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雨月物語 菊花の約

2018年05月21日 17:21

931 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:15:50.96 ID:IVDC596W
播磨国、加古の宿に丈部左門と言う儒学者が年老いた母と暮らしていた。
左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
万事簡素に暮らしていた。
左門の母も賢母ではたを織る事を仕事として左門の志を助けていた。左門には妹が1人いたが、同じ里の裕福な家へ嫁いでおり、
妹婿一族は左門親子の性格を慕って何かにつけ生活の援助をしようとしたか、左門はそれを断り、母に孝行し、質素な暮らしを続けていた。
ある日、左門は知人の家で病に苦しむ旅の武士に出会った。
知人が言うにはこの武士に宿を求められ、貸した所その晩から病に倒れ、3-4日が経ち困っていると言う。
左門は看病を申し出たが、知人は流行病だから左門に罹ってもいかぬと止めたが、左門はそれを押し切り懸命に武士を看病した。
その甲斐あって武士は快復し、左門に礼を述べ素性を語った。
武士は赤穴宗右衛門と言い、出雲の富田城で城主の塩谷掃部介に招かれた軍学者であったが、密使として出雲の国主を務める近江の佐々木氏綱の元へ遣わされていた時、
出雲では塩谷掃部介が尼子経久に城を乗っ取られて討ち取られ、宗右衛門は佐々木氏綱に塩谷の仇を討つ事を申し出たが氏綱は動こうとしないどころか、
宗右衛門を近江へ押し留め、何とか抜け出して出雲へ帰ろうとした所、この加古の宿で病に倒れたとの事だった。
2人は意気投合し、親交を深め遂には歳上の宗右衛門を兄、左門を弟として義兄弟の契りを結ぶに至った。
宗右衛門は左門の家に逗留し左門の母にもよく尽くした。左門の母も息子に良き義兄ができたことを喜んだ。
3人の生活が始まってから春から初夏に差し掛かった頃、宗右衛門は一度元の目的地であった出雲へ帰る事を左門に告げた。そして出雲の様子を見届けたらまた必ず帰って来ると。
左門の何時戻るかと言う問いに、宗右衛門は九月九日、重陽の節句を約束の日と固く決め、2人は再会の約を定め宗右衛門は出雲へ旅立った。

932 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:22:08.19 ID:IVDC596W
月日が経ち約束の重陽の節句の日が訪れると、
左門は家を掃き清めて菊の花を飾り、酒肴を用意して宗右衛門の到着を待った。
しかし、夕刻になっても宗右衛門は姿を見せない。左門の母も遠方のことだからと慰めたが、
左門は夜になっても外で宗右衛門の到着を待った。
そして深夜、左門が諦めかけた時、生温かな風と共に一人の人影が左門の前に現れた。それはまさしく宗右衛門であった。
左門は嬉々として義兄を招き入れ、酒肴の席につかせたがその義兄は義弟の顔を見てもどこか暗く、
消沈した様子で左門が出した酒肴に対しても顔を背け左門が母を起こしてこようと言うと、首を横に振り漸くその口を開いた。

出雲に帰った宗右衛門だが、もはや出雲の国人どもは皆尼子経久に靡いてしまい誰も塩谷の恩を顧みる物は居らず、
従兄弟の赤穴丹治が富田の城にいるので訊ねたが、丹治は宗右衛門を経久に仕えさせようとした。
仮にその言葉を受け入れて、よくよく経久の所業を見申したが、万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。
暇を請い左門と菊花の契りがあることを話し去ろうとすると、経久は丹治に命じ宗右衛門を城に幽閉したのだという。

そして幽閉されたまま、ついに今日という日が来たが左門との約を違える事を苦に思った宗右衛門は、自らの命を絶ち、
魂魄と成って百里の道を越えて左門との約束を守る為来たのだと語った。
そして、宗右衛門は左門と眠っている左門の母に永遠の別れを告げるとふっと姿を消した。

左門は慟哭し、その声に目を覚ました母に今あったことを告げると、
当初は信じなかった母も息子の様子に只ならぬものを感じ、共に泣いた。

左門は宗右衛門の弔いをする為、妹婿一家へ母を預けると出雲へ旅に出、
義兄の死の一因となった赤穴丹治に面会すると、丹治の行いを非難し一刀のもとに丹治を斬り殺すと姿をくらました。
大騒ぎとなったが尼子経久はこのことを伝え聞くと、兄弟の信義の篤さを哀れに思い、
あえて左門の跡を追わせなかったと言う。

雨月物語 菊花の約

元々は中国の逸話だけど、尼子経久がディスられてる逸話だったので



933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 23:24:58.41 ID:6DQdr9AC
>>左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
>>万事簡素に暮らしていた。

情熱大陸とかプロフェッショナル仕事の流儀に出てそう

934 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:30:47.27 ID:TZDOqU9w
しかし戦国の時代にあって儒学者ってどうやって食い繋いでたんだろう?

