村上織部道浄の自刎

2016年06月01日 18:21

780 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/01(水) 16:15:36.29 ID:QCwHFXo1
初めて投稿します。拙い文章で見苦しいかと思いますがご容赦のほどを。

私の地元・陸前高田の人なら大概知ってる郷土の偉人の話。

葛西家の家臣に村上織部道浄という者がおりました。
豊臣秀吉による奥州仕置により葛西家は滅亡。織部も野に下り、道慶と名乗って高田村(現・陸前高田市高田町)に西光庵という寺子屋を開き、地元の子らに読み書きなどを教えるようになりました。

歳月は流れ正保元年、高田村と今泉村(同・気仙町)の間を流れる気仙川の鮭の漁業権を巡り、両村の間で対立、争いが起きて抜き差しならぬ状況となりました。
高田村・今泉村双方に多くの教え子を持つ道慶は、かつての教え子同士たちが争うことに心を痛め、86歳の老体に鞭打ち調停に乗り出します。
ところが道慶の必死の説得をもってしてもこの騒ぎを収めることが出来ず、道慶は決心します。

「よし、こうなったら自刎しよう!」

ということで、高田村・今泉村双方の人々が集まる中、自らの首を刎ねることで争いの愚を諭しました。
人々はこれに心を打たれ争いを止めたのでした。そして出漁は両村1日交代とし、道慶を川の神として子々孫々まで祀ったのでした。

東日本大震災による大津波で「道慶塚」は倒れ、西光庵跡に植えられた「村上道慶塾の赤松」も流出しましたが、震災前まで続いていた道慶翁感謝祭は2年前に再開されました。

ちなみに私は気仙町(今泉村)人間ですが高田町(高田村)で商売してますんで、これからも両町仲良くやっていってほしいと思わずにはいられません。

以上、陸前高田市民が誇る郷土の偉人の話でした。



785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 00:56:03.54 ID:2JLVPFGh
>>780
たしか平田弘史が漫画化してた気が

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 01:07:39.88 ID:sHleSrm2
道慶塚をどっちの村に作るか揉めなくてよかった
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江刺兵庫頭重恒は酒好きで

2011年11月27日 22:01

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 17:03:47.28 ID:RaWjvp9X
陸奥国江刺四十四郷の主、岩谷堂城主の江刺兵庫頭重恒は、葛西七人衆のひとりにして
遠近に威を振るう、実質半独立の大身だった。
だが彼は酒好きで、常日頃から酒にふけり、昼夜の境もない有り様だった。

ある時葛西氏から相野矢金吾という者が使者として派遣されてきた。
だが重恒は長酒しては伏せてしまい、使者に八日間も対面せず、城下に待たせたままだった。
家臣達が意見しても重恒は承引せず、弥々酒に乱遊して日々は過ぎていった。

これに江刺氏菩提寺である光明寺の現住没岩和尚は、これを聞いて嘆いた。
「およそ大身であろうと小身であろうと、身を滅ぼすのは自身の無道によるものだが、
その多くは酒によって事起きて、国を滅ぼす者も多い。
故に仏陀は長老沙伽陀を戒めて飲酒戒を立て、夏王朝の禹王は酒の美味さに、かえって酒を造った儀を疎んだ。
酒池槽山の楽しみ、長夜痛飲のもてあそびは、その果てに国を滅ぼし身を失うこと、古人その例は少なくない。

しかるに兵庫頭殿の振る舞いを見ると、昼夜酒を好んで国事を怠り、年月に貨を費やして、民の愁いを省みない。
これは敗亡の端だ。
その上、到来の使者を城下に数日まで留め置き、対面もしないとは、いかなる理由だろうか。
これは諸人の批判を招き、一家不破の仲立ちになろう。
家中の家臣達は、かかる時どうして諌言を申さないのか。我出家の身ながら、この時、相止めるべきではないと思い
一首の歌を詠んで、兵庫頭殿へ進上する」

  わざわひの その源を 尋ねるに 兎して角(こう)して 酒にこそあれ

これを見た重恒は、没岩が自分を制止する歌だと理解し、されば返歌をしなければ、と歌を詠んだ。

  酒ゆへと 思えば責めて 慰る 直しがたきは 下戸のわざわひ

この後より重恒は酒は止めなかったが、日々の行いは謹むようになったという。





さいかち

2010年10月26日 00:01

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 12:41:47 ID:YMleIvJ9
小ネタ
奥州仕置きに葛西・大崎一揆で壊滅した葛西家。篭城組は例によって眼帯の人に撫斬りにされたりしましたが、
その遺臣は土着の庄屋や郷士として残りました。
そこて、彼らは屋敷の門前に一本の木を植えます。その木の名はさいかち。
葛西勝ちにかけたとも、再勝ちにかけたともされます。
もしも貴方が宮城県でさいかちの木が植えられた家を見つけたなら、それは400年前を超えて残る主家への
弔いのあかしかもしれません。


