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「続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

2023年04月25日 19:37

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/25(火) 19:27:30.85 ID:uI6jtdb3
続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

立花宗茂は幼名を千熊といい、父の高橋紹雲のところから立花道雪のもとに行って遊んでいた。
あるとき罪人を道雪の前で討った。
道雪は「不意のことなので千熊も驚いただろうか」と千熊の懐中に手を入れてみたが、鼓動は少しも激しくなっていなかった。
こうして道雪は千熊が立派な武人となると考え養子とした。
千熊の弟の主膳(立花直次)とが高橋家を継ぐことになり、秋月種実の婿となることが決まっていた。
筑紫広門はこれを聞いて「高橋・立花・当家は、九州の英将である秋月にも対抗できる三羽の弓である。
しかし高橋・立花・秋月三家が合体するとなると、当家秋月家は間違いなく滅びるだろう」と仰天した。
そのとき何とかという侍が
「それがしに姫をお預けください。
高橋の岩屋城に行って主膳殿を姫の婿といたしましょう。
もし承知しないようであれば、姫を斬り私も腹を切ります」
と申したので広門と秋月と高橋の縁組の破棄が叶うなら、と姫を預けた。
こうして侍が姫を連れて岩屋城に行き、高橋紹雲に詳しく述べると
高橋紹雲は「前代未聞の珍事である。秋月の娘を貰うことは決まっているのだから広門との縁組はならぬ。
早々に姫を連れて帰られよ」と言った。
侍は「このように御返答あることは予期しておりました。
三家合体であれば筑紫家が滅ぶのは必定。
後日貴家と当家との合戦の時に討ち死にするも、ただいまあい果てるのも同じことなので、娘を殺し、私も腹を切り、御座敷を汚しましょう」
と思い切って申した。
紹雲も侍の忠義のほどに感心し、そのまま娘を留め置いて主膳の妻とした。
このため秋月は憤り、薩摩に対して「必ずや高橋を滅ぼしましょう」と申した。



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立花家家臣、樺島家と壇家の断絶と復興

2022年04月22日 17:26

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/04/21(木) 23:14:59.11 ID:dsm5+nL8
立花家家臣、樺島家と壇家の断絶と復興

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元と石田三成の西軍に属して戦った立花宗茂とその一族郎党であったが、 関ヶ原の戦いはご存じのとおり西軍の敗北に終わり、
立花宗茂は残兵をまとめて大坂城に戻り、そこから紆余曲折を経て 領地である柳川に戻り、そこで鍋島・加藤・黒田の軍と一戦交えたのちに開城降伏した。

関ヶ原以後の立花宗茂の紆余曲折
西国無双 吼える
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13139.html
関ヶ原の戦いにおける宗茂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3443.html
名将の降伏
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4344.html

その後、立花宗茂は改易となるが加藤清正はじめとする諸大名からの仕官の誘いを断り、肥後の玉名郡高瀬村の清源寺に入って 加藤清正の客分として遇されることとなり、
正室の立花誾千代は肥後国玉名郡腹赤村に寄宿することとなった。
改易された立花家に代わって柳川藩主として入ったのが田中吉政である。

慶長7年(1602年)7月11日、柳川と肥後の境近くにある面の坂にてこの前日に松風の関で 田中家の関守に捕らえられた松延村の樺島彦左衛門益義と本郷村の壇七郎兵衛忠重と
その一族の者らが磔刑に処され、 彼らの父親、松延村の庄屋・樺島式部(旧松延城主)は自宅にて切腹し、本郷村の庄屋・檀大炊介(旧松延城主)は 矢部川の川原にて斬首と相成った。

そして、樺島・壇両家は庄屋職を解かれた上で断絶となる。

何故にこのようなこととなったか?樺島・壇の両家とその一族は密かに当時は国(藩)をまたいでの 輸送は禁じられていた米と金品を塩と偽って塩俵に隠して、
味噌などと共に大八車に積んで毎月のように 旧主である立花宗茂と立花誾千代に届けていたのである。

肥後側の南関は清正から関守を任された加藤美作が色々目溢しをしていたようであるが、何者かが密告したか たまたまバレたのかは定かではないが、田中家の領内で捕まった樺島・壇の人々は僅か一日で処刑され、
それから3カ月ほどのちにはこの事件が原因かは分からないが、立花誾千代も34歳の若さでこの世を去ってしまうのである。

加藤清正、立花誾千代に兵糧を送る http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13129.html
この逸話もひょっとすると、今回のこの話に絡んでいたのかも知れない。 また、樺島・壇両家の仕送りに対して宗茂は脇差を礼として送っていたとも言い、 立花宗茂田中吉政とその家臣を毛嫌いしていた?という既出の逸話もあり、
今回の逸話のことも 一因だったのではないか?とも個人的には思う。


>>450続き 本スレに投稿出来なかったのでこの場をお借りして

庄屋職を解かれた上に一族断絶とされた樺島・壇の両家であるが、 樺島益義壇忠重、忠重とともに処刑された従弟・久左衛門にはそれぞれ子がおり、
久左衛門の一歳の子は折地村の下川家に匿われて育ち、のちに京で学んで医者となり 同地に戻っている。

また、幼かった益義の一子・益仁と忠重の一子・重貞も方々に匿われて成長したのち、 柳川藩主・田中家による難を逃れ、のちに吉政の死後、
跡を継いだ嫡子忠政が早世して田中家が無嗣断絶となって、立花宗茂が柳川藩主として旧領への復帰を果たした際、目通りを果たし、
それぞれ大庄屋として復帰し、10石どりの士分の立場と帯刀を許され再び立花家に仕えることとなった。
(旧柳川藩志などより)

