399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 00:33:17 ID:eO+sp0dZ
「菅谷一族」
この言葉だけで目頭に熱いものを感じる人も、このスレにはおられるであろう。
そう、「あの」小田天庵氏治を支え続けた、有能かつ忠義の一族である。
そんな小田家忠義の菅谷一族をまとめる、土浦城主であり小田家髄一の知将、菅谷政貞とその息子
範政も、天正2年(1574)、ついに佐竹に降伏した。
佐竹勢による土浦城総攻撃に屈したのである。
この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、主な拠点と主な家臣をほぼ全部失うという
記録的大敗を遂げた。小田家もこれで終わりだ、と、誰もが思った。一人を除いて。
氏治「まだまだ!これからじゃ!」
氏治は息子、友治を相模に送り、北条幕下に入る代わりに、対佐竹の軍を出すよう要請した。
この事を聞いて困ったのが、菅谷政貞、範政親子である。彼は既に佐竹に降伏し、その配下となっている。
氏治が北条軍と共に攻めてくれば、自分はそれと戦わねばならぬのだ。
常識的に考えれば、所領も安堵されており、今の君主である佐竹に従うのが筋である。
が
「殿に刃を向けることなど、できようか!」
範政、佐竹から寝返り北条に降伏した。
その後なんのかんのあって北条からの援助などで、小田城奪回こそかなわなかったものの
天正5年(1577)には手子生城を奪還するなど一応の勢力を回復、しかしまあなんのかんのあって
天正11年(1583)には結局、天庵様もついに佐竹に降伏。
さらになんのかんのあって天正18年(1590)の小田原陣の処分で、大名家としての小田氏は滅びる。
そして天正20年(1592)には菅谷政貞も死去。息子である菅谷範政も、領地に帰り逼塞した。
小田家はその残滓すら、消え去った。
…と、ここで、この忠臣に対し、かすかな光が降り注ぐ。
関東の仕置のためこの地を訪れた浅野長政が、この菅谷範政の事を知ったのだ。
長政はこれを、碁友達であり、新たに関東の領主となった徳川家康に話した。
「常陸の筑波に面白い男がいるよ。自分の主君がどんなに落ち目になっても、ずっと忠義を貫いた奴だ。」
「ほう…」
家康は菅谷範政を呼び寄せた。そしてその人品を気に入ったのか、文禄5年(1596)、彼を上総平川、1000石の
旗本とした。範政もこの新しい主人に、誠心誠意仕えたようである。
菅谷の新たな主人となった家康はまもなく、天下を取った。
そして慶長8年(1603)、菅谷範政に、領地替えが命ぜられた。
「常陸筑波郡、5000石。」
5倍の加増もさることながら、常陸の筑波、そう、かつての小田領である。菅谷範政はその故郷に、
領主として復帰したのだ。しかも
「并びに、屋敷として手子生城を与える」
かつて主君氏治も居城とした手子生城も、範政に与えられた。五千石、城持ち格、
菅谷家は徳川家中においても、堂々たる大旗本となった。
この旗本菅谷家、この後は大過なく、明治まで続いた。
どんなに負けても、どんなに犠牲を出しても、忠節を曲げず氏治に仕えた事は無駄ではなかった。
そんな事を思わせるような、菅谷範政および菅谷家の『その後』、である。
400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 01:06:22 ID:0C/pIwyN
>>399
何このいい話・・・
401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/30(金) 01:17:58 ID:UYhFTgyd
レア話好きだ。
他に城持ち旗本なんて居るの?
402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 06:12:41 ID:q06NEA38
5000石っていうとだいたい10~20万石の大名家の家老レベル?
何となく久留米とか土佐の太守になったあの人たちにくらべると
この5000石は数倍の価値があるな
403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 06:14:47 ID:R6WoUL/F
本当にいい話なう
404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 08:04:54 ID:1tZh5zeF
この話に限らず、旧主の居城に入るってのはどんな気持ちなのかね・・・
405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 08:30:24 ID:fXVwkyM9
私は帰ってきたぁ!と、主もご一緒ならば
の入り混じった複雑な感じ?
