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「武家閑談」から徳川頼宣の詩歌

2023年02月26日 16:26

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/25(土) 20:25:06.11 ID:iwVM1kCD
武家閑談」から徳川頼宣の詩歌

頼宣公、江戸御参勤のみぎりに伊勢の高見山(神武天皇の八咫烏の導きによる東征伝説の舞台)を越えられた時
頼宣公「武士(もののふ)の弓箭(ゆみや)とる名の高見山、猶幾度も越んとぞおもふ」
また芳野へ花見に登山なされた時、雨が降り旅宿で手持ち無沙汰となったため、浜田という医師などが御伽として連句を行った。
浜田は当座に
「不思廬山雨、為君開百花(思わざりき廬山の雨、君の為に百花を開かんとは)」※「不憶廬山雨、為君湛百花」というバージョンも
と一句をつかまつると、頼宣公は
「堪斟盤谷水、対客喫新茶(斟むに堪えたり盤谷の水、客に対ひて新茶を喫す)」
と詠まれたという。

浜田が使った字が「湛」の場合、「堪」「斟」とわざと「甚」がつく漢字を使ったことになる
また「盤谷」で検索するとタイの首都バンコクの漢字表記と出てきたが、韓愈の「李愿の盤谷に帰るを送る序」に出てくる
「太行の陽(みなみ)に盤谷あり。盤谷の間、泉甘く土肥ゆ」の方だろう。



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「武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣

2023年02月24日 19:17

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/23(木) 19:40:08.37 ID:0RbDe1Xr
武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣

寛永十五年(1638年)二月二十一日の夜、島原の城から黒田、寺沢、鍋島勢に夜討がなされ、黒田忠之の究竟の侍数十人が討死にしたと江戸へ注進があった。
鍋島も「井楼や竹束なども焼かれた。なかなか城方の一揆勢は強い」と告げてきた。
御三家もそのため江戸城に登城し、諸大名も皆どうしたものかと思案していると、
紀伊大納言頼宣卿、御一人はその知らせを聞き
「さてもめでたい事である。近日中に城は落ちるだろう。
鍋島は井楼を焼かれたとはいえ、城内におる者どもの武官としての器量のほども知ったと見える」
とおっしゃると、諸大名は皆々こころえぬ顔をしていた。
そうこうしているうちに落城を告げる使者が来たため、諸人は頼宣卿に深く感心したという。



予が十四歳の事が複あるべきか

2022年04月28日 18:12

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/28(木) 15:35:02.06 ID:HeXbkUKV
慶長二十年(1615)五月七日、大阪夏の陣、徳川頼宣卿は大御所(徳川家康)の元に向かうため
頻りに諸軍を進めていたが、喉の乾きを凌ぎかね、馬上より水を乞われた所、三浦長門守邦時の付け人である
柾木清兵衛という者が、馬柄杓にて水を汲んで差し出すと忽ち飲んだ。

大御所に御対面されると、大御所は頼宣卿の髪を撫でられ
「今日はその方等に首を取り飽かせる事が出来なかった。残念である。」と仰せになった。

頼宣卿答えて
「御先手を承らなかった故に、詮無き道に刻を移し、戦に臨めなかったこと、無念至極です。」
と申された。

これを聞いた松平右衛門太夫(正綱)が、
「今日、手に合わすことが出来なかったとしても、御若年なのですから、今後幾度も合戦に遭うでしょう。」
と慰めたのだが、頼宣卿は

「私が十四歳のこの時は、再びは無いのだ!(予が十四歳の事が複あるべきか)」
と、頻りに落涙あって、怒り給いけるとかや。

新東鑑



161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/28(木) 15:51:14.83 ID:9a1G/Nyl
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-709.html
徳川頼宣の初陣・いい話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3364.html
徳川頼宣「わーん!わーん!」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9708.html
遅しとあるは、上意とも存じ奉らず

似たような話はいくつかあったっけ

島原の乱勃発時の諸侯の議と紀州藩が派遣した武士十八人について

2021年09月26日 16:21

591 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/26(日) 10:22:41.39 ID:mrf8lI+2
島原の乱勃発時の諸侯の議と紀州藩が派遣した武士十八人について

何か荒れてるので一応、南紀徳川史、巻二の寛永十四年十一月の記録の引用をコピペしますね。
(武将言行録ベースでないと思われる。)

十一月、嶋原賊起、将軍召三親藩、及諸侯議、
義直公曰、何者愚民及敢驌聚、可一鼓而屠也、
公曰、不然、彼戦有法、決非愚民所能、未易軽也、
眞田信幸曰、紀候言是也、臣父嘗以孤城、抗大兵大、
頗有斬獲、小寇豈可食侮哉、
於是使板倉重昌討之、命西海諸侯、公、遣長尾一在、山中友俊、市川清長、荒木高重等、赴役、

ここから注釈
(按ニ此時役ニ赴シハ長尾勘兵衛父子三人、吉田三右衛門、山中作右衛門、中嶋勘兵衛、荒木十右衛門、
 岡崎治左衛門、黒木興一左衛門、戸田興一、向井五郎八、芦川権太郎、森角左衛門、畔柳五郎右衛門、
 稲生長兵衛衛、片桐市大夫、山本市右衛門、市川勘右衛門等、
 余少カラス而シテ長尾勘兵衛、山中作右衛門ハ最軍功ヲ顕シ片桐市大夫ハ石川左門手ニテ討死、
 又井関又助男六助、四男彦三郎、五男孫四郎兄弟三人共、又助壱封ヲ残シ置出張、
 松倉長門守手ニ属シ六助彦三郎共討死孫四郎ノミ帰国、軍功ニヨリ新規五十石ニ被召出ノ事アレバ、
 子弟壮年ノ輩ハ、働稼キノ為、競テ出張ノ者モ多カリシナルベシ悉クハ知ルベカラズ)

