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父には似ざらる者かな

2022年04月13日 17:53

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/13(水) 16:00:40.46 ID:Vd6/BRm7
本多出雲守忠朝という人は、中務大輔忠勝の二男にして、去る関ヶ原合戦でも高名あり、大御所(徳川家康)も
甚だ称賛していた。

例年、出雲守は参勤の折に、大御所に蝋燭を献上していた。大御所はこの蝋燭を「他に異なる」と褒める
仰せがあった。
ある時、忠朝が参府し、晩景に及んで出仕し、在所の鹽肴を献上した所、老中一同がこのように申した
「足下が献上した蝋燭が、御旨にお叶いになった。今回も蝋燭を献上されるのがいいだろう。」
しかしこれを聞いた忠朝は
「その事を知らざる故に、用意しておりません。」
と申した。

本多上野介(正純)はこれを聞くと
「然らば、御納戸に置いてある蝋燭で、間に合わせれば良いでしょう。」と言った。
これに出雲守大いに喜び、その蝋燭を献上した。

さて、忠朝退去の後、大御所がその献上された蝋燭を灯された所、前のものと違い大いに流れた。
これを御覧になって

「出雲の父は武勇のみだけではなく、このような小事であっても、曾て越度がなかったが、
父には似ざらる者かな」

と仰せになった。

新東鑑

本多正純の罠だったのかたまたまなのか



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玉ノ跡七ツト哉ラン有之由

2019年07月16日 15:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 01:34:51.74 ID:Y8qQMC2y
同戦記(『難波戦記』)に本多出雲殿(忠朝)戦死の事がある。

自分の手勢の者を先手に残らず掛からせ、自身も掛け出なさったという。横から撃たれた
鉄砲に当たり、馬から撃ち落とされたという。弾の跡は7つあったとかいうことである。
(玉ノ跡七ツト哉ラン有之由)

先の本多能登守殿(忠義。忠朝の兄・忠政の三男)が御物語りなされたとのことである。

――『烈公間話』



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 07:49:46.14 ID:PycxYtRW
>>262
随分と鉄砲の精度が上がったんだな。

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 10:26:56.94 ID:Df4sL/wN
散弾だろ
甲冑に当たると弾けるようになってる

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 14:56:32.28 ID:gRFLGpaC
前日談の
家康から「お前の父親の忠勝は勇猛果敢だったのにお前ときたら」
と言われた話の方は特にコメントなしか

「”おたぎ”とは何と書くのか?」

2014年06月15日 18:53

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 20:26:44.94 ID:Nz+VFiol
本多出雲守(忠朝)という人が四五年ほど前、上総国の”おたぎ”という所を知行した。
そこを実地検分し、「”おたぎ”とは何と書くのか?」と問うと、里の翁が
「仔細は知りませんが、昔より”小瀧”と書きます。」と答えた

出雲守はこれを聞いて「小を捨て大を取ると古人も言っている。前々はそうであっても
今からは”大瀧”と書くべし!」と申し付けた。このため領主の考えに従い
大瀧と書くようになった。在所の者達も、「確かに小より大が勝る」と言っているとか。

(慶長見聞集)




135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 20:33:30.53 ID:MOyKLytE
愛宕(おたぎ)かとおもった

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 23:24:46.99 ID:yFh4eWdD
>>135
もしその字だったら、地名はそのうち「あたご」に変わっていたに100カノッサ

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 23:29:51.97 ID:PqZO9B7B
ああ、そういえば小多喜は本多が入ってだんだな
息子の代に字を変えたのか

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 00:46:36.05 ID:c8509mK3
えっ、おおたきのことなのか

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 00:53:55.56 ID:6+OL2oYZ
大多喜と非常に演技のいい字でまとまったというオチが付くわけですな。

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 07:22:17.59 ID:7ARKo848
へーあそこ地名変わってたんだ。

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 05:59:35.25 ID:tfFgUliP
やたらと地名に「松」を入れたがる人もいるが

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 08:58:50.51 ID:04L+/68s
>>141
再生工場「松」

「さすが忠朝の子だ」

2014年05月05日 18:08

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 15:25:17.84 ID:CRF45HGC
大坂夏の陣で本多忠朝が討死した時、彼には二歳になる男子(政勝)がいた。

その男子はいまだ御用には立ち難いということで忠朝の兄忠政のところへ引き取られ、
忠朝の家督は忠政の二男甲斐守(政朝)が相続して元のとおり五万石を領した。

ある時、忠政は引き取った二歳の甥に蜜柑をやろうと思って彼を呼んだのだが、
甥はどのように思ったのか忠政の側に来なかった。そのため忠政は蜜柑を甥へ
投げて与えたが、それでも甥は蜜柑を取らなかった。

