それが白指山西琳寺である

2017年07月02日 21:30

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/02(日) 20:52:52.10 ID:PL4U7vUW
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/03(月) 02:17:14.03 ID:pm5eutU1
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな
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ならばこれからは尚更に

2017年06月22日 15:45

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 17:16:33.93 ID:QqZGxox/
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』


牛頭天王の神慮

2017年06月16日 17:54

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 04:20:17.65 ID:Yt7CmcZ5
立花家の紋所は古来より杏葉紋であったが関ヶ原の後に配流のある時、夜の夢で
筑後国祇園山が自身(立花宗茂)の頭上へ覆いかかる様を見て目を覚ました。

この夢より程なくして召し出されて、本国を賜った。これによって牛頭天王の神慮を
(宗茂は)かたじけなく思われ、かの社の守の形を家紋としたのである。

――『明良洪範』


男子これなく候へとも、

2017年06月11日 10:43

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 01:27:24.99 ID:ZNnSTgYf
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編Ⅴ 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例



15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:10:37.92 ID:YQxDzO82
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:12:55.86 ID:GSPWhLoP
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:23:11.93 ID:ZNnSTgYf
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 05:48:10.37 ID:FeToHE5W
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:48:07.31 ID:oqc2RtC1
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

果して、宗茂公は二十年振りに

2016年11月25日 08:19

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:33:07.38 ID:DqhLpzHV
柳川の日吉神社の太郎稲荷大明神由来に似た話があったな

戸次道雪は、稲荷明神の信仰が厚く出陣には、護軍の神として御幣を奉じ毎戦勝利の加護を受けられた。
藩祖立花宗茂公は、慶長五年九月大津城を攻め破り、武勲をたてられたが、
関ヶ原で西軍は敗れ危険な道を切り抜けはるばる西下された。
暗夜、筑後川の岸神代の広い芦原で道に迷われた時、一条幽光が先導したので浅瀬がわかり無事柳川城に入られた。
宗茂公の室誾干代姫は、父道雪公の志を受けついで稲荷明神を守り神と信奉された。
姫は、肥後腹赤村で明神が「夫君守護の為、しばらく姫のそばから離れるのだ」と告げられる夢を見て宗茂公は
必ず帰国されるを確信された。
果して、宗茂公は二十年振りに奥州棚倉藩主から柳川に帰国された。
入城後、直ちに肥後に居た僧金剛院誉を召し帰国して城濠の中の島に稲荷大明神を勧請しお城の守護神とされた。




大津の死骸返し

2016年06月17日 17:56

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 04:02:05.70 ID:i6P555yl
大津城の戦いの時、立花宗茂は使者を城中に派遣し、

「今日、味方で討死した者の中に“十時伝右衛門”と申す者がいます。
取り分けて不憫に存じているのです。遺体をお返しください」

と言って、十時の物具の色を書いて言い送ると、やがて十時の遺体が
返された。また城中からも、

「“山田三右衛門”の首をお返しください」

と望んだので、冑を添えてその首を送った。これを“大津の死骸返し”
といって、勇士死後の誉れとした。

――『常山紀談』



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:54:07.40 ID:PtZ7CRgp
誉れなのかぁ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 01:26:54.93 ID:qsZH8YMt
>>860
「とりわきて不便に存るなり骸を返し給はり候へとて物具の色を書て…」(原文)

骸(首なしの死体)と首を交換したってことだね


「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

2015年10月12日 18:35

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/11(日) 23:07:28.70 ID:4uDhfPts
柳河の町やその近在では、旧暦の10月に亥の子餅といって亥の子の日にお餅をつきます。
このお餅を食べると、歳を一つとることになるのだそうです。
これはどこの国でもおんなじことですが、ただひとつ柳河には他と異なった行事が残っております。
これがお話しようという「えいぎょうえいさつ(愛嬌挨拶)」なのです。
亥の子の日には、柳河のどこの家でも、お店でも、入り口のお部屋や上がり口にお台やお膳をすえて、
その上に一升桝にお赤飯を山盛りにし、その山のてっぺんに白菊や黄菊を挿します。
そのそばの大きなお皿やお鉢には、大根と人参とのお膾が盛ってあります。そうして、
柳の枝をそぎっぱなしにした一尺五六寸ほどの大きな箸が、別々に2とおりそえてあります。
すると、表の方から、子ども達が二人とか三人とかてんでに手をつなぎあって、

「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

と、歌い歌い入って来るのです。そうしてどの家にでも上がって、そのお台の前に
すわると、とても大きな柳箸で、お赤飯をその山から欠いてすくうと、それを左の手にのせ、
その上にまた膾をはさんでのせ、それを食べてしまうと、手をふき、お行儀よくその家を出て行くのです。
一軒出るとまたお隣に入り、次から次に「えいぎょうえいさつ。仲のよかごと」と歌いお祝いして歩きます。
どこのお家へ入ってもかまいません。子どもたちのためにごちそうしてあるのですから、
柳河では、おひな祭りでも端午のお節句でも、まるで展覧会のように自由に見て歩けます。
知らないお家でもかまわず入れます。「えいぎょうえいさつ」も、子どもの頃どんなにうれしかったかわかりません。
ほんとうにみんな仲良くなるような気がしました。「えいぎょうえいさつ」とは愛嬌挨拶ということで
「仲のよかごと」とは、仲のよいようにという訳で、とにかく、仲のよいようにと挨拶して歩くのだと思います。
これは昔、立花左近将監さまが、関ヶ原の戦いの時、石田方へお味方なさったので、徳川家康公から
柳河のご領地13万石を取り上げられ、一時、肥後の加藤清正公のところへ食客をしておられたことがありました。
慶長8年のことですが、左近将監様は家臣たちと関東の方へお出かけになり、その途中亥の子のお節句に
おあいになりましたが、お茶碗もなければお箸もありません。
で、しかたがなく、有り合わせの枡に菊の花を添えたお赤飯を盛って、それを手の甲に受けて膾を乗せ、
柳の枝を箸にして皆で心ばかりのお祝いをなすったということが言い伝えになっております。
宗茂公は、それからまた柳河のお殿様として帰ってこられました。それで、あの時の記念に、
皆が仲のよいようにと、柳河のどの家でも、亥の子の日にはそうした「えいぎょうえいさつ」
をすることになったのでした。
(柳川の行事について北原白秋が書いた文)



