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「武家閑談」から越前少将忠直御事

2023年02月06日 19:59

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/04(土) 23:44:31.35 ID:HC5xTxLS
武家閑談」から越前少将忠直御事

松平忠直公は大坂城落城のとき、一番合戦で三千七百五十の首級をとられた。
家中の本多伊豆守富正の手は百七十三の首をとり、落合美作守の手は四十八の首をとった。
詮議の時、本多伊豆守は「首数は家中第一である」と自讚した。
そこへ落合美作守が近づき「わが手の首数は手前より多い」と相論した。
伊豆守は「われは百七十三、その方は四十八、どこが首数が多いのか」と言うと
落合「貴殿は七万五千石の身上で首数が百七十三、われは一万石の身上で四十八、計算してみたまえ、我の首数は貴殿の首数よりも多い」
御使者の諸星金右衛門はもとは武州松山浪人で、居眠りして柱に寄りかかっていたが、これを聞きくわっと眼を見開き
「美作の言うことがもっとも至極である」と言った。
伊豆守は閉口したがこの遺恨のため、美作を讒言し美作はその年浪人した。
美作はのちに紀伊大納言頼宣卿に召し出され、三百人扶持の役高で落合卜安といった。
これは江戸で浪人をしていた青木八郎左衛門から聞いた話だ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1544.html
こちらの話では讒言のために浪人、までは書いてなかったので



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結城秀康と出雲阿国の有名な話

2023年01月20日 19:36

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 00:14:39.38 ID:2hnP0MBz
武家閑談」から結城秀康出雲阿国の有名な話

慶長年中伏見にて、越前黄門秀康公(結城秀康)のお屋敷に、お国というかぶき女を召し、かぶきを踊らせて御見物なさった。
お国が水晶の数珠を襟にかけて舞ってるのを御覧になった秀康公は
「水晶は見苦しい」と御具足の上にかけていた珊瑚珠の数珠を与え、お国の舞を御覧になった。
秀康公は御落涙され、おっしゃることには
「天下に幾万の女がいるが、一人の女と天下にも呼ばれるのはこの女である。
我は天下一人の男となる願いが叶わず、女にさえおとっているのは無念である。」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6502.html
こちらのウィキペディア出典の話も元は「武家閑談」のようだが、珊瑚珠の話まではなかったので



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 00:52:01.46 ID:OE2713w2
情緒不安定期だな

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 12:06:05.28 ID:tNBITfCz
今なら「女にさえ」でアウトだな
面倒くさい時代になったもんだ・・・

松平忠直配流後の話

2022年06月14日 19:36

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/14(火) 16:47:35.44 ID:e2XuRu8B
続片聾記」から松平忠直配流後の話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13455.html
続片聾記」から「忠直公御乱行の事」
で忠直の乱行の原因となった愛妾・一国について
元和九年(1623年)三月二十九日、忠直が越前から配流された同日、
忠直公の愛妾・一国女を何者かが駕籠の内で殺し、金子を添えて一乗寺の門前に捨て置いたという。
こうして同寺に葬られたと言われるが、大きな石の祠があり、毎年大奥の方から弔いがあるという。
法名は理性院真如観月大姉。
一乗寺の一国塚(上記の石の祠か)には蛇がいつも満ちているという。
また乱行の手先となった小山田多聞の屋敷は奇怪なことが多いため住む人もなく、寺となっている。
寺の庭の沼には石臼などがあるそうだ。石の人切りまな板も蔵の近くに埋めてあると聞く。

なお忠直公は豊後国・萩に配流となったが、ある人が近年豊後に下り、忠直公の御廟所を拝した。
海端に御石塔の辺瑞籠を結び、里人は神として崇め奉っていたそうだ。
里人は「(将軍家につながる方でありながら)なぜ御代参もないのだろう?」と申していたそうだ。



松平忠直の話

2022年06月10日 17:39

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/10(金) 17:05:44.07 ID:EdBkgJFL
朝野雑載」から松平忠直の話
越前忠直卿、さまざまの悪行をされていたが、妊婦の腹を裂いて御覧になることがたびたびあった。
あるとき鷹狩りに出た時に、野で一人の女が摘み草をしていた。
それを見た忠直卿は岩崎大膳に「あの女は妊娠しているとみえる。様子を見て連れて参れ」と仰せになった。
大膳はかしこまって女のところに行き、改めるとまさしく懐妊であった。
大膳は不憫に思い、女に摘んだ草を全部懐に入れさせ、忠直卿の元に戻り
「どうやら摘んだ草をたくさん懐に入れていたようで、懐妊ではありませんでした」と復命した。
こうして大膳のおかげで女の命は助かった。
大膳は忠直卿お預けの後、井上河内守に招かれて客人となったという。



結城秀康の死

2022年06月07日 18:07

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/07(火) 17:57:27.74 ID:OcEhlidc
朝野雑載」から結城秀康の死

