fc2ブログ

龍泉寺の事

2020年02月15日 13:58

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 02:29:54.96 ID:hq79ljkl
https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/466

これにあった「兄弟の絆」に関係する話
この大田原資清さん、兄を呼び寺を建て大田原氏の菩提寺にしたとあるけど

当然ながら、その前には別のお寺が菩提寺だったわけで
その寺はと言うと「龍泉寺」

過去の大俵氏の水口館への移転の際にも一緒に移転しており
大俵氏からは「菩提寺」と「祈願所」として大事にされてたらしい

そしてその後の資清さんが新たに城を建てた際にも三の丸に移され
菩提寺が光真寺に移ったあとも、
大田原氏は代々「祈願所」として残し大事にしたらしく

「龍泉寺」は大田原氏ゆかりの遺品を遺していて
今も大田原城跡のそばに寺があったり
何気に大田原氏は主に三兄弟とその父親がアレだが
身内は大事にする一族だったようだ



スポンサーサイト



大関高増の逆心

2019年10月11日 16:11

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 13:55:59.33 ID:ODWSD4PY
下野国那須家には、党七騎(那須七党)と称する旗本が有った。いわゆる大関、大田原、芦野、福原、
千本、医王野、岡本である。中でも大関右衛門佐高増は智謀に優れ、七党の中でも抜きん出て、那須家の
柱石とも成っていた。しかし先年の小田倉原の合戦に先陣を切って手柄を立てて以来、党の他の輩からの
高増に対する妬みが増し、一方の福原弾正左衛門資経(那須資郡那須資胤の弟)の功のみを吹聴するので、
高増はそれが面白くなく、病と称して出仕しなくなった。

那須資胤はこれを怒り、また出る杭は打つに限ると思ったのか、大関の家人・松本美作守を呼び、
密かに高増を殺すように命じた。松本はやむなく了承して黒羽城へ戻ったが、その一部始終を高増へ語り、
御屋形様の命であり、これを断っては即座に誅せられると思い引き受けた、と言った。

大関高増はこれを聞くと
「罪なくして亡ぼされるのは無念である。そもそも殺す理由が不確かででたらめである。」
そう憤り、逆心を起こした。
彼はすぐに常州の佐竹義重に援軍を頼み、鳥山の那須資胤を攻撃することにした。この時佐竹と、
那須資胤を殺し、その二男である三郎義宗を迎えて那須家を継がせる内約を取っていた。

以後、黒羽の城に立て籠もって三年間、すなわち永禄六年の三月下旬より永禄九年夏まで、鳥山と
何度も繰り返し戦った。

(関八州古戦録)

大関高増の逆心について



506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 23:41:31.19 ID:TJDlXupl
黒羽城の芭蕉の館(奥の細道の際に芭蕉が黒羽に逗留したためこの名前)
の黒羽藩や大関氏一族の展示を見たら
外様にも関わらず江戸時代を通じて黒羽藩をずっと大関氏が支配していたからか
大関高増についてもここで言われてるほど黒くない印象だった。

展示されていた高増の伝記
・高増は大関弥五郎増次の養子であるが実は大田原資清の嫡男であった。
増次が戦死し、ほかに子供がいなかったため増次の父親の宗増は資清と和議して高増を大関氏の後継とした。
大関高増は資清が死んだ後は那須氏の重臣として政治的・軍事的に活躍した。
・>>503同様、活躍を妬んだ那須資胤により殺されそうになったため佐竹と組んで対抗。数年後資胤と和睦。
・和睦後、高増は未庵と号し、高僧・大蟲宗岑と問答。
自分自身を運命に翻弄されそうな存在とし、人生のあり方の悩みを宗岑に吐露したところ
「大切なのは過去ではなく今現在である」と諭される。
・主君の那須資晴に千本資俊・資政親子の討伐を命じられる。
高増は、資政に嫁がせていた娘を離縁されていたため、これ幸いと千本氏を殺害。
・小田原合戦の際、主君那須資晴に秀吉の元に参陣するよう説くが聞き入れられず、息子の晴増とともに秀吉のもとに出仕し、大関氏の所領安堵。

大関氏の城、那須氏の城

2018年09月10日 21:08

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 09:46:44.12 ID:DXJY70FD
天正四年(1576年)、那須家中の重臣大関高増は、大関氏の居城であった白旗城を出ると、那須宗家の居城烏山城の北方に黒羽城を築きここに入った。
この時期の那須氏は白河氏を支援して佐竹と戦う構えを見せていたが、高増は長男の晴増を白河義親の婿養子として送り込むなど
那須氏の対外政策の主導権を握っていた。
その高増が築いた黒羽城は東西を那珂川・松葉川に囲まれた丘陵の上にあり、本丸を中の丸・北の丸・三の丸にぐるりと守られた鉄壁の構えを見せており、
家中における大関氏の存在感を存分に見せつける威容を誇った…と言うか、主家の居城を遥かに凌ぐ那須最大の縄張りを持つ堅城であった。

後に大関氏は主家を出し抜いて近世大名として名を残すことになるのは周知の通りだが、
居城を見るとこの頃には既にどっちが那須の支配者なんだか分からない状態となっていた。
大関と佐竹という内患・外患に挟まれた那須資晴もたまったものではなかっただろう、という意味で悪い話。

なお黒羽藩は関東では数少ない外様大名による支配が明治まで続き、黒羽城は大関氏のシンボルとして廃藩置県まで鎮座し続けた。
一方の烏山城は天保元年(1681年)に那須氏の旧領復帰がなされたが、わずか6年後に改易されて以降二度と那須氏の手に戻ることはなかった。



117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 10:42:39.65 ID:5szqQKC0
那須って大名に復帰できたのか…
そして改易されたのか…

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:04:15.45 ID:v1E6D+e4
>>116
大関高増の名前が出た時点中身見る前にこりゃ酷い話なんだろうな
と思ったら思ったより酷くない?と思ったのは毒されてるのかな
しかし1576時点でコレじゃ関東仕置きより前に秀吉に謁見した時の
大関一党は独立領主ですよって説明にも説得力ありすぎだな



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:04:15.45 ID:v1E6D+e4
>>116
大関高増の名前が出た時点中身見る前にこりゃ酷い話なんだろうな
と思ったら思ったより酷くない?と思ったのは毒されてるのかな
しかし1576時点でコレじゃ関東仕置きより前に秀吉に謁見した時の
大関一党は独立領主ですよって説明にも説得力ありすぎだな

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 03:45:31.02 ID:nRue5DhT
大関家って高増の息子たちの歴代当主がことごとく短命なんだよなぁ。
その下の代でも、嫡男がいなかったり幼少だったりして兄弟で家督継承する例も多いし。

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 06:37:35.62 ID:sJg15PM7
呪いだよ

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 07:41:58.05 ID:l2BXtzEA
大関さんくらいで呪われるならもっと呪われてそうな家系いくらでもありそう

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 11:28:39.24 ID:oZ7p8Ouo
近世大名なんて江戸時代に血筋絶えてる家は幾らでもあるだろ
養子で家が存続してる方が多いんじゃね?

