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目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!

2021年12月25日 15:20

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 10:42:29.69 ID:VAMcHqsE
或る本に曰く、大阪冬の陣、今福の戦いにおいて佐竹義宣の軍が難儀に及んだ時、後陣に控えていた
堀尾山城守(忠晴)に援兵を要請した所、堀尾は「心得候」と返答した。
この時、幕府の御目付である安藤治右衛門がこの場に在り、堀尾に「(幕府の)御下知も伺わずに
人数を出す事、然るべからず。」と申し上げこれを制した。しかし山城守は

「御下知が無いからと言って、目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!」

と、その勢二千計りを左右にして、勝ち誇っている木村重成の軍勢の所へ、会釈も無く駆け入ろうとした。
ところがその場は堀越にあり、駆け合う事は出来ず、彼等は徒に合戦を見物するのみであった。

堀尾はこの年十六歳にて、天下無双の美男であったと云われる。

新東鑑

堀尾忠晴、見物なんて出来ない!と言って出撃したのに結局見物してしまったというお話



256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 14:26:31.47 ID:HufBNS07
この後のイケメンが気まずそうにしてる顔が見たい
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堀尾忠晴15歳、大阪冬の陣で諸先輩を唸らせる

2011年05月18日 00:02

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:01:30.81 ID:VuWajU97
では堀尾さんところの、いい話なんだろうけど、なんというかw

慶長19年(1614)、大阪冬の陣。
11月29日、大阪の水口方面にて佐竹義宣の軍は後藤又兵衛・木村重成率いる大阪勢と激戦となる。
両軍に多くの死傷者を出し、大阪方は「後藤・木村を討たせてはならない!」とさらに千四・五百の
軍勢を繰り出す。
これを察した義宣は待ち受け向かい討たんと自ら長刀を手にし堤の影に軍勢を隠し敵の到来を待つ。
その時の佐竹義宣の姿は虎が風に毛を振るい、獅子が獲物を喰らわんと歯噛みするようであった、と伝えられる。
敵が、来た。今や掛からん!と、その時である

並びの陣に控えていた、当時若干15歳の堀尾山城守(忠晴)勢が突然、横から大阪勢に斬り込んできたのだ!
堀尾勢は大阪の新勢を散々に切り乱す。
さらに上杉景勝勢が堀越に押し寄せ鉄砲を激しく打ちかけたため大阪勢はたまらず、城内へと引き返した。
この時大阪勢は、三千人余りが討ち死にしたという。

さて、この結果に佐竹義宣は激怒した。
自分が待ち構えていた敵を横から奪われたのだ、それも当然であろう。義宣は堀尾忠晴に使者を立て抗議した

『城の内から敵をあぶり出し討とうという作戦であったのに、あなたが横合いから勝手に槍を入れられたため
敵を再び城内に追い込んでしまった!あなたは軍法に背くおつもりか!?
あなたは未だ15歳であり、若気の至りということもあるでしょう。であれば1度だけは許してあげましょう。
が、重ねて此の様な振る舞いは、一切御無用でござる!』

堀尾忠晴はこれを聞くと直ぐに、その使者に佐竹義宣への返事を託した。それに曰く

『あなたの仰せは尤もです。ご存知のように私は此の様な若輩であり、軍法のことも詳しくは存じておりません。
ただし目の前に敵を見れば、いつ何時であってもそれへの攻撃を我慢するということが出来ません。
なので今後も私は、粗忽なことをしてしまうでしょう。どうかその度に、お許しいただけるようお頼みします。』

この言葉に義宣は絶句し
「頼みきっていた家の子郎党たちを数多く敵に討たせながら、その敵を人の手柄にさせてしまい、
損の上に損をしてしまった!」
と嘆いたという。

さて翌日。堀尾忠晴は将軍秀忠の御前へと伺候し、前日の手柄を賞された。
と、この時軍奉行である安藤次右衛門(正次)が進みでて、荒々しく言い放った

「山城守殿(忠晴)の昨日の働きですが、手柄はたしかにその通りですが、佐竹軍がわざと誘いだした敵を
横から入り討ったのは軍法を破っており、狼藉であると考えます。佐竹殿も大変不本意に思っておられることでしょう。

