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壮士の死戦すべき所はここぞ

2022年08月14日 16:34

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/14(日) 13:44:08.53 ID:pKpwmqpE
尾州長久手の戦に、成瀬隼人正(正成)は十七歳であったが、敵軍に乗り込み兜首を取り、
家康公の御覧に入れると
「汝は勇士なり。旗本の兵寡し。先ずこれを守れ。」
と仰せになったため、御馬の先にあって息を継いでいた。

ところが先手が敵軍に辟易しているのを見て、駆け出そうとしたが、馬取が轡を取って
「既に功名を遂げられました、然るを敵の中に入り命を亡くすのは何の益があるでしょうか!」
と言った。
これを聞いた正成は大いに怒り馬取を罵ったが手を放さなかったため、刀を抜いて峰打ちし、

「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、逃げる所を追い詰めた後に
止むものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みる事など出来ない!」

しかし鞭打っても罵っても、馬取は猶も放さなかった。

この時家康公は三十間ばかり隔てた場所でこれをご覧になっていたが、

「味方が足を貯め兼ねている。壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」

と仰せになると、馬取この時轡を放った。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を獲って、東西を馳廻り、味方を恥ずかしめた

「君が間近で進退剛怯を御覧になっているのに、きたなくも逃げ走り、一体何の面目があって
後人にまみえるのか!?」

正成のこの言葉に励まされて、引き色だった者も踏みとどまり、進む者はいよいよ勇んだ。

こうして、その年の暮、成瀬正成には根来衆五十人が預けられた。
家康公は、「成瀬の長久手の働きは、軍功の士にも劣らない」と、感じ仰せになられた。
徳川家において十七歳にして将となったのは、正成一人ばかりであるという。

新東鑑



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名誉の返答であった

2021年04月19日 17:40

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/19(月) 14:59:21.84 ID:GCe/x5AD
加藤清正は常陸守殿(徳川頼宣)の御縁者を仰せ付けられた。
東照宮(家康)の仰せに(駿府に於いての事也)
「常陸守の事、清正の婿に申し合わせた上は、諸事子息同然に心得給え。」

清正が退出し御次間へ出た時、彼に御当家(徳川家)の家臣衆が申した。
「只今の仰せについては、定めてご満足であったでしょう。」

清正は云った
「尤も、忝なく存じています。さりながら、昔の秀吉公の御厚恩は忘れ奉りません。」

御当家の老臣達は返答の仕様もなく居た所に、成瀬隼人正(正成)が間に入り
「その思し召し、御尤も至極であります。又家康公の御恩を蒙った者も、またその通りに
家康公の恩を重く存ずるのです。」

と申した。名誉の返答であった。

烈公間話



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 00:58:17.21 ID:Tox4w0bR
>>126
なんで徳川の縁者になったら秀吉の御恩を忘れるということになるの?
秀頼自体が徳川の縁者なのに

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 07:34:02.37 ID:ard2cif5
表面しかモノが見れないのね

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 08:16:09.72 ID:0Qbsx+fU
そもそも秀頼なんて秀吉の種じゃないだろって当時の人も思ってそう

隼人の働き

2019年02月27日 18:19

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/27(水) 10:36:37.16 ID:vfT9Qfg0
長久手の戦いの時、成瀬隼人正成は十七歳であったが、敵陣に乗り込み、兜首を獲って
徳川家康の御目にかけた。この時家康は
「汝は勇士である。現在旗本の兵少ない。先ずここを守るように。」
と命じた。

成瀬は御馬の前に有り、息を継いでいた所、味方の先手が辟易しているのを見て、再び駆け出そうとした。
しかし彼の馬取は轡を執って抑えた
「殿は既に功名を遂げられました。再び敵の中に入り、命を滅ぼしては何の益があすのでしょうか!」
成瀬は怒り罵ったが、馬取は手を離さなかった。すると隼人は刀を抜いて峰打ちし

