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大崎家の落日

2010年09月10日 00:01

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/09(木) 20:20:05 ID:SuPquU8s
大崎家の落日

大崎義隆伊庭野惣八郎新井田隆景という2人の美少年を寵愛していた。
特に隆景は家中屈指の美少年でしかも聡明であると評判だったのだが、自分と並んで義隆の寵愛を受ける惣八郎に
嫉妬していた。
そして隆景の父で四家老の一人里見隆成は息子の寵愛を盾に権勢をふるい更なる勢力拡大を狙い、隆景も
主君の寵を独占するために、邪魔な惣八郎の排斥を企てた。
しかし家中にはこの親子を快く思わない者は多く、惣八郎はその筆頭格であった執事氏家吉継を頼った。

その結果家中は隆成隆景親子等を中心とする新井田派と吉継等を中心とする伊庭野派に分裂、
家中を二分する戦いに発展してしまう。
義隆は両派を和睦させようと動いたようだが、誰も言うことを聞く者はいなかった。

当初隆景は吉継を攻め滅ぼし、義隆を自害させた後伊達氏に降伏するという条件の下
伊達政宗に援助を依頼、大崎領を我が物にせんとする政宗もこれを了承していたのだが
突如隆景は義隆を居城新井田城に監禁、これを擁立し伊庭野派を主君に仇名す謀反人であるとして攻撃を開始した。

劣勢にたたされた吉継は片倉景綱を通じて政宗に援助を依頼。
政宗は吉継救援を名目として大崎家中の内紛に介入、大崎領内への侵攻を開始。
対する義隆は南条隆信を守将とし中新田城でこれを迎え撃った。
世に言う「大崎合戦」である。

この時吉継は居城岩出山城から出撃するも新井田勢に敗北、この乱戦の中惣八郎は隆景自らの手で惨殺されたという。

この戦いで大崎氏は伊達氏に一矢を報いたが、その後は葦名氏を滅ぼし奥州の覇者となった
伊達氏の勢いに抗いきれず再び服属、義隆は吉継を反逆者として切腹させようとしたが
政宗の調停により和睦。吉継は帰参を果たしている。

この後も大崎家中の不穏な空気は続き、そのために義隆は小田原征伐に参陣することができず
所領を没収され大崎氏は滅亡。同じく所領を没収された吉継は伊達氏に仕官するも、翌年病死した。

義隆への愛情から家中を分断し、遂には滅亡にまで追いやった傾国の美少年新井田隆景のその後は不明である。




897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/09(木) 20:21:22 ID:sVPXQnMu
義隆って名前の奴はホント男色で身を滅ぼすなw
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これも一種の乞食大名

2010年05月23日 00:03

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/22(土) 01:51:18 ID:MAf2C9uS
これも一種の乞食大名

大崎義隆は小田原不参によって奥州征伐後没領。
蒲生氏郷に属し、文禄の役に渡海。晋州城の戦いに参加した。
この時点では捨扶持客将扱いで1200石前後。
氏郷死後は上杉景勝を頼り、1600年には2700石を給されている。
義隆は会津で没しているが、以後その子義興が所領を没収されたとする説もあり
一家の悲劇として涙を誘うものがある。




一栗放牛と高春の意地

2010年05月22日 00:07

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 11:01:06 ID:iHoUGxWt
一栗放牛と高春の意地

天正19年奥州仕置きで、DQ眼竜政宗は二万を越す大軍を引き連れ、
一揆勢が立て篭る佐沼城に押し寄せた。

佐沼城は周囲を川や沼に幾重にも囲まれ、それまで数々の戦でその堅固さを
示してきた。そこに集まった一揆勢は、葛西家一族の千葉信胤・信重兄弟を
大将に、旧葛西・大崎家臣や近隣の農民など、総勢一万人以上にふくれあがっていた。
そしてその中に、かつて大崎家にその人ありとうたわれた猛将・一栗豊後
(一栗兵部高春)の姿もあった。

