4 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/13(水) 18:14:26.34 ID:zXZRlqOA
『徹斎、諸国における試合の覚え』
タイ捨流の開祖、丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)。晩年には徹斎と号し、齢九十の長寿を全うした
剣士の生涯を記録した文書が、「徹斎於諸国仕合之覚」として今も熊本県球磨郡の丸目家に現存する。
この文書。表題の通りに摂州の「仮名田熊左衛門」との仕合から、真剣勝負を望む「豊後の鎌仕の名人」を
刀の棟で打ち倒すまでの戦歴が記載されている。
中には、薩摩国菱刈郡大口の「快鏡」という大勢の弟子を抱える兵法仕(へいほうつかい)が、様々詫び言して
仕合を免れた不戦勝の記録まで網羅されている。
そんな中、十条目にさりげなく、このような文章が。
「摂津の国において、上泉伊勢守の弟子になる時。
上泉門下に諸侯から参じていた弟子、およそ六十数名。徹老(若き日の蔵人助)は一度に七~八人ずつまとめて
打ち伏せ、小休憩してからまた複数を同時に打ち伏せ、対には兄弟子が全て新参の徹老に指南される事となった」
実際。足利義輝の御前で伊勢守の打太刀役を(新参にも関わらず)つとめているので、蔵人助が強かったのは
事実でしょう。
が、さりげなく「上泉伊勢守の弟子に成り居られ候時」と記述していますが、どうして弟子入りしたかは
スルーしている事に疑問を抱くのは、勘繰りすぎでしょうか?
『徹斎、諸国における試合の覚え』
タイ捨流の開祖、丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)。晩年には徹斎と号し、齢九十の長寿を全うした
剣士の生涯を記録した文書が、「徹斎於諸国仕合之覚」として今も熊本県球磨郡の丸目家に現存する。
この文書。表題の通りに摂州の「仮名田熊左衛門」との仕合から、真剣勝負を望む「豊後の鎌仕の名人」を
刀の棟で打ち倒すまでの戦歴が記載されている。
中には、薩摩国菱刈郡大口の「快鏡」という大勢の弟子を抱える兵法仕(へいほうつかい)が、様々詫び言して
仕合を免れた不戦勝の記録まで網羅されている。
そんな中、十条目にさりげなく、このような文章が。
「摂津の国において、上泉伊勢守の弟子になる時。
上泉門下に諸侯から参じていた弟子、およそ六十数名。徹老(若き日の蔵人助)は一度に七~八人ずつまとめて
打ち伏せ、小休憩してからまた複数を同時に打ち伏せ、対には兄弟子が全て新参の徹老に指南される事となった」
実際。足利義輝の御前で伊勢守の打太刀役を(新参にも関わらず)つとめているので、蔵人助が強かったのは
事実でしょう。
が、さりげなく「上泉伊勢守の弟子に成り居られ候時」と記述していますが、どうして弟子入りしたかは
スルーしている事に疑問を抱くのは、勘繰りすぎでしょうか?
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