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 23:35:10.66 ID:clAtfEj5
最後の追わせなかったあたり、尼子経久が情を分かる人間扱いだったのではなかろうか。

936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:52:25.79 ID:IVDC596W
>>935
長いので略したけど、一応経久さんがこの兄弟の行いを美しいと感じ入り、
また自分の行いを反省して追っ手を出さなかったという事になってます。

後、冒頭と最後に軽薄な人と友情を交わすものではないという趣旨の文が入ってます。
これでもかなり端折りましたので菊花の約(契)でググると全文の現代訳を載せたサイトがいくつか出てくるので、
そちらを読むこともお勧めします。現代的に言うとBL的な話にもなるそうなんですが・・・

937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/21(月) 00:31:06.56 ID:qWRQBKFt
ひょっとして>>932の
>万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
>智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。


これを知っていたからこそ尼子経久は天性無欲の人と言われるくらい何かある度に家臣に自分の物を分け与えて、心を繋ぎ留めようとしたのかも…
後世の創作話だから必ずしもその当時の実情と一致はしないかも知れないが
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・唯落の城の事 本名高城

2017年08月01日 16:36

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 06:43:13.50 ID:0Qt/DYkk
・唯落の城の事 本名高城

立縫の郷・動土村にあり。国府伯耆守親俊の居城である。

大永4年、尼子経久が出雲より伯耆に攻め入り、国中の
城々を攻め立てた時、

当城へは未だに手付かずであったのに、伯耆守は大いに
驚き恐れ、「ああ、敵の多勢が攻めて来る!」と思い、

小勢では籠城も叶わないとして、俄かに城を空け退散した
ということである。

敵が攻めてもいない以前に自ずから落城した故、郷民は
これを嘲って“唯落の城”と呼んだのであるが、

今に至ってもその称あり。本名は高城という。

――『伯耆民談記』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 07:13:23.41 ID:7R2uTJ20
そんな城いっぱいあんのに

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:31:02.73 ID:iziwR2LU
バカな百姓には戦略的撤退とか理解できんし

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:36:59.67 ID:LyWGmxu9
伯耆が放棄

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 12:38:08.25 ID:FqwVfGb3
国府氏って小野流海老名氏なのかな?
伊勢にも国府氏がいるみたいだけど同族か?

尼子経久と人柱 米原太鼓

2016年12月18日 09:51

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 23:40:02.02 ID:FQR9CdkD
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど



442 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:30:24.35 ID:Ze9a2Qhj
>>440
隣の安来市にある月山富田城にも人柱の話があって、松江城、米子城と共に城の修築が上手く行かずに盆踊りから人柱となる人を拐って埋める所までは共通なんよ。
また米子城にもこの城は我の物~とのたまう妖女が現れ退治された話があって、そちらの正体は人柱ではなく別のモノだったりします。

>>423のギリギリ井戸と松江城の人柱にも異聞があり、井戸の場所から見つかった頭蓋骨を弔うのに堀尾吉晴の知り合いの修験者が呼ばれて供養した。
が、修験者はまだこの供養だけでは地鎮は終わらず城造りの災いは済まぬ。私の子を仕官ないし、面倒を見てくれるなら私が人柱となりましょう。と、修験者が進んで人柱となった話も有ります。

尼子経久と人柱 米原太鼓

尼子経久が山陰の覇者となった頃、月山富田城の修築を始めたものの事故や災難が続き工事が難航した。困った尼子経久が巫女に相談すると

「月の紋が染め抜かれた着物を着た娘を人柱にしたら工事は成功する。」

と神託が降り、盆踊りの場から月の紋が入った着物を着た娘を連れ去り修築場所で人柱にした所、以後の工事が無事終わった。
この人柱の儀式の時、娘の霊を慰める為に太鼓を叩きながら儀式が行われたのだが、娘を人柱にした日が近づくと山頂から城へ太鼓の音が聞こえて来るようになり、人々はこれを米原太鼓と呼んだ。
米原太鼓には米子市にも伝説があり、水に苦労した市内の弓ヶ浜へ水路を引く際、米原まで来た所で工事が難航。
当地の盆太鼓が上手な青年が人柱になり、青年は太鼓を打ち鳴らしながら人柱となった。
また、盆踊りが上手な娘が居たがある年、仕事の後に盆踊りを教えてくたくたになって帰った所、翌朝起きる事が出来なかった。
意地悪な継母が焼き火箸で娘を撃ち殺してしまい、これらの事件の後盆が近づくと地面から悲しげな太鼓の音が聞こえる様になり、米子の人々はこれを米原太鼓と呼んだと言う。
(書籍:本当は怖い日本の城と米子の伝承より)
これにて人ばしRushは一旦おしまい



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:42:42.76 ID:Ze9a2Qhj
>>442
×盆太鼓が上手な娘
○盆踊りが上手な娘
(修正済)
444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 07:53:42.56 ID:0J/EbjXH
人ばしrush

445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 07:59:45.06 ID:Ze9a2Qhj
>>444
ここ毎日人柱の逸話上げてたもんだからつい…

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 08:28:12.44 ID:sfFYV6q2
盆太鼓が上手なむす… 娘…
http://i.imgur.com/6SrpY29.jpg
6SrpY29.jpg


尼子経久 我が子と相争う

2014年04月26日 18:50

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 00:59:40.83 ID:CIg+fgYk
尼子経久 我が子と相争う

謀聖と謳われた戦国初期の雄、尼子経久
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝にその文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
次男、国久。父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に
その武名を轟かすも、最期は甥晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、新興勢力の毛利元就の謀略により
甥・晴久に嫡男誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。

そして、3男興久。彼は父経久が大内義興に従い上洛した際、山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。
(続く)

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 01:02:28.85 ID:CIg+fgYk
尼子の最前線として隣国の大内やその麾下の勢力、独立した国人衆と相対する塩冶興久の
財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物であった。興久は父経久と腹心
の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下される。

そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで父経久に
対しての反乱を起こす。
中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。が、
その後戦況は一変する。
塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は両者共倒れ
を狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子清久が継ぐ物の大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫、晴久が家督を継いだ後に国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。





尼子経久、月山富田乗っ取り

2014年01月01日 18:57

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 00:05:31.03 ID:jaUgD7Pl
尼子経久はもともと出雲の国の富田の地で七百貫を領していた。
出雲の国は近江の佐々木氏の領国であり、佐々木高詮の時に経久の祖父、持久を守護代として出雲に送った。
この持久、そしてその子清定と二代にわたって守護代に任じ、国務を司り租税を近江へ送っていたのだが
さらにその子経久の代となって、経久がまだ若く又四郎といった頃に近江の佐々木氏の指示に従わず
富田とその近郊の地を奪い、また出雲の国の武士達を攻め従えようとした。
守護佐々木家の六角定頼はこれに大いに怒り、出雲の国侍に命じて経久を攻め追放させると代わりに
塩冶掃部助をもって出雲の守護代とした。

経久は無念であったが、諸国を放浪しついに食うにも事欠くとある山寺で食うために僧形となり修行僧に混じって
暮らしていた。
経久は何とかして富田の城を奪い返して本懐を遂げたいと思うものの、家臣達は皆その妻子を養うため
近江の六角氏に仕えており、出雲に残っているものは山中一族だけであった。
山中を頼るべしとついに秘かに出雲に入ると山中の住まいを訪ねた。
山中は経久を見ると急いで中へ招き入れたが、色は黒くやけ、やせ細り、昔の面影もほとんど残っていない
経久の姿に涙を流した。
ささやかな食事と濁り酒を前に、経久は涙を流して山中をかき口説いた。
「何としても富田の城を攻めて塩冶を討ち取り、本望を遂げたい。もし昔のよしみを忘れていなければ、どうか我に
力を貸してはくれないか?」と。
山中も昔の義理は忘れがたくもあった。
「仰せ、畏まりました。」と諒承すると、やがて一族と語らい17人の一味同志を得ることができた。

さて、しかし塩冶は国の守護代として多くの兵を抱え、威もさかんである。容易に討つことはできない。
思案の末、経久は、河原者(祭や芸事を行う身分の低いものたち)の賀麻党の頭を召し寄せ、言った。
「汝も知るごとく、我、当国を追い出され、耐え難い思いをしている。何としても塩冶を討って遺恨を晴らしたいのだ。
それに付いて、汝に頼みたいことがある。もし我が本望を遂げたあかつきには、褒賞は望みのままに取らす。」
賀麻の頭は平伏して答えた。
「恩のある何百の侍を差し置いて私どもの如き身分賤しき者を頼りにして頂けるとはこれほどの名誉はございません。
この上は、たとえこの身も一族をも亡ぼそうとも恐れはいたしません。何なりと、御指図ください。」
経久は大いに喜び、言った。
「よし、それならば汝らは正月には富田の城の二の丸で例年卯の上刻から千寿万歳の舞を行っているが
来年の正月は時間を早め、早朝寅の上刻に舞を始めるのだ。
そうすれば、本丸の者共も二の丸へ出てきて舞を見るだろう。我々は城の搦手から忍び込んでおいて
方々へ火をかけながら本丸へ打って入る。その声を合図にして汝らは大手より切り込んでくるのだ。
こうして前後から攻め合わせれば、城を乗っ取ることは容易いぞ。」
賀麻の頭は、これを了解して立ち帰った。

さて文明17年大晦日、経久と山中一党の17人、そして昔の恩義を忘れぬ譜代の郎党56人夜中秘かに
塀を乗り越え大手の合図を待った。
明けて早暁、賀麻の一族70人ばかり城の門外より太鼓を打ちながら千寿万歳の舞を始めた。
城中の者たちは今年は例年より早く万歳の舞が入ってきたぞ!急げ!とばかりに皆して二の丸の大庭に集まり
見物を始めた。
ここで経久以下、所々に火をかけ火事だ火事だと叫びまわる。見物の城兵たちは慌てふためくが
そこに賀麻の一党が烏帽子、舞服を脱ぎ捨てると太刀を構えて切り伏せる。
経久らも賀麻一党も散々に奮闘し、ついに塩冶を討ち取ると城兵は散々に城を落ちていった。

尼子経久、ついに月山富田城を乗っ取り730人ばかりの首をとり、多年の鬱憤を散じることができたのである。

(名将言行録)




163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/01(水) 04:02:10.13 ID:e86knXce
鉢屋弥之三郎とかいう忍者の名前は書いてなかったんだ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 00:30:12.80 ID:6Fgez4Um
>>163
賀麻の頭が鉢屋なんだろうな。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 08:46:15.63 ID:dDxQmTgX
へーだから兜が鉢なんだ

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 09:01:14.64 ID:JMkUl2ZO
忍たまか

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 10:50:11.89 ID:twXKt/gS
山中さんは昔から尼子家臣なんだな 最後まで裏切らないのも納得だ

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 12:46:58.23 ID:n1qb8Zyf
鹿助は先祖の伝説を再現しようとして大失敗した模様

>>167
尼子宗家自体はまだあるのに勝手に別家立てて正統性主張してるからある意味裏切ってる。

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/02(木) 15:12:28.49 ID:VID8jeDk
軍師官兵衛に勝久と鹿助も出るみたいだね