824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/12(月) 00:36:23.33 ID:0k8U1Wba
白秋ブランドや!

質素な逸話だけど一方でうなぎの蒸籠蒸しとか何が発祥だったんだろ柳川

立花宗茂の家は、常に分かれていた

2015年08月26日 16:56

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 03:07:40.90 ID:/MvixQL9
立花宗茂の家は、小野和泉(鎮幸)と立花三河(薦野増時)の両家老の二派に、常に分かれていた。

小野和泉は若年よりその武勇人に越え、九州においては隠れなき武人であった。
彼の生まれたちは卑しく、物を言う様子も全く下郎たちと同じで、分別もなく、
普段は何の役にも立たない人物のように見えるのだが、度々の手柄は肩を並べる者も居らず、
そのため六千石を取り一の家老となり、その威勢を誇っていた。

立花三河は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人に越え、田舎侍には稀なる人材であると、
同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
今は物事を素早く進行させるのが良いと思う時代であるが、とりわけこの者ははややかであった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。

しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、
今の世の習いである。そして人は、分別がなく傍若無人なことを言いまわり、大抵は愚鈍で
子どもじみた作法の者を、武辺者と言うことが多い。これは珍しいことではないが、

立花三河も、能力のある人物であることは確かなのに、利根であることに押され、武儀は二番のように、
家中でも特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたそうだ。

このようであったので、小野和泉派の者達は、何時も武辺事ならば我らの出番であるとし、
立花三河派の者達に対してが、それが誰であっても武辺事に仕る者とは常に思わなかった。
そして親しき友人、あるいは兄弟においてこの2つの派閥にわかれた者達の間では、
小野和泉派は相手を「比丘尼組」、立花三河派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、
それぞれに腹を立てさせることもあったという。

(古郷物語)

立花宗茂の家中が2つの派閥に分かれていた、というお話。



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 13:27:59.41 ID:rXq/zYu8
脳筋と能吏に別れるのは当主が盗賊まがいの脳筋のせい
福島しかり

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 22:30:30.65 ID:rhG4BBZU
柳川の戦いの時にこの二派の対立を直茂に突かれたりしている

荒井の船橋

2015年07月19日 15:39

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:30:41.18 ID:BFyGo3JW
将軍徳川秀忠が上洛の時、荒井の渡を通過して本陣に入ると、井伊掃部頭(直孝)を召し出して言った

「今度の上洛につき、荒井の渡に船橋が駆けられていたが、一体誰が命じたのか?老中共の指図であるか!?
昔より、頼朝公を始めとして権現様までも、箱根荒井というのは関東第一の関所である。それに船橋をかけ
平地にしてして渡った例はない。であるのに、今度私の沙汰無しにこのような事をするなど、不届き千万である!
一体どうしてこのような事に成ったのか、直ぐに詮議して報告するように。
それが済まないうちは行水も食事も不要である!」

殊の他の立腹に、老中たちもどう説明すべきか分からずあぐみきった中、ついにこの結論に達した

「そうだ!立花飛騨守(宗茂)を呼ぼう!」

即座に早馬を出し『急に御用これあり、御本陣へ早々御出あるべし』と呼び出した。
宗茂の宿舎と本陣の間は1里ばかりも離れていたが、宗茂も何事かと馬で駆けつけると、老中たちから
「実はかくかくしかじかこういう事で、どうにも出来ないのです。飛騨守殿、どうか上様が、機嫌を直し
行水なされ御夕食を取られるようしていただけないでしょうか?お頼み申す!」

宗茂「はあ…。私を呼んだのは誰の指図でしょうか?」

老中たち「我々が頼んだのです!もはやこの上は船橋のことは言わぬ。ただ上様がお湯に入り
御膳を召し上がって頂ければ、それでいい!だから御機嫌の事についてのみ、偏にお頼み申す。」

しかし宗茂
「ですが、私が申し上げて機嫌が治るかどうか解りませんが…。とにかく、私がこちらに罷り越したことを
上様にお伝えいただかないと…」

「大丈夫!上様は貴殿の咳払いをいつもよくご存知である!」
「咳払い…?これですか?ゴホンゴホン」宗茂、試しに咳払いをしてみたところ
秀忠「!、その咳払いは立花ではないか。我が前に出よ!」
即座に呼ばれた。

宗茂早々に御前に出ると、秀忠から問われた「其方、どうしてこちらに罷り出でたのか?」

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:31:25.68 ID:BFyGo3JW
「はっ。本日ここまで、ご機嫌よくご到着されたこと目出度いと存じ奉り、そのため宿舎からこちらに
参ったのです。」
「いや、今日は散々なことがあった。ここの渡に船橋をかけたのは不届き至極であるので、必ず糾明するよう
命じた。この詮議が解らぬうちはこのままここを動かぬつもりだ。」
そう言う秀忠の機嫌はまったくもって悪い。ここで宗茂

