身のためにならないと言う。
此の人も昔のように徒士の侍のままなら長命したであろうに、15万石が毒となって命を失ったのだ。

その上50余りの歳だったと言うのに、妻女は費えになるからと独り身を好んでいた。
彼の人生のどこに、楽しみが有ったのだろうか。」

こんなことを、様々に語ったのだと言う。

余談だが秀次事件の時伊達政宗が疑われたのは、この粟野秀用が元伊達家の家臣であったため、
何らかの繋がりを疑われたことも大きかったと言う。

奥州から現れ一瞬の栄華のあとたちまちに消えた、伊達家元家臣、粟野秀用についての話である。




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