「小利をむさぼり大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は敵を破り陣を陥落させ、逃走するのを追い詰めた
後に止めるべきものだ。名も知らぬ頸一つに身を顧みるものか!」

鞭打ち怒鳴りつけたが、馬取は猶放たなかった。
この様子を家康は、三十間ばかり離れた場所で見ていたが、ここでこう声をかけた

「味方足を溜めかねている。壮士の死戦すべき所はここぞ。ただその志に任せよ!」

これを聞いて馬取は轡を放した。それと同時に隼人は真一文字に戦場に乗り入り、再び兜首を挙げた。
そして東西を走り回り、味方を発奮させた

「君は間近で進退剛怯をご覧になっている!きたなく逃げ走っては、何の面目有って後人にまみえるのか!」

これに励まされ、引き色だった者も踏みとどまり、進む者はいよいよ勇んだ。

その年の暮、家康は成瀬隼人に、根来衆五十人を預けた。この時「隼人の長久手での働きは宿将老師にも
恥じないものであった。」と仰せに成った。

徳川家に於いて十七歳で将と成った者は、この成瀬隼人のみである。

(武将感状記)


成瀬正成、名誉の挨拶

2018年10月10日 19:35

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:33:48.10 ID:ATyzqMd8
成瀬正成、名誉の挨拶


駿府にて東照宮(家康)が加藤清正に、常陸守殿(頼宣)、紀伊殿(浅野幸長)を
御縁者とするよう仰せ付けられた。
これは、常陸守を清正の婿にした以上は他の子息(義直)も同様にするように
(=義直の舅の幸長とも縁者になるように)との仰せ付けであった。

御次の間に清正が出たとき、清正に御当家(池田家)の家臣衆が
「只今の(家康の)仰せられ様には、きっとご満足されたでしょうね」
と申すと、清正は
「もちろんありがたいことですが、秀吉公の昔の厚恩は忘れられません」
と申したので、御当家の老臣はそれに対して挨拶することが出来なかった。

そこに成瀬隼人正(正成)が
「その思し召しは至極ごもっともですが、家康公の御恩を蒙った者も同様に
 家康公の御恩を重く思っているのです」
とたちどころに申されたのは"名誉の挨拶”であった。


――『烈公間話』


それだけで肴を食うに勝るのだよ

2017年11月05日 17:19

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 20:03:06.54 ID:KfZh2TsO
成瀬隼人正の父・吉右衛門は、関ヶ原の後は伏見にあり、隼人正は駿府にて御政道に加わり、
奉書を成す役人となり、父吉右衛門もこれを賞した。

出世をした隼人正の方より、時折黄金などが伏見の父のもとに送られてきた。
吉右衛門はこれを取ると、自宅の居間の天井より網を下ろし、この金をからげ置き、
客人が来るとこのように言った

「これを見給え。この金子にて肴(食事)を調えよと、隼人正より送ってきたのだ。
しかし、肴が食いたく成る度にこの金を見るのだが、それだけで肴を食うに勝るのだよ。」

大阪冬の陣の講和が整うと、伏見城に隼人正の二人の息子が祖父吉右衛門に逢いに来た。
吉右衛門は彼らに言った

「この度は別状無く扱いになったが、おっつけ御合戦となるだろう。ならば侍の重宝とは馬に如かずという。
江戸が広いと言えども、金二十枚に及ぶ馬はさほど沢山は無いだろう。
これにて馬を求め乗るように。」

そう、二人の孫に金二十枚づつ与えたという。

(士談)



382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/05(日) 08:37:21.77 ID:hB8/XYJE
落語で梅干しを見て出てきたツバでおかず代わりにしたり
鰻屋の匂いをおかずにする噺があるがほんとにするとは

383 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/05(日) 14:20:10.24 ID:fZhUY7y+
>>382
息子の親孝行が嬉しかったんだろうなあ

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/05(日) 17:43:42.85 ID:1omkA1D0
子供からの仕送りを全く使わずに貯めておく親御さんは結構いるよね
で、いざとなったら子供にそれをポンと出すみたいな