そこで乳母が蜜柑を拾って甥に「さあ頂戴なさいませ」と言ったところ、
甥は「投げたものは嫌だ」と言った。忠政はこれを聞いて「さすが忠朝の子だ」
と言って褒めた。

――『明良洪範続編』


続き
貴殿の御一言で私めの胸中は開けた


221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 20:58:08.56 ID:llXB0Lk/
ちょっと悪い話スレだから、子供が折檻される話かと
思ったがそうではなかった。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 21:13:59.58 ID:IFd5Lhkm
>>219
最初に受け取らなかったのはなんでかな
毒か・・・とか思ったのかな

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 22:03:21.23 ID:vUnb2zlB
物にはつられない二歳児。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 00:32:47.55 ID:/dH2LL0X
>>219
凄く普通っぽい反応なのに「さすが」って言われるのも何か気の毒だな

本多忠朝「討死しよう」

2013年10月18日 19:03

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 18:01:01.38 ID:b+pXQo94
徳川家康が大坂城を攻めた時、本多忠朝は家康の仰せを受けて向かったところ、
川が前方に流れていて水は深く、城を攻めるには機会が好ましくなかった。

忠朝がこの事を家康に告げると、家康は機嫌を損ねて「お前の父は合戦の時に
山だろうと川だろうと厭わなかった」と言った。

忠朝は口惜しく思って「討死しよう」と思い定めたが、程なく東西が和睦したので
心中穏やかでなかった。しかし、明くる年の夏に再び戦いとなったので、
忠朝は「今度こそ本意を遂げるぞ」と思い、戦って死んだという。

忠朝の朗等は主の遺体をもたれかけて家康の御馬の前を過ぎ、家康はこれを見て
涙を流したということである。(此時忠朝の家臣五人に感状を賜りしと云)

――『藩翰譜』





本多忠朝「人は子孫に幸を遺そうと思うのなら」

2013年08月31日 19:52

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 18:40:52.73 ID:0Kx82jpi
本多忠朝は老臣の春野某に戯れて「武士が力の及ぶ限り高名を立てて大福を得ているのは、
その身一人の栄華を極めるというわけでもない。皆々がこのような太平の時に巡り遭って、
福を子孫に遺そうと思うのは、万人にとって同じ事であろう。其の方もそのように思うか」
と、尋ねた。

これに春野は「その通りの御尋ねでございます。御馬の先の働きも只今の御治世の勤めも
皆御意の通りです。自分の子孫をも潰し、忠義の為に身を落ちぶれさせる者は、
古よりめったにない有り様であると存じます」と答えた。

さらに忠朝は「人々がこのように大切でいとおしい子孫に、よく教えようとしないのは
何事であろうか。多くの人はその身が大禄、高位になると、自分が下賤だった時を忘れて

子孫にも栄華に奢らせてしまい、自身が死んで三年も経たないうちに家風は甚だ衰微し、
老功の家来も散々になってゆく。そんな様子を私は数多く目の当たりにした。

かつて駿府の町人に一子がいた。その者は子のためと一生稼ぎ、万両を重ねて与えて死んだ。
ところが、子は栄華に育ち、万金を宝とも思わず、五年のうちに尽く他人の宝となった。
ついに子は家を売って乞食となってしまった。

これを町人は愚かだと言う人もいるが、武士も多くはこれに似ている。人は子孫に幸を遺そうと
思うのなら、教えが第一なのだ」と言った。この春野には一子がいて寵愛していたので、
忠朝はこのように風刺したのであろうということだ。

――『責而者草(太平将士美談)』




19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/31(土) 22:55:01.32 ID:EnTIpPlY
>>17
鳥居さんとか榊原さんとかの家の未来予想図だな

一つだけ羨ましきこと

2013年04月11日 19:50

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:20:03.47 ID:A4sSkpRd
相馬利胤が江戸に在府していた頃の話である。
ある時利胤は、仲の良い大名小名を10人余り、また御旗本の小身の人々などを屋敷に招待した。
そこではみな打ち解け、よもやまに今昔のことなど物語していたが、ここで本多出雲守(忠朝)殿が
このようなことを仰った

「私は、自分自身が相馬殿に何事にもさほど劣るとは思っていないが、羨ましいことが1つだけあります。
こればかりは及び難い事です。」

列座の人々は、雲州殿が何事をそれほど迄に羨んでいるのかと問うと、彼は

「しからば、相馬殿は重臣・諸卒は勿論のこと、百姓町人、下々陪従に至るまで、累代相伝の者達であり、
子々孫々、主従の親愛深い関係にあると承っております。
このような親睦は、金銀や知行で得ることはできません。