尼子経久、謀略をもって三澤を討つ

2012年10月01日 20:29

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:44:37.94 ID:PJ3s3G8W
出雲守護代を追われ一時期勢力を減退させた尼子経久だが、長享元年(1486)頃にはその勢力を回復していたと
考えられる。しかし出雲国内には三澤、三刀屋、赤穴といった強力な国人たちがあり、彼らは経久の威令に
従おうとはしなかった。しかし容易に攻め従えることのできるような相手ではなく、
これは謀略をもって討つべきだと、寝食を忘れて考えぬいた。
そしてある時、山中勘ノ充と云う者を近づけ、言った

「私は三澤を騙すぞ!汝は智弁人に超えた者であるので、この謀略をきっと成功させてくれると信じる。
私の言うとおりに行動し、三澤を誑かしてみよ!」

そうして詳細を説明すると、山中は「御諚承り候」と、これに同意した。

さて、この頃経久の歩兵に、死罪になるべき重罪の者があった。山中はこれを喧嘩のようにして
斬り殺し、三澤の元へと逐電した。経久はこれに大いに怒り、山中の妻子並びに老母までを捕縛し詰牢に監禁した。
三澤の元に逃げ込んだ山中は二心無くこれに仕え、三澤も彼を不憫に思い召し使った。

そして2年ほどが経った。「いまこそ謀略が成功すべき時だ。」山中は三澤に向かってこんな事を言った

「私は些かの口論によって、経久の澤田と申す徒歩の者を斬りましたが、経久の奴は私の老母、妻子を捕縛し
牢に入れてしまいました。侍の喧嘩口論で相手を討って退転するなどというのは良くあることなのに、
その罪を妻子父母に及ぼすなど未曽有のことであり、無念至極に思っています。

願わくば私に、精鋭の兵200を付けて下さい!
経久の月山富田城は案内を良く知った城です。夜討ちを行い私の鬱憤を晴らしたいのです!
実は尼子の一門の中に3人、私と思いを同じくする方々がいます。ですので経久の頸を討つことはもはや、
袋の中の物を探るに等しい行為だと考えています。」

このようにいかにも頼もしげに語ったため、三澤も大いに喜び、野沢大学兵衛、三澤与右衛門、梅津主殿助、
野尻、竹田、中原、下川といった、三澤氏配下の屈強の兵たち500人を選び山中に付けた。
山中は「謀略、成れり」と経久にありのまま報告する。報告を聞いた経久は「年来の謀略、一時に叶った!」
と喜び、早速伏兵を3ヶ所に置いて、寄せてくる敵を待った。

山中は三澤勢500の先頭に立って、月山富田城へと急いだ。
軍勢が中チカという場所に忍び上がったところで山中「さて、あなた方は暫くここでお待ちください。
私は合流する一族を手引きしてきます。」そう言って一人出ていった。

残された軍勢は、待っている間に一町でも上がっておこうか、などと言っている時突然、
月山富田城の城門が開き一千余の兵が鬨を作って打出てきた!

寄せ手の三澤軍は、今夜の夜討ちの事を敵は察知していないと全く油断していたため、
この不意打ちに「これは何事か!?山中に野心があったのか!?」と大いに驚き、既に逃げ腰に
なっていたが、流石に三澤の郎党の中でも名を知られた者達だけに、みな一箇所に固まり
ひしひしと撤退していった。

が、ここでまた思いもよらぬことに、今度は後ろから敵が突然現れ鬨を合わせて攻めかけてきた!
三澤軍の者たち「これは山中に騙されたのだ!こうなったからにはただ一方を打ち破って
落ち延びるしか無い!」と叫んで撤退しようとしたが、暗闇の中、道もない場所へと入り込んでしまい
更に混乱し、何も出来ないまま討たれるものもあり、谷や穴に落ちて空しく死ぬものもあった。

そんな中でも三澤与右衛門、野澤といった者達は真ん丸となって襲いかかる尼子勢を打ち破りつつ
撤退したが、3ヶ所の伏兵に逢い、野澤大学兵衛、梅津主殿助、野尻、竹田、猪口などの勇士を始めとして
200あまりが討たれ、なんとか生きて逃げ切ったのは、三澤与右衛門、中原、下川ら100ばかりという有様であった。

かくして三澤は多くの家臣を討たれ、その勢力も凋落した所に、経久から「近日中に三澤を討伐する!」
との声が聞こえてくる。これにはもはや耐えられず、三澤は居城である亀瀧城を出て尼子経久に降伏した。

経久は三澤の勢力を併合すると一気に国中に討って出て、三刀屋、赤穴といった有力国人を尽く幕下に従えた。

尼子経久、謀略をもって三澤を討つ、という逸話である。
(陰徳太平記)




664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:52:49.78 ID:SHcdWNxn
さすが山勘・・・だが既出っぽい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2902.html

尼子経久と松吉

2012年07月21日 20:51

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:21:10.82 ID:sZLh3To0
尼子経久は領内各地で多くの勇士や腕が立つ者を募集していた。
募集に応じて多くの者が集まり、皆腕を競い合った。
その中に松吉、周りからは鬼吉と呼ばれる大男がいた。
松吉は身分の低い百姓の出であったが、六尺五寸ほどの巨躯の持ち主で、鬼のように恐ろしげな容貌を持ち
素手で木を引き抜き、槍を同時に五本振り回し、矢を十本同時にへし折るほどの怪力の持ち主だった。
だが、その豪勇の割に無口で大人しい男であり、何を聞いてもまともに受け答えが出来なかったため皆からは馬鹿にされていた。
経久はこの大男をとても気に入り武士に取り立てようとした。
だが松吉は幼い盲目の妹がいることを理由に断ったため、経久は松吉に心ばかりと米俵を与えすんなりと帰させた。
部下にはそれを咎める者もいたが、経久はよいよいと言い、小気味よさげに見送った。