123 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/11(火) 15:25:01.66 ID:LBisfZrC
女系でも分家でも血が繋がってるとこはいいよ
完全に他家の養子の血筋になってる有力大名もよくあるじゃん
家老や家臣の方が本来の家系の血筋だったりとか

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 16:23:30.26 ID:ucgBqjD7
繋がっていたら繋がっていたで伊達順之助のような、らしい子孫も出てくるし
たしか繋がってるよね

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 23:26:22.73 ID:CQSDdH6X
血筋を守るために近親相姦を繰り返してると子供が障害児ばかりになって血筋絶えるってのは生物学的によくあること。
ホモ接合型が増えて劣性遺伝(昨今では潜性遺伝と言うらしいが)の遺伝病が顕在化しやすくなる。
まあ江戸期の大名達がそうだったかは知らんが。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 01:19:48.46 ID:wTVa8PRY
>>121
広域はともかく那須地方での呪われ度は高そうだがな>大関家
まぁ大関さん那須家中で好き放題してるけど外敵に対しては心強いから
単に排除すればいいかって訳にもいかないのが困りどころか
ただ大関にとって邪魔者扱いされると外敵との戦闘中に謀殺されそうなのが怖いが

【ネタ】大田原資清と大関高増の遊び場

2018年04月22日 21:15

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 12:37:45.92 ID:vI63xWF0
逸話ではないんだが
地元の武将でググってたらこんなのが出た
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1515325.png
oozeki.png

大田原資清大関高増の遊び場w

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 12:41:45.23 ID:vI63xWF0
検索結果でググった単語に合わせたのが出るサイトがあるんだが
マイナーな武将故に、そんな検索結果で出てしまった結果と言うべきか


那須神社 御由緒

2018年02月15日 15:51

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 16:16:25.84 ID:G4VisRUK
その千石で兵士を養うんだから問題ない
戦巧者が育てりゃ強いだろ
千石の価値は出る

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 18:08:08.77 ID:4cURkP3I
栃木県大田原市の那須神社に行ったら、こんな由緒書が掲示されていた。
地元の大田原市民にとっては大関高増は神への崇敬の厚い立派な殿様なんだろうな。
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1463195.jpg
1463195.jpg

那須神社 御由緒
第十六代仁徳天皇の御代下野国造奈良別命が国家鎮護のため金瓊(黄金の玉)を埋め塚を築き祠を建て
天照皇大神 日本武尊 春日大神を祀ったのが濫觴と伝えられています。
(中略)
中世那須氏がこの地に勢力を広げ那須氏代々の氏神とし崇敬厚く特に与一宗隆ゆかりの社で四国屋島において扇の的を射る時
当社八幡大神湯泉大神を中心に念じ名声を添加に博したので社殿を再建し神意を慰め祭った。
その後大関氏那須氏に代わってこの地を領する代々の城主大関家の氏神として尊崇殊の外深く中でも
大関高増清増始め累代の城主しばしば神殿を再建修繕して今日に至て居ります
現在の楼門並び本殿は寛永十七年大関高増社殿の大修繕に成るもので昭和三二年八月本殿並楼門外栃木県重要文化財に指定された貴重な建造物であります
(中略)

平成二一年九月吉日


兄弟の絆

2012年11月19日 19:52

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/18(日) 23:25:33.47 ID:I0cJ4jNX
兄弟の絆


永正18年(1518年)、那須家臣大田原資清大関宗増らの讒言によって失脚し所領を追われた。
そんな資清を救っていたのが故あって僧籍に入り塩谷家の所領にある長興寺の住職となっていた
実兄の麟道和尚
那須家の力の及ばない所で施しを与え、資清は再起への力を蓄えていた。

そして天文11年(1542年)、実に24年の時を経て大田原資清大関宗増を降伏させて長男を
大関家に送り込み復権を果たす。
復権した資清は居城を従来の水口城から龍体山に移すことを計画し、これと同時に追放時の
ゴタゴタで今まで行うことのできなかった
両親の菩提を弔うために新たに七堂伽藍を建立した。

資清はこの寺に世話になった兄の麟道和尚を開山第一世として請うて招き、寺の名前を
兄弟の父の法号「明庵道光」の光の字と、
母の「真芳妙観」の真とをとって「光真寺」と命名して、300石という破格の寺領を与えて
大田原家永代の菩提寺とした。

関連
龍泉寺の事


468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 00:18:26.18 ID:xVwgnoRT
那須家って何でこんな家臣からボコボコにされるの?

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 00:28:58.98 ID:FXD/ktxV
スケキヨ兄とか住職になるまでに泥沼の権力闘争を征したりしてるんでしょ・・・?(偏見)

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 14:23:17.35 ID:wY2zrM6X
長男ってきたない大関だっけ?

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 19:49:59.12 ID:RbQCKCwP
>>466
これを見習った息子達も兄弟が一致団結、那須資胤と戦ったというわけか

城鍬舞

2012年07月08日 20:58

城鍬舞

大田原資清


290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 23:26:48.37 ID:4t36OVTS
城鍬舞


天文14年(1545年)、大田原資清が新たなる本拠地として建築していた前室城(大田原城)が
ついに完成した時のこと。
資清はこれまで城の築城に携わった城下6ヶ村の農民たちを労い彼らを招いて酒宴を開いた。

宴もたけなわ、興が乗ってきた所で酔っ払った石神村の藤兵衛という男が鋤や鍬を持ったまま
奇っ怪な踊りを披露すると
これが会場で大受けしたが、これが領主資清の目にも止まった。
どうやら資清もこの踊りを気に入ったらしくその後、資清は毎年正月になると彼等を城中に招き、
この踊りを演じさせたという。

最初は酔っぱらいの宴会芸に過ぎなかったこの踊りも次第に舞踊として形式が固まっていき、
現在に城鍬舞として伝承され、
現在は栃木県の県指定無形民俗文化財となり、例年10月になると上石上温泉神社に奉納されている。




291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 23:30:22.47 ID:zJGl1MAL
大田原スケキヨさんなのにいい話だと
てっきり農民たち全員殺すのかと思った

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 23:37:59.27 ID:7vQC2XM1
領民に対しては割とフランクで慕われてたりしたんだろうか



293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 23:59:38.97 ID:rKyNG4Yr
那須でスケキヨってw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 00:41:19.54 ID:rJ7C71LD
謀将策士といわれるタイプの人は民虐げるの少ない印象が

損得計算できるわけだからねぇ

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 00:44:18.40 ID:a2+ZtMI9
>>290
てっきり酒宴の後に城の築城に携わった城下6ヶ村の農民たちを口封じのために殺すのかと思ったw

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 00:48:19.17 ID:Gyn7CuHa
大田原資清なんて普通の人は知らないであろう人物の評価が、
ここでは一定しててワロタw


297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 00:54:24.71 ID:6i5dFhg3
ここはいい話スレなんだからそんな身構えるなよw

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 01:53:17.66 ID:qE3zdK9J
そりゃ、まず罠だと疑うでしょwww

主の仇

2012年02月16日 21:50

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/15(水) 21:21:03.57 ID:KVCP1MRl
主の仇


