845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/04(土) 16:32:21.32 ID:azef0qea
或る記に、大坂冬の陣、加藤式部少輔明成は豫州より渡海し神崎川上に控え、その家臣である
加賀山小左衛門を以て斥候をさせた所、帰り来ると「早く川を越して駐屯されますように。」
と申し上げた。
これに対して加藤家の功臣たる川村権七、佃次郎兵衛一成の二人は
「この寒天、しかも夜陰に及んで川を越えたなら士卒は凍えてしまう。その時に敵兵が寄せて来て
一戦すれば、手足がかじかんで忽ち利を失うだろう。であれば、川のこちら側で夜を明かし、
翌早朝に川を渡るのが良いであろう。」
と申し、皆、これに同意した。
しかし加賀山は重ねて
「拙者の合戦における経験は未だ不熟ではありますが、今宵、川を打ち渡るべきです。
何故ならばこの川の上下に連なる味方の軍勢の様子を見るに、早くも川を渡ろうと用意をしています。
その中でたとえ躊躇する勢があったとしても、一陣が渡れば緒軍皆渡るでしょう。そして明朝
合戦するとき、当家ばかり一戦も遂げなかったとしたら、武名の瑕瑾遁れられません。
かつ両御所(家康・秀忠)の御疑いを蒙り、国家も危うくなるでしょう。
今度の軍は天下中を味方とする事なのですから、戦の土地を争うような端軍とは大いに異なります。
然れば、強いて勝敗にも拘るべきでは有りません。後のことも計るべからず、ただ人に先んずる戦を以て、
専要とされるべきです。」
この言葉に、川村権七は大いに感心した。佃次郎兵衛は頃く思案し
「足下壮年と雖も、只今の諫言は理に当たっている。我等が及ばざる所である。」
そう言うと、加藤家の部隊に忽ち川を渡らせ、北中の島に駐屯させた。
この事について世間では、川村・佃が忠を専らとして、己を立てようとはしなかったことに
感じ入ったという。
(新東鑑)
或る記に、大坂冬の陣、加藤式部少輔明成は豫州より渡海し神崎川上に控え、その家臣である
加賀山小左衛門を以て斥候をさせた所、帰り来ると「早く川を越して駐屯されますように。」
と申し上げた。
これに対して加藤家の功臣たる川村権七、佃次郎兵衛一成の二人は
「この寒天、しかも夜陰に及んで川を越えたなら士卒は凍えてしまう。その時に敵兵が寄せて来て
一戦すれば、手足がかじかんで忽ち利を失うだろう。であれば、川のこちら側で夜を明かし、
翌早朝に川を渡るのが良いであろう。」
と申し、皆、これに同意した。
しかし加賀山は重ねて
「拙者の合戦における経験は未だ不熟ではありますが、今宵、川を打ち渡るべきです。
何故ならばこの川の上下に連なる味方の軍勢の様子を見るに、早くも川を渡ろうと用意をしています。
その中でたとえ躊躇する勢があったとしても、一陣が渡れば緒軍皆渡るでしょう。そして明朝
合戦するとき、当家ばかり一戦も遂げなかったとしたら、武名の瑕瑾遁れられません。
かつ両御所(家康・秀忠)の御疑いを蒙り、国家も危うくなるでしょう。
今度の軍は天下中を味方とする事なのですから、戦の土地を争うような端軍とは大いに異なります。
然れば、強いて勝敗にも拘るべきでは有りません。後のことも計るべからず、ただ人に先んずる戦を以て、
専要とされるべきです。」
この言葉に、川村権七は大いに感心した。佃次郎兵衛は頃く思案し
「足下壮年と雖も、只今の諫言は理に当たっている。我等が及ばざる所である。」
そう言うと、加藤家の部隊に忽ち川を渡らせ、北中の島に駐屯させた。
この事について世間では、川村・佃が忠を専らとして、己を立てようとはしなかったことに
感じ入ったという。
(新東鑑)
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