何年か後、経久は松吉のことが気になって部下に調べさせたが、既に亡くなったという非常に残念な報告が届いた。
松吉が住んでいた周辺は完全に経久の勢力圏で戦もなかったため、どうしてあの豪勇の士が死んだのか
経久は疑問に思い部下に松吉のことを再度調査をさせた。
すると、松吉はその性格ゆえか村人達に非道な虐めにあって殺されたばかりかその亡骸は辱められ
盲目の妹は慰み者にされたあげくに殺されたとの惨たらしい報告が届いた。
豪勇の士を遇することを知らぬ者達のあまりの仕打ちに烈火の如く怒った経久は、即座に虐めの首謀者らを捕らえ打ち首にし
その首を松吉の墓前に供えて霊を丁重に弔ったという。




620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:39:47.20 ID:o43kAeLP
>>619
後味悪すぎる・・・

松吉には少し障害があったのかな
今も昔もくだらないことで虐める奴いるんだな

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:48:30.63 ID:TC8d8MTi
大津市もちょっとは見習っとけよ

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:53:18.29 ID:w5QRtuDg
>>619
毛利元就「同時に折る矢は二本までにしてくれないと…」

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/20(金) 23:59:47.50 ID:vctJrax/
>>622
山中鹿之介「この豪傑さえ十勇士の仲間に入っていれば
毛利の三本の矢など折れたものを」

624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/21(土) 00:51:51.08 ID:MziHLxEh
ちょうど10本!
隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包、二宮就辰

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 01:09:41.57 ID:GcOViNkz
弓になりきれなかった人物までいれるのはどうかと思います

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 01:13:12.50 ID:GcOViNkz
やだ…、弓じゃなくて矢だったわ…

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 02:15:25.60 ID:mD428EP+
あらヤだわぁ

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 03:06:46.68 ID:93gflo4f
経久さんに大津市長やってもらいたい

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 03:09:09.56 ID:mD428EP+
ダバオ市長じゃねぇんだから…

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 07:12:08.70 ID:A8CF7d2X
たしか経久は木を引き抜ける者を別にもう一人雇っていたな。
木を引き抜くのは定番の試験だったのか?

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 08:23:56.75 ID:U/bKkmPx
じゃがいもですら引き抜くにはそれなりに苦労するというのに

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 09:25:12.91 ID:TIG6DBQO
経久さま△

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 12:57:43.05 ID:l/Mg6B08
それでは経久さまさんかっけー、になるのでは

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 13:08:06.99 ID:H4RvnM2W
豪勇の士を遇することを知らぬ者とかそんな生やさしい物じゃないな
人の心を持たないクズ野郎共だ

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 15:54:39.65 ID:k3vcaVJN
非常に痛ましい話だけど、きっちり仕置きした経久様GJ

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 16:06:39.17 ID:qltYteDD
人の心があるからこそ恐怖心から退治したし復活しないよう死体に凌辱を加えたのだろう

忍たまの上級生の鉢屋三郎のモデルとなった

2011年01月03日 00:00

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/01(土) 18:08:51 ID:NiZPC8K6
明日の早朝に講談のこれやるみたいね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-234.html

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/01(土) 21:35:38 ID:Nc40vIBT
>>246
この落語をやるの?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8419513

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/01(土) 21:39:41 ID:e0UmrO+A
これだな

2011/01/02 05:00~05:30 の放送内容 NHK教育
* 日本の話芸・選 講談「大名 荒茶の湯」
* 一龍斎貞水 ~東京・浅草木馬亭で収録~
出演 【出演】一龍斎貞水
http://tv.yahoo.co.jp/program/80977/?date=20110102&stime=0500&ch=8208

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/02(日) 01:14:57 ID:xEkz75X0
麻上洋子(一龍斎春水)のお師匠さんか





250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/02(日) 01:21:04 ID:JbNqF8I4
忍たまのしんべヱ(一龍斎貞友)のお師匠さんか
そういや、忍たまの上級生の鉢屋三郎のモデルとなった鉢屋弥之三郎という忍者が
尼子経久の命令で元旦に富田城をのっとった、てさ

無理矢理戦国ネタとつなげてみた





251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/02(日) 10:12:09 ID:9GcPxagR
忍たまの作者も尼子ってペンネームだよね

尼子経久と、逐電した山中勘充

2009年09月30日 00:04

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 02:22:37 ID:oJz6llJE
主君、京極政経により出雲守護代職を剥奪、追放された尼子経久が、
その居城月山冨田城を回復、ようやく没落から立ち直った頃のこと。

冨田城の主に戻ったといえども、出雲には経久に敵対するものたちが多く存在していた。
特に国人の三沢氏は強大であり、経久としては自分の身の安定のため、何としても
これを屈服させねばならなかった。が、まともに立ち向かうには、尼子はまだ微弱である。
経久は家臣、山中勘充を呼んだ。

さて、それから間もなくの事、山中は富田城下において同僚と口論を起こし、怒りのあまり
その同僚を切り殺し、逐電してしまった。
その後しばらくして山中は、経久と敵対する三沢越中守の城下に現れ、
つてを使って三沢家への仕官を求めた。
が、三沢家では、敵対する尼子の元の家臣を抱えることに消極的であった。