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/05(日) 18:59:30.43 ID:qxNXpecv
それをまた孫に与えるというのがいいねえ。
こういう爺様になりたい。結婚もしてねえけど…

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 12:19:34.68 ID:wIqpSQ4E
真性の守銭奴で本当に黄金を肴に飯が食える人かと思ってしまった

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 13:44:27.06 ID:q4w5b6bw
>>387
利家や左内さんならやりそうw

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 14:14:54.89 ID:FIsJp2h+
>>388
左内さんの金はいろんな意味で違う使い方なので…

米商人八郎兵衛

2017年10月11日 19:09

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 18:00:35.41 ID:hmMnuSkv
成瀬隼人正正成が新たに領した地に、米商人八郎兵衛という奸商があった。彼の父の代より、
密かに大小の二種類の升を用い、不正の利益を得てその富巨万とした。

しかし隼人正が領主と成るに及んで、政令厳格にして姦悪尽く摘発されるに及び、八郎兵衛大いに恐れ、
自首して罪を請うた。

この事に隼人正は思った
「八郎兵衛は人を欺き不正に利得を得ており、その罪は許しがたい。しかし自ら罪悪を知り訴え出た。
その心情は恕するべきであろう。まして、この不正を始めたのは先代であり、必ずしも追求すべきでは
ないだろう。」

そして八郎兵衛にこのように命じた

「自今以降は世間に公表して2つの升を使うべし。ただし購入に小升を以ってし、売る時には大升を
以って行え。これを7ヶ年行うことで、前罪を償うべし。」

隼人正はこれによって不正の富が損ずるとのつもりで命じたのである。
ところが、これ以後八郎兵衛の店頭には米を買う者日々に群集し、その富は昔日の倍となったという。

(今古雅談)



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 18:07:39.71 ID:K1Mthq9x
意味が分からない

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:01:12.55 ID:7KqRD381
不正しなくてももうかる値段設定だったってことかな、もしくは付属品で儲けたか。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:06:27.09 ID:H4+NZ/St
売れば売るほど赤字になりそうだけど…米以外のものも売ってたのかね。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:30:23.18 ID:lV7aeGVh
薄利とはいえ他よりマシな値段設定とか

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:54:33.09 ID:OGC4e17e
この店は他店より大きな升で買えると七年経ってもイメージが付いたんじゃないかな

長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

2016年09月08日 17:37

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 11:25:17.38 ID:Rn2M2SzC
長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

 成瀬隼人正の家に長篠御合戦の古図があると、年来聞き及びながら過ごしてきた。
そういったある日にふと幸便があり、借覧を請うてみたら、
彼も部屋住みのときからの知り合いだというので、こころよく貸与してくれた。

 そこで模写させる傍らで絵を視てみると、
長篠城の体から、
勝頼が敗軍して武田の武将のかなりの数が突撃して討ち死にする体、
兵馬旗鼓の状態、
実にその場の真を写すに十分であった。
考えるに、当時の目撃人が描いたのであろう。

 その中の信長の先兵は、神祖の御兵と陣を並べて烏銃を発砲する様を描いたところを
詳しく見ると、信長の兵は十に一か二であるが、神祖の御兵はすべて皆片目で撃っている。
これから思うと、予の藩士が烏銃を撃つときは皆片目である。
 予は初めは田付武衛等の流派では、両目を開いて撃つので、領内のは田舎の旧風であろうと思っていた。
そこで、今は全て田付武衛のに従わせている。
しかし神祖の御時ではもっぱら片目での銃法があることを、これにて知ることができた。

荻野長(八百吉)が言うに
先年系譜修撰の御用を勤めたとき、稲富氏の系譜の中に隻眼烏銃の術を神祖に申し上げるというのを書載していて、
なおかつその時に稲富氏に神祖が下賜された御誓書は、今正しくその子孫に伝わっているという。
この稲富流があるのは世に広く知られていることである。
昔は稲富の法を御当家が採用されたことはこの古画で知ることができよう。

