fc2ブログ

次第に土俵を掛け来たれ!

2022年05月30日 19:04

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/30(月) 19:02:33.60 ID:tH4eb+3+
大阪冬の陣、鴨野口にて丹羽五郎左衛門長重卿は仕寄を付けられた時、上杉景勝卿も出られ、
「我等も仕寄を付け申すべし」とて、家来に先立ち、「これなる溝に橋を丈夫に掛けよ」と
申し付けて引き込んだ。

始めは皆(仕寄ではなく橋を掛ける事に)「手緩き人かな」と思う気色にて、まったく橋を掛けて
いなかったのだが、そこに景勝卿出て「何とて橋を掛けざるぞ」と申されたため、西条治部が
「只今にも橋は掛け申すべく候。」と即時に掛けた所、景勝卿はこれを見て、元の仕寄場を差し置き、
脇に土俵を置き、鉄砲を掛け法螺を立て、「次第に土俵を掛け来たれ!」と下知した。

大阪方は、上杉勢の動きに初めは用心していたものの、溝に橋を掛けようとする様子を見て、
「上杉は軍の術を知らぬか、はかばかしき事はなし。」と引き入ってしまっていた。
また上杉の家臣たちすら、下知を請けざる気色であった。
それ故に、景勝卿は敵の油断を計り、法螺を立てたため、即座に仕寄場に土俵をひたひたと持ち寄せて、
仕寄を付けたのだ。

先に土俵を置いた場所は仕寄道となり、翌日城兵は仕寄の防ぎに出て、これを見て肝を消したという。

新東鑑



222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 07:15:37.64 ID:W1yvV688
>>218
西条(西條)氏は信濃の国人領主出身で、武田上杉を渡り歩いたよくある経歴の家
米沢藩での屋敷に天神さまを祀り、跡地が現在は米沢市の西條天満公園として整備されています
ご子孫は東京在住です
https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1810.html

223 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 09:40:20.63 ID:d3csJQJL
読みは「にしじょう」
上杉家中の場合、東西南北それぞれの条さんは、信越の地名の読み由来からか
きたじょう、ひがしじょう、みなみじょう、ですね

224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 09:57:18.29 ID:d3csJQJL
そして上下の条さんはどうかとなると、こっちはじょうじょう、げじょうなんですね

225 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 10:04:25.96 ID:d3csJQJL
明治大正期の画壇の大物に下條桂谷(げじょうけいこく)というひとがいますが、米沢出身です
スポンサーサイト



その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは

2022年01月30日 16:33

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 18:24:12.00 ID:vPZ3C4pH
或る本に、大阪冬の陣・鴫野の戦いの時、幕府の御使番である小栗又市は合戦が終わって
本陣のある住吉に帰り、今日の合戦の次第を言上した後、御次の間に於いて各々に向い

「今日はよき討ち所があったので、上杉にその事を申したのだが、日暮れだからと言って
承引しなかった。さてさて残念であった。」

と申した。しかしこれを大御所(徳川家康)がお聞きになって

「その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは推参なり!」

と仰せに成り、お叱りになったという。

新東鑑

大阪冬の陣で小栗又市さんが叱られたお話



296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 21:19:27.86 ID:oklvys1c
推参って「差し出がましい」と言う意味もあるんだな。
いまググって知った。

景勝譜代の主にて候間、御免下され

2021年09月22日 17:26

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 16:32:06.60 ID:ENFxkodI
上杉景勝の家において、荻田主馬(長繁)が武者奉行であった。
荻田が上杉家を立ち退いて(豊臣秀吉が上杉景勝の屋敷に御成になった時、秀吉に白湯を献ずる
役目を仰せつかった荻田の嫡男がその碗を落としてしまい「豊臣の天下に水(湯)を差した」と批判され、
激怒した景勝により父子共追放された)以降、蓼沼日向守(友重)、三股九兵衛が武者奉行と
なった。何れも大剛の覚えの侍であった、

そんな彼らに対して、越前黄門(結城)秀康卿より様々に接触が有り、蓼沼日向守に対しても
三股九兵衛に対しても、一万五千石宛にて自分に仕えるよう御呼ばれたのであるが、

「景勝譜代の主にて候間、御免下され」

として参らなかった。この二人について秀康卿は、大御所様(家康)より能く聞き召されて
いたのだという。

杉原彦左衛門覚書条々



566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 21:54:19.20 ID:L9m3N/kA
大胆と言えば大胆かも知れないが
主君の景勝の頭越しに直接大領やるからうちに来いよとか
些か無礼に過ぎる話なんじゃないか…?
蓼沼三股両名の忠義の良い話かも知れんが
秀康の悪い話でもあるような…

上杉景勝覚書七箇条

2021年08月12日 17:22

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/11(水) 20:56:14.44 ID:8II8o6Wu
天正18年の秀吉による小田原征伐、ついで奥州平定、天正19年の陸奥征伐、九戸政実族誅の後には海内
初めて一統し、人心もやや安定した。

そのため天正19年10月、上杉景勝は覚書七箇条を発布して、地頭の正邪はただちに農民に反映するもの
なので、いささかも怠慢があってはならないと論示し、苛斂誅求、徴税吏の粗暴を戒め、常に忠孝貞節の道
を教訓させた。

また百姓は国の宝として務めて寛政を行うべきであるも、いやしくも土地に関して不法を申し募るようなら
斬に処するも差し支えなしとした。およそ訟事は決して片言をもって獄を断じ、または依怙の沙汰があって
はならないと上杉氏の治民方針を示した。(『竹俣文書』)

