23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:20:03.47 ID:A4sSkpRd
相馬利胤が江戸に在府していた頃の話である。
ある時利胤は、仲の良い大名小名を10人余り、また御旗本の小身の人々などを屋敷に招待した。
そこではみな打ち解け、よもやまに今昔のことなど物語していたが、ここで本多出雲守(忠朝)殿が
このようなことを仰った
「私は、自分自身が相馬殿に何事にもさほど劣るとは思っていないが、羨ましいことが1つだけあります。
こればかりは及び難い事です。」
列座の人々は、雲州殿が何事をそれほど迄に羨んでいるのかと問うと、彼は
「しからば、相馬殿は重臣・諸卒は勿論のこと、百姓町人、下々陪従に至るまで、累代相伝の者達であり、
子々孫々、主従の親愛深い関係にあると承っております。
このような親睦は、金銀や知行で得ることはできません。
私のような者でも、明日何事があったとしても、人数・騎兵を相馬殿に劣らず召し連れることが出来ます。
ですがそれは昨今に成って召抱えた者達であり、すなわち私一人が、自身が恥をかかないために
仕えさせた者達なのです。ですから、主人と死生存亡を同じくして、身命を軽んじて働くものは、
千から千五百の中に、良くて7、80、多くて100人というところでしょう。
これでは思うままの合戦など、出来るはずが有りません。
一方で、相馬殿について伝え聞く所によれば、幾度も分に過ぎた大敵と対戦して、一度も城下まで
攻め込ませた事はない、とのこと。こういった事は、主人の武勇だけでは成し得ないことです。
家中上下の心が一致していた故なのでしょう。
相馬殿の配下の千や千五百の人数は、下々までも、存亡の気持ちを同じくして、意地を立てる
人々なのでしょう。
尤もその中にも、臆する者達もいるのでしょうが、それは二百や三百程度といった所でしょう。
とすれば、千のうち6,700、千五百のうち千は、心のままに従うということになります。
そういった軍勢であれば、敵が五千、一万であっても、安心して合戦に挑むことができます。
何故ならば、そのような大敵を迎える時は、いくら知行を与えたからといっても働きを望めず、
しかし旧好の親しみほど、有り難いものはないからです。
関ヶ原の時も、配下には私に親しもうとする者と、親しもうとしない者が居ました。
そうだからと言って、彼らを分け隔てて扱ったわけでは有りませんが、それでも
少しは分けて扱いたい気持ちがありました。ですが、親しまない者を私に親しませるために、
その分を過ぎて所領を与えるということも、私のような小身では、難しいことです。
ですので、所領や褒美を取らせるまでもなく、上下が懐かしみ、親しみ睦み深く人を召し使う
状態ほど、理想的な環境は無いと、この頃そう考えていたのです。」
この発言に座中の人々は大変感心した。
この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
「彼は志が別格な武将であり、只人ではない。流石天下に隠れない御父上(本多忠勝)の業に
続こうとする御仁である。若き者共よ、今に見ておれ。天下に事あらば、彼はきっと人の耳目を
驚かせる働きをされるであろう。」
この
本多忠朝殿は関ヶ原でも高名され、家康公の御感に預かった人であり、その後大阪の陣において
涼しき討死をなさったと、世の美談に成ったことを考えれば、捨てがたい挿話であるので、ここに
記して置くのである。
(奧相茶話記)
相馬家の記録に残る、
本多忠朝についての逸話である。
24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:39:50.21 ID:LBOqjtB8
長いけど、いい話だね
25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:40:34.28 ID:P2BlyUI/
>幾度も分に過ぎた大敵と対戦
ああ、あいつね…
26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:50:03.64 ID:+g8ljOBv
>>25
アレですね。
27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:21:05.84 ID:VaBqG/LL
奴だな
28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:39:10.88 ID:kyiGr4DV
で高名な武士って誰よ?
29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:53:35.61 ID:FP5ZV500
那須、相馬は一騎当千
小田は...(´・ω・`)
30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 01:01:12.02 ID:pWR8nQsB
ぶった切っちゃうが
相馬の殿様は、いま北海道にいるんだっけか
震災のあとも相馬復興や野馬追い存続に尽力してたような
相馬に限らず、いまも殿様と家臣として続いてるところは多いんだろうなあ
31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 04:09:43.58 ID:xklBYn3s
相馬氏は特に700年くらい在地領主として一貫して相馬を支配してきたんじゃなかったっけ
江戸時代の話になるけど、年貢とかに関してもかなり柔軟な制度を作ってた記憶
32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 12:57:10.59 ID:UYFpWIUM
>>30
細川護煕が総理になった時に家老の家に連なる爺さんが殿がやっと天下を取られてとか言ってたなw
33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 14:33:47.48 ID:Ms41/CEE
小田何とかさんが総理になって菅谷と名乗る爺さんが殿がついに天下を取られて、
と号泣してたら海外に移住しなくては
首都が陥落してしまうw
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 14:48:49.48 ID:oMB5PsNs
取り返すまでが小田総理の実力だろ
菅谷官房長の御子息は戦死してしまうわけだが
35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:27:53.24 ID:pn0sfKu+
佐竹なら、佐竹の殿なら…
36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:45:09.90 ID:kfOqjU8h
佐竹さんとこは、完全な与太話じゃないからなぁwww
37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:57:48.45 ID:nCXbk00z
>>34
奪還されるとはいえ何度も陥落して戦場になる首都に住んでいたくないなw
38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 16:17:53.65 ID:/N+KTY3m
>>18
石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理
46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:47:44.51 ID:wcXnoL+X
>>23
>この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
これってこの人?
(`●∀・)
47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:57:43.82 ID:qRBbOEcE
>>46
相馬家だけは死んでもマーくんとは慣れ合わんだろうなあw
48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 01:52:31.95 ID:ahRJfDKC
秀忠が利胤と政宗を酒宴に呼んだときに
「どうだ利胤、政宗から杯を受けては?」って提案したら、利胤が
「無理です。それだけは上様からの命令でも絶対無理です」って言って場を中座したのに
秀忠からは何もお咎めがなかった(最初からそれが目的だった)って話があったよね
いい話とか悪い話に分類できない話だけどさ
50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 09:46:22.98 ID:itxyye5q
>>46
次の間に座ってる身分だから
もっと軽輩じゃないかな