大関高増の罠(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4087.html)の後の話。
那須資晴の公認有っての事とは言えあまりにも大田原三兄弟の陰謀によって
理不尽な死に方をした千本資俊の家臣の中には当然の事ながら不満を持っていた者たちが居た。

千本家臣である月次行安に仕える竹原隆業もそんな中の一人である。
ある日、ついに竹原隆業は主の月次行安に「主の仇を取りましょう」と相談を持ちかけたのであった。

しかし、三兄弟の行いがどうであれ他ならぬ那須資晴の裁定であるので逆らった所で詮なき事である。
月次行安は竹原の計画を聞き出すだけ聞き出すと謀反の兆しありとして首を刎ねて那須資晴に献上した。

月次の行動は主君からは賞賛されたが千本の領民からは憎しみを買ってしまったという。




89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 00:35:07.86 ID:OhInSZXN
栃木県の地名って本に書いてあった

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 01:01:40.62 ID:cJxXb5eY
「月次」を「つきなみ」と読めたら地元民

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 02:27:10.09 ID:kGejJoTs
地元民ではないが読めると思うぞ

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 07:40:49.58 ID:3piWmKWf
読み方は全然月並みじゃないと思う

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 10:03:02.29 ID:uw8zI1Pd
2点

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 11:47:09.41 ID:UgFsHfQU
でも
92>>>林家木久蔵だな

先祖伝来の大筒

2012年01月26日 21:59

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/25(水) 21:40:04.11 ID:O91Yk9sI
先祖伝来の大筒



慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時のこと。対上杉の関東の最前線として東軍が重視した拠点の一つに
大田原城があった。
当時の大田原城主は大田原晴清(大田原資清の孫で大田原三兄弟の末弟である綱清の息子)で
上杉の領内の諜報活動などを行なっていた。

もし上杉が仮に南下して来るとすれば真っ先に危険が迫るのは会津と関東の連絡路でもある
大田原であろう事から
徳川家からも物資や城改築の奉行が入り、急ピッチで備えが進められたが、その時に
徳川軍が持ち込んだ物資に大型の大筒が10挺あった。

大筒10挺は結局の所、使われることは無く関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったが、
それでも大田原城が有事の時に会津と関東の重要な中継拠点であることに変わりはない。
大田原城から徳川軍が去る際に大筒10挺のうち3挺がこれから起こり得るかもしれない「有事」への
備えとして大田原城に残された。


そして時は流れて慶応4年(1868年)5月、ついに大田原城に敵が押し寄せる「有事」が起こった。
大田原城の守備兵はわずか50人しかいない。
だが、こんな事もあろうかと大田原藩は先祖伝来の徳川謹製の大筒をしっかりと使えるように
代々しっかりと手入れしていた。
この時代においては骨董品のようなものだが威嚇程度には使えるだろう・・・


そして官軍に付いた大田原藩の兵は大筒を会津と関東との連絡路をバッサリ断ち切られてしまい
大田原城攻略を急ぐ旧幕府軍に撃ち込んだのであった。




859 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/25(水) 21:57:09.05 ID:kA7Kgmj5
司馬遼太郎の小説にそんな話あったよね。

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/25(水) 22:03:19.40 ID:6fPGxN8r
なんで外様なのに関東から追い出さなかったのか

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/25(水) 22:04:50.56 ID:2+GdgyCD
那須本家は潰したし、大田原ごとき残しといても害はないと思ったんでしょ

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/25(水) 22:36:43.90 ID:gc+kJ1bS
井伊家の先代が現当主の小さいころに関ヶ原で「ご先祖がここで死にもの狂いに働いたればこそ今があるんだぞ」
みたいなことを言ったそうだがそれを言うなら「幕末に主家を裏切ったればこそ今があるのだぞ」
というべきだと思った

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/25(水) 23:08:36.46 ID:zzOSAZRE
>>860
関東って言ったって南東北みたいな場所だったから。

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/25(水) 23:19:28.78 ID:HRvmd4Ig
>>859
あれは、奈良の高遠藩の話だっけなぁ~

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 00:17:55.17 ID:CiqgYKqu
きたない大関さんの話じゃないんだなw

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 00:24:49.67 ID:vMTuV2r3
>>864
司馬遼太郎の「おぉ大砲」の話だったら
大和高取藩の話なんだが
ちなみに高遠藩なら信濃なんだが

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 00:29:22.54 ID:DIQZhpSP
汚い大関さんの黒羽藩は骨董品の大筒じゃなくて超最新式の七連装ライフルで
会津藩の詰所をジェノサイドしたからな。

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 09:15:24.58 ID:P/em+5lE
幕府的にはあの兄弟の利の聡さ考えれば勝算ない東北側に組することなどないのは目に見えてるから
押さえとしてそのままおいとくのはありだと思ったんじゃね

自分たちが東北側になるのはさすがに想定外だろ

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 11:25:10.45 ID:4+Oe1l8f
>>866
300年近く養われた一族が結局、
人一人を脳震盪と聴覚弱化させただけ、の
顛末が、なんか好き。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 12:08:22.52 ID:R3U7wtAC
そんなのに大坂城が屈したんだから
且元はよっぽど撃ちまくったんだろうなやっぱり

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 15:36:53.18 ID:f91n20Yg
>>857
そんなことをしたら義重に怒られちゃうじゃないw

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 17:49:56.00 ID:DrZH7TCm
>>869
あの時使われたのは実際は幕末に新たに購入した大砲
司馬の話は大嘘です

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 18:57:36.62 ID:/l2jziFt
創作と言ってあげなよ小説家なんだしw

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 19:16:41.19 ID:f91n20Yg
司馬遼を本当の歴史と思ってる奴らが少なからずいるのが問題なんだよな
それだけ小説家としての司馬遼が凄い、ということなのか

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 19:19:37.49 ID:Ayo58s3g
昔の物語を一次史料のように扱うのは多いから
未来でシバリョの小説も一次史料となりうる可能性なきにしもあらず

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 19:23:12.89 ID:f91n20Yg
軍記物かwww
戦国時代はともかく、坂の上の雲とかはマジでそうなってそうでこわい

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 19:30:26.64 ID:Xqv0A4M5
高校生の時に燃えよ剣を読んで歴史好きになったっけなあ。
なんというか魂を揺さぶられた。

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 19:52:32.44 ID:/l2jziFt
>>874
あれは史実も創作も取り混ぜて本当にあったことにのように解説する書き方のせいだな
見てきたような嘘をつき、の講釈師としては確かに優秀だが
厄介なことに歴史知詳しくない人はそれが史実だとコロッと騙されちまうw
ここの住人なら大丈夫だろうけど

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 19:55:18.24 ID:+DUTiKga
そう、史実と創作と個人の主観(時に断罪)を混ぜて書く
なまじ文章力があるものだから、違和感を感じない

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 20:25:20.70 ID:5/YdtMoR
司馬さんは今でも大好きだがちょっと見方が片寄ってるかな、ってのは感じるな
まあその片寄った見方が俺は好きなんだが