「覚

一、地頭の正邪により、百姓は善悪に移るものである。いささかたりとも油断あるまじき事。

一、年貢諸掛かり等は、なるべく勘弁いたして、悪作の年は前年より小分たるべき事。

一、何事も古法を守り、利欲のために新法を立てて、百姓を苦しませ申すまじき事。

一、忠孝の道理を常々教訓いたすべき事。女たちへは貞節の道理が自ずから分かるよう、肝要にする事。

一、年貢諸の等(ママ)を取り集めに行かせた役人たちが百姓へ対して粗暴の事がないように申し付ける事。

一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように(百姓は國のたからに候間、なる程堪忍可致候)。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。

一、訴訟は双方共によくよく聞糺して沙汰するように。必ず依怙贔屓いたすまじき事。

右の条々を堅く守り申すように。以上。


天正19年辛卯10月 日 景勝花押

地頭大名中へ」

――『直江兼続伝竹俣文書)』



406 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/12(木) 03:31:08.58 ID:lTFxnUYn
直山「依怙贔屓なく審議を尽くした結果、3名様ほど閻魔大王への使いに出すことにしました。」



まぁ後世の創作くさいらしいけど

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 04:07:33.59 ID:NFSu9+hw
直山って誰だよ
閻魔送りの件はまんま
一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように(百姓は國のたからに候間、なる程堪忍可致候)。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。
に当たる判定なんだろう

408 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/12(木) 04:27:00.01 ID:lTFxnUYn
>>407
直江山城の略

親しい大名同士だとよく名前と冠位やら略してくだけて書くことがあるからそれ風にしてみたんだ。

まぁ、あの逸話は再三の譲歩にも関わらず、和解せず退かぬ媚びぬ省みぬして、人集めて騒いだ遺族側が悪いと思うわ。

三家については以上の通りであり

2021年08月05日 17:23

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:06:56.12 ID:tRQNg+FM
上杉景勝公は石田三成と陰謀を示し合わされた

石田三成が上方に於いて逆謀の色を顕せば、諸国より三成と内通していた者達が打って出て、
徳川家康と取合いを始めるだろう。私はそれを聞いて兵を発し、奥羽筋を打って上方と首尾を
あわせるべきか。であれば、仙台の(伊達)政宗(筆者注・この頃は岩出山城)、出羽の最上(義光)、
越後の堀(秀治)、この三人は燐競にて大身であると雖も、三人共にこの景勝の、物の敵とは思われない。
何故ならば、

一に、堀久太郎(秀治)は昨今の若将であり、弓矢の術を知らず、家法正しからずして家中は
二、三に割れ、殊に上方風であり。押し掛けには強いが後道に弱く、領民は堀家の新仕置に飽きはて、
古主である上杉家を慕っている。
また堀家を取り立てた太閤の御厚恩を忘れて家康に従う不義の兵であるから、これを踏み潰すに
手間はいらないだろう。

二に、伊達政宗は久しき家では有るが、その父である輝宗より二代に渡って境争い、坪弓箭をも
賢く取り、政宗一身の覚悟も無類で、能き大将である。
しかし家中は前代の悪風儀に慣れ、我儘を仕る士共は、現代の新仕置を迷惑がり、それを実行しようとすと、
手荒き政宗であるとし、心で疎み身を虚しくして。家中は意志が一致していない。

また大敵であると言っても上杉家と比べれば小身である。七手組の頭が、一両備えで押し向かえば、
政宗が手を出すことは出来ないだろう。
殊に政宗の心の有り様は、弓箭の正道について誠の吟味も入れようとせず、ただその時節に任せて
敵にも成り味方にも成り、自分の家を恙無く相続する事こそ至高であるとの奥意であるから、
我が方に少しでも強みがあると判断すれば、すぐに手のひらを返し当方に頼み従うだろう。

三に、出羽の最上(義光)は数代相続の家であるが、弓箭について然りとするような誉れが無く、
身にかかる火を払うばかりにて、他国遠国へ取り掛かるような武道のこだわりも無く、
家中の者共は事毎に居丈高にばかり仕り、武功誉れの者が有っても、新参譜代筋どちらでも、
小身であれば家老や出頭人の前では頭を挙げさせぬ故に、彼らが十考えている内三、四を言ってすら、
家老や出頭人の威に押され、一言を躓いただけでも善悪の批判を受ける。

そのため言葉少なく手短に計り言おうとして、その理屈が伝わらず、四つ言ったとしてもその内三つは
みな戯言となり、残った一つの理も、相手には生聞こえとなり、それを言った人物が不合点者と
取りなされる。故に以後は控えて物も言わなくなる。或いは、いかほど能き者であっても、口が
不調法であっては面出しも成らぬ。故に下の理が上に達しない。

最上家中では新参であっても大身であれば、譜代を押しのけ上座に在り、我意を振る舞う。
元より古参にて大身であれば、心は鈍くても我儘に口をきく。
執権に於いてこのような国法なのだから、軍法も未練なものであろう。であれば、上杉家に対せば
手に立つような事はない。

三家については以上の通りであり、であれば、石田が上方にて兵を起こせば、私は奥北国を
討ち靡かせるか、でなければこの大身の三家には押さえを置いて、家康の持つ関東へ働き出れば、
常陸の佐竹を始め当方への志の衆、東国にも多いのだから、攻め上がり家康を取り挟んで
一戦を遂げれば勝利を得るだろう。」

管窺武鑑

上杉景勝の堀家、伊達家、最上家への評価について。



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:37:19.76 ID:WRarKSNv
管窺武鑑って黒歴史ノートなのか

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 17:35:12.09 ID:fqhsEK9r
>>896
>>901

べらべらよく喋る景勝だな
無口って誰が言ったんだ

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 19:47:27.12 ID:TruHcJ9v
>>920
上杉景勝は一言も喋ってない。
心の声として芥川隆行のナレーションが流れてるだけだ。

首奪い

2021年08月02日 17:29

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/02(月) 16:01:28.09 ID:V9FYJm3n
小田原の役、上州宮崎砦の戦いの時の事。上杉景勝勢のうち藤田能登守(信吉)、甘糟備後守(景継)らの
軍勢は北条方の宮崎砦を乗り崩し、敵勢を追撃した。

