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鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は

2023年05月17日 19:48

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/16(火) 21:01:32.73 ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

甲陽軍鑑



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武田の家があらん限りは

2022年12月01日 19:07

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/30(水) 19:50:13.49 ID:9cUq6Z2A
寅(1566)の六月二十四日に、武田信虎公より同年五月五日の日付にて、信玄公へ書状が使わされた。
その内容は、

『去る甲子(1564)三月、公方光源院殿(足利義輝)へ信虎が御礼申し上げ罷り帰る所、
公方様は広縁まで私をお見送りになった。そのためこの信虎は、頭を地に付けて申し上げた。

「武田の家があらん限りは、広縁まで公方が御送りある。我が家の系図是成。」

しかしながら三好が道なき故に、光源院殿の御妹の聟となる御恩を抛ち、去年乙丑(1565)、
義輝様を討ち奉る。(永禄の変)
そのような事があっても、侍という存在が有る限りは、公方が絶え給う事は無い。
その心得有るべし。」

このように折々、信玄公へ信虎公より仰せ越された。かの強くまします信虎公も、御父子の間なれば、
信玄公御吉事の義を折々仰せに成ると、武田の家老たちも涙を流した。

甲陽軍鑑

武田信虎から見た将軍義輝や永禄の変について



487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/01(木) 03:25:54.83 ID:8YHKCnPj
>>486



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/01(木) 08:25:51.64 ID:nEsIqGw1
>>486
家康「おう俺も公方だぞ伏して拝めや信玄坊主」

信虎みなちがひなりと思ふ

2022年11月09日 18:55

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/08(火) 21:30:21.63 ID:KK3AKmtk
永禄六年正月七日、遠州掛川の圓福寺という律宗の寺より出家一人が甲府へと来た。
長坂長閑に付いて御前に参り、信玄公に申し上げた内容は、御父信虎公が、今川氏実公の御気に
違われ、この春中に都に上がられる予定であるという。その事を申し上げた上で、
「小身の侍で信玄公が御心やすく思し召し、いかにもしっかりした分別ある侍」を一人、この僧と共に
寄越してほしいとの事であった。そこで信玄公は日向源藤斎に正月十三日に命じその日の内に
甲府を立たせ、遠州掛川圓福寺へと派遣した。

源藤斎は十七日に掛川圓福寺に到着し、その夜に信虎公の御目にかかった。
信虎公は仰せになった
「日向源藤斎と名乗っているようだが、お前は何者なのか。」

「日向大和の親類であります。信虎様が甲州から御牢人となられた時、今から二十六年前は
私は奉公もいたしておらず、日向大和を頼り、年齢も二十歳にも届いていませんでした。
また元来、信濃が本国であります。」

信虎公は聞き召され
「たとえ何者であっても、信玄が心安く思っているのであれば苦しからず。」と仰せになった

(中略)

その夜半、人々もみな静まった時分に信虎公は源藤斎を召して仰せになった。

「私は信玄に対して恨みがあると言っても、それは既に過ぎて久しい事だ。また信玄の方の道理も
万々多い。

あの頃は、能き上にも能くあれかしと思って折檻したのだが、今考えるとこの信虎のやったことは
全て間違いであったと思う。(其儀はよきうへにも能くあれかしと存て、折檻仕れども、信虎みな
ちがひなりと思ふ)
何故なら、今信玄の誉れは名高く聞こえ、信濃は皆手に入れて、飛騨国、上野国までも一両年の間に
治めるという沙汰を聞けば、信虎の祝着これに過ぎず。

そう、信玄に言ってほしい。」

そのように仰せに成ると、源藤斎は「畏まりて候」と申し上げた。

甲陽軍鑑

武田信虎が信玄の派遣した侍に対し、自分の間違いを率直に認めたというお話。




武田信虎追放について

2022年10月14日 19:10

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/12(水) 21:25:04.54 ID:pUCJxExe
同年(天文七年)の三月九日に、武田信虎は駿河を訪問された。
嫡子・晴信について、駿河より一報があり次第来るようにと、晴信公は甘利備前の所に預けられ、
次郎殿(信繁)は御館の御留に置かれた。

信虎公が駿河に行かれるということで、晴信の衆は内々に支度をした。そうした中、板垣信方、飯富兵部(虎昌)
両人を、晴信公は御頼りになった。

信虎公が甲府を出立されて九日目、三月十七日に逆心が行われた。
この事については既に駿河の今川義元と内通されていたために、少しも手間取ることはなかった。
信虎公の御供の侍衆も皆、その妻子を人質に取られていたので。彼らは信虎公を捨てて皆甲州に帰った。

甲陽軍鑑

武田信虎追放について。



婿入りも まだせぬさきの 舅入り

2022年08月19日 18:30

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/18(木) 21:22:34.43 ID:VIhSpD76
甲斐国、武田信虎の娘を菊亭殿(菊亭(今出川)晴季)へ御祝言の御約束(婚約の約束)があった。
しかし、未だ双方の往来も行われていない以前に、「婿殿を見に」と、案内も無しに
菊亭殿の所へ信虎殿が御出になったという沙汰があり、このような一首が詠まれた

『婿入りも まだせぬさきの 舅入り きくていよりもたけたふるまひ』

寒川入道筆記



就中信虎御隠居分事

2019年07月02日 17:35

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 00:24:13.86 ID:bhPTTZ/Z
内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易巫可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎御隠居分事、
去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、
員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、猶惣印軒口上申候、恐々謹言、


(内々に使者を出して申し述べるべき所ですが、安星惣印軒がこちらに参ったことを承りましたので、彼に
伝えました。(武田)信虎殿の世話をする女中についての事ですが、10月に入った頃に、占いなども鑑みて
遣わされるとの事、尤もだと思います。こちらに於いてもそのように申し付けておきます。
あまねく天道によって相定める事は、本望でしょう。

なかんずく信虎殿の駿府での生活費についての事ですが、去る6月にこちらから(太原)雪斎と岡部美濃守(久綱)
を遣わしたおりに合意した事であり、だんだん寒気も増してきて、何事にも御不便され、御心痛されています。
一日も早く仰せ付けられ、その生活費を承った者を信虎殿の元へ遣わされるべき旨を心得られるようにと
申し届けました。なおこの事については惣印軒より口上にて申し上げるでしょう。恐々謹言。)

     九月廿三日    義元(花押)
    甲府江参

(天文十年九月二十三日付、武田信玄宛て今川義元書状)

今川義元より武田信玄へ、「信虎さん困ってるから仕送り早く届けろ」という書状である。



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 19:52:44.70 ID:ixlhX9sa
>>221
義元さんも困るわなそれは
ただでさえ厄介な人押し付けられてるのに

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 20:17:55.08 ID:AsuUgu9e
>>221
生活費自分で稼がせれば…いや下手に定期収入得ると怖いなこのおっさんはw