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 21:08:10.47 ID:FmHkgzur
坂の上の雲はもう40年も前の小説だしな、古典に近い
今現在の研究家や勉強してる人が読めば粗が見えるのは当然だわな
後出しジャンケン的に批判してやるのはちょっと可哀想、そら必勝だわ

天正三年(1575)、薄葉原の戦い

2011年05月09日 00:05

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:10:34.78 ID:2t9a0UkF
抗争を繰り返してきた那須家と宇都宮家であったが、天正三年(1575)、那須資晴宇都宮広綱は薄葉原で激突した。

両軍は川を挟んで対峙したが、那須家の若者たちは戦が始まるのを待ち切れず駆け出した。
これを見た大関高増は大いに怒り、
「戦場において軍法が重大であることは常識であり、皆も知っているはずだ。
抜け駆けは無駄であり戦に負けるもとだ。不忠なことをするな。」
と固く制した為、那須勢は留まった。

対して宇都宮勢の先手は我慢できずに渡河を始めたところ、那須方の野伏は矢衾を作り、散々に射かけた。
宇都宮勢に動揺が走ったところに、那須勢は川を渡り宇都宮陣営に切り込んだ為、宇都宮勢は悉く逃げ出した。
しかし、逃げ惑う宇都宮勢にあって、壬生義雄だけは手勢三百余騎で備えを作っていた。
高増はこれを見つけると
「壬生の動きがわからん。皆、油断するな。」
と留まるよう下知をした。
案の定、壬生は逃げずに那須勢に突撃し、その隙に広綱は退却することができた。

壬生の奮戦は、那須・宇都宮両軍に影響を与えた。
壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。
資孝の太刀の前に出た敵こそ不運であり、彼に次々と斬られ生きて帰る者は無かった。

この合戦の勝利によって、塩谷郡は那須家の勢力下となった。



補足…出典『関東古戦録』の通りの年数・人物にしましたが、内容的に天正十三年(1585)の
薄葉原の戦いのことだと思います
(しかも、元の逸話では千本資俊誅殺と同年とされているので)。なので宇都宮家当主も広綱ではなく
国綱だと思われます。

特に落ちの無い話ですが、格好いい高増兄弟がなんか新鮮だったので…




467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:14:27.53 ID:95KYMaqM
なんとなく那須家強い理由が分かる気がするな
策が目立つあの兄弟でもきっちり戦の何たるかをわきまえてると…。

あれ?大関さんたち文武両道じゃね?

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:20:46.97 ID:cPSN1PUw
>不忠なことをするな。


あんたがそれを言うのかw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:27:09.34 ID:PRMhrxEs
対外戦で余分な負けをつけるのは大関たちにとっても何の利もないどころか身の危険にもつながるわけで。

要らんところで軍法違反して敗因つくるのは奸臣から見ようと忠臣からの視点だろうと不忠だろさw

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:36:45.22 ID:hRh8kYHF
まあ残念ながら下野国の覇権争いって、佐竹と北条の動き次第で領国を蹂躙されてオシマイっていう危うさでもある…。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:41:10.38 ID:TKVBR2+K
那須は辺鄙だからあんま攻められないけどな。

攻めてくる物好きは宇都宮と佐竹ぐらいのもんだが毎度火傷するし。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:58:58.37 ID:voUUrQ8Z
>壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
>岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。

ここがいかにも坂東武者らしくて好きだな
古い鎌倉武者のような異様な負けん気の強さと利害計算から離れた勇猛さが伝わってくる

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:01:38.31 ID:Pk0uFdOn
やっぱり有能な人物だったんだよな

いい方にも悪い方にも

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:02:47.97 ID:4w+ddfVk
那須が強かったのは火山灰の貧しい土壌と洪水の多い土地で貧乏だったから

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:31:40.12 ID:8i1yk1jZ
薩摩隼人がこっちを見ている

高増暗躍

2011年05月03日 00:00

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 23:18:30.15 ID:8RyvYDu7
高増暗躍

那須家分裂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5047.html
↑に関する話。


主君那須資胤に処断されそうになった高増は佐竹義重に助けを求めた・・・というのが大筋の流れであるが、
それ以降の高増は驚くほどの迅速さで資胤陣営の調略による切り崩しにかかった。


まずは那須七騎の内、大関・大田原に工作の必要はない。
福原家はかつて資胤の弟である資郷が入っていたが、資胤の那須家督相続時に資郷が
森田氏に入嗣したので、高増の弟資孝を滑り込ませる事に成功しており、
まだ日が浅く資郷派も残っていたので掌握は完全ではなかったが、福原家はこの戦いで資郷派と資孝派に分裂した。
そして、伊王野家であるが当主資宗の母は大田原資清の娘であり、また前当主伊王野資直
大田原資清と懇意だった事もあってこちらの調略にも成功している。

続いて蘆野家であるが、こちらは那須資胤の妹婿であったものの地理的に那須家に味方しにくく、
去就を決めかねていたが
高増はそれを知るやすぐに駆けつけ、資泰の嫡男に娘を嫁がせることを約束して味方に引き込んだ。
これによって那須七騎で完全に資胤陣営に残ったのは那須を除けば千本家のみで、
あとは割れた福原や、大関家を乗っ取った高増を憎む大関家の古参ぐらいであった。

そして、七騎以外では稲沢家という小さな家があったがこちらは伊王野家とよく行動を共にしていたので
芋づる式に引き込みに成功し、
金丸家も当主義直が資胤に味方する事を決めたが、一門の金丸資満は大関高増の娘を娶っており、
高増が資満に働きかけて金丸家中を混乱させ、結局金丸家も高増に与すものが出始め分裂状態となった。


こうして佐竹家の進行前に那須家は徳俵に足がかかったような状態になってしまっていたのであったというお話。




977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 23:39:52.22 ID:sLafjqqG
ぱっと見の感想:高増汚いな高増汚い。

じっくり読んだ感想:伏線何重も張ってる資清汚な過ぎる。

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 05:48:18.45 ID:I7m/e0oK
資清も高増もあれだけ好き放題やって、長寿を全うしてるのが恐ろしい

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 05:53:10.55 ID:xVeB86Yo
そりゃ保身に成功したんだから当たり前っちゃ当たり前だ

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 07:32:59.94 ID:A4LePwAi
「俺がちょっと怒るとこれぐらい出来るんだぞ^^」って事か。

後々、何事もなかったかのように重臣に戻れたのはこれも理由にあるのかも。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 14:42:03.39 ID:P/RwscX3
この状態でも防衛戦には勝てる那須家

小田倉の戦い

2010年09月29日 00:00

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 23:54:14 ID:iU4/z8Gg
小田倉の戦い


1560年、関東に勢力を伸ばし始めていた上杉景虎に恭順の意を示さなかった那須家は上杉家の同盟相手である
蘆名・白河結城家の侵攻を受けた。
これに対し那須家当主、那須資胤は徹底抗戦を決意し先立って兵を進め白河領内に布陣した。