私のような者でも、明日何事があったとしても、人数・騎兵を相馬殿に劣らず召し連れることが出来ます。
ですがそれは昨今に成って召抱えた者達であり、すなわち私一人が、自身が恥をかかないために
仕えさせた者達なのです。ですから、主人と死生存亡を同じくして、身命を軽んじて働くものは、
千から千五百の中に、良くて7、80、多くて100人というところでしょう。
これでは思うままの合戦など、出来るはずが有りません。

一方で、相馬殿について伝え聞く所によれば、幾度も分に過ぎた大敵と対戦して、一度も城下まで
攻め込ませた事はない、とのこと。こういった事は、主人の武勇だけでは成し得ないことです。
家中上下の心が一致していた故なのでしょう。

相馬殿の配下の千や千五百の人数は、下々までも、存亡の気持ちを同じくして、意地を立てる
人々なのでしょう。

尤もその中にも、臆する者達もいるのでしょうが、それは二百や三百程度といった所でしょう。
とすれば、千のうち6,700、千五百のうち千は、心のままに従うということになります。
そういった軍勢であれば、敵が五千、一万であっても、安心して合戦に挑むことができます。
何故ならば、そのような大敵を迎える時は、いくら知行を与えたからといっても働きを望めず、
しかし旧好の親しみほど、有り難いものはないからです。

関ヶ原の時も、配下には私に親しもうとする者と、親しもうとしない者が居ました。
そうだからと言って、彼らを分け隔てて扱ったわけでは有りませんが、それでも
少しは分けて扱いたい気持ちがありました。ですが、親しまない者を私に親しませるために、
その分を過ぎて所領を与えるということも、私のような小身では、難しいことです。

ですので、所領や褒美を取らせるまでもなく、上下が懐かしみ、親しみ睦み深く人を召し使う
状態ほど、理想的な環境は無いと、この頃そう考えていたのです。」

この発言に座中の人々は大変感心した。
この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて

「彼は志が別格な武将であり、只人ではない。流石天下に隠れない御父上(本多忠勝)の業に
続こうとする御仁である。若き者共よ、今に見ておれ。天下に事あらば、彼はきっと人の耳目を
驚かせる働きをされるであろう。」

この本多忠朝殿は関ヶ原でも高名され、家康公の御感に預かった人であり、その後大阪の陣において
涼しき討死をなさったと、世の美談に成ったことを考えれば、捨てがたい挿話であるので、ここに
記して置くのである。
(奧相茶話記)

相馬家の記録に残る、本多忠朝についての逸話である。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:39:50.21 ID:LBOqjtB8
長いけど、いい話だね

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:40:34.28 ID:P2BlyUI/
>幾度も分に過ぎた大敵と対戦
ああ、あいつね…

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:50:03.64 ID:+g8ljOBv
>>25
アレですね。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:21:05.84 ID:VaBqG/LL
奴だな

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:39:10.88 ID:kyiGr4DV
で高名な武士って誰よ?

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:53:35.61 ID:FP5ZV500
那須、相馬は一騎当千

小田は...(´・ω・`)

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 01:01:12.02 ID:pWR8nQsB
ぶった切っちゃうが
相馬の殿様は、いま北海道にいるんだっけか
震災のあとも相馬復興や野馬追い存続に尽力してたような

相馬に限らず、いまも殿様と家臣として続いてるところは多いんだろうなあ

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 04:09:43.58 ID:xklBYn3s
相馬氏は特に700年くらい在地領主として一貫して相馬を支配してきたんじゃなかったっけ
江戸時代の話になるけど、年貢とかに関してもかなり柔軟な制度を作ってた記憶

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 12:57:10.59 ID:UYFpWIUM
>>30
細川護煕が総理になった時に家老の家に連なる爺さんが殿がやっと天下を取られてとか言ってたなw

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 14:33:47.48 ID:Ms41/CEE
小田何とかさんが総理になって菅谷と名乗る爺さんが殿がついに天下を取られて、
と号泣してたら海外に移住しなくては

首都が陥落してしまうw

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 14:48:49.48 ID:oMB5PsNs
取り返すまでが小田総理の実力だろ
菅谷官房長の御子息は戦死してしまうわけだが

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:27:53.24 ID:pn0sfKu+
佐竹なら、佐竹の殿なら…

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:45:09.90 ID:kfOqjU8h
佐竹さんとこは、完全な与太話じゃないからなぁwww