注釈部分の前半十八人の内数名はやや名前が異なる者がいるものの、
松平信綱の嫡男輝綱がまとめた『嶋原天草日記』にも紀州公から遣わされ、
信綱一向に同道して現地へ赴いたという記載があるようなので紀州藩の記録としては
後世の改ざんとかは無い様に思われます。

あと、記録されてないけど後半に名前が出ている井関又助の息子3人以外にも勝手に出張って現地で戦った者が紀州藩にはいるみたいです。
先に書いた尾張大納言と紀州大納言の発言、そして真田信之の発言をただの逸話と見るか、実際の出来事と見るかは
各々の判断かと思いますが、南紀徳川史にはこういう記録も記載されているようです。

600 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/26(日) 14:33:41.85 ID:mrf8lI+2
>>591追記

寛永十四・十五年(島原の乱)当時の藩と島原の乱出兵状況(稿)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sgba/6/0/6_KJ00008545539/_pdf/-char/ja

こちらを読むと、北は仙台藩、東は水戸藩、南は紀州藩と土佐藩、西は長州藩などが島原の乱に使者を派遣し、中には使者なのに討伐軍に混ざって戦った記録がある様です。

ちなみに徳川義直公の尾張大納言家からは使者の派遣・参戦記録は無い様です。

仙台藩の使者の1人は戦後に加増、紀州藩からは18名が参戦したほかに徳川頼宣公の指示で軍船が大坂に派遣されて輸送の役を負ったりしたほか、井関又助の息子3人の様に勝手に参戦した藩士が多数居るみたいです。
あと、戦後松倉家の家臣だった佐野惣左衛門と息子の七左衛門を召抱えたりしたとのこと。佐野親子の戦いの記録は『嶋原覚書』とか『佐野弥七左衛門覚書』として『南紀徳川史』と『島原半島史』に所収されているとのこと。

ちなみに徳川頼房公の水戸中納言家から派遣された使者は戦後、勝手に戦ったことを理由に罰せられたそうです。
水戸家の使者(´・ω・)

水戸家などの使者について参考資料(2P目の(3)部分より)
https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-20520198/20520198seika.pdf
※PDF注意



「万千代!万千代!」

2019年08月28日 15:59

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:30:41.50 ID:9gs3r0Od
勝入(池田恒興)を安藤帯刀(原注:直次。御旗本御鉄砲頭の現在の九郎左衛門の伯父である)が槍を
付け、永井右近(原注:万千代直勝)が後から来たり、勝入の御首を取った。大勢が這い掛けたので、
右近は右手の人差し指を切られたという。

成瀬吉右衛門(原注:今の吉右の父である)が帯刀に尋ねて曰く、「勝入は貴方が槍を付けて永井に首
を取られたと承っていますが、左様なのですか」と。帯刀は曰く「敵の大将を討って首を人にやること
があるか。槍を付けると、後から真っ黒な者が取り掛かると覚えた。これが永井である(原注:永井は
黒母衣である)。勝入の首をすかさず永井が挙げたのだ」と、帯刀は申されたという。

その後、後から武者一騎が脇目もふらずに乗り来たり、あまりに急なのでひらき過ごして後ろから突き
落とした。これが紀伊殿(池田元助)である。その次にまた初めのように乗り来たる者がいて、これも
初めのようにやり過ごして突き落とした。これは秋田加兵衛である。

(原注:岡山にいた秋田という老女の伯父である。老女は延宝7年(1679)に90歳で死去した。
池田主水(由孝)の家来に秋田五郎四郎という加兵衛の筋の者が現在もいる。秋田加兵衛から五郎四郎
までは四代である)

私に曰く、安藤と永井は取り分けて間柄が良かったので、勝入の御首を譲ったという。また曰く、安藤
に神君(徳川家康)が仰せられるには、「井伊万千代(直政。原注:19歳)を何とぞ取り飼い申すよ
うに(何トソトリカヒ申様ニ)」と仰せであった。これによって勝入を槍付けて「万千代!万千代!」
と呼んだのだという。すると、永井万千代が隙間なく駆けて来たという。

安藤帯刀が紀伊殿と加兵衛を討ち申されたことは、加賀爪民部(忠澄)が光政様(池田光政)へ御物語
り申されたという(原注:民部は帯刀の婿である)。

――『烈公間話』



これは東照宮以来の御定なれば

2018年01月09日 17:58

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/09(火) 14:11:41.34 ID:sMBoiIZ+
元禄3年5月4日、将軍綱吉の御前にて、水戸宰相光圀は中納言に、その養子であり世子である
水戸少将綱條は中将に、それぞれ昇進された。その座でのこと。
綱吉の側用人である牧野備後守(成貞)がこのように発言した

「今後中将殿には、今までのように、旗本の諸士を召し寄せられる事はいかがかと」

中将ほどの位の者が、幕府の旗本と軽々しく近づきになるのはどうかと、釘を差したのである。
光圀はこれを聞くと

「備後守は、我が家風を存じまい。御前ではあるがついでなれば申すぞ、
水戸家は御旗本の代将軍を承っている!何事か起こったときは、将軍家の御名代として
采配を許されているのだ。然らば諸旗本に平生から参会して、その器量を見知るのが
御奉公である。