しかしながら兵は蘆名・白河連合3000に対して那須家はわずか600・・・まともにやりあって勝ち目はないので
那須資胤は佐竹からの援軍を頼むことにした。
当時の佐竹家との交渉役は大関高増。高増は交渉を見事に成功させ、荒巻為秀率いる1000の軍勢、
加えて高増とその弟の大田原綱清率いる100の軍勢が本隊に合流した。
しかしながらまだ圧倒的に不利である。ここで高増は資胤に『佐竹義昭からの言付け』と前置きし策を話した。

高増「地形的には小田倉原に本陣を置き、進軍してきた敵の隊列が伸びきったところを
側面から伏せていた兵が動けば必勝であるとのことです。」
資胤「皮籠原の方が良いのではないか?」
高増「白河城から近すぎます故に側面の兵が崩したとてすぐに後詰めが来るでしょう。」
資胤「なるほど・・・それで行こう。」

こうして資胤率いる600は小田倉に本陣を置き、夜闇にまぎれて大関・大田原・荒巻1100はそれぞれ
側方に展開し伏せるという布陣を取った。
そして翌日、その布陣を見た蘆名・白河連合は動いた。まず、連合軍の内1000が那須本陣に襲いかかる。
那須家も戦には強いので数では劣るが負けてはいない、戦況は互角であった。痺れを切らした連合軍は
更に1000を那須本陣の攻撃に当たらせた。
こうなると流石に那須本陣も苦しくなってくる、しかしまだ側方に伏せた軍勢は動かない。
ついには資胤本人も負傷するほどの大乱戦となり、弟の森田資郡が辛うじて支えているという有様であった。

資胤「おのれ・・・謀ったな高増!わしでここで自害する、あとは頼むぞ資郡!」
資郡「おやめ下さい!ここで兄上が自害すれば総崩れですぞ!」

こんなやり取りまでされる絶体絶命の窮地に本陣が追い込まれたところでようやく大関・大田原・荒巻が動いた。
すっかり隊列が伸びきっていた連合軍は崩れ始めるが、蘆名にはまだ動いていない本隊の兵がある。
そこで遅れていた千本資俊率いる100の軍勢が怒涛の勢いで蘆名の本隊に迫った。

蘆名「なに・・・まだ伏兵が?これは迂闊には兵を進ませれぬ、退けー!」

実はただ千本の軍勢は遅れてやってきただけであったのだが警戒した蘆名勢は進軍出来ず撤退を始めた。
こうして小田倉の戦いは那須軍の勝利に終わったのである。しかしながら資胤は納得がいかない。

資胤「高増!あの動きの遅さ・・・貴様一体どういうつもりだ!」
すると高増はいささか呆れた様子でこう答えた。
高増「遅れた?遅れたのは資俊殿でございましょう。私は那須家の勝利のために時期を待っただけです。
それによく引き付けねば作戦の意味がございませぬ。」
資胤「抜け抜けと・・・わしが討たれるのを待っていただろう!」
高増「何をおっしゃいます・・・被害も最小限で奥州勢を破ったでございましょう?那須家の勝利でございますぞ。」
資胤「何故蘆名を追わぬか!」
高増「それは無理です。蘆名の本隊が無傷なので深追いは危険でございましょう」
資胤「・・・」


正論といえば正論であるが資胤のこの時感じた高増・・・ひいては佐竹家への不信感は拭われることはなかった。




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 23:59:01 ID:72ZG448q
さすがは冷血動物の大関さん

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/28(火) 00:41:28 ID:JRAHBZqz
大関高増ってやっぱり人を見下してるよね。

遠謀

2010年07月21日 00:00

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:14:13 ID:Z299spqA
遠謀


天文19年(1550年)当時、那須家の当主は那須高資という人物であるが那須家家老、大田原資清は
高資の弟の那須資胤に家督を継がせたいと考えていた。
というのも高資と資胤は別腹の兄弟であり、資胤の母は大田原資清の娘であったので外戚として
影響力を今以上に増したいと思いがあった。

そんな資清の元に思わぬ来訪者があった。敵対しているはずの宇都宮家の家老、芳賀高定からの使者である。
高定は高資を亡き者にしたいという思いがあったが、家老でありながら同じく高資の事を疎んじている
資清が話に乗る可能性に賭けたのだ。
しかしながら高定の使者からの高資暗殺の企みを資清は断る。

ただ、資清も謀反人にはなりたくないだけでこの話を面白いとは思っていたようだ。
大田原城に那須資胤を招くと高資の家中での評判の悪さを挙げて、遠まわしに高資排斥を提言したが
資胤はこれを断った。
不発に終わったのでやむなく資清はこの場では高資の暗殺をしつこく薦めることはしなかった。

この動きを察知したのが芳賀高定だった。
高定は揺さぶりをかけた。すなわち「那須資胤、大田原資清両名に翻意有り」という情報を人づてに
高資に直接流したのである。
もちろん高資は激怒したが既に家中での権限をかなり掌握していた資清に手を出す事の危険性は
理解していたので資胤を排除することにした。
すなわち高資の名代として資胤を熊野参詣に送り出し、その道中に資胤を暗殺するというものである。
家老の興野氏の提言によって上那須の将は資清の息がかかっている可能性が高いことから
下那須の将から刺客が選ばれた。

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:16:20 ID:Z299spqA
だが暗殺を命じた将もまた高資に不満を持っていた。資胤を殺したと偽って千本資俊の元に匿わせたのである。
兄の補佐をしたいと思っていた資胤もこの事態に愕然とし、ついに高資を憎むようになり高資暗殺を容認した。
ここに全てにお膳立ては整った。

まず、芳賀高定が動く。
千本資俊に使者を送り、貢物を贈ったうえで芳賀領の一部譲渡を条件に挙げ、高定暗殺を頼み込んだ。
資俊も資胤の許しはあれども資清の勝手な行動から生まれた事態なので実行を渋っていたのだが、
欲が勝ったかついに暗殺を実行に移すことになった。

そして天文20年(1551年)、千本資俊は千本城に酒宴に招いた那須高資が酔ったところを襲撃。
高資は酔いながらも奮戦したがついに力尽き千本家臣に討たれる前に自害して果てた。
逆臣となった千本資俊を討つべく、那須家臣が千本城を包囲したが死亡したと思われていた那須資胤が現れ動揺する。
結局のところ、強硬路線の高資に内心で反発感情を持っていた将は少なくなかったため、
包囲していた将は次々と戻ってしまう。

翌日、那須家諸将が集まり会談が持たれたがそこで決まったのは
「一、高資は病死した事とする」
「二、資胤が家督を相続する」
「三、千本資俊に咎めなし」

という事であった。
それを抜け抜けと提案したのが全ての元凶となった大田原資清その人である。
こうして自らの手を汚さすに全てを思い通りに動かすことに成功したのであった。




975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:19:48 ID:jln7BGp+
黒い。実に黒い。
しかし那須がらみはホント、こんな話ばっかりだな。

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:25:02 ID:oX+2Q6ey
揺さぶりをかけたつもりがいつの間にかより質の高い策にするべく協力していたでござる。