樺島・壇両家が大八で米を運んだルート
ttps://i.imgur.com/bLMvJfV.jpg
bLMvJfV.jpeg

ちなみに、この事件を機に面の坂はハタモン場(処刑場)となり、度々関所破りが囚われ処刑された松風の関跡は
現在も心霊スポットとして 当地にて語り継がれているのだという。
  _
  \ヽ, ,、
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  ヽ,  y'   /` ‐ 、    ,.. -'ヘ   ヽ. }ノ
   ヽ,'     /   /`,ゝ' ´     ヽ   Y.
.    i    ,'     { {        ヽ   `、
    l    ,イ─- 、.._ ヽ ,, _,.. -─:}   !
.    |  r‐i| ー=ェェ:ゝ ,.∠ィェェ=ー' |r 、.  l
   |  {ト」l|.      : | "    ``: |!トリ  |
.  │  ヽ、|      ;.」_      |'ソ    !
.  │     ヽ     r──ッ    /ノ    |
    |      lヽ    ̄ ̄     / イ    │
.    !    丶ヾヽ    ~   , ' ノ │   !
    ト.    ミ.ゝ ヽ.____./  /  l   /
    ヽ  ヽ           イ ,' / , '       ┼ヽ  -|r‐、. レ |
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西国無双 吼える

2021年08月25日 17:35

464 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/25(水) 06:58:55.01 ID:iSd1b4il
西国無双 吼える

慶長5年(1600年)、9月15日の関が原での西軍の敗報を受けて立花宗茂は弟の立花直次と大坂城に戻り毛利輝元に東軍との決戦を具申した。
しかし、返答が無かったため宗茂は柳川への帰国を決め、先ずは人質となっていた母・宋雲院らの救出を御座船の船頭である鶴田・村田の両人に
命じた。
両人は忍びの術の達人であったため命がけの冒険の末、宋雲院と島津公の夫人(島津亀寿)を救い出して島津夫人を薩摩邸に送り届け、主人・宗茂の元へ
戻り、こうして母子相伴って帰国の途についた。

その途上、犬子島(現在の大阪市西区江之子島)の関にて番卒がこれを誰何し宋雲院を抑留しようとした。
これに対し宗茂は

「さらば番人を悉く踏み殺し急ぎ馳せ過ぎよ」

と大喝し、従士吶喊して番卒を撃破し主従なく乗船して柳川への海路に入り3日後に無事九州へとたどり着いた。
https://i.imgur.com/i0XcWAx.jpg
i0XcWAx.jpg

立斎(公)旧聞記』『柳川史話

鬼武蔵といい、またも理由なき理不尽な暴力が関守を襲った悲しい出来事であった。
いやまぁね、彼らは彼らでただ真面目に勤めを果たしてるだけなんですけどね。
事態が事態、相手が相手だけに仕方ないんだけどね。

恐らくまだ出てなかったと思うのですが、既出だったら相すみませぬ。



465 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/25(水) 07:57:42.48 ID:uqmKi5tY
https://i.imgur.com/Xbw0J6c.jpg

立花宗茂、小野鎮幸から借金する

2021年08月22日 16:52

942 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 09:38:05.88 ID:2Egr4wVK
立花宗茂小野鎮幸から借金する

1600年9月、関ヶ原での合戦が終わり大坂城へ戻った立花宗茂(当時は親成)は毛利輝元に東軍との決戦を主張するも、輝元は既に東軍への恭順を決めておりそれを覆すことはなかった。

宗茂は人質となっていた母・宋雲院を奪取すると本領柳川を目指して進発。同じく薩摩へ撤退する島津勢と道中共にし、柳川へ辿り着く。

宗茂の帰着後の10月半ば、柳川へも東軍側の黒田、加藤に西軍から降った鍋島の三軍が攻め寄せて来る。
家康への恭順姿勢を見せるため宗茂は出陣せず小野鎮幸が大将として出陣し、殺る気満々の鍋島軍と激戦を繰り広げた末に鎮幸は銃創と矢傷で重傷を負い、立花軍は数々の犠牲を出しながらもよく持ち堪え、
最終的には家康からの宗茂と弟の直次らに対する「身上安堵之御朱印」が届いたことから黒田如水と加藤清正の説得に応じ、10月25日に降伏した。
この時、連れ帰っていた母・宋雲院を徳川への人質として再度上洛させることが決まっていたのだが、度重なる戦への出費で宗茂は手元不如意であった。

(´-ω-`)和泉ごめん、母上上洛のために銀10貫ほど貸して。国替えになっても来年の秋には返すから…

( ´-ω-`).。oO(命は助かったけど、最悪国替えだろなぁ)

開城時点ではこの様に考えていた?宗茂であったが…
   ____
   /ヽ__//
  /  /  /
  /  /  /
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`/  /  /
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   /  ̄ ̄ ̄ /__
  / 改 易 /_//
  /     //  /
 / ___  //  /
/     //  /
 ̄ ̄ ̄ ̄/ ̄ /  /
    /  /  /
     ̄ ̄ ̄
現実(家康)はより非情であった…

  (=゚ω゚)
   ( x)
   )ノ
   (
   )

c⌒っ。ω。)っ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こうして永きに渡る立花宗茂の愉快… じゃなくて苦労一杯の浪人生活が幕を開けることとなったのである。

