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国を守護して三好家は繁栄したが

2019年05月29日 18:23

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 00:59:29.72 ID:aWEGs2Wh
右の他に三好家は数多存在し、阿波国の所々に居城す。また五畿内には三好山城守入道笑巌
(康長)・同日向守(長逸)・同下野守入道釣閑斎(宗渭)・岩成主税助(友通)・松永弾
正(久秀)とかれこれ所々に居住す。

讃岐には十河一存・瀧宮豊後守、伊予には真辺・石川、淡路には安宅・野口、これは皆実休
(三好実休)に近き一門なり。

国を守護して三好家は繁栄したが、長治(三好長治)が悪心である故に一類は互いに遺恨が
出てきて、親子兄弟が立ち別れて敵となり味方となり、討ちつ討たれつ相果てた。また土佐
の元親(長宗我部元親)にも大方討たれ、信長公・秀吉公の代にもあるいは討たれ、または
他国へ落ち行き、ついに滅んだ。

――『阿州将裔記』



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また三好長春は淫乱不道にして

2019年05月20日 16:51

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 16:33:26.02 ID:0Xfn6F6C
また三好長春(長治)は淫乱不道にして、昼夜酒宴遊興ばかりなれば、酒飲みやおどけ者、軽薄者
ばかりが出世し、少しでも質実な者を「気詰まりなり」と嫌って自分の周りへも寄せ付けず、母儀
の叔父・岡本卜世(原注:岡本美濃守弟)が諫めるけれども聞かず、上下は疎み果てたのである。

また上方よりゑつた(河原者)が下り、本来を隠して勝瑞の町人になった。されども隠れなくして
傍人は付き合いを厭い、そのゑつたを追い出そうと企てたが、かの者の子は生まれ付き優れたので
長春の小姓に使われ出世したためにそれも叶わず、諸人は誹り非難した。

――『三好別記』



59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 10:21:51.76 ID:hDnie7Gp
>>51
ゑつた、つまり穢多のことですね

青屋に肩衣を着せるような

2016年10月28日 14:03

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/27(木) 20:39:37.87 ID:lY6dUZwu
昔、阿波国勝端の町に青屋太郎右衛門という者が居た。彼は米持ちであり、持明院の旦那になるほどであった。

その頃、勝端の南にたたつ修理という侍が在った。彼は青屋太郎右衛門の娘に米百石の持参金を付けると
いうのを息子の嫁にとったが、息子は間もなく死んでしまった。この事で、「たたつ修理は米百石で子を売った」
と言われ、物笑いに成った。

三好長治の小姓に山井図書という者があったが、彼は大酒飲みで一日に酒を一斗(約18リットル)も二斗も
飲んでも、痛くも痒くもないという人物であり、その飲みっぷりから三好長治の御意を一段と良くし、
長治は彼とともに昼夜酒盛りを行い、酔っ払って正体のない有様であった。

その頃、米持ちである青屋太郎右衛門に肩衣を着せた(侍身分にした)が、この事について人々は、
「酒の故だ」とは言わなかった。
「青屋に肩衣を着せるような真似をする人物だから、ああなのだ。」と申しふらした。

(三好記)




阿州宗論

2015年09月09日 13:11

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 08:22:48.47 ID:Ffahu+be
天正3年、三好長治は阿波一国の人々は、産まれたばかりの子まで日蓮宗とするよう命じ、
法華経を頂かせ、他宗の寺に出入りすることも許さなかった。

ここにおいて、持明院という真言宗の寺院が頭と成って諸宗が協力し、宗論の訴訟をした。
訴訟は許可され、阿波の国中の真言宗三千人が集まり、根来の智識である「ゑんしょう」を
乞い下した。

日蓮宗側も堺の妙国寺、経王寺などが馳下り宗論に及んだ。

先に、根来の「ゑんしょう」が、書物を一冊書いて日蓮宗側に送った。日蓮宗の学頭たちは
本行寺に集まりその書物を披見したが、彼らはこの書に書かれたことへの返答に詰まってしまった。

真言宗の三千人は、これにて自分たちの勝利であるとし、日蓮宗を破却すべきであると蜂起した。
しかしここで三好家重臣の篠原自遁が扱いに入り、森志摩守に警護させ、妙国寺、経王寺の者たちを
堺に送り返した。

日蓮宗は宗論に負けたようなのに罰もなく、真言宗は勝ったようなのに利生もなく、
阿波一国ではいよいよ日蓮宗が繁盛した。

(三好別記)