武田の家のあらん限りは

2019年05月23日 17:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/22(水) 20:54:19.06 ID:/jjf8gGf
寅の6月24日(永禄9年(丙寅)。1565年)に、信虎公(武田信虎)より同年5月5日の日付で
信玄公へ御書を遣しなされた。その趣きは、

「去る甲子3月に公方光源院殿(足利義輝)へ信虎は御礼申し上げて帰るところで、広縁まで
光源院殿が御送りになられたので、信虎は頭を地に付けて申し上げた。

『武田の家のあらん限りは公方が広縁まで御送りになられる。我が家の系図これなり』

と申し上げ候。しかれば三好は道無き故、光源院殿の御妹婿になった御恩を投げ打ち、去る年
乙丑に、義輝公を討ち奉った。そうであっても、侍のある内は公方の絶えなさることはない。
その心得あるべく候」

と折々信玄公へ信虎公より仰せ越しなされた。「かの強くいらっしゃる信虎公も、御父子の間
だから信玄公に御吉事のことを折々仰せられるのだ」と武田の家老各々は涙を流したのである。

以上。

――『甲陽軍鑑』



信虎公はこの刀で50人余りを

2019年05月17日 17:38

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 04:23:46.41 ID:w2OiBgOR
(天正2年(1574)。遠江浜松への侵攻後)

勝頼公(武田勝頼)は平山を越え信州伊奈へ御馬を入れた。それから伊奈にて信虎公(武田信虎)は81歳
で勝頼公に御対面なさる。

勝頼公が「甲州へ信虎公を入れ参らせよ」と仰せられたところ、長坂長閑(光堅)が分別致して申されて、

「信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。その
うえ、逍遙軒(武田信廉)・一条殿(一条信龍)・兵庫殿(河窪信実)・典厩(武田信豊)・穴山殿(穴山
梅雪)、その他御親類衆は多いため、(御親類衆が)御逆心なさるかも分かりません」

との由を申すことにより、信州伊奈での御対面となったのである。

長閑が申したように勝頼公と御対面の座で、信虎公は「勝頼は母方は誰ぞ」と尋ね給う。これを長閑が承り、
「諏訪の頼茂(諏訪頼重)の娘子でいらっしゃいます」と申す。信虎公は少し御機嫌を損ねられて「勝頼は
今年いくつぞ」と御尋ねになった。これを長閑が承り「29歳でございます」と申した。

その後、信虎公は各々侍大将衆を御尋ねになった。昔の親の名字を名乗る者は1人もいなかった。工藤源左
衛門を内藤修理(昌豊)と申し、教来石民部を馬場美濃守(信春)と申し、飯富兵部(虎昌)の弟を山県三
郎兵衛(昌景)と申した。信虎公は高坂弾正のことを御尋ねなされ、「伊沢の春日大隅の息子」と申した。
信虎公は聞こし召して、「百姓を大身にするとは信玄の分別違いである」と仰せられた。

ところで、この機会に武田の御重代(家宝)左文字の御腰物を押板の上に立て置きなさったのは、信虎公が
45歳で甲州を御出になってから37年、81歳の時に御帰参なされて、孫でいらっしゃる勝頼公に御対面
なさるということで武田の重代を御座敷に置きなさったわけで、もっともなことである。

そんなところで信虎公はこの御腰物を抜き給う。信虎公はこの刀で50人余りを御手討ちになさったのだが、
「中でも内藤修理と名乗る奴の兄を袈裟懸けに切ったのだ」と、仰せられた。

その後、信虎公は勝頼公の御顔を御覧なされ、左文字の腰物を御抜き持ちながら「このように!(切った)」
となされた。座中はことごとく凍りつき、目も当てられぬ模様であった。

そんな中で小笠原慶庵は心の剛なる人である故、「このようなついでに聞き及んでいる武田の御重代を拝み
申したい」と申されて、信虎公の御側へ参った。そして勝頼公の間へ入って御腰物を無理に奪い取り、鞘に
納め戴いて長閑に渡した。

信玄公は御相手に小笠原慶庵を頼もしく思し召し、御話相手になされた。大勢の中で慶庵を大事のところへ
と召し連れなされたのは、このような人と慶庵を御目利なされたからである。信玄公を諸人が尊び奉るのは
もっともなことである。

その後、やがて勝頼公は甲府へ御帰りになったが、信虎公は伊奈に差し置きなされたのは長坂長閑の分別が
良き故なり。そして信虎公はやがて御他界なされたのである。

――『甲陽軍鑑』



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 07:41:32.52 ID:EMUiFFNb
>>34
信虎がやばすぎて草、そら追放されますわ

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:29:42.79 ID:tI1C2xsG
(誰だよこんなの呼び戻してきた奴・・・)

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:54:21.30 ID:vPXWVMD0
てか信虎長生きだな

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:18.75 ID:nH85bSJc
(だからやばいって言ったやん・・・)

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:53.50 ID:3JPX1a4D
「内藤修理の兄貴をこの刀で袈裟がけに斬ったんじゃ~」というのは、80過ぎてボケていたからと思いたい…。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 13:58:13.33 ID:viLJ6jis
>>39
ボケてるんならそういう雰囲気にならなきゃそんな事するわけないし、それでも当主の勝頼に向けてやるはずがない

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 23:29:12.88 ID:LonsrQcf
こりゃ牛馬畜類まで愁悩しますわ

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 05:45:56.56 ID:GNN10F73
甲州軍鑑でも、こういうところでは創作しないで当時あった逸話を拾ってきているだろうしなぁ…
そりゃ、一族重臣総出で追放するわな。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 07:56:39.50 ID:4ffkuKZb
>>34
>信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。
しっかり想定されててしかもその通りなのが凄いw

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 15:03:48.62 ID:kgdWSgPA
完全にサイコパス
しかも殺しまくりのヤバい方
正体を隠そうともしないし

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 10:14:54.39 ID:hDnie7Gp
>>34
珍しく長閑を褒めてるね

異形な僧体の正体は

2018年05月03日 17:40

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 15:10:58.53 ID:TwZnZBzO
天文の乱とその後の燻りが集結し混沌としていた伊達家が落ち着きを取り戻した天文21年、伊達家当主伊達晴宗は、弟の亘理元宗に対し上洛を命じた。
将軍足利義輝への拝謁、晴宗の家督相続後の報告、愛宕詣などを終えた元宗は当時二十一歳の若者。
文武両道に優れ後世からは伊達家三代の重鎮と称された元宗だが、流石に大任を終えた達成感から人心地ついていた。

そんな元宗の下へ、急な来訪者が現れる。慌てて面会をしてみれば、相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。
おまけに左右に屈強な供の者を従えており、元宗もこの訪問者をただならぬ人物と見抜いた。

