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「高田」の殺生石

2022年04月05日 16:50

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/05(火) 11:38:08.11 ID:j0gfoA8T
まとめのコメント見たら一国が褒姒や妲己扱い
褒姒も妲己も九尾の狐の化身と言われ、九尾の狐(玉藻前)が殺生石になり玄翁和尚に割られた伝説は有名だが
その破片が全国三ヶ所の「高田」という地名に飛び散ったと言われる
一つが豊後高田で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
この朽網の殺生石も豊後高田まで飛んでった殺生石の破片が70kmほど転がったものだとか
もう一つは美作高田か安芸高田で
最後の一つが越後高田
この忠直の乱行による改易のため、忠直の息子光長は越後高田藩主となったが、41年後に地震で高田が大きな被害を受け筆頭家老、次席家老が圧死
それにより台頭した小栗美作が改革を施行したら反対派とお家騒動となり、幕府裁定によりいったん小栗が勝ったが
館林城主から将軍になったばかりの綱吉が再審して両派に厳罰、越後高田藩は没収されましたとさ

いっそ忠直乱行も越後騒動も九尾の狐のせいにしてしまおう
綱吉も狐が建てた館林城主だったし



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「続片聾記」から「忠直公御乱行の事」

2022年04月04日 19:02

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 20:46:46.65 ID:1Ul4dzbi
続片聾記」から「忠直公御乱行の事」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4468.html
とだいたいのあらすじは同じで
松平忠直がある時天守に登ると美人の絵姿が風に舞って忠直の所に来た。
その美人に一目惚れした忠直は家臣にこれとそっくりな美人を探せと命じたところ、関ヶ原におむにという女がいたため、
一国にも替え難い美しさ、ということで「一国」と名づけた。
しかしこの女は罪人が首を刎ねられるのを見ると悦んだため、忠直は死罪に当たらないような者でも一国の前で首を刎ね、気に入らない小姓や家臣も死罪とした。
そのうち首を刎ねるだけでは飽き足らず、平たい石で人の天窓(あたま)を叩き割る、白洲で磔にする、妊婦の腹を裂く、といった悪行を重ねた。
これに対して眉を顰めた、秀康公から仕えている武士をも死罪としたため、家臣たちは毎朝家を立つ時は最期の盃をかわして登城するようになった。

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 20:48:52.87 ID:1Ul4dzbi
忠直の家臣に縣茂左衛門という者がいた。昔年大坂の陣で忠直に供をし、城中に入った十七騎の一人であった。
ある雨の夜、草履取りを供にして歩いていると、向こうから忠直公の駕籠が来たためあわてて平伏したが、
忠直公は「茂左衛門、供をせよ」と言ってきた。
茂左衛門は今度は自分が斬られるのか、と覚悟を決めた。
そのまま城中に行き、白洲に入ったため、茂左衛門は「もはや死は逃れられぬ」といよいよ覚悟した。
白洲は月明かりに照らされ、そこには老若男女の死骸が三十人ほど山のように積み重なっていた。
そのほか死骸がかけられた磔が林立していた。
茂左衛門が観念したところで、忠直公が「からめたる奴原を一々斬り捨て、我が慰みとせよ!」
と言ったため、茂左衛門は「案に相違し、身の逃れる嬉しさよ」とむごいことを思いつつ、連れられてきた二、三人の首を切った。
その後は忠直公に命じられるまま、あるいは袈裟懸けに、あるいは打首、と二十七人を斬った。
この褒美に忠直公から刀を授けられ、虎口を逃れた気持ちで城を出て家に帰った。
すると念仏が仏間から聞こえてきたため、茂左衛門が何があったのか聞くと、親も弟も妹も涙を流しながら
「茂左衛門が忠直公に斬られたと思い念仏を唱えていたのです」と答えた。
茂左衛門も自分の罪業のあまりの深さに恐ろしくなり、後に隠居して道甫居士と号したという。
かれから直に聞いた物語をここに記す。



片桐、勘気を免す

2022年04月03日 17:02

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 13:25:58.33 ID:PZfYpEcu
或る記(難波戦記)に、越前・松平忠直の家臣、片桐丹波守は先に忠直の勘気を受けていたのだが、
大坂夏の陣に際し、この陣に忍んで供をし先手に居た。
この姿を本多伊豆守(富正)が見て、忠直朝臣の前に来て言った

片桐丹波守の事ですが、今、忍んで御供仕り、御先手に加わって居ます。その気色は、今日を最期と
存じ極めた様子に見えます。
御勘気されたまま討ち死にを遂げてしまえば、冥土、黄泉の障りともなり、不憫な事に思います。
それを哀れに思い、御勘気を御免あらば、二世の思い出となると考えます。」

そう、涙を流して訴えると、少将(忠直)は「勘気を免すので、早々に召し出すべし。」と申された。

これにより使番の深澤長左衛門が乗り切って先へ通り、丹波守に斯くと申し渡すと、そのまま旗本へ来て、
馬より降りて兜を脱いで畏まり、しきりに落涙していた。
この姿を忠直朝臣が見られ、「片桐、勘気を免す」と申されると、片桐は頭を地に付け、一礼して
立ち上がったが、「今になって許すとは聞こえないことだ」(只今になり許すとは聞えざる事)と
思っているような気色でその場を退き、馬に乗って駆け出した。

しかし先手の鑓が始まると同時に、兜付きの高名(兜を付けた武者を討ち取ること)して、持参したという。

新東鑑

大坂夏の陣での越前家の一コマ



「芳斎青木新兵衛の事」後半部分

2022年03月19日 14:05

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:41:17.42 ID:yvHy8Bac
可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」後半部分