小田原に参陣しなかった葛西・大崎両家は領地没収の憂き目にあい、
秀吉の代官木村親子とその家中の狼藉に耐えかねた領民たちは一揆を起こし、
大崎・葛西の旧臣もこれを契機に大規模な蜂起を起こした。

一栗放牛の孫、高春は当初、自らの居城である一栗城(現玉造郡岩出山町)に二百数十名の郎党とともに
立て篭り、領内各地の一揆を鎮圧しつつ北上してくる政宗を迎え撃って華々しく討死にしようと待ち構えていたが、
政宗は一栗城には目もくれず、東の栗原郡に向かって兵を進めた為
「小城ゆえに無視されたとあっては武士の面目が立たぬ!」と
怒り心頭の高春は、すぐさま郎党を引き連れ政宗の最終攻撃目標である
佐沼城へと馬を走らせた。

佐沼城に集まった旧葛西・大崎家臣たちは、かつては仇敵として長年争ってきたことも忘れ、
共に肩を並べて政宗率いる仕置軍と互角以上に戦った。

そんな両家の古強者たちが集う一揆勢の中でも、高春は目を見張らんばかりの働きを見せ
仕置軍を苦しめた。得物の大薙刀を車輪の如く振るえば辺りは血華の大輪で満ち、
また弓を射れば狙い違わず敵兵の身体を貫いたと伝えられている。

この戦の最中、仕置軍の陣営に短冊が結ばれている矢が撃ち込まれた。
広げてみるとそこには、

「伊達どのは木の葉猿にも劣りたり 一つ栗をば落とし得ざれば」
(伊達のDQ眼竜? 猿蟹合戦の 猿より劣る なんで栗一つ落とせないかな? プギャーw)

と書き付けてあった。

矢は高春が放ったもので、短冊の歌は一栗城を無視した政宗に対する恨みと嘲りを詠んでいた。

結局城は落ち、佐沼はDQ眼竜の撫で切りに合う訳だが、
この戦いで戦死した高春の祖父=放牛は満92歳とも言われ、
その武は最上義光にも「大崎家中随一の者」と評される程のものだったという。




158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 11:12:51 ID:KM36ixxF
>>156
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2774.html
既出っぽいけど良い話だね

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 11:13:27 ID:eOEqHjof

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大崎義隆の「こんなハズじゃなかったのに」

2010年05月22日 00:05

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 11:34:49 ID:iHoUGxWt
大崎義隆の「こんなハズじゃなかったのに」

天正小田原の役で伊達政宗からの牽制の為に参陣の適わなかった大崎家だが
その弁明が認められて旧領の三分の一程が認められる事となった。

大崎義隆(‘∀‘)「禄高は減ったけど、家名は守れたようだ・・・」
最上義光(´・ω・`)「義兄上、徳川殿にも手を尽くしましたが、お役に立てず申し訳ない・・・」
一栗放牛(`皿´)「この様な仕打ちは某、納得いきません!!」

奥州検地終了をもって大崎家復興となるハズであったが・・・
政宗扇動する一揆のせいで、大崎復興は水の泡、旧領は全て政宗の物に・・・

大崎義隆は捨扶持2000石で蒲生氏郷預かりの身となり
長子大崎義久は最上家客分1500石、
一栗高春は最上家家中相談役1000石、
大崎家中は完全に崩壊した。




891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 12:19:57 ID:OxX4meCT
ありゃまあ…
大崎で一揆が起こったから、旧領復帰やっぱヤメ!になったのかな

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 19:56:19 ID:1hPZWbmZ
>>890
大崎親子は蒲生→上杉→最上→加藤嘉明 負け組に身を寄せ続けるんだよな。悲惨。
というかデス浪人とも言える。

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 20:04:50 ID:8hP+BTtr
>>901
見事に負のオーラに引き寄せられてるな。
まあ下り坂に入った家というのはそういうものかもしれないが…。