「失礼ながら、どなたでありましょうか」

「こちらこそ急な面会御無礼いたす。某は先の甲斐守護、武田無人斎と申す」

なんと異形な僧体の正体は、約十年前に嫡男晴信によって甲斐を追放された武田信虎であった。
甲斐を去って西国に赴き、後に駿河に住まわっていた信虎であったが、その後も度々京や高野山、奈良の諸山を遊訪し、時には将軍家に対し奉公していたらしい。
驚く元宗に対して信虎は悠然と諸国の時勢を尋ね語らい、いつの間にやら二人はすっかり意気投合してしまった。
しかし元宗もいつまでも京に長居をするわけにもいかない。国へ戻らねばならぬ旨を信虎に伝えると、信虎は名残惜しそうな顔を若者に向けた。

「そなたの様な文武に通じた若者と会えることは人生の何よりの楽しみである。この度の語らいは実に愉快であった」

そう言って、自らの腰から佩刀を抜き元宗に手渡した。

「これは相州の業物、綱広の作である。是非受け取ってほしい」

元宗は感激し、恭しくその刀を拝領した。
そして信虎とその供の者達に丁重に礼を述べると、陸奥への帰路に立ったのであった。

信虎が甲斐を離れた際、嫡男晴信は二十歳であった。
もしかしたら信虎は才気煥発な若き武士に、かつての我が子の姿を重ねたのかも知れない。



845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:06:21.19 ID:m/bWX0G2
我が子の姿を重ねたらそんな接し方しないだろw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:45:10.59 ID:C+6Oo2ju
>>845
確かにw
でも、早くこっちにおいでよって手紙書いてるし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 19:22:44.85 ID:GiUzTZdE
「嫡男晴信は二十歳」
の後に
「、次男信繁は十六歳」
と加えれば何とか

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 20:40:37.87 ID:XqUwDBpF
>>844 これこそ良い話だ
>>845
信虎は今川領にいても晴信とやりとりしてたから憎しみだけではないのではないかな知らんけど

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:17:45.38 ID:RcMzVUiV
なんで信虎はいきなり訪問してきたんだろ
上洛する諸大名の関係者に会いまくってたのかな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:56:54.58 ID:oCGv9hVP
>>844
これ出展は何でしょうか?
祖父物語?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 22:36:26.38 ID:Mb6IjGto
なんで伊達と武田の話が祖父物語に出てくると思うのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 00:21:37.24 ID:obnNlYmh
伊達政宗の祖父の弟の話だから祖父物語とでも思ったんじゃね

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:16:44.09 ID:vUy0oAOP
伊達も親子で争って親を幽閉して子が継いだ
親近感を抱いたのは想像に難くない
従って晴宗の股肱元宗の中に兄思いの息子信繁の姿を見たのだろう

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:23:12.07 ID:pSLxbVzv
>>857
若武者の逞しさを羨ましく感じていたんじゃないかと思った
大河で追放後でも晴信を叱咤していたイメージが強いからかな

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:44:28.98 ID:vUy0oAOP
大河は創作、好き嫌いっていうより方向性の違いでしょ
前の支配者を貶めるのは誰もがやってる事
ウソを見抜けない人はネットでもバカを晒す

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 08:49:18.10 ID:rklRNSKj
信虎さんて、甲斐を追放された後も

>相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。

なんて書かれたり各地を転々として回ってたり、息子より長生きしたり…
乱破でもしてたんだろうか?老いてなお盛んだなぁ…

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 09:16:17.33 ID:mE2l5ksp
甲賀の六角残党と連携して義昭の挙兵に呼応した近江侵攻も目論んでたらしいし、成功してたら信虎・信玄による武田親子夢の信長挟み撃ちが見れたかも知れないあたりに面白さを感じる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 10:39:41.61 ID:CB9h8h4v
武田信虎のwikiには在京中に南部信長と交流があったとされている
まとめにありましたが、どうやら南部但馬守信長が国元の七戸氏に送った手紙に信虎の名が
ただし年代が不明、南部信長は将軍足利義政に出仕して但馬守を拝任したらしい
南部但馬守でググると丹羽長秀の小説がw
言継卿記にも名前が出てくる、知行の件で相談したいんだとか
南部信長のwikiを見ると八戸信長と久慈治義のことを指すんだとか
久慈家は代々備前守と摂津守を名乗ってて一族に昆但馬高光という人がいたようだ
久慈治義は備前守、南部信長との関係は不明

何が言いたいのかというと南部但馬は在京中に子供を作って代々将軍に仕えさせてたんじゃないかってこと

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 11:48:31.64 ID:pSLxbVzv
>>863
一族が在京する家はそれなりにあるんじゃないの?
隣国だけど近江の六角なんかはそうだったよね
まあ伝承のなかの人物がいたりもするけど
あとは伊勢みたいに当主は在京して一族に領地を任せておくとか

武田の場合、信虎の前に敗走した信長が在京してたけど、若狭武田の伝手とかなんかな?

865 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 12:03:40.36 ID:rklRNSKj
>>863
確かに足利義政に仕えた人物だと、とんでもないことになるしね…

甲賀は忍の者多し

2016年07月13日 15:06

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 03:06:43.40 ID:FdEry9Oe
甲賀は忍びの者が多い。人柄は甲斐甲斐しき所である。信虎(武田信虎か)
は、かの地を頼みにしておられた。

(甲賀は忍の者多し。人柄かいかい敷所なり。信虎彼地を頼被居候)

――『武功雑記』





武田信虎「信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように」

2015年05月09日 16:25

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 21:22:04.96 ID:HjLXgSyq
遠州掛川の円福寺にあった武田信虎は、信玄より遣わされた日向源藤斎にこのように言った。
「今川家は、ここ10年のうちにも滅亡するだろう。その仔細は、上方牢人の武藤という、武辺のことについては
仮初にも知らない、利得ばかりの役を今川義元から申し付けられた、半分町人、半分侍のような者が居るが、
その子が、生まれつき良き者であると、今川氏真の御座を直させる役につかせ、三浦右衛門(正俊)と名づけた。

そして今では氏真は、この三浦右衛門の言うがままと成り、霜月や極月にも、右衛門が所望ならば
踊りを七月のように踊らせ、また五月の菖蒲斬りを七月末まで叩き合わせ、能・猿楽、遊山、月見、花見、
歌、茶の湯、川漁、舟遊びにあけくれ、民百姓を虐待し、譜代の家老や今川一家の衆にも頭を上げさせない。
ことに、遠州の国人飯尾氏の跡目を望み、今川家において最も権威ある家老である朝比奈兵衛尉をも遮り、
地下も侍も氏真を恨むように成ったのは、みな三浦右衛門のせいである。

この三浦右衛門と言う人物は武士の義理を知らぬ者らしく、今川義元が手を付けた女子に、菊鶴という、
これは義元の近習・四宮右近の妹があったのだが、これを密かに妾にしたのが、義元が討ち死にした
年のうちであった。この事も右衛門を恐れて、氏真に知らせる者とてなかった。
しかしこういった事を、この信虎は氏真に申し聞かせたため、右衛門は私を憎み、彼のお気に入りである
名古屋の与七郎と言う者は、私を武田の強欲入道と名付けた。