(参考:立花資料館所蔵 立花親成書状)
https://i.imgur.com/mXdwK7M.jpg
https://i.imgur.com/W8XgnUL.jpg
mXdwK7M.jpg
W8XgnUL.jpg



944 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 16:32:14.15 ID:fo84XfBI
>>942
清正や三歳様はじめ東軍側の色々な人からの取り成しもあったんだろうけど、秀吉の小田原攻めの時の大道寺政繁みたいにならなくて良かったと思う。

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 22:38:32.40 ID:2Egr4wVK
宗茂「借りた金返せねぇぞ♪はした金じゃねぇぞ♪ orz」

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等

2020年09月28日 18:10

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:02:02.01 ID:63wy7W1Q
日本戦史 朝鮮役(経過表・附表附図)参謀本部編 偕行社(大正13)

天正19年立花統虎(宗茂)・高橋統増(立花直次)軍役表

秀吉より浅野長吉をして立花兄弟に命じたもの、統虎8万国・統増2万国に対する軍役である
立花2400高橋600の軍役であるが両家合計

将士
騎士150 
  馬卒300(非戦闘員)
歩士150
  挟箱持150(非戦闘員)

兵卒
鉄砲足軽200
  小者200(非戦闘員)
弓足軽100
  小者100(非戦闘員)
槍足軽500
昇足軽100
  小者200(非戦闘員)
徒差物足軽200

輸卒
手明夫(予備輸卒)650(非戦闘員)

戦闘員1400
非戦闘員1600

計3000

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:03:06.51 ID:63wy7W1Q
兵力の実数で輸送部隊の配分まで書いてあるのはあんまなかったんでちょっと転記してみました
日本戦史 朝鮮役は現在文庫版も出てますが、要約版なので一部図表が省略されています
国会図書館デジタル版を参照ください
でも詳細は別ページって書いてあるのにそのページの画像が抜けてるんですよ国会図書館さん・・

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:06:12.71 ID:63wy7W1Q
同じく

文禄元年(1593)五島純玄隊編成表
五島氏1万5千石のうち1万石での兵賦
軍奉行は参謀役、用人は経理役
小人は将士などの従卒・馬卒、下夫は輸卒

将士
侍大将1(馬1)
奉行(軍・旗・鉄砲・弓・長柄)5(馬5)
使番3(馬3)
用人・大目付2(馬2)
騎士11(馬11)
医師・祐筆・僧侶5(馬5)
歩武者40

兵卒
鉄砲足軽
弓足軽
長柄足軽
旗手
計120

雑卒
小人38
下夫280
船頭・水夫200

計705
馬27



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/27(日) 21:29:54.49 ID:qEYXjif2
>>363
戦う人が少な過ぎるって思うけどこんなもんなんだろうな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 08:20:28.11 ID:sqc6Mded
>>363
1593年のせいか、投石部隊はいないんだな、もしくは刀みたいな予備武器扱いとか?

366 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/28(月) 16:59:20.13 ID:V8D2h7iY
時期としては朝鮮の役序盤だから、末期は鉄砲の比率がどれくらい高まったものなんかな

それ以前に末期だと戦力を輸卒に振り分けられる余裕があったんだろうか

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 17:10:20.65 ID:oHCG034a
非戦闘員といっても刀振り回す事くらいは出来たと思うし単に身分制度のせいで下っ端の者が請負ってた仕事だったんだろ、知らんけど

立花宗茂と舞

2019年07月18日 13:46

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 01:57:19.10 ID:tnxIIaJa
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 10:36:52.65 ID:L637dIKf
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w


101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 10:44:59.33 ID:cnhTDBxw
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 12:59:56.13 ID:SUvmqEbQ
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人

御このミ候て可被下候

2017年12月18日 17:38

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 15:39:43.58 ID:+fdPV11u
慶長の役の時、日本軍が南原城を攻略した際、釜山にいた立花宗茂
毛利高政に戦勝の祝状を送ったのだが、その返書で高政から鉄砲の手配を頼まれた。
それに対して宗茂が送った書状が次のものである

於南原之御感状之御祝言申入候処、御懇報上戦状を承乃候、数度之御手柄弥以被聞召届、
近々御朱印可為御頂戴候、御大慶、御祝言重々可申承候、目出度存候、仍鉄砲之儀、
ゑなミや(堺の榎並屋か)所可被仰付之由、承乃候、一つ書候て申入候、
一 四文目丸 長さ其外様子は貴殿様御このミニまかセ申候、 壱ちやう
一 三文目丸 右同前 一ちやう
一 又壱ちやう、これハいかやうにも、貴殿様御分別ニて、御このミ候て可被下候、
何もやをミ流仕度存じ候、よくよくねんを入、あたりを専ニ仕度候、
何も明日京へのほセ候者を、それへ可進之候間、能々被仰付可給候、恐惶謹言、
十一月朔日(慶長二年)                                   立花親成
(佐伯 毛利高政文書)

この頃は好みに応じた鉄砲が作れるんだね



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 23:28:33.62 ID:xUCTczY0
>>511
清正も朝鮮出兵中に細々とスペックを指定して発注してたから
鉄砲鍛冶は注文に応じて作ってたんでしょうね。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 00:05:22.26 ID:Ni8MtvjF
朝鮮陣では短い鉄砲のが便利だったっつー話だろ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 12:22:04.46 ID:bqkgk5UT
発注受けて作ってたら数揃えられないだろ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 15:59:42.93 ID:Ii/PF++M
数打ちと特注はまた別やろ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 18:40:29.28 ID:ks1azkFx
毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び
後に自ら伊勢守流を創始している鉄砲の名手で
閻魔王という大鉄砲を好んで使ってたようなんだけど、
小さめの鉄砲を特注で手配してもらってるのが興味深い

