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大殿様は御討死されてはおりません

2021年05月05日 17:49

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/05(水) 15:56:59.97 ID:EaH3ck5c
長久手合戦にて、池田勝入公(恒興)が御討死に成ったと輝政公がお聞きに成り、敵陣へ
駆け込もうと成されたのを、伴道雲(大膳父ナリ)が御馬口に取り付き

「大殿様は御討死されてはおりません、御退きに成られたのを、私は見ました!
こちらの方にお越しになってください!」

と申し、無理に御馬を引き退かせた。

烈公間話



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 10:27:33.03 ID:saBtFYXk
物知らずで申し訳ないんだけと、池田さんとこの大膳とはどなた?

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 11:11:11.57 ID:y9wa6Qwj
番(ばん)大膳景次
この逸話の番藤左(右?)衛門は輝政に助けたことを恨まれて恩賞をもらえなかったけど、
輝正の息子の利孝隆の代で恩賞を貰ったとか
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岐阜城主十代衆

2021年05月04日 17:08

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 01:10:47.30 ID:ME61kjQd
(岐阜城の戦いの時)

時に池田三郎左衛門尉輝政は当城の案内者なので、城山の後ろ水手口から攻め上った。
さてこの輝政は案内者たること理なり。この頃“岐阜城主十代衆”と言い伝える事がある。

その衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍、斎藤右兵衛大夫龍興、織田弾正忠
平信長、同三位中将信忠、同三七郎蔵人侍従信孝、池田勝三郎信輝(恒興)、同三郎左衛門
輝政、羽柴少将秀勝、中納言秀信なり。

輝政は右の十人衆の内なれば、よく案内を知る故についに攻め落とした。

――『美濃国諸旧記』



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 17:49:08.99 ID:xJbwI1WL
どうしても腕を組みながら高速で走り抜けるジャイアントな絵柄しか思い浮かばないのであった

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 00:24:03.94 ID:VLdNf4zT
厳密に言えば
信孝没落後、恒興は大垣城に入って嫡男の庄九郎元助が岐阜城に入ったわけだが
1年程の話だから誤解、もしくは忘れ去られてるんだろうな

池田輝政の死

2021年04月30日 16:56

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/30(金) 14:31:25.20 ID:s9vSCkNd
ある年の十月、物語されたことである。
池田輝政様が姫路に於いて右京殿(池田政綱)の屋敷にお越しになり、その日より御気色悪しく、
御城へと帰られたが、この時鳥が多く飛び来て、御駕籠に当たったという。これは春の事であった。

まもなく御快気され、江府(江戸)へ御参勤成された。同八月頃に御帰国、翌慶長十八年に、
また御気色が悪化し、その時、座敷の書院、床の障子にまた、鳥が数多飛んで来て当たったという。

まもなく、逝去された。これは加藤九左衛門が覚えており、光政様に物語申し上げた内容である。
輝政様の逝去は、慶長十八年正月二十五日、享年五十歳であった。

烈公間話



693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 21:01:22.25 ID:ADexeFwu
弱った輝政を見て喰ろてやるチャンスだと思ったんやな

ただ一つ、申したい事

2021年02月24日 19:20

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 17:14:21.51 ID:LWZDkCAy
池田三左衛門(輝政)殿の家老・伊木清兵衛が病に臥して、既に末期に臨んだが、
「我、今生の望みある也。今一度、君の御目にかかりたき也。」
とあれば、これを三左衛門殿聞こし召し驚かれ、急ぎその家に至り、枕に近づいて声をかけた

「いかに清兵衛、一体どうしたのか。これほどの事と知らなかった事こそ、私が疎かった。
思うことがあるのなら、言い置くべし。その望みに従おう。元より、そなたの跡目については、
相違無いこと言うに及ばない。」

そのように、非常に懇ろに仰せになると、清兵衛は頭を上げ、両手を合わせ

「これ迄の入御有り難く、冥加至極です。私の遺跡の事は、愚息の覚悟次第に仰せ付けになって下さい。
兎にも角にも、御はからいによる事ですので、いささかも心にかかる事はありません。

ただ一つ、申したい事と言えば、これを申さぬまま空しくなれば、妄執にもなってしまうでしょうから、
恐れながら申します。

公は常に物事に、掘り出しを好ませられる御病があります。中でも士の掘り出しを専らとされるのは、
よからぬ御病です。
士はその分限よりは、一段よろしく宛行わせ給ってこそ、長く御家を去らず、忠節を存ずるのです。」