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 08:31:50.44 ID:lTBzLL9D
法華は大体負けてるな
290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 08:57:40.36 ID:1HDmTpOJ
他宗に比べて経典への研鑽が薄いからじゃないかえ?
現代でも日蓮宗は倪下様と、二重敬語を尊敬の現れだからと平然と使うし
敬語を重ねても敬意が増すわけじゃないのに

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 10:07:34.75 ID:6LO0Pq6W
>>289
理屈に合わないからこそ、それに惹かれる狂信者を生むんだろ

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 11:24:27.52 ID:uLuujW4j
空海王国四国に挑むとは

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/09(水) 17:27:05.36 ID:8jlPEhx3
いや…挑んでるのは真言側じゃね

三好長治の最期

2015年03月09日 18:42

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/09(月) 09:41:18.66 ID:x1Ydy5is
阿波の三好長治は大酒遊覧を好み、甚だ無道な人物であった。
天正3年(1575)5月5日の夜、長治の屋形の上に、五丈(約15メートル)ばかりの巨大な山伏が現れ
終夜立っていた。
同7日酉の刻、西方より光る物体が複数現れ、相戦って消えた。
同18日、宵より彗星が出現した。その光は月日のようであった。
同夜、月明かりの無い中、大麻山より大船が二艘虚空を渡り、焼山寺の峰にかかったところで消えた。
人々は皆、いったい何事が起こるのかと恐れた。

長治の異父兄である細川掃部頭(真之)殿は、長治が驕り、様々な無礼をすることに遺恨浅からず、
これによって天正4年12月5日の夜、勝端城を忍び出てた。お供は仁木伊賀守、林喜内、そして中間2,3人ばかり
召し連れ、伊井谷まで落ちて福浦出羽守を頼った。
福浦は、里に近い場所では危険だと思い、仁宇山の奥に要害を構え真之をここに隠し置いた。
細川真之に旧功の侍である大栗右近、服部因幡、森監物、粟田宇右衛門、中津野六郎左衛門、
その他義士が数多集まりこれを守った。

三好長治はこのことを知ると軍勢を集め、天正5年3月上旬に荒田野口に在陣した。
ところが仁宇川は難所であったため、寄る事もかなわず徒に日を送った。

そういう所に細川真之勢は、一宮長門守成助、伊澤越前守頼俊を大将として後詰を仕掛けた。
三好長治の勢はこれは叶わないと判断し、火縄銃も残したまま、長治は重臣の篠原玄蕃頭の今切城に
引き退いた。そして篠原と相談し、再び軍勢を集め仁宇川まで押し出そうとしていた所に、
細川真之を大将として、一宮、伊澤、吉井左衛門大夫行康、多田筑前守吉次らが二千騎あまりで
今切城に押し寄せた。

篠原玄蕃は叶わぬと思い、城を捨て郡勘助の宿所へと逃げ落ちた。勘助は篠原を浅い古井戸に隠したが、
その上でこれを敵に知らせ討たせた。

一方、三好長治は土佐の国人である森志摩守を頼り落ていった。
長治と森志摩守は合図を決め、助任川に迎えの船を遣わしたが、その時期、弥生の雨の名残で
霧に霞み、船の水主が山を見違えて佐古の山下に乗り入れてしまった。
長治は助任川で迎えの船を尋ねたものの、これを見つけることが出来ず、そのため別宮へと移動し、
その里の庄を頼った。しかし里の庄は敵方に注進した。
一宮、伊澤ら二千騎あまりの細川勢が馳来て長治の宿舎を十重二十重に取り巻くと、
長治は最期の時世に

 三好野の 梢の雪と散る花を 長治とや人の云らん

そう詠んで天正5年3月28日辰の刻、自害して果てた。姫田佐渡守の介錯であった。
浜隠岐守、梶井又五郎(18歳)、原弥助正道も同じく自害した。

三好式部少輔康俊という人があった。彼は長治所縁の者で近習を勤め、長治に折々諌めたため、
金言耳に逆らうの習いだろうか、外様のような扱いをされていた。
しかし昔の情を感じ、一首を詠んで共に自害した。

 三好野の 花の数にはあらねども 散るには洩ぬ山桜哉

(三好家成立之事)

三好長治の最期についての記録である。




543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/09(月) 10:34:31.57 ID:y02EE4gA
真之は長宗我部の支援を受けてるのに土佐に逃げようとしたのか