慶長十二年(1607年)閏四月八日、中納言秀康卿、越前北の庄城において御逝去なり。(三十四歳)
御家人・永見右衛門、土屋左馬介などが殉死した。
秀康卿は御病中に、お佐の局という内府公がかねてから御存知の女中を駿河に遣わして
「私は病気を今までしたことがありませんので、この度の病で快復できるかは予測できません。
生きているうちにこの旨を申し上げたく局を差し上らせます。」
と駿河城で口上させた。
家康公「我に子供は多いが、秀康は惣領であり、たびたび我の用にも立っていたのに越前一国のみ与え置いたのは、今思うと心外であった。
このたび病気快気の祝儀として二十五万石加増して百万石にしよう。
その方は急いで帰り、この趣きを申し上げよ」と仰られた。
またお手ずから近江下野の内の二十五万石加増の書付けを佐の局にお渡しになられた。
局もよろこび急いで帰っている途中、岡崎の宿で秀康卿御逝去の報が届いた。
そのため駿河にとってかえして直ちにお城に馳せ上った。
大御所が囲碁を遊ばされていたところに局は参り
「中納言様、御養生かなわず御逝去なり」と申し上げたところ、
大御所は大いに驚きなさって、浅からぬ御愁傷のさまであった。
局は御加増の書付を懐中から取り出し、
「大切の御書付けなので差しあげます」と申したところ、
大御所は「女性の身でよく気のつくことだ」と仰られたそうだ。
このことを越前の御家人どもが伝え聞いて
「余計な気の立てようだ」と局をけなしあったという。



結城秀康と座頭

2022年06月06日 15:29

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/06(月) 14:32:15.36 ID:wwC56brm
朝野雑載」から結城秀康と座頭

秀康卿がある時鷹狩りに出たところ、木履をいくつも背負ってよろよろ歩いている座頭がいた。
先払いのものが脇へ追いやったが、秀康卿一向が通っている最中にその盲人が秀康卿の御駕籠に近づいたので、
秀康卿「汝はどこに行く者ぞ」
座頭「われは座頭の会所に参るのですが、今朝雨が降り、道が乾いたため、座頭衆の木履を草履と取り替えて戻るところなのです。
殿様のお通りということで、あそこの藪に追いやられてしまい思いがけず時間を費やしてしまいました。
こうなってはたとえ石籠詰めにあってもやむをえないと行列をつっきったのです」
と泣く泣く申し上げた。
秀康卿が「盲目になるだけでなく、同じ盲人からこき使われて、履き物まで持たされるとは不憫なことだ。
汝が殿様と呼ぶは我のことである。
汝を検校にして領内の座頭を手下にしてやろう」
と仰られたところ、
盲人はからかっていると思い
「殿様はすでにお通りになったでしょうに、嘘を言う方ですな。
たとえ殿様のはからいでも御学問所はさておき、四分衆と肩を並べることも無理でしょう」
とつぶやいて慌ただしく通り過ぎた。
そこで秀康卿はすぐに君命を下し、その座頭を検校とした。
こうして御国中の座頭は彼に礼を取ったという。



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/06(月) 20:44:32.72 ID:sDzb0bcz
目なし鼻なし

結城秀康と朝日重政

2022年06月05日 16:47

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/05(日) 16:39:29.23 ID:cFNiwAIg
朝野雑野」から結城秀康朝日重政

朝日丹波(重政)はもと菅沼に仕えていたが秀康卿の家臣となり、その息子・千助は秀康近習となっていた。
あるとき千助に粗略があったため(火事の時に物を運ぶようにと命じられたが重くて運べなかったという)、秀康卿は「汝は用にたつまじき者かな」と言ってしまった。
千助は「殿に「用に立つまじき」と言われた以上は我が運の末である。一日も長らえてはならぬ」
とたちまち自害してしまった。
それを知った秀康は大いに驚き、丹波に「愁嘆の折ではあるがまかり出よ」と仰られた。
丹波が御前に罷り出ると
秀康「我が「用に立つまじき」と言ったのは決して武のことではなかったのだが、千助がそのように受け取ったのも道理である。
我が一言であたら勇士を失った。汝に対面して罪を謝するに言葉もない。
その方はほかに男子も持たないゆえ、我が愛子・国松をその方の養子として家を継がせてはくれまいか」
丹波「千助は少年とは言いながら、かりそめの折檻を苦にして自害をした以上、それは不忠であるため愁嘆の必要もありません。
それなのにこうして御前に出られ、国松君を養子にいただけるとの御言葉、身に余る幸せにございます。
しかしそれがしは不肖の者なので、おそれながらお断りします」
と何度も断ったが、秀康卿は承知しなかったため、ついに父子の契約をなしたそうだ。



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/05(日) 20:19:52.70 ID:1dRitSW5
お家乗っ取られましたな

「高田」の殺生石

2022年04月05日 16:50

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/05(火) 11:38:08.11 ID:j0gfoA8T
まとめのコメント見たら一国が褒姒や妲己扱い
褒姒も妲己も九尾の狐の化身と言われ、九尾の狐(玉藻前)が殺生石になり玄翁和尚に割られた伝説は有名だが
その破片が全国三ヶ所の「高田」という地名に飛び散ったと言われる
一つが豊後高田で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
この朽網の殺生石も豊後高田まで飛んでった殺生石の破片が70kmほど転がったものだとか
もう一つは美作高田か安芸高田で
最後の一つが越後高田
この忠直の乱行による改易のため、忠直の息子光長は越後高田藩主となったが、41年後に地震で高田が大きな被害を受け筆頭家老、次席家老が圧死
それにより台頭した小栗美作が改革を施行したら反対派とお家騒動となり、幕府裁定によりいったん小栗が勝ったが
館林城主から将軍になったばかりの綱吉が再審して両派に厳罰、越後高田藩は没収されましたとさ