また予の領内で伝えられた隻眼の術は真柳流というとか。
今はその伝は絶えて名のみ残っている。

(甲子夜話)



17歳で将となったのは

2016年05月11日 17:59

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 17:15:36.90 ID:RZRieaSv
尾州長久手の戦の時、成瀬隼人正は17歳であったが、敵陣に乗り込んで兜首を取り、
徳川家康の御覧に入れると

「汝は勇士である。今、旗本の兵が少ない。先ずこれを守れ」

そう命ぜられたため、本陣の先にて息をついていた所、先手が苦戦しているのを見て
駆け出そうとした。

ところが馬取が馬の轡を捉えて

「あなたは既に功名を遂げられました!それなのに再び敵の中に入り生命を亡ぼして、
一体何の益が有るというのですか!?」

成瀬は激怒し馬取を罵ったが、それでも手を離さぬため、刀を抜いて峰打ちし

「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、さらに逃げるの
を追い詰めた後に止めるべきものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みられようか!?」

そう怒鳴りながら峰打ちしても、なお手を離さない。

この時徳川家康は30間ばかり(およそ50メートル)隔てて戦況を見ていたが、
ここで声を発した

「味方は持ちこたえられない様子である!壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」

この時、馬取は手を離した。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を得て、東西を駆け巡り叫んだ

「君は間近で進退剛怯をご覧になっている!なのに黒くも逃げ走り、なんの面目あって
今後人に見えるのか!?」

こう見方を辱めると、引き色だった者も踏み止まり、進む者はなお勇んだ。

そして成瀬隼人はこの年の暮れ、家康から「成瀬の長久手での働きは軍功の士にも恥ずべからず。
誠に感じ入った。」と根来衆50人を預けられ、将の一人となった。
徳川家において、17歳で将となったのは、成瀬隼人一人だけであったという。

(新東鑑)



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 17:31:57.70 ID:vojZxJwv
轡取りの行く末が気になる…

「時に臨んで功者な手段」

2016年02月06日 15:06

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 14:01:14.90 ID:j7aiHJz8
大坂の陣が調停となって堀を埋めた時、豊臣秀頼より女中方が使いとして
やって来て、「堀の埋めさせられようは、どのように致しましても、御情けの
なきなされようでございます!」と、恨み申し上げた。

徳川家康にしても秀忠にしても応対しかね、老中も返事を申しかねたので、
女中方はますます激しく、恨み深く申していたところ、成瀬隼人(正成)が
女中の傍へと近寄り、

「おやおや、こなたは女中であるのに、よくものを申される人ですねえ」

と言って、女中の尻をつねった。女中はこれに困って赤面し、言葉を発する
ことができなかったそうである。

この事は、「時に臨んで功者な手段」と言われたとのことである。

――『武功雑記』



100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 19:28:45.21 ID:vYxxbSP+
セクハラパワハラ

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 20:24:25.19 ID:uEIFzPgd
この女中は美人で名高いお玉の方か

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 20:39:46.22 ID:OlPnY2tG
女中が誾千代だったら死んでるだろ成瀬

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 21:05:46.48 ID:QbI8M+bu
そこへ現れる大蔵卿局

正成が日頃望んでいたのは

2013年07月07日 19:02

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 18:41:06.62 ID:ZcdGcfU1
成瀬正成徳川家康の近臣で、尾張の徳川義直に付けられ、
義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。

正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。

程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。

その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』





家康の孫、徳川光友の得意なこと

2010年09月17日 00:00

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 12:41:12 ID:kzOxco7a
紀伊、水戸と話題に出たので尾張家の話

尾張家二代徳川光友は、柳生新陰流第6世を継承するなど、祖父家康に似たのか
運動能力に殊の外優れ、特に、これも家康からの遺伝だろうか、水泳が大の得意だった。

さて、光友は参勤交代で江戸に来ても、好きな水泳は欠かさなかった。
そんな光友の江戸でのメインプールはなんと、江戸城のお堀であった。

そんな人目に触れる場所で、しかも親藩トップである尾張家のお殿様が水泳をするのである。
話題にならないはずもなく、彼が水泳をするときは見物人があふれた。
光友もこれに気を良くし色々演出も入れ、彼の江戸での水泳は、現代でも見られる
ちょっとした古式泳法のショーのようになった。

