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鈴木道休の復讐

2010年01月06日 00:03

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/05(火) 03:58:06 ID:IYCq0tlX
織田有楽斎の嫡男、河内守長孝の所に出入する牢人に、鈴木道休と言う男がいた。

ある時のこと。長孝の屋敷において人々寄合う事が有り、そこで長孝の弟左門頼長が
余興として鼓を叩いた。
叩き終わったところで道休、頼長の鼓の腕前を褒めた。が、頼長はその褒め方が気に入らず、
なんとその鼓を、道休に向かって投げつけた。

これに道休は激怒し、頼長を討ち果たそうと刀に手をかけた。が、大勢が
二人の間に割って入ったためその場は不首尾に終わった。

しかし道休は屈辱を忘れず、返報の機会を待っていたところ、大坂の陣が起こり
頼長は大阪城に入ることとなった。
「その行きすがらを狙うべし!」
道休は頼長の後を附けたが、頼長は大身で常に周りに多くの家臣が居り、襲撃する隙が無かった。

ここで道休は思った。
「自分は既に年老いている。この期を逃せば二度と復讐の機会はないであろう。
しかし頼長は、明日には大阪城に入ってしまう。屈辱を受けて遺恨も晴らせないのであれば…!」

道休、枚方において切腹し果てた。とのことである。


ところで頼長の方は大阪城内において、牛に角に金銀の箔を貼り、自身はその牛に乗り、
それを遊女に引かせて遊ぶなど、頓狂な行動が目立ち、冬の陣の講和の後は城を出て
侍を辞め、入道となり雲正寺道八と名乗ったそうである。


侍が屈辱を受けたまま生きることなどありえないのだ。と言う話である。




495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/05(火) 09:27:02 ID:h6AEfY+V
有楽の息子ってことは、信長の甥にあたるのか。
ほんとこの一族のカブキ具合というか芸術方面への突き抜けた狂いようはw

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/05(火) 15:31:08 ID:CpCBCMzr
>>494
ただの(^q^)あうあうあーな人に見えるな>頼長

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/05(火) 22:48:42 ID:YDarq4E0
幕府の目をくらます演技だったとしたらたいしたものだが・・


501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/06(水) 00:02:55 ID:jcsXx5Hu
むしろ豊臣方をだまくらかす目的なんじゃないかなw
頼長は親父とセットで織田信包の毒殺疑惑や情報漏えい、
冬の陣での唐突な指揮権放棄、休戦期間に政争起こして退城、
とどう見ても徳川のスパイとしかいえないことしかやってないし

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