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 19:03:22.99 ID:5mdMzvkZ
高政所用の閻魔王は佐伯市歴史資料館に所蔵されてるね

毛利高政所用大鉄砲 閻魔王
SnapCrab_No-0303.jpg
http://saiki-rekishi.com/main_exhibit

【ニュース】 立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」発見

2017年08月29日 21:07

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:38:00.68 ID:XAKbPvrn
立花宗茂のものとみられる甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」が立花家臣の子孫の家から見つかった
柳川藩には、朝鮮出兵時の1593年、邪魔な袖を切り落として戦っていた小野成幸という家臣に
「袖がない具足は見苦しい」と宗茂が自らの鎧の袖を成幸に与えた逸話があるという。
その逸話の袖と思われるものが、2016年に小野成幸の子孫から柳川市に寄贈された。
袖は一対で安土桃山様式。長さ29センチ、幅23~27センチ、重さ720グラム。
鉄の小札に金箔を貼り、透明の漆で仕上げたもので、小札をつなぐ威は紫、紅、白の3色の糸が
交互に使われている。大友宗麟の重臣だった義父の立花道雪または宗茂自身が
大友家から与えられたものとみられ、杏葉紋の金物が付けられている。
(今月の25日に柳川市が発表したらしい)

記事(西日本新聞)
初代柳川藩主・立花宗茂 甲冑の袖発見 「家臣に与えた」逸話証明
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/353603/

立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」
201708260003_000.jpg



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:59:22.89 ID:ciSXwA0A
>>183
400年も残ってたとは凄いな、子孫GJ

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 21:49:02.14 ID:yeu/2L19
>>183
なんとなく宗茂らしいエピソード

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:49:13.72 ID:XAKbPvrn
今日の知恵泉でもこの袖が紹介されたね

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:53:43.76 ID:ZaU8nUoY
やってたな
家臣がわざと取った袖を宗茂が勘違いして与えてしまって
それを見てた別の家臣がさらに宗茂に袖を献上したっつー

微笑ましいなぁ

それが白指山西琳寺である

2017年07月02日 21:30

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/02(日) 20:52:52.10 ID:PL4U7vUW
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/03(月) 02:17:14.03 ID:pm5eutU1
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな

ならばこれからは尚更に

2017年06月22日 15:45

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 17:16:33.93 ID:QqZGxox/
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』


牛頭天王の神慮

2017年06月16日 17:54

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 04:20:17.65 ID:Yt7CmcZ5
立花家の紋所は古来より杏葉紋であったが関ヶ原の後に配流のある時、夜の夢で
筑後国祇園山が自身(立花宗茂)の頭上へ覆いかかる様を見て目を覚ました。

この夢より程なくして召し出されて、本国を賜った。これによって牛頭天王の神慮を
(宗茂は)かたじけなく思われ、かの社の守の形を家紋としたのである。

――『明良洪範』


男子これなく候へとも、

2017年06月11日 10:43

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 01:27:24.99 ID:ZNnSTgYf
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編Ⅴ 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例



15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:10:37.92 ID:YQxDzO82
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:12:55.86 ID:GSPWhLoP
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:23:11.93 ID:ZNnSTgYf
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 05:48:10.37 ID:FeToHE5W
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:48:07.31 ID:oqc2RtC1
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

果して、宗茂公は二十年振りに

2016年11月25日 08:19

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:33:07.38 ID:DqhLpzHV
柳川の日吉神社の太郎稲荷大明神由来に似た話があったな

戸次道雪は、稲荷明神の信仰が厚く出陣には、護軍の神として御幣を奉じ毎戦勝利の加護を受けられた。
藩祖立花宗茂公は、慶長五年九月大津城を攻め破り、武勲をたてられたが、
関ヶ原で西軍は敗れ危険な道を切り抜けはるばる西下された。
暗夜、筑後川の岸神代の広い芦原で道に迷われた時、一条幽光が先導したので浅瀬がわかり無事柳川城に入られた。
宗茂公の室誾干代姫は、父道雪公の志を受けついで稲荷明神を守り神と信奉された。
姫は、肥後腹赤村で明神が「夫君守護の為、しばらく姫のそばから離れるのだ」と告げられる夢を見て宗茂公は
必ず帰国されるを確信された。
果して、宗茂公は二十年振りに奥州棚倉藩主から柳川に帰国された。
入城後、直ちに肥後に居た僧金剛院誉を召し帰国して城濠の中の島に稲荷大明神を勧請しお城の守護神とされた。




大津の死骸返し

2016年06月17日 17:56

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 04:02:05.70 ID:i6P555yl
大津城の戦いの時、立花宗茂は使者を城中に派遣し、

「今日、味方で討死した者の中に“十時伝右衛門”と申す者がいます。
取り分けて不憫に存じているのです。遺体をお返しください」

と言って、十時の物具の色を書いて言い送ると、やがて十時の遺体が
返された。また城中からも、

「“山田三右衛門”の首をお返しください」

と望んだので、冑を添えてその首を送った。これを“大津の死骸返し”
といって、勇士死後の誉れとした。

――『常山紀談』



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:54:07.40 ID:PtZ7CRgp
誉れなのかぁ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 01:26:54.93 ID:qsZH8YMt
>>860
「とりわきて不便に存るなり骸を返し給はり候へとて物具の色を書て…」(原文)

