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平野甚右衛門の墓の土

2017年12月14日 11:18

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:46:09.88 ID:20Bp96OO
平野甚右衛門というのは津島小法師の事で、織田信長の時代の勇士であった。

彼が死んで後、その墓の土を取って飲ませれば瘡疾必ず癒えると沙汰され、人々はみな
これを取って用いた。
ここに、平野の生前、いい交わした朋友が居たのだが、彼が平野の墓へ行くとこのようにつぶやいた

「かつて、あれほど名高き勇者であった其方が、百姓下々の洗米濁酒を墓に受けて、なんという
見苦しき有様になっているのか。」

それ意向、墓の土を用いても瘡疾が落ちるという事はなくなったという。
勇猛の士というものは、死しても性根が強いものだと言うべきなのだろう。

(士談)

この逸話の人ですね
→ちょっぽり甚右衛門


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ちょっぽり甚右衛門

2010年06月20日 00:03

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 15:38:38 ID:QUoYVJA8
ちょっぽり甚右衛門


尾張津島に平野甚右衛門という男がおり、織田信長に直訴して織田家に仕官した。
彼は身長が低かったようで、信長から「津島小法師」(津島のチビ)とか「ちょっぽり甚右衛門」
(チビの甚右衛門)というニックネームで呼ばれていた。
もっとも、彼は小兵にも関わらず馬廻りに抜擢されるほどの勇士であり、どれだけ勇猛であったか
といえば、佐々・前田をさしおいて馬廻りの番付でナンバー1に輝く程の猛将であった。
しかし、血気にはやりすぎたのか天正3年の長篠の合戦において軍令違反を犯し、改易されて
まった。
「武家事紀」には彼を評して「匹夫ノ魁殿ヲトクル勇士」とあるから、スタンドプレーがすぎたために
改易されたのであろう。

さて、織田家を追放された甚右衛門は放浪の末、織田家の宿敵の加賀一向一揆に参加して
自分をコケにした織田家と戦うことに身をささげた。
そして、天正8年に織田家臣・佐久間盛政が加賀尾山城を攻撃した際には、甚右衛門は広済
寺・本源寺等を指揮して戦い、盛政の先鋒隊を三度返り討ちにするなどの意地を見せたのち討
死した。
現在の金沢城の西手下り坂を「甚右衛門坂」と言うが、ここが平野甚右衛門の戦死の場所であ
るとされている。

ところが、実は甚右衛門は無事に逃げおおせたようで、その後は上杉謙信に仕官した。「武家事紀」
「武功雑記」にも上杉家臣時代の甚右衛門の逸話がいくつか残っている。
やがて謙信が死亡すると家督相続をめぐって「御館の乱」が勃発し、甚右衛門は景虎方に味方して
こんどこそ討死したという。

反骨を貫いたちょっとかっこいい男の話。