桐生家顛末

2010年05月11日 00:01

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/10(月) 21:46:51 ID:muMvWpiF

この関連の話でよく見かけるのはこんな感じかな

戦国時代、桐生家の版図を歴代最大に広げた助綱には子がなく、
ために同族(藤原姓足利氏。源氏じゃない)の佐野昌綱から親綱を養子に貰い受けた。
この親綱、入嗣の際に都布子、山越ら四人の佐野家譜代の家臣を後見人として連れ添い、
永禄十二年に助綱が病没すると桐生家家臣を排斥し、伝来の家風は無視し、
四家臣のみの意見を重用して佐野家の属領であるかのような統治を始めた。

このため佐野系と桐生系の家臣団の対立が急速に拡大、
旧来の桐生家を慕う民心は親綱から完全に離反して支配体制は麻の如く乱れ、
これを憂えた里見勝弘は旧臣代表として繰り返し諫言するが親綱は聞く耳持たず。

これに呆れた勝弘の子二人は出奔して越後に亡命、
勝弘を疎んじていた親綱はこの事を反逆の証としてついに勝弘に腹を切らせるに至る。

で、この状況を奇貨とした由良国繁は藤生紀伊守を大将として柄杓山城を攻撃。
桐生系家臣団の内応を得て瞬時にこれを陥落させて親綱を佐野に追い、
以後桐生領は由良氏の領知するところとなった、ってもの。

ちなみに親綱(重綱)には後日談があって、
天正六年に由良成繁の病没すろと、由良家の家中に混乱が発生すると期待して、
桐生に潜入して旧臣や領民を扇動してみたけど、『誰一人』応じるものがなく
むなしく佐野に戻ったそうな
スポンサーサイト