岡部自休入道は忠直卿の時に町方・郡方・公事方様々の奉行を兼役し出世頭であった。
自休の領地の百姓の女が布施但馬の領地の百姓に嫁ぎ、夫の方は佐渡の方へ用事で行った。
三年たっても音沙汰がなかったため、妻は近所の男と再婚し子供を産んだ。
その後、先夫が佐渡から帰り、妻のことを知り代官所に訴えた。
自休は郡方奉行であったが、「今は待て」と言ったきり判決も下さず年が暮れてしまった。
翌年、舅の方が現在の婿を一族ともども招いたところ布施但馬はこれを知り、自分のところの百姓を侮辱されたと思い
夜中に舅の家の周りに焼き草を積ませて、火を放って一人も残らず殺してしまった。
忠直卿はこれを聞いてお怒りなさり、「この件について訴人あらば黄金十五枚をとらす」と立て札をあちこちに立てた。
この時、但馬の家来の中野長兵衛というもの、かねてから但馬に恨みがあったため、訴人となって恨みを晴らそうと思い、妻に話した。
妻は長兵衛に異見をしたが、長兵衛は聞き入れず自休の方へ向かった。
妻の方は、主君を訴えるのは不義であり、このままでは罪なき子供まで殺されると思い、但馬に夫のことを打ち明け、子供の助命を嘆願した。
こうして長兵衛は但馬に捕らえられ、座敷に押し込められたが、調略を使って夜中に抜け出し、塀を越えた。
そのまま近くの牧野主殿宅に逃げ込んだが、牧野の舅である竹島周防により殺されてしまった。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:42:56.99 ID:yvHy8Bac
この趣旨を聞いた忠直卿は激怒なさり、とうとう布施但馬は自殺した(原文では「事長き故略す」としている)。
このことが駿府に聞こえ、家康公は激怒なさり、ことの発端の自休の進退も極まった(切腹?)。
また周防は訴人を殺したということで但馬の一味とみなされ、駿府において詮議されることとなった。
こうして青木新兵衛に周防の護送の任務が与えられたが、新兵衛は越前府中から三里いったところで
「上意とはいえ、お歴々の方に縄をかけるのは忍びませんので」と縄をほどき、そのまま駿府に連行した。
駿府での吟味に際し、周防は
「但馬は黄門秀康公取り立てのもので、すぐれたる武功も多く、しかも国政を知るものであり、百姓千万人にも替えがたい逸材でした。
もし長兵衛が存命であれば、但馬は処せられたでしょう。
かといって長兵衛は忠直卿に忠義立ていたしたということで殺す名分もありません。
そのため私の粗忽ということにして、長兵衛の首を刎ねたというわけです」
と申し上げ、これを聞かれた家康公は「周防の申すこといちいちもっともである」と赦免された。
このころ、青木を諸人は褒めたという。
新兵衛はのちに加賀藩の前田利常公に奉公して方斎と号したということだ。
また太閤記によれば、小田原の陣の山中城陥落の折、大母衣をかけた武者が搦手から討ち入り、武将の首をとり、太閤の御本陣へ参った。
太閤御覧ありて幸先がよいと金銭を賜ったとあるが、これが青木新兵衛という名だったそうだ。

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:49:41.65 ID:yvHy8Bac
というわけで百姓夫婦のいざこざが不手際のために、どんどんおおごとになってしまった話。
布施但馬の死については

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6823.html
徳川家康「その道存とは誰だ」


にも書かれているが、上の話で秀康に青木新兵衛と間違われた永井善左衛門などが暗殺したことになっている。
しかも冤罪扱いで家康は但馬を是としているようだ。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:53:22.07 ID:yvHy8Bac
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/越前騒動
wikiみたら思ったより大きな騒動だった

前半
「芳斎青木新兵衛の事」前半部分


「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

2022年03月18日 15:53

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:14:49.56 ID:l73Nz6xM
青地礼幹可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

青木新兵衛(方斎入道)は方々へ渡り奉公をしていたが越前少将忠直卿に仕えた。
その経緯であるが、あるとき忠直卿の家臣、永見主膳が息子の着付けを三宿勘兵衛(御宿政友)に依頼した時、一座に居合わせた若い衆が武功咄を望んだ。
以下、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4376.html
「真の武士とは」


とほぼ同じ話で、これにより永見主膳に出入りしていた浪人の青木新兵衛が忠直卿に召し出されることとなった。

なお「真の武士とは」では
永見主膳→狛伊勢守、三宿勘兵衛→阿閉掃部
と名前が違っており、
室鳩巣「駿台雑話」の「阿閉掃部」やそれを出典としたと思われる、
神沢杜口「翁草」の「阿閉掃部(注釈では阿閉貞征の息子)」では、「真の武士とは」と両者の名前が同じであるが
主題である「真の武士」という言葉が出てこないので、ほかの出典があるのだろうか。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:20:32.17 ID:l73Nz6xM
青地礼幹は室鳩巣の弟子であり、師弟で同じ話を書いておきながら両者の名前が違う理由は不明。
青地は加賀藩士であり、青木新兵衛も最後は前田利常に仕えているため、師の間違いを青地が正したのかもしれない。
(「可観小説」では「駿台雑話」評や室鳩巣逝去についても書かれている)
また「翁草」には

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13192.html
中々鬼にて御座候


の、伊達政宗が青木新兵衛の松川での戦いぶりを褒めたところ、
帰邸後、秀康が永井善左衛門と取り違えて永井を褒め、永井が「それは青木新兵衛です」と訂正し
秀康が「まあどっちも我が家人なのだから強く穿鑿には及ばない」とごまかした話もあり、
この時点で青木新兵衛が秀康から認識されていたのなら忠直の時に無名だったのはおかしい気もする

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:23:29.67 ID:l73Nz6xM
ついでに山鹿素行「山鹿語類」の「士談五 剛操」には

青木新兵衛が越前で青木紀伊守(青木一矩)に仕えていたころ、同輩の荻野河内のところで寄り合いがあり
その席で武功話をせがまれた新兵衛が、賤ヶ岳の戦いにおける余呉の湖畔での戦いで、立派な前立ての武者と槍合わせをし、
新兵衛が槍をついたところ武者が退いた、という話をしたところ
亭主の河内が「それはそれがしなり。法斎(新兵衛)の具足や指物はこのようなもので、また胴には槍跡がなかっただろうか?」
と尋ねたところその通りだったため、
河内「よい時分におおせられて満足だ、しかしそれがしは槍でつかれもせず、退きもしなかった、
それだけははっきりと言っておこう!」
新兵衛「いや、たしかに某がついて、そなたは退いた!」
と双方引かず、すっかりみんなの興が醒めたところで、河内の十七になる子供が出てきて
「推参ではありますが申し上げます。そもそも殿軍の折ですから双方とも一騎討ちをなさったわけではなく、
それぞれ味方の軍からあまり離れないように戦ったわけですから、一歩、二歩退いたかどうかで言い争っても無意味でしょう。
そのようなことで議論なさるのは、御両人には似つかわしくないと思います」
と言ったところ、新兵衛も大いに感じて穿鑿をやめ、座中も感じて興を催したということだ。

という主君が忠直ではなく青木一矩で、組み合わせた相手も荻野河内と違うが、似た話がある
時代的には山鹿素行の方が古いが、もしこちらが元の話だとすると、青木新兵衛にとってはあまりかっこうのよくない話になる。

後半
「芳斎青木新兵衛の事」後半部分


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 16:21:39.98 ID:Nc2Sr3bk
それ河内の息子のいい話だな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 20:07:44.51 ID:WPcSNcPa
新書太閤記に同じ話あるんだけど、吉川英治の創作だと思ってたわ

「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。
こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。
五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。
思えば、その方々へ、蔭膳の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」