これというのも、元は氏真の心得が悪いからである。氏真が23歳の時、父義元を織田信長に殺されて
はや4年になる。当年26歳に氏真は年令を重ねても、父の弔い合戦をするような心ばせは夢にも無い。
氏真も臆病というわけではない。しかし心掛けが無いため、西国において大内義隆、関東にては上杉憲政と
同類に数えられる。

特に、三河岡崎の城主で、今は家康と名乗っている者は当年22歳になるが、義元のお陰で岡崎に帰還したが、
氏真を見限り今川の敵である信長と入魂して、互いに起請文を交換し合い、信長に脅威があれば家康が助け、
家康に大事があれな信長ら助けるとし、既に家康の、当年5歳になる嫡男を聟に取ると約束した。
そして元康といったのを家康と改名し、4年前より三河国を切り取って廻った。

この事に対し今川家の重臣より抗議が寄せられたが、家康は
『今川の御恩にて岡崎に帰参致すこと、父広忠以来二代に渡り、少しでも今川家に対しぞんざいに思えば
御罰が当たります。このあたりでの取り合いは、所領の境問答があるからです。
信長と入魂したのは、彼の内実を見透かし、義元公の弔い合戦を氏真公がなされる時のためです。』
そう答えて家康は弟を人質に出した。
しかしその駿河の使いが山中あたりを行く自分に働き、氏真を主君として崇める者達を次々と切り従えたのを、
今川家の重臣達は重大事と考え氏真を諌めたが、家康のめのとである酒井雅楽助(正親か)という者の
工夫良き故か、成瀬藤五郎という口利きの上手い侍を一人、三浦右衛門の所に付け置いたことで、
氏真と家康の間も元のように回復した。

こんな状態なら、家康と信長の同盟により、三河、遠州、駿河3ヶ国は家康信長に取られ、結局
敵の方が今川家を滅ぼすであろうから、信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように。
ただ、舅であるから北条氏康今川氏真を助けるだろう、しかし氏康の子息氏政は、信玄の婿であるから、
そのあたりは信玄も定めて分別が有ると思う。こう、信玄に申せ。」

これに日向源藤斎は申し上げた
「信玄様は、万事において入念な方です。口上だけを以っては如何かと思います。信虎様の御一筆を
遣わされますように。」

しかし信虎
「文書で言うならその方を呼びはしない!大事の事は、絶対に書物にはせぬものだ。」

「であれば、信虎公の御判を一つ押して下さい。それをお目にかけ証拠とし、信虎公の奥意を申し上げます。
私は諸国へ御使に参りますが、どんな手立てにおける吉事であっても信玄公は、ふまえる所のない情報は
少しも信用なされません。」

そこで信虎は直判を日向源藤斎に渡した。次の日は日向は逗留し、翌19日、信虎は円福寺を立って上洛した。
それを見送ると、日向は二十日に掛川を立ったが、安倍川が増水していたため回り道をし、25日に甲府に付き
信玄に信虎の判を御目にかけ、件の事を申し上げた所、一切感心のないような表情で

「信虎公は老耄されたのだろう。皆いたずら事である。源藤斎はこの事、今後必ず取り沙汰してはならない。」
そう機嫌悪く言った。
(甲陽軍鑑)




767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/09(土) 10:01:41.22 ID:byQptwpE
本当今川氏真って最低なやつだなw

信虎、孕石を厚遇する

2014年10月14日 18:51

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 21:28:24.41 ID:yt39XJqp
孕石なにがしという侍は、あるとき信虎公に仕え南郡に領地を賜った。
そこで孕石は、ご恩を得た記念に苗字を改めたいと申し上げた。

このとき、孕石に嫁がせていた一族の娘が子を授かった。
信虎公はすでに孕石に新しい苗字を言い渡したところであったが、それを聞くと大いにお喜びになり、
御自ら孕石を追いかけられて、

「石女(うまずめ)を孕ませたのはあっぱれな槍働きである。めでたいことだ。
このために、お前を孕石と呼ばせることにしよう」と、おっしゃった。

その上で、もともと孕石が名乗るはずだった新しい苗字は、生まれてきた娘に与えられた。
このかじか姫は美しく育って、道行く人々が孕石の屋敷のそばを通りたがったので、このあたりを寄居と呼ぶようになった。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 21:31:34.88 ID:yt39XJqp
かじかって、あまり美しいイメージがないのだが、結果オーライなのだろうか?

信虎が孕石を厚遇する(?)良い(?)話。




37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 22:13:46.49 ID:3HYN2LHI
元の名字Aから貰ったBにかえかけたけど夜の槍働きの功で孕石を賜りBは娘の…名前になったのか?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 22:21:15.79 ID:47wU7RSO
某権現「全員斬れ」

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 23:28:33.73 ID:rF4OIBYe
ん?AはBを名乗ることになり、Bの娘はAを名乗ることを許されたんでしょ

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 02:41:14.50 ID:pAbaCAPf
>>37なんじゃないの?
某 → 新しく、かじかを名乗るが良い → あ、やっぱお前孕石ね!かじかは生まれてくる子に名付けよ!

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 03:43:25.24 ID:wcUG1HlT
三河の子倅には………

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 07:30:10.77 ID:6J7GM+Mf
火の鳥にいたな、かじか

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 20:58:15.80 ID:yIz+gdFK
河鹿→カジカガエル。河川の上流~中流やその周辺に生息するカエル。
鳴き声から和歌の題材になったり、美声で唄う個体を「河鹿」と呼んで讃えることもあった。
江戸時代には専用の籠(河鹿籠)による飼育がされた。
http://www.youtube.com/watch?v=gnK00uOLsa8

鰍→カジカ。カサゴ目カジカ科に属する魚。地方によっては他のハゼ科の魚とともにゴリ、ドンコと呼ばれることもある。
見た目は悪いが、とても美味な魚とされる。汁物、鍋料理では、大変美味な出汁が良くでる為「なべこわし」とも称される。

まあ、どちらも見た目はよくないけどね。

信虎の悪逆と諫言

2013年02月07日 19:51

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 19:13:46.90 ID:4TDVtYRN
武田信虎は、甲州に侵入した福島上総介を討ちとった頃からその威、いよいよ盛になり、
その勇に誇り、またその悪行も心のままに行うようになった。
ある時信虎が言うには

「私は累代の甲州の太守として威を遠境に震い、何事も心に任せずということはない。しかしながら、
懐妊した女の腹の中を見たいと思っているのに、未だに心に任せぬぞ。」

と、それより孕んだ女を探しださせ、当月妊娠した女から、2ヶ月目、3ヶ月目と続き、10月目にまでの女の腹を切り裂いて、
男子・女子の境を見分け、又は10ヶ月間の月々の胎児の形を見定めるために、ここまで13人の腹を切り裂き、殺されたのは
目も当てられぬ有様であり、人々は皆大いに恐れた。