そのうち尼子のほうから、こんな噂が流れてきた。
尼子経久が山中勘充の罪を怒り、山中の老母と妻を捕らえ監禁、さらに山中の居場所を
自白させるため、毎日拷問にかけている、と言うのである。

これを聞いた山中は、三沢越中守の前に現れ、涙を流して訴えた。
「尼子の所業は鬼畜と言うべきです!
喧嘩口論の末に相手を斬る事など、武士の意地を通すためありがちなことでしょう。
なのに、その罪を母や妻にまで及ぼすとは、残酷非道と言うより他ありません!
どうか私を、三沢家にお仕えさせてください。お家の力を借りて、何としても尼子に
復讐をしたいのです!」

三沢家でもひそかに調べたが、山中の母と妻が捕らえられ、拷問にかけられていること、
確かであった。
そこで、三沢家は山中勘充を召し抱えることにした。山中は心から三沢家への忠勤を誓い、
1年の間、ひたすら忠実に働いた。流石に三沢家も山中を信頼した頃、彼は三沢家にこう、
嘆願した。

「私がかねてより望んでいた尼子への復讐を、いよいよ決行したいと思います。どうか私に
300ほどの兵をお貸しください。富田城の中にいる協力者と共に、母や妻子を助け出し、
経久を殺し、あの城を乗っ取る所存です。
これに成功いたしましたらm月山冨田城は、三沢家の属城となるでしょう。」

三沢家ではこれに、山中の頼みよりも多い500人をつけた。しかも選りすぐりの精鋭ばかりを
集めたものであった。
山中はこの兵を率い、ある星も無い夜、密かに富田城へと近づいた。
そして「城内の同士と連絡を取る」と、一人その部隊を離れる。そしてそのまま、いつまでたっても
山中は帰ってこなかった。

勿論、罠である。

山中が斬った同僚は、実は死刑囚であり、母、妻の捕縛と拷問も、無論演技である。
そして山中の精鋭500は、今完全に、尼子方に包囲されていた。

尼孤軍は三沢の派遣軍を八方から攻めこれを壊走させると、その勢いのまま三沢領に攻め寄せ、
これを屈服させることに成功。さらに他の敵対勢力をも討ち下し、ついに出雲を平定した。

尼子経久が、大勢力への飛躍の一歩を踏み出した、謀略のお話。




919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 07:49:47 ID:7Jti8b2P
>>915
尼子経久は手元に引き寄せてから潰した後そのまま攻め落とし、
宇喜多直家はそのまま主を暗殺させる

埋伏の毒は中国地方の伝統芸なのか?w


尼子経久と出雲大社三重の塔

2009年08月07日 12:46

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 01:38:06 ID:TBB81MB/
今日、出雲大社に行って来たんだけど
そこで聞いた尼子経久のちょっと悪い話

戦国の動乱で寺社が荒れるのは必然のことで出雲の雄、尼子経久による再建が行われる
鎌倉時代の再建から多少の仏教色が出ていたそうだが、経久による再建で境内に
三重の塔や鐘楼が建てられもはや神社か寺かわからないカオスな施設に…

その後、江戸時代中頃に宮司がの
「神社に三重の塔とかいらなくね?」
という声により仏教施設は廃棄されることに…

ちなみに、戦国期までの出雲大社は地上48メートルの高層建築だったそうな…
それより以前はさらに巨大だったというから驚きである…




137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 01:40:39 ID:EH7YjvdN
出雲大社はロマンだよなあw

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 01:48:36 ID:wkDmx2eN
どんなんだw

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 02:14:48 ID:QBff2Oxt
なんというでかさ

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 03:19:49 ID:fQMJ+Cyv
俺も去年の本殿特別参観の時に出雲大社へ行って本殿内部と八雲之図を見てきたなぁ。

>>136
48メートルだったのは平安時代らしいよ。さすがにでか過ぎたのか
何度も倒れたり、傾いたりしたので鎌倉時代あたりから縮小されていったらしい。
まあ、これじゃぶっ倒れるのも無理は無いがw
ttp://inoues.net/mystery/izumo_nazo.html

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 04:27:38 ID:nri18iDP
学校の教科書かなんかで見たなぁ、懐かしい
完成させてしまうあたり無駄に力こもってるよな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 07:35:50 ID:LQBoClJB
出雲大社って神仏に変形するらしいぜ!とか言われてたわけですね

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 07:47:44 ID:rMBEX8Ty
戦国時代頃だと僧侶が神社を管理しているとか普通だからなぁ
これに限らず神社なんだか寺院なんだかよくわからないところもかなりあったらしい

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 09:29:40 ID:UvoiFuES
いわゆる神仏習合って奴ですね。
そういうゆる~いのは大好きだぜ。

そういえば、キリスト教が伝来した当初は新しい仏さんが来たとか思われて
宣教師があせったとか何とか。
ちっ、仏様か神様として取り込んじまえば良かったのに。

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 10:07:27 ID:y0JYEN5k
>>145
隠れキリシタンと呼ばれる人々の場合、
キリスト教を隠すために仏教や神道を隠れ蓑にしてるうち、
どんどん変質しちゃって「隠れキリシタン」って系統の宗教になっちゃったそうだから、
(今でも隠れキリシタンと呼ばれる人たちはいるそうな、当然キリスト教とはちょっと違う)
下手に弾圧しなければそのうちそうなってたような気もする。
もちろん、本流は本流で残しつつ。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 10:46:16 ID:/ffjUvoy
大社町内では出雲大社より高いものは不敬に当たるので
それより高い建物が建ってないらしい