この人は誠に老いた犬であるとも

2021年11月25日 16:30

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/25(木) 01:34:44.63 ID:6Xq29nX6
(前略。栄華を誇った後北条氏ことごとく滅亡し、関東の諸侍ともに運尽き果て身の置き所もなく行方もなし。
中でも不憫なのは相模国の朝倉能登守といって、数度先をかけ武勇をあげた者が“犬也”と号して
乞食して落ちぶれたことだった)

結城宰相秀康卿は、古の関東弓矢の時節に武の誉れある者を尋ね出して扶持なされた。
清水太郎左衛門入道、大石四郎右衛門入道、山本信濃入道、松下三郎左衛門入道、朝倉能登入道
(いずれも後北条氏旧臣)、この人々は文武に達し、1人当千の名を得た勇士で歳は60,70に及んだ。
過分の知行をせしめ、常に御前に近習し、御自愛浅からず。

(中略)また秀康卿が世に捨てられた老士を召し出されたのは、感じられることと言われた。
秀康卿は仰せになり、「関東侍は馬上で達者を働くと聞き及んでいる。さぞ強馬を好むのであろう」

朝倉犬也(能登守)は承り、「関東侍はあながち強い馬は好みません。
ただ自力に叶う馬にもっぱら乗ります。愚老の旧友に伊藤兵庫助と申して馬鍛錬の勇士がおりますが、
ある時の口ずさびに『大ばたや、大立物に、つよき馬、このまん人は不覚なるべし』と詠みました。
馬下手が強馬を好むのを見ては、『馬には乗らず馬に乗られる』と申すものです。
(中略)
むかしの人も馬鍛錬をしたのか、武者絵などでは馬を飛ばせ走る間に弓を引き矢を放ったと見えます。
つまり馬に乗って遠路を行くのは足を休めるためで、軍中で乗る時とは馬上で弓鎗を役に立てるためであり、
むかしの関東の戦場でも未だ経験しない若者は広い野原へ数多と伴い出て、敵味方と人数を分かちて旗を差し、
弓鎗長刀は各々が得意の道具を持って馬に乗り、馬の心を見るために鉄砲を鳴らし、
矢叫びの声をあげて喚き騒ぎ、時に勇んで進む馬もおり、遅れて退き驚いて横切る馬もおりました。

山へ乗り上げ崖のかけ道を乗り、堀を飛ばせ自由を働くようにと鍛錬し、先陣にぬきんで駆け引きする
達者のように振る舞い、勝利を得ることをもっぱらの嗜みとしました。
早雲(北条早雲)教えの21ヶ条の内に『馬は下地をば達者に、乗りならひて、用の手綱をば稽古せよ』と記します。
侍たる者は馬の口を取らせては一代の不覚、仮にも馬上でも、名利を忘れて乗り方を心がけ、
大将であっても馬の口を取らせては、『馬下手故か弓馬の心がけなき人か』と指をさされます。
(中略。北条氏康の“氏康傷”の逸話について)
馬鍛錬の事は御前に伺候する古の傍輩どもがよく存じております。御尋ねなさいませ」

と申せば、秀康卿は御聞きになり
「犬也も若い頃はさぞ馬鍛錬したのだろう。昔の面影を少し学んで見せよ」と仰せになった。
犬也は承り「愚老は70に及びまして馬上の振る舞いは叶いません。
しかし、貴命を辞してはかえって恐れがあります。御遊興にそっと古を学んで御目にかけましょう」
と用意のために私宅へ帰った。

秀康卿は御見物のために馬場に床をかかせて登らせなさり、諸侍は芝の上に並居たり。犬也は鴾毛の駒(馬)に
黒糸威の鎧を着て星甲の上に頭巾をあて、白袈裟をかけ、いぶせき山伏の姿で出で立ち弓を持ち、郎等1人を連れて
槍を提げさせ馬に乗り、御前近くへしずしずと歩ませ、「軍陣でござる。下馬御免」と申すやいなや、
馬場を2,3返して馳せ巡り、馬場の向こうに築地があったのを敵方として睨み、手綱を鞍の前輪にかけて
股で馬に乗り、弓に矢をつがえて声をかけ、走る内に矢を2つ,3つ放ち、さて弓を捨てて飛び降りると
従者が持つ槍をおっ取り、従者が先立って逃げるのを追っかけ、従者がとって返せば自分は退き、
馬も心得があるのか後を慕って来るのをまた打ち乗り、一目散に走らせて弓手妻手(右手)へ、槍を自由自在に
散らし馳せまわった。

秀康卿は御覧になって目を驚かし、御感斜めならず。犬也召しであるぞと呼ばれると、馬を鎮めて近くへ乗り寄せ、
飛んで降り、御前へ伺候した。その場の御褒美として刀に長刀を差し添えて下されたが、
これに朝倉は「老後の思い出にこれ以上のことはありません」と申した。
犬也入道は老倅の翁だが、鍛錬の道で達者を振る舞うことからすると、若い頃はさぞやと諸人は感嘆した。
この人は誠に老いた犬であるとも諸侍は尊敬なされた。弓馬の威徳は述べ尽くせない。

――『北条五代記

いかにも関東の遺臣を募った越前松平家らしい話だなと



諸人は秀康卿を褒め奉った

2021年09月13日 17:32

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/13(月) 14:35:51.44 ID:mazs0ERa
石田三成らの挙兵を聞き、徳川家康が小山より引き返した時、
結城少将秀康卿は宇都宮の御陣を召し、会津の上杉景勝に対する押さえとして置かれた。

この時景勝は長沼に在ったが、御所(家康)が小山を引き払ったとの情報を聞いて、
彼が長沼を打ち立ち、七万余騎にて江戸を指して切って上がるという内容の雑説がしきりに
流れた。那須七党の人々も、景勝が討って出てきては矢も盾もたまらない事で、とんでもない
事だと日々に騒いだ。

秀康卿は当時二十七歳であったが、勇猛さは御父家康公、御養父秀吉公に似られたのか、
使者二人を景勝に遣わされ、

『この度京都大乱に付き、家康公はこの表を引き払い上洛されました。留守居として私はここに罷り有ります。
安閑として日を送るのは待遠ですので、貴殿と一合戦仕りましょう。
御同心であるのなら、私がそちらに取り掛かるか、又はそちらから此の方に御出馬されるのか、
御返答次第にいたしましょう。』

このように仰せ遣わされた。景勝はこの返事に

『御使、忝なく存じ候。
我らは輝虎以来、人の留守に仕掛たことはありません。御所が御上洛に付き、御留守として貴殿が
御在陣との事ですが、何にしても似合の用事を承るものです。

一戦の儀は、重ねて御所がこちらに出張なされた時に、先手をなさって下さい。
その時、一戦仕りましょう。
只今、御所御留守の間に若き人が居る所に取りかけるような事は、中々思いもよりません。』