放牛おじいちゃんはガチ。でも逸話少ないぜ。




925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 19:02:57 ID:FW7WKhQw
小梁川宗朝と言い一栗放牛と言いと~ほぐのお爺ちゃんはハンパなさすぎる

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:59:53 ID:cNQPGpvg
>>925
鬼庭左月斎が恨めしそうに見ていますが…

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 23:36:19 ID:FD23Hiqp
>>925
北信愛も入れてあげてください。

葛西晴信と宿遠の系譜

2010年05月22日 00:04

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 14:11:33 ID:YQfULctR
葛西晴信と宿遠の系譜

天正仕置きによって大崎家の他に和賀、稗貫といった陸奥の大名達が改易となっている。
大崎家と争い石巻・佐沼を領した葛西家もその一家である。

葛西晴信は一時期寺池30万石を領した大身で大崎家との合戦には
優位を誇っていたが奥州仕分けで改易され、その後は参加した
大崎・葛西一揆で佐沼城で討ち死にしたとも、
後年加賀の前田家で死去したとも言われるが、
葛西家の混乱はこれだけに留まらない。

葛西晴信からして兄との家系継承や一族内の紛争
また大崎家との抗争や伊達家との縁組など、
当時としてはやむをえないが主家・主流を残すといった手段には
あまり手を尽くせなかった様である。

大崎・葛西一揆後の葛西氏は、
庶子の多くが伊達氏、南部氏を中心に奥州の大名に臣従し現在に至る。

臣従した庶子の多くが、それぞれ独自の葛西氏系譜を作成するが、
これの多くが独自の口伝、相伝に拠って作成されており
今日の葛西氏研究を混乱させている一因である。

「寺池系葛西氏」と「石巻系葛西氏」がそれぞれ宗家を主張した事ため
伊達氏をはじめ、養子縁組等で葛西氏に介入した大名が、
介入の正当性を主張し、豊臣秀吉の奥州仕置き、葛西大崎一揆で葛西氏が所持していた史料が
散逸してしまったもあり、系図は現在判明している物だけでも二つの系統
(俗に言う、葛西氏A系統と葛西氏B系統)を中心に30以上存在し、
それぞれが歴代当主の名前、順番が初代と17代以外はバラバラであり裏付け史料が極端に少ない。

当時の陣立てを見るにも
葛西左京大夫晴信 、葛西式部少輔信政、葛西民部少輔信国
及川越後守、青梅尾張守、赤井播磨守、福地下総守、門田丹波守、
末永筑後守、千葉左馬助胤元、千葉十郎五郎胤永、及川紀伊守頼貞、
千葉修理亮胤則、岩淵遠江守経平、千葉新左衛門尉武虎、及川美濃次郎頼兼、
菅原左近将監重国 、米倉右近行友、峯岸数馬有盛、三条小太夫近春、
寺崎伊予守祐光、飯野但馬守正秋、嵯峨舘左近、水戸部九郎、
箕輪田弥惣右衛門、歌津右馬、亀卦川三郎左衛門、及川隠岐入道

最上家の改易にも引けを取らない1000石取り以上の家臣が綺羅星の様に
揃い、これが葛西復興を賭けての庶子の擁立と家名・御家存続の混乱に拍車を
掛けてしまったと思われる。




897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 17:49:50 ID:WaP6Y5Jr
>>893
系図30以上ってすさまじいな
なまじ旧家のぶん、みんな宗家になりたかったんだろうが

そして関係ないが、
> 奥州仕分けで
の妙な説得力に笑ってしまったw

菅原左近のこと

2009年10月11日 00:21

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 02:28:05 ID:S9VkSi7y
菅原左近のこと

天正期に葛西家中に菅原左近という城持ちがいた。
大崎葛西一揆の際に、主君晴信に付き従い
佐沼落城の後に帰農したといわれる武将である。

「風土記写本」に以下の様な記述がある

佐沼落城後暫くして
千葉某「ワシらは南部領に逃れるがお主はどうする?」
左近「ワシはこの地に留まる事にする。
  一揆での御家再興は叶わなかったが
  何れの世にか同じ志を持つ者が集い、
  葛西再興が果たされるのを待つのも一興よ。」

葛西再興は果たされることは無かったが、葛西家中の心意気を感じさせる良い話。
寺池、佐沼、栗駒近辺には未だに多くの菅原姓が存続している。