「さてさて、日本国を治められている将軍様と、私のような者の所存とは白黒の違いがありますな。
荒井の関所を、公方様のご威光に寄って船橋をかけられたために、平地のように感じられ上下誰もが安々と
これを渡れること、真に公方様のおかげと、私もありがたく思いながら宿舎に到着いたしました。」

この時、御次の間では老中たちが秀忠の機嫌を案じ、宗茂との会話の様子を耳を澄まして聞いていた。

秀忠「いや、そうではない!頼朝卿、神君までも、人馬の渡河する拠点であるから殊の外大切になされていた。
そんな場所に船橋を心の儘にかけて往来する事は、畢竟神君のお心入れを浅ましく扱っているようになり、
何とも是非無き次第ではないか。」

「恐れながら」宗茂は反論した。「私のような者の考えは、そうではありません。
そもそも頼朝卿や権現様の時代に、関東の要衝である荒井川に船橋をかけゆるゆると渡るような事をすれば、
何方より横矢を射掛けられるか解りません。ですから、そういったことを恐れて大切にされていたのです。

しかし、御当代の御代は、弓を袋に、太刀を箱に納める、千秋万歳の時代です。御上のご威勢ますます強く、
それ故全国津々浦々まで、今度のご上洛を陰ながら喜んでいます。
下々まで喜び、ご威光強く、また御仁徳も備わられている将軍様というのは今までに無かったことです。
この事は唐土まで聞こえ、東朝の誉れ、これに過ぎません。
そういう時代なのですから、荒井に船橋をかけても、お気遣いなされることは少しもありません。
そこを将軍様が渡られ、ここまで無事にお着きになった事は、平和な時代を象徴した、誠に目出度い
事であると存じます。

私も御次の間で老中の方々から、この船橋のことに関して色々とお聞きしました。
しかし私は、これほど目出度いことはないとご挨拶いたしました。」

「…」秀忠はこれを聞いて、何の意見も言わなかった。しかし「飛騨守は夕食はもう取ったのか?」
「私は宿舎に到着して直にこちらに参りましたから、未だ食事はとっておりません。」
「そうか、では相伴せよ。私は先に行水をする。」

そして入浴し食事が済むと、井伊直孝を呼び出し
「先程言った船橋のことだが、飛騨守の言うことを聞き、尤もに思った。
今度の上洛も目出度いことなのだから、船橋はあのまま差し置くように。」

こうしてこの一件は相済んだ。それより酒宴が始まった。宗茂は元より上戸であるので大いに飲み
「これほどの御喜びの時節ですから、私の仁王舞を上覧に入れ申す!」
と舞始めると、秀忠も殊の外喜び、希代なる飛騨守であると、秀忠自身も酒を過ごし、
夜九つ(深夜0時頃)まで続いた。やがて宗茂が退出する時、老中たちは彼を待ち受け
「今日は不意な事にてご苦労千万でした。貴殿の取り成しのお陰で早速ご機嫌も治り、
我々も大いに安堵いたしました」と、厚く礼を述べ、また宗茂の宿舎にも使者を出して
感謝を伝えたという。

(明良洪範)




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:49:17.15 ID:OLvomVf/
忠長「大井川に船橋をかけて兄上(家光)の上洛をしやすくしよう」
家光「大井川は関東第一の要地であり権現様でさえ浮橋を使わず渡ったのに何事か」
忠長「・・・」

このときまだ秀忠も宗茂も生きてたのに何が悪かったんだろう

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 00:15:53.68 ID:xyAb/G9H
権現様が絶対正義やもん
そこから外れたことは出来ん

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:11:03.53 ID:76uak5PJ
そう、権現さまが味噌と申されたからには味噌なのでございます

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:32:50.94 ID:2eE22z30
>>412
やくざと一緒

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:06:26.03 ID:6+kB7YtG
>>415
さくざと一緒?

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:19:06.45 ID:GpAykuLV
鬼393

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 10:13:40.80 ID:aFpPCIlN
>>411
宗茂の元主君と比べたら秀忠はかなり扱いやすそうだな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 11:45:07.35 ID:hGSWm65G
舟橋なら有事にはすぐ撤去できるしそこまで問題視する必要無い気が

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:07:31.09 ID:uwCXzDg7
信長公記、天正十年四月十六日の条だと

家康が甲州征伐から戻る信長のために、奉行人三人に命じて
「甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、
川の面寒、渺貼として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず」
と説明されている、天竜川に舟橋を架けさせるなど、信長を歓待するために
大変な気を配って尽力したため人々に賞された、
と書かれているのに。

権現様もしたことを息子や孫が批判するとは

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:21:47.47 ID:+TMhyEgo
本拠地がどこにあるかで違う
安土なら瀬田か

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:25:15.80 ID:zpVlv4rz
秀忠ってホント宗茂好きだよな

水田長光

2015年03月14日 16:13

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/13(金) 19:06:54.01 ID:SJaR7R4M
水田長光

立花宗茂は、長光の名刀を二振所持していた、一つは父である高橋紹運より贈られたもので、
これは宗茂が死去するまで身に帯びていた。
もう一刀は水田長光といった。

文禄年間の朝鮮の役の折の事、宗茂の家臣に風斗就澄と言う者があったが、彼が敵十余人に囲まれ、
五人を斬り斃したがそこで刀が折れ、脇差でまた一人を斬りその場を切り抜けた。
宗茂はこの奮戦を見て感服し、風斗にこの、水田長光を与えた。