と返答した。すると此の頃の雑説はたちまちに止み、諸人は秀康卿を褒め奉った。

近世軍記



521 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/13(月) 17:26:54.04 ID:LSVUugA4
>>520
坊ちゃんはお呼びじゃねぇ
親父が戻ってくるまで大人しく留守番してろ


と、暗に言われてるようにしか見えん。
花の慶次でも秀康が景勝に挑もうとして袖にされるこの通りの話あって秀康が凄く悔しそうに戦するんじゃぁ!って出て行こうとして止められてたけど、景勝にしても面白くないよなぁ

522 名前:羊羹録 ◆cA7oIM8fok [] 投稿日:2021/09/14(火) 12:21:06.87 ID:ytdXkE9W
>>521
景勝・・・百姓一揆であわわ
兼続・・・最上のロートル兵にあわわ
慶次・・・最上のロートル兵にあわわ
秀康・・・余裕
政宗・・・(最上領にいる)ママ大丈夫かな?
小十郎・・・最上も上杉もどちらも潰し合わねーかなー

と言うのが実情

524 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 16:38:24.04 ID:3LbuLjP1
>>522
>景勝・・・百姓一揆であわわ


慶長出羽合戦とその前後、上杉家は二手に分かれて最上領を侵略しながら一揆勢も相手にしてたの?

『当代記』より、越前騒動

2020年09月08日 18:06

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/08(火) 01:11:02.18 ID:wsCVZqJm
越前国の故三河守(結城)秀康が、去る慶長十二年に逝去した砌、家中の年寄七人が金子を隠取したと云われた。

そしてこの事、去年幕府より公事が申し付けられた折、この七人の内の岡部伊予と云う者、江戸へ下って
この事を言上する旨を相催し、美濃国大垣まで下ったところで、「これほどの事が上聞に達するのは如何か」と
当三河守(松平忠直)并びに家中の年寄達が人を遣わし、大垣にて追いつき、かの伊予を呼び帰した。

然れども当年(慶長十七年)、この公事が無事に落着すると、かの伊予は江戸に下り、また牧主殿(牧野主殿助)
と云う者も、あの七人の一人であったが、岡部と同道して江戸に下ると申していたが、どうしたわけか
高野山に直に登ったという。

十月十九日、かの七人の内の久世但馬という者が、屋敷を攻められ生害した。彼の息子は加賀国に有ったが、
この時駆けつけて、但馬と共に死んだ。また但馬の聟も駆けつけて同じく死し、その他、但馬の屋敷に於いて、
侍分百五十人が死んだ。中間小者は、悉く十八日の晩に逃げ出したという。
この時、久世但馬の屋敷を攻めたのは本多伊豆守(富正)であった。これも先の七人の一人であった。

これについて松平忠直は、先ず当座は宥し、忠直より人質を遣わし、本多伊豆の居城である府中に
かの人質を置き、伊豆は北の庄に参り登城した。
伊豆の人数の内、能き者共がこの時二十八人討ち死にした。手負いは四十人余りであったという。
その他寄手は、多賀屋(多賀谷泰経)の者共を始め、総じて二百ばかり討ち死にしたという。

同二十日、弓木左衛門(七人の一人である)が生害した。この屋敷に於いても寄手は三十人ばかり死んだ。
この弓木は、故秀康の時、知行方専一の用人であった。

同日、上田隼人(これも七人の一人)は寄手に理を云い送り、その身ばかり腹を切り、被官たちは屋敷から出した。
そのため寄手は心安く屋敷の中に入ったが、そこには隼人家臣の侍五、六人が留まり居て、寄手と戦い、
これによって寄手も討ち死にした。

今村掃部、□□(不明)兵庫、右の理を言上すべく、二十五、六日ころに北の庄を立ち東国へと下った。

当代記

当代記より、越前騒動(久世騒動)についての記事



見聞談叢より松平忠直の茶童

2020年09月06日 19:05

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/06(日) 18:54:22.91 ID:6ORzFz43
見聞談叢より松平忠直の茶童

越後の一伯候(越前の一伯候=松平忠直のことか)は甚だ剛勇な気質だったため、
側仕えの茶童まで殊の外気が強かった。ある時茶童に気に障ることがあって腹を立て
給い、茶童の右の手を手ずから煮えたぎる釜の中へ七、八寸もつけなさった。見る間に
茹で蛸のようになったが熱そうな顔もしなかったので、「許す」と仰って手を離される
と、「有り難し」と答えざまに、その釜は東大寺の九輪釜といって添書付きの名物なの
を、茶室の外に抱えていって石に打ち付け微塵に砕いた。「なぜそんなことをするのだ」
とお聞きになると、「私めの手を茹でた釜では、殿様に差し上げるお茶を淹れることは
できず、そうなるとあっても詮のないものです」と答えた。手を茹でられたことを怨み
怒る様子もなく、一伯候は感心された。その後お取立てあって忠節を尽くしたと、亡父
(伊藤仁斎)は常々お話しなされていた。



小督の局、名は於万の御方

2019年08月05日 17:43

長勝院   
309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/05(月) 15:43:00.35 ID:8z59+Ygy
小督の局、名は於万の御方。永見志摩守小野吉英の娘で、第二の御子・結城殿(秀康)の御母上である。

 一説に永見志摩守は三河国池鯉鮒の人である。於万の方はあどけない時から徳川殿の北の方・築山
 殿に宮仕えしたところ、君(徳川家康)の御慈愛を受けて身重くなったが、築山殿は知りなさると
 ある夜に於万殿を赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てさせなさった。

 折しも本多作左衛門重次が警備しており、女の泣く声を訝り探して来た。この有様を見ると急いで
 縛めを解き、事情を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱した。その後、君にそっと申したとこ
 ろ(家康は)何と宣ったのか、重次はそのまま(於万を)大切に養って、天正2年(1574)の
 2月に浜松の城外有富村という所で御子を産んだのである。これすなわち於義丸殿でいらっしゃる。
 このような事なので、しばし御対面もなく重次が万事育み参らせたのである。

 また一説には、於万は身重くなったので、北の方に漏れ聞こえては憂き目を見るだろうと恐れて密
 かに忍び出て、本多豊後守広孝の家の老臣・本多半右衛門の家に走り入り、しかじかの事であると
 言ったので本多作左衛門に付けたところ、重次は密かに君に申して自分の家に迎え取り介抱したと
 いう。いずれが真なのであろうか。

結城殿が越前国を賜りなさると局も越前にいらっしゃったが、慶長12年(1607)の4月8日に結
城殿は先立たれなさって悲嘆に堪えず、たちまち出家したことは気の毒なことである。法号を長勝院殿
という。元和5年(1619)の12月6日、福井で亡くなられた。73歳であったという。敦賀の孝
顕寺に葬られた。