いっそ忠直乱行も越後騒動も九尾の狐のせいにしてしまおう
綱吉も狐が建てた館林城主だったし



「続片聾記」から「忠直公御乱行の事」

2022年04月04日 19:02

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 20:46:46.65 ID:1Ul4dzbi
続片聾記」から「忠直公御乱行の事」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4468.html
とだいたいのあらすじは同じで
松平忠直がある時天守に登ると美人の絵姿が風に舞って忠直の所に来た。
その美人に一目惚れした忠直は家臣にこれとそっくりな美人を探せと命じたところ、関ヶ原におむにという女がいたため、
一国にも替え難い美しさ、ということで「一国」と名づけた。
しかしこの女は罪人が首を刎ねられるのを見ると悦んだため、忠直は死罪に当たらないような者でも一国の前で首を刎ね、気に入らない小姓や家臣も死罪とした。
そのうち首を刎ねるだけでは飽き足らず、平たい石で人の天窓(あたま)を叩き割る、白洲で磔にする、妊婦の腹を裂く、といった悪行を重ねた。
これに対して眉を顰めた、秀康公から仕えている武士をも死罪としたため、家臣たちは毎朝家を立つ時は最期の盃をかわして登城するようになった。

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 20:48:52.87 ID:1Ul4dzbi
忠直の家臣に縣茂左衛門という者がいた。昔年大坂の陣で忠直に供をし、城中に入った十七騎の一人であった。
ある雨の夜、草履取りを供にして歩いていると、向こうから忠直公の駕籠が来たためあわてて平伏したが、
忠直公は「茂左衛門、供をせよ」と言ってきた。
茂左衛門は今度は自分が斬られるのか、と覚悟を決めた。
そのまま城中に行き、白洲に入ったため、茂左衛門は「もはや死は逃れられぬ」といよいよ覚悟した。
白洲は月明かりに照らされ、そこには老若男女の死骸が三十人ほど山のように積み重なっていた。
そのほか死骸がかけられた磔が林立していた。
茂左衛門が観念したところで、忠直公が「からめたる奴原を一々斬り捨て、我が慰みとせよ!」
と言ったため、茂左衛門は「案に相違し、身の逃れる嬉しさよ」とむごいことを思いつつ、連れられてきた二、三人の首を切った。
その後は忠直公に命じられるまま、あるいは袈裟懸けに、あるいは打首、と二十七人を斬った。
この褒美に忠直公から刀を授けられ、虎口を逃れた気持ちで城を出て家に帰った。
すると念仏が仏間から聞こえてきたため、茂左衛門が何があったのか聞くと、親も弟も妹も涙を流しながら
「茂左衛門が忠直公に斬られたと思い念仏を唱えていたのです」と答えた。
茂左衛門も自分の罪業のあまりの深さに恐ろしくなり、後に隠居して道甫居士と号したという。
かれから直に聞いた物語をここに記す。



片桐、勘気を免す

2022年04月03日 17:02

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 13:25:58.33 ID:PZfYpEcu
或る記(難波戦記)に、越前・松平忠直の家臣、片桐丹波守は先に忠直の勘気を受けていたのだが、
大坂夏の陣に際し、この陣に忍んで供をし先手に居た。
この姿を本多伊豆守(富正)が見て、忠直朝臣の前に来て言った

片桐丹波守の事ですが、今、忍んで御供仕り、御先手に加わって居ます。その気色は、今日を最期と
存じ極めた様子に見えます。
御勘気されたまま討ち死にを遂げてしまえば、冥土、黄泉の障りともなり、不憫な事に思います。
それを哀れに思い、御勘気を御免あらば、二世の思い出となると考えます。」

そう、涙を流して訴えると、少将(忠直)は「勘気を免すので、早々に召し出すべし。」と申された。

これにより使番の深澤長左衛門が乗り切って先へ通り、丹波守に斯くと申し渡すと、そのまま旗本へ来て、
馬より降りて兜を脱いで畏まり、しきりに落涙していた。
この姿を忠直朝臣が見られ、「片桐、勘気を免す」と申されると、片桐は頭を地に付け、一礼して
立ち上がったが、「今になって許すとは聞こえないことだ」(只今になり許すとは聞えざる事)と
思っているような気色でその場を退き、馬に乗って駆け出した。

しかし先手の鑓が始まると同時に、兜付きの高名(兜を付けた武者を討ち取ること)して、持参したという。

新東鑑

大坂夏の陣での越前家の一コマ



「芳斎青木新兵衛の事」後半部分

2022年03月19日 14:05

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:41:17.42 ID:yvHy8Bac
可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」後半部分