終いには光友公、水の上に膳を浮かべ、泳ぎながらそれを食す、などということまでやり
お堀端のオーディエンス達から拍手喝采を受けたという。

凄いと言うか平和と言うか、家康の孫の水泳好きのおはなし。




78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 12:52:10 ID:GsVmZG31
八丈島から泳いで参った人に比べればまだ甘い

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 12:52:51 ID:Rv3nSlSy
参ってねぇだろw

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 12:53:51 ID:Z+ZPHXQZ
なんか、八丈島のほうで「泳ぎなら俺だろ」という声が…

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 13:01:49 ID:axUNTC4I
尾張の殿様派手なの好きなのは血統だな、確信した。

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 13:04:49 ID:qU44D37f
>>77
すげーな。
競泳よりも水球やシンクロに適性ありそうだw

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 21:36:27 ID:+Slt8Uq0
壇ノ浦で鎧甲冑を着たままスイスイ泳いでたあの人に比べても甘いな

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 23:28:58 ID:/aE7IRhs
光友「ならば余は鎧を三重にして泳いでみせようぞ」

あるとき、徳川義直少年はお弁当を作らせていました。

2010年06月10日 00:02

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 20:09:50 ID:kHSGsWv+
あるとき、徳川義直少年はお弁当を作らせていました。
これから鷹狩りに出かけるのでランチにしようというのですね。
おっと、お父さんの家康さんがやって来たみたいですよ。

家康「坊や、何をしているんだい?」
義直「はい。お弁当を作らせました」
家康「おお、そうかそうか。お弁当かあ。



Back come on!!
野宿上等の武士が弁当なんか作ってんじゃねー!!」

おやおや、義直くん怒られてしまいました。
この後、義直くんは疲れて休んでいると家来の人がやって来ました。

家来「お疲れでしょう。この焼き飯でも召し上がって下さい」
義直「あっ!?そういうのはダメだって父上が言ってたぞ!」
家来「はっはっは。大殿さまは『腐らない口糧にせよ』と仰りたかったのですよ」
義直「・・・・・・」

そういうオチだったんですね。
きっとこうして徳川家のめんどくささは受け継がれていったのでしょうめでたしめでたし。




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 20:19:26 ID:RmJYMvP5
>>686
まぁ、当時の『弁当』だから、今のケータリング頼むようなものだったんだろうな。
倹約家で、戦場では可能な限り身軽にするよう心掛けてた家康には、絶対に許せない所だね。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 20:43:03 ID:Xs3bpVMc
>>686
立花宗茂「???腐る前にお弁当全部食べればいいじゃん。もちろん戦陣でも。」

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 20:48:45 ID:AS9oK0jJ
吉川広家「今、弁当食べてる最中」

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 20:50:23 ID:+r6mneRs
上杉謙信「酒と塩さえあれば、それで十分」

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 20:57:02 ID:uvh/uZtW
宇喜多さん家のあの人「皆さんお茶ドゾー」

徳川義直の返事

2010年06月01日 00:04

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 17:43:29 ID:jPcbMmWQ
三代将軍家光のとき、徳川家綱が山王神社に参詣することになった。

幕府は親藩の当主たちに、家綱に付き添えと命じたのだ。

「余は尾張大納言である。家綱は無冠。やなこった。」

徳川義直の返事である。




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 19:27:48 ID:3ISLh79c
>>101
馬の引き手になることを拒否した義経と同じ末路になってもおかしくなかったんだろうか・・・

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 22:49:31 ID:P/LNkSxG
全く御三家はめんどくさいぜw

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 23:04:56 ID:DeFj7hJS
>>104
というよりも、尾張さんは家光に色々メンツつぶされてるからなぁ・・・。
(そしてその原因の大半は家光にある)
まあそれも「相手は将軍なんだからしょうがない」としぶしぶ従ってたが、
今回の件はつまり