藤田信吉の組の夏目舎人助は組子を呼び寄せ真っ先に進むと、宮崎坂口にて敵を追い詰めた。
その敵の中に、茜の羽織を着け、味方に下知して殿をする武者があった。舎人はそこに乗り付け、
互いに馬上にて名乗りかけ、鑓を組んで突き落とし、組子の澤田作左衛門に「首を取れ!」と申すと、
作左衛門も上に乗り掛かって首を擦り落とした。とこそがその時、甘糟備後守の手明(予備兵)の者である
湯浅七右衛門が奔り来て、作左衛門を押し倒し、その首を取って逃げた。そこに舎人助が乘り付け、
湯浅の差物の絹を少し切り落とし、それを取り置いた。しして又組衆を下知し、南西方向へ追い打ちをかけた。

(中略)

湯浅七右衛門が奪い首をしたことについて、合戦後夏目舎人助は自分の組の澤田作左衛門を召して
甘糟備後守の所へ行き、申し上げた

「御内の衆が奪い首を致されましたので、その首を返して頂きたく、急度仰せ付けられますように。」

備後守はこれに
「我らの内に、そのような比興者が有るはずがない。しかしながら調べよう。その方にそれについての
証拠は有るか。」

舎人は澤田を呼び出し、「この者が取った首を、御内の者、彼は白地に黒二引の差物をしていましたが、
後から来て澤田を押し倒し首を奪いました。その証拠はここにありますので、その差物に
名札をつけてここに出して下さい。」
そう申して差物を取り寄せると、彼の差物は切り裂かれており、そこに舎人の持ってきた切れを
当てるとピタリと一致し、紛れもない事が解った、これに備後は殊の外立腹し

「このような臆病者を召し使ったのは私の不吟味である。それをそのまま置いては、諸人に悪事を
教えるようなものだ!」

と。かの者を召し出し手打ちにすると申されるとこを、舎人は制して「先ず我が方の大将である
藤田と御相談なさってください。他の備えの為でもあります。」と、奪われた首を持って帰り、
高名帳に付けた上で、藤田にこの事を申し伝えると、藤田はすぐに甘糟を招き、二人伴って御本陣へ参り
上杉景勝公に言上した。

これについて景勝公はこう仰せに成った
「武士であっても武道を知らない者は下人である。武士は本心の臓より思案工夫して分別する者である
故に、科があれば切腹をする。

下人は首元で思案する故に締まり無く、落ち着いた分別も無い。これ故に科あれば首を斬る。

女人は鼻先ばかりの智である故に、科があれば鼻切る事、古来よりの掟である。

その者は下人同然の臆病を働いた。諸人への見せしめの為にも、縄を付け陣中を引き廻し、首を斬り
獄門に懸け、札を添えて首を晒し置くように。」

と仰せ出されたために、斯くの如く仕った。

『この湯浅七右衛門と申す者、甘糟備後守被官である。今度宮崎表に於いて夏目舎人助が敵を突き落とし
組子の澤田作左衛門に首を取らせる所で、湯浅はこれを奪い取った、この事は大臆病者の働きであり、
筆にも尽くしがたい。その科により、御掟通りに申し付けた。湯浅の子々孫々は言うに及ばず、彼の
組にまで悪名が遁れられない。仍って件の如し。

 天正十八年三月十八日     奉行 甘糟備後守 』

このような札を添えて、七日の間路に晒した。これを見た加賀衆も一層、上杉家の弓矢の法を知った。

管窺武鑑



【雑談】景勝が笑わない無口みたいなのは

2021年08月01日 17:18

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 22:22:40.52 ID:X1sPEbul
景勝が笑わない無口みたいなのはいつから出来た造形なんでしょうか

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 23:08:30.85 ID:e48q9Pkk
最近出た今福匡「東国の雄 上杉景勝」だと

天正14年に景勝が上洛したときに
前田利家が「石田三成の話だと景勝はおもくちだそうだ」
と堀秀政に知らせているのが無口に該当するようだ
(ただ初上洛に際してということも考慮する必要がある、とも書いてる)
なお書状ではけっこう饒舌

ただ笑わなかったことに関しては
景勝に男子が生まれたとき「五十二になりて(子ができるとはなあ)」と機嫌よく笑ったことが「三公外史」にあるらしい

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 23:35:46.53 ID:MNnlKLoy
本能寺前に佐竹に送った書状とかかなり雄弁で熱こもっているしな

御簾中を御上らせられた

2021年07月29日 17:11

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/29(木) 13:26:06.87 ID:UwDYuRbt
天正十七年、上杉景勝公の御簾中(武田信玄公の息女、勝頼公の妹)に、平坂対馬守を尾輿添に
仰せ付けられ、上方へ御上らせなされた。これは景勝公が宿老たちとの密談によって斯くの如く
なったのである。景勝公はこのように仰せになった

「来年太閤(秀吉、この時期は未だ関白)は小田原への発向について、我らと前田筑前守(利家)と
合流して、関東筋へ相働くべしと定められた。
秀吉について、彼は古今類なき果報明発の人である。匹夫より登場して、天下を一統した。

であるが私に対しての和睦は工夫才智を以て、私への疎意が無いようにしたのは、私が名将である
謙信公の跡を継ぎ、北条三郎(上杉景虎)を討亡して越後を治め、信州に発向しては小勢を以て
北条氏直を追い払い、川中島四郡、その他佐久、小縣にも手をかけ切り治め、或いは会津領の
所々を切りしぎ、佐渡一国恙無く平均し、去冬は羽州庄内三郡を治めた。
殊更天正十年、信長家の者共に対して上杉家の弓矢の手柄、その後、越中宮崎にての様子は、木村(吉清)が
見て帰り、それらの事によって私のことを、秀吉も手浅く見られないのだ。