武田家の重臣である馬場伊豆守虎貞・山縣河内守虎清は、このような信虎の悪逆を見るに忍びず、大いに嘆き悲しみ、
両人心を合わせ、57ヶ条の書付を以って信虎を諌めたが、少しもその諫言を用いず、挙句には引き籠って、
馬場・山縣に対面しようとしなかった。
これに両人とも如何とも出来す、しかし、密かに話し合った。

ある日の早朝、二人は信虎に急報した
「一揆の奴原が起こり、当国山梨まで乱入し、領民は略奪を受けています!」

これに驚いた信虎は、急ぎ両人を寝所に呼んでその次第を聞いた。
馬場・山縣はお側近くに寄り、畏まって

「一揆の起こったというのは、嘘です。我々両人は臣たる者の道を守り、先日書状を以って諫め申し上げましたが、
一言たりとて御許容無く、それどころかその後お目見えも許されなく成りました。
そうして申し上げるべき手段がなくなり、だからといって打ち捨てておいては、恐れながら当家の滅亡、近くにあるでしょう。
悪名を、長く末代に残すこととなります。心あるものはどうしてこれを嘆かないでいられるでしょうか?
しかしながら今や、君のお怒りを受けることを恐れ、己が身を顧みて、一言の諫言を申し上げるものもいなく成りました。

今は戦国の最中です。村上・平賀・小笠原といった大敵が信州には充満し、味方の虚を伺っている次節です。

我々の諫言を御許容しないのなら、必定、御家を滅ぼさんこと、目の当たりにあります!」

そう、憚ること無く申し上げると、信虎は二人を睨みつけ

「私がお前たちに諌められて国を治めるというのか!?その上、私を侮って嘘によって予を謀ること、許されぬ!」
そう言うや、武田家重代の左文字の刀を抜き放ち、直ちに山縣を一刀に切り捨てた。

しかし残った馬場虎貞は少しも動じる様子もなく、そのまま畏まっていた。
信虎は「馬場!これを見たか!?」と怒鳴ると、虎貞

「諌め争って死を賜うのは、臣たる者の道であり、また、君たるものの道では有りませぬ!
古今、このような例は多くあります。我が身を守るような心底で、どうして諫言を申しましょうか!
この私にも同じ刑を給わって、快く相果てましょう!」

そう言い終わるのも待たず、肩先からずんどと切り離した。

このことを人々、恐れ慄き、諫言を申すものも絶えて無くなったため、信虎はいよいよ悪行を行ったとのことである。
(武田三代軍記)





438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 20:55:03.12 ID:ELsyPILc
信虎を貶めて信玄の正当性高めるために作った、いかにも江戸時代の軍記物って感じだ

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 21:01:11.79 ID:rYJ+8NgI
妊婦の腹を切るって紂王にもあったけど暴君のテンプレみたいなものなのかしら

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 21:03:39.45 ID:+3/czfIX
考え得る限り一番悪いことって事だろ

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 21:06:31.36 ID:DfJfvLEP
テンプレそのもの
武烈天皇とか松平忠直とか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 21:25:53.04 ID:unNWgkwq
本当にあったかもしれないのに

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 23:50:00.67 ID:g1MLdBO3
>>442
ただここに出てくる山県虎清馬場虎貞も一次史料上一切出てこないし、
それどころか甲陽軍鑑にさえも出てこない、1715年ころ成立とされるこの武田三代軍記が初出の人たちだからなぁ
これに関しては現状江戸期の創作とみなされてもしょうがないのではなかろうか

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 00:12:32.51 ID:gbouL30C
>>442
さすがにテンプレすぎて創作以外の可能性がカケラも無い

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 00:29:23.24 ID:FEnlrAHz
事実は小説よりも奇なり、という言葉もあるし事実だった可能性が全く無い訳でもない

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 01:25:04.65 ID:07343PjP
山本勘助みたいに実際に居た人をモデルにしたスーパーヒーローにするケースもあるからね

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 01:57:19.47 ID:3uwNSDA2
>>446
上にも書いたけど、この逸話に出てくる主要人物はおそらく創作だし、
妊婦の腹を切り裂いた話も、同時代史料はおろか甲陽軍鑑にも出てこない
170年くらい後の時代に書かれた武田三代軍記が初出だから、その可能性はちょっとないんじゃないかな

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 02:01:35.65 ID:FEnlrAHz
>448
マジレスしてもらって何だけど、自分は全く信じてないw

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 02:21:57.55 ID:3uwNSDA2
別の観点から見ると、信虎をここまで悪逆非道に描くっていうのは
親子の忠孝が非常に重んじられた江戸期の倫理観からすると、
父親がこれくらい悪逆非道でないと、実父を追放するという信玄の行いを肯定できないってことの裏返しなんだろうね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 09:49:01.60 ID:9eHBeX7i
となると義信さんも相当悪く言われてる逸話もあるということかな?

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 10:47:29.70 ID:Wtciglvq
>>451
義信の場合は親への謀反で、最初から非道だから
わざわざ悪い言う必要が無い。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 12:56:18.69 ID:GhqO2gNS
義信さんと言やあ第四回川中島大会での失態ってえのは事実なんだろうか?

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 16:49:45.21 ID:VA8g7zlb
たしか謙信が残した書状に「敵ながら天晴れな活躍」と書かれていたとか>義信


堀越は思慮のない人であったので

2013年01月09日 19:55

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 17:48:49.36 ID:y6KLxx1F
武田信虎の策謀は失敗に終わったが(>>73)この時、武田信玄は堀越六郎に、

堀越六郎は今川家の一門であり了俊の家筋なのだから、早く謀叛を起こして
駿河を攻め取りなさい。こちらも手を合わせて人数を出し両方より攻め寄せよう。
御舘を其の方に遣わし、今川の家督も継がせようぞ」と偽りを言って扇動した。

これを受けた堀越は思慮のない人であったので引間の飯尾豊前守を
味方に付けて永禄六年に逆心を起こし、近辺の地侍をも勧誘した。

今川氏真はこれを知るとすぐさま出陣し、飯尾方には新野左馬介と
朝比奈備中守を、堀越方には匂坂六右衛門や三浦左衛門尉らを差し向けた。

堀越も飯尾も防戦叶わず自害して果て、残党は尽く討ち取られて城は
火をかけられ焼失した。しかしその一方で、今川方も新野左馬介が討死した。

――『今川家譜、今川記』




80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 20:03:11.86 ID:VHv98zS/
義元死後の氏真の袋叩きっぷりは本当に哀れだと思う

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 20:18:36.30 ID:9+Ft+XXI
素人意見で申し訳ないけど、そう考えると
やっぱり義元(と太原雪斎)は優秀だったんだろうね

82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/09(水) 21:31:30.27 ID:gwrWpT+j
一度弱みを見せると、周りが一斉に群がってくる
世の中って常にそういうものなのよね

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 21:50:55.34 ID:8vj25gK7
特に戦国なんて弱肉強食の野生の王国だからなあ

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 22:28:24.07 ID:GH3fM1xL
この謀反に対する氏真の速攻果断ぶりと、
桶狭間直後の対応との差がどうにも解せないんだよなぁ。
それだけ義元に頼ってたってことなのか?