その後、船軍があった時、一人の敵が船から海へ飛び込み逃げようとしたのを、風斗は船中から
その腰を斬った。敵は海に入り少し泳いでいたが、そのうちに二つになって死んだ。
また、死骸を二つ重ねて斬った所、一撃で四つになった。
それほど鋭利な刀であって、風斗も秘蔵していた。

ところが慶長五年の関ヶ原の戦いによって、宗茂は西軍に与していたため柳川の領地を召され
牢人と成った。為に風斗就澄も、摂津の片田舎に隠遁した。

そこに、藤堂高虎が使いを寄越した。『長光の刀を私に贈れば、千石を与えよう』との申し入れであった。
しかし風斗は
「この刀は、主君手ずから賜った物です。たとえ一万石下さるとも、お断りいたします。」
と、これを辞した。

その後、宗茂は棚倉一万石で大名に復帰し、続いて柳川の旧領十万石を賜った。
そのため風斗も直ぐに江戸に赴き、宗茂に面会した。
この時宗茂は風斗に「水田の刀は今も所持しているか?」と聞いた。
風斗は水田長光を取り出して見せ
「私がもし利欲のためにこの刀を失えば、再び今日の拝顔も無かったでしょう。」
そう、涙ながらに申し上げたという。

(刀剣談)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 07:35:26.22 ID:ytOcIGjf
>>717
少し泳いでから2つに切れるって、南斗水鳥拳みたいな感じか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 08:09:38.55 ID:qzi+CGtZ
森長可「てめぇらの血は何色だぁー!!」

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:25:43.97 ID:kfrRa2Oi
水野勝成「ヒャッハー!名刀だぜ!」

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:56:50.34 ID:zURkGJU+
リアル北斗の拳だからいやだよ戦国時代

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 11:11:34.32 ID:+GY/xPYT
名刀、名槍には命名の由来になった逸話があって楽しいね

人間無骨とか三十六歌仙とか圧し切長谷部とか...

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 11:55:19.47 ID:0jczleXd
立花宗茂が所持していたとされる刀剣って
剣・長光
笈切兼光
波遊ぎ兼光
劔切貞宗
粟田口則国
菊御作
豊後正宗
とか色々あるけど、水田長光は知らなかったな
波遊ぎ兼光も似た話だったと思うけど

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 15:02:18.03 ID:kfrRa2Oi
三歳さんもたくさん持ってるな。手打ち関連の名前が多すぎるがw

下和白「安河内家」の始まり

2015年01月11日 17:08

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 12:06:52.41 ID:1kJkdqwW
下和白「安河内家」の始まり


『九代延昌、後に三郎左衛門虎昌と改む。
筑前国立花城主戸次丹後守鑑連道雪の幕下に所属し、忠勤をぬきんで戦功多し。
道雪養子立花左近将監宗虎より諱の一字を授く。
のち虎昌と改め、粕屋郡下和白村を領す。是イミナ屋形を下和白の里に建つ。』

今日の福岡市東区和白における安河内家の興りである。
ちなみに虎昌が拝領されたのは1570年の出来事である。

彼は3年前の上和白の戦いで宗像水軍相手に戦功があったため、道雪より下和白村を拝領したという。
現在安河内家は和白地区一帯にくまなく広がっている。

ちなみに読みは「やすこうち」である。「やすかわち」と読まないように。


http://i.imgur.com/yNFu07n.png

(出身小学校の120周年記念誌から抜粋)



538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 12:22:36.21 ID:M5c4hDke
>>537
佐村も佐村河内も、広島・山口近辺に多い姓
佐村河内は、安芸の国人・佐村氏のうち、河内守を称した人の家系が
佐村河内を名乗るようになったと言われている
安河内も、「安氏の河内守を称した人」の家系なのかね?
安氏は在日にも多いが、藤原氏系や安国造系など、昔から存在している氏でもある

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 09:02:10.06 ID:1E2dvOhz
>>538
それはよくわからない。
7000傑のサイトでも出自不詳と出ている。

1つ言えることは広島・山口は『こうち』読みが多いこと。
墓地をブラブラすることはないけども、家紋が複数あったから特定はできない……。

もしかしたら嵯峨源氏の渡辺氏系統かな………?

立花宗茂の弓

2013年11月24日 18:58

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 10:03:20.65 ID:GGFRUOH0
立花宗茂が十一歳のときに立花城を訪れた際のことである。
道雪は宗茂を饗応し、家臣を呼び寄せ弓を射させて見せた。
そして戯れに「そちはまだ幼いので、弓はうまく射れまい」と言った。
すると、宗茂は側にあった弓を引いて「これは弱い弓なので、
強い弓をお貸しください」と言って道雪から剛弓を借りて射た。
四本のうち三本までを当ててみせたという。(名将言行録)