もっとも正月以外は田舎だからというのもあるだろうが

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 10:51:20 ID:7dxo3K8a
>>136
逆にいやあ明治維新から起きた廃仏毀釈が原理主義的すぎたんだよね。
仏教伝来当初はともかく日本の信仰は代々もっとユルくて神仏衆合してたんだしょ。

……出雲大社や伊勢神宮がそれじゃ一寸困るのも分かるけどねw


お大師さんの四国八十八カ所なんて、真言のぺたぺた貼ってある寺とお堂の間に
朱の鳥居が並んで狸稲荷があって、平家の慰霊ナントカもあって周りが源平古戦場だったり>屋島寺

寺よりはるかにデカい一ノ宮(神社)と並んでちょこたんと建っていたり>「一宮」寺

ほんまにカオスだわ

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 11:14:02 ID:nzdYN5Cl
有名な浅草寺の敷地内にも神社がちょこんとあって
その三社祭で有名な浅草神社が祭ってるご神体はお坊さんだったり
寺と神社が明確に分けられたのが明治だからなんだが、今見るとカオスだな

151 名前:136[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 12:30:20 ID:TBB81MB/
昨日に引き続き島根を散策してるけど
たたら製鉄や石見銀山など戦国の頃は今の過疎ぶりからは考えられない場所だなって感じです島根

そういや、戦国時代の主要な神社も比叡山や興福寺みたいに武装してたのかな?
宗像大社や諏訪大社なんかは聞くけど…

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 12:48:01 ID:NezdZhNx
寺社が地域のまとめ役やってた地域なら武装しててもおかしくはないだろうが…
地域によるんじゃね?
ってかそんなに過疎ってんのか…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 13:40:25 ID:LQBoClJB
>>146
マリア観音は牛の安産の神様で村の外の人間に見せると祟られるとかいう感じだったらしいな

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 15:00:17 ID:K/S02kQZ
神社でも織田家の氏神だった剣神社のように
社が崩れるくらい荒廃した神社もあったり。

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 18:16:26 ID:+/s2xi8D
出雲大社は確か、国譲りの際に「倭で一番でっかい建物にする」って取り決めになってたから、
平安時代あたりの公称高度は実際にはあんまそってないんじゃなかったっけ


160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 18:47:44 ID:ZWD4UHfk
右の方に色々な復元案があって面白い
因みに城復元で有名な三浦正幸のは小さな復元模型の一番左、枠で隠れてる
一番低い奴

http://www.izm.ed.jp/data/rekihaku/image/siryo/100L.jpg

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/06(木) 21:52:25 ID:Hb5Zml+j
>160
オレは今登りはじめたばかりだからな。
このはてしなく遠い男坂をよ

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/07(金) 12:24:18 ID:9XpgdGWU
>>151
石見銀山のあたりは当時、日本有数の人口密集地で、大都市といっていい状況だったようですね。
尼子も毛利も、その安全と経済活動の保障をすることで、地域の覇者として認められたのだとか。

尼子経久、とある男の顛末

2009年07月21日 00:02

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/20(月) 17:38:53 ID:B7AtPWZ0
とある男の顛末


鏡山城合戦の時のことであった。雲州の狼こと尼子経久は安芸国内の大内勢を排除すべく、
鏡山城を攻めこんだ。
当時の毛利家当主幸松丸の後見人をつとていた毛利元就は
幸松丸といっしょに尼子軍に従軍していた。
元就は己の智謀で城主蔵田信房の叔父蔵田直信を籠落、城内へ侵入することができた。
その後城は落城蔵田信房は自刃した。
だが経久は無断で調略した元就も許さず、甥を裏切り元就に助命と
領土安堵を約束させた蔵田直信は経久に首をはねられた。
この時元就の謀略を見破ったの経久一人だけであった。




671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/20(月) 18:45:58 ID:ZEomPvcS
大河ドラマでこの話まんまで見たな。首をはねる緒形拳、無茶苦茶怖かった。

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/20(月) 19:03:38 ID:cVBhlrFl
あのシーン良かったよな。
もの凄い迫力だった。
俺あれで尼子について興味持ったもん。


佐々木大膳大夫と天女・いい話

2009年06月11日 00:10

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 04:20:33 ID:BjrBxrYA
古老の語った事である。

ある時、佐々木大膳大夫なる者が狩猟に出、出雲から伯耆へと越えた。
そこは人跡も稀で、清流の流れた場所であったが、その川で、一人の美女が
裸で泳いでいるのが見えた。

彼は思わずそこに近づくと、川端の石に衣がかかっているのを見つけた。蝉の羽のように美しく
軽い衣であった。佐々木はこれを懐に入れ、近くの麻畑の中に隠れた。

さて、美女が川より上がれば、衣がなくなっている。驚きと恥ずかしさに泣いていると、
そこに佐々木が偶然のように出て行き、「あなたは誰ですか?」と尋ねた。

女は言う、「私は天女です。天よりこの水の清らかさを見て、下って浴泳していたのですが、
今衣を失い天に帰る術をなくし、どうして良いかわからず泣いていたのです。」

これに佐々木、「それは仕方が無い。ともかく私に付いてきてください」と、着替えに持ってきた
帷子を着せ、連れて帰った。やがて二人は夫婦となり、子が誕生した。
この子は後に、経久と名乗った。