これは東照宮以来の御定なれば、今中将が家督を継いだ後も、この事は違うべからず!」

そう苦々しく申したという。
(武野燭談)

>これは東照宮以来の御定なれば
家康「マジかよ」



469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/10(水) 06:06:26.05 ID:JjetV4kA
家康が亡くなった時は頼房って13歳か?
頼房が徳川を貰うのは壮年だし家康から疎まれてたとも言われてるから黄門さまがはったりかましたんか

花も久しく出来るのならば

2018年01月08日 11:50

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 09:57:48.58 ID:bdvzPBDu
或る年のこと。紀州大納言徳川頼宣は、朝顔の花で午の刻(正午ごろ)まで美しく咲いているのを
見つけると、これを母である養珠院の御目にかけようと遣いを出した
「朝日を待つ間の花と言われていますが、このように盛ん久しく咲いております。」

養珠院はこれへの返答に
「珍しき槿花の事が書かれていましたが、花も養い方次第で、このように久しく咲かせることが
出来るのなら、あなたの御身も養生次第で長生あるべき事でしょう。
あなたは若き人ですから、壮年の頃より養生されれば、きっと長命を得るでしょう。
家中を養うのも、花の手置と異なることがあるでしょうか?
ついでながら申し入れました。」
そのように教訓された。

この事を後年、頼宣はいつも語っていたという。

(武野燭談)



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 15:23:13.38 ID:5cwNbSx6
正直ウザい母親だと思ったw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 16:18:41.27 ID:MXGBOqy6
自分から報告しに行って何言ってやがる

思う事 一つ叶えば又二つ

2017年02月18日 10:19

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 08:41:13.19 ID:ljycbWKM
寛文年中の事。紀伊大納言・徳川頼宣の乗る船が、遠江沖にて荒天に出会い、海上は
茶臼を回すごとく荒れた。

しかし頼宣は顔色も平生に変わらず、船に酔った近習の者達を自身で救うなどした。
この時常の心持ちなど、ふと口ずさまれていた。題知らず

 思う事 一つ叶えば又二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や

人生の願い、絶え間のない実情を詠まれていた、頼宣公は高貴公達の御身であったが、かくの如き
方であった。

(武野燭談)


徳川頼宣「動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」

2017年02月05日 13:58

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 19:46:57.69 ID:5MePCLra
紀伊は山国であり、深山には色々と怪しい事ども多かったが、徳川頼宣はまるで気にしていなかった。

ある時、友島に猟に出かけ、臥木(倒れている木)に腰を掛けると、その臥木にわかに動き出し
龍の形となった。
しかし頼宣は少しも驚かず、志津の長刀をその蛇頭と思わしきところに差し当て

「山神であるのなら、どうして腰掛けただろうか!臥木の姿であったからこそ、臥木であると思ったのだ。
なんと見苦しき振る舞いだろうか!動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」

そう怒って叫ぶと、本の臥木へ戻ったという。

(武野燭談)



頼もしき家来の事

2016年07月21日 17:16

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 00:27:49.69 ID:uZgz+BuU
頼もしき家来の事

紀州南龍院(徳川頼宣)様は、ある日和歌山で御物見に入られ往来をご覧されたことがあった。
御出になられたとも知らずに御家中の者は大勢往来していた中で、
ある御家来が供侍、草履取り、挟み箱持ち、槍持ちを従えて通りかかった。
御側に居た者が

「あれがかの噂となっている男ですか。」

と笑ったのをお聴きになられた。

「どのような噂があるのか?」

と言われたので、御側の者共はやむを得ず話した。

「かの者は身の上が苦しいとのことです。そうなのですが他に取り計らい方もあるでしょうに
甚だ不束なことをしているのでございます。」

「どのようなことをしているのか?」

「かの者が召し連れています侍はかの者の次男でございます。
草履取り、挟み箱持ち、槍持ちはいずれも三男四男、あるいは世話をしています甥などです。」

「それは頼もしい家来である。予は大勢召し連れているが、かの家来に劣らぬ草履取り、槍持ちがいるかというと心もとない。
家計の苦しさは関係のない事だ。」

程なくかの者を御取り立てられて、子供も相応の役に付けられたそうだ。

(耳袋)



「犬に食わせよ」

2016年01月29日 18:53

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 02:11:06.15 ID:cFB0egY4
安藤彦四郎はこう語ったという。

「武士の身の上には“伊達”というものがあるが、心得ている者は少ない。
武士の伊達には、討死にまさるものはあるまい」

――『武功雑記』

大坂夏の陣の時、安藤帯刀(直次)の子・彦四郎重能は、徳川秀忠の小姓の
成瀬豊後守(正武)の組であった。

彦四郎は常々人に語り、「およそ武士というものは、長生きして度々戦場に出て、
武功は多くとも死なずして世を送っては、格別に優れた勇士とは言い難い。ただ、
討死することこそ本望である」と、言った。

5月7日になって、彦四郎は「一番首と言わば彦四郎と思いなされ、一番に
討死と言わば、それも彦四郎と思いなされ!」と言い、撓いの指物を巻いて
井伊直孝の先陣へ行った。

そこで彼は庵原助右衛門(朝昌)に向かって、「いざ掛からん!」と言った。
しかし庵原は同意せず、「敵の待ち受けている矢先へどうして掛かることが
できるだろうか!」と、言った。