その数十年後
本多佐渡守が将軍に見せるため弓の的当てを行わせた際のことである。
佐渡守は的場を通常15間(約28m)のものを、17間(約31m)にして
射手衆に射らせてみたが、的が遠いためかさして当たらなかった。
御前は少し笑って佐渡守に耳打ちすると、佐渡守は見に来ていた宗茂に
「一矢射て見せてやってくれまいか」と上意を伝えた。
宗茂は「年寄りの私がお見せするのはいかがなものかと存ずるが、
上意とあれば断れませんな」と言って立ち上がった。
そこへ周りの者たちが弱弓・強弓を5、6張差出してきたのに対して
「弓はいずれにても良く候」と言って弓と矢を取り諸肌を脱いで矢を構え、
早矢を放つと、串の竹を射削り的の内に射込んでみせた。
周囲のものは言うに及ばず、御前も聞きしに勝る見事の手前と感嘆した。
御前より「もう一本仕れ」と言われ、また矢を放つと今度は的の星を
射抜いてみせた。満足した御前は宗茂に盃を与え慰労した。
宗茂はこの時のことを立花壱岐に「若年から弓を好んで使っていたが
天下の御前で所望されるとは思いもよらなかった」と語ったという。
(淺川聞書)

少年の頃には強い弓を使うのを好んだ宗茂が、
年をとっては弓の強弱に拘らなかったという対比が興味深い




697 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/11/24(日) 20:34:01.50 ID:Os8/qInk
>>692
殿といっしょでデカい弓無理やり引く話はこれが元ネタだったのかw

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 22:29:14.67 ID:Wr5kzpiA
>>693
上達するに従って、いろんなものに対応できるようになるんだろうね。

弓の強弱にこだわらなくなる→弓の有無にこだわらなくなる→不射之射
→そして伝説へ

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 22:44:26.60 ID:nHuOhqbS
>>698
>弓の強弱にこだわらなくなる→弓の有無にこだわらなくなる

おい待て。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:28:23.54 ID:9A2NmT8P
最後には弓を見ても何に使うかわからなくなる

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:31:01.11 ID:7qpf3Faf
>>698
不射之射に到達するにはまず相手の矢を百発百中迎撃できる腕にならないといけない

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:34:06.62 ID:8vfA90IR
そのあたりがダーツと違うところなのよね

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 11:56:36.33 ID:CYCXQnst
剣聖先生なら箸で矢をつかむ?

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 17:11:07.83 ID:o+v+9uSd
>>701
その境地に到達する手間考えたら、敵の射ち手を射殺したほうが早いんだよなあw
後者を選ぶべきだろう
偽りだらけのこんな世の中じゃのポイズン精神で(爆)

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 18:07:11.42 ID:2iD2rpTH
>>703
そのくらいのレベルになるともう、相手を気で金縛りにした上で、矢の形を取った気が飛んで行くよ

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 19:53:27.04 ID:VAjsu/py
>>703
蠅を箸でつかんで食べた劇なら見た

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 20:30:19.95 ID:U9QSNkKn
>>704
残念ながらその話では相手射を殺そうと思ったら相手も全て迎撃してくるんだわw

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 20:37:16.29 ID:D91OLbge
相手より多くの矢を準備すればよい

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 23:51:00.07 ID:dExin3eJ
>>706
リアルで蝿を箸でつかめるかなと思ってやってみたら
弱っていた蝿だったのか本当に掴めちゃってどうしてみようもなくなった事が

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 23:41:33.79 ID:LMCHLM1+
>>693
立花さんは本当に弓にまつわる逸話が多いのう

高橋紹運と立花宗茂、父子の別れ

2013年08月25日 19:56

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 22:09:27.70 ID:s3ENaWub
高橋紹運がその子宗茂を、立花道雪の養子とすることと成り、一日宴を張り
杯を挙げ、宗茂にこの様に言った

「今日以後、お主は道雪の子である。夢にもこの紹運の子であると思ってはならない。
もし明日にも、不幸にして武道において私が道雪と相戦うことに成るかもしれない。
一旦戦端が開かれれば、お主は道雪の先陣として、この紹運と戦うのだ。

あの道雪は、いささかの未練であっても嫌悪する豪勇の士である。
お主がいささかでも未練の念を発し躊躇する様子があれば、道雪は直ちにお主を義絶するであろう。

もし道雪に義絶されるようなことがあればそれは、武士の恥辱であり末代までの笑い草と成る。
その時は、この刀を以って潔く腹を切れ。
誓って、ここに帰ってきてはならんぞ。」

そう語ると長光の一刀を与えた。
宗茂は涙を流して、これを受け取ったという。
(古雄逸談)

高橋紹運立花宗茂の、父子の別れについての逸話である。





立花宗茂の妙技

2013年08月20日 19:52

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 22:47:52.49 ID:R1/uJbW+
浅野弾正長政はかつて、柳川に至って立花宗茂の客となった事があった。
この時宗茂は、長政を伴い一日、鷹狩を行った。

ところが田園を探し尽くしても獲物を獲ず、たまたま飛ぶ鴨を見つけても、
鷹は普段は敏捷なこと無双なのに、この時は一羽も捕らえることが出来ず、
宗茂は甚だ不満な有様であった。

帰路、田の畦のはるか向こうに一羽の鴨を見つけると、宗茂は長政に向かって言った

「今日の狩りでは、鷹はその功を奏することができませんでした。
あなたの為に、あの一羽を獲りたいと思います。」

そうして矢を引き絞り、14,5間(約25~27メートル)隔てた鴨に向かって射ると、
一発、直ちにその鴨を斃した。

浅野長政はその妙技に大いに驚いたが、なお一箭を残していた宗茂は、これを弓に当て
従者を呼んで
「鳥はいないか!?鳥はいないか!?お前たちどうして捜さないのだ!?」
そう次の獲物を捜させるが、長政はこれを止めて

「あなたの射術の妙技については、私は既にこれを理解しました。
しかし、もし今一度これを試みて万一失敗すれば、前功もたちまち虚しくなるというものです。
再び行うのは、止めた方がよろしいでしょう。」

