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伊藤盛正の関ヶ原

2010年05月31日 00:02

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 20:18:12 ID:tiqPGyAL
伊藤盛正の関ヶ原


豊臣秀吉の家臣、伊藤盛景(祐盛)は小田原の役などで戦功をあげ、慶長元年ごろ、
美濃大垣3万4千石を与えられた。盛景は慶長4年(1599年)に没し、子の盛正(盛宗)
が跡を継いだ。天正13年(1585年)頃の生まれでまだ十代半ばの若年であったという。

さあこれから頑張って領内治めるゾー、っていうときに関ヶ原の戦い勃発。

美濃は西軍だらけという周囲の情勢を見て盛正は西軍につくが、三成ら西軍首脳部は
大垣城を西軍拠点にしようと考え、盛正に城の明け渡しを求めてきた。

盛正はこれを一旦拒否。だが三成の要請はその後も繰り返ししつこく行われ、圧力に
屈した盛正は大垣城を明け渡す。8月10日、三成ら西軍が入城。

その後は近くの今村城にいたが、8月16日、東軍の市橋長勝・徳永寿昌勢が味方の福束城
に来襲するという情報により、要請を受けて援軍に向かうが、敗走し大垣城に逃げ帰る。

己の城は立ち退かされる、戦には負けるで踏んだり蹴ったりの状態ですな。


その後、これも要請があったか関ヶ原方面に進出、松尾山に陣城を築いて陣するが、
9月14日になって、突然、友軍である小早川秀秋勢によって松尾山を追い出され、やむなく
笹尾山(一説には松尾山麓)に移動。

もう誰も信じられない。


翌日の本戦に参加するも敗走。最近まで関ヶ原で戦死したとか、行方不明になったとか
言われてましたが、ようやく加賀の前田家に仕えて元和9年(1623年)没って判明しました。


彼の関ヶ原って結局何だったんだろう・・・




92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/30(日) 20:29:53 ID:Ce9G0vJ4
長曾我部盛親「世の中には容量の悪いヤツもいたもんだw」
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