三好長治様は、真面目な性根など少しもなく

2013年04月01日 19:58

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 22:41:13.64 ID:WegoqeNc
三好長治様は、夜昼の境もなく酒盛りをされ、真面目な性根など少しもなかった。
また、御家を差配していた篠原玄蕃殿は、篠原自遁の子息であったが、これも大酒飲みで
夜昼酒盛りをされ、公事沙汰の取り扱いをまともに行える人がおらず、理を非にして
多くの人の恨みを作っていた。

天正4年12月1日の事である。別宮のある者、村で小舟に乗って居た所、三好長治様が
この辺りで鷹狩をなされていて、この者に対岸に渡るため船を渡せ、と仰った。

この時、この者は「船が汚れております」と申し上げると、長治様はこれを曲事だとお考えになり、
彼を成敗した、という。
(三好記)

三好長治への強い批判の満ちた記録である。




136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 23:14:25.51 ID:EXaq8GOI
長治様は批判されているところしか見た事が無い
味方からすら批判されるおぼっちゃま

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/31(日) 23:37:01.15 ID:mv/z8Zn1
あの親からよくもまあ、という感じだな。
篠原長房や三人衆の力が強くて、自分の思い通りに家が動かなくてふてくされたのかね?
それとも単に生まれながらの質なんだろうか

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 00:05:32.34 ID:EtSM2KT6
自分のママンが淫売婦だったらグレるだろ

三好長治の最期

2013年04月01日 19:58

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 00:47:06.98 ID:H78FbwLS
三好長治の最期

対織田戦線を主導していた篠原長房父子を滅ぼした三好長治だったが、
篠原父子討伐にかつて長治の父・実休が滅ぼした阿波守護・細川持隆の子
真之を担ぎ出したため、、阿波守護細川氏の軍事動員権復活を許してしまう
事態となった。さらに篠原父子を討ってまでして模索した織田信長との
和睦工作(※)も不調に終わってしまうなど散々な結果になってしまった。

※長房討伐の少し前には、十河存保が織田信長と接触を図っている。
  長治も信長に和睦を請うているが、結局拒絶されてしまっている。

やがて細川真之に攻められた長治は今切城へ逃れ、そこで土佐泊城を拠点とする
阿波水軍の将・森志摩守に救援を要請し、両者は助任川で合流することとなった。
森志摩守は早速船を出したものの、土佐泊から海を廻って河道に入り助任川へ入る
ルートは河道が複雑で潮流の見極めが難しかったらしく、志摩守の出した船は誤って
助任川よりも南の佐古山の麓に進入してしまい、結局長治の待つ助任川へたどり
着くことが出来ず、結局両者は合流しそこねてしまった。

やむなく長治は別宮浦へ向かったが、別宮浦一帯は土佐泊や撫養に比べて、三好
氏の支配が深く及んでおらず、結局長治はこの別宮の里長に密告されてしまい、
自害に追い込まれることになってしまったのだった。

水軍が道を誤ったために長治の予定が狂い、結局追い詰められて自害する羽目になった
というちょっと悪いお話。ちなみに、森志摩守は水軍の長という特殊なポジションから、
蜂須賀氏の阿波入国後も旧三好氏系の豪族ではほぼ唯一、その地位を保ち、蜂須賀水軍の
将として幕末まで阿波藩の上士として存続している。




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 02:21:08.23 ID:mvZbEfP1
吉野川の河口部はいまでも迷路みたいだな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 06:57:32.95 ID:Km/1NTLe
うわーまよっちゃったわーこれじゃえんぐんまにあわないわーこまったわー(棒

天正三年宗論と怪異

2013年03月28日 19:51

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 03:08:08.64 ID:x4m0oFo5
この宗論の話はもう出てますが、少し趣が違うので

天正3年の事である。
阿波の三好長治は、阿波に生まれたものは全て子に至るまで、法華経を抱かせて
日蓮宗に成るよう命じた。
これにより阿波の禅宗や真言宗の寺は檀家を取られ、経済的にも大変な苦境に立たされた。

これに真言宗の大滝山持明院は訴訟を起こした。その内容は
『これは仏法の事である以上、阿波一国を日蓮宗にしようとするのなら、その優劣を見るためにも
我等と日蓮宗との宗論を仰せ付けられるよう申し上げる!』

