199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 07:30:35 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏~檜山と湊~ その3
一方で南部氏の傀儡となっていた安東師季は義季死亡の報を受けてか、行動を起こす。
享徳三年(1454)、師季は南部氏の元から脱出し蝦夷ヶ島に渡海、再び安東氏勢力を糾合する動きを見せたのである。
この時、に随行していたのが武田信広――やがて松前氏となる男である。
下国安東氏と南部氏が熾烈な争いを繰り返していたその間、湊を名乗る安東氏は
一族を秋田郡の各地に配置するなど、地盤固めに邁進、
南の庄内の争いの調停なども行い、精力的に活動し存在感を示していた。
とはいえ、湊安東氏も仙北方面に南部氏(と戸沢氏、小野寺氏)の攻勢を度々受けている。
そこで康正二年(1456)、湊初代である鹿季の孫に当たる惟季は南部から脱出した政季(将軍より一時拝領、師季改め)を出羽に誘ったのだった。
依然として海路に影響力を持つ安東氏、政季は精鋭を率いて海伝いに蝦夷ヶ島から男鹿に上陸、
2つの安東氏は共同して檜山に拠点を構える南部方の葛西に当たった。
(一方、政季不在の蝦夷ではコシャマインが蜂起、これを鎮圧した武田信広が頭角を現した)
しかしこの政季、度々檜山ではく白神を超えて津軽を伺った。
捲土重来を目指したものであるが、これには湊安東氏やそれに従う周辺豪族の不信を招いても仕方ない。
長享二年(1488)、政季は家臣の長木大和守に謀殺される
その後、政季の嫡男である忠季が七年の歳月をかけて葛西氏を駆逐し檜山に館をかまえた。
それが檜山(能代)安東氏である。
檜山安東氏は「自分こそは津軽に拠を構える安東氏正統」という主張なのか
下国安東氏をその後も名乗り続けている。
安東政季の(諦めの)悪い話
関連
2つの安東氏~檜山と湊~ その1:ほんのちょっとだけ義満の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その2:南部氏の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その4:安東愛季の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その5:檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話
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一方で南部氏の傀儡となっていた安東師季は義季死亡の報を受けてか、行動を起こす。
享徳三年(1454)、師季は南部氏の元から脱出し蝦夷ヶ島に渡海、再び安東氏勢力を糾合する動きを見せたのである。
この時、に随行していたのが武田信広――やがて松前氏となる男である。
下国安東氏と南部氏が熾烈な争いを繰り返していたその間、湊を名乗る安東氏は
一族を秋田郡の各地に配置するなど、地盤固めに邁進、
南の庄内の争いの調停なども行い、精力的に活動し存在感を示していた。
とはいえ、湊安東氏も仙北方面に南部氏(と戸沢氏、小野寺氏)の攻勢を度々受けている。
そこで康正二年(1456)、湊初代である鹿季の孫に当たる惟季は南部から脱出した政季(将軍より一時拝領、師季改め)を出羽に誘ったのだった。
依然として海路に影響力を持つ安東氏、政季は精鋭を率いて海伝いに蝦夷ヶ島から男鹿に上陸、
2つの安東氏は共同して檜山に拠点を構える南部方の葛西に当たった。
(一方、政季不在の蝦夷ではコシャマインが蜂起、これを鎮圧した武田信広が頭角を現した)
しかしこの政季、度々檜山ではく白神を超えて津軽を伺った。
捲土重来を目指したものであるが、これには湊安東氏やそれに従う周辺豪族の不信を招いても仕方ない。
長享二年(1488)、政季は家臣の長木大和守に謀殺される
その後、政季の嫡男である忠季が七年の歳月をかけて葛西氏を駆逐し檜山に館をかまえた。
それが檜山(能代)安東氏である。
檜山安東氏は「自分こそは津軽に拠を構える安東氏正統」という主張なのか
下国安東氏をその後も名乗り続けている。
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