そう申すと、三左衛門殿はつくづくとお聞きになり

「只今の諫言、道理至極である。その志、山よりも高く海よりも深い。生前に於いて忘却する事はない。
それについて、どうか心安く思って欲しい。」と、清兵衛の手を取り、涙を流して、名残惜しげに
別れられた。君臣の情のあはれなる有様、その後、家風ますます良くなったという。

備前老人物語

掘り出しというのは、低い身分から急激に取り立てるという事ですかね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 14:04:46.13 ID:X1ui9xHZ
シンデレラストーリーみたいなのはみんな好きだからな
え、私なんかが馬廻衆に?みたいな

池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話

2021年02月05日 18:11

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:12:06.78 ID:LioMPBtl
池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話


・池田家が姫路城から出た後も、天守閣の五重目に池田輝政の具足や武具が残されていた。
 ところが酒井忠道が、天守閣で怪異に遭ったという理由で神社(刑部神社?)を作ってしまった。
 本当は輝政の甲冑が邪魔なので、しまうための口実が欲しかっただけだろう。

・土人(姫路の民衆)は池田輝政が作った姫路城の堀を「三左衛門殿堀」と呼ぶ。
 池田治政の室は酒井忠恭の娘だが、輿入れしたときに三左衛門堀と呼んでいたらしい。
 土人でさえ"殿"を付けているのに……。

――『思ひ出草』

酒井忠道も忠恭の娘も冠山と同時代の人物だがよっぽど印象が悪かったらしい。



543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:25:47.88 ID:P3bpF9A9
やっぱり転封の時の引き継ぎって揉めるんだな
酒井雅楽頭家は井伊と並ぶ大老を出せる家で表立って文句は言えんだろうし痛し痒し

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 18:28:53.75 ID:l/ixw+YE
>>542
まんが日本昔ばなしでもやってたね
天守の怪談

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 20:54:55.53 ID:ZxrGO+IB
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-193.html
鍋島直茂と佐賀城の幽霊 ・悪い話

こっちの刑部姫はちょっとかわいいのに

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11015.html
池田輝政への呪い

こっちはおそろしい

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5655.html
ついでに妹の猪苗代の亀姫

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:33:41.25 ID:yYnETLgR
>>543
検地帳を燃やしたり青田刈りする気狂いもいるしな

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:51:19.31 ID:Fns5OabQ
>>546
地主とのトラブルが一番ヤバいもんな

謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



池田輝政、関ヶ原本戦での配置について

2020年02月15日 13:56

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:18:31.52 ID:5WMuj2xH
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について


(関ヶ原の戦いのとき)14日に家康は赤坂岡山に着陣し、池田輝政を召された。

明日の合戦には毛利秀元、吉川広家などが南宮山に陣し、内応があるものの
未だに実否(真偽)が分からないので、それに対して陣するようにとの命であった。

そのとき輝政は南宮山の敵を迎え撃つことは本意ではなかったので
願わくは先鋒に進み、石田、島津などと戦うことを望まれたが許されなかった。

「(輝政は)我の後陣なので、ぜひともこれに従うように」(原文:我後陣なればまげてこれにしたがふべし)
と(家康の)仰せがあったので、仕方がなくこれに従った。


――『寛政重修諸家譜

後ろを任されるのは名誉なんだけど……という話。



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:32:38.01 ID:do7+uUyC
それ良い話?悪い話?

伴道雲が御馬口に取り付き

2019年09月02日 15:53

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 21:03:18.90 ID:J7AQ/r7P
長久手にて勝入公(池田恒興)が御討死致されたと輝政公(池田輝政)は御聞きになられ、
敵陣へ駆け込もうとなされた。

これを伴道雲(原注:大膳の父である)が御馬口に取り付き、「大殿様は御討死ではあり
ません! 御退きになられたのを私は見申した!」と申して、「こちらへ御越しなされ!」
と申し、無理に御馬を引いて退いたという。

――『烈公間話』



池田輝政の最期

2019年08月20日 16:44

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 15:12:23.45 ID:p+fNZlzi
午10月の(池田光政の)御物語り。

輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。

御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。

以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。

――『烈公間話』



328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 20:47:37.86 ID:1pbIn3oQ
輝政はラナのように鳥と話せたのか

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 22:38:50.73 ID:5gUQ1Yuj
例に出すなら公冶長(孔子の婿)にすべき

池田輝政、晩年に松平氏を賜る

2019年03月14日 16:25

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:48:15.34 ID:F5e/KcLN
池田輝政、晩年に松平氏を賜る


慶長16年(1611年)3月に池田輝政は、二条城での家康と秀頼の会見に同席したが
次の年の1月に中風を発症し、3月には秀忠が輝政の嫡男の利隆に連日書状を送るほどの重態となった。
8月に快復した輝政は、その報告のために13日には駿府で家康に、23日には江戸で秀忠に拝謁した。

快気祝いで、松平氏を賜り参議に推薦されることとなった輝政は、9月4日には再び駿府で
家康に拝謁し、山名禅高、藤堂高虎が茶会の接伴役をし、家康から歓待を受けた。
17日に輝政は朝廷に参内し、正式に松平氏を称して参議に任じられた。
利隆のほか、家康の外孫にあたる忠継、忠雄は元服と同時に松平氏の下賜を既に受けていたという。
その後姫路へと帰ってきた輝政は、毛利輝元に書状を送っている。


わざと啓上します。先ごろ東から帰ってきました。(祝いの)御使者のこと光栄に存じます。
愚礼になりますが早々に、蝋燭千丁、綿百把ならびに鹿毛の馬一疋を進覧させます。
詳しくは使者に口上を申し含めますので事細かには述べません。恐惶謹言。

                    松   三左
  後十月廿六日             (輝政印判)
   宗瑞様(毛利輝元)人々御中
 
 未だに手が震えているので、勝手ながら印判で失礼します。以上。

――『毛利氏四代実録 考証論断』

年が明けて慶長18年、中風が再発した輝政は1月25日に数え50才で亡くなった。


中村はそれに逢迎

2019年03月07日 16:52

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/07(木) 11:44:19.44 ID:iijwI8SO
豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、池田三左衛門輝政は、船奉行の中村九郎兵衛に命じて、兵粮を
肥前名護屋に送らせた。中村は名護屋へ出港する前に、提灯2,300,太鼓3,40を買った。
そして船を出し間もなく名護屋という時、時刻は巳の刻(午前10時頃)で潮の状態も良かったにも
かかわらず、玄界灘の島に船を止めわざと日の沈むのを待ち、亥の刻(午後10時頃)になって
船を漕ぎ入れた。この時、船の周りに取り付けた2,300の提灯に火を灯し、3,40の太鼓を
一斉に敲くと、火の光は海面に映り、太鼓の音は城の上にまで響いた。

秀吉は使いを遣わして何事かと問わせた所、「輝政家来中村九郎兵衛、兵粮を漕するの船なり」と答えた。
秀吉という人は素より華美を好み、中村はそれに逢迎(こびへつらうこと)して、甚だ秀吉の心に叶った。
その後秀吉は中村を朝鮮に渡海させたが、彼が朝鮮に至った頃には既に和平が成立していた。しかし
日本軍の兵粮は盡きかけており、諸将は大いに喜んだ。

(武将感状記)


まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り

2019年02月07日 09:38

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 03:00:58.11 ID:/3anshgn
まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り


(花隈城の戦いのとき、池田恒興は事前に所々に向城を建てて家臣を詰めさせていた)

花隈城から生田の森(生田神社の後方の森)の西の金剛寺山(現在の大倉山)を攻め取ろうと
足軽が出てきて、(家臣の)伊木清兵衛、森寺清左衛門が出陣し大いに戦った。
北の諏訪山に布陣していた信輝公(恒興)、之助公(元助)はこれを見て出陣し、固まって
戦っていると敵はたちまち浮立って旗色が乱れた。

そこを之助公、古新公(輝政)が轡を並べて真っ先に馬を入れて敵を追い散らされたので
敵はこらえかねて、すぐに下知をして城中に逃げ入ろうとした。
両君もすぐに追い詰めて、城の柵際で御兄弟は共に敵を組み伏せ、それぞれ首一つ討ち取って
本陣に帰ろうとしたが、城兵がこれを無念に思ってか、多くが後を追いかけてきた。
両君も危ういところだったが、御先手の秋田加兵衛、堀尾與左衛門、竹村小平太、岩越久左衛門
高木宮など多くが駆けつけて奮戦したので、再び敵を城内に追い込んだ。
このとき、加賀半七があまりに勇んで戦っていたためか討ち死にした。