この訴訟は受け入れられ、三好長治は宗論を申し付けた。

この時、持明院には阿波国の真言坊主3千人が集まり、根来のえんじょうという僧を呼び、
彼は日蓮宗に対して質問状を書き、これを日蓮宗本行寺へ遣わした。

本行寺には堺妙国寺、経王寺などが下っていた。
堯伝坊が使いに参り、書状への返答を求めたが、彼らはそれに返答することが出来なかった。

これにより「宗論は負けた方を討ち潰す法度である!」と3千人の真言山臥達、事の他に騒いだ。
阿波三好家の重心、篠原実長(自遁)は真言宗をなだめ、堺妙国寺、経王寺を堺まで逃した。

こうして暫くは、真言宗の勝利のように受け取られたが、しかし三好長治は日蓮宗を後援することを
止めようとしなかった。

そのような中、三好長治の周りに様々な恐ろしいことが起こるようになった。

三好実休は既に亡くなっていたが、彼の屋敷や数寄屋はそのまま残っており、数寄屋には二人の
練達の武人が、番人として詰めていた。

ある夜、山伏が現れ戸を押し倒し中にあった二人の番衆を押さえつけた。
また長治の屋敷の中にも日が暮れると山伏が走り回り、さらに屋敷の上に、
身の丈5間(約9メートル)もあろうかという人形で様々な姿をした物が出現した。

この様な恐ろしい現象が起こったことについて、岡本卜也は
『長治の親も家も禅宗であったのに、阿波国を皆日蓮宗にしてしまえば、
親も家も皆破れて無くなる。これほど報いのかかる事は無いであろう。
これこそ、三好の家が滅びようとする前兆である。』
と、仰ったそうである。
(三好記)

天正三年の宗論と、その後の怪異についての逸話である





102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 09:10:21.79 ID:MTnq9wtA
>>99
業を煮やした真言宗らの脅迫か。
まあ二年後本当に長治敗死してるしな

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/28(木) 09:52:35.76 ID:gXP8Q1o+
鬼武蔵と幽斎様、他所のお家でなにしてはりますのん

飛脚地蔵

2012年01月06日 22:02

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 23:43:50.09 ID:AkHtTZ82
三好長慶が京都を支配していたころのこと。
長慶の甥で阿波国主の三好長治は急の用事があり、京の長慶に書簡を出すことにした。
その使者として長治に選ばれたのが、福成寺の住職である。
住職は長治から書簡を預かるとこれを寺に持ち帰り、書簡を文箱に収めてお堂の地蔵菩薩の前に保管した。
住職自身はその傍らで一睡もせずに夜を明かす。日の出と共に出立するつもりなのだ。
さて特段のこともなくその夜は明け、住職はいよいよ京へ向けて発つべく文箱から書簡を取り出そうとする。
そして一驚したことには、なんと長治から預かった書簡が箱の中にない!
ばかりか、代わって長慶からの返書がすでにそこに認められているではないか!

なんと弘法大師が彫ったという地蔵菩薩は、住職の長旅を哀れに思い、彼に代わって夜間に京の長慶の元を訪れ、
一晩で返書を持ち帰って来ていたのだ。
この事はたちまち阿波の人々の噂に上り、以来福成寺のこの地蔵は飛脚地蔵として親しまれたそうな。


民話の世界でまで長治さんの真言宗苛めっスかw
って思ったら、福成寺は住吉神社(三好義賢が幼少時神主を務めた)の別当寺でもあるそうで、
悪い話でもなさそうなのでこっちのほうに。




285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 23:49:44.00 ID:7uO7wyLB
讃岐の薬師如来は長宗我部の軍勢を追い払うし
阿波の地蔵菩薩は京まで行ってくれる
四国の十三仏のご利益はすごい

天正三年の宗論

2011年11月15日 22:00

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 01:26:37.02 ID:IgOggTMq
 天正三年のことである。
 阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
酒色に耽る生活を送っていた。
 己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の
讒言を容れて上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、
その上司である実弟十河存保を無視する形で兵を遣わして攻めさせている。

 そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
 それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
 当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。
長治の父義賢はその晩年、法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を
強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
 ……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが
暗愚の暗愚たる所以だろう。

「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)

 かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
 ……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
 ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
 多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
 無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、
山伏三千人を繰り出し強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
 流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日や経王寺の
僧侶らを数多阿波へと招く。
 一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!