永見の家も越前に仕えて忠直朝臣(松平忠直)の時に家は滅びた。その後、忠直は豊後の配所で生まれ
た子たちを永見と名乗らせて(永見長頼・長良)その家を立てなさった。これも中将光長朝臣(松平光
長)が流された時に罪を蒙って、ついに家は絶えたのである。

――『以貴小伝』



山口軍兵衛という勇士

2017年11月21日 18:30

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/21(火) 13:37:42.65 ID:p2i0Waif
山口軍兵衛という勇士が有り、彼は結城黄門秀康に仕えて越前にあった。
強弓の精兵にて大太刀を好み、三尺(約1メートル)に余る腰刀を帯びていた。

彼は伏見にて秀康家の長屋に住んでいたが、この長屋は二階作りにて、三間梁にいたし、
出格子の窓四寸(約12センチ)ばかりを置いた小柱が立っていた。

山口はその格子窓を通して60間(約109メートル)先に的を立て、それを必ず射抜くほどの
手練であった。

ある時、人々が寄り集まっている中、山口の刀があまりに長く尺に余るとの話題が出た。
山口はこう答えた
「私はこの刀を、各々の尺短い刀同様に存じている故に、常に用いているのだ。
いざ使ってみせよう。その後で何れも御自由に言って頂きたい。」

そう云うと大太刀を抜いて三つ指にて柄の末を取り、何度も振り回すと、その場は
この太刀風の音が響くばかりとなり、これによって初め彼の刀について言っていた輩も、
閉口して退去するしか無かったという。

(士談)



家康、結城秀康を上杉景勝の押さえに

2017年04月05日 21:36

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:13.56 ID:pFrrz65W
家康、結城秀康上杉景勝の押さえに


いわゆる小山評定の後(家康は)本多佐渡守(正信)一人を側に置き
結城秀康公を召し寄せて
「会津への進発はしばらくやめることにする。
 近いうちに(自分は)上方へ進発することになるので
 上杉の押さえとして差し置かれるべきなのは
 そこもとよりほかにはいないからだ。左様に心得ておくように」
と仰せられた。

秀康公は佐渡守の方へ向かって
「これは思ってもみない仰せで困惑しています。
 今度の上方においての御一戦は大事なことなので、御味方諸大名衆と
 申し合わせ、御先手で軍忠に励む覚悟でおりましたのに。
 上杉家の押さえとして御留守に差し置かれるべしとの仰せには
 たとえお気持ちに背くことになっても何度でもお断り申し上げる覚悟です。
 どうか御免下さりますように」
と申し上げられると、内府公(家康)は
「総じて今度のような大事の合戦に思い立って
 他国へ向かうことがあるとき、留守居の将を選んで残し置くのは
 弓矢の古法である。その上今度我らへ味方する諸大名からは
 証人などを出させてその人質を請け取ることになるのだから
 江戸、小田原の両城の内に差し置くほかなかろう。されば
 皆の安堵のため、確かな留守居でなくてはいけないと思ったから
 その方に申し付けるのだぞ」
と仰せられた。

秀康公が重ねて
「皆の安堵のため確かな留守居を差し置かれたいと思われるのでしたら
 幸い松平下野守(忠吉、秀忠同母弟)がいるのですから
 あの者を差し置かれればいいではないですか。
 私の方を上方へお供仕りますように」
と申し上げられると、内府公はいささか機嫌を悪くして
「皆の安堵のためだけなら、その方が申すごとく下野守でも済むが
 我らが出陣の後に何かが起こらないとは言い切れず
 しかも上杉景勝は我らの留守を見合わせて
 大軍を率いてくることさえあるかもしれないのに
 若輩の下野守で事は済むと思うのか。
 昨夜佐渡守も聞いていたが、その方は
 『今度上方の退治で上る時は、会津の上杉は手強き相手なので
  確かな押さえを差し置くのがもっともです』
 と申したのに、その手強き景勝の押さえをするのを嫌がるのか」
と仰せられた。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:35.53 ID:pFrrz65W
秀康公はお困りになられ
「今度の上方の御一戦にまみえることができないのは残念に思いますが
 ただいまの仰せの上は何も申し上げようもなく、畏れながら斯様に
 お請け申し上げるからには、出陣の後も御安心めされますように。
 白河の関よりこちらへ景勝などに顔出しさせることはありません」
と申し上げられたので
佐渡守は承って秀康公のお側へ這い寄り、お膝を叩いて
「さてもさても殿はよくもお申し上げになられた」
と申し、涙を流し泣いていると内府公も涙ぐまれた。

(家康は)御納戸衆を召し寄せ、御具足一領を取り寄せて
御前に置き、秀康公に
「この具足は我の若き時より何度も陣場へ着ていったのだが
 一度も敵に押付(鎧の背の上部)を見せることもなく、秘蔵の具足であるが
 今度大事な留守を申し付けるのでその方へ譲り渡す」
と言って秀康公へ下賜されたという。
 

――『落穂集』


結城秀康の死去/家康怒りの改葬

2016年12月25日 17:11

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 14:37:00.84 ID:TsTbPz9n
結城秀康の死去/家康怒りの改葬


結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。

秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。


――『福井県史』など



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 16:11:14.91 ID:tyQB9IgX
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...

【ニュース】県庁前に秀康が“2人”?

2016年03月14日 18:35

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:24:19.35 ID:aCW8pZdW
中日新聞福井版2月21日
県庁前に秀康が“2人”? 結城会が新設に動く
現在の像「容姿」に異論
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2016022102000199.html
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100124_size0.jpg
PK2016022102100124_size0[1]
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100125_size0.jpg
PK2016022102100125_size0[1]
江戸時代初期に福井藩の初代藩主を務めた徳川家康の次男、結城秀康(一五七四~一六〇七年)の騎馬像について、
結城家のゆかりの福井市民らが違和感をもち、新像の設置を模索している。福井城跡である市内の県庁前に立つ
現在の像には子孫関係者からも異論が出ており、インターネット上で「中国風」「日本の美意識がない」と批判
されたのを機に動き始めた。今の像を計画した市側は静観するが、二つの像が並び立つ日が来るかもしれない。 (中場賢一)

馬にまたがり、手綱を持つ姿で、県庁の来訪者を迎える秀康の石像。越前国北ノ庄(現福井市)入りから四百周年を
二〇〇一年に迎えたのを記念し、福井市と、市の歴史や文化を紹介する公益財団法人「歴史のみえるまちづくり協会」が
城跡を管理する県に贈呈し、〇二年に除幕された。

制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

建立直後から、結城家の家臣の子孫の市民らでつくる「福井結城会」には、秀康の子孫の結城松平家や結城家の関係者から
「イメージに合わない」と異論が届き、撤去するよう要請があった。ネット上では「中国風にデフォルメされている」
「日本独自の美意識が感じられない」と評されている。
会の片岡賢三副会長兼事務局長(67)は「不評や失笑どころか怒りを買っている」と新像を計画。秀康に関する資料を精査し、
銅像制作を手掛ける富山県高岡市の「竹中銅器」に昨年十二月にデザインを発注し、一月に完成した。

