『多賀谷七代記』より、多賀谷重経の豊田攻めと豊田治親

2010年11月10日 00:01

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 01:19:45 ID:rxepfjbR

え~昨日に続いて『多賀谷七代記』から。

常陸国、小田家の配下に豊田治親という豪族がいた。
豊田家は小田領の侵食を企てる多賀谷家と領地を接しており、常に多賀谷との紛争
を抱えているという状態であった。

天正五年、多賀谷重経は一息に豊田領を飲み込むべく、一千の軍勢を従えて進軍を
始める。
重経は一門の多賀谷氏経が率いる三百の兵に先鋒を申し付け、豊田城に向かわせた。

この先鋒の中に、僧形の男が二人いた。
彼等は赤塚浄阿彌の息子、虎蔵&熊蔵と言う兄弟であり、周囲の人々は二人合わせ
て「商買金坊」(意味は不明)という異名で呼んでいた。

二人とも多賀谷家随一の力持ちとして名を馳せ、長さ八尺、周囲一尺という鉄の棒
を軽々と振り回していた。
重経は彼等を護衛として重用し、兄弟も戦の時には主君の側を離れず、鉄壁のボデ
ィーガードとして活躍していた。
この二人が唯一主君の側を離れる時が、攻城戦の時。敵の城門を打ち破るのに、彼
等の鉄棒が非常に役立ったからである。

この豊田攻めの際、多賀谷勢は持盾や竹束の用意もなく攻め寄せた、と言う話が残
っている。また、虎蔵&熊蔵兄弟が普段通りに重経の護衛ではなく、先鋒部隊に混
ざっていたという事も、あるいは「豊田勢は打って出ては来ない」「城に籠もって
小田の援軍を待つに違いない」という侮りが多賀谷側に存在していた証拠かも知れ
ない。


しかし、先鋒部隊が蛇沼という沼の畔に差し掛かった時、突然足元の地面が崩れる!

何が起こったのか判らず動揺が走る中、豊田の伏兵が矢を射かけ、豊田治親の弟、
将親が率いる三百が一気に斬り込んできた。

豊田勢では、あらかじめ多賀谷重経の侵攻に備えて沼の畔に巨大な落とし穴を作っ
て待ち構えていたのである。

地面に立って敵と対峙したなら、決して引けを取らない自信がある虎蔵&熊蔵も、
勇み立って先頭を進んでいた為、見事に落とし穴にはまってしまった。
多賀谷の誇る力自慢は、二人揃って何も出来ぬまま、弓矢にて射殺されたのである。

先鋒の将、多賀谷氏経は命からがら逃げ帰ったが、この結果に重経は激怒。
今度は自ら蛇沼まで兵を進め、豊田治親&将親兄弟と雌雄を決さんとしたのだが、
小田の援軍として菅谷左衛門、行方刑部らが豊田勢に加わった為、何も得る物なく
引き上げざるを得なかった。


多賀谷さん、余程この時の事が腹に据えかねたのか、
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4246.html#view_comment
という事になります。
こちらの逸話だと豊田治親と戦ったのが多賀谷重経の父・政経だったり、治親の弟
の名前が違っていたりと、結構な差がありますが、今回私が参考にした『多賀谷七
代記』についてはググッても何も詳細が判らない。なので信憑性等も不明です。
……まぁ、話半分以下と考えた方が無難か?(^^;

あ、ちなみに上記まとめの逸話で稲見(七代記では飯見)を寝返らせた白井全洞で
すが、「あれは自分の領地を広げたくて勝手にやった事。多賀谷の命令ではないし、
忠義でもない」と言って、恩賞は一切出なかったそうです。




483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 09:50:05 ID:jR1Woegq
>>479
栗林義長でお馴染みの『東国戦記実録』の上巻に虎三と熊三の金棒兄弟は出てきます。

「多賀谷修理太夫岡田郡へ発向の事」
・三人張に十三束を番ひ引放つ矢虎三が鎧の胸板に当ると雖も流石の強弓の矢先なれとも刎返り立ささりける。
(坂野)監物が矢熊三が鎧の胸板に当れとも是も同く刎返れは口惜く思て同矢筈を二の矢射たりけれとも立ささりけり。
兄弟大に怒て例の金棒を打振り飛かかる。両人は叶はしと逃けるを遁さじと追かけたり


ごらんのように矢はほとんど効かず、射た側が追いかけられる始末w

そんな彼らも「能登守謀て金棒兄弟を殺す事 附 下妻猿島和睦の事」において
空堀に飛び込んだところを釣塀を落として蓋をし、さらに松明を投げ込むという罠にはまり焼死です。
落とし穴という点では同じですね。

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 10:06:25 ID:y7kThAtc
>鎧の胸板に当ると雖も流石の強弓の矢先なれとも刎返り立ささりける

一体どんな鎧着てるんだよw

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 10:13:43 ID:jR1Woegq
・其重さ十五六貫に余る鉄の棒を軽々と打振て多勢の中へ飛び入り人馬の嫌ひなく振り廻る
此兄弟に出合ふ者こそ不運なれ。生て帰る者更になし。忽ち百騎ばかり打ち殺す。誠に金棒兄弟とて
当国に名を得たるこそ理なり。皆々打散て寄合ふ人もなし。


こういう人たちですから。人というか、きっと火だけに弱いモンスターか何かだったんじゃないですかね?

