四十九池神社由来

2010年08月19日 00:00

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 00:29:35 ID:mfAQCiNU
ちょくちょく九州の話題が出ているので便乗して一つ。

熊本県玉名市築地(ついじ)に、四十九池神社という神社がある。
現在、周りを畑や住宅地に囲まれた同神社内に広場がある。
この広場は近隣の子供達が和気藹々と遊具で遊んだり、サッカーや野球をやるなど、のどかな風景が広がっている。
(かくいう自分も高校時代友人たちとこの場所で草野球をやった事もあります)
さて、その当時は気にしていなかったが、後に調べてみると悲劇的な成り立ちがあった建物や場所と言うものは
誰にでもあるのではないだろうか。
かつて、熊本県玉名市周辺を本拠としていた大野氏という一族がいた。
この大野氏、扶桑略記を著した皇円上人が誕生した蓮華院誕生寺を庇護していたり、応和元年(961)に
同じく玉名市にある繁根木八幡宮を地頭として建立し、総鎮守としたと伝えられている。

戦国時代、肥後守護の座から追われていた菊池義武が天文十九年に起こった二階崩れの変を好機と捉え、
隈本城に復帰した。
その際、大野氏は菊池氏側に付き、三池・大津山・和仁氏らと共に小代氏を攻撃した。
だが、小代実忠の奮闘により果たせなかった。
そして大友義鎮は筑後、肥後平定の為自ら出陣。
三池氏らを下した後、大野氏は小代実忠によって諸城を攻略され、恐らく大友氏に降伏したと思われる。

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 00:34:00 ID:mfAQCiNU
そしてもう一方、同じ熊本県にある、荒尾市野原周辺を本拠としていた小代氏という一族がいた。
小代氏は武蔵七党児玉党の入西(にっさい)資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を称したことに始まると言われる。

南北朝時代は北朝方、戦国時代においては菊池氏の嫡流が絶え、菊池義武が実家の大友氏と敵対した際には
大友氏側に付き奮闘。
その功にて肥後北部から筑後南部までの広大な領土を獲得し、肥後でも有数の国人へと成長した。
だが、天正六年、大友氏が耳川の戦いで壊滅的ともいえる大敗北を島津氏に喫すると、当然その余波は
肥後にも降りかかる。
そう、これを好機とみた肥前の熊、日本のカエサルこと龍造寺隆信が肥後へ侵攻を開始したのである。
この時期の大野氏の動向はよくわからないが、小代氏は天正七年、福岡県大牟田市の三池氏が
龍造寺勢に攻撃されると、三池氏の当主三池鎮実が小代氏当主小代親忠の岳父という縁もあり、救援を送る。
だが、鍋島勢に妨害され果たせず、三池鎮実は遁走を余儀なくされる(後に龍造寺氏に服属)。
当然ながら小代氏にも龍造寺勢の攻撃の手は及ぶ。
攻撃を受けた小代親忠・親泰父子は筒ヶ岳城、梅尾城へと篭り、龍造寺勢と激戦を繰り広げたが多勢に無勢であり、
龍造寺氏に降伏する。
この後、龍造寺隆信は島津氏に通じたと言われる蒲池鎮並を謀殺。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4527.html)
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1190.html)
残った蒲池一族が篭る柳川城攻めを行うが、その際には小代氏も筑後の国人、田尻氏と共に攻囲の中に
加わっている。



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 00:35:26 ID:mfAQCiNU
さて、前振りが長くなってしまったが、ここからが本題である。
天正九年、大野氏は島津氏に通じており、龍造寺隆信は小代親忠に対し、玉名侵攻を命じる。
金山焼石原(恐らくは荒尾市金山)にて激突した両軍は激戦の末、小代氏が勝利を収める。
小代氏はこの勢いで上村城、高道城、次いで大野氏の詰め城である日嶽開田城(旧岱明町)への攻撃を開始。
城主大野親祐は小代勢を迎え撃ったが、衆寡敵せず、城内の女性を逃がした後、全員が討ち死にし、
大野氏は滅亡した。
そしてこの戦いで討ち死にした49人の武士の魂が四十九池周辺に現れた為、かつて小代山中の四岐(よまた)に
祭祀していた阿蘇神社から迎えていた四の宮の神霊をこの池周辺に移したと言われる。
またもう一つの伝承として、落ちた大野氏方の女性49人がこの四十九池に身を投じた為とも言われ、
これが今日に伝わる四十九池神社の成り立ちである。



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