276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 11:54:07 ID:LDS3bnC0
大関の話を投下すべきなんだな!分かった
天正の頃、大関高増の長男、大関晴増は父の外交手腕によって子の無かった白河結城家当主である
小峰(白河)義親の婿養子として迎えられた。
これは高増の人生の中でも会心の外交成果であり、ゆくゆくは晴増が家督を継ぎ白河結城にも
大関の影響力が及ぼせる・・・はずだったのだが
しかしながら晴増の運命はにわかに暗転する。「鬼義重」こと佐竹義重による白河結城への本格的侵攻が始まったのである。
晴増も白河結城の将として奮戦はしたものの天正7年(1579 年)、ついに白河結城家は佐竹の圧力に屈した。
そこで義重の出した和睦の条件というのが「私の次男義広を養子に迎えろ」というものであった。ようするに乗っ取りである。
必然的に晴増の白河結城の家督相続の話は無かったことになってしまった。
高増「/(^o^)\ナンテコッタイ 」
高増の野望、潰える。だがもっと立つ瀬が無いのは晴増の方。
当時、大関家の家督は既に弟の清増が継いでいたので実家にも戻るに戻れなかったのだ。
しかしながらここで意外な人物が救いの手をさしのべる。
義重「お前、いい働きしてたな。佐竹家で働かないか。」
晴増の将としての働きを評した佐竹義重から仕官があったのである。
晴増もこれを快諾し以後、佐竹家の将として時に前線に立って戦い、一番槍を挙げるなど義重の見込んだとおりの
男である事を示した。
278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 11:55:05 ID:LDS3bnC0
しかしながら天正15年(1587 年)、実家の家督を継いでいた清増が急死する。
高増「あの~晴増返してもらえませんかね?」
義重も佐竹の息がかかった晴増が大関の家督を継ぐことは悪くないと考えこれを承諾。むしろ積極的に支援した。
こうして晴増は10数年ぶりに実家へと帰ることになった。
時は下って天正17年(1589年)、伊達政宗が岩城常隆と共謀して白河に攻めて来た時、佐竹軍が迎え撃ったのだが苦戦していた。
そこに佐竹の援軍に現れたのは那須家。先陣には大関晴増の姿があった。
なんだかんだで撃退に成功した佐竹軍。その後、義重も久しぶりに晴増と再会を果たした。
義重「やはりお前はいい働きをするな。どうだ?5万石で?」
まぁ冗談だろうが義重はこんな事も言うぐらい晴増を買っていた。晴増も当然、断りを入れるのだがそこで晴増は意味深な発言を残した。
晴増「いずれ『独立した大名』になりたいですので(ニヤリ」
義重「・・・?」
この翌年、公言通りに大関家は独立を果たす。那須家の改易と引き換えに。
やっぱり息子もアレだったというお話
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 12:02:48 ID:UTaIEz54
親父のところに戻したからこうなったんだ
汚いな高増汚い
282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 13:49:35 ID:LrxMB8hN
>>278
折角佐竹家で浄化されてきてたのに元の家に戻るから…
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 14:41:49 ID:+TWppsEP
大関さんチームを同じ時代の北信濃の某一族と総取り替えしてみたい
284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 15:00:53 ID:NqhumvbK
武勇に長けた大関とか性質悪すぎる…
285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 15:11:36 ID:LrxMB8hN
大田原さん家には大阪の陣で首級挙げたりする武闘派が普通にいるから困る
286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 16:00:45 ID:UTaIEz54
切れ者揃いなのに那須家の為に役に立ったかと言えば・・・
287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 17:06:52 ID:olYOHxP0
那須家の為じゃなく自分のため!!!!!