骸(首なしの死体)と首を交換したってことだね


「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

2015年10月12日 18:35

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/11(日) 23:07:28.70 ID:4uDhfPts
柳河の町やその近在では、旧暦の10月に亥の子餅といって亥の子の日にお餅をつきます。
このお餅を食べると、歳を一つとることになるのだそうです。
これはどこの国でもおんなじことですが、ただひとつ柳河には他と異なった行事が残っております。
これがお話しようという「えいぎょうえいさつ(愛嬌挨拶)」なのです。
亥の子の日には、柳河のどこの家でも、お店でも、入り口のお部屋や上がり口にお台やお膳をすえて、
その上に一升桝にお赤飯を山盛りにし、その山のてっぺんに白菊や黄菊を挿します。
そのそばの大きなお皿やお鉢には、大根と人参とのお膾が盛ってあります。そうして、
柳の枝をそぎっぱなしにした一尺五六寸ほどの大きな箸が、別々に2とおりそえてあります。
すると、表の方から、子ども達が二人とか三人とかてんでに手をつなぎあって、

「えいぎょう えいさつ、かかせめせ。 仲のよかごと かかせめせ。」

と、歌い歌い入って来るのです。そうしてどの家にでも上がって、そのお台の前に
すわると、とても大きな柳箸で、お赤飯をその山から欠いてすくうと、それを左の手にのせ、
その上にまた膾をはさんでのせ、それを食べてしまうと、手をふき、お行儀よくその家を出て行くのです。
一軒出るとまたお隣に入り、次から次に「えいぎょうえいさつ。仲のよかごと」と歌いお祝いして歩きます。
どこのお家へ入ってもかまいません。子どもたちのためにごちそうしてあるのですから、
柳河では、おひな祭りでも端午のお節句でも、まるで展覧会のように自由に見て歩けます。
知らないお家でもかまわず入れます。「えいぎょうえいさつ」も、子どもの頃どんなにうれしかったかわかりません。
ほんとうにみんな仲良くなるような気がしました。「えいぎょうえいさつ」とは愛嬌挨拶ということで
「仲のよかごと」とは、仲のよいようにという訳で、とにかく、仲のよいようにと挨拶して歩くのだと思います。
これは昔、立花左近将監さまが、関ヶ原の戦いの時、石田方へお味方なさったので、徳川家康公から
柳河のご領地13万石を取り上げられ、一時、肥後の加藤清正公のところへ食客をしておられたことがありました。
慶長8年のことですが、左近将監様は家臣たちと関東の方へお出かけになり、その途中亥の子のお節句に
おあいになりましたが、お茶碗もなければお箸もありません。
で、しかたがなく、有り合わせの枡に菊の花を添えたお赤飯を盛って、それを手の甲に受けて膾を乗せ、
柳の枝を箸にして皆で心ばかりのお祝いをなすったということが言い伝えになっております。
宗茂公は、それからまた柳河のお殿様として帰ってこられました。それで、あの時の記念に、
皆が仲のよいようにと、柳河のどの家でも、亥の子の日にはそうした「えいぎょうえいさつ」
をすることになったのでした。
(柳川の行事について北原白秋が書いた文)



824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/12(月) 00:36:23.33 ID:0k8U1Wba
白秋ブランドや!

質素な逸話だけど一方でうなぎの蒸籠蒸しとか何が発祥だったんだろ柳川

立花宗茂の家は、常に分かれていた

2015年08月26日 16:56

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 03:07:40.90 ID:/MvixQL9
立花宗茂の家は、小野和泉(鎮幸)と立花三河(薦野増時)の両家老の二派に、常に分かれていた。

小野和泉は若年よりその武勇人に越え、九州においては隠れなき武人であった。
彼の生まれたちは卑しく、物を言う様子も全く下郎たちと同じで、分別もなく、
普段は何の役にも立たない人物のように見えるのだが、度々の手柄は肩を並べる者も居らず、
そのため六千石を取り一の家老となり、その威勢を誇っていた。

立花三河は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人に越え、田舎侍には稀なる人材であると、
同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
今は物事を素早く進行させるのが良いと思う時代であるが、とりわけこの者ははややかであった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。

しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、
今の世の習いである。そして人は、分別がなく傍若無人なことを言いまわり、大抵は愚鈍で
子どもじみた作法の者を、武辺者と言うことが多い。これは珍しいことではないが、

立花三河も、能力のある人物であることは確かなのに、利根であることに押され、武儀は二番のように、
家中でも特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたそうだ。

このようであったので、小野和泉派の者達は、何時も武辺事ならば我らの出番であるとし、
立花三河派の者達に対してが、それが誰であっても武辺事に仕る者とは常に思わなかった。
そして親しき友人、あるいは兄弟においてこの2つの派閥にわかれた者達の間では、
小野和泉派は相手を「比丘尼組」、立花三河派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、
それぞれに腹を立てさせることもあったという。

(古郷物語)

立花宗茂の家中が2つの派閥に分かれていた、というお話。



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 13:27:59.41 ID:rXq/zYu8
脳筋と能吏に別れるのは当主が盗賊まがいの脳筋のせい
福島しかり

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/26(水) 22:30:30.65 ID:rhG4BBZU
柳川の戦いの時にこの二派の対立を直茂に突かれたりしている