であれば、私の心が振れないようにと存じられ、人質を乞おうとされないのは流石名将である。
しかし内心には、私の事を気遣いに思っているのだろう。

殊に関東への陣触れについては、猶以て心許なく、人質を乞いたいと思っては居るのだろうが、そのようでは
誠の道をすり抜けてしまうと、私に蔑まれては却って悪しくなるとして、その事を申し越されず、
正道を嗜む所を知らせ、いよいよ私には心安く思わせよう、という底意であると察する。

しかし一度和睦を結んだ以上は、私からは未来尽くすまで、心を変ずるべきではない。
武士は大小上下、共に心を変じない事を本意とするものだ。そういった所を考え知りながら、
秀吉に疑われるのは甲斐のないことだ。」

そうして家老たちと御密談を以て、御簾中を御上らせられた。
太閤はこの人質の請取を堅く御辞退されたが、景勝公のこのような思し召しにより、受け入れられたのである。

管窺武鑑

実際にはこの天正十七年に秀吉が「諸国の大名家は悉く聚楽へ女中衆を同道し今より在京すべきこと」と、
妻女を人質に出すよう命じたようで、景勝もその命令に従ったに過ぎないのでしょうが、家中向けには
こんなふうに「自主的にやった」と説明したのかもしれません。



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/29(木) 23:01:59.31 ID:dIhQHoBU
>>871
己の行為を粉飾歪曲して喧伝するのは謙信から続く「上杉」の常套手段。
「軍神」とか「義将」とかの幻想もそうやって築き上げた。
本物の山内上杉時代には無かったことだから、これは越後長尾の田舎者体質の顕れだろう。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/30(金) 04:33:56.14 ID:u03GKxRD
武田さんお疲れ様です
と思ったけど武田は上杉とは呼ばずに長尾呼びしてたんだったか
じゃあ北条辺りのレスかな

874 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/30(金) 13:28:45.19 ID:MGpttgjN
北条氏康は山内殿と謙信宛書状に書いてたのよ

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 00:16:38.32 ID:ONAz3fbO
>>874
それはかなり後年の越相同盟の頃で、
それまでは御互いに「長尾」「伊勢」とオトナゲナイ罵り合いを繰り返していた。

北條氏康の禅坊主相手に逆ギレとか、
上杉謙信の「佐藤ばかもの」とか、
オトナゲナイ沸点の低さがなかなか良い♪

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 00:20:50.95 ID:hE2IjCkN
>>876
大人げなくていいなw

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 05:41:53.95 ID:LiriPFef
戦国時代は権威も今よりもっと影響力あったから
呼び方一つとっても相手の権威の肯定になるような事を言うのは
実利的な面でも憚られたんだろうな
現代の視点だとこいつら……ってなるけど

【ニュース】歴史物語る景勝の至宝 米沢・上杉神社で特別展示始まる

2021年07月19日 17:57

306 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/18(日) 20:29:01.04 ID:zrkGGOIH
歴史物語る景勝の至宝 米沢・上杉神社で特別展示始まる
山形新聞2021/7/18 12:58
https://www.yamagata-np.jp/news/202107/18/kj_2021071800474.php


米沢市の上杉神社の宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」で17日、米沢藩初代藩主の上杉景勝ゆかりの
重要文化財の特別展示が始まった。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に中国の明国から贈られた文書と冠服が
そろって展示され、当時の歴史を鮮やかな衣装とともに感じることができる。

特別展示されるのは共に2018年に重要文化財に分割指定された「明国◎付(さっぷ)」と「明冠服類」。
秀吉の2回の朝鮮出兵のうち、1回目となる文禄の役(1592~93年)の後、96年に和平交渉に来日した
明国使節から贈られた。明国は秀吉を「日本国王」に封じ、景勝ら重臣にも地位を与えた。◎付は
辞令書に当たり、冠服類は上着、下着、帽子、帯、靴の5点で構成する。
◎付と冠服類は徳川家康や毛利輝元、前田利家など秀吉の重臣に贈られた。50人ほどの元に渡ったとみられるが、
両方が伝わっているのは景勝のものが唯一という。冠服類は、明国使節を迎えた大坂城での宴席で景勝が着用した。
うち上着に当たる「大紅刻糸胸背斗牛円領(たいこうこくしきょうはいとぎゅうえんりょう)」には、
胸と背に獣の刺しゅうが入っている。図柄の「斗牛」は皇帝の「龍」に次ぐ格式とされている。

同神社では、今回の特別展示を機に入館料を一般700円に値上げした。特別展示は10月12日まで。景勝に
ゆかりの深い具足や太刀なども並んでいる。今季の開館は11月25日まで。

307 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/18(日) 20:32:28.03 ID:zrkGGOIH
上杉家は国宝「上杉家文書」なども含めて、受け取ったそのままの状態で保管し続けていたのが偉いところ
戦後困窮して手放した刀剣類なんかもね

308 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/18(日) 20:42:32.78 ID:zrkGGOIH
なお同館が11月末で春まで休館するのは、冬は積雪で大変だからという昔からの慣わしなのです


上杉家伝来品は米沢市でも展示保管場所が別れており、観光客も知らないで来るので一応

上杉神社稽照殿・・藩主の武具甲冑と装束

米沢市上杉博物館・・洛中洛外図と文書類に一部刀剣類

私立宮坂考古館・・一部甲冑と前田慶次遺品



景勝公も御上洛然るべし

2021年07月18日 17:48

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/18(日) 13:30:08.25 ID:mTDifYH3
秀吉公は去年(天正十三年)、越中より落水までお越しになり、上杉景勝公と会見された。
その後も秀吉公より浅からず御心入あり、御和平の状態であるから、景勝公も御上洛然るべしと、
宿老衆が申し上げると、「尤もである」と思し召され、御上洛あるべき旨を、先立って仰せ入れられると、
秀吉公は悦ばれた。