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 21:25:11 ID:SOz0zHT1
>>972
>もちろん高定は激怒したが
これは高資の間違いかな?(修正済)
しかし酷い謀略合戦だな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 22:38:51 ID:m8VmF3N5
大関はきたな・・・おっと違った。茄子さん家は家をあげて謀略を競ってる感じがする。

>>970
顔文字はいいけど(それでも読みづらい)最低限顔文字の武将が誰だか書けよ。
971があるから義光って想像できるけどさ。

981 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2010/07/19(月) 22:40:50 ID:T0bDsZ3K
那須一門は何やかやで子孫を遺そうとする本能に長けている印象。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 00:20:57 ID:eJQ0rfND
「一致団結」という言葉と最後の最後まで無縁だったな、那須家

主に3人のせいだが

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 00:33:13 ID:GRDJm0kb
芳賀さんもけっこうダーティなことやってるんだけど
ヒールイメージが無いのはやはりお家第一だからか

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 00:42:36 ID:yPFAxmM1
>>983
「宇都宮家を何とかしたい!」という所はぶれないからな、芳賀。

一方の大田原党は私利私欲が常いかなる時も優先されてる感じ。

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 01:32:46 ID:3Fw0+8hP
スケキヨさんは怖いな

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 18:46:42 ID:DNR6DCn4
>>972-973
読んでたら頭がゲシュタルト崩壊を起こした。

大関晴増の転変

2010年06月07日 00:00

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 11:54:07 ID:LDS3bnC0
大関の話を投下すべきなんだな!分かった



天正の頃、大関高増の長男、大関晴増は父の外交手腕によって子の無かった白河結城家当主である
小峰(白河)義親の婿養子として迎えられた。
これは高増の人生の中でも会心の外交成果であり、ゆくゆくは晴増が家督を継ぎ白河結城にも
大関の影響力が及ぼせる・・・はずだったのだが

しかしながら晴増の運命はにわかに暗転する。「鬼義重」こと佐竹義重による白河結城への本格的侵攻が始まったのである。
晴増も白河結城の将として奮戦はしたものの天正7年(1579 年)、ついに白河結城家は佐竹の圧力に屈した。
そこで義重の出した和睦の条件というのが「私の次男義広を養子に迎えろ」というものであった。ようするに乗っ取りである。
必然的に晴増の白河結城の家督相続の話は無かったことになってしまった。

高増「/(^o^)\ナンテコッタイ 」

高増の野望、潰える。だがもっと立つ瀬が無いのは晴増の方。
当時、大関家の家督は既に弟の清増が継いでいたので実家にも戻るに戻れなかったのだ。
しかしながらここで意外な人物が救いの手をさしのべる。

義重「お前、いい働きしてたな。佐竹家で働かないか。」

晴増の将としての働きを評した佐竹義重から仕官があったのである。
晴増もこれを快諾し以後、佐竹家の将として時に前線に立って戦い、一番槍を挙げるなど義重の見込んだとおりの
男である事を示した。


278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 11:55:05 ID:LDS3bnC0
しかしながら天正15年(1587 年)、実家の家督を継いでいた清増が急死する。

高増「あの~晴増返してもらえませんかね?」

義重も佐竹の息がかかった晴増が大関の家督を継ぐことは悪くないと考えこれを承諾。むしろ積極的に支援した。
こうして晴増は10数年ぶりに実家へと帰ることになった。

時は下って天正17年(1589年)、伊達政宗が岩城常隆と共謀して白河に攻めて来た時、佐竹軍が迎え撃ったのだが苦戦していた。
そこに佐竹の援軍に現れたのは那須家。先陣には大関晴増の姿があった。
なんだかんだで撃退に成功した佐竹軍。その後、義重も久しぶりに晴増と再会を果たした。

義重「やはりお前はいい働きをするな。どうだ?5万石で?」

まぁ冗談だろうが義重はこんな事も言うぐらい晴増を買っていた。晴増も当然、断りを入れるのだがそこで晴増は意味深な発言を残した。


晴増「いずれ『独立した大名』になりたいですので(ニヤリ」
義重「・・・?」


この翌年、公言通りに大関家は独立を果たす。那須家の改易と引き換えに。



やっぱり息子もアレだったというお話




279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 12:02:48 ID:UTaIEz54
親父のところに戻したからこうなったんだ

汚いな高増汚い

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 13:49:35 ID:LrxMB8hN
>>278
折角佐竹家で浄化されてきてたのに元の家に戻るから…

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 14:41:49 ID:+TWppsEP
大関さんチームを同じ時代の北信濃の某一族と総取り替えしてみたい

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 15:00:53 ID:NqhumvbK
武勇に長けた大関とか性質悪すぎる…

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 15:11:36 ID:LrxMB8hN
大田原さん家には大阪の陣で首級挙げたりする武闘派が普通にいるから困る

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 16:00:45 ID:UTaIEz54
切れ者揃いなのに那須家の為に役に立ったかと言えば・・・

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 17:06:52 ID:olYOHxP0
那須家の為じゃなく自分のため!!!!!

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 18:02:06 ID:Kmds25KX
石高制が佐竹家に導入されたのは、小田原征伐後、
佐竹が羽柴秀吉の全国支配体制に組み込まれてからだし、
義重は立場上でも、財政的にも、万石以上の土地を与えることなどできなかった
・・・なーんて言ったら野暮だね。

悪魔の囁き

2010年05月09日 00:00

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/08(土) 21:08:26 ID:aH+MF/Ne
悪魔の囁き


永禄7年(1564年)下野国の小領主、塩谷義孝は居城の川崎城で就寝中に賊の襲撃を受けていた。

義孝「ば、バカな!守備の兵は・・・木村は何をしておる!?」
家臣「木村和泉どのの手引きにより敵が侵入しております!」
義孝「そんな・・・何故だ・・・」

これは義孝にとっては全く信じ難いことであった。
木村和泉は義孝が一番信頼を寄せていた家臣であり、川崎城の守備を任せていた自身の右腕とも言える存在だったのである。
まさかの裏切りに川崎城は為す術無く陥落し、義孝も討死した。

賊の正体は義孝の実の弟、塩谷孝信の刺客。
親宇都宮家の義孝に対して孝信は親那須家の姿勢であり、以前より両者の仲は悪化していた。
そして、孝信が那須家寄りの考えになったのは那須家重臣の娘を娶ったことにあった。

大関高増「 私 で す ^^ 」


兄弟の仲を分裂させ、木村和泉にあらぬ想いを抱かせた犯人が彼であるかまでは定かではない・・・




637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/08(土) 21:16:16 ID:6/5S/ciy
大関高増キター
俺は木沢とかこういう人物ばっかり好きだな

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/08(土) 22:49:12 ID:z1t3y4yq
>636
流石は大関さん。安心のクオリティ

そろそろちょっと良い悪いスレの四天王を決めておきたい気分

大関高増の罠 最終章

2010年05月06日 00:01

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 11:08:51 ID:BSrIfwJF
大関高増の罠 最終章