荒井の船橋

2015年07月19日 15:39

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:30:41.18 ID:BFyGo3JW
将軍徳川秀忠が上洛の時、荒井の渡を通過して本陣に入ると、井伊掃部頭(直孝)を召し出して言った

「今度の上洛につき、荒井の渡に船橋が駆けられていたが、一体誰が命じたのか?老中共の指図であるか!?
昔より、頼朝公を始めとして権現様までも、箱根荒井というのは関東第一の関所である。それに船橋をかけ
平地にしてして渡った例はない。であるのに、今度私の沙汰無しにこのような事をするなど、不届き千万である!
一体どうしてこのような事に成ったのか、直ぐに詮議して報告するように。
それが済まないうちは行水も食事も不要である!」

殊の他の立腹に、老中たちもどう説明すべきか分からずあぐみきった中、ついにこの結論に達した

「そうだ!立花飛騨守(宗茂)を呼ぼう!」

即座に早馬を出し『急に御用これあり、御本陣へ早々御出あるべし』と呼び出した。
宗茂の宿舎と本陣の間は1里ばかりも離れていたが、宗茂も何事かと馬で駆けつけると、老中たちから
「実はかくかくしかじかこういう事で、どうにも出来ないのです。飛騨守殿、どうか上様が、機嫌を直し
行水なされ御夕食を取られるようしていただけないでしょうか?お頼み申す!」

宗茂「はあ…。私を呼んだのは誰の指図でしょうか?」

老中たち「我々が頼んだのです!もはやこの上は船橋のことは言わぬ。ただ上様がお湯に入り
御膳を召し上がって頂ければ、それでいい!だから御機嫌の事についてのみ、偏にお頼み申す。」

しかし宗茂
「ですが、私が申し上げて機嫌が治るかどうか解りませんが…。とにかく、私がこちらに罷り越したことを
上様にお伝えいただかないと…」

「大丈夫!上様は貴殿の咳払いをいつもよくご存知である!」
「咳払い…?これですか?ゴホンゴホン」宗茂、試しに咳払いをしてみたところ
秀忠「!、その咳払いは立花ではないか。我が前に出よ!」
即座に呼ばれた。

宗茂早々に御前に出ると、秀忠から問われた「其方、どうしてこちらに罷り出でたのか?」

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:31:25.68 ID:BFyGo3JW
「はっ。本日ここまで、ご機嫌よくご到着されたこと目出度いと存じ奉り、そのため宿舎からこちらに
参ったのです。」
「いや、今日は散々なことがあった。ここの渡に船橋をかけたのは不届き至極であるので、必ず糾明するよう
命じた。この詮議が解らぬうちはこのままここを動かぬつもりだ。」
そう言う秀忠の機嫌はまったくもって悪い。ここで宗茂

「さてさて、日本国を治められている将軍様と、私のような者の所存とは白黒の違いがありますな。
荒井の関所を、公方様のご威光に寄って船橋をかけられたために、平地のように感じられ上下誰もが安々と
これを渡れること、真に公方様のおかげと、私もありがたく思いながら宿舎に到着いたしました。」

この時、御次の間では老中たちが秀忠の機嫌を案じ、宗茂との会話の様子を耳を澄まして聞いていた。

秀忠「いや、そうではない!頼朝卿、神君までも、人馬の渡河する拠点であるから殊の外大切になされていた。
そんな場所に船橋を心の儘にかけて往来する事は、畢竟神君のお心入れを浅ましく扱っているようになり、
何とも是非無き次第ではないか。」

「恐れながら」宗茂は反論した。「私のような者の考えは、そうではありません。
そもそも頼朝卿や権現様の時代に、関東の要衝である荒井川に船橋をかけゆるゆると渡るような事をすれば、
何方より横矢を射掛けられるか解りません。ですから、そういったことを恐れて大切にされていたのです。

しかし、御当代の御代は、弓を袋に、太刀を箱に納める、千秋万歳の時代です。御上のご威勢ますます強く、
それ故全国津々浦々まで、今度のご上洛を陰ながら喜んでいます。
下々まで喜び、ご威光強く、また御仁徳も備わられている将軍様というのは今までに無かったことです。
この事は唐土まで聞こえ、東朝の誉れ、これに過ぎません。
そういう時代なのですから、荒井に船橋をかけても、お気遣いなされることは少しもありません。
そこを将軍様が渡られ、ここまで無事にお着きになった事は、平和な時代を象徴した、誠に目出度い
事であると存じます。

私も御次の間で老中の方々から、この船橋のことに関して色々とお聞きしました。
しかし私は、これほど目出度いことはないとご挨拶いたしました。」

「…」秀忠はこれを聞いて、何の意見も言わなかった。しかし「飛騨守は夕食はもう取ったのか?」
「私は宿舎に到着して直にこちらに参りましたから、未だ食事はとっておりません。」
「そうか、では相伴せよ。私は先に行水をする。」

そして入浴し食事が済むと、井伊直孝を呼び出し
「先程言った船橋のことだが、飛騨守の言うことを聞き、尤もに思った。
今度の上洛も目出度いことなのだから、船橋はあのまま差し置くように。」

こうしてこの一件は相済んだ。それより酒宴が始まった。宗茂は元より上戸であるので大いに飲み
「これほどの御喜びの時節ですから、私の仁王舞を上覧に入れ申す!」
と舞始めると、秀忠も殊の外喜び、希代なる飛騨守であると、秀忠自身も酒を過ごし、
夜九つ(深夜0時頃)まで続いた。やがて宗茂が退出する時、老中たちは彼を待ち受け
「今日は不意な事にてご苦労千万でした。貴殿の取り成しのお陰で早速ご機嫌も治り、
我々も大いに安堵いたしました」と、厚く礼を述べ、また宗茂の宿舎にも使者を出して
感謝を伝えたという。