これに彦四郎は「待ち受けている矢先へ掛かってこそ勇士と言うべきである!」
と言うが、庵原は「いまだ早い!」と言って攻め掛からない。

すると彦四郎は、「さらば私が掛かってみせん!」と言った。庵原は彦四郎を
押し止めたが、彼はまったく躊躇わずに敵の中へ駆け入って討死した。

さて、父・帯刀は馬上で采配を取って諸軍を命令していた。そこへ従者が駆けて
来て彦四郎討死の旨を告げ、「屍をいかがいたしましょうか」と申し上げた。

これに帯刀は「犬に食わせよ」と言いながら、崩れた味方を立て直した。その後、
合戦が終わると、帯刀は大いに嘆いたということである。

――『明良洪範』



54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 03:22:56.23 ID:i2sa2dX4
匹夫の勇ってやつかね
子育てに失敗した悪い話だな

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 10:43:13.93 ID:p3p9MENe
ヴァイキングの社会では戦場で勇敢に戦って死ぬとエインヘルヤル
としてヴァルハラに行けるが、天寿を全う、病死、海難事故は藁の死と言われて
地獄行きの恥ずかしい死に方とされていた。

鬼武蔵こそ大正義

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 11:02:32.71 ID:Rw0/EE71
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html
犬に喰わせろ、の話は既出

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 12:49:15.38 ID:Rw0/EE71
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3368.html
伊達も出典はないが既出だった

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 14:25:15.09 ID:uO/yXBy0
い、伊達

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 19:20:01.82 ID:gZducy7M
一番首(討ち死に)=ファーストペンギンの役目ってことなのかな?
自軍を鼓舞するには手柄あげるにしろ死ぬにしろ勇敢に奮戦するところを見せること

ちなみに彦四郎殿は南龍公の茶入だかを酔った末に破損
→自害も覚悟したところを許してもらっており、拾った命と思っていたのもあるんじゃない?

遅しとあるは、上意とも存じ奉らず

2016年01月02日 17:31

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 01:24:16.30 ID:7a9ptBXh
大坂陣の時、4月末に二条城へ徳川秀忠が入り、徳川家康と相談して大坂表での戦闘について
取り決めた。この時、14歳の徳川頼宣は御前へ出て、「御先手を仰せ付けてくださいませ」
と望んだ。これに家康は機嫌よく、

「もっともな望みだが、大坂表は将軍が先手を致されるので御気遣いなさるな。大和・紀伊・和泉・
河内の地侍どもは皆々秀頼へ一味し、攻め手の後ろより襲われるかもしれないので、後陣が
心許ない。義直と其の方と永井右近(直勝)や安西組は後陣に控えて、後ろからの敵を切り崩せ」

と、言ったので、頼宣はやむをえず退出した。

(中略)

頼宣が茶臼山へ上ったところ、家康は床机に腰をかけ、秀忠は敷皮にいた。そこへ出た頼宣を
見た家康は、「合戦があったのに今になって参ったのか。遅い!」と言った。

これに頼宣はこらえずに、「これを思っていたからこそ、二条の御城で御先手を望みましたのに、
それを御許容なされず後陣に御置きなされて遅いとは、仰せとも思えません」と恨み申し上げた。
これに家康は困って「わしの誤りであった。其の方が道理じゃ」と言った。

(遅しとあるは、上意とも存じ奉らずと、御恨仰上げられ候へば、権現様御困りなされ、
我等の誤り、其方が道理じやと上意遊ばされ候)

――『南竜言行録』



868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 12:18:22.01 ID:QoXbpbGz
家康 痴呆症だったかw

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 12:20:05.05 ID:vVBhAP4s
秀忠もこのくらい言い返してたら

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 17:49:30.88 ID:szi0CsCr
秀忠(…物覚えが悪い話しか……)

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 19:45:06.24 ID:HHIRukF0
後陣が後詰の役割ちゃんと果たしのに怒られるとは
家康マジでボケてんじゃん

タバコで裏をかかれた水戸の殿様

2015年10月23日 19:48

858 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/22(木) 23:34:25.75 ID:fo5z/RBa
タバコで裏をかかれた水戸の殿様

徳川頼宣の江戸屋敷に水戸の殿様が時折遊びに来た。ところが水戸の殿様はタバコを出すたびに、
「何じゃ、このタバコは。もっと、よいタバコはないのか」とケチをつけるのである。
頼宣の家来は懸命にいいタバコを探して出すのだが、どんなタバコを出してもケチをつけられ、
ほとほと困ってしまった。
大番頭の加納五郎左衛門直恒は実直な男で、懸命に対策を考えた末一計を案じた。
水戸様が紀州屋敷にやってきたとき、五郎左衛門は水戸様のお供のところに行って、
御殿様がいつも吸っているタバコを所望されているので、そのタバコを出していただきたいと申し入れた。
さらにこのタバコは水戸様常用のタバコに間違いないという書付をとって奥に入り、水戸様に差し出した。
それとは知らず水戸様は、一服吸うと例の通り「なんじゃ、このタバコは・・・」とやりだした。
五郎左衛門は進み出て、「恐れながら申し上げます。この御タバコは御殿様がお持ちになったもので、
当方のものではございません」と言ったので、水戸様はぐっとつまって後が続かなかった。
その後は紀州屋敷に来てもなにも言わなくなったということである。(南紀徳川史)

この水戸様の名前は書かれていないが、頼宣と重なる水戸藩主は頼房か光圀である。
頼房は豪快で頼宣とは一つ違いの弟だから、遠慮なく大口をたたくことができたであろう。
光圀も豪快だが、伯父さん前でそんな大口はたたかないであろうから、この水戸様は頼房であろう。
(参考 たばこ史研究第五十一号)