天正十四年四月下旬、秀吉公より御礼のため、また木村弥一右衛門(吉清)を差し越された。この時も品々
御音物があった。

同五月十一日、景勝公は春日山を出発された、御供の人数、僅か五千足らずを召し連れられた。
これには御底意があった。木村弥一右衛門も御供した。秀吉公よりの、道中の御馳走は

一、越中は木村が請け取って、越後衆上下を賄い仕った。観世太夫、今春太夫を連れ、
  御宿ごとに、隔日に能を仕った。(尾山に於いては城主の前田又左衛門(利家)饗応)
二、加賀まで、石田治部少輔(三成)が御使に来た。
三、越前までは、増田右衛門尉(長盛)が御使に来た。
  付・北ノ庄にては堀久太郎(秀政)饗応、府中は木村常陸介(重茲)、敦賀は大谷刑部太夫(吉継)饗応
四、近江でも大谷は諸事御馳走した。その中でも大溝では、その城主が饗応した。

五月二十七日、洛陽(京都)本圀寺にお着きになり、その夜、秀吉公が忍んでお出でになった。
御礼の御盃を出すと、秀吉公は頻りに御辞退あったが、景勝公の御盃を戴き、直江(兼続)に御盃を下され、
その盃を無理に取り上げて召し上がられた。その他の衆をも召し出され、御盃を下された。
明日、聚楽に景勝公が御出になることを御約束された。そして今夜、景勝の旅館に秀吉公が忍んで
来られた事について口外しないようにと仰せ合わされ、御帰りの時、御次の庇門に、梅津宗賢が伺候
していたのを御覧になると

「これは川中島合戦の時、武田典厩(信繁)を討ったと聞く梅津宗賢であろう」

と言って銚子を乞い、御盃を下された。
諸人、これを不思議に思った。かの梅津は譜代の士であり、他国へ行ったこともなく、秀吉公が
見覚えているはずがないと、様々に沙汰されたのだが、これについて藤田能登守(信吉)が、
南詰宮圍に申し聞かせた事には

「秀吉公は、越後衆入洛の様子を御見物されるため、粟田口の町に御出になったと聞く。
上方には関東、北国の者も多くある。この方面を見知った者を御側に於いて、尋ね問うて
見置かれたのであろう。私の推量ではあるが、恐らく間違っていないはずだ。
奇妙不思議などというものは無い。理の本を吟味し、我心に落として、他のことを計るべきである。

秀吉公のこの事は、名誉であるとは言えない。そういった御志があるのを感じ、御大将の器に
応じていると誉める事こそ、正道である。」

と申された。

景勝公の在京中、秀吉公より御賄として木村弥一右衛門を付け置かれ、御馳走された。そして
秀吉公の御指図にて、景勝公は宰相に任じられ、直江は四品に叙し、藤田、安田を初め七人が
五位に叙し、七月に御帰国された。

管窺武鑑

上杉景勝の初上洛について。景勝のときにも秀吉はその宿舎に忍んで来るようなことやってたのか。



真田の詫び言を御許容され

2021年07月15日 17:58

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/15(木) 14:23:05.84 ID:tKhjrNPc
天正十年、本能寺の変後、信州の真田(昌幸)、小笠原、蘆田らは上杉に降ったが、すぐに北条に随心し、
真田はまた北条を背いて、家康公に属した。これによってその年の極月より翌年まで、上州沼田を始め、
八ヶ所の城を乗っ取り、剰え北条家との数度の攻め合いに真田は勝利した。大いなる誉れである。

その翌年、天正十二年、家康公と秀吉公は御弓箭を取り給う時(小牧長久手の戦い)、北条家は
家康公より加勢を乞われたが、北条氏政・氏直は表裏の大将故遅達した。
この年の御取合はその度毎に家康公が御勝利し、秀吉公は退散された。
これによって、その年、天正十三年春、北条より家康公に仰せ入れられた

「羽柴と重ねて御取合となった場合は、加勢致すであろう。しかし先年(天正壬午の乱の)和睦の時、
上州は北条家に賜るはずの所、真田は沼田を取って保持している。それをこちらに渡すように、
仰せ付けられ下さるべし。」
との儀であった。

これによって家康公より、「沼田を北条に渡すように」と仰せ遣わされたが、替えの地を真田に
下されなかった事で、沼田を渡さず、ここに於いて真田昌幸上杉景勝公に、須田相模守、島津淡路守の
両人を頼んで訴え申し上げた。

『先年志を翻し、北条に頼った事は、愚意の仕る所であり、これについて述べるにも及びません。
しかし、もし御赦免頂けるに於いては、当年十八歳になる愚息・源次郎(信繁)に、百騎を差し副えて
永代御被官仕り、春日山に差し上げ申します。

これこれの仔細を以て、家康に対し野心を挿んだために、家康より上田へ手遣いがあるでしょう。
この時貴国より、御加勢を請け、御助成を得たいと思っています。然るに於いては、今後は
御屋形(景勝)に対し、悪意を存じまじき」

という旨を、牛王誓詞を添えて、新発田表の御陣所へ申し越した。

景勝公はこれを聞かれると、仰せに成った
「真田の事、先年上杉に背いて北条に従い、北条を非に見て、家康に降り、今度は家康に不足を言い、
家康より打ち手到来という状況になって、現在近辺に頼る者が無くなってしまったことで、又この方に
申し越してくるというのは、万策尽きての儀であると考える。

しかし、武士は大小共に頼み頼まれて、家が絶えないように分別するものである。
今回、私が同心しなかった場合、十方より敵を受け、殊に名将である家康に対し盾を突いたのだから、
真田の滅亡は疑いない。それを見捨てるというのは、一つには不憫であり、また一つには景勝の
弓矢の規範とも異なる。その上加勢を遣わさなかった場合、小身の真田を見捨て、大身老巧の家康に
気兼ねをしたのだと評価されるだろう。」