岡部自休入道は忠直卿の時に町方・郡方・公事方様々の奉行を兼役し出世頭であった。
自休の領地の百姓の女が布施但馬の領地の百姓に嫁ぎ、夫の方は佐渡の方へ用事で行った。
三年たっても音沙汰がなかったため、妻は近所の男と再婚し子供を産んだ。
その後、先夫が佐渡から帰り、妻のことを知り代官所に訴えた。
自休は郡方奉行であったが、「今は待て」と言ったきり判決も下さず年が暮れてしまった。
翌年、舅の方が現在の婿を一族ともども招いたところ布施但馬はこれを知り、自分のところの百姓を侮辱されたと思い
夜中に舅の家の周りに焼き草を積ませて、火を放って一人も残らず殺してしまった。
忠直卿はこれを聞いてお怒りなさり、「この件について訴人あらば黄金十五枚をとらす」と立て札をあちこちに立てた。
この時、但馬の家来の中野長兵衛というもの、かねてから但馬に恨みがあったため、訴人となって恨みを晴らそうと思い、妻に話した。
妻は長兵衛に異見をしたが、長兵衛は聞き入れず自休の方へ向かった。
妻の方は、主君を訴えるのは不義であり、このままでは罪なき子供まで殺されると思い、但馬に夫のことを打ち明け、子供の助命を嘆願した。
こうして長兵衛は但馬に捕らえられ、座敷に押し込められたが、調略を使って夜中に抜け出し、塀を越えた。
そのまま近くの牧野主殿宅に逃げ込んだが、牧野の舅である竹島周防により殺されてしまった。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:42:56.99 ID:yvHy8Bac
この趣旨を聞いた忠直卿は激怒なさり、とうとう布施但馬は自殺した(原文では「事長き故略す」としている)。
このことが駿府に聞こえ、家康公は激怒なさり、ことの発端の自休の進退も極まった(切腹?)。
また周防は訴人を殺したということで但馬の一味とみなされ、駿府において詮議されることとなった。
こうして青木新兵衛に周防の護送の任務が与えられたが、新兵衛は越前府中から三里いったところで
「上意とはいえ、お歴々の方に縄をかけるのは忍びませんので」と縄をほどき、そのまま駿府に連行した。
駿府での吟味に際し、周防は
「但馬は黄門秀康公取り立てのもので、すぐれたる武功も多く、しかも国政を知るものであり、百姓千万人にも替えがたい逸材でした。
もし長兵衛が存命であれば、但馬は処せられたでしょう。
かといって長兵衛は忠直卿に忠義立ていたしたということで殺す名分もありません。
そのため私の粗忽ということにして、長兵衛の首を刎ねたというわけです」
と申し上げ、これを聞かれた家康公は「周防の申すこといちいちもっともである」と赦免された。
このころ、青木を諸人は褒めたという。
新兵衛はのちに加賀藩の前田利常公に奉公して方斎と号したということだ。
また太閤記によれば、小田原の陣の山中城陥落の折、大母衣をかけた武者が搦手から討ち入り、武将の首をとり、太閤の御本陣へ参った。
太閤御覧ありて幸先がよいと金銭を賜ったとあるが、これが青木新兵衛という名だったそうだ。

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:49:41.65 ID:yvHy8Bac
というわけで百姓夫婦のいざこざが不手際のために、どんどんおおごとになってしまった話。
布施但馬の死については

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6823.html
徳川家康「その道存とは誰だ」


にも書かれているが、上の話で秀康に青木新兵衛と間違われた永井善左衛門などが暗殺したことになっている。
しかも冤罪扱いで家康は但馬を是としているようだ。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:53:22.07 ID:yvHy8Bac
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/越前騒動
wikiみたら思ったより大きな騒動だった

前半
「芳斎青木新兵衛の事」前半部分


「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

2022年03月18日 15:53

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:14:49.56 ID:l73Nz6xM
青地礼幹可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

青木新兵衛(方斎入道)は方々へ渡り奉公をしていたが越前少将忠直卿に仕えた。
その経緯であるが、あるとき忠直卿の家臣、永見主膳が息子の着付けを三宿勘兵衛(御宿政友)に依頼した時、一座に居合わせた若い衆が武功咄を望んだ。
以下、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4376.html
「真の武士とは」


とほぼ同じ話で、これにより永見主膳に出入りしていた浪人の青木新兵衛が忠直卿に召し出されることとなった。

なお「真の武士とは」では
永見主膳→狛伊勢守、三宿勘兵衛→阿閉掃部
と名前が違っており、
室鳩巣「駿台雑話」の「阿閉掃部」やそれを出典としたと思われる、
神沢杜口「翁草」の「阿閉掃部(注釈では阿閉貞征の息子)」では、「真の武士とは」と両者の名前が同じであるが
主題である「真の武士」という言葉が出てこないので、ほかの出典があるのだろうか。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:20:32.17 ID:l73Nz6xM
青地礼幹は室鳩巣の弟子であり、師弟で同じ話を書いておきながら両者の名前が違う理由は不明。
青地は加賀藩士であり、青木新兵衛も最後は前田利常に仕えているため、師の間違いを青地が正したのかもしれない。
(「可観小説」では「駿台雑話」評や室鳩巣逝去についても書かれている)
また「翁草」には

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13192.html
中々鬼にて御座候


の、伊達政宗が青木新兵衛の松川での戦いぶりを褒めたところ、
帰邸後、秀康が永井善左衛門と取り違えて永井を褒め、永井が「それは青木新兵衛です」と訂正し
秀康が「まあどっちも我が家人なのだから強く穿鑿には及ばない」とごまかした話もあり、
この時点で青木新兵衛が秀康から認識されていたのなら忠直の時に無名だったのはおかしい気もする