(明良洪範)




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:49:17.15 ID:OLvomVf/
忠長「大井川に船橋をかけて兄上(家光)の上洛をしやすくしよう」
家光「大井川は関東第一の要地であり権現様でさえ浮橋を使わず渡ったのに何事か」
忠長「・・・」

このときまだ秀忠も宗茂も生きてたのに何が悪かったんだろう

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 00:15:53.68 ID:xyAb/G9H
権現様が絶対正義やもん
そこから外れたことは出来ん

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:11:03.53 ID:76uak5PJ
そう、権現さまが味噌と申されたからには味噌なのでございます

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:32:50.94 ID:2eE22z30
>>412
やくざと一緒

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:06:26.03 ID:6+kB7YtG
>>415
さくざと一緒?

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:19:06.45 ID:GpAykuLV
鬼393

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 10:13:40.80 ID:aFpPCIlN
>>411
宗茂の元主君と比べたら秀忠はかなり扱いやすそうだな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 11:45:07.35 ID:hGSWm65G
舟橋なら有事にはすぐ撤去できるしそこまで問題視する必要無い気が

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:07:31.09 ID:uwCXzDg7
信長公記、天正十年四月十六日の条だと

家康が甲州征伐から戻る信長のために、奉行人三人に命じて
「甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、
川の面寒、渺貼として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず」
と説明されている、天竜川に舟橋を架けさせるなど、信長を歓待するために
大変な気を配って尽力したため人々に賞された、
と書かれているのに。

権現様もしたことを息子や孫が批判するとは

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:21:47.47 ID:+TMhyEgo
本拠地がどこにあるかで違う
安土なら瀬田か

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:25:15.80 ID:zpVlv4rz
秀忠ってホント宗茂好きだよな

水田長光

2015年03月14日 16:13

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/13(金) 19:06:54.01 ID:SJaR7R4M
水田長光

立花宗茂は、長光の名刀を二振所持していた、一つは父である高橋紹運より贈られたもので、
これは宗茂が死去するまで身に帯びていた。
もう一刀は水田長光といった。

文禄年間の朝鮮の役の折の事、宗茂の家臣に風斗就澄と言う者があったが、彼が敵十余人に囲まれ、
五人を斬り斃したがそこで刀が折れ、脇差でまた一人を斬りその場を切り抜けた。
宗茂はこの奮戦を見て感服し、風斗にこの、水田長光を与えた。

その後、船軍があった時、一人の敵が船から海へ飛び込み逃げようとしたのを、風斗は船中から
その腰を斬った。敵は海に入り少し泳いでいたが、そのうちに二つになって死んだ。
また、死骸を二つ重ねて斬った所、一撃で四つになった。
それほど鋭利な刀であって、風斗も秘蔵していた。

ところが慶長五年の関ヶ原の戦いによって、宗茂は西軍に与していたため柳川の領地を召され
牢人と成った。為に風斗就澄も、摂津の片田舎に隠遁した。

そこに、藤堂高虎が使いを寄越した。『長光の刀を私に贈れば、千石を与えよう』との申し入れであった。
しかし風斗は
「この刀は、主君手ずから賜った物です。たとえ一万石下さるとも、お断りいたします。」
と、これを辞した。

その後、宗茂は棚倉一万石で大名に復帰し、続いて柳川の旧領十万石を賜った。
そのため風斗も直ぐに江戸に赴き、宗茂に面会した。
この時宗茂は風斗に「水田の刀は今も所持しているか?」と聞いた。
風斗は水田長光を取り出して見せ
「私がもし利欲のためにこの刀を失えば、再び今日の拝顔も無かったでしょう。」
そう、涙ながらに申し上げたという。

(刀剣談)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 07:35:26.22 ID:ytOcIGjf
>>717
少し泳いでから2つに切れるって、南斗水鳥拳みたいな感じか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 08:09:38.55 ID:qzi+CGtZ
森長可「てめぇらの血は何色だぁー!!」

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:25:43.97 ID:kfrRa2Oi
水野勝成「ヒャッハー!名刀だぜ!」

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:56:50.34 ID:zURkGJU+
リアル北斗の拳だからいやだよ戦国時代

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 11:11:34.32 ID:+GY/xPYT
名刀、名槍には命名の由来になった逸話があって楽しいね

人間無骨とか三十六歌仙とか圧し切長谷部とか...

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 11:55:19.47 ID:0jczleXd
立花宗茂が所持していたとされる刀剣って
剣・長光
笈切兼光
波遊ぎ兼光
劔切貞宗
粟田口則国
菊御作
豊後正宗
とか色々あるけど、水田長光は知らなかったな
波遊ぎ兼光も似た話だったと思うけど

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 15:02:18.03 ID:kfrRa2Oi
三歳さんもたくさん持ってるな。手打ち関連の名前が多すぎるがw

下和白「安河内家」の始まり

2015年01月11日 17:08

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 12:06:52.41 ID:1kJkdqwW
下和白「安河内家」の始まり


『九代延昌、後に三郎左衛門虎昌と改む。
筑前国立花城主戸次丹後守鑑連道雪の幕下に所属し、忠勤をぬきんで戦功多し。
道雪養子立花左近将監宗虎より諱の一字を授く。
のち虎昌と改め、粕屋郡下和白村を領す。是イミナ屋形を下和白の里に建つ。』