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 22:36:44.49 ID:swr7NiEg
今川家の立地がすごいからな北に武田東に北条と大国ばかり
史実の義元のように西に向かうしかないだろうな

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 23:00:16.74 ID:VfpkpcN/
>>84
桶狭間で重臣もまとめて死んでるからね。
家内の秩序をまず建てなおさないと復讐戦どころじゃなかったのは当たり前。
ところが、一族を嫁にもらってる松平がいきなり寝返るし。

今川にとっての松平って、武田にとっての木曽だよね。

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 23:04:15.60 ID:8vj25gK7
>>86
つーか松平は対織田の最前線なんだから、義元の敵討ちまで行かなくても、最低でも援軍出してもらわないと
自分たちが持たないんだけど。実際に家康と織田との戦いは継続されている。
だから家康は何度も何度も氏実に軍の派遣を要請してるのに、なしのつぶてじゃ、そりゃ見限るしか無いわな。

氏実はこれにかぎらず、自分の都合でしか周りをみなさすぎる。

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 01:01:05.50 ID:JG6tkxw5
その辺の対応の悪さで家中が混乱してる事が露呈して、
周辺にヒャッハーカモだーと思われたんだろうな

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 06:05:07.33 ID:XacCXBzr
当主が頓死したときの権力継承は難しそう

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 06:49:37.90 ID:lUVkXVMV
龍造寺鍋島の事情の如何に特異なことかよくわかるわ

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 07:15:38.96 ID:R2+Mr6TH
>>84
謙信が大挙して関東を襲ったので、北条に援軍を出してて
身動きが取れない状況。

翌年には小田原も囲まれるような状況で、尾張へ侵攻する
ような余裕が無かった。

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 13:37:44.75 ID:Wpyf2j0J
>90、九州のクマーのところは戦闘民族に四天王五人狩られてなかったっけ?どっちがキツイんだろうな?

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 14:44:58.72 ID:lUVkXVMV
四天王つったって別にそんな大身てわけでもなくないかね

武田信虎、駿河追放

2013年01月08日 19:54

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/08(火) 18:10:26.54 ID:0hE/5ubr
今川義元の不慮の死によって諸人の心もまちまちになっていた頃、
義元の舅・武田信虎は謀叛を起こして駿河を取ろうと目論むも、
望み薄であった。

そこで今川の一門衆、国人をそそのかし、子息信玄へ引き付けて
信玄に駿河を取らせようと謀った。

ところが、この事がたちまちに露見して信虎は駿河より追放となり、
上方へ牢人することになった。

――『今川家譜』




76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 11:08:49.48 ID:sZfwjdbG
>>73
晴信「チッ、本当に使えねえ親父だ。」

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 12:39:43.58 ID:tR7TIoDh
信虎の願いは帰郷だからな
謀反の旗頭を膝元に置くわけにはいかねえ
老人とはいえ黒官みてえに油断ならぬ武人

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 14:47:58.58 ID:3aNpmInH
>>76
四郎某「だな、親父がアレだと子が苦労するわ・・・」

武田信虎は平生より悪逆無道であった。そのため

2012年05月22日 21:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/21(月) 20:02:56.22 ID:G0ccMxr+
甲斐国、向嶽寺(現山梨県塩山市)において、代々の住持が書き継いできた『塩山向嶽禅庵小年代記』より、
天文10年(1541)の、武田晴信(信玄)による、父・武田信虎追放についての記事


武田信虎は平生より悪逆無道であった。そのため国中の人民、牛馬、畜類どもに至るまで大いに愁い、
悩んでいた。しかし駿河の太守である今川義元が信虎の娘を娶ったため、信虎は6月中旬に駿府に行ったので、
晴信は万民の愁いを救おうとして、足軽を河内(甲斐南部、駿河との国境)境に出し父の帰り道を断って、
自分が即位し国を保った。

国中の人民はこれを知ると、尽く快楽の笑みを含んだ。』


これによるとなんと武田信虎、人間どころか牛馬を始めとした甲斐の動物たちまで困り果てるほどの悪政を
行なっていたらしいのだ。一体どれほどの悪逆無道だったのだろうか?w

そんな、武田信虎追放に関する記録の一つである。




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/21(月) 20:04:18.87 ID:IJ0r/Me1
そして妙法寺記では「信玄は信虎と代わらない」と嘆かれる……。
どんだけ暴君の血筋なんだ甲斐源氏w

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/21(月) 20:35:05.69 ID:Q172rEn1
信玄って戦国大名では屈指の残酷さだよね。

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/21(月) 21:48:29.84 ID:fPFituto
>>326
おかげで滅ぶときは蜘蛛の子を散らすように家臣たちに逃げられる有様だったからなあ

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/21(月) 22:05:23.14 ID:tTi0QAjE
信虎や信玄ぐらいじゃないと修羅の国甲斐は纏められんしねw
信虎以前の武田家なんて一門からも攻められまくり
信縄の時代には伊勢盛時に攻め込まれ、その前の信昌の時代には信濃の大井氏にも攻め込まれ
武田家って近隣には侵略者みたいなイメージだけど
向こうにやられたからやり返してるだけだなw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/21(月) 22:31:35.47 ID:96sK94ka
武田に限らず地方の盆地に勢力張ってた連中はそんなんばっかりじゃないか
世界が狭いんだよ
隔離されてるから外部は敵扱いだし、内輪もめするし、古い因習引きずるし

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/21(月) 22:38:56.77 ID:B1JCzCry
>>336
盆地だらけの信濃は信玄に攻略された側だからかそんな雰囲気はないけど・・・
規模は小さいけど人吉盆地の九州相良氏とか飛騨高山の三木(姉小路)なんかは納得。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 05:58:12.46 ID:Mvz2TTBu
>>336
京都周辺の盆地の豪族も頭が硬くて閉鎖的な感じ


371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 17:12:35.70 ID:sNzz5dRr
>>337,345
甲信越や畿内の交易路に接続されてる武士はまだましだろ
奥州・羽州なんか修羅の国だぞ