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:23:29.67 ID:l73Nz6xM
ついでに山鹿素行「山鹿語類」の「士談五 剛操」には

青木新兵衛が越前で青木紀伊守(青木一矩)に仕えていたころ、同輩の荻野河内のところで寄り合いがあり
その席で武功話をせがまれた新兵衛が、賤ヶ岳の戦いにおける余呉の湖畔での戦いで、立派な前立ての武者と槍合わせをし、
新兵衛が槍をついたところ武者が退いた、という話をしたところ
亭主の河内が「それはそれがしなり。法斎(新兵衛)の具足や指物はこのようなもので、また胴には槍跡がなかっただろうか?」
と尋ねたところその通りだったため、
河内「よい時分におおせられて満足だ、しかしそれがしは槍でつかれもせず、退きもしなかった、
それだけははっきりと言っておこう!」
新兵衛「いや、たしかに某がついて、そなたは退いた!」
と双方引かず、すっかりみんなの興が醒めたところで、河内の十七になる子供が出てきて
「推参ではありますが申し上げます。そもそも殿軍の折ですから双方とも一騎討ちをなさったわけではなく、
それぞれ味方の軍からあまり離れないように戦ったわけですから、一歩、二歩退いたかどうかで言い争っても無意味でしょう。
そのようなことで議論なさるのは、御両人には似つかわしくないと思います」
と言ったところ、新兵衛も大いに感じて穿鑿をやめ、座中も感じて興を催したということだ。

という主君が忠直ではなく青木一矩で、組み合わせた相手も荻野河内と違うが、似た話がある
時代的には山鹿素行の方が古いが、もしこちらが元の話だとすると、青木新兵衛にとってはあまりかっこうのよくない話になる。

後半
「芳斎青木新兵衛の事」後半部分


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 16:21:39.98 ID:Nc2Sr3bk
それ河内の息子のいい話だな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 20:07:44.51 ID:WPcSNcPa
新書太閤記に同じ話あるんだけど、吉川英治の創作だと思ってたわ

「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。
こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。
五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。
思えば、その方々へ、蔭膳の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」

この人は誠に老いた犬であるとも

2021年11月25日 16:30

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/25(木) 01:34:44.63 ID:6Xq29nX6
(前略。栄華を誇った後北条氏ことごとく滅亡し、関東の諸侍ともに運尽き果て身の置き所もなく行方もなし。
中でも不憫なのは相模国の朝倉能登守といって、数度先をかけ武勇をあげた者が“犬也”と号して
乞食して落ちぶれたことだった)

結城宰相秀康卿は、古の関東弓矢の時節に武の誉れある者を尋ね出して扶持なされた。
清水太郎左衛門入道、大石四郎右衛門入道、山本信濃入道、松下三郎左衛門入道、朝倉能登入道
(いずれも後北条氏旧臣)、この人々は文武に達し、1人当千の名を得た勇士で歳は60,70に及んだ。
過分の知行をせしめ、常に御前に近習し、御自愛浅からず。

(中略)また秀康卿が世に捨てられた老士を召し出されたのは、感じられることと言われた。
秀康卿は仰せになり、「関東侍は馬上で達者を働くと聞き及んでいる。さぞ強馬を好むのであろう」

朝倉犬也(能登守)は承り、「関東侍はあながち強い馬は好みません。
ただ自力に叶う馬にもっぱら乗ります。愚老の旧友に伊藤兵庫助と申して馬鍛錬の勇士がおりますが、
ある時の口ずさびに『大ばたや、大立物に、つよき馬、このまん人は不覚なるべし』と詠みました。
馬下手が強馬を好むのを見ては、『馬には乗らず馬に乗られる』と申すものです。
(中略)
むかしの人も馬鍛錬をしたのか、武者絵などでは馬を飛ばせ走る間に弓を引き矢を放ったと見えます。
つまり馬に乗って遠路を行くのは足を休めるためで、軍中で乗る時とは馬上で弓鎗を役に立てるためであり、
むかしの関東の戦場でも未だ経験しない若者は広い野原へ数多と伴い出て、敵味方と人数を分かちて旗を差し、
弓鎗長刀は各々が得意の道具を持って馬に乗り、馬の心を見るために鉄砲を鳴らし、
矢叫びの声をあげて喚き騒ぎ、時に勇んで進む馬もおり、遅れて退き驚いて横切る馬もおりました。

山へ乗り上げ崖のかけ道を乗り、堀を飛ばせ自由を働くようにと鍛錬し、先陣にぬきんで駆け引きする
達者のように振る舞い、勝利を得ることをもっぱらの嗜みとしました。
早雲(北条早雲)教えの21ヶ条の内に『馬は下地をば達者に、乗りならひて、用の手綱をば稽古せよ』と記します。
侍たる者は馬の口を取らせては一代の不覚、仮にも馬上でも、名利を忘れて乗り方を心がけ、
大将であっても馬の口を取らせては、『馬下手故か弓馬の心がけなき人か』と指をさされます。
(中略。北条氏康の“氏康傷”の逸話について)
馬鍛錬の事は御前に伺候する古の傍輩どもがよく存じております。御尋ねなさいませ」