天正16年(1588年)、大関安碩(高増)と長男晴増、大田原増清(三兄弟末弟、綱清の跡継ぎ)は
豊臣秀吉と謁見すべく聚楽第を訪れていた。
機を見るに敏な大関一党は九州を平定するなど日の出の勢いの秀吉に取り入ることは
間違いなく利になると判断したのである。
秀吉は一早く訪れた大関一党を歓迎し、特に大田原増清には「出雲守」を与え、
羽織を与えられるなど見事に取り入ることに成功した。
ところでこの時の大関一党の名目は「那須家家臣」では無かった。それぞれ独立した地方領主であると
自身の立場を説明したのである。

そして2年後の天正18年 (1590年)、ついに秀吉による北条征伐が開始される。
しかしながら那須家当主、那須資晴はここに至ってもまだ秀吉への謁見を渋っていた。
那須家は北条家に対してそれなりの恩義を持っていたのである。
大関一党らが引っ張る親秀吉派には資晴以外の殆どが付いた。もはや北条家に勝ち目など無いことは明らかである。

同年4月27日、ついに福原資孝、伊王野資信、蘆野盛泰、千本義政、大関親子らが秀吉の元に参陣した。
だがここで大関親子以外の諸将は秀吉の怒りを買っている。あまりにも決意表明が遅すぎた。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 11:11:10 ID:BSrIfwJF
福原資孝(兄者に増清め・・・抜け駆けしおったな。まさかもう秀吉に謁見を済ませていようとは・・・抜かったわ。)

大田原三兄弟の家の内、福原家だけが大名になれなかった理由はここににあった。
一応、所領は認められたものの福原家2600石、千本家2300石、蘆野家1100石、
伊王野家に至っては735石にまで所領を削られてしまう。
一方で大関家は13000石、大田原家は7900石にまで加増されるなど優遇措置を受けている。

さて、那須資晴はというと家臣たちが勝手に謁見を済ませる中でまだ秀吉への参陣を迷っていた。
秀吉への参陣に訪れたのはなんと北条家が降伏した後で有った。これはあまりにも遅すぎて那須家は
8万石の所領を没収されてしまうのである。
こうして大関家は小大名として独立を果たすのである。

後に哀れに思ったのか大田原晴清が秀吉に那須資景(資晴長男)を秀吉に謁見させ罪状を謝すると
秀吉も5000石での那須家再興を許可した




関連
残された妻・嶋子は秀吉のもとに差し出され・・・
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4101.html

続・大関高増の罠

2010年05月05日 00:00

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 20:13:00 ID:YZCiAKdB
続・大関高増の罠


天正13年(1585年)の年末頃、那須家の重臣、伊王野資信は大関家の侵攻を受けていた。
侵攻の口実となったのは黒羽城(大関氏居城)に程近い伊王野領内に新たに築いた前田弾正館にあった。
大関安碩(高増)はこれを「伊王野家による大関家への侵攻の前触れ」として伊王野攻めを決意、侵攻を開始したのである。

伊王野家からしてみればこんな事(大関高増の罠 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4087.html)をする人間を
信用する事も出来るハズも無いので
備えの意味も有ったのであろうが高増を目の前にしてこれはあまりに軽率な行動であった。
前田弾正館の建築を逆手にとって伊王野への侵攻のきっかけを掴んだのだから・・・

こうなれば老練な高増の独壇場である。那須七騎で那須家に継ぐ領地を動員を誇る伊王野家であったが
大関家と婚姻を結んだ蘆野盛泰なども出撃こそしないものの伊王野領近くをうろつくなど怪しげな動きを見せたために
兵力分散を余儀なくされた状態で大関勢との戦となった。
こうして有利な状況を生み出した高増は大関清増(高増次男)を派遣。結果として伊王野家は戦に敗れた。


戦後、伊王野家は3000石余りを大関家に奪われ大関家の那須家中での権勢はますます高まったのである。
もはや好き放題であるが気づけば那須家中殆どの家に高増の息がかかっており、主君である那須資晴です
ら大関を止める術を持たなかった。




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 22:29:55 ID:d0ac5fRD
松永弾正も真っ青の大関クオリティ

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 23:02:15 ID:ebTInSN8
大関さんの所領は何処だったん?

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 23:13:18 ID:YZCiAKdB
>>548
昔の黒羽町の辺り

550 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/04(火) 23:36:06 ID:bt1H8Ynh
大関はんぱねっす

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 00:47:56 ID:XANsgSOK
本当に三兄弟は腐れ外道どすなあ

大関高増の罠

2010年05月03日 00:02

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 13:16:14 ID:CRgJAFZY
大関高増の罠


天正13年(1585年)12月、那須家重臣、千本資俊・資政親子は軍議を開くという事で
同じく那須家重臣の大関高増に滝の太平寺へと招かれていた。
先に着いたのでしばらく待っていると大関もやや遅れて太平寺に現れた・・・軍勢を引き連れて。

大関高増「わが主、資晴様の命により千本資俊・資政両名を討ち果たす!者共、かかれい!」

申開きをする暇もなく千本親子はあっという間に討たれてしまったのである。30年以上に渡って那須家に仕え、
度々佐竹を退けるなどした老臣の呆気ない最期であった。
しかしながらこの千本親子には謀反の兆候などの怪しげな動きは一切なかった。ではどうやって
主命を取り付けた上で千本親子を謀殺したのか?

大関高増には千本親子を憎む理由があった。実は千本資政は大関高増の娘を娶っていたのだが
姑との折り合いが悪く離縁させられていた。
後々、千本家に外祖父として影響力を及ぼせると踏んでいた高増にとってこれは全くもって面白くない事で、
高増は策謀を巡らせて千本親子の排斥に乗り出したのである。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 13:17:14 ID:CRgJAFZY
まず、高増の策に二人の弟(福原資孝、大田原綱清)が乗る。
次に、千本家に養子として入っていたが、嫡子の存在により冷や飯を食わされていた義政(実家は茂木家)を
味方に引き込む。
更には計画の実行場所として定めた太平寺の住職を買収。
仕上げに高増は那須資晴へと千本親子の抹殺を進言する。もちろん、父の代からの譜代の功臣の排斥に
資晴も難色を示したのだが
千本資俊の30年以上前の事柄まで持ち出し、言葉巧みに不信感を植え付けついには了解を取り付ける。
これで一切の障害を取り払った高増は無罪の千本親子を始末したのであった。

この事件後、手はず通りに千本家の領地の「一部」を義政が存続。そして千本家の領地から800石を切り取り
太平寺の住職に与える(これが報酬である)。
最後に何故か大関高増、福原資孝、大田原綱清ら三兄弟が空いた領地を自分たちの裁量で三等分にし
我が物にするのである。

こうして千本家も大関高増の息のかかった家となり更には自身の領地の拡大までしたのであった。




509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/02(日) 15:13:35 ID:cQTPpmhq
きたないな大関さすがきたない

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 15:14:55 ID:8+kw5bQr
全くあの親子はこれだから

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 18:51:33 ID:CRgJAFZY
大田原三兄弟は揃って外道だから困る。