時勢が読めずに秀吉にやられた葛西・大崎が一級の土豪で
伊達や南部みたいな大名は天上の存在
その他の有象無象の盆地勢力は田舎者なんてレベルじゃなかった

織田信長みたいに天下を見据えた戦略を立てる存在なんて皆無だった

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 17:16:33.42 ID:Mvz2TTBu
>>371
政宗の属国は、小田原参陣を止められて、所領没収されたのが、石川、留守、大崎、葛西、田村だったよね

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 17:19:17.05 ID:XhB4/o6P
>>371
手土産抱えていく余裕もなかっただろうし筆頭の政宗一人行けば良いんじゃね?で沙汰待ちしてたんじゃないっけ

腹痛持ちの臨機

2012年04月29日 21:08

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 01:11:04.58 ID:w4u9QR0K
腹痛持ちの臨機

信虎のころ、甲州市川に矢作(やはぎ)なにがしという武士がいた。
この矢作、いざ槍合わせとなると腹痛を起こし、隠れて用を足すというのが度々あった。
矢作には名のある首を取るという武功も何度もあったのだが、人々は臆病者と馬鹿にしていた。

福島正成が甲州に乱入した時、信虎は矢作を呼び出すと、人を預けて河内路に向かわせた。
(甲府盆地南部は既に福島らによって占領されていたので、後方攪乱を命じたと思われる。)

信虎がようやく勝利を得た後、矢作はどうしたかと尋ねると、「これこれの働きがありましたが、
ついに館にこもって腹を切りました」ということだった。

信虎曰く、
「あの者を臆病というが、そうではない。あの者は『吹越』を心得ていて、敵の盛んなときは
いくさせず、敵の衰えを見て打ちかかるのだ。そうであるから自分は特に用いたのである。
そうでなければこのような働きはできなかっただろう。間に合わなかったのが残念だ」

といって涙を流したので、余人は恥じ入ったということである。

ストレス性腹痛持ちの、戦の呼吸に通じていたことをうまく生かしたいい話。




885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 01:57:19.22 ID:YRw8jWfq
過敏性腸症候群か

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 04:01:48.18 ID:lajj7EJG
権現様もIBSか?

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 12:23:55.58 ID:Po19ra4m
実際には戦争ではよくあることらしいぞ
ヤクザの抗争レベルでも漏らす人はいるというし

それを絵に描かせて後の戒めにするところが英雄の資質だと思う
現に同時代の武士たちがこの件で権現様をディスった話を見たことないし

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 12:39:31.27 ID:YNPNbj1q
三河武士がdisらないのは確かに不審極まりない

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 13:10:01.06 ID:GZnnr+Mc
ディスろうと思ったらすでに自らディスってたでござる

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 14:04:59.24 ID:9/Lr7fox
一応大久保忠世が笑ってなかった?

忠世「おおww殿wwよくぞご無事でwwで、その茶色いものは何ですかなwww」
家康「焼き味噌じゃ!」

こんな事があった後夜襲で武田軍蹴散らす忠世カッコイイ


891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 14:14:03.67 ID:qzH7lcSb
戦場では漏らすほど怖いのが当たり前だろうなぁ……。
実は本当に焼き味噌で、みなの気を紛らわすためにクソ扱いした可能性もある(実話なら)。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 14:25:13.57 ID:pX6OK4FY
このとき確か権現様は一騎の状態で武田勢討ちつつ退却してたよな。
恐怖で漏らす以外に、
馬降りて帯といて用足す時間も余裕もないのは確か

893 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/29(日) 14:48:40.47 ID:oxipwqUu
現代でも米軍なんか敵地で食べる事の多い携帯食料の場合
あまり便が出ないような内容になってるらしいしな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 14:56:15.88 ID:qzH7lcSb
だが、途中休憩で腹ごしらえして、無銭飲食でババアに追いかけられる余裕はあった権現様。
負け戦でもパネェw

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 14:59:56.95 ID:GZnnr+Mc
ババア「こんなこともあろうかと残飯だしといた。」

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 15:02:46.79 ID:lajj7EJG
伊賀越えでも催してた気が…

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 15:23:40.58 ID:HCUtjmm3
脱糞街道を行く
柴遼太郎著
民明書房刊

みんめいしょぼう、を一括変換できない
アップルはやっぱりダメな会社だw

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 15:24:30.15 ID:nmWn17Xt
家康公は幼少の頃、衆目の前で放尿して今川家の家臣に剛鍛さを感心されたんだよ。
大人になって放尿から脱糞と言う次のステップに進んだと考えられないだろうか?

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 15:25:49.33 ID:qzH7lcSb
前田利益「呼ばれた気がして」

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 16:07:46.53 ID:/9X8ZdMc
>>898
次のステップまで進まなくよかったな~
でも実はあの成分には・・・

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/29(日) 16:23:53.73 ID:JycC5Jxc
天海「秀忠様、長命の秘訣は逃食、正直、日湯、陀羅尼、時折ご放糞あそぶ事ですぞぉ」

『プロージット!』ガシャン!!

2011年11月12日 22:01

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/12(土) 16:56:25.94 ID:F4yYtVTu
『プロージット!』ガシャン!!

大永元年(1521年)九月一日、福島正成は二万の大軍を率い、富士川沿いに河内路を北上し始めた。
穴山氏がこれを先導する。一方小山田氏は北条家を抑えるとして協力しなかった。

十六日、信虎に破れ降っていた大井氏が降伏。再び大井氏は今川につくことになる。
月末、西郡(富士川西岸)の河内路から東郡(笛吹川東岸)の甲駿往還までの盆地南部で、多くの国人が帰順。

河内路と甲駿往還に挟まれた山岳地域を九一色と呼ぶ。ここには九一色衆呼ばれる辺境武士団が存在した。
九一色衆は古くから九一色十家と呼ばれる土豪らがとりまとめていたが、このとき十家は去就が割れた。

さて、ここからが逸話。
この十家のうち、上九一色の河埜、渡邉、土橋の三家は武田に付くことにした。

彼らは未だ盆地南部で頑張る諸城への補給や、敵の補給路の遮断などに活躍した。
しかし他家に手引きされた今川勢が甲駿往還からもやってくると、敗色濃厚となった。

三家の当主は上九一色の砦で宴を張った。別れの杯である。
土橋左衛門がふと言った。
「館が落とされ自分も討ち死にした後、この杯で祝杯を挙げられるのは腹立つじゃんな」
渡邉、河埜らもなるほど腹が立つと思い、三家中であるだけの酒器をみな打ち壊した。

ところが彼らが必死の抵抗を重ねるうち、主君・信虎は、上条河原合戦で今川軍本隊に
壊滅的打撃を与えることに成功。

今川方に付いた家は領地を召し上げられ、多額の褒賞と共に三家に与えられた。

これ以来、九一色衆は戦の前に杯を酌み交わした後、酒器を割る風習が発生した。

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
やがて甲州でぶどう酒の生産が盛んとなると、「プロージット!!」と叫んで
一気に赤ぶどう酒を飲み干し、グラスを割るという形に若干の変化を見せた。

やがて銀河を統一した武田帝国の風習となり、近年では金髪皇帝と将たちが行ったので有名である。

以上途中から与太話




513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/12(土) 17:01:06.88 ID:YbVn2eg+
戦の前に飲んだかわらけを割るのは甲斐に限らずいろんなところで見る描写だけど、
各地にこんな由来話があるのかねえ。

余談だが(上)九一色村と聞くとオウム思い出す。

514 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/12(土) 19:55:41.12 ID:U+RoCp/1
>>512
銀英伝?