859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 08:48:01.77 ID:FBBKs4TO
>>858
CiNiiで調べたらそんな学術誌(?)ほんとにあんのなwww

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 15:17:31.31 ID:kfYqM7hX
戦国が続いていれば頼房も5人目のDQN四天王になれたかもしれない

八王子の大猪退治

2014年11月12日 19:10

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 19:55:04.33 ID:avI3smnt
徳川家光の御代、武州八王子村に巨大な猪が出て、田畑を荒らし、また人をも踏み倒し、農民たちは
難儀に及んだ。幕府は御先手に仰せ付け鉄砲でこれを討とうとしたが、その走ること至って速く、
終に討ち留めることが出来なかった。

そんな中、紀伊大納言頼宣卿は猪狩りが好きでその巧者である事、将軍家も聞き及んでおり、
彼が登城の時に、この八王子の大猪の話題が出、頼宣卿にこの退治を依頼された。
頼宣卿はこれを忝なくお請けし、退出するとそのまま直に八王子へと出掛け、所の名主年寄りたちに
支度を申し付け、それから帰館して、家中に触れを出して皆々に用意させた。

そしてこの事は尾張、水戸の両家にも聞こえ、両家よりそれぞれ優れた猟犬が進ぜられた。

さて、猪退治の当日となり、頼宣は夜明けから出立し八王子に至った。
頼宣卿は床几に座り、焼飯を盛った三方を前に置き、水戸殿より進ぜられた犬を召し出し焼飯を与え

「汝、得たる所であれば、隠れ居る猪を探しだすのだ。」

そう語りかけると、犬はしばらく頭をうなだれていたが、やがて頭を上げて山の方に向かい、
尾を巻き上げて一目散に走りだした。
暫くあって大猪が、山の方より荒れ狂って走り来た。かの犬は猪の前後左右を走り廻り、飛び付き
噛み付きながら共に走り来た。

列卒はこれを見ると他の犬10匹ばかりを猪にけしかけ、かの犬は傍に引き退かせて水を飲ませ
焼飯を食わせて休息させた。

しかし、大猪は大勢の犬を事ともせずあちこち暴れまわった。
ここで頼宣卿は下知を下し、尾張殿より進ぜられた犬を放すと、やがて猪の元へ走り行き、その喉元に
噛み付いた。
大猪はそのまま暴れ廻ったが、次第に弱り、人を踏み倒す勢いも見えなくなったため、
頼宣卿は下知して家士達に槍を持たせ猪に向かって駆けさせせ、終に大猪を仕留めた。

その時、あの犬を見ると、猪の喉に噛み付いたまま息絶えていた。

頼宣卿は「あたら犬を死なせてしまった!」と甚だしく嘆き惜しんだという。
この話は御鷹匠の長田清左衛門が、その時猪退治の人数の中にあって見たものだという。

(明良洪範)




749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 21:12:47.29 ID:vSxAZHEF
>>747
これなんてシートン動物記?
ブルテリアのスナップの話を思い出して目から汗が

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 21:18:32.86 ID:j6Gg43p2
>>747
いい話スレの影響で、どうしても焼飯に目が行ってしまう

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/11(火) 21:58:20.71 ID:3V/B11q4
>>747
銀牙が頭の中から出てきた

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 01:13:53.00 ID:jojW1hFp
最近でもイノシシに殺された人居るし結構怖いよな

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 03:45:38.90 ID:49Pqado6
伯林の「ケモノシマ」でもイノシシの恐ろしさは描かれてるものね

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 05:37:51.64 ID:uuLfvMgq
ちょうど大腿の動脈あたりを牙にやられて逝くらしい

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 11:33:04.09 ID:F17jaxZE
猪スゴイよじゃがいも畑荒らすんだけど
畝の端から端までラッセル車みたいに一直線にむさぼり食って綺麗さっぱりw
ちょっと頼宣卿をおれも頼みたい

ていうか>>747ですごいのは犬じゃんw

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 12:12:52.39 ID:akETb3QX
最後に銃を使うと思ってたが犬を大量にけしかける戦法だった

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 12:27:04.93 ID:yZ9owJdf
大学時代、歴史好きの友人と城跡めぐりをしてるときに、あるところで、
「ここの、ちょっとした土塁と石積み、ちょうど猪垣くらいの感じだな」って言ったら、
都会育ちの友人に、「“ししがき”って何?」と真顔で聞かれた。

それからしばらく、猪垣について解説してやったら、「へぇ~っ」っとめっちゃ感心された
いや、今でも田舎の方に行ったら田畑の周りに残ってるところあるよ、って言ったんだけどね
うちの実家の周辺は今でも猪も猿も鹿もふつうに出没しますが何か?と言ったら宇宙人でも見るような目で見やがったw

そんな田舎者のオイラが通りますよっと

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 21:53:09.16 ID:PKvY1zNW
最近でもイノシシに殺された人居るし結構怖いよな

「はて?他には誰も居ませんよ。」

2014年09月28日 18:55

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 17:54:26.92 ID:VlJywYPD
先日いい話スレで出てた安藤直次のまとめサイトのコメント欄を読んでちょっと投下

「帯刀め、腹を切るべきところを、二度も許してやったものを・・・」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4521.html
これに被る話