と仰せになり、真田の詫び言を御許容され、御加勢なさると堅諾された。これによって新発田表より
御帰陣された。

管窺武鑑

上杉景勝は何事につけても面目とかプライドを大事にする話が多いですね。



秀吉からの和平の呼びかけについて

2021年07月13日 18:35

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/13(火) 17:47:39.63 ID:YdDzYbfJ
羽柴秀吉公は越後柏崎・妙楽寺の御坊をお頼みになり。木村弥一右衛門(吉清)を差し副え、上杉景勝公へ
和平についての御取扱を仰せ越された。

この妙楽寺は日蓮宗の智識であるため、景勝公も御懇になされ、御出陣の時に彼も具足を着て、
日蓮上人自筆の曼荼羅を差物にして供を仕り、武道も標準以上の巧者であり、合戦で斥候として
敵を見積もられた事も、二度三度とあった。

しかし、この秀吉からの和平の呼びかけについて、景勝公はこのように思し召された
「謙信公が切り従えられた国々の内、未だ五分の一も自分の手に属していない中、
現在天下に猛威を振るう秀吉と和平を結べば、それ以後、その国々を切り取ったとしても、
世間では景勝の鋭鋒のためとは言わず、秀吉の太刀影を以て。そのようなことが出来たのだと
評価されるであろう、」

そして秀吉方より使者が再三仰せ越されたのだが、その儀に応じなかったのであるが、
この年の九月上旬、また木村を以て仰せ越された。その内容は

 一、内々に申し入れていた通り、和平を是非御同意して頂きたい。もし疑わしく思し召されて
   いるのであれば、秀吉自信がそちらに罷り越してでもその疑いを解こう。無二に
   申し合わせたい心中である

として、熊野牛王に誓詞を認めて差し越された。

 二、和平が出来なくなれば、北国筋の働きはどうするのか。越中の佐々内蔵助(成政)は、
   信長公の厚恩を受けながら弔い合戦にも罷り上がらなかった。私が君敵の明智を誅伐
   したのだから、私に対しても一応の礼儀があるべきなのに、そのような事もなく、
   信長滅亡を却って悦び、柴田、滝川と言い合わせ、各々の居館に引き籠もり、私を
   非難すること、法外であり人倫の道ではない。であるので、去年正月、滝川を悉く
   仕詰め、長島一城に追い込んだ時、柴田が江州に討って出た故に、賤ヶ岳に馬を向け、
   一戦を遂げ勝利を得、直ぐに越前北ノ庄に追い詰め成敗したこと、これも去年四月である。
   偏に上を軽んじ、我が身の邪欲に引かれた逆心の不義は、天刑遁れ難く、あのようになったのだ。
   佐々も同罪であるので、成敗するのだが、その時に佐々が隣国を頼るとして、上杉家に対し
   御加勢を乞うてきても、御同心の無いように、一向に頼み入る。

この二ヶ条を申し来た事について。景勝公はこのように仰せに成った
「越中への加勢の事は、秀吉公より言われるまでもないことだ。去々年の夏、魚津城において
佐々成政の攻撃のため、私の家臣たちが自害したことについては、秀吉も聞き及んでいるだろう。
その弔い合戦のため、我々こそ早々に越中へ攻め寄せるべき所に、信州への出馬、国内での
新発田との戦い、そして今年、佐渡への働きも中途であり、遅々に及んだことは、心外の至である。

越中は謙信が切り取った国であるので、本来なら景勝の手柄によって切り従えたいものなのだが、
佐々の不義の様子を委しく仰せ越された以上、秀吉の働きを抑えるのもいかがなものか。

ではあるが、景勝が働きを止めてしまうと、「遂に越中へ手勢を遣わさず、秀吉に渡した」と
言われることも無念である。そこで今度、越中へ出馬し、越後家の弓矢を木村弥一右衛門に見物させ、
上方への土産の物語とするように。」

と仰せに成られた。

管窺武鑑

和平には消極的だが佐々成政に与しない姿勢を見せた、という事かと



父の仇の子であるのに

2021年06月20日 19:08

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/20(日) 13:30:45.22 ID:gkgsN5cq
天正十二年八月、上杉景勝自ら新発田重家を攻めた、八幡表の戦いでのこと。

この時、前の琵琶島城主・宇佐美駿河守定行(定満)の子、民部少輔勝行は、
彼の父が生害し、本領没収され、浪人となり、また景勝からも勘当され、小千谷五泉あたりに
逼塞していたのであるが、いかにもして景勝より勘当を赦され、本領に還住せんと志し、
朱傘に金の短冊の指物、宿月毛の馬に乗って新発田陣へ懸かり入り、屈強の敵二騎と懸かり合わせ。
一騎は切って落とし、一騎は引き組んで討ち取り、その兜首二つを提げ、その身も馬も血だらけになって
景勝の旗本に馳せ来ると、平林内蔵助(十八歳にて小姓であった)を頼み

「御勘当御免なされ、この高名の首を御実見に入れるため、御目見えいたしたい!」

と望んだため、この事を景勝に申し上げると、景勝は気色俄に変わり、目は松明のようになって
平林をはたと睨みつけ、しかし何の言葉もなく、これには平林も頭を垂れ、重ねて申し上げる事も
出来なかった。
これに宇佐美民部も、討ち取った二つの首を捨て置き、泣く泣く立ち上がって退いた。

景勝としては「実父政景を殺した宇佐美駿河の子であるのだから、父の仇の子であるのに、どうして
勘当を赦せるだろうか。」との事であった。

これを取り次いだ平林内蔵助は長命で、当家(上杉)播磨守綱勝の傅役に付けられ、近年まで
存命しており、彼が直に物語ったものである。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