その姿は秀康が愛用していた唐冠形兜(とうかんなりかぶと)をかぶり、手には天下三名槍(めいそう)の誉れ高い
「手杵(てぎね)の槍(やり)」が握られている。顔は「ナマズに似ていた」ともされているが、イケメン風にアレンジ。
ただ、片岡さんは「あくまでたたき台」と強調する。




316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:44:56.84 ID:mmYKOCFu
容姿に異論、ていうからギイに似ているとか鼻が欠けた姿にしていたのかと思いきや

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:53:36.58 ID:Q9hijGnh
>>315
>「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」
キックバック?公益財団法人の悪い話…。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 21:14:50.13 ID:/SDAcKHs
>>315
>制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
>協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

態々、浙江省の石像作家に頼むからこんな中華風な像なるんだよな
国内の製作者でも戦国の騎馬武者像を正しく作れる人がどれくらい居るかも分からんのに

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 23:42:28.69 ID:AcXeEgg+
>>315
御手杵を馬上で使える訳無いだろw
関係者に馬鹿しかいねぇwww

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 23:59:30.17 ID:wbpvzEpq
はい草

322 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/14(月) 01:14:31.04 ID:Vz9aN3QN
>>320
変に関羽みたいになっとるw

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 15:55:50.98 ID:X6LOFWbh
戦国時代騎馬武将の写真なんてあるわけないし
当時かかれた絵もおもいっきりデフォルメされてるので細部は全くの不明
誰も本当の姿なんて知らないし県庁前とおるほとんどの通行人も興味もないししりたいとも思わないので
わざわざ作り直す必要性もないだろう

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:24:28.52 ID:fT7s1wsQ
左手にサイコガン付けようぜ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:38:31.19 ID:lbTjKK+/
ヒューッ!

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:04:24.99 ID:xlMMQtnb
>>323
鎧とかなら残ってるんじゃないのかな

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:36:53.05 ID:Yol0YFF+
馬具も馬術書もある

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:58:58.14 ID:egIkNCog
中華風にプロレタリア感が加わった何とも言えない石像だなとは思った
まあ結城秀康といえばあの脇立がなきゃって気もするし、どっちもあっていいんじゃないの

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:28:25.24 ID:4eCAY+2k
中華風にリアリィティないというなら各地の駅前とかにある馬上戦国武将像もあれだろ
ポニーサイズの馬に変更しないと・・・

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 13:38:45.21 ID:utlpfOlk
>>339
ポニーだって体高150くらいあるの知ってる?

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 13:42:56.47 ID:vNIvEO5E
>>315
たぶん、碌な資料も渡さずに発注したんだろうな。
秀康像の困惑顔は作家の本心を表してるに違いない。

「もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

2015年10月28日 08:34

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 20:50:43.24 ID:DVPqIe60
会津征伐の途上にて石田三成の挙兵を知った徳川家康は、小山にて諸将と軍評定を行い、
その後息子である結城秀康を呼んだ。

秀康が家康の陣所に参ると、本多正信が迎え出て
「少将様(秀康)、天下の安否は今日に決します。よく心してお答えなさいますよう。」
そう申し上げると跡に従って家康の御前へと出た。

家康は東西の軍事状況を秀康に説明し、
「秀康、お前が私のためにここに留まって関東を鎮めるならば、私は上方に向かって戦おうと思う。
これをどう考えるか?」

秀康はみるみる機嫌を悪くし
「この秀康、どうして御後に残りましょうか!?ただどこまでも、先陣をのみ望んでいます!」

しかし家康
「上方の軍勢は、みな国々からの集まりに過ぎず、それが何十万騎となろうと何ほどのことがあろうか?
しかし上杉家は累代関東の大将であり、中でも故輝虎入道(謙信)の時に至って、弓矢を取って
天下に肩を並べるものは少なかった。その子として景勝は、幼少の頃より合戦の中で成長し、
歳も既に老け、現在彼に対してたやすく合戦の出来るものは多くない。
天晴、お主のためには良き敵ではないか。

海道に向かって打ち込みの戦をするより、お主一人ここに留まって合戦をすることは、
且つは弓矢取っての面目、且つはこれに過ぎたることはない、何よりもの孝行である。」

そう語ると、秀康は少しの無言の後
「…合戦は、必ずしも軍勢の多少には寄らぬと承っています。上方の大将にも、名を得たもの
少なく有りません。軍勢の規模もきっと多いでしょう。

秀康は未だ合戦に慣れていませんが、景勝一人の軍勢と戦うのに、何ほどのことがありましょうか?
もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」

本多正信はこれを聞くや感極まった
「よくぞ仰せに成りました!関東を鎮められるというのなら、その大将に参らせられること、
仰せにも及びません!」

家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し、自ら鎧一領を取り出して
「この鎧は私が若い頃より身につけ、ついに一度の不覚も覚えなかったものだ。
この、父の嘉例に准じて、今回奥方の大将として良き戦をし、天下に名をあげるのだ!」
そう言ってこれを与えた。秀康も心地よさげに御前を下がり、下野国宇都宮に陣を取り、
関ヶ原の役の間、関東を鎮めた。

上方で西軍が敗れた後、景勝も降参を乞うて伏見へと参った。
秀康にはこの勲賞として越前国が与えられ、明けて慶長6年5月、福井城へと移った。
(藩翰譜)




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:24:59.96 ID:3XFxN570
>家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し

利用する為には、子供に対してもこんな小芝居しなきゃならんのか

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 23:14:33.66 ID:74kpQ63m
秀吉もそうだがこういう時にちゃんと泣けるのが天下人なんだろうよ

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 07:39:19.25 ID:jibHBUEb
演義の劉備は泣いて皇帝になった、と言われるが
実際役立つんだな

少将殿の仕置

2015年04月21日 18:21

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 19:44:21.09 ID:apEtfDEE
越前少将殿(松平忠直)の家臣に、小野某という者があった。
彼は越前家の江戸屋敷に老母を残していたので、江戸に参り老母に会いたいと思っていて、
主人の江戸参府の供に当たることを3,4年待っていたが、当たることがなかったので、耐え兼ね
今度は支配に願い出た。これによって支配より申し立てたものの、その時にはすでに供方帳も
決定していたため、この度は相成らぬという沙汰であった。