「お前の息子でも無位無官なんだから従う義理はねぇよなぁ?
つまり、お前でも無位無官だったら従ってないんだよ。
将軍だから従ってやってたんだ、感謝してろや」

という、皮肉も満々なお返事だったと思われ。

それに一応義直さんは新陰流正統もちだから肉体的にも充実してるし、
「病気多くて体弱い家光なんて知らんよwwwww」的な気分だったのかも。



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 23:12:03 ID:kQf+mvBo
鎌倉・古河公方の野心度>>>>>>>>>>>>>>>御三家全部の野心度

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/31(月) 23:30:35 ID:wP5ompo0
>>107
と言うかこんな感じだなw

足利持氏の野心度>>>>>>>>>足利成氏の野心度>>>その他古河鎌倉公方の野心度>>>>>>>>>御三家全部の野心度

徳川義直がなかなか側室を持とうとしなかった理由

2010年01月26日 00:09

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/24(日) 13:10:38 ID:tWH6+iEO
めんどくさい御三家か

徳川義直はなかなか子供ができなかったのに側室を持とうとしなかった。
その理由が…

「側室など人倫の道に反する!(キリッ」

だった。儒教的には側室OKだったような気がするがとにかくそういうことらしい。
大御所秀忠・将軍家光が「尾張家断絶すんぞ!」と注意しても聞く耳を持たず、

土井利勝の説得でやっとこさ、おさいの方を側室にしたのでした。
まったく頑固な御人…かと思えば見初めた百姓の娘を側室にしてたり。
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1499.html)

そして義直の息子光友はそんな父を回想する。

「親父は変人だった…。俺がたまたま生まれたから御家は助かった。
もうこんなことがあってはならない。

だから俺は子作りに励む!(キリッ」

光友の側室は10人、子供は男女合わせて21人であった。お前も大概だよ。




10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/24(日) 18:48:28 ID:BVEOUiK6
隔世遺伝?


成瀬正成、若い頃、そして今

2010年01月25日 00:06

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 22:33:37 ID:/yXHvKEi
埋めがわりに

成瀬隼人正正成は、老年になって自分の若い頃のことを、こんなふうに語っていたそうだ

「そりゃあ若い頃だから、それほど色々な経験をしたわけではないよ。
そのせいかも知れないが、あの頃出会い、語った若い人や老人の中に、
武辺において自分が負けたと思う人は、一人もいなかったものさ。」

実に若武者らしい気概ではないか。成瀬隼人はこの心持で、戦国乱世を生き抜いたのだろう。
さて、そんな成瀬隼人は同時に、こんな事も言っている

「ところが年を取った今でも、負けたと思う人に会った事が無い。」


成瀬隼人、武辺において生涯自信の塊であった。





983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 23:52:01 ID:CjeFwZOb
武人は自分が他人より劣ってるなんてそうそう認めんし
戦場なんかで武辺で自分に勝る者に出会ってたら死んでるからな

徳川義直「イライライライラ#」

2010年01月14日 00:06

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 19:11:27 ID:KqWqRvAG
徳川義直「イライライライラ#」
家臣「(うわぁ、めっちゃ機嫌悪そうだよ…)う、上様…ご報告したいことが……。」
義直「あぁ!?なんだよ!!」
家臣「ひぃぃ!」
義直「…ちょっと待ってろや!!」

しばらくして…

家臣「上様は何処へ……。」
義直「いやぁ、すまんすまん。待たせたのう。」
家臣「上様、いままでどちらに?」
義直「うむ、厠で用を足してから謡曲をうたっておったのだ。では報告を聞こうか。」

機嫌が悪いと判断を誤る、というのが義直の自論だった。




18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 19:18:07 ID:64mCZX0X
>>17
そう言えば今年は名古屋開府400年だそうで。これも400年近く前のお話なんだなあ。
http://www.nagoya400.jp/