山城守殿、あなたは未だ御若年なので今回は見逃しましょう。
ですが、重ねて此の様な粗忽なことをされれば過失として軍法に照らし罰を与えねばなりませんぞ!」

この安藤の強い言葉に、忠晴はニッコリと笑って

「仰せのように私は若輩ですから、軍法も詳しく理解しておりません。…ですが昔から、源平の合戦や
元弘建武の乱に置いても、目の前に進む敵を『これは誰々の受け持ちだから』などと言って
討たないで見過ごすという法があったでしょうか?珍しいことを承るものです。

私は手近に敵が居れば、いつでも粗忽な合戦をするでしょう。そしてその度に、その事についてのご容赦を求めるでしょう。」

と、爽やかに言い放った。これにその場に居た人々

「天晴、山城守はなんと器量骨柄が優れているのだろう。若年の今ですらこうなのだから、
将来は一体どのような人物に育つのか」
と、感嘆したという。

若輩の堀尾忠晴、大阪冬の陣で多くの諸先輩を唸らせる、と言うお話(大阪物語)




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:09:35.43 ID:DfQ0Ba89
息子があれだった中村さんや生駒騒動の生駒さんのところと違って
堀尾忠晴は不肖の子孫じゃなくて有能だったのに、家が絶えたのは残念

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:44:21.70 ID:cXlo0ZrX
これだけ大勢の大名が参加した戦だったから、
先陣だとか、後だとか、むきになるだろうなあ・・

ああ勘違い

2010年07月29日 00:00

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:29:44 ID:e8vsQOCX
ああ勘違い

1632年に幕府から「亀山城の天守閣を破却せよ」との命令を受けた堀尾忠晴は、さっそく亀山城天守閣を取り
壊しに取り掛かった。

さっそく幕府の奉行が天守閣の解体の検分に来たが、亀山城の天守閣は巍然とそびえ立ったままである。
奉行「忠晴殿には亀山城の天守閣の取り壊しを命じたはずだが、これはどういうことござるか?」
忠晴「おそれながら、幕府の命令通りに『伊勢』亀山城の天守閣はとどこおりなく取り壊しておりまする。」
奉行「・・・。忠晴殿に命じたのは『丹波』亀山城の天守閣の取り壊しであるぞ。」
忠晴「・・・。これは粗忽なことをいたしましたな。」

忠晴は勘違いに気づいて急いで解体工事を中止したが、伊勢亀山城の三層の天守閣はがれきの山と化していた。
天守閣を破壊された伊勢亀山藩主:三宅康盛は、当時江戸在府であったため全く気付かなかったのであろうか。
その後伊勢亀山城に天守閣が築かれることはなかったという。




224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:39:26 ID:nApKwByj
堀尾忠晴「うっかりうっかり」
奉行「うっかりうっかり」

三宅康盛「…」

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 18:55:33 ID:O7Gtyvmn
やっぱり泣き寝入り?三宅さん

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:01:27 ID:2NoT4d4m
そもそも、当時の伊勢亀山藩は1.2万石の小大名でどう考えても城主格の大名ではない
規模なんだよなぁ。天守を維持するのも大変だったんじゃないかな。


227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:03:50 ID:QafM9W0p
>>226
ならば無くなって良かったんじゃねぇの、これ。

維持費的な意味で。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:09:00 ID:O7Gtyvmn
破却費用も人件費も、堀尾持ちか?後で請求されたら、泣けるかも知れない

232 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/07/28(水) 20:13:37 ID:lcOg1c1H
>>223
知らんかった。オレにとっては最高に悪い話として記憶させてもらう。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:57:45 ID:vZAwLBJ5
秀忠「計画通り(ニヤリ)」

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 21:10:53 ID:2NoT4d4m
>>227
とはいえ、面子のために沼田藩では実高3万石を14.4万石と申告し、
沼田城に五層の大天守を建てたわけで。

ちなみに、天守が取り壊された4年後に三宅康盛は挙母1.2万石に転封、
というか出戻り。