この時佐々木は、彼女も子の母となり、もはや天上に帰る望みも無いだろうと考え、
かつて衣を隠した事を告白した。

彼女はそれを聞き、懐かしそうに「その衣を見せて欲しい」と言うので、取り出して渡したところ、
たちまち空へと飛び上がり、「あなたとの今生の対面はこれまでです。どうかその子を
良く育ててください。私はその子を天より守ります。」そう言うと。雲の中へと消えた。

佐々木はこれを大いに悔やみ、嘆き悲しんだ。

残された子は、成長するとその名字の佐々木を改め、天子(あまこ)とした。
「天人の子」と言う意味である。その後ある人から、天子の字は帝に恐れ多い、と言われ、
これを「尼子」の字に変えた。

そう、この天女の子こそ、戦国初期の驍勇、尼子経久なのである。

出雲に伝わると言う、尼子経久出生の伝説。





353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 05:44:32 ID:QxidjHu1
>>352
雪女の話に似てるなぁ

354 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2009/06/10(水) 06:16:21 ID:IsnGr2O4
むしろ羽衣伝説近江版。

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 18:23:19 ID:0yx3GKfb
宮崎羽衣伝説
・「指輪は全部鉄で出来ているので錆びる。鉄をおしゃれに言うとシルバー」と自信を持って言い切る。
・タイ料理(特に生春巻き)が大好きで、行きつけのタイ料理屋では「生春巻きの子」と呼ばれる。
・城や時代劇が大好き。また、理想のデートは城めぐりらしい。

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 19:01:32 ID:E3senSL1
>>360
節子、それ うい や


尼子政久、戦国のマク○スとその顛末・悪い話

2009年02月22日 00:08

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 16:22:31 ID:/dDxWnpt
戦国のマク○スとその顛末

尼子経久の嫡男尼子政久が反乱を起こした磨石城を攻めた
しかし、城兵の抵抗は凄まじく兵力差に反し攻め倦ねてしまった
こうなると尼子勢に厭戦気分が広まってしまう
すると、

「これは…」
「若様の笛の音じゃ!」

尼子政久は笛を吹いて士気高揚をはかったのである
これに鼓舞されて猛然と攻めだした尼子勢

しかし現実は非情である

城兵はこの怒濤の攻めの原因が笛の音にあると見抜き、音源に向かって一斉に矢を射かけた
この内の一発がなんと政久を直撃、討死にしてしまう
尼子勢は大混乱を起こし潰走、敗北してしまう

これを聞いた父尼子経久は次男吉田国久(尼子国久)に

「磨石城を‘死 ん で も 落 と せ’」

と命じた
背後に鬼の陰でも見えたのだろう、国久は必死の思いで磨石城を落とした
そして降伏した城兵達を経久は…

一人残さずぶっ殺した

次男三男は既に養子に出ていた為に経久は政久次男の詮久を後継に指名した
これが後の尼子晴久である




245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 16:31:31 ID:9B1ZYY/z
政久がここで死んだのも尼子滅亡の遠因とも言われたりするよな。

運が悪い話だな。

249 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/21(土) 21:28:40 ID:1YUFTHeY
>>244
国久「ふーん、俺は死んでもいいんだ」

これが晴久と国久の確執の原因になったのかな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 23:58:28 ID:s37U8E79
>>245
晴久の代で最盛期みたいなので、晴久がもっと長生きすれば毛利に簡単に潰されなかったはず。

尼子経久と富田城の松・いい話

2008年10月16日 13:15

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 22:29:09 ID:kcDMkAcB
多分、有名な話ではあるが


尼子経久は、家臣が自分の持っている物を褒めると、必ずそれを譲ってしまうと言う、妙な癖があった。
家臣もそれを良くわかっていて、「殿様のものは、決して褒めないように。」と、内々に決めていた。

さて、尼子の本拠地、月山冨田城には巨大な松の木があった。
どれほどの樹齢かもわからない、城のできるはるか前からある松の木であった。

ある家臣が、「さすがに、これを褒めても譲られるような事はあるまい。こんな巨大な松、動かす事もできないだろうし。」
そう思って、経久の前で、つい、このように立派な松は、日本中探してもここだけでしょう。と言った。


次の日


その家臣の家に、見た事もないほど大量の松明が、送り届けられたと言う。




32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 22:31:20 ID:TEmLvqjs
友達が昔松明のことを「まつあきら」と読んでいたのを思い出した

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 22:51:13 ID:0j5cJAdy
>>32
そうかそうか

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 23:01:06 ID:us5f8BxK
>30
面白いがそれはいい話なんだろうかw
松を誉めた家臣涙目な姿しか思い浮かばない。

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 23:42:10 ID:byDRU5SR
経久はいい人じゃ無くて喰わせ者っぽい感じがするなw

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/14(日) 23:46:17 ID:itW652sy
むしろキャラを守ろうと無理してる姿にも見える。

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/15(月) 02:37:27 ID:+6iAyz2a
天性無欲正直な人ってエピだぬ。
えええっと思わなくもないがw
経久出たならこれも既出か?

経久が遠征したところで瓜を手に入れた。
部下が瓜を一緒に食べようと皮剥いてるのを見て
そわそわしだし、しまいにゃとりあげて自分で剥きだして
「おまえは皮の剥き方が厚すぎでもったいない!ホレ」
と言って極薄に皮剥きした瓜を満面の笑みで
部下にわけ与えたそうな。

いい話かどうかは…ちょい疑問w