 ……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
 軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
 一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
 ただし『己行記』は宗論の当事者である日の著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
 ちなみにこの日、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。

 この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば
法華宗が勝ったのかも知れない。
 この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。

 いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。

 備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。




9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 01:36:10.47 ID:80diu9tM
四国は大師様が結界をはられたので、他宗は流行らないのですby徳島人

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/15(火) 19:35:23.38 ID:nmpU8P7w
>>8
実際徳島は真言宗ばっかりで、社会科で全国的には他宗派の方が多いと習ってもにわかには信じられないくらいだった
グラフを見ても他県と比べて突出して真言宗が多かった、それでも今の方が昔と比べて他宗派の寺は増えてる
よくまあ実行しようと思ったもんだ…

三好長治の治世は混乱を極め

2011年11月07日 22:00

862 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/06(日) 21:46:02.01 ID:CmBgDe5Y
 細川管領体制の領国経営が戦国期に入っても生き残っていた畿内、及び東四国では、
領内の諸豪族が代々受け継ぐ所領が当然の権利として継承される傾向にあった。
 例えば讃岐国の場合、東讃は安富氏が守護代を司り、香西氏や寒川氏、植田氏らを傘下とする。
 一方の西讃は守護代香川氏のもと、奈良氏らを傘下に置く。

 この体制は時に大内や毛利の干渉を受けつつも不変であり、
諸家は互いに争いつつも概ねの所領は父祖代々の範囲を維持しつつ戦国後期を迎えつつあった。

 さて、先に上げた讃岐諸氏の内、東讃守護代たる安富氏は些か不本意な立場にある。
 というのも守護代の地位にありながら安富氏の本領は雨滝城を中心とした三木郡一郡のみであり、
西讃守護代香川氏の三郡支配に及ばないどころか、東讃内で四郡を支配する香西氏にも大きく水を空けられていた。
 この為、安富盛方は細川家の混乱が募るとはじめ大内義隆に属して寒川氏と争うが、
これは阿波守護細川持隆の命を受けた三好義賢・十河一存兄弟の援兵もあって失敗、再び細川家に帰参する。
 しかしその持隆が義賢に殺害されると盛方は三好家に接近、特にその重臣篠原長房の娘を嫡子盛定の妻に迎え、
元亀元年に三好長治の後ろ盾を得て寒川元隣を恫喝、大内郡を接収することに成功した。
 これは三好氏に忠実であった安富氏を中心に讃岐支配を立て直すことと、特に篠原長房の所領と安富氏の領地を
直接連結するために大内郡が必要であったからだともされている。

          === ここまで前史 ===

 さて、こうした三好氏の慣例を無視した動きを、当然讃岐の諸氏は快くは思わなかった。
 特に激しく反発したのが、もともと細川京兆家の与党であり三好一門とは度々干戈を交えた香川元景である。
 さらに十河一存、存保に忠実であった香西佳清も呼応した。
 ちょうどこの頃、三好長治の治世は混乱を極めている。
 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5441.htmlのような事件を讃岐国内で発生させたばかりか、
元亀四年(天正元年)には良くも悪くも三好氏の柱石であった篠原長房が長治の不興を買って故なく誅殺された。
 この前後には反信長包囲網の一翼として摂津や備後の織田方への攻撃と敗北が重なるなど、軍事的失敗も重なった。
 方向性定まらず、暴虐の度を深める長治の治世に讃岐の人心はますます三好氏から離れて行き、
 ついに元景、佳清両名は同二年に長治の実弟十河存保に最後通告を叩き付けるのである。

863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/06(日) 21:46:49.62 ID:CmBgDe5Y
「存保くんへ。
 阿波と讃岐は細川公の支配からずっとなんだかんだいってみんな仲良く共存してきたよね?
 でも去年、こないだくたばった篠原の野郎が安富のボケと吊るんで寒川くんから伝来の領土奪ったじゃん。馬鹿なの?死ぬの?
 あのね、そんなことやってると阿讃の諸将は三好さんから離れてくよ? 篠原ぬっ殺したなら大内郡は寒川くんに返してあげてよ。
 別に僕らは三好さんに異心はないけど、今後を思って忠告だけはしておくから。忠告だけは、ね」