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/12(土) 20:28:28.80 ID:YbVn2eg+
最後は銀英だな

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 17:49:33.05 ID:OntMx4V5
>>512
> 穴山氏がこれを先導する

穴山も所領没収かよ

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 22:16:10.25 ID:1lPY/JLY
>>542

多分、上九一色の十家のうち今川についた七家の所領が
信虎に組した三家に分け与えられたと言うことなのでは?

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 01:30:44.01 ID:4WHfHklg
>>543
違うかも知れんが、残り7家が全部今川に付いたとは限らないのでは?
>>この十家のうち、上九一色の河埜、渡邉、土橋の三家は武田に付くことにした。
ってあるから、下九一色(あるのか?)では他にも武田についた家があるのでは。

武田信虎の猿

2010年04月21日 00:01

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 01:32:19 ID:26dkPRRV
武田信虎には、かわいがっていた猿があった。
「白川」と名付け、常に膝下においていたという。

天文六年(1537)6月11日のこと。
この猿が御座の間から、脇差を抜いてそれを持ったまま、誰にも知られずこっそりと抜け出した。

その日、鷹の間の当直は今井貞邦であった。
彼が鷹の間において一人で、少しうつむいた形で座していると、猿がその後ろから近づき、脇差を振って
今井の肩先を斬りつけた!

その日は暑気甚だしく、今井は薄い帷子の単を着ていただけであったので、脇差の刃は肌まで届き
背中は朱色に染まった。

猿の白川は血がでたことに驚いて鳴き叫んだ。そして今井は

「畜生に傷をつけられるとは我慢ならぬ!」

と激怒し、刀を抜いてこの白川を一刀のもと討殺した。
この音に驚いて、同僚である鎌田、織部、小山田彦太郎、安田三右衛門尉と言った者たちが集まってくる。
貞邦は事の次第を語り

「それがしは数ならぬ者であると言えども、若年より数々の合戦において、一度も不覚の名を
取ったことはありませぬ。それが今、この白川と言う猿によって薄手を負ってしまったこと、
口惜しくてなりませぬ。
もし世の人から、今井貞邦は畜生に追われて後傷を受けたのだ、などと笑いの種にされ、
後ろ指を指されてはその無念さはどれほどでしょうか。」

そう、涙を流して怒った。


しかし、この報告を受けた信虎は

「猿は元より畜生である、分別を持っているわけがないではないか!
貞邦が手傷を負ったのは誰のせいでも無い、ただ単にあ奴が不運であった為である。
それを何か!?わしが秘蔵する白川であると知っていながらそれを斬り殺すとは、
これはこの信虎に向かって太刀を振ったのと同じである!」

そう怒り狂い今井貞邦を捕縛させ、切腹とさせたと言う。


武田家の重臣達に、信虎排除を考えさせるきっかけになったとも言われる、武田信虎の猿についての
逸話である。




271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 01:54:30 ID:swsYZo6a
刀で切りつけるとか芸達者過ぎるだろ猿w

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 02:23:29 ID:QEhhR7ZX
>>270
信玄は猿好きで、自作の猿の絵を贈っているほどだ。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 08:25:51 ID:cf78VYSg
実は猿を調教していたのは信玄だったりしてな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 10:54:46 ID:lxK5WoZz
道灌「猿と聞いて飛んできますた」
正宗「猿と聞いて(ry」
景勝「猿(ry」

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 10:55:42 ID:TPuSS1r/
ラスボス「貴様ら…猿猿猿猿と…」

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 11:10:44 ID:jDJRJFCQ
勝家さんと成政さんがニヤニヤしながら……

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 12:16:25 ID:E6NohDyP
道雪「悪い猿は打ち据え、ついでに主君に説教だ!」

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/20(火) 22:37:08 ID:fvtitRE5
>>270

俗に猿真似などと言いまして
普段、家臣を手討ちにしていた様を猿が真似したのでは・・・
老境に至っても孫の勝頼の前でハッスルし過ぎたようですし

虎の海賊退治

2009年11月08日 00:09

34 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/07(土) 01:20:28 ID:81JBFgIc
海賊つながりで

虎の海賊退治

永禄三年(1560年)伊勢志摩の豪族,九鬼嘉隆は焦っていた
九鬼家の強引な勢力拡大に反発した志摩の諸豪族達は
伊勢国司,北畠具教の助勢を得る事に成功し,九鬼家に対して兵をおこした
志摩の豪族連合と北畠軍の大軍は直ちに九鬼家の居城である田城を
包囲した。九鬼家の劣勢は火を見るより明らかである

伊勢湾と広大な熊野山脈に囲まれた志摩国の局地戦,しかしこの戦には,かの著名な武将が
軍師格で出陣していた
その名は武田信虎...そうあの信玄の父親であり,その息子に甲斐を追放されたあの人だ

天文19年年(1550)今川家に嫁いだ娘が病で亡くなってしまい立場上,駿河に居つらく
なってしまった信虎は思い切って駿河を出奔。伊勢へと辿り着き志摩国の豪族である
甲賀藤九郎のもとへ身を寄せていた。

この戦で九鬼家は嘉隆の兄,浄隆は陣没,嘉隆は甥の澄隆と共に奮戦するも
北畠の大軍と「甲斐の大殿」信虎の知略の前に敗北。
嘉隆は尾張に逃れて織田家の庇護を受けることになる

信玄に追放後も志摩国の片田舎で戦を続けていた甲斐の虎
そんな彼の海賊退治のお話




35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 02:04:43 ID:O97/PE0g
>>34
信虎さんすげえw

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 02:19:51 ID:cj8QrimB
意外なところで意外な相手と戦ってたんだな

38 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/07(土) 07:18:23 ID:CTKhXy30
信虎さんは京で足利さんと誼を結んだり悠々自適だったみたいだな
フーテンの虎さんなんじゃないか?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 07:34:32 ID:F6C4db5+
>>34
お父さん格好いいよお父さん

41 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/07(土) 09:19:18 ID:ucRm6jPp
信虎「恩賞として伊勢の地で所領を頂き、わしの新世紀武田家が国司を御守りしましょう」
北畠「あんなやつに領地やったらマジやべぇ…ありがたい話だが…だが断る!
…なぜかって言うとあの…その…足利様が信リンに会いたいって言ってるから
上洛費用を出そうと思って!」