しかし宗茂は笑って答えず、と、この時一羽の鴨を見つけた。
翩々としてススキの穂の上の方におり、頭と尾がわずかに見えた。これは「ほう白」であった。

宗茂はこれを見るや直ちに矢を放つと、左翼を貫き「ほう白」は地に落ちた。
長政は宗茂を喝采し、いよいよその妙技に感心したという。
(古雄逸談)




932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 22:50:19.54 ID:To1S2tIh
これが主人公補正ってやつか

立花宗茂、治国の要

2013年08月15日 19:52

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 22:09:00.19 ID:TdjXKN36
立花宗茂細川忠興と友人であり、共に親しんでいた。

ある日、この二人が共に下城することがあり、宗茂は忠興を自邸に招き
自ら茶を点てて饗した。この折に、忠興が宗茂に尋ねた

「あなたは、自分の臣下を治めるのに苦慮することなど少しもないと仰っている。
それは果たして真のことであろうか?
あなたの家臣が善士に富むと雖も、一家を運営するというのはそれでも難しいものです。
いわんや一国の運営に到っては。
私はあなたに、治国の要を聞くことを請いたい。」

宗茂はこれに答えて
「別に、これといった秘訣はありません。
ただ何事も隠し立てをせず、閨中で家内に語るようなことも、臣下一般が知るように
望んでいます。

このようですので、臣下一般は私を信じ、何事も背くことはありません。
それ故に、国内も自然に治まりますので、何の苦心もありません。

私もまた、臣下一般を信じて、横目(監視官)など用いたことはありません。
外様の者であれ、譜代の者であれ、自分の家内同様に心得て、国を治めています。」

この宗茂の公明さに、忠興はいよいよ彼への尊敬を重くした、とのことである。
(古雄逸談)




894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 22:12:56.75 ID:Rd9AfSFq
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7770.html
この話のコメントの逸話はこれだったのか

895 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/15(木) 00:02:21.77 ID:IC86NBdk
>>893
心のノートにメモぢゃ。

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 00:11:32.08 ID:SXl1NlBa
相変わらず爆発しろと言いたくなるイケメンキャラだな宗茂は。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 12:08:47.74 ID:OAxQXVT6
>>895
>>896
正宗も同じようなことを言いながら目付はいらないと言っていたじゃないか

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 17:04:06.87 ID:UlTecr3e
政宗は自分が悪いことしてチクられたのがイヤだったから言ってるように見えてなあ

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 17:38:17.08 ID:PAWDSkTC
>>900
自分がされて嫌なことは人にもしない、てのはいいことかもしれない

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 18:19:23.88 ID:BxbQ080h
自分がされて嫌なことは殿にはさせない!

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 23:03:31.68 ID:iQ82oDxb
>>893
これが元ネタか・・・
これは宗茂が藩主だからできることだから見習えるかというとそうでもないな

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 23:05:26.29 ID:7FJpiMex
まあ聞いてきた相手も忠興だからね
これをそのへんの市井の民に言ってたらあほだけど

縁なき太刀

2013年04月06日 20:03

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 16:11:35.67 ID:mLTSXhPR
縁なき太刀
肥後から上京した高橋道伯(後の立花直次)が兄の立花宗茂を訪ねた時、刀の拵えがあまりにみすぼらしかったので
宗茂は自分の太刀を与えたところ、道伯も拵えのみすぼらしい自分の刀を宗茂に贈った。
「刀身を改めると、この刀も作は悪くない。もしや紹運様の仁王ではないか」
 仁王三郎と呼ばれた高橋紹運の愛刀ではないかと尋ねられた道伯はお察しのとおりと頷いた。父の遺品と聞いて
涙を目に浮かべた宗茂は目釘を抜くと銘を改めたが銘が潰れていて読めなかった。
「確かに仁王三郎清・・・・・・」 
 そこに戸次治部がご機嫌伺いに参上してきた。
「治部そちは、刀、脇差の運の吉凶を見るのが得意だったな。この刀をどう見る?」
刀を見るうちに何かに気づいたのか宗茂は、その鑑定眼に定評のある戸次治部に刀を渡した。治部は刀を一瞥する
となんの役にも立たぬ刀ですなと言いながら刀を投げ出した。
「治部、何を言うか」
あまりの無礼に、むっとした道伯とは対照的に宗茂は、治部もそう見たかと大きく頷くとこの太刀は差料にすることは
ないと道伯に言った。
「刀の銘で運の善し悪しは測れぬ。しかし道具の運の善し悪しは確かに印があることだ」
納得いかない道伯の顔を見た宗茂は、小姓に命じて所蔵している武具を道伯の前に運ばせると、その由来と運の善し悪し
を語り聞かせた。
「つまり刀の吉凶で指し主に悪しきことが起こるということか?」
宗茂の話を聞き終えた道伯は治部に問うと
「申すに及ばざるまでもないこと。悪しき刀は持ち主を守らず、故に持ち主と添い遂げることができないのです。
そして持ち主を転々とするのです。どんな傷物の刀でも三代伝われば重宝ともいうべきもの。そのような刀こそ持ち主を守り、
男冥利に尽きるものとなり、崇め奉れられる家宝となるのです」
 治部の言葉に大きく頷いた宗茂は、仁王三郎を紹運の遺品として扱い、差料にするなとの後代に言い残した。

武具の運の善し悪しを論じた立花宗茂のちょっといい話 (浅川聞書より)




936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 18:49:08.38 ID:SGabT4+b
宗三左文字とか見てると一理あるのかも