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:57:48.45 ID:nCXbk00z
>>34
奪還されるとはいえ何度も陥落して戦場になる首都に住んでいたくないなw

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 16:17:53.65 ID:/N+KTY3m
>>18
石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:47:44.51 ID:wcXnoL+X
>>23
>この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
これってこの人?
(`●∀・)

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:57:43.82 ID:qRBbOEcE
>>46
相馬家だけは死んでもマーくんとは慣れ合わんだろうなあw

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 01:52:31.95 ID:ahRJfDKC
秀忠が利胤と政宗を酒宴に呼んだときに
「どうだ利胤、政宗から杯を受けては?」って提案したら、利胤が
「無理です。それだけは上様からの命令でも絶対無理です」って言って場を中座したのに
秀忠からは何もお咎めがなかった(最初からそれが目的だった)って話があったよね
いい話とか悪い話に分類できない話だけどさ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 09:46:22.98 ID:itxyye5q
>>46
次の間に座ってる身分だから
もっと軽輩じゃないかな

本多忠朝、神となる

2011年06月13日 00:01

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 20:13:49.54 ID:5BMuyxCm
便乗して神様ネタ(?)

本多出雲守忠朝は平八郎忠勝の次男であり、父に従って参戦した関が原の戦いでは『島津の退き口』に遭遇して、
太刀が曲がって鞘に収まらなくなるほどに奮戦し、「行く末、父親に劣るまい」と絶賛された。

しかし、大坂冬の陣において配置換えの申し出、あるいは深酒による不覚によって大御所家康に「父に似ぬ子息よ!」
と叱責を受けた忠朝は、続く夏の陣において「討ち死にして汚名を返上せん」と覚悟を決めた。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1151.html

天王寺口で毛利勝永隊が、松平忠直・真田信吉・秋田実季ら相備えの隊を蹴散らし突き進む中、忠朝は
「本多出雲守、これにあり。返せ戻せや!」と吠えながら八尺余の鉄棒を振り回し、勝永隊に突っ込んだ。

良き敵ぞ、とばかりに向かって来た騎馬武者二人を馬ごと鉄棒で叩き潰した忠朝は、さらに五、六騎を打ち殺して
その手槍を奪うと、鉄棒と槍でもって敵中を縦横無尽に暴れ狂った。かなわぬと見た勝永隊の中から、
紺地の陣羽織をまとった武者が十匁筒(約18mm口径の大型銃。普通は二~六匁)を持ち込み、忠朝を狙撃した。

弾丸はあやたまず忠朝をブチ抜き、その胴から血煙が上った。が、忠朝は少しもひるまず馬から飛び下りると
太刀を抜き、狙撃した武者の首を斬り飛ばすと再び馬に乗り、さらに鉄棒と太刀を振り回しまくった。

ようやく勝永隊が大坂城内に引き上げたころには、忠朝は二十余の傷を負い、ついに地面に倒れ伏した。
一命を賭して汚名返上した忠朝を、賞賛せぬ者はなかったが、忠朝は
「戒めるべきは酒である。今後、わが墓に詣でる者は必ず酒嫌いとなるべし。」
と、無念の言葉を吐いて息を引き取ったという。

その後、忠朝は酒封じの神様として崇められ、大阪一心寺にある彼の墓には、今も禁酒を誓うノンベエが訪れる。
ttp://www.isshinji.or.jp/event_honda.html
(増補難波戦記及び一心寺寺伝より)

命と引き換えに名誉を回復して神にまで上った話・・・
ではあるが、そんな親父とか古の坂東武者みたいなマネ出来るなら最初からやれ、と思わんでもないのでこちらに。





620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 21:01:38.96 ID:axYSqfbc
親父に批判されながらあれほど槍術の鍛錬積んでたのに
いざ戦闘では鉄棒がメインウェポンなんですか。

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 21:11:01.55 ID:6UftsQfM
>>620
槍だと上手すぎて討ち死にすること無くうっかり生き残ってしまうと考えたのかも。

ご先祖様、己の身命をもって

2010年06月22日 00:00

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 01:54:35 ID:EgyJUrxS
時は慶長二十年五月六日。
戦国時代の完全な終結を告げる大阪夏の陣の最中のこと。

この日の道明寺や八尾・若江の戦いに続き、翌日には豊臣軍と徳川軍の決戦が予期された。
天王寺口の徳川方先鋒大将は浅野長晟が予定されていたが、この日の会戦で少なからず損害を受け、
茶臼山方面へと下げられて代わりに本多忠朝がその任に当たることとなった。
忠朝にとっては念願の先鋒である。
喜び勇んだ忠朝はその夜、天王寺口第二陣のガラハゲ二世こと小笠原秀政の陣へと足を運んだ。

