武雄の荒踊り

2012年11月21日 19:53

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 00:13:41.93 ID:mkCVhKtB
武雄の荒踊り

佐賀県武雄市の各地には荒踊りと呼ばれる伝統芸能が今もなお残っている。
この踊りの起源については諸説あるらしいが、
一説によると享禄3(1530)年に武雄領主後藤純明の頃、有馬晴純に塚崎城(武雄城)を
攻められ山内の住吉城にまで迫られた。
純明は黒髪山に戦勝を祈願し、山内は三間坂に陣取っていた晴純を奇襲し破った。
この戦勝を祝い足軽たちが踊ったのが荒踊りであるということだ。

さて、時は下って永禄6(1563)年、武雄領主は純明から大村家より養子に入った貴明に継がれていた。
晴純はこの貴明を破ろうとしたが、なかなか打ち倒せない。
そこで一計を案じ、宴会を開くとして貴明を島原におびき寄せて討ち取ろうとし
、貴明も誘いに乗ってしまった。
しかし島原の老僧がこのたくらみを知り、貴明に警告を送ってきたのである。

「貴明様、今回の宴は有馬の謀略でございます、むざむざ殺されに行くようなものですぞ」
「フム…しかし一度約束した手前行かねば卑怯者のそしりを受けようぞ、
それならばいっその事晴純めの方を計略にかけてやろう!」
「計略とは?」
「屈強のもの250人を選び出せ、花衣装を着せ荒踊りで乗り込むのじゃ、まあ見ておれい」

貴明は250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ、十日も早く島原へと乗り込んだ。
これに驚いたのは有馬であったが、晴純は老将の余裕を見せ、貴明がまんまとわなにはまったとほくそ笑んだ。
夕刻、本丸にて有馬家の重臣の居並ぶ前に貴明が出ると、貴明の口上は始まった。

「本日伺ったのは他でもありません、約束の日には急用ができてしまいやむを得ず
今日この日に挨拶に参りました」
「そうか後藤殿、ご苦労であったな(フハハー馬鹿め、わざわざ寿命を縮めに来るとは!)」
「急な事で手土産もありません、その代わりと言ってはなんですが
今日は我が武雄領に伝わる荒踊りを披露したく、
 踊り子たちを連れてまいりました。さあ皆様広いところでご覧ください」

そういって貴明は晴純達を連れて庭まで出てきた。
庭には荒踊りのために連れてきた250人の勇士が控えており、一斉に立ち上がった。
浮立の笛太鼓が鳴り響き、250人の花衣装は貴明を中心に舞いだした。
その動きは勇壮かつ華麗で一部のすきもない。
そのまま踊り子たちは舞い続け、貴明を中心としたまま城の外に出ていった。
後には宴の跡と、苦虫を噛み潰したような有馬勢だけが残されていたという。

伝統芸能にまつわるちょっといい話
この辺参考にしました

歴史散歩たけお
http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/siryo/Web_data/furusato/html/densetu.html





498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 00:25:32.96 ID:0OI8HCGj
鴻門の会っぽい話

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 09:12:27.27 ID:+1HAegbw
>>497
250人の勇士が暴れまくる話かと思ったらそのまま
踊りながら出てったのかwこれは確かにいい話

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 10:49:00.72 ID:ulnsaAvN
>>497
>250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ

なんでこんなの城内に入れちゃうんだよw
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肥前後藤家概略、そして後藤又兵衛異聞?

2010年08月20日 00:00

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 23:51:56 ID:9xI26xk6
東肥前で龍造寺氏が台頭してきた時代、西肥前では有馬氏、大村氏、松浦氏と言った
辺りが勢力を持っていた。

永禄六年、武雄の豪族、後藤純明と松浦肥前守が同盟して、有馬、大村の軍と戦にな
ったのだが、後藤勢は大敗。大村純忠の子を養子として後藤貴明と称し、家督を継が
せた。

後に貴明は平戸氏(平戸領主、松浦氏?)から養子を貰い、その養子、惟明に家督を
譲って隠居した。
しかし、隠居後に実子、晴明が生まれると惟明との仲は途端に険悪になる。

惟明による貴明暗殺の陰謀が噂されると、今度は「殺られる前に殺れ!」とばかりに
貴明側が殺気立って武具を用意する。
結局惟明は実家を頼って平戸へと逃れ、貴明は平戸勢に対抗する為に、龍造寺家との
同盟に踏み切る。

同盟の条件は隆信の息子を後藤氏の養子とするコト。
そして同時に、貴明の息子晴明も龍造寺氏の養子となっている。


以上、『肥陽軍記』にある肥前武雄領主、後藤氏の概略。
後藤貴明を大村純忠の子としてあったり、通説とは大分食い違いがある記述なのだが、
コレに続く一説にちょっと驚いたと言うか笑ってしまった。


「平戸に帰った後藤惟明の息子を又兵衛基次と言い、黒田長政に仕え、高麗にまで響
く高名を挙げたのだが、後に浪人となり、大坂の陣で討死したのである。」


……え?又兵衛って平戸出身? 大殿の頃には黒田家に居たよね?
いや、確かに肥前後藤氏と播磨後藤氏は同族らしいケド、あまりと言っちゃあんまり
な混同っぷりに笑ってしまった。

あ、ちなみに龍造寺家の一門となった貴明の息子はその後、狂気によって取り潰し。
後藤家を継いだ隆信の息子は、政家の時代に龍造寺姓に復したと言うコトで、
肥前後藤家の嫡流はココで途絶えてしまったようです。





539 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/08/18(水) 23:54:48 ID:QQv7ibNc
違う意味で悪すぎる話、乙に御座候。

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 01:08:25 ID:CSi9N5uY
>>538
武雄出身だけども、思いっきり武雄鍋島藩で通ってるもんなあ、後藤氏ってつい最近まで知らなかった
幕末の蘭学とかなんとかその辺プッシュがでかいからしょうがないところとかあるけども