城兵はまだ屈せず防戦しており、その上五輪作右衛門という大剛の勇士が古新公を
討ち取ろうと駆けて来たので、古新公は引き受けてしばらく戦った。
そこを高木宮が駆け塞がり、一緒に切りかかった。
主従はまだ若年だといえども、その勢いは甚だ勇猛であった。
五輪もここを第一と戦い、勝負は未だ決することがなかった。

信輝公はこれを見て多勢を横合いから駆け入らせたので、城兵は辟易し敗れて逃げ入った。
五輪もただ一人戦っていたものの、味方が引くのを見て引き下がろうとしたので、古新公と
高木宮は一緒に追いかけたが、前に蓮の池があって進みにくかったため城に入られてしまった。
このとき宮はあまりにも身を揉んで働いたので、短刀が鞘走って難所に落ちてしまったが
敵を追い払って、落とした短刀を拾い上げ鞘に収めてしずしずと帰ってきた。
天晴勇士の骨柄かなと人々は感動したという。(高木宮は)時に行年十三歳であった。

信輝公もその勇猛をお褒めになり、(高木宮は)名刀を賜った。
名刀は和泉守(兼定)の長さ二尺二寸のもので、子孫が相伝し家の宝としている。
宮は成長して高木外記*と名乗った。
また信輝公は今日討ち取った首実検を行ったが、之助公廿二歳、古新公十七歳のまだ若年の身で
それぞれ敵を討ち取り、首を提げて並んで出てこられた。
信輝公はこれをご覧になって、強くお喜びになり不覚にもホロリと感涙された。
御側にいる人も、共に感涙をそそいだという。


――『池水記』

* のち鳥取藩士。池田光仲が幼少の際に鳥取城代を務めた。


829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/25(木) 02:51:49.68 ID:cabIDRZ6
平成21年に各務原市へ寄贈され解体した時に
大垣城の門と解ったのも驚きだが
移築先が伊木清兵衛縁の鵜沼であった事に
歴史のロマンを感じる

池田恒興の清兵衛への恩に酬いる気持ちが
この現代に巡ってくるとはなぁ

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/25(木) 05:20:16.23 ID:cabIDRZ6
>>829
https://www2.og-bunka.or.jp/bunka/news/data_466.html


三の重宝

2019年01月08日 18:16

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/08(火) 16:17:28.91 ID:NOce0VTW
池田輝政公によると、武将の重宝とすべきは、領分の百姓と、譜代の士と、鶏の三品であるとした。
その理由として、百姓は田畑を作り我が上下の諸卒を養う、是れ一つの重宝なり。
譜代の士、たとえ気が合わず扶持を放したとしても、敵国においては、かの者が実際に扶持が放れたと
思わず、間者として入ったのではないかと疑い、故に敵国に逗留すること出来ず、終には我が国に帰って
我が兵と成る。故にこれ二つ目の宝である。
また、目に見える合図、耳に聞こえる合図では、敵の耳目にかかりやすく、敵国の中では簡単には
出来ない。しかし鶏鳴は誰もそれが合図だとは思わないが故に、即ち敵国の鶏鳴にて、一番鶏にて
人衆を起こし、二番鶏にて食し、三番鶏にて打ち立つなどと合図を決めておけば、敵もその合図に
気が付かないという徳がある。これが三つ目の重宝であり、これらを三の重宝と立てたのだ、と
言われた。

(常山紀談)


626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/08(火) 21:05:40.78 ID:Kf8Bs6YY
>>625
鶏は大事な食糧かと思ったら時計あわせか

扇でお顔をしたたかに打って

2018年11月10日 16:45

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 10:25:29.90 ID:5FRsjJ5D
扇でお顔をしたたかに打って


八田豊後*は無銘二尺三寸の郷(義弘)の刀を所持していた。
国清公(池田輝政)は右の刀を指し上げよと度々仰せられていたが、そうしなかった。
ある夜お酒を飲んだ後(国清公は)豊後を呼んで、度々所望の刀を出せと仰せられた。