「ねんがんの うちじにのきかいを てにいれたぞ!」
「ころしてでもうばいとる」

兵力はこの正面に展開した徳川軍十五万に対し、豊臣軍は最大でも七万である。
だというのに、杯を交わすこの二人の将は討ち死にのことしか考えていなかった。
もちろん、それには彼らなりの理由がある。二人とも、この大阪の陣の間に拭いがたい恥辱を受けていたのだ。

忠朝は冬の陣の際、主戦線ではなく戦闘の発生しにくい今福に配され、配置換えを具申して家康に疎まれたと言う。
或いは、深酒が祟って合戦に遅参し、激怒した家康に面罵されたとも言う。
小笠原秀政は秀政で、夏の陣において自軍の進軍の遅れから秀忠にその怯惰を諸将の前で面罵され、
信濃の父祖の地死守のためにも生命をはなから捨てた働きをなすことを余儀なくされていた。

果たして翌日、死に物狂いの突撃を敢行する豊臣方毛利勝永の軍と本多、小笠原両隊は正面から激突する。
互いに死の物狂い両軍は一歩も引かない交戦を演じ、結果として本多、小笠原両隊は主将討ち死にという形で
壊滅した。

この時の二人の死は、決して無駄にはならなかった。
結果として家康本陣まで豊臣方の突入を許したものの、討ち死にしてまで身を盾にしたのはこの二人だけ。
家康は涙を流して忠朝の兄忠政に「忠朝の死を無駄にしないように」と命じた。
兄忠政の家系が絶えた後、特に許されて忠朝の家系が少録ながらも大名本多家再興を許されたのは
無関係ではないだろう。

小笠原秀政の系統も度々断絶の危機を縁者の相続許可によって特別に許され、
その温情を受けた上で宗家が絶えた後も次男の家系が唐津六万石を得て老中を出す栄誉に授かった。
その配慮の数々は、父祖の勲功、すなわち秀政が身をもって家康の盾となった故とされる。


ご先祖様、己の身命をもって子孫の危機を度々救うというお話。




906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 02:13:23 ID:GK98L9UA
小笠原の本家は基本的に幕閣出せない家だしなぁ。

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 19:57:40 ID:lpF0lWJY
彼らの奮闘あっても旗奉行は旗を倒した

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 22:14:11 ID:+2uxxZe/
小笠原秀政って家康の影武者といわれている人物だよな?
事実を知ってる幕臣なら小笠原家を無碍にはできんわな。
でもなんで唐津にうつしちゃったんだろ?

909 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/21(月) 22:32:29 ID:DTqHZ9Tv
大失敗した(弱い)大名に正面を預けるって、
危なくないか?

911 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/06/21(月) 22:50:54 ID:GNreA7DL
>>907
本多の面倒くさい爺様「倒れておらん!旗は倒れなかった!」

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 22:55:05 ID:s76c9VdC
>>911
彦左「き!きさま!わしの姓をあんな鷹匠上がりのものと間違えたな!?」

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 23:20:05 ID:5Cc2AET6
数日後、又一と共に死装束姿で彦佐と面会する>>911の姿が…

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 23:43:05 ID:Jj6Ph2uo
>>912
松平家忠「彦左がまたキレよったか・・・」
夏目吉信「フン…やつは三河武士文豪三銃士で一番の小物…」


915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/22(火) 00:02:43 ID:kVq3mY4/
>>912
本多の面倒くさい爺様と言うのは佐渡守ではなく鬼作左でござるよ。
山岡荘八では仲良かったではござらぬか。
許してあげなされ。

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/22(火) 01:28:13 ID:DeyuEhHP
かんちがいも、さくざがしかる

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/22(火) 02:40:42 ID:Bq+62bzK
>>910
本家が小倉。唐津は分家。

小倉藩は九州総目付の役割があるんで基本的に幕閣を出せない。
6代藩主だかが老中を目指して猟官運動した時に藩内が二派に分かれて
黒田藩やらを巻き込む大騒動やらかして取り潰されなかったのは
秀政・忠脩の活躍が大きいかと。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/23(水) 12:53:19 ID:i3aKJLJz
>>909
事前の戦闘計画がどーなってたから分からんから何とも言えんけど、
包囲殲滅を狙ってたとしたら正面は柔らかいほうがいい。
カンネーでハンニバルが正面にガリア人を配置したのと一緒。

935 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/23(水) 15:19:37 ID:+ac/qmHm
肉を切らせて骨を絶つって作戦ですな!