460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 22:43:10.86 ID:cj6DY8oA
慶長十四年十二月九日、去年、長崎の有馬修理(晴信)の被官達が遣わされ、明朝のあま川(マカオ)に
商いのため渡海した所、かの所のシンニヨロ(商人)并びにカピタン(是は船頭司)たちが、
「あま川の売買の様子を日本人が知ってしまえば、重ねて黒船(ポルトガル船)が長崎に着船しても、
利を得ることが難しい」
と考え、日本人三百余人を一ヶ所に呼び入れ、悉く焼害した。
この報復として被害に相当する黒船を討つべきであると、有馬修理は駿河に於いて徳川家康に訴えた。
殊に日本人を焼害したシンニヨロ、カピタンが来朝しており、幸いにかの船を計り呼んだものの、彼らは
上陸しようとせず、料簡に及ばないため、船を改造し、干戈を以て討ち果たす用意が有った。
しかし有馬のこの計画を黒船の唐人たちは見知して、この日九日に俄に船を出し逃走を図り、
十二、三里程漕ぎ帰った所、風たちまち起こって十里ほど吹き返され、”ゆわう”という所に黒船は
上がった。この間に、有馬修理は改造した船を漕ぎ寄せ、井楼を上げ黒船に漕ぎ寄せると、
素より案内が有ったため、塩硝の保管してある場所へ火矢を打ち込んだ。このため黒船は忽ち焼亡し
沈没した。前代未聞の次第であった。
(中略)
この黒船は水上の部分ばかりが焼け、水に浸かっている部分は沈んで今もその場所にあり、
二十五尋(約三十八メートル)ほどの水深に船の沈んだ部分はあった。
このため、海士たちを召し寄せ、この船に綱を付け、引き上げる事が計られた。
この船の内部には、銀が三千貫目ほど有り、印子はいかほど有るかも知れぬほどで、糸(生糸)は
少々浮き上がったのを取って、駿府への使いに持参させた。
『当代記』
「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」についての記事ですね。
慶長十四年十二月九日、去年、長崎の有馬修理(晴信)の被官達が遣わされ、明朝のあま川(マカオ)に
商いのため渡海した所、かの所のシンニヨロ(商人)并びにカピタン(是は船頭司)たちが、
「あま川の売買の様子を日本人が知ってしまえば、重ねて黒船(ポルトガル船)が長崎に着船しても、
利を得ることが難しい」
と考え、日本人三百余人を一ヶ所に呼び入れ、悉く焼害した。
この報復として被害に相当する黒船を討つべきであると、有馬修理は駿河に於いて徳川家康に訴えた。
殊に日本人を焼害したシンニヨロ、カピタンが来朝しており、幸いにかの船を計り呼んだものの、彼らは
上陸しようとせず、料簡に及ばないため、船を改造し、干戈を以て討ち果たす用意が有った。
しかし有馬のこの計画を黒船の唐人たちは見知して、この日九日に俄に船を出し逃走を図り、
十二、三里程漕ぎ帰った所、風たちまち起こって十里ほど吹き返され、”ゆわう”という所に黒船は
上がった。この間に、有馬修理は改造した船を漕ぎ寄せ、井楼を上げ黒船に漕ぎ寄せると、
素より案内が有ったため、塩硝の保管してある場所へ火矢を打ち込んだ。このため黒船は忽ち焼亡し
沈没した。前代未聞の次第であった。
(中略)
この黒船は水上の部分ばかりが焼け、水に浸かっている部分は沈んで今もその場所にあり、
二十五尋(約三十八メートル)ほどの水深に船の沈んだ部分はあった。
このため、海士たちを召し寄せ、この船に綱を付け、引き上げる事が計られた。
この船の内部には、銀が三千貫目ほど有り、印子はいかほど有るかも知れぬほどで、糸(生糸)は
少々浮き上がったのを取って、駿府への使いに持参させた。
『当代記』
「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」についての記事ですね。
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