景勝の知慮は、凡人の及ぶところではない

2021年06月18日 19:03

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 16:17:46.48 ID:S4rXSrWM
新発田因幡守治長(重家)、同道如斎、同源太治時、五十公野采女が申し合わせ、天正十年の春より
織田信長に内通し、「信長公が品濃口、越中口より攻め入られた時は、会津の蘆名盛隆と共に
下越後より攻め上がり、景勝を攻め滅ぼすべし」と謀を定めたのだが、その年、信長公生害となり、
想定は崩れ、上杉景勝は軍勢を差し向け新発田を攻めた。度々の合戦が有ったが、勝負はまちまちであった。
これは蘆名盛隆より密かに兵糧、玉薬を運送し、新発田に合力あった故で、彼らは六年の間持ちこたえた。

会津の越後境の津川城に、金上兵庫が居住しており、金上方より、赤谷城の小田切三河守方を
絆ぎの城として、蘆名が新発田に加勢していることを景勝は察し、天正十五年の秋に、新発田表を
踏み越えて赤谷城を攻め落とし、小田切三河守をはじめ八百余人を討ち果たし、会津からの合力の
通路を遮断し、直ぐに新発田城へ景勝が向かうと発表した。

新発田も、これで最期であると覚悟したが、家人の羽多野忠右衛門という大力の剛の者が申し上げた
「もはや合戦では叶いません。しかし赤谷表より新発田までの道筋に、三淵という大切所があります。
そこで待ち伏せをして、景勝が一騎打ちに通られるのを引き掴んで、下の崖より大河の淵に落ちて
共に死んで、主の本意を達します!」
このことは議定され、彼は三淵に出て、景勝が来るのを待ち受けた。

三淵という切所は、山腹の切通で、馬も一騎でしか通れない路であった。上は青山がそびえて苔むし、
路より下は数千丈の石岩が剣のごとく、屏風を立てたる如く、さらにその下は大河がみなぎり流れる
淵であった。その道端に岩穴が有り、羽多野忠右衛門はそこに隠れて、景勝が通りかかったところを
躍り出て引き掴み景勝とともに崖の下の淵に飛び墜ち、ともに死せんと企んだ。

この時、景勝は赤谷を立ち、新発田に推し進もうとしていた。家臣たちは「直路であり、殊に近道と
なるのだから、三淵の方に進まれるだろう。」と皆申していた所、景勝は思案して

「大将は危うき所を行かないものだ。近道だからと言って切所を行けば、どうしても越度が有ること多い。
迂を以て直とし、患を以て利とする事、兵法用捨の大事である。廻り道であっても、足場の良い方を
進もう。」

として、迂回して本道を進んだことで、三淵を通ることはなかった。故に羽多野の計画も相違して、
本意を失った。景勝の知慮は、凡人の及ぶところではない。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

たまたま「やっぱ足場の良いところを通ろう」と言ったら暗殺を免れた、という事か。



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 18:16:30.25 ID:Pm9hueO+
近道をして落馬した誰かさんとはえらい違いやね

槍坊主

2021年06月16日 19:01

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/16(水) 17:29:38.56 ID:MWIGdXND
当家(上杉家)に、西方院という真言宗の法師武者があった。彼は数度の槍をした故に、異名を
「槍坊主」といった。上杉景勝より朱の武具を免し給わっていた。

彼は一代四十余度の武辺をなし、遂に手傷を蒙らなかった。景勝より六千石の知行を給わったが
これを受けず、

「疋如(するすみ:財産も係累もない身の上であること)の身にて知行を取るなど、一つも必要ない」

と言って、越後から会津に供した。そして遂に米沢にて病死した。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

上杉家系の逸話は所領や金に拘らない人が讃えられてるの多いな。



屋形腹筋、いやいや

2021年06月15日 17:55

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/15(火) 16:37:37.15 ID:cRE8Iylx
上杉景勝は生まれつき言葉少なく、一代の間に笑顔を見た者も無かった。常に刀・脇差を
手にかけて居られた。

ある時、景勝に常々懐いて、飼っている猿が、景勝が脱いで置いていた頭巾を取り、木の上に登ると
座って、手を揃えて、座敷の景勝に向かってうなずいたのを見ると、にっこりを笑われた。
それが近習の者達も初めて見た笑顔であったという。

彼が城下八幡小路を乗物にて通られている所に、陪臣の徒士の若党が、伊達染めの帷子にて参り懸かり、
畏まっているのを景勝は見られ、

「好き若者である。立って歩むべし。男振りを見よう。」

と宣われたため、かの者立ち上がり、二反(約四メートル)ほど歩んで、また畏まったが、
景勝は俄に機嫌が変わり、大いに怒る有様にて「あ奴を牽いてまいれ!」と、徒侍に命じ、
両手を掴ませて前に引き寄せ

「己め、景勝を嘲弄せん事奇怪である!『屋形腹筋、いやいや(大笑いの御屋形様である、いやはや)』と
いう大紋を附けていたな!」

と、抜き打ちに誅殺された。
この若党は帷子の肩に「一手鏑矢」を付け、腹に「大筋」を付け、裾に射捨てた矢を紋に附けていたのを、
見咎められたのだという。
(つまり「鏑(矢)」が(肩)に、大(筋)が(腹)に、(射)捨てた(矢)、という事)

景勝は普段より、軍陣の時は勿論、或いは上洛、或いは江戸参府の時も、籠廻りは申すに及ばず、
供の者達まで、咳払いもせず、数百人の上下が無言で、足音ばかりにて通過した。行儀の正しきこと、
世に類なかった。

富士川の船渡にて、供の者達は舟に過分に乗ったため、川の途中で舟が沈もうとした時、
景勝が怒って杖を振り上げられると、それと同時に川の中に皆々飛び込み、泳いで渡ったため
召し船は恙無かった。士卒共が景勝を恐れること、このようであった。
長旅の途中であっても、馬にかける声の他は無言であった。