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 10:19:11 ID:oD4BJozu
今なら帰依して寺社仏閣を叩き壊すだけでモンスター対策の聖水と白木の杭をお安くお分けシマス

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 10:25:02 ID:3A4cXBQK
神父「お友達に暴力を振るってはいけません
暴力を振るってもいいのは、異教徒と悪魔どもだけですよ」

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 10:30:38 ID:y7kThAtc
>>485
60キロの鉄棒を振り回し、一瞬で百騎を殴り殺すってw
関羽や張飛以上だよ、それwww

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 10:34:12 ID:PgcJLuI6
>>486-487
大友宗麟様がアップを始めたようです

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 12:27:04 ID:D2sBgw7p
国崩しだ!国崩し持ってこい!

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 13:27:30 ID:mmaNyIkL
鬼島津は聖水と白木の杭じゃあ倒せなかったんだな

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 13:34:19 ID:6q0MjXPB
丸に十字を見た聖水が、相手を十字軍と勘違いしたんだ。きっと
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石毛城開城の条件

2010年06月04日 00:00

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 18:28:20 ID:WzqG3Q/V
戦国末期、下総国猿島郡、岡田郡を領する国人領主に豊田治親と石毛政重という兄弟がいた。
北に結城・多賀谷、東に江戸・佐竹と向き合う地勢の中、
豊田治親は日増しに圧力を強めるそれら北関東の諸侯と対抗するために、
常陸の小田・岡見・土岐原の三家と連合して抗争に臨んでいた。

連合の中では北部担当となる豊田氏の主な抗争相手は多賀谷氏で、
武勇に優れた石毛政重を大将として猿島・岡田の諸国人を纏め上げ、
小田・岡見の支兵を受けても兵力でおおよそ倍する多賀谷軍を度々打ち破り、豊田城に寄せ付けなかった。

そんな小田陣営の貴重な勝ち星要員である豊田氏にも、小田方である以上没落の日はやがて訪れる。
天正三年、軍事力の要である石毛正重が居城の石毛城にて脳卒中に倒れてそのまま逝去。
家中に動揺が走る中、その一ヵ月後には今度は当主治親が急没してしまった。

これを見た多賀谷政経は準備万端、七百の軍勢を持って豊田領を急襲し、
豊田城を瞬く間に奪うとわずか七歳の石毛政重の嫡男太郎正家が篭る石毛城を囲んだ。
しかしそこは精強で鳴らした石毛政重の家臣たち。
篭城の準備も疎かであった中、堅く城を守って簡単には多賀谷軍を寄せ付けない。

かといって、篭城軍に勝ち目があるわけでもなく。
やがて城方は二つの条件を多賀谷政経に突きつけ、これを政経が受け入れることによって開城降伏が成立した。
その二つの条件というのは、

・城主太郎正家の助命(ただし出家すること)
・稲見大膳一族の身柄引き渡し

の二項目である。
……最初の項目はよくあるものだが、後者の条件はあまり見慣れない。
一体稲見大膳とは何者なのかといえば、これは豊田家の家臣であり、治親を私邸に招いて毒殺した謀反人なのであった。
この大膳、実は事前に孫娘を多賀谷氏家老白井全洞の嫡子に嫁に出しており、
その縁(というよりこちらが目的なのだろうが)で全洞から豊田城を与える条件で内応を誘われ、これを快諾していたのだ。

大膳のこうした多賀谷氏との結びつきは早くから豊田家中でも疑われていたようで、
実際に暗殺の現場となった稲見邸での酒宴にも家臣が参席しないよう治親に訴えかけていたが、
治親は「稲田は譜代の臣である」として疑わず、まんまとその毒牙に掛かっている。

その稲田も結局は政経に交渉の道具として売られ、大膳以下一族三十六人は裸で豊田城下を引き回された上、
豊田遺臣団の手で鋸引きの刑に処せられ、嬲り殺しにされてしまった。

因果応報、狡兎死して走狗煮られる。
察しが悪いうえに手回しも悪くて、結局自分の首を絞めた奸臣の悪いお話。

ていうか調べれば調べるほど、戦国史に拠点の位置打ち込めば打ち込むほど、
上杉介入前でも小田陣営がフルボッコされる理由がわからん……




185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 21:11:26 ID:57z5U14z
>>181
稲見大膳詰めの甘かった話でもあるな。

しかし戦国の北関東情勢は、最初は享徳の乱で成氏が古河公方優位の支配体制を勝ちとって
でそれなりに安定してたのに、途中で古河公方も分裂するものだから訳のわからんカオスに
なっちゃうよね。

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 22:02:22 ID:7knymvTF
>>185
『北関東』って言葉・概念は昭和になってからできたもの。
戦国時代を見る時は東関東・西関東と分類した方が適切だよ。

古河公方が強い影響を及ぼした領域は
利根川の東側、ちょうど東関東(常陸・下野・下総・上総・安房)に当たる。

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 22:29:05 ID:57z5U14z
>>186
さんきう。しかし戦国初期の関東の騒乱って長享の乱の跡の両上杉の和解で一旦収束するのに、
古河公方分裂(と言うか親子兄弟喧嘩)で結局戦乱に世に戻しちゃうのは、そういう時代だったと
いうべきなんだろうな。