と申せば、秀康卿は御聞きになり
「犬也も若い頃はさぞ馬鍛錬したのだろう。昔の面影を少し学んで見せよ」と仰せになった。
犬也は承り「愚老は70に及びまして馬上の振る舞いは叶いません。
しかし、貴命を辞してはかえって恐れがあります。御遊興にそっと古を学んで御目にかけましょう」
と用意のために私宅へ帰った。

秀康卿は御見物のために馬場に床をかかせて登らせなさり、諸侍は芝の上に並居たり。犬也は鴾毛の駒(馬)に
黒糸威の鎧を着て星甲の上に頭巾をあて、白袈裟をかけ、いぶせき山伏の姿で出で立ち弓を持ち、郎等1人を連れて
槍を提げさせ馬に乗り、御前近くへしずしずと歩ませ、「軍陣でござる。下馬御免」と申すやいなや、
馬場を2,3返して馳せ巡り、馬場の向こうに築地があったのを敵方として睨み、手綱を鞍の前輪にかけて
股で馬に乗り、弓に矢をつがえて声をかけ、走る内に矢を2つ,3つ放ち、さて弓を捨てて飛び降りると
従者が持つ槍をおっ取り、従者が先立って逃げるのを追っかけ、従者がとって返せば自分は退き、
馬も心得があるのか後を慕って来るのをまた打ち乗り、一目散に走らせて弓手妻手(右手)へ、槍を自由自在に
散らし馳せまわった。

秀康卿は御覧になって目を驚かし、御感斜めならず。犬也召しであるぞと呼ばれると、馬を鎮めて近くへ乗り寄せ、
飛んで降り、御前へ伺候した。その場の御褒美として刀に長刀を差し添えて下されたが、
これに朝倉は「老後の思い出にこれ以上のことはありません」と申した。
犬也入道は老倅の翁だが、鍛錬の道で達者を振る舞うことからすると、若い頃はさぞやと諸人は感嘆した。
この人は誠に老いた犬であるとも諸侍は尊敬なされた。弓馬の威徳は述べ尽くせない。

――『北条五代記

いかにも関東の遺臣を募った越前松平家らしい話だなと



諸人は秀康卿を褒め奉った

2021年09月13日 17:32

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/13(月) 14:35:51.44 ID:mazs0ERa
石田三成らの挙兵を聞き、徳川家康が小山より引き返した時、
結城少将秀康卿は宇都宮の御陣を召し、会津の上杉景勝に対する押さえとして置かれた。

この時景勝は長沼に在ったが、御所(家康)が小山を引き払ったとの情報を聞いて、
彼が長沼を打ち立ち、七万余騎にて江戸を指して切って上がるという内容の雑説がしきりに
流れた。那須七党の人々も、景勝が討って出てきては矢も盾もたまらない事で、とんでもない
事だと日々に騒いだ。

秀康卿は当時二十七歳であったが、勇猛さは御父家康公、御養父秀吉公に似られたのか、
使者二人を景勝に遣わされ、

『この度京都大乱に付き、家康公はこの表を引き払い上洛されました。留守居として私はここに罷り有ります。
安閑として日を送るのは待遠ですので、貴殿と一合戦仕りましょう。
御同心であるのなら、私がそちらに取り掛かるか、又はそちらから此の方に御出馬されるのか、
御返答次第にいたしましょう。』

このように仰せ遣わされた。景勝はこの返事に

『御使、忝なく存じ候。
我らは輝虎以来、人の留守に仕掛たことはありません。御所が御上洛に付き、御留守として貴殿が
御在陣との事ですが、何にしても似合の用事を承るものです。

一戦の儀は、重ねて御所がこちらに出張なされた時に、先手をなさって下さい。
その時、一戦仕りましょう。
只今、御所御留守の間に若き人が居る所に取りかけるような事は、中々思いもよりません。』

と返答した。すると此の頃の雑説はたちまちに止み、諸人は秀康卿を褒め奉った。

近世軍記



521 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/13(月) 17:26:54.04 ID:LSVUugA4
>>520
坊ちゃんはお呼びじゃねぇ
親父が戻ってくるまで大人しく留守番してろ


と、暗に言われてるようにしか見えん。
花の慶次でも秀康が景勝に挑もうとして袖にされるこの通りの話あって秀康が凄く悔しそうに戦するんじゃぁ!って出て行こうとして止められてたけど、景勝にしても面白くないよなぁ

522 名前:羊羹録 ◆cA7oIM8fok [] 投稿日:2021/09/14(火) 12:21:06.87 ID:ytdXkE9W
>>521
景勝・・・百姓一揆であわわ
兼続・・・最上のロートル兵にあわわ
慶次・・・最上のロートル兵にあわわ
秀康・・・余裕
政宗・・・(最上領にいる)ママ大丈夫かな?
小十郎・・・最上も上杉もどちらも潰し合わねーかなー

と言うのが実情

524 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 16:38:24.04 ID:3LbuLjP1
>>522
>景勝・・・百姓一揆であわわ


慶長出羽合戦とその前後、上杉家は二手に分かれて最上領を侵略しながら一揆勢も相手にしてたの?

