細川成之と一色義直の、三河争奪戦
細川成之 一色義直
933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/06(月) 23:05:09 ID:UuTp9Kdw
室町時代前半、三河国は一色氏が四代にわたって守護を務め勢力を扶植していた。
60年にわたる一色氏の支配が崩れたのは永享12年(1440年)のこと。
当主である一色義貫が、「ミスター万人恐怖」足利義教に大和の陣中で謀殺されたのである。
一色氏の領国のうち、若狭・三河はそれぞれ謀殺の実行者である武田・細川両氏に奪われた。
残る丹後守護職も嫡流である義貫の子には渡されず、傍系の一色教親へと移ってしまった。
それから四半世紀後。
応仁の乱勃発。
成人した義貫の子一色義直は丹後守護職を奪取し、更に細川成之の領する三河にも一族を派遣、
徐々に勢力を回復していた。当然、反細川の西軍中核メンバーとなり、成之の軍勢と激しく
戦った。
戦いの舞台が地方へ移ると、三河において成之の守護代と一色一族が火花を散らす。
文明8年(1476年) 三河において成之の守護代である東条国氏が切腹
文明9年(1477年) 三河宝飯郡で一色時家が討死、渥美郡で一色政照が没落
文明9年9月、京都において前年敗死した東条国氏の後継者である東条修理亮の屋敷を一色軍が
攻め、一族郎党300人が奈良へ没落する事件が起きる。
しかも、「修理亮を討伐せよ」 という足利義政の御教書により事件は正当化された。
完全に面子を潰された修理亮の主人細川成之は、幕府出仕を拒否、館に引き篭もった。
11月、東西両軍の和睦により、長い戦乱に一応の終止符はうたれたが、細川・一色両軍は
そんなこと何処吹く風という調子で堀を掘って館を要塞化し戦支度に余念がなかった。
一触即発のぴりぴりした状態が続く。さあどうする?
明くる年の2月、成之の館を使者が訪れる。
「一色義直から誓書を提出してもらいました。二度と三河には手を出さないという内容です。
将軍義尚様は貴方の出仕拒否をひどく心細く思っています。どうかお腹立ちをおさめて
再出仕くださるようお願いします。」
さすがの成之も辞を尽くしての懇願に負け、幕府に出仕することに同意した。
こうして三河国をめぐる一色・細川の争いは決着がついた?が、この後、同国に守護が任じられた
形跡はなく、同国の情勢はより混迷の度合いを増し、一足先に戦国時代へと突入したようである。
「ご苦労であった」
京都では、やっかいな問題を一応片付けることが出来たとして、使者を労う日野富子の姿があった。
( ゚д゚) あれ?
935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 01:19:46 ID:Lep7ejhJ
>>933
それで幕府や有力守護につながった国人たちの勢力闘いになって松平氏が急拡大したり、
一向宗が一気に信者を増やしたりとカオスな状況になるんだよなー。
936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 03:14:54 ID:/+EbqQ+2
東条は東条吉良氏のことで良いのかな?
三河守護を巡っては御料地の経営を巡って将軍家を後ろ盾とする伊勢氏が
暗躍していた様子だね。
一色氏や西条・東条の両吉良氏が地盤固めを抑制された結果、隣国から
今川氏や斯波氏(と被官の織田氏)が浸透を図るようになり、伊勢氏の被官
である松平氏が台頭したわけだね。
細川成之 一色義直
933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/06(月) 23:05:09 ID:UuTp9Kdw
室町時代前半、三河国は一色氏が四代にわたって守護を務め勢力を扶植していた。
60年にわたる一色氏の支配が崩れたのは永享12年(1440年)のこと。
当主である一色義貫が、「ミスター万人恐怖」足利義教に大和の陣中で謀殺されたのである。
一色氏の領国のうち、若狭・三河はそれぞれ謀殺の実行者である武田・細川両氏に奪われた。
残る丹後守護職も嫡流である義貫の子には渡されず、傍系の一色教親へと移ってしまった。
それから四半世紀後。
応仁の乱勃発。
成人した義貫の子一色義直は丹後守護職を奪取し、更に細川成之の領する三河にも一族を派遣、
徐々に勢力を回復していた。当然、反細川の西軍中核メンバーとなり、成之の軍勢と激しく
戦った。
戦いの舞台が地方へ移ると、三河において成之の守護代と一色一族が火花を散らす。
文明8年(1476年) 三河において成之の守護代である東条国氏が切腹
文明9年(1477年) 三河宝飯郡で一色時家が討死、渥美郡で一色政照が没落
文明9年9月、京都において前年敗死した東条国氏の後継者である東条修理亮の屋敷を一色軍が
攻め、一族郎党300人が奈良へ没落する事件が起きる。
しかも、「修理亮を討伐せよ」 という足利義政の御教書により事件は正当化された。
完全に面子を潰された修理亮の主人細川成之は、幕府出仕を拒否、館に引き篭もった。
11月、東西両軍の和睦により、長い戦乱に一応の終止符はうたれたが、細川・一色両軍は
そんなこと何処吹く風という調子で堀を掘って館を要塞化し戦支度に余念がなかった。
一触即発のぴりぴりした状態が続く。さあどうする?
明くる年の2月、成之の館を使者が訪れる。
「一色義直から誓書を提出してもらいました。二度と三河には手を出さないという内容です。
将軍義尚様は貴方の出仕拒否をひどく心細く思っています。どうかお腹立ちをおさめて
再出仕くださるようお願いします。」
さすがの成之も辞を尽くしての懇願に負け、幕府に出仕することに同意した。
こうして三河国をめぐる一色・細川の争いは決着がついた?が、この後、同国に守護が任じられた
形跡はなく、同国の情勢はより混迷の度合いを増し、一足先に戦国時代へと突入したようである。
「ご苦労であった」
京都では、やっかいな問題を一応片付けることが出来たとして、使者を労う日野富子の姿があった。
( ゚д゚) あれ?
935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 01:19:46 ID:Lep7ejhJ
>>933
それで幕府や有力守護につながった国人たちの勢力闘いになって松平氏が急拡大したり、
一向宗が一気に信者を増やしたりとカオスな状況になるんだよなー。
936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 03:14:54 ID:/+EbqQ+2
東条は東条吉良氏のことで良いのかな?
三河守護を巡っては御料地の経営を巡って将軍家を後ろ盾とする伊勢氏が
暗躍していた様子だね。
一色氏や西条・東条の両吉良氏が地盤固めを抑制された結果、隣国から
今川氏や斯波氏(と被官の織田氏)が浸透を図るようになり、伊勢氏の被官
である松平氏が台頭したわけだね。
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