この二度お許しにとの事は、
安藤直次が若輩の時、家康公の御愛童である井伊万千代を恋慕い御小姓部屋へ忍び込んだ事が二度有った。
一度は見つかりそうになったところを屑籠に隠れて難を逃れた。
二度目は部屋へ忍び入って居るところへ家康公が御成りになったので
万千代は部屋の入り口まで出迎え

「今夜は障りで気分も優れぬのでお相手出来ませぬ」

と気色ばんで申し上げため、家康公はそのまま帰って行った。

その後、横須賀衆がふと部屋へ入って来た。
直次急いで屑籠の中に万千代を隠し蓋を被せた。

「他に人影が見えていたのだが」

と横須賀衆が申し、その蓋の上へ腰掛けるた。

「はて?他には誰も居ませんよ。」

と直次は少しも臆せずに言った。

後にこの事を家康公がお聞きになったのでは無いだろうか。

(安藤旧談)

後半の訳に自信が無いからここに掲載されているので確認してみてくだされ。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899839/3

尚、この逸話は『新東鑑』にも紹介されているらしい。




385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 18:04:51.86 ID:AmO+dV8k
直次はん、なにやってるんですか

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 08:51:20.38 ID:wCR2Mv68
>>384
この横須賀衆って誰?
とゆうか、権現様が怪しく思って横須賀衆に様子を見に行かせたとかだったら怖い
籠に閉じ込めたのも見ていてその蓋の上にわざと腰掛けたとかさ
まさか横須賀衆まで小姓部屋に夜這いに来たわけじゃあるまいよな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 09:13:27.00 ID:9sTixHBQ
横スカ臭(意味深)

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 10:46:58.53 ID:UMTVnVYd
三河衆なら憶えちゃいるが
横須賀衆だとチト分からねエなあ
面倒臭い野郎だって ここにゃ沢山いるからねエ
ワルイなあ 他をあたってくれよ

アンタ 万千代の何んなのさ!

海老江の勝左 里勝 ヨコスカ~

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 10:53:24.01 ID:ODGZljEx
港のよ~こ、よこはま、よこすかー

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 11:04:17.46 ID:rvsXJ7UG
まさに誰うま

安藤帯刀「あのように諸役人を遇するのは」

2014年09月25日 18:50

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 02:48:25.51 ID:HBI3MB18
徳川家康が駿河において、その十男徳川頼宣の邸へのお渡りが行われる事となった。
その頃土井大炊頭利勝は未だ家康のお側近くに使えており、家康より「今度の事で頼宣邸に先に向かい、
頼宣の家老・安藤帯刀直次が準備を指揮する様子を見学するように。」と仰せ付けられ、利勝は
毎日出向しその様子を見た。

ところが頼宣邸では、諸役人が帯刀の前に出て「この事はどうしましょうか?」と議する時、
帯刀が自分の意に適うことはそのまま了承し、そうでない事には「いや、それは良くない」とだけ
言って、内容について何の指示もしなかった。よってその者は同僚と重ねて相談し合った上で再び
帯刀の前に出てこれを伺うが、また意に適わない内容であれば幾度も前のようにし、終に納得すると
これを許諾した。

利勝は帯刀にこのように感想を漏らした
「私が思うに、物を問われたのに『良くない』とばかり言うよりも、直に『このようにせよ』と指揮したほうが
物事も早く終わるのではないでしょうか?」

帯刀これを聞いて
「私は犬馬の歳もすでに長けて、後はもう死ぬだけです。あのように諸役人を遇するのは、
まだ若き殿に、人物を作っておいて進ぜたいためなのです。

私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
良き人物は出来ないものです。」

利勝はこの言葉に大いに感じ入り、「これが家康公が見習えと仰せになったことなのだ。」と気付いた。
そして後々機務を司るようになると、下僚より質問があった時、我が意に敵わない時は
「それはそうかもしれないけど、他に何かやり方がないかな?同僚と相談してもう一度言いに来て。
同僚と話し合いできないのなら、親族か家臣とも相談してみなさい。」
そうしていよいよ議論を重ねて、理にかなう内容になれば
「いかにも尤もである。その通りに行うように。」と言ったという。

(古諺記)



875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 11:42:59.89 ID:ZTk2Q6/A
土井にしても安藤のやった事をそのまま引き写したわけではないのが
またいい話だなと思う

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 22:05:15.59 ID:PSfpCP45
>>874
>私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、

ジャン・リュック・ピカード大佐の組織論かよ

指物の大小

2014年09月18日 18:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 05:55:05.41 ID:t9HAUqx3
大阪の陣の時、徳川頼宣の家臣である矢部虎之助と言う者は大力であり、長さ二間(約3.6メートル)の
指物、三尺あまり(約1メートル)の大刀、立物は大位牌に一首の歌

『咲く頃は 花の数にも足らざれど 散るには漏れぬ 矢部虎之助

と記されていた。

この様相での出立に、諸人は目を驚かせたが、これらはあまりに重すぎて馬が進まず、
戦場でも人より遅れて功もなく、残念に思っていた所、家中からも武道不案内の者との評判に会い、
虎之助は心中これを恥じ憤り、食を絶って20日ばかりの内に死去した。
誠に惜しき士であった。

凡そ甲冑指物等には心得があるべきなのだ。目立つのはその大小には寄らない。小印だ大印だなどと
言われるが、小印であっても大いに目立つ指物もあるのだ。

(明良洪範)

関連
豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について


287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 06:38:13.47 ID:21kY6S2M
ワロタw
見た目特化は男子の夢だから仕方ない

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 07:18:18.20 ID:FHW/AJiO
準備は大事だねー

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 08:23:24.61 ID:EsXIyVPY
指物が駄目だったかな

