さいかち

2010年10月26日 00:01

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 12:41:47 ID:YMleIvJ9
小ネタ
奥州仕置きに葛西・大崎一揆で壊滅した葛西家。篭城組は例によって眼帯の人に撫斬りにされたりしましたが、
その遺臣は土着の庄屋や郷士として残りました。
そこて、彼らは屋敷の門前に一本の木を植えます。その木の名はさいかち。
葛西勝ちにかけたとも、再勝ちにかけたともされます。
もしも貴方が宮城県でさいかちの木が植えられた家を見つけたなら、それは400年前を超えて残る主家への
弔いのあかしかもしれません。


放牛おじいちゃんはガチ。でも逸話少ないぜ。




925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 19:02:57 ID:FW7WKhQw
小梁川宗朝と言い一栗放牛と言いと~ほぐのお爺ちゃんはハンパなさすぎる

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:59:53 ID:cNQPGpvg
>>925
鬼庭左月斎が恨めしそうに見ていますが…

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 23:36:19 ID:FD23Hiqp
>>925
北信愛も入れてあげてください。
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葛西晴信と宿遠の系譜

2010年05月22日 00:04

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 14:11:33 ID:YQfULctR
葛西晴信と宿遠の系譜

天正仕置きによって大崎家の他に和賀、稗貫といった陸奥の大名達が改易となっている。
大崎家と争い石巻・佐沼を領した葛西家もその一家である。

葛西晴信は一時期寺池30万石を領した大身で大崎家との合戦には
優位を誇っていたが奥州仕分けで改易され、その後は参加した
大崎・葛西一揆で佐沼城で討ち死にしたとも、
後年加賀の前田家で死去したとも言われるが、
葛西家の混乱はこれだけに留まらない。

葛西晴信からして兄との家系継承や一族内の紛争
また大崎家との抗争や伊達家との縁組など、
当時としてはやむをえないが主家・主流を残すといった手段には
あまり手を尽くせなかった様である。

大崎・葛西一揆後の葛西氏は、
庶子の多くが伊達氏、南部氏を中心に奥州の大名に臣従し現在に至る。

臣従した庶子の多くが、それぞれ独自の葛西氏系譜を作成するが、
これの多くが独自の口伝、相伝に拠って作成されており
今日の葛西氏研究を混乱させている一因である。

「寺池系葛西氏」と「石巻系葛西氏」がそれぞれ宗家を主張した事ため
伊達氏をはじめ、養子縁組等で葛西氏に介入した大名が、
介入の正当性を主張し、豊臣秀吉の奥州仕置き、葛西大崎一揆で葛西氏が所持していた史料が
散逸してしまったもあり、系図は現在判明している物だけでも二つの系統
(俗に言う、葛西氏A系統と葛西氏B系統)を中心に30以上存在し、
それぞれが歴代当主の名前、順番が初代と17代以外はバラバラであり裏付け史料が極端に少ない。

当時の陣立てを見るにも
葛西左京大夫晴信 、葛西式部少輔信政、葛西民部少輔信国
及川越後守、青梅尾張守、赤井播磨守、福地下総守、門田丹波守、
末永筑後守、千葉左馬助胤元、千葉十郎五郎胤永、及川紀伊守頼貞、
千葉修理亮胤則、岩淵遠江守経平、千葉新左衛門尉武虎、及川美濃次郎頼兼、
菅原左近将監重国 、米倉右近行友、峯岸数馬有盛、三条小太夫近春、
寺崎伊予守祐光、飯野但馬守正秋、嵯峨舘左近、水戸部九郎、
箕輪田弥惣右衛門、歌津右馬、亀卦川三郎左衛門、及川隠岐入道

最上家の改易にも引けを取らない1000石取り以上の家臣が綺羅星の様に
揃い、これが葛西復興を賭けての庶子の擁立と家名・御家存続の混乱に拍車を
掛けてしまったと思われる。




897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 17:49:50 ID:WaP6Y5Jr
>>893
系図30以上ってすさまじいな
なまじ旧家のぶん、みんな宗家になりたかったんだろうが

そして関係ないが、
> 奥州仕分けで
の妙な説得力に笑ってしまったw