『当代記』より、越前騒動

2020年09月08日 18:06

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/08(火) 01:11:02.18 ID:wsCVZqJm
越前国の故三河守(結城)秀康が、去る慶長十二年に逝去した砌、家中の年寄七人が金子を隠取したと云われた。

そしてこの事、去年幕府より公事が申し付けられた折、この七人の内の岡部伊予と云う者、江戸へ下って
この事を言上する旨を相催し、美濃国大垣まで下ったところで、「これほどの事が上聞に達するのは如何か」と
当三河守(松平忠直)并びに家中の年寄達が人を遣わし、大垣にて追いつき、かの伊予を呼び帰した。

然れども当年(慶長十七年)、この公事が無事に落着すると、かの伊予は江戸に下り、また牧主殿(牧野主殿助)
と云う者も、あの七人の一人であったが、岡部と同道して江戸に下ると申していたが、どうしたわけか
高野山に直に登ったという。

十月十九日、かの七人の内の久世但馬という者が、屋敷を攻められ生害した。彼の息子は加賀国に有ったが、
この時駆けつけて、但馬と共に死んだ。また但馬の聟も駆けつけて同じく死し、その他、但馬の屋敷に於いて、
侍分百五十人が死んだ。中間小者は、悉く十八日の晩に逃げ出したという。
この時、久世但馬の屋敷を攻めたのは本多伊豆守(富正)であった。これも先の七人の一人であった。

これについて松平忠直は、先ず当座は宥し、忠直より人質を遣わし、本多伊豆の居城である府中に
かの人質を置き、伊豆は北の庄に参り登城した。
伊豆の人数の内、能き者共がこの時二十八人討ち死にした。手負いは四十人余りであったという。
その他寄手は、多賀屋(多賀谷泰経)の者共を始め、総じて二百ばかり討ち死にしたという。

同二十日、弓木左衛門(七人の一人である)が生害した。この屋敷に於いても寄手は三十人ばかり死んだ。
この弓木は、故秀康の時、知行方専一の用人であった。

同日、上田隼人(これも七人の一人)は寄手に理を云い送り、その身ばかり腹を切り、被官たちは屋敷から出した。
そのため寄手は心安く屋敷の中に入ったが、そこには隼人家臣の侍五、六人が留まり居て、寄手と戦い、
これによって寄手も討ち死にした。

今村掃部、□□(不明)兵庫、右の理を言上すべく、二十五、六日ころに北の庄を立ち東国へと下った。

当代記

当代記より、越前騒動(久世騒動)についての記事



見聞談叢より松平忠直の茶童

2020年09月06日 19:05

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/06(日) 18:54:22.91 ID:6ORzFz43
見聞談叢より松平忠直の茶童

越後の一伯候(越前の一伯候=松平忠直のことか)は甚だ剛勇な気質だったため、
側仕えの茶童まで殊の外気が強かった。ある時茶童に気に障ることがあって腹を立て
給い、茶童の右の手を手ずから煮えたぎる釜の中へ七、八寸もつけなさった。見る間に
茹で蛸のようになったが熱そうな顔もしなかったので、「許す」と仰って手を離される
と、「有り難し」と答えざまに、その釜は東大寺の九輪釜といって添書付きの名物なの
を、茶室の外に抱えていって石に打ち付け微塵に砕いた。「なぜそんなことをするのだ」
とお聞きになると、「私めの手を茹でた釜では、殿様に差し上げるお茶を淹れることは
できず、そうなるとあっても詮のないものです」と答えた。手を茹でられたことを怨み
怒る様子もなく、一伯候は感心された。その後お取立てあって忠節を尽くしたと、亡父
(伊藤仁斎)は常々お話しなされていた。



小督の局、名は於万の御方

2019年08月05日 17:43

長勝院   
309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/05(月) 15:43:00.35 ID:8z59+Ygy
小督の局、名は於万の御方。永見志摩守小野吉英の娘で、第二の御子・結城殿(秀康)の御母上である。

 一説に永見志摩守は三河国池鯉鮒の人である。於万の方はあどけない時から徳川殿の北の方・築山
 殿に宮仕えしたところ、君(徳川家康)の御慈愛を受けて身重くなったが、築山殿は知りなさると
 ある夜に於万殿を赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てさせなさった。

 折しも本多作左衛門重次が警備しており、女の泣く声を訝り探して来た。この有様を見ると急いで
 縛めを解き、事情を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱した。その後、君にそっと申したとこ
 ろ(家康は)何と宣ったのか、重次はそのまま(於万を)大切に養って、天正2年(1574)の
 2月に浜松の城外有富村という所で御子を産んだのである。これすなわち於義丸殿でいらっしゃる。
 このような事なので、しばし御対面もなく重次が万事育み参らせたのである。

 また一説には、於万は身重くなったので、北の方に漏れ聞こえては憂き目を見るだろうと恐れて密
 かに忍び出て、本多豊後守広孝の家の老臣・本多半右衛門の家に走り入り、しかじかの事であると
 言ったので本多作左衛門に付けたところ、重次は密かに君に申して自分の家に迎え取り介抱したと
 いう。いずれが真なのであろうか。

結城殿が越前国を賜りなさると局も越前にいらっしゃったが、慶長12年(1607)の4月8日に結
城殿は先立たれなさって悲嘆に堪えず、たちまち出家したことは気の毒なことである。法号を長勝院殿
という。元和5年(1619)の12月6日、福井で亡くなられた。73歳であったという。敦賀の孝
顕寺に葬られた。