成瀬正成の父、吉右衛門正一

2009年08月20日 00:06

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/19(水) 08:40:32 ID:IbkFphmB
成瀬正成の父、吉右衛門正一は関ヶ原の戦いの後に伏見城番となり、一線を退いた。

ある日、吉右衛門のもとに正成がやって来て、袋を父の目の前に置いた。
「親父殿も、もうご老年じゃ。これで何か美味いものでも食って、楽しんで下され!」
袋には銀子が二十枚入っていた。

しかし、吉右衛門は
「さてさて、おかげ様でせがれもこんな真似の出来る身分になりましたよ。」
と言って自室に袋を吊るし、
「美食が欲しい時に、この袋を見れば良いわ。この銀子は、また何ぞ入り用の事なども
あるだろうよ。」と、手をつけなかった。

何年か経って、大阪冬の陣が終わってすぐの事、吉右衛門は正成と秀忠の近習である
三男の豊後守正武を呼び、二人の前にそれぞれ袋を置いた。
「この分では、来年また戦があるじゃろ。お前たち二人も出陣となろう、これで良い馬でも
買って励め。」
袋には金子二十枚ずつ入っていたので、息子たちは仰天した。


尾張藩家老の息子より、大名になれなかった親父の方が、有事に備え貯めこんでいた
という古武士の心構えの話。




554 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/19(水) 10:32:06 ID:2VJYh/1y
>>550
俺は「心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すべし」
の遺訓に従い、生活費月5万くらいしか使わない生活だぞ。

と言いつつ、今から女遊びに行くんだが、これはしんどいシフト勤務の
ストレス解消だから仕方ない。


徳川義直の配下、焼き味噌を恐れる男

2009年07月30日 00:05

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/29(水) 20:34:55 ID:pPR7UE5V
尾張の徳川義直の配下に変わった男がいた。
焼き味噌を何よりも恐れるというのだ。

それを聞いた義直は直に試してみようと酒宴の席にその男を呼び
酒宴の最中に声をかけて、肴の焼き味噌を手ずから下された。
焼き味噌を恐れていた男であるが、義直自らではどうしようもない。
仕方無く手を差し出し頂戴した。

と、その瞬間男の手は『木作りの如く』硬直してしまい引くことも曲げることもできなくなった。
驚いた義直は男を次の間に下がらせ焼き味噌を捨てさせたが
男の手のひらには赤黒く焼き味噌の痕が残り、やがてそこから腐り出して死んでしまった。

元禄期の尾張藩士の日記「鸚鵡籠中記」にある話




896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/29(水) 20:36:15 ID:NdJjwAp6
怖っ!
焼き味噌を塩や聖水の如く嫌う妖怪かなんかか!?

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/29(水) 20:51:53 ID:ID3YGuaj
今昔物語にもそういう男出てこなかった?

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/29(水) 20:56:33 ID:shJRW5bF
焼き味噌に見えたのは実は大権現様のウン・・・

おっとこんな時間に誰か来たようだ

899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/29(水) 21:12:42 ID:J3n4Zxpq
焼き味噌を怖がっていたら徳川家臣になれない気がするw

900 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/07/29(水) 21:38:07 ID:lvAqBhgT
>男の手のひらには赤黒く焼き味噌の痕が残り、やがてそこから腐り出して死んでしまった。

本当に焼きみそだったのか?

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/29(水) 21:40:44 ID:sh7FfR2j
戦国には桃で死ぬ妖怪も居るし焼き味噌で死ぬ妖怪が居てもいいじゃないか。

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/29(水) 21:41:08 ID:ag/KBVCb
数兆匹の麹菌の集合体だったんだよ

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/29(水) 23:50:22 ID:pZvwcaI5
>>895
 大豆アレルギーの一種ってわけでもないか

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/29(水) 23:56:29 ID:8GZ0o9vz
>>897
「胡桃酒を飲んで溶けうせる話」
寄生虫が人間として生まれ信濃の国司となるが、寄生虫が苦手とする胡桃酒を
出されたために正体が露見。本来の姿を現して水に溶けちゃった。
なぜか妻子もいたらしいw