小野某は憂悶し、ついに主君の少将に願書を提出した。その文の中に『数年老母に対面仕りません。
この度は是非是非お供仕って江戸に参って、対面したいのです。』とあるのを、少将は見て
「是非是非という申し分、法外のことだ!」
と、大いに立腹し、「切腹を申し付ける!」と言ったのを、家老たちが諌め
「若輩者が不調法申し上げたことは恐れいったことですが、それは孝行の心より起こったことですから、
切腹のことは御免下さるべし」と、様々に説得したため、塩川七之丞の所にお預けという処分に成った。
そうして小野某は一間に入れ置き、足軽12人が呼ばれ、昼夜6人ずつで番をする事になった。

ところで、この塩川七之丞の妻は、同藩平塚左衛門の娘であったが、この平塚平左衛門の妻というのが
奸曲な女であって、塩川七之丞に嫁がせた娘にも、夫に対する様々な悪意を申し含めたため、
自然と塩川と妻の仲も悪化した。

ある日、平塚平左衛門夫婦が塩川の所に来て、ふとした事から塩川と口論に成り、追々言い募り、
ついには平塚平左衛門の妻が

「左様な者の方には大切な娘は置けない!たった今連れて帰る!」

そう言い出し、塩川の妻を引き立て連れて帰ろうとした、平塚平左衛門も止める様子もなく、塩川の妻も
拒む様子もなく、3人共に同意と見えたため、塩川七之丞は暫く黙然としていたが、
「今は免し難し」
そう言うと刀を抜き打ちに、平塚の妻を斬り殺し、次に平左衛門、並びにその娘の自分の妻の3人を
忽ち討ち果たした。

これを見て小野某の番人たちは大いに驚き、小野に向かって
「塩川七之丞殿、乱心と見え舅平左衛門殿夫婦並びに自分の妻3人を皆斬り殺した!きっとこちらにも
斬りこんで参るだろう。こちらに来ない内に早く立ち去れ!」
そう言ったが、小野は

「心配していただいたのは、忝く思います。ですが私は、主命によってこのように籠居している身です。
何事があっても、私は一歩たりともこの外に出ることは出来ません。」

自若としてその場を動かないでいると、そこに塩川七之丞がやって来て、3人を斬り殺した趣意を語り
「この事は家老衆に書き残して私は切腹いたす。さて、貴殿とは御亡父より懇意を申し上げる仲であったが。
対面も唯今限りです。」
そう暇乞いをし、それから届書を認め、元の座敷に戻りその封書を床の間に置くと、平塚平左衛門夫婦の
死骸の上に乗って切腹して果てた。

その後、小野某は山口太郎右衛門へお預かりと成ったが、塩川七之丞が3人を斬り殺した騒動の時、
番人の者達は皆逃げ退いた中、一人主命を守って動かずに居たのを感ぜられて、それから程なく暇を出された。
また、逃げた番人の足軽たちは、その時の当番6人全員が死罪となった。

少将殿は武辺者であるが、武辺者過ぎて仕置も厳しすぎた、と言われている。

(明良洪範)



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 20:02:58.11 ID:lh78JhE4
この流れで暇を出されるのか…

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 02:10:29.36 ID:sgD726Jq
江戸に行って親孝行してやれ…と言う意味かと思ってたが越前屋敷にいるんだな
この場合お母さんはどうなるんだろう

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 02:13:59.64 ID:GmfWYMbu
暇を出されたって、禁固刑食らってたのを赦されたって事じゃないの?

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 10:05:55.08 ID:UbkiBjMC
それなら赦免されたとか許されたとか記されてるんじゃね?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 19:22:45.07 ID:d9ATDP9Z
原文見ても「何共なく只暇を出されける」
としか書いてないか
「いとまごい」の暇で休暇ってことだとは思うが

上方の武辺とは

2013年05月18日 19:54

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 18:14:35.61 ID:NW8/BH9g
江口(たぶん正吉のこと)は丹羽の亡き後に、
越前の黄門君(結城秀康)へ召し出されて一万石を所領した。

越前の家子に高木勘平という武勇の者がいた。高木は新参者が一万石を領するのを怒って、
ある時、江口の膝に迫り寄り、「上方の武辺とは、どのようなことを申すのだ」と問うた。

江口はこれに答えて「上方の武辺とは、人に武辺者と言われ、ここの殿の様な所へ
召し出されて、高い知行を取ることを申すのだ」と言った。

すると、高木は尾も無き様子で「うん」と言って退いたという。

もし江口がその時に「私の前々よりの武功」など言ったなら、
高木は「自分もそれくらいの事を八百回もしたぞ」と言おうと思っていた。

江口は武のみにあらず、才もすぐれた者なので、よく返答したのだ。

――『老人雑話』




631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 19:58:10.06 ID:rrY+3lO/
むしろ尾も無き様子が気になる

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 20:11:05.67 ID:futhla0H
越前の逸話なのにキチガイが出てこないなんて!

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 01:37:57.29 ID:IDLcGgKx
>>631
文句付けようと思ったら上手く交わされて
「お、おう……」
がある意味一番正しいんじゃないかなあw

どっちかと言うと
「丹羽の亡き後」
の長重のすっ飛ばされっぷりが気になる

天晴れ、内府の御子

2012年10月05日 20:38

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 17:14:09.51 ID:f62JAsST

小山評定により今後の対応を決定した徳川家康上杉景勝の押さえとして
結城三河守秀康を残すこととし、松平玄蕃允家清を使いにしてその旨を伝えた。

しかし、秀康は「上方の戦を捨ててこの地に残るとは思いもよらなかった。
例え父君の仰せでもその儀には従い難い!」と憤慨し、梶原美濃守と原隼人を
家清に同伴させて、家康に上方への出陣を願った。

「三河守の若さではそのように思うのも無理はない。直接話したい故、急ぎ本陣に参れ」
家康が梶原らにそう伝えると、秀康は本陣にやって来て家康と対面した。

「此度の上方の敵は何十万騎いようとも烏合の衆にすぎない。一体何程のことがあろうか。
しかし、抑えなければならない上杉家は謙信入道以来、弓矢を取って天下に並ぶ者はいない。
また、景勝は幼弱より軍の中にあって、その武名はとても広く知られている。

今彼と容易く戦えるような者はいないだろう。それだけの者を相手取ることが、
おことの面目を著しく損なうようなことにはなるまい。それに上方へ向かう人々や
その家人らは人質を江戸に留めている。関東の守りが薄くては人々の心も堅くはならず、

勇気を振るうこともできないだろう。そうしたことを考えれば、景勝を抑えるためには
おことをこの地に残さなくてはならないのだ」

話を聞いて秀康も終いには残留を了承した。家康は殊の外嬉しい様子で涙を流し、
自ら着背長を一領取り出した。

「この鎧は儂がまだ若い頃より身に着けていた物だ。これを着ていると不覚を取ることは
一度も無かった。父の佳例になぞらえて奥方の大将となり、名を天下に揚げるのだ」

秀康は心も打ち解けて、心地よく鎧を受け取った。すると本多正信が秀康の側に進み寄り、

「よくぞ殿は御受けなさいましたな! 大殿が一統の功を立てなさるのも、この御一言によって
定まりました。天晴れ、内府の御子にございますぞ!」と、秀康の膝をしきりに叩いて喜んだ。