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 10:42:55.65 ID:EsXIyVPY
大坂方なら塙団右衛門みたいに持て囃されたかもしれないのに…
でも重すぎてろくに動けないのはやっぱり突っ込まれるなw

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 12:24:23.08 ID:NoFUxqT+
まぁ戦国武将は目立ってなんぼだからな
せっかく勲功上げても誰も見てないんじゃアレだし

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 12:41:03.05 ID:iCbg1FQ+
稲富祐直「鉄砲持てば鎧が重くても大丈夫よ」

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 12:44:49.85 ID:WzSeADYm
砲術書の図ではふんどししか装備してないじゃないですか…

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 12:55:09.46 ID:WTOzLdeR
可児才蔵「フッ…(ドヤ顔)」

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 13:42:03.33 ID:JttA5Pst
蒲生氏郷「カブトで目立つべき」

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 17:32:40.63 ID:vZ3cSi9X
橙武者が通りますよ・・・

>>286
有名すぎるくらいの話と思ってたが、このスレでは初めてだったんだ

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 17:46:01.59 ID:gWxu6Ktj
全身に鈴ってのは実に合理的な手段だったんだな

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 17:55:36.45 ID:M3qJal5E
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-979.html
矢部虎之助の「位牌」・悪い話
まあ既出ではあった

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 12:23:21.22 ID:FDoaW1L5
よく討ち取られる人「鎧をあげると何度でも討ち取られるよ!」

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 13:38:27.95 ID:rfjCCa7E
「いきすぎたりや、廿三、八まんひけはとるまい」

もう23歳だ。生きすぎたくらいだろう。
この喧嘩、八幡大菩薩に誓って、退かないぞ

訳するとこんな感じ?でいいのかな?
古文得意な方教えてください

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 22:19:56.78 ID:PrWfNCVT
>>302
全盛期の一条信龍伝説

・3出陣5討ち死には当たり前、3出陣8討ち死にも
・感状発給討ち死にを頻発
・一番槍討ち死にも日常茶飯
・甲州崩れ、三河勢1万に対し手勢3百から1人で討ち死に
・駿府城代も余裕で討ち死に
・一回の戦で討ち死にが三回起こる
・殿で討ち死にが特技
・討ち死にでも納得いかなければ三途の川を渡らないで帰ってきてた
・合戦の無い移動日でも2討ち死に
・刀を使わずに手で討ち死にしたことも
・自分の討ち死にを自分で捕縛して弓矢で射返す
・所領巡察で討ち死になんてザラ、2周することも
・三段撃ちしようとした射手と、それを受け止めようとした二番備、遊撃、中堅の武将ともども討ち死にした
・唐入りの朝鮮人のヤジに流暢な朝鮮語で反論しながら背面討ち死に
・グッと鬨の声を挙げただけで5回くらい討ち死にした
・討ち死にでハリケーンが起きたことは有名
・湾岸戦争が始まったきっかけは信龍の討ち死に
・甲斐の深い位置から木曽谷のウグイスも討ち死にしていた
・自分の討ち死にに飛び乗って涅槃まで行くという功徳積み
・信龍の討ち死にによる衝撃波で体が真っ二つになった武将がいた
・スカイフィッシュの正体は信龍の討ち死に
・討ち死にで全米が泣いた
・信龍の出陣のときだけ犯罪率が下がる
・討ち死にのおかげで信龍の出陣のときだけ地球の気温が2度下がった
・流れ星の正体は信龍の討ち死に
・実はノドンで一度討ち死にしてる
・数字の1は信龍の討ち死にした姿がモデル
・信龍の出陣のときの視聴率は200%。2~3台のテレビで見る公家もざら
・日本には討ち死にに乗って帰る
・信龍は、いつも店先のトランペットを物欲しそうに眺める家臣に自身の武具を贈ってあげたことがある

ただ何ということも無い様子

2014年08月01日 18:55

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/01(金) 10:57:36.83 ID:GX53B0Pc
酒井忠勝は安藤直次に会って、紀州にいる自分の親戚のことを頼み込んだ。

これに直次は、「こちらの者は皆麾下の縁りの人々なので、そのもとの仰せに
従うためには、皆々の依頼にも従いませねば叶い難いので、御容赦ください」

と言って、ただ何ということも無い様子であったという。

――『名将言行録』




備前がそのような了見であるのなら

2014年02月24日 19:10

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 20:56:20.44 ID:vLF4YCSg
水戸頼房公は齢若し頃、殊の外男伊達をなされ、梅花皮鮫(かいらぎさめ)の皮のかかった
長刀に金鍔を打ち、衣服等にも紅裏をつけ、その他不行跡な事があり、江戸中の上下の取りざたとなり、
お付の家老、中山備前守(信吉)が、毎回色々と異見申し上げても、それを聞くことはなかった。

ある時、幕府の老中より備前守に奉書を以って『御用の義これ有り候。明四ツ時(午前10時頃)
登城候様に』との命があったので、備前守が登城した所、老中たちは彼に

「今日そこもとを召した御用に関しては、我々も存じていません。この後、公方様(秀忠)の御前において、
直接に御用を申し付けられる、とのことです。」

これを聞くと中山は
「皆様いずれもご存じない御用のことで、私が御前に召される、と言うことは、私にも存じ当たりが
あります。これはきっと、水戸殿(頼房)の行跡についてお尋ねになるのだと、推察いたします。
つまり、有り体に申し上げれば、主人の悪事を訴えろ、ということです。

