細川晴元の使い捨て人生

2010年06月21日 00:01

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 21:10:28 ID:RknwqKCW
「細川晴元の使い捨て人生」

細川京兆家最後……の一つ前の当主に、細川晴元という人がいた。
父は細川澄元、第十一代将軍足利義澄の擁護者であり、例の魔法使い志願の政元の養子の一人である。
永正年間の両細川氏の乱で足利義殖=細川高国体制支持派の大内義興に足利義維共々畿内から
追っ払われたため、父の病死により七歳で家督を継いだ時は阿波細川家にて居候の身だった。

さて、この若い晴元を補佐したのはかつて父の有力家臣として仕え、討ち死にした三好之長の子、元長だった。
この頃に中央政界でも政変が生じ、勝利したはずの第十代将軍義殖が高国に京都を逐われて阿波に落延び、
さらにその養子にはなぜか敗れた義澄の次男である義維が収まっていた。
加えて言えば、義殖を追っ払った高国が十二代将軍に擁立したのはその義維の兄である義晴である。

期せずして再び独自の将軍候補を得た晴元は、元長や阿波守護細川持隆とともに四国でじっくりと時を待ち、
大永六年、十三歳のときに高国陣営で内乱が起きると元長らに奉じられて畿内への逆襲を敢行。
やはり阿波から連れ出した足利義維を中心に堺公方府と呼ばれる独自の政権を樹立し、
元長率いる四国勢と波多野殖通率いる丹波勢の奮闘のもと四年掛けて高国と政権の完全奪取の打倒を成し遂げた。



で、そこから早速迷走が始まる。

既に堺公方府は事実上の幕府として機能しており、あとは義維が将軍宣下を受ければ名実共に正統な政権となる。
しかしここで、何を思ったのか晴元は京から逃げ出して近江にいた足利義晴を呼び返すという行動に出た。
要するに、自分の擁立している義維をあっさり捨て去った。理由はよくわからない。

当然これに驚いた三好元長や畠山義堯は強烈に反対、これを疎ましく思った晴元はこの二人も捨てることに決めた。
カードは既に用意してあった。畠山義堯の家臣木沢長政、元長の同族三好政長、そして元長と対立する一向宗だ。
この三枚のカードを使って元長、義堯を騙まし討ちに討ち取り、堺公方府は高国打倒後たった一年で崩壊した。
晴元は足利義維や元長の遺児も殺害したかったようだが、細川持隆が一戦も辞さぬ態度で彼らを保護したため、
さすがに海を渡ってまで征伐するようなことはしなかった。


484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 21:11:29 ID:RknwqKCW
さてこれで邪魔者はすべて消え去り、細川晴元政権は磐石となる――はずがなかった。

有力な武家を葬り去ったことで跳ね上がった一向一揆が、天文元年に各地で騒乱を引き起こしはじめたのだ。
もともと元長を排除できないから一向一揆の力を借りた晴元に、一向一揆を統制できる力など元からない。
なので、今度は法華一揆を利用して一向一揆を鎮圧した。

と思ったら、今度は法華一揆が跳ね上がって天文五年に大規模な騒乱を起こした。
もともと一向一揆を排除できないから法華一揆の力を借りた晴元に以下略なので、
今度は近江六角家と比叡山の力を借りて法華一揆を鎮圧した。

しかしこのまま両宗派と敵対していては民心が安定しないので、四国から三好元長の子、長慶を召し出した。
一向宗とも法華宗とも通交のある彼に宗派間との和睦交渉に当たらせるためで、長慶は期待に応える働きを見せた。

と思ったら、天文八年、今度は三好長慶が(ry
なので木沢長政を(ryと思っていたら、ここで木沢の方がもうひとつ凄い跳ね上がり方を見せた。
彼自身も晴元と諍いが多くなりつつあった所で、どうせなら将軍の身柄を押さえてしまえ、と決起に及んだのだ。
仕方がないのでこれは三好長慶と畠山家臣遊佐長教を使って排除に成功した。

そしてこうなると、もう晴元には最後に残った長慶をけん制するカードは一枚も残らなくなっていた。
どうも、強いものにより強いものをぶつけて排除する形で使い捨てていけば最終的にどうなるかという点について、
まるで理解していなかったように思える。
結果として天文十八年に長慶が細川氏綱方に離反すると、晴元は六角家の支援を得ながらずるずると敗退、
讒言が多いながらも晴元には忠実だった三好政長を見殺しにするに及んで、味方は次々脱落していくことになる。

紆余曲折の末、永禄元年に晴元は当時擁立していた十三代将軍義輝と共に長慶と講和した(実は二回目)
そして嫡男の信良を人質に差し出して家督を譲って隠居する……のだが、彼はまだ諦めていなかった。
人質に差し出した嫡男のことはすっぱり見切りをつけ、影で将軍義輝、六角、河内畠山の各者と連絡を取り合い、
隠居の自分に代わって次男の晴之を名目上の総大将として、永禄四年に反三好の一大決起に及んだのだ。

結果から言えば、この決起もまた失敗に終わった。
決起当初は畠山高政が三好義賢を討ち取り、六角軍が京都を占領する戦果を挙げたが、
それに続く河内教興寺の決戦で畠山軍が崩壊すると六角義賢は三好家に屈服。
最後まで他人の褌で相撲を取った晴元の野心もここに費えた。

ちなみに晴元の次男である細川晴之という人物が歴史に顔を出すのもこのわずか一瞬のことで、
これ以前にもこれ以後にも姿が見えることのない謎の人物でもある。
彼もまた兄と同じく、父に使い捨てにされた一人だといえるだろう。

翌永禄五年、細川晴元は誰に顧みられることもなくひっそりと帰らぬ人となった。




485 名前:sage[] 投稿日:2010/06/19(土) 21:21:50 ID:E/tjJ2RR
>>484
他人の褌で相撲を取った男晴元
細川家に新たなフレーズのついた男が誕生した
個別認識する時便利なんだよな

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 21:55:30 ID:iw3PMJBE
>>484
上野の国立博物館でやった「細川の秘宝展」でさ、
なんで細川家の傍流の傍流である細川藤孝の家が、
細川家の室町時代以前の宝物をたくさん所蔵してるのかと疑問におもったんだけどさ、
こうやって衰退した京兆家から、宝物を買い叩いたり、脅し取ったりしたんだろうな・・・

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/20(日) 09:28:14 ID:Lm4VuGfq
細川晴元って宗滴さんに「人つかひ下手の手本」って酷評されてた気がする。

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/20(日) 10:53:50 ID:TGnfzSHi
>>490
幽斎さんならしれっと持ち去りそうだ……

 ラスボスの(しかも天皇陛下が手植えしただのいう)柿をかっぱらって食おうとするようなハイパーメディア文化人だから

512 名前:505だす[sage] 投稿日:2010/06/20(日) 13:52:10 ID:TGnfzSHi
>484 >490

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2694.html  三斎さまにはこんな逸話がおありでw
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