大坂の陣の信貴野口にて、先手の士寄り見物として、景勝の近習非番の輩が忍んで行った跡から、
景勝が一騎にて巡見に来られたのを見て、彼らは咎められるかと恐れ、鉄砲の玉が降り注いでいる
竹束の外に出て隠れた。敵よりも景勝を恐れたのである。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

多分これはいい話として記録されているのだろうけど、極端な。



上杉景勝は小男であったが

2021年06月04日 18:34

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/04(金) 16:38:42.41 ID:KbVm5Tt3
上杉景勝は小男であったが、ともかくその面魂が、何百人の中にあっても無類なる大将であった。
彼は一代の間言葉少なく、笑った事がなかった。

その跡を継いだ弾正定勝は慈悲なる人であり、士卒を憐れむ故に、家中上下が懐き従うこと浅からなかった。
彼は謙信・景勝の二代の間に、上杉家を立ち退き、又は死に失せ、追放に遭った譜代の侍共の子孫を
大方呼び返した。それ故に諸人悦んだ。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

景勝が無口で笑わなかったという話の元ネタは、この辺りなんですかね。



上杉家ノ喫煙ニ関スル令

2019年06月07日 16:27

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 15:24:46.72 ID:RXHWoMb5
  上杉家ノ喫煙ニ関スル令

『上杉年譜』

  掟

 (上略)

一、煙草を吸うことは病人と老人は構わない。下々の寄り集まる所でみだりに吸うことは無用
  とせよ。たとえ老人や病人であっても、海道、あるいは主人の供を仕っての門庭において
  吸うことは一切止めること。
 (タバコ、病者老人ハ不苦、下々寄合猥呑候儀、用捨アルベシ、縦老人病者タリトモ、海道、
  或主人ノ供仕、門庭ニ於テ呑事、一切停止之事)
 (中略)


    慶長17年(1612)8月13日

(原注:全文は8月13日に景勝が法令を家臣に分配した条に収められている)


 『直江重光(兼続)書翰留』

  このところ乏しい時分に一段の煙草90枚を御意に懸けられましたことで、とりわけての
  祝着をされました。この類は気にかかることなので、もしもその辺り重ねての到来もあれ
  ば御意に懸けられますように。それではまたの機会に。恐々謹言。
 (爰元払底之時分、一段之たはこ九十枚、被懸御意、別而令祝著候、此類気合ニ相当候条、
  自然其辺重而も到来候者、可被懸御意候、猶期後音候、恐々謹言)

    7月26日

       須右様 まいる

 (原注:本文は略す)

  追って煙草その他御法度の様子を、懇ろに尋ねて申し付けるように。
 (追而、たはこ其外御法度之様子、懇ニ相尋可申付事)
  
    9月14日

       千坂伊豆守殿
  
――『大日本史料』

※7日前→一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條


【雑談】それにしても上杉景勝って

2018年09月12日 22:04

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 10:52:54.88 ID:8Kk8cxb6
それにしても、上杉景勝って先代を意識しすぎてつまらない武将になったよな。
無口で笑わない、アレどっかの奥方も似た人いたな

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 11:21:01.69 ID:2tH6ChET
むしろ笑わない、喋らないが景勝の個性では

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 15:11:08.10 ID:76TCJBE1
武田に煽てられてちーと浮かれただけで直江が軒猿放ってきて謀殺だもんな
そらあんな仮面みたいな顔になるわ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 20:39:37.54 ID:OVJRMD8l
景勝ってなにが凄いのか良くわからんよな。
上杉の家督取ったのはまあ、凄いけど、それ以降の活躍がさっぱり。関ヶ原の逸話も直江関係ばかりだし。
毛利輝元は凡庸とされてたのが、最近見直されたり、と動きはあるが、景勝については特に毀誉褒貶もなく、
実体がよくわからん。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 20:49:10.45 ID:wTVa8PRY
謙信以来の武張った上杉家のイメージを貫き通した事じゃないかな
まず極めて無口ってだけじゃなく家臣の前で笑ったの1回って時点で
尋常じゃない精神力の持ち主
関ヶ原で負けて家康に降伏したとはいえ夏の陣で家康に評価されてたり
本人は先代コンプレックスで必死に虚勢張っただけなのかも知れないが
結果的には家のイメージを保って一目置かれた訳だし

上杉景勝の厳格

2017年10月14日 17:08

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/14(土) 17:04:08.52 ID:s8Qod1gV
上杉景勝という人は、豪邁肝大の大将にて、その軍陣に臨むや、先陣において既に交戦し、
矢弾雨のごとく降り喚声天地を振動するばかりであっても、身は幕中に有りて普段と変わらず睡眠
を取り、雷の如きいびきを上げるのを常としたという。

彼が豊臣秀吉に臣従し上洛した時、数百人の一行は完全に黙し咳の声すら聞こえず、只人馬の足音を
聞くのみであった。
その折、富士川を渡る際、船が小さく人多く、中流に至ってほとんど沈没せんとした。
この時景勝怒り、舷頭に立って鞭を挙げて一揮すれば、衆皆躍り上がるように水に飛び込み泳ぎ、
よって無難に渡ることを得たという。

景勝の厳格なることかくの如きなれば、彼の生涯において、只一度の外その喜悦の色を見たことが
無いという。
ある時、上杉家に一匹の猿があり、たまたま景勝が脱いでおいていた巾帽をかぶって逃げ、庭の木に
上り景勝に向かって3度頷いた。
彼はこれを見てにっこりと微笑んだ。
これ実に、左右の近臣達ですら、始めとも終わりとも、景勝の笑顔を見た一生の内ただ一度の事であったという。

(今古雅談)