66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 13:04:30.64 ID:wxwEStN2
天文元年(1532)、摂州では一向宗、土一揆等が右京太夫(細川)晴元の味方をして、三好海雲(元長)を
討ったが、幾程無く、一揆らと晴元の家人たちは不和となり、同年八月四日、晴元随一の味方である
木沢左京亮長政に向かって、一揆の奴原は喧嘩を仕出し、切って掛かった。この時、移動中のことで
木沢方は思いもよらず、木沢の者達は散々に切りたてられた。その恥辱を雪がんと、その日、木沢勢は
泉州堺の東にある浅香の道場を初めとして、近郷の一向寺を悉く放火した。これより和泉、河内、摂津、大和
四ヶ国の一揆等が蜂起し、翌五日、晴元の住居のある堺の庄へ押し寄せた。
これに対して、木沢長政自身が多勢を率いて切って出て。一揆の奴原を悉く追い立て、切りまくって(切マクツテ)
先敗の恥を雪ぎたりとて、大いにこれを悦んだ。その時の一揆の大将は戦場を逃げ落ちて、和州吉野の川西という
所に隠れ居たりと言い伝わった。流石土民の軍、立て掛かる時は強いが、逃げる距離は非常に長い。
同日、摂州の一揆等は池田城へ取り掛かり攻め戦ったが、攻略できず扱いと成って引き退いた。
しかし五畿内の一揆は日を逐って広大に蔓延り、その勢が重ねて堺の庄へ攻め来たらば細川晴元の滅亡も近い、
取り扱い給わるべしとて、晴元は急ぎ、その舅である江州の六角左京大夫定頼へ頼み遣わした。
定頼は同心して、家臣の長原太郎左衛門、進藤山城守、馬淵源左衛門、横山、といった者達を、宗門の本寺、
山科の本願寺に遣わして色々取り扱いを協議したが、本願寺上人(証如)は「今更檀徒に背き難し」と
定頼、晴元の旨を承服せず、その取り扱いも手切れと成った。
長原太郎左衛門は為す方無く、急度思案して、常々一向宗門と仲の悪い、日蓮宗の寺檀に頼んだ。
洛中の二十一ヶ寺と呼ばれる日蓮宗の大寺は皆、この義に同心して、日蓮宗門の檀徒を催た。
この日蓮宗徒等も常に信心深く、本寺の下知とさえ云えば身命をも惜しまぬ、最も頑ななる宗門である故、
本寺二十一ヶ寺のこの催に同心して、洛中洛外の有りとあらゆる日蓮宗の諸檀徒等は悉く蜂起し、一揆と成って
数万の人数が徒党し、先ず直に山科へ押し寄せ、本願寺を攻めると、寺中にも敵の攻撃に備える者達があり、
随分防ぎ戦ったのだが、多勢に無勢であり叶い難く、遂に攻め落とされ、この時八月二十四日、山科本願寺は
忽ちに焼き払われて、金銀珠玉にて飾り立てられた近国無双の大伽藍も、ただ一堆の赤土と成った。
寺中の輩は、上人を始めとして、蜘蛛の子を散らすように諸方へ逃げ散り没落した。
これに日蓮宗の一揆等は大いに悦び帰陣した。
『續應仁後記』
山科本願寺の戦いについて
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 16:15:13.65 ID:vknL+GhC
一揆には一揆ぶつけんだよって考えがなかなか凄いな
68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 16:26:42.35 ID:QgrAJf6x
夷を以て夷を制す
天文元年(1532)、摂州では一向宗、土一揆等が右京太夫(細川)晴元の味方をして、三好海雲(元長)を
討ったが、幾程無く、一揆らと晴元の家人たちは不和となり、同年八月四日、晴元随一の味方である
木沢左京亮長政に向かって、一揆の奴原は喧嘩を仕出し、切って掛かった。この時、移動中のことで
木沢方は思いもよらず、木沢の者達は散々に切りたてられた。その恥辱を雪がんと、その日、木沢勢は
泉州堺の東にある浅香の道場を初めとして、近郷の一向寺を悉く放火した。これより和泉、河内、摂津、大和
四ヶ国の一揆等が蜂起し、翌五日、晴元の住居のある堺の庄へ押し寄せた。
これに対して、木沢長政自身が多勢を率いて切って出て。一揆の奴原を悉く追い立て、切りまくって(切マクツテ)
先敗の恥を雪ぎたりとて、大いにこれを悦んだ。その時の一揆の大将は戦場を逃げ落ちて、和州吉野の川西という
所に隠れ居たりと言い伝わった。流石土民の軍、立て掛かる時は強いが、逃げる距離は非常に長い。
同日、摂州の一揆等は池田城へ取り掛かり攻め戦ったが、攻略できず扱いと成って引き退いた。
しかし五畿内の一揆は日を逐って広大に蔓延り、その勢が重ねて堺の庄へ攻め来たらば細川晴元の滅亡も近い、
取り扱い給わるべしとて、晴元は急ぎ、その舅である江州の六角左京大夫定頼へ頼み遣わした。
定頼は同心して、家臣の長原太郎左衛門、進藤山城守、馬淵源左衛門、横山、といった者達を、宗門の本寺、
山科の本願寺に遣わして色々取り扱いを協議したが、本願寺上人(証如)は「今更檀徒に背き難し」と
定頼、晴元の旨を承服せず、その取り扱いも手切れと成った。
長原太郎左衛門は為す方無く、急度思案して、常々一向宗門と仲の悪い、日蓮宗の寺檀に頼んだ。
洛中の二十一ヶ寺と呼ばれる日蓮宗の大寺は皆、この義に同心して、日蓮宗門の檀徒を催た。
この日蓮宗徒等も常に信心深く、本寺の下知とさえ云えば身命をも惜しまぬ、最も頑ななる宗門である故、
本寺二十一ヶ寺のこの催に同心して、洛中洛外の有りとあらゆる日蓮宗の諸檀徒等は悉く蜂起し、一揆と成って
数万の人数が徒党し、先ず直に山科へ押し寄せ、本願寺を攻めると、寺中にも敵の攻撃に備える者達があり、
随分防ぎ戦ったのだが、多勢に無勢であり叶い難く、遂に攻め落とされ、この時八月二十四日、山科本願寺は
忽ちに焼き払われて、金銀珠玉にて飾り立てられた近国無双の大伽藍も、ただ一堆の赤土と成った。
寺中の輩は、上人を始めとして、蜘蛛の子を散らすように諸方へ逃げ散り没落した。
これに日蓮宗の一揆等は大いに悦び帰陣した。
『續應仁後記』
山科本願寺の戦いについて
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 16:15:13.65 ID:vknL+GhC
一揆には一揆ぶつけんだよって考えがなかなか凄いな
68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/18(月) 16:26:42.35 ID:QgrAJf6x
夷を以て夷を制す
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