――『徳川実紀』




726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:05:17.51 ID:MIIXgLVq
>>725
秀康を信用してたんだな実子だし99%無い話だけど家康が関が原に向かったあと秀康が謀反起こしたら
とんでもないことになるからなそうなったら伊達や最上も寝返る恐れが出てくるし
秀忠や忠吉じゃ対上杉戦には心もとないからな

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:06:43.32 ID:4wttK68v
運命の巡り合わせなのか、九州、小田原、朝鮮、関ヶ原と毎回大戦の中の動きの無い場所担当になるよねこの人は。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:27:01.09 ID:juFqUsIZ
手柄たてると実父も養父も困ってしまう微妙な立場だもの

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:30:25.57 ID:Bx8jRiDT
抑えってなんもしないのが仕事だから簡単そうに見えて、実は難しいもんで
ちょっと違うけど、溺れてる人間はパニクらずもがかなきゃ自然に浮くのは頭で分かってても、なかなか出来ないようなもんで
駆けずり回るだけが働きじゃないんだなぁ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 18:38:30.08 ID:uBKtLrES
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

柳生新陰流の極意なり

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 20:45:55.88 ID:aVbq8uSS
対上杉は家康は完全に秀康に一任してるよね。榊原、正信、大久保をつけた秀忠と違って配された重臣って平岩親吉ぐらいだし。
不仲なんてもってのほかだろうな。

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 20:59:52.44 ID:MNnGkwRU
>>731
でも養子に出たとか、いろいろあったにしても、跡継ぎにしてない時点で
どうしても不仲に見えてしまうけどなw

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 21:01:37.79 ID:7dNJWe3w
>>732
母親の身分が、他と比べても著しく低いからしゃーない。
秀忠の生母西郷氏は三河守護代家の家柄だし。

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 22:41:38.53 ID:1PlcJx60
>>731
当初は秀忠も残してたけど、上杉が撤収しちゃって暇になったから
秀忠を真田討伐へ投入しただけだね。

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 09:34:15.97 ID:Thi7JGJa
>>732
織田信広とか他の庶子で後継げなかった者はいっぱいいる。
その中で秀康は活躍できたほうじゃないか。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 13:11:03.45 ID:ojgsjiKr
・・・先生!まーくんは敵じゃないってだけで信用しちゃいけないと思いますw

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 15:04:13.63 ID:Liro16MX
まーくんには鮭さんを傍に当てておけば勝手にいちゃいちゃして大事にならないから大丈夫だっ!

息子は走り寄って、遺体を肩にかついで

2012年07月03日 21:00

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 22:37:19.22 ID:ahYKAU7E
松平忠直の家臣の馬場三郎兵衛は息子とともに大阪冬の陣に参加したが、
敵の陣に突撃して討ち死にしてしまった。すぐそばで父の戦死を目の当たりにした
息子は走り寄って、遺体を肩にかついで、戦場から撤退しようとした。

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 22:40:21.13 ID:ahYKAU7E
>>218の続き
銃弾の飛び交う中を6~7間ほどさがった時、息子はふと「これでは父親を
盾にして引きあげるようではないか。心得のある武士のすることではない」と
考えて、自分の家来に遺体となった父を囲ませて、敵の銃弾が当たらぬように気を配った。




220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 23:10:10.08 ID:bO8stOcc
大阪冬の陣って事は下手すると初陣か・・・立派すぎる
しかし父としては自分を盾にしていいから生還してほしいと願いそうな気も

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 23:30:17.93 ID:41/r/Fye
政宗「父を盾にする奴は父と一緒に撃ち殺してしまえ!」

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 23:49:28.66 ID:pAZgF9/v
家来を遺体の盾にする分にはいいのね…

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 00:03:30.79 ID:HU9wdxzM
言われてみればw
部隊を率いる者としては一人前とは言えないなw

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 00:04:15.19 ID:IDaq8dwx
主君の遺骸を守るとか真の忠臣じゃないですか

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 00:40:45.54 ID:wIlRQ0aT
>>222
人は城、人は石垣、人は濠
盾に使って何が悪い(´・ω・`)

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 03:14:23.18 ID:8jTMfKbX
>>225
それはどこの人海戦術軍かと。
地雷原?そんなの兵士を散開させて進ませればいーじゃん、ていう考えは北の大国では今も健在なのだろうか…。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 03:42:12.05 ID:IUnFH5m1
>>225
「疾き事屁の如く 徐かなる事屁の如く 侵略する事屁の如く 動かざる事屁の如し」

旗印にどうぞ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 03:51:52.32 ID:Zxzeslwz
>>226
シベリアのスッカスカぶりに焦ってるらしいから、やんねーんじゃないな
その下の国(除くモンゴル)は、やりかねないけど

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 12:57:51.83 ID:8jTMfKbX
>>228
下の国も一人っ子政策の影響で兵士が跡取りばっかでうっかり死なせられないって嘆いてるって聞いたな。
その割りにどっちの大国も人命軽視なエピに事欠かないような気もするが(汗

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 13:28:04.70 ID:sEZ18WdI
共産主義っていうのはいろんなものを停滞させるのかな?
両国とも結局は資本主義、自由経済に飲み込まれたけど人の命の重さもふくめていろいろと
『オマエラもう中~近世じゃないんだからそろそろ慣れろよ・・・』って言いたくなる時代遅れっぷり
を感じることはよくある、地力はあるだけに隣人としては厄介この上ない

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 13:40:15.97 ID:wiZ0Tdq2
共産主義以前から、専制国家だった歴史が長いからだろ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 14:15:16.27 ID:Mo9SyXmX
>>230
ああいうのは資本主義を利用しても、理念には馴染まないから強いんだよ
マフィアの強さと同類(笑)


233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 20:11:14.99 ID:IUnFH5m1
共産主義こそが堕落した資本主義の一歩先をゆくのだ

そして今や資本主義は崖っぷちに立っている!

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 23:00:44.07 ID:Rvoq3Uov
>>226


人間なんて10何億のトコは密集突撃で地雷原啓開だお。

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 23:39:13.42 ID:y0G7Djti
>>233
一歩先に崖から落っこちたのはどこのどいつだい?

秀康二話

2012年06月13日 21:00

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 18:53:53.33 ID:Ip47AwPS
まだ出ていないと思ってwikiから引っ張ってきました

その1 「秀康と相撲観戦」

秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。
すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。
その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。
この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。

その2 「秀康と阿国」

秀康は弟の秀忠が徳川氏の家督を継いだとき、伏見城代を務めていた。
出雲阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、
「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」
と、こう漏らしたと言う。