豊後は
「度々お断り申し上げる通り代々所持している刀で、これをもって
 御馬先を仕るべしと心がけていますので、指し上げることは出来ません」
と言った。その時国清公はお怒りになり長押にある薙刀を取られたので
豊後は扇で(国清公の)お顔をしたたかに打って退出した。

元来お酒に酔った後の話なので、御側の衆が(国清公を)取鎮め
「豊後のことは我らに仰せ付けて下さい」と押し留めた。
その後しばらくして酔いが覚められた後、深酒されていたものの豊後を呼んだ。
豊後はお手討ちだろうと覚悟してすぐに登城し、直に御寝所へと通された。

「我は酒に酔い其方を手討ちにしようとしたが、我の誤りであった。
 其方いささかも心にかけてくれるな」
と(国清公が)仰せられたので、豊後は不覚にも落涙して退出した。
国清公の御行跡は、大方この類が多かったとか。


――『備陽武義雑談』

* 池田家臣。先祖は楠木正成の家臣だったが千早城が落城した後に伊勢へ行き
 北畠家に仕えたという。父の代に北畠具教が殺害され、一緒に浪人となった。
 池田恒興が伊丹城に在城しているときに召し出された。輝政が参議に叙任した際
 太刀持ちが必要だったため陪臣ながら任官した。最終的に三千石を拝領したという。



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 13:36:46.47 ID:Rb9DE5g9
話の中身だけ見ると正則の逸話って言われても違和感無いな

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:39:24.07 ID:sXciHy0v
最後、落涙したあと刀を献上するかと思ったけどそんなことは無かったぜ。
郷はSSRだからね、仕方ないね。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:57:45.30 ID:uqMFgxk/
高虎「やはり酒はいかん。飯、いや餅を食うのが一番良い。」

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 19:40:42.06 ID:p0i+gKso
輝政さんストレス溜まってたんだろうね

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:08:27.04 ID:QjvIsSdR
これがのちのツッコミハリセンになるのか

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 06:34:01.03 ID:Rtctq3rn
下戸の光秀にションベン飲ませようとしたアレだな

彼女は獰猛な牝ライオンのように

2018年10月27日 11:20

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 22:28:54.76 ID:K7WJMRDm
彼女は獰猛な牝ライオンのように


播磨の国の殿(池田輝政)が住む城と御殿に接する異教徒たちが住む町で
悪魔がある女に取り憑くということがあった。彼女は獰猛な牝ライオンのように
家から出て誰も彼女を阻止出来なかった。そしてこの勢いと狂暴さをもって
城に入った。城の女房にさえ容赦せず、ついには無数の狼藉を働いた。
しかしその女房に仕えるあるキリシタン女に出会い、彼女に気づくと悪魔に
憑かれた女は逃げ出し、顔を覆って「キリシタンは恐ろしいものだ」と言った。

女房は腰元(あるキリシタン女)に
「この女はなぜお前から逃げたか」
と問いました。腰元は
「自分が首にかけている守り袋(アグヌス・デイ)のせいだろう」
と答えて、(悪魔に憑かれた)女の上に守り袋を置くと、女は静かになった。
異教徒たちは守り袋を拝むようになり、キリシタンの話を聞くことを望んだ。

その国で受洗した人たちの中に、公方(家康)の息女であるその国の領主の奥方(督姫)に
仕える高貴な若い婦人が二人いた。彼女たちはその御殿の他の女たちが、やはり
以前に行ったように、我らの聖なる教えの真実をよく理解して受洗した。


――『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』



池田輝政の肖像画、モデルは木像

2018年10月13日 17:08

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 13:30:12.37 ID:9x7iTW91
池田輝政の肖像画、モデルは木像 子孫継政が描く、県立博物館確認(山陽新聞)
ttp://www.sanyonews.jp/article/805266/1/

岡山藩池田家ゆかりの国清寺(岡山市中区小橋町)に伝わる、同家の礎を築いた
池田輝政(1564~1613年)の木像が、金山寺(同市北区金山寺)が所有する
輝政の肖像画のモデルであることが12日までに分かった。
画は輝政の子孫、第3代岡山藩主・継政(1702~76年)の筆で、研究者は
「彫刻を基にした肖像画は少ない上、結び付きが証明された珍しいケース」としている。

岡山県立博物館(同後楽園)が19日開幕の特別展「岡山ゆかりの肖像」のため調査。
木像と肖像画は特別展で公開される。

肖像画
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/e52bbd30c95052f37c8e28ba14aeb19e.jpg
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木像
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割と目がくりっとしてる?