しかし、『何事も私は知りません』と申し上げる、もしくは悪しき事をも宜しきように取りなして
申し上げるというのは、御上を欺く、後ろ暗いと申すものです。
ですので、私は御前に出てしまっては、もうどうしようもありません。
私が御前に召されるという件については、登城はいたしましたが、このまま退出させていただきます。
この場合、御上の御意に違うのは私のことであり、その御機嫌を損ないお仕置きなどを仰せ付けられても、
それは覚悟しております。」

老中たちはこれを聞いて何れも留まるように説得したが、備前守は承知せず帰宅した。
帰宅の途中、中山は水戸家の上屋敷に立ち寄った。そこでは頼房も、この日備前守一人が
御用として召されたことを納得できずに居たので、御用が済んで備前守が帰ってくるのを待っていたため、
早速召し出すと、備前守は江戸城内での次第を申し上げ

「私については、公方様より、今後どんなお咎めを受けるかわかりません。わたしは切腹と
覚悟を決めております。ですが、この上ながら残念なことが3つあります。

1つは、私に才知が無いため、御前様(頼房)のご行跡を聞くたびに、それをお改めなされるように
ご異見申し上げても、これを聞き入れて頂くことが出来ませんでした。

2つ目は、御前様はご若年でありますが、この備前守を付ければ気遣いもない、とご安堵なされた
権現様のおめがねを相違いになし奉ってしまい、これは今更申し訳も出来ないことです。

3つには、とくに考えていなかったわけではないのですが、かれこれと見合わせているうちに
すっかり引き伸びにしてしまいまい、御前様の不行跡の相手をする、不届きの奴原を成敗せずに
安穏に差し置いたまま私が相果ててしまえば、いよいよその行跡に差し障るのは必定です。

たとえ、私は切腹しこの身命が終わりましても、魂はここで、殿のお側を離れません!
願わくば、ご行跡をお改に成り、御上の思し召しにも叶いあそばされるようあってほしいと、存じ奉ります。
これは、私の今生の暇乞いですので、願わくば御酒を頂戴いたしたく、これを持ってくるように
申し付けさせて下さい。小姓衆!酒と盃を!」

そう備前守が言った所、頼房は小納戸衆を呼び集め、日頃用いていた伊達な拵えの刀、脇差、衣服等
尽く取り出し持ってくるように、と命じ、備前守の見ている前で、それらを小姓衆に残らず分け下し、
その上で挿していた脇差しの鍔元を小刀で打ち、
「今後は行跡を改める!であるので、備前守も気遣いせぬように!」
と言った。

ところでこの時の、中山備前守が無断で江戸城から帰宅したことについては、その内容が
老中達から秀忠の上聞に達し、秀忠は

「備前がそのような了見であるのなら、水戸の行跡もきっと治るであろう。重畳の事だ。」
と語ったそうである。
(駿河土産)

中山備前守、命がけで徳川頼房の不行跡を改めさせる、というお話




449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 21:15:54.81 ID:JJQL3nwu
これは誰もが格好の良い逸話だね。

命がけで諌める中山備前守
金打までして誓って見せる頼房
そして安定の秀忠クオリティ

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 23:18:29.25 ID:WFUz0RTY
やはり本気ってのは善くも悪くも人を動かすね
今回の話は善く動かす典型だ

徳川頼宣、火事の話

2013年10月31日 19:18

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 07:20:40.17 ID:RaiMKiAr
紀州和歌山で失火があった時、家老久野和泉守は預かりの櫓へと人数を上せらせ
「一人でも降りるものは切り捨てにすべし、消防できずば皆焼死せよ」と下知して、
自分も家人もあちこちに怪我はしたが櫓は無事に残した。

この働きを和歌山中の者は貴賤ともに賞賛しないものは一人も無かった。
しかし頼宣卿は何とも仰せられず、その他にあちこちで火を防いだ者にも一言の
御意もなかったので、家老を始め下々の者まで不審に思っていた。

それより二、三年過ぎて御近習の士を集めてお話になられていた時、火事の話に
なり仰せられたのは

「失火の際に消防に身命を軽んじて働くのは血気の勇で、真の義勇にはあらず。
ただ智が足りないだけだ。

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 07:22:50.00 ID:RaiMKiAr
火は無情のもので天気が乾いて風が烈しい時はなかなか人力の及ばざるものだ。
ただし水がよく行き届く時は消防も行き届くが、もし水が行き届かない時は家屋は
もちろん人まで焼亡してしまう。

どうして家屋が燃えつきる事を厭って人を損ずるべきであろうか。これは無智の勇に
して、ただ血気の勇である

いかなる金殿玉楼であろうとも人には替えられない。家は幾度消失してもまた元の
通りに造れるが、家人一人を損じたらその家人はもう戻ってこない。

失火の為に我が大切な軍兵を失えば、それこそ不自由というものだ」と仰せられた。

久野和泉守はこれを聞いて感心していたと紀州家の三刀谷伴蔵が物語った。

(明良洪範)




456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 09:21:12.96 ID:loSbYA7v
久野和泉守が本当だとしたら1643年生まれなんですけど
スレタイわかってる?

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 09:35:35.20 ID:DhARhHe+
頼宣がスレの範疇だろ

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 12:58:30.02 ID:eqnLTJY5
忠勤を誉めてやったうえで
命には代えられないといってやればいいのに。

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 13:04:41.64 ID:X2DSLFvN
他に何を言ってもお褒めの言葉があれば良い行いだと認定してしまったことになって家の名誉になるし
ダメだと思う