大田原資清の悪謀

2010年02月03日 00:04

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 00:15:44 ID:A0SB74EK
関東八屋形の一つ、那須家は応永年間に上那須家と下那須家に分裂して戦国期を迎えた。
上那須四代・資親は実子がなく、白河結城家から養子・資永を迎えたが、晩年になって
実子・資久が生まれ、家老の大田原資清に資久を当主にするよう遺言して世を去った。

資清は遺言を守って他の家老たちと協力し、永正13年(1516)、資永を福原城に追い詰めた。
ついに上那須の家臣団が福原城の本丸に討ち入った時、資永の家臣・田川時法が
「資永様は自害された!」と言って攻城兵に白衣の包みを渡し、城に火を付けて消えた。

包みの中には資永の首と、田中城にいるはずの、まだ六歳の資久の首が入っていた。
こうして、上那須家は唐突に断絶した。

「追い詰められた資永の命により、田川が田中城に忍び込んで、資久様を誘拐した。この上は
下那須の資房様に従い、指示を仰ぐべし。」という大田原資清の釈明に、誰もが疑問を持った。
資清が統一那須家の筆頭家老となるに及んで上那須党の不満は爆発し、大関宗増と福原資安が
主君・資房に讒言して、その傍観を勝ち取り、永正15年(1518)、両名は資清を攻めた。
資清は命と引き換えに実兄・麟道のいる長興寺において出家し、越前永平寺へと旅立った。

24年後の天文11年(1542)、突如那須郡に乱入した兵団を率いる将を見て、宗増と資安は驚いた。
「きっ、貴様、大田原資清!どうやってこれだけの兵を・・・?!」
「やぁご両所、お久しゅう。実は永平寺に参拝に来られた太守の朝倉孝景様と意気投合してのぅ。
身の上を話したところ、こうしてご助勢下さったわけよ。」

不意を突いて大関・福原に勝ち、那須家の家老に返り咲いた資清は、宗増の嫡子・増次を殺すと、
自分の長男・高増を大関家の養子にねじ込み、資安を高野山に追放して、次男の資孝を福原家の
養子に押し込んだ。
さらに、三男の綱清に自分の跡を継がせ、次女を那須資房の子・政資の側室に送り込んだ。

この資清の息子たち三人、いわゆる大田原三兄弟が、父に勝るとも劣らぬ悪謀を巡らせ、
那須の実権を握り、幕末まで続く家を輩出することになる。





258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 02:43:27 ID:vgPRIJb4
遠く越前は永平寺に隠遁したの大田原資清が22年後に突如舞い戻って来たでござる。
結構壮大な話だよな。

資清の他家乗っ取りのやり方ってちょっと面白い。長男高増を大関氏、次男資孝を
福原氏に入れて独立させ、大田原氏は三男綱清に継がせる大陸風の末子相続か。

でも3家のイニチアシブは長男大関高増が執っていたみたいだね。


259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 06:19:41 ID:IT+qGobI
>>254
そもそもの資久暗殺も実は資清の差し金?

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 09:43:50 ID:L5TsXL+b
>>259
統一那須家の家老に収まって資房にも重用されてるのを見ると
そう思えてしまうよなw

資房自身は上那須家の相続争いに関しては資久を支持したみたいだけど、
両方共倒れ後にちゃっかり自分が統一那須家を支配してるし、
資清と資房がグルになってる気がしてならないw

大関夕安『雲はみな はらひ果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな』

2009年12月31日 01:18

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 16:35:15 ID:6KgjKYwY
下野の那須家重臣に、大関夕安と言う者がいた。

ある時宇都宮氏の軍勢が那須を襲ったが、那須氏はこれに大勝した。
もうすこしで相手の大将も討ち取れる、と言う時、夕安は追撃に反対し、
あえて宇都宮勢を撤退させた。
時の人々は夕安のやったことが理解できず、

「何故わざわざ逃がすような、不思議な真似をしたのでしょうか?
今回の戦ではあのまま追撃すれば、宇都宮を滅ぼす事もできたのに。」

と不満を持った。これに夕安

「こんな歌がある。『雲はみな はらひ果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな』

今、宇都宮の劣勢を利用して、那須優位の同盟関係を築く努力をする事無く、宇都宮を
滅ぼしてしまえば、我々は小田原の北条と直接に勢力圏を接してしまう。
もし国境を接した状態で強大な北条と敵対してしまえば、我々が那須を保持する事は
不可能だろう。ここは宇都宮を残し、彼らに北条の相手をしてもらい、その間に我々は
軍備を整え家中の紐帯を強くし、準備が整ったところで北条への敵対を宣言すべきなのだ。」

人々、夕安のこの答えに大いに感服したそうである。



ちなみに『雲はみな~』の歌についてだが、通常この歌の意味は
「雲をすっかり払ってしまった秋風を、松に残るさわやかな音として聞きつつ、澄んだ月を見ることだ。」
とされているが、もう一つの意味を後に徳川家康が説明している。それによると

「”雲”とは敵や不利な状況の事、”秋風”とは家臣、味方、優秀な作戦、といった自分たちの取りうる
手段の事である。すなわちこの歌は

『自身の努力や策謀が、敵を討ち悪状況を解消出来うるまで結実するのを待つ事ができれば、
最終的な勝利を手に入れ心安らかに月を楽しめるだろう』

と言う意味を含んでいるのだ。」

目の前の敵を倒し滅ぼすだけでは生き残ることは出来ない。戦国の深謀遠慮についてのお話。




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 17:37:24 ID:sE6J0gmM
大関高増だな。

頭はいいんだが悪いことばかりする事に定評のある大田原3兄弟の長男。
珍しく良い事してるが。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 18:45:39 ID:z7D2qpf0
>>662
というか、こういう視点を持った戦略家だからこそ武功第一の脳筋系武将には
言ってることのイミが理解されず
「正面切って戦わず悪巧みばかり巡らす陰謀家め!!」て、なんとなく
敵味方から疎まれたんじゃなかろうか。


本多正信なぞは同じようなことをやらかした上で
「私は長期的視野に立てないあなたたちとは違うんです! フフン♪」とか
周りの三河武士をわざわざ挑発しまくって、
自分一人で恨み辛みを全て引き受けてから死んで、徳川家と幕府を残したんだろうね

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:10:04 ID:5qafYXL9
丹羽長秀「ああ、あの腸腐れね」

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:11:07 ID:kMbs7ZOj
>>663
ひょっとして本多家改易って親父が遠因なんじゃないか?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:12:21 ID:sE6J0gmM
>>663
いやぁ、違うと思うけどなぁ・・・

悪い話スレになんか書いとこうかな、その内

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:45:32 ID:Q6Rc7Qxy
>>661
こりゃいい話だね。
下野・常陸の小豪族は、対立しつつも連合しないと
大勢力の北条家に呑み込まれてしまうからね。

陰謀家と言われる人は、見方を変えれば
深謀遠慮の知将だったということだね。

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 22:07:50 ID:LJ0oN3Gf
戦わずに済めは何よりだもんな

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 22:07:55 ID:6oALwCzA
常陸下野あたりで常識人を見つけようとするのは難しい


671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 23:34:24 ID:iR0u7DDB
>>669小田氏治「よんだ?」