少し南の高城氏なんかだと、
小田原征伐での失地から1世紀ほどして旧領に1500石貰ってるけど旧臣の末裔や領民は良くしてくれたそうな
恩を感じていた旧臣たちは最仕官しなかったので、江戸時代になっても高城氏は旧臣たちに官途状を発給してたらしいよ
406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 11:27:18 ID:ZNdFNbks
「手子生城よ!私は帰ってきた!!」
俺の心の中で、今日から菅谷範政を関東の穴ベル・ガトーと呼ぼう。
しかし、菅谷一族のいい話にもかかわらず、
>この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、
の一文がインパクト強すぎ。どこまでも家臣の働きを無駄にする殿様です。
「菅谷一族」
この言葉だけで目頭に熱いものを感じる人も、このスレにはおられるであろう。
そう、「あの」小田天庵氏治を支え続けた、有能かつ忠義の一族である。
そんな小田家忠義の菅谷一族をまとめる、土浦城主であり小田家髄一の知将、菅谷政貞とその息子
範政も、天正2年(1574)、ついに佐竹に降伏した。
佐竹勢による土浦城総攻撃に屈したのである。
この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、主な拠点と主な家臣をほぼ全部失うという
記録的大敗を遂げた。小田家もこれで終わりだ、と、誰もが思った。一人を除いて。
氏治「まだまだ!これからじゃ!」
氏治は息子、友治を相模に送り、北条幕下に入る代わりに、対佐竹の軍を出すよう要請した。
この事を聞いて困ったのが、菅谷政貞、範政親子である。彼は既に佐竹に降伏し、その配下となっている。
氏治が北条軍と共に攻めてくれば、自分はそれと戦わねばならぬのだ。
常識的に考えれば、所領も安堵されており、今の君主である佐竹に従うのが筋である。
が
「殿に刃を向けることなど、できようか!」
範政、佐竹から寝返り北条に降伏した。
その後なんのかんのあって北条からの援助などで、小田城奪回こそかなわなかったものの
天正5年(1577)には手子生城を奪還するなど一応の勢力を回復、しかしまあなんのかんのあって
天正11年(1583)には結局、天庵様もついに佐竹に降伏。
さらになんのかんのあって天正18年(1590)の小田原陣の処分で、大名家としての小田氏は滅びる。
そして天正20年(1592)には菅谷政貞も死去。息子である菅谷範政も、領地に帰り逼塞した。
小田家はその残滓すら、消え去った。
…と、ここで、この忠臣に対し、かすかな光が降り注ぐ。
関東の仕置のためこの地を訪れた浅野長政が、この菅谷範政の事を知ったのだ。
長政はこれを、碁友達であり、新たに関東の領主となった徳川家康に話した。
「常陸の筑波に面白い男がいるよ。自分の主君がどんなに落ち目になっても、ずっと忠義を貫いた奴だ。」
「ほう…」
家康は菅谷範政を呼び寄せた。そしてその人品を気に入ったのか、文禄5年(1596)、彼を上総平川、1000石の
旗本とした。範政もこの新しい主人に、誠心誠意仕えたようである。
菅谷の新たな主人となった家康はまもなく、天下を取った。
そして慶長8年(1603)、菅谷範政に、領地替えが命ぜられた。
「常陸筑波郡、5000石。」
5倍の加増もさることながら、常陸の筑波、そう、かつての小田領である。菅谷範政はその故郷に、
領主として復帰したのだ。しかも
「并びに、屋敷として手子生城を与える」
かつて主君氏治も居城とした手子生城も、範政に与えられた。五千石、城持ち格、
菅谷家は徳川家中においても、堂々たる大旗本となった。
この旗本菅谷家、この後は大過なく、明治まで続いた。
どんなに負けても、どんなに犠牲を出しても、忠節を曲げず氏治に仕えた事は無駄ではなかった。
そんな事を思わせるような、菅谷範政および菅谷家の『その後』、である。
400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 01:06:22 ID:0C/pIwyN
>>399
何このいい話・・・
401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/30(金) 01:17:58 ID:UYhFTgyd
レア話好きだ。
他に城持ち旗本なんて居るの?
402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 06:12:41 ID:q06NEA38
5000石っていうとだいたい10~20万石の大名家の家老レベル?
何となく久留米とか土佐の太守になったあの人たちにくらべると
この5000石は数倍の価値があるな
403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 06:14:47 ID:R6WoUL/F
本当にいい話なう
404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 08:04:54 ID:1tZh5zeF
この話に限らず、旧主の居城に入るってのはどんな気持ちなのかね・・・
405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 08:30:24 ID:fXVwkyM9
私は帰ってきたぁ!と、主もご一緒ならば
の入り混じった複雑な感じ?
少し南の高城氏なんかだと、
小田原征伐での失地から1世紀ほどして旧領に1500石貰ってるけど旧臣の末裔や領民は良くしてくれたそうな
恩を感じていた旧臣たちは最仕官しなかったので、江戸時代になっても高城氏は旧臣たちに官途状を発給してたらしいよ
406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 11:27:18 ID:ZNdFNbks
「手子生城よ!私は帰ってきた!!」
俺の心の中で、今日から菅谷範政を関東の穴ベル・ガトーと呼ぼう。
しかし、菅谷一族のいい話にもかかわらず、
>この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、
の一文がインパクト強すぎ。どこまでも家臣の働きを無駄にする殿様です。
スポンサーサイト