永見の家も越前に仕えて忠直朝臣(松平忠直)の時に家は滅びた。その後、忠直は豊後の配所で生まれ
た子たちを永見と名乗らせて(永見長頼・長良)その家を立てなさった。これも中将光長朝臣(松平光
長)が流された時に罪を蒙って、ついに家は絶えたのである。

――『以貴小伝』



山口軍兵衛という勇士

2017年11月21日 18:30

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/21(火) 13:37:42.65 ID:p2i0Waif
山口軍兵衛という勇士が有り、彼は結城黄門秀康に仕えて越前にあった。
強弓の精兵にて大太刀を好み、三尺(約1メートル)に余る腰刀を帯びていた。

彼は伏見にて秀康家の長屋に住んでいたが、この長屋は二階作りにて、三間梁にいたし、
出格子の窓四寸(約12センチ)ばかりを置いた小柱が立っていた。

山口はその格子窓を通して60間(約109メートル)先に的を立て、それを必ず射抜くほどの
手練であった。

ある時、人々が寄り集まっている中、山口の刀があまりに長く尺に余るとの話題が出た。
山口はこう答えた
「私はこの刀を、各々の尺短い刀同様に存じている故に、常に用いているのだ。
いざ使ってみせよう。その後で何れも御自由に言って頂きたい。」

そう云うと大太刀を抜いて三つ指にて柄の末を取り、何度も振り回すと、その場は
この太刀風の音が響くばかりとなり、これによって初め彼の刀について言っていた輩も、
閉口して退去するしか無かったという。

(士談)



家康、結城秀康を上杉景勝の押さえに

2017年04月05日 21:36

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:13.56 ID:pFrrz65W
家康、結城秀康上杉景勝の押さえに


いわゆる小山評定の後(家康は)本多佐渡守(正信)一人を側に置き
結城秀康公を召し寄せて
「会津への進発はしばらくやめることにする。
 近いうちに(自分は)上方へ進発することになるので
 上杉の押さえとして差し置かれるべきなのは
 そこもとよりほかにはいないからだ。左様に心得ておくように」
と仰せられた。

秀康公は佐渡守の方へ向かって
「これは思ってもみない仰せで困惑しています。
 今度の上方においての御一戦は大事なことなので、御味方諸大名衆と
 申し合わせ、御先手で軍忠に励む覚悟でおりましたのに。
 上杉家の押さえとして御留守に差し置かれるべしとの仰せには
 たとえお気持ちに背くことになっても何度でもお断り申し上げる覚悟です。
 どうか御免下さりますように」
と申し上げられると、内府公(家康)は
「総じて今度のような大事の合戦に思い立って
 他国へ向かうことがあるとき、留守居の将を選んで残し置くのは
 弓矢の古法である。その上今度我らへ味方する諸大名からは
 証人などを出させてその人質を請け取ることになるのだから
 江戸、小田原の両城の内に差し置くほかなかろう。されば
 皆の安堵のため、確かな留守居でなくてはいけないと思ったから
 その方に申し付けるのだぞ」
と仰せられた。

秀康公が重ねて
「皆の安堵のため確かな留守居を差し置かれたいと思われるのでしたら
 幸い松平下野守(忠吉、秀忠同母弟)がいるのですから
 あの者を差し置かれればいいではないですか。
 私の方を上方へお供仕りますように」
と申し上げられると、内府公はいささか機嫌を悪くして
「皆の安堵のためだけなら、その方が申すごとく下野守でも済むが
 我らが出陣の後に何かが起こらないとは言い切れず
 しかも上杉景勝は我らの留守を見合わせて
 大軍を率いてくることさえあるかもしれないのに
 若輩の下野守で事は済むと思うのか。
 昨夜佐渡守も聞いていたが、その方は
 『今度上方の退治で上る時は、会津の上杉は手強き相手なので
  確かな押さえを差し置くのがもっともです』
 と申したのに、その手強き景勝の押さえをするのを嫌がるのか」
と仰せられた。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:35.53 ID:pFrrz65W
秀康公はお困りになられ
「今度の上方の御一戦にまみえることができないのは残念に思いますが
 ただいまの仰せの上は何も申し上げようもなく、畏れながら斯様に
 お請け申し上げるからには、出陣の後も御安心めされますように。
 白河の関よりこちらへ景勝などに顔出しさせることはありません」
と申し上げられたので
佐渡守は承って秀康公のお側へ這い寄り、お膝を叩いて
「さてもさても殿はよくもお申し上げになられた」
と申し、涙を流し泣いていると内府公も涙ぐまれた。

(家康は)御納戸衆を召し寄せ、御具足一領を取り寄せて
御前に置き、秀康公に
「この具足は我の若き時より何度も陣場へ着ていったのだが
 一度も敵に押付(鎧の背の上部)を見せることもなく、秘蔵の具足であるが
 今度大事な留守を申し付けるのでその方へ譲り渡す」
と言って秀康公へ下賜されたという。
 

――『落穂集』


結城秀康の死去/家康怒りの改葬

2016年12月25日 17:11

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 14:37:00.84 ID:TsTbPz9n
結城秀康の死去/家康怒りの改葬


結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。

秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。


――『福井県史』など



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 16:11:14.91 ID:tyQB9IgX
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...