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 18:51:40.80 ID:JpyRAitn
使ったら減ってちっちゃくなっていくだろ
せっかくの名刀がもったいない

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 19:19:23.92 ID:0XjgTfLv
>>935
だったら錆びてても重宝になるのかな?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 19:51:24.22 ID:mLTSXhPR
>>937
 その昔、佐竹の若様が軍神の長刀を脇差に研ぎあげたという話がありました。
>>938
 錆びてる時点で重宝扱いしてないでしょう。

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 20:20:00.92 ID:mKPxWQjm
>>939
見事な大太刀を摺り上げて打刀に直す、というのもよくあったらしい
勿体ないけど実用品でもあるから仕方ないか

涙をこらえつつ少年宗茂は

2012年12月05日 20:41

670 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/12/04(火) 21:00:00.45 ID:4NbwRqVW
この流れで小ネタではあるが個人的に好きな話

前にも出ていたが、立花宗茂が興行見物に出かけた際に起こった喧嘩を
落ちついた態度で眺めるなど大器の片鱗を見せていたのが8際の頃。

9歳のある日、立花道雪の所に遊びに行くと食膳が出された。

その膳に鮎がのせてあり、宗茂(当時は千熊丸だが)は骨を取りつつ
鮎をおいしく食べていると何か目線を感じる。

ふっと正面の道雪を見ると

(# ゚Д゚)コラ

Σ(゚д゚lll)

(# ゚Д゚)武士なら骨ごと頭から食わんかぁ!

(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。

雷様直々のお叱り、そりゃ怖いよな。
宗茂らしからぬ、個人的にはちょっといい話。

関連
7歳の女城主誕生


671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 21:09:31.33 ID:VFuXTFJ0
宗茂は純心だな。
俺なら、「雷を切ろうとして半身不随になった馬鹿が」としか思わん。

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 21:18:01.51 ID:yYYl/Xuv
>>669
北九州市ってそのへんに手榴弾が転がってて、
何の変哲もない倉庫から対戦車ロケット弾が見つかるんだよね?

>>670
>涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。

道雪も噛むなとまでは言ってないと思うがw

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 21:19:17.42 ID:mUQkG000
まだ一桁の少年に硬い骨を苦いハラワタごと食えとか雷神様も中々無茶を…

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 21:41:11.61 ID:+Kjv91hx
>>672
噛んだらもっとひどいことになる気がするが

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 22:56:35.03 ID:r52V4Mxo
戦争経験者だったうちの爺様も、生前は焼き魚を頭から丸ごと骨までバリバリ食ってたな
やはり栄養になるらしいよ…真似するとひどい目にあうけどねw

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 23:17:00.72 ID:FykM800i
焼き秋刀魚なら全部バリバリ食べれるだろ
おろし大根に醤油つけて一緒に食べるとウマー

立花宗茂流一領具足

2012年12月04日 20:00

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 23:11:01.18 ID:32kcS1Ik
立花宗茂流一領具足
「足軽は、どうしても侍より早く崩れたがるものだ。そこで譜代の者どもの子を取り立て、
銘々に召し使い、一飯も食べさせ、他へ出仕しないよう育み召し置いておくことが肝要だ。
いざ人数が必要な時には、彼らに槍一本持たせて戦場に召し連れれば、彼らは知行など
なくとも恥を知る者なので足軽共の代わりになり、備えが崩れることがない」
                                
(浅川聞書より)




665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 00:01:30.01 ID:+ri9Wriv
>>664
 ここは九州、修羅の国
 一宿一飯の恩義と言って欲しいのう。

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 00:47:44.59 ID:BNaq4MbT
二代にわたっての助勢の恩義に、婚姻を結ぼう
ただし娘婿は殺す

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 02:56:30.83 ID:MF0bttPT
九州には一生いきたくないな

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 10:00:55.51 ID:C3/54/2s
戦国時代的には南、現代的には北以外は大した事ねーから!

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 10:15:40.37 ID:BNaq4MbT
だから”北九州”は北部九州のことではないと何度も

道具の拵えこそ戦場の心得なり

2012年12月02日 19:04

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 20:14:06.14 ID:nwosr3HU
道具の拵えこそ戦場の心得なり
  後継者の立花忠茂の拵えた陣太刀を見た宗茂が、後に周囲に語った話
「大将は言うに及ばず、武士たるもの諸道具の拵えを派手にするのは悪しきことだ。
 以下に強い者でも、派手な拵えのせいで、遠矢で射抜かれ手負いになっては何の役にも立たぬものだ。
我ら立花の者は、世の常の刀に蟇肌という地味な拵えの立ちで日本はおろか朝鮮に至りて四十四度の
戦場で一度も事を仕損じたことはない」
 これに対して立花壱岐が言上した。
「鎧を着ていると刃渡り二尺三寸の太刀でも抜きにくいので、当節の陣太刀は短めに拵えるそうです」 
「昔、道雪公に仕えていた安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ」
 しかし壱岐の腑に落ちない顔に気づいた宗茂は続けた。
「太刀の抜き方にコツがあるのだ。一度に抜けぬ時は、中間を取って抜けば良いのだ。もし間に合わない
ようなら脇差を抜けば良い。また馬上にて太刀を抜くときは、柄を逆手に取って抜けば馬に当たる気遣いもない。
小脇差とて抜き打ちにするとしくじって馬を傷つけるので心せよ」

 戦国生き残りの武将、立花宗茂のちょっと役に立つ良い話    (浅川聞書より)




639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 22:00:18.12 ID:BgQ/w/CT
将校が派手な格好するとマズイという、宗茂公の発想に
第1次世界大戦でやっと辿り着く欧米

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 22:06:43.45 ID:HHbnuqeE
リヒトホーフェン「まったくだ、パーソナルカラーを塗って戦場で目立とうなど許せぬな!」

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 22:35:32.34 ID:6uF1uw1O
騎馬状態で刀を使用する場合ってけっこうあったんだな。

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 22:37:36.80 ID:Ss79z7lE
>>641
そりゃそうだ。南北朝時代だと馬上剣戟全盛。

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 23:56:29.25 ID:uPIsewsJ
寧ろ騎馬状態だと槍より太刀なんじゃなかったっけ?