誠に愁嘆止む時無く

2018年09月06日 21:09

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 18:07:05.93 ID:iW3ksRbv
誠に愁嘆止む時無く


小牧・長久手の戦いで、池田恒興と嫡男の元助を始め家臣二十余人が戦死した。
(『池田家履歴略記』では親子の討死をうけ、周囲にいた家臣が切腹したとする。)
家督を継いだ輝政は、戦死した臼井藤丸の父親に書状を送っている。


去る四月九日、尾州合戦の節に父子始め家人二十余人が戦死し
藤丸もその中にあったこと、愁傷お察し致します。
私も父子の最期の次第がありましたので、察して下さいますように。
(後略)

五月三日      照政
               臼井一心老人


以上の書状は、池田輝政の確認されている発給文書の中で最古のもの。
父親の臼井一心は59歳、藤丸は一心の次男で25歳だった。
一心は同年の夏に、藤丸の肖像画と共にその上部に書付を残している。


池田勝入公・元助公に随い、尾陽において天正十二年甲申四月九日戦死。
御両君はじめ廿余人の討死を聞き及び、誠に愁嘆止む時無く、かなしみの余り
愚息が幼像を画して忌日に懸け、香華を手向け、法華を読誦し畢んぬ。


臼井家の子孫は後に鳥取藩士となったため、この書状と肖像画は
臼井家に伝来する資料として、現在は鳥取県立博物館に所蔵されている。


門出の朝は黒米飯

2018年07月06日 19:10

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 18:24:45.96 ID:eCXlS6rg
門出の朝は黒米飯


あるとき池田輝政公は、出陣の朝に飯炊きに膳を進められたものの
気分が悪く召し上がらないことがあった。

そこで家臣の淵本彌兵衛が下々の飯の内から(黒米を)取ってきて
山折敷に据えて食べさせたところ、(輝政は)大いに喜んで戦に勝利した。
それより後は、門出の朝は黒米飯を山折敷に載せて
彌兵衛が配膳するようになった。

この彌兵衛は美濃国野間にて、腰に鎌をさして道の傍らにうずくまり
「御馬の草苅として奉公させて下さい」
と野を巡っていた信輝公(恒興)に申し上げたので、公が歳を聞いたところ
十六歳と申したので、永禄十年に召し抱えた者だという。

それから彌兵衛は度々功労があり、のちに利隆の正室福照院付きとなって
三百石を賜ったという。


――『備陽武義雑談』『吉備温故秘録』


我は常に軍旅の事を

2018年06月24日 14:45

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 21:19:53.04 ID:4kKiA17m
我は常に軍旅の事を


(池田輝政が)あるとき厠に入ったかと思うと、けしからぬ声が聞こえてきたので
お側の人々が驚いて厠に走り入ると、卿(輝政)は笑って
「我は常に軍旅の事を考えているのだが、今も図に当たったなと思ったら
 つい声が出てしまった。怪しまなくていいぞ。沙汰なし沙汰なし」
と仰せられたと、老人が語り伝えている。


――『有斐録』



36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 23:52:48.83 ID:PEJlXB4/
・・・どんな声出したんだよ。側仕えが駆け込んでくるって。

南部越後母衣串をぬかざりし事

2018年06月05日 18:00

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:47:03.08 ID:HI+KkJjp
南部越後母衣串をぬかざりし事

岐阜の城攻に、池田家の士南部越後門際に押詰めたるに、門の潜戸狭く、懸けたる母衣に
支えて入り得ず、側より、母衣串を抜いて入るべし、と言え共、否々たとえ入り得ずとも
此母衣は脱ぐまじ、と呼はる。其中に門開きて馳入りたり。其武者振甚だ見事なりし、と
其時の人言いしとなん。
(常山紀談)

 ちょっと、かっこ悪い話。
 くぐり戸に、母衣が引っかかってじたばたしているシーンを想像すると、ちょっとかわ
いい。武士は目立ってなんぼやな。




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:49:14.84 ID:Q/kW/O78
入ってからあとは見事だったんか