今日の福岡市東区和白における安河内家の興りである。
ちなみに虎昌が拝領されたのは1570年の出来事である。

彼は3年前の上和白の戦いで宗像水軍相手に戦功があったため、道雪より下和白村を拝領したという。
現在安河内家は和白地区一帯にくまなく広がっている。

ちなみに読みは「やすこうち」である。「やすかわち」と読まないように。


http://i.imgur.com/yNFu07n.png

(出身小学校の120周年記念誌から抜粋)



538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 12:22:36.21 ID:M5c4hDke
>>537
佐村も佐村河内も、広島・山口近辺に多い姓
佐村河内は、安芸の国人・佐村氏のうち、河内守を称した人の家系が
佐村河内を名乗るようになったと言われている
安河内も、「安氏の河内守を称した人」の家系なのかね?
安氏は在日にも多いが、藤原氏系や安国造系など、昔から存在している氏でもある

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/11(日) 09:02:10.06 ID:1E2dvOhz
>>538
それはよくわからない。
7000傑のサイトでも出自不詳と出ている。

1つ言えることは広島・山口は『こうち』読みが多いこと。
墓地をブラブラすることはないけども、家紋が複数あったから特定はできない……。

もしかしたら嵯峨源氏の渡辺氏系統かな………?

立花宗茂の弓

2013年11月24日 18:58

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 10:03:20.65 ID:GGFRUOH0
立花宗茂が十一歳のときに立花城を訪れた際のことである。
道雪は宗茂を饗応し、家臣を呼び寄せ弓を射させて見せた。
そして戯れに「そちはまだ幼いので、弓はうまく射れまい」と言った。
すると、宗茂は側にあった弓を引いて「これは弱い弓なので、
強い弓をお貸しください」と言って道雪から剛弓を借りて射た。
四本のうち三本までを当ててみせたという。(名将言行録)

その数十年後
本多佐渡守が将軍に見せるため弓の的当てを行わせた際のことである。
佐渡守は的場を通常15間(約28m)のものを、17間(約31m)にして
射手衆に射らせてみたが、的が遠いためかさして当たらなかった。
御前は少し笑って佐渡守に耳打ちすると、佐渡守は見に来ていた宗茂に
「一矢射て見せてやってくれまいか」と上意を伝えた。
宗茂は「年寄りの私がお見せするのはいかがなものかと存ずるが、
上意とあれば断れませんな」と言って立ち上がった。
そこへ周りの者たちが弱弓・強弓を5、6張差出してきたのに対して
「弓はいずれにても良く候」と言って弓と矢を取り諸肌を脱いで矢を構え、
早矢を放つと、串の竹を射削り的の内に射込んでみせた。
周囲のものは言うに及ばず、御前も聞きしに勝る見事の手前と感嘆した。
御前より「もう一本仕れ」と言われ、また矢を放つと今度は的の星を
射抜いてみせた。満足した御前は宗茂に盃を与え慰労した。
宗茂はこの時のことを立花壱岐に「若年から弓を好んで使っていたが
天下の御前で所望されるとは思いもよらなかった」と語ったという。
(淺川聞書)

少年の頃には強い弓を使うのを好んだ宗茂が、
年をとっては弓の強弱に拘らなかったという対比が興味深い




697 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/11/24(日) 20:34:01.50 ID:Os8/qInk
>>692
殿といっしょでデカい弓無理やり引く話はこれが元ネタだったのかw

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 22:29:14.67 ID:Wr5kzpiA
>>693
上達するに従って、いろんなものに対応できるようになるんだろうね。

弓の強弱にこだわらなくなる→弓の有無にこだわらなくなる→不射之射
→そして伝説へ

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 22:44:26.60 ID:nHuOhqbS
>>698
>弓の強弱にこだわらなくなる→弓の有無にこだわらなくなる

おい待て。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:28:23.54 ID:9A2NmT8P
最後には弓を見ても何に使うかわからなくなる

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:31:01.11 ID:7qpf3Faf
>>698
不射之射に到達するにはまず相手の矢を百発百中迎撃できる腕にならないといけない

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 23:34:06.62 ID:8vfA90IR
そのあたりがダーツと違うところなのよね

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 11:56:36.33 ID:CYCXQnst
剣聖先生なら箸で矢をつかむ?

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 17:11:07.83 ID:o+v+9uSd
>>701
その境地に到達する手間考えたら、敵の射ち手を射殺したほうが早いんだよなあw
後者を選ぶべきだろう
偽りだらけのこんな世の中じゃのポイズン精神で(爆)

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 18:07:11.42 ID:2iD2rpTH
>>703
そのくらいのレベルになるともう、相手を気で金縛りにした上で、矢の形を取った気が飛んで行くよ

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 19:53:27.04 ID:VAjsu/py
>>703
蠅を箸でつかんで食べた劇なら見た

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 20:30:19.95 ID:U9QSNkKn
>>704
残念ながらその話では相手射を殺そうと思ったら相手も全て迎撃してくるんだわw

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 20:37:16.29 ID:D91OLbge
相手より多くの矢を準備すればよい

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/25(月) 23:51:00.07 ID:dExin3eJ
>>706
リアルで蝿を箸でつかめるかなと思ってやってみたら
弱っていた蝿だったのか本当に掴めちゃってどうしてみようもなくなった事が

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 23:41:33.79 ID:LMCHLM1+
>>693
立花さんは本当に弓にまつわる逸話が多いのう