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 00:29:37.31 ID:WHuJOZkt
ランスがあるからなんともいえないけど、
そういえば騎馬民族ってだいたい湾曲した刀剣を振り回してるよな

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 01:04:29.70 ID:jMM1blfz
馬上からの斬撃は馬と人の体重×走るスピードが加わるから凄い破壊力なんだそうな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 01:14:41.69 ID:wM6SK17W
>>644
スゥーっとなぞるように斬れないと持ち手も痛めるからな

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 10:36:59.25 ID:hn2P8NqH
武具の飾りに金銀を使うと盗まれるからやめとけって
雑兵物語にもあったな

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 11:01:45.35 ID:VPBbHfJr
>>644
明軍の騎馬隊は皆短めの剣だったらしい
やっぱり長いと馬を傷つけてしまうからだろうね

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 11:18:08.30 ID:l7pidEiq
全員赤備えで目立てば問題なし

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 11:39:20.94 ID:IrSTqUOT
でもそれだと個人の武功が分かりにくくなるんじゃあ

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 12:14:18.39 ID:nA/QW6Fi
刀を抜くのに失敗して切られた人とかもいたんだろうなー

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 13:09:59.67 ID:VPBbHfJr
>>651
始皇帝「抜けないときは正直ヤバかった。死ぬかと思った。」

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 13:14:33.31 ID:aE/h0DSu
>>638
安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ

三尺一寸って94cmだよね。絶対に一瞬で切り伏せられないよね
某漫画のように斬撃の使い手か刀がビームサーベルだったか...

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 13:15:58.05 ID:UVRtm4Nf
>>650
わかってやれないような将は赤備えを率いる資格なし

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 13:35:59.30 ID:6y/Z1ilt
>>650
雑兵の首など打ち捨てよ。目指すは家康の首一つ
かかれぇ!!かかれぇ!!

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 14:19:06.13 ID:nxs0sbJa
>>649
全員赤備えで遠間から撃たれまくって壊滅したので鎧を捨てて逃げましたby彦根藩士

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 14:27:08.34 ID:HjRvNDpE
とにかく目立って敵に狙いを付けられやすい赤備えは
余程の精鋭部隊でないと務まりません

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 20:31:54.11 ID:ULkjyKm7
蟇肌っていうほど地味か?

溝口紙由来

2012年10月14日 19:31

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 22:16:39.39 ID:JWdX5Sw/
1592年、筑後の溝口村の福王寺という廃寺に日源という越前の僧侶が訪れた。
日源は俗名を真柄景基といい、姉川の合戦で戦死した兄たちの霊を弔う為に
僧門に入り諸国行脚をしていたという。
彼は溝口村に越前の紙漉きの技術を伝えようと故郷から甥の新左衛門・
新右衛門・新之丞の三兄弟を呼びよせ溝口村で紙作りを始めた。

1595年、朝鮮から戻った領主の立花宗茂はその話を聞くと日源に見本紙を
出させた上で御用紙にすることを決め、日源達に紙漉きをより広めるようにと
郡中の楮(こうぞ)、紙漉きの諸道具、舟等と田を与え、さらに年貢を納めなくて
よいという特別な援助をした。この宗茂の支援により、彼らは益々紙作りに励み
溝口紙は九州でも有名なものになっていった。

1600年、立花家は改易となり宗茂は肥後の加藤家に一時預けられるが、
日源の甥の新左衛門は宗茂を慕っていたため肥後まで着いて来ていた。
そこで清正からの要請を受けて八代宮地で紙漉き業を行うこととなり、
それが宮地紙と呼ばれるようになったという。

1620年、立花宗茂が再び柳川の領主となったが、日源は既に亡く溝口村も
久留米藩に組み込まれた。それを聞いた肥後の新左衛門は宮地の紙漉きを
末弟の新之丞に任せて自身は柳川に赴き、溝口の対岸にある唐尾の地に
土地をもらって新たに紙漉き業を始めたという。

かくして、柳川の新左衛門、久留米の新右衛門、肥後八代の新之丞と三兄弟が
分かれて紙漉き業を広め九州各地へと伝わっていったのである。

――『八女手漉き和紙、溝口紙、八代宮地紙等の歴史から』




918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 23:13:25.27 ID:x6xFblEb
姉川で真柄っつーと
大太刀の直隆さんとご親戚だろうか

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 02:27:37.01 ID:JgIdNK4S
>>918
日源上人の兄達は、長兄が真柄十郎左衛門真元、
次兄が次左衛門直高、三兄を十郎三郎直澄というらしいんで、
直隆・直澄兄弟っぽくもあるけど、どっちも残ってる資料が
少ないんで不明としか言いようがないですね

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 03:30:58.14 ID:VusLJixU
お母ちゃんも豪傑なんだっけか