徳川義直、十人目の名は…

2009年07月11日 00:05

229 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/10(金) 10:53:04 ID:Y7IN0Vnj
十人目の名は…

尾張藩初代藩主となった徳川義直は、藩政に尽力して東海地方の
産業振興に大いに寄与し、自身は質素倹約を旨とした名君であった。

ある時、義直は家臣達に命じた。
「我が家中にて、この者はけしからぬ(無能、傲慢、怠惰…等)と
思う者の名、十名を紙に書いて私に提出せよ。」
つまり、「家中の問題児は俺が直接指導してやんよ!」と言う事だ。
家臣達は、思い思いに紙に名を書き、義直に提出した。
集計した義直は奇妙な事に気づいた。ほとんどの者が九名の名を
書いているのだ。
義直(どう言う事だ?確かに「十名の名」と命じたはず…皆「十人目」
   を書いていないのか?誰だ?ここに書けぬ人物の名は…?)
ひとしきり思い当たる人物の名は、すでに書かれてあった。
「誰だ?」思案に思案を重ねる義直。…そして思い当たった!

「そうか!私か!」

そう。皆、書くに書けなかった「十人目の名」は当主、義直の
名であった。
たとえ名君と称えられても、やはり上司と言うのは部下から
煙たがれるのは、何時の世も同じであった。義直もこれに反省し
家臣には、より気を配るようになったと言う。

良い話と思うけど、義直と素直すぎる家臣のバツの悪い話って事で。





230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 10:56:35 ID:0e+Fk+yS
気がついて逆上しないあたりが名君だな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 11:00:16 ID:i1mbe5Ig
逆上するような主だと思われてたら書かれもしないわけだから
ある意味信頼を表してるともいえる


成瀬正成と米屋八郎兵衛の不正告白・いい話

2009年06月01日 00:06

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 00:14:49 ID:HYXlm1Hy
成瀬正成が領主になってから、領内では善政が敷かれたので、
良民達は正成を尊敬していたという。領内には米屋八郎兵衛
という代々裕福だった商人がいた。ところがある時、八郎兵衛
が自首してきたことがあった。八郎兵衛は自分の罪を語った。

「私の家は米の商いをしてきましたが、実は二つの升で不正を
して裕福になったのです。ですが、貴方様が良い政治をなさって
いるのに、不正を隠していることが恥ずかしくなりました。洗い
ざらいお話いたしますので、私を裁いてくださいませ」

八郎兵衛は自分の不正を告白して裁きを仰いだ。だが正成はこういった。

「自首したのだから裁く必要はあるまい。その代わりにこれから
七年間、これまでとは逆に売る際に大きな升を、買う際に小ささな
升を使用するのだ。そして米以外に呉服なども売るようにせよ」

八郎兵衛は大変喜んで、正成の言う通りにした。すると値段の
安さが評判となり、他領の人々が八郎兵衛のところにやって来る
ようになって、さらに繁盛したという。

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 00:16:16 ID:HYXlm1Hy
>>106
ちなみに犬山城主の頃の話





108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 00:22:42 ID:FZ1o9+kl
そういえば成瀬氏って、正成の時代から明治維新までずっと犬山の領主なんだよね。

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 00:33:46 ID:E+zu+jNv
5年前までは成瀬家が城主だったぜ

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 12:37:23 ID:yP0PCmat
確か犬山城って成瀬氏が財団作ってそこに権利?を移譲したんだよな
犬山市民にゃいまだに殿様扱いなんだろ成瀬家

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 12:54:04 ID:9Kpyss/H
さすがに個人じゃ維持管理が難しくなったのかねえ

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 18:26:27 ID:/aWdo2RJ
犬山城は個人所有だったおかげで
天守に余計な手が加えられずに現存しているのはあり難いことだ。
バリアフリーも何もあったもんじゃないからけっこう危険だけど。