288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 18:02:06 ID:Kmds25KX
石高制が佐竹家に導入されたのは、小田原征伐後、
佐竹が羽柴秀吉の全国支配体制に組み込まれてからだし、
義重は立場上でも、財政的にも、万石以上の土地を与えることなどできなかった
・・・なーんて言ったら野暮だね。
大関の話を投下すべきなんだな!分かった
天正の頃、大関高増の長男、大関晴増は父の外交手腕によって子の無かった白河結城家当主である
小峰(白河)義親の婿養子として迎えられた。
これは高増の人生の中でも会心の外交成果であり、ゆくゆくは晴増が家督を継ぎ白河結城にも
大関の影響力が及ぼせる・・・はずだったのだが
しかしながら晴増の運命はにわかに暗転する。「鬼義重」こと佐竹義重による白河結城への本格的侵攻が始まったのである。
晴増も白河結城の将として奮戦はしたものの天正7年(1579 年)、ついに白河結城家は佐竹の圧力に屈した。
そこで義重の出した和睦の条件というのが「私の次男義広を養子に迎えろ」というものであった。ようするに乗っ取りである。
必然的に晴増の白河結城の家督相続の話は無かったことになってしまった。
高増「/(^o^)\ナンテコッタイ 」
高増の野望、潰える。だがもっと立つ瀬が無いのは晴増の方。
当時、大関家の家督は既に弟の清増が継いでいたので実家にも戻るに戻れなかったのだ。
しかしながらここで意外な人物が救いの手をさしのべる。
義重「お前、いい働きしてたな。佐竹家で働かないか。」
晴増の将としての働きを評した佐竹義重から仕官があったのである。
晴増もこれを快諾し以後、佐竹家の将として時に前線に立って戦い、一番槍を挙げるなど義重の見込んだとおりの
男である事を示した。
278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 11:55:05 ID:LDS3bnC0
しかしながら天正15年(1587 年)、実家の家督を継いでいた清増が急死する。
高増「あの~晴増返してもらえませんかね?」
義重も佐竹の息がかかった晴増が大関の家督を継ぐことは悪くないと考えこれを承諾。むしろ積極的に支援した。
こうして晴増は10数年ぶりに実家へと帰ることになった。
時は下って天正17年(1589年)、伊達政宗が岩城常隆と共謀して白河に攻めて来た時、佐竹軍が迎え撃ったのだが苦戦していた。
そこに佐竹の援軍に現れたのは那須家。先陣には大関晴増の姿があった。
なんだかんだで撃退に成功した佐竹軍。その後、義重も久しぶりに晴増と再会を果たした。
義重「やはりお前はいい働きをするな。どうだ?5万石で?」
まぁ冗談だろうが義重はこんな事も言うぐらい晴増を買っていた。晴増も当然、断りを入れるのだがそこで晴増は意味深な発言を残した。
晴増「いずれ『独立した大名』になりたいですので(ニヤリ」
義重「・・・?」
この翌年、公言通りに大関家は独立を果たす。那須家の改易と引き換えに。
やっぱり息子もアレだったというお話
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 12:02:48 ID:UTaIEz54
親父のところに戻したからこうなったんだ
汚いな高増汚い
282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 13:49:35 ID:LrxMB8hN
>>278
折角佐竹家で浄化されてきてたのに元の家に戻るから…
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 14:41:49 ID:+TWppsEP
大関さんチームを同じ時代の北信濃の某一族と総取り替えしてみたい
284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 15:00:53 ID:NqhumvbK
武勇に長けた大関とか性質悪すぎる…
285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 15:11:36 ID:LrxMB8hN
大田原さん家には大阪の陣で首級挙げたりする武闘派が普通にいるから困る
286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 16:00:45 ID:UTaIEz54
切れ者揃いなのに那須家の為に役に立ったかと言えば・・・
287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 17:06:52 ID:olYOHxP0
那須家の為じゃなく自分のため!!!!!
288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 18:02:06 ID:Kmds25KX
石高制が佐竹家に導入されたのは、小田原征伐後、
佐竹が羽柴秀吉の全国支配体制に組み込まれてからだし、
義重は立場上でも、財政的にも、万石以上の土地を与えることなどできなかった
・・・なーんて言ったら野暮だね。
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