 この書状を受け取った存保は事態の深刻化を大いに憂え、すぐさま使者を立てて長治の非道な振る舞いを諌めようとした。
 それを受けての長治の反応。

長治「そうか、よし、殺す」

 ごらんの有様だよ!
 長治は早速六千の兵を仕立て、三好越後守に香西氏を、矢野駿河守に香川氏をそれぞれ攻めさせた。
 存保や彼の配下の讃岐諸将の名前がこの攻撃に一切出てこないあたり、どうやら長治の単独行動だったようである。
 そして派手に負けた。割とどうしょうもない。
 かくしてこの時より讃岐の西半分が三好方より離反し(東讃の香西佳清はのち十河氏に帰参)、三好家の軍事力は激減した。
 十河存保は讃岐での巻き返しに躍起となりつつ、長治の暴政に諫言を続けていくのだが、
その甲斐もなく分国領民へ法華宗への改宗を強要するなど迷走の末に異母兄細川真之に長治が討たれるのはこの四年後のことである。

うっかりageちまったすまん




864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/07(月) 00:03:51.72 ID:peYfAzZ2
もうなんつーか…。
これは酷いとしか言い様が無いな。

三好長治の牛裂き

2011年05月25日 00:03

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 10:15:18.83 ID:CsLy+1Vo
阿波、三好実休の後を継いだ三好長治は非常に厳格で強権的な統治をしたという。

元亀3年(1572)春、かれは讃岐において鷹狩をした。
木太郷の深江と言う場所で長治自ら、鴨の群れにあわせて鷹を放つ。
鷹は鴨を掴み、そのまま真部の見勇利権之助という者の家の前に落ちた。

この時、権之助の家に使えていた若松というまだ幼い少年がこれを見つけ、恐ろしい物が
落ちてきたと思ったのであろうか、火焚き棒で鷹、鴨ともども打ち殺してしまった。

長治はこれを知ると激怒し、その少年を捕らえさせ「牛裂きにせよ!」と命ずる。
少年は両足を牛二匹に縄で結び付けられ、牛を左右に追分け両足を二方に引き裂いた。

人々はこれを見て恐れ震え

「あの子供は是非をわきまえてあんな事をしたわけではないのに、その刑罰は
あまりに暴虐にして無道である。」と口々に語り、多くの人心が三好氏から離反した、と言われる。

三好長治讃州鷹狩での逸話である。
(南海治乱記)




327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 20:05:43.43 ID:r5NEHAt8
ちょっと悪いどころじゃねーな!

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:04:52.39 ID:pCDoygft
>>326
ん、被ってるけど一応内容が少し違うな
しかし流石やな長治さんは
まだまだ長治で出てない逸話あるし、暫くしたら悪い逸話で埋め尽くしてやるから覚悟しろよ

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:07:35.92 ID:QL0FZWax
長治「牛裂きは怖いですねえ、恐ろしいですねえ」

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:08:58.01 ID:LhxhfTtG
山内容堂も子供だった竜馬の友達を斬り殺すよう命じてたな

おーい竜馬の話だが

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:13:33.20 ID:grK3Fn9f
DQN四天王序列

森 長可
伊達政宗
細川忠興
島津忠恒
坂崎直盛 New!
三好長治 New!

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:26:27.14 ID:2kgyWBz/
おいおい越前の狂犬はどーした?

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:29:27.33 ID:GP3W6zr3
富田長繁さんは序列とは別枠なの?

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:30:58.09 ID:sqJuy1mP
DQNに納まりきらないから狂犬枠でいいと思う
いまいち仲間が思いつかないが

335 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/24(火) 23:32:51.06 ID:S9u8Kl4+
DQNにはある種の親しみやすさが有るけど富田さんはただ狂ってるだけなんだよな。

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:33:51.73 ID:r6/TZ2Th
このころの鷹って高級品で、贈答、献上、下賜の定番アイテムなので、
価値を知らない人に打ち殺されたらブチギレるのも当然かという気もするが。
今の感覚だと高級車や時計をボコボコに壊されるようなもんでしょ。

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:40:17.75 ID:/rEAToCL
時代が違うのを同列に語るのはどうかと思うけど、
どこぞの知事の高級車を子どもがふざけて傷つけてしまった時に、
その知事が子供をボコボコにしたら問題になると思わんか?

領主の器じゃないってことじゃないの?

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:54:47.06 ID:vUG+5j5i
おれたちにできない事を平然とやってのける、
そこにしびれるあこがれる部分が無いと四天王には入れない

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:56:25.51 ID:FmgHjZnm
木沢長政さんは?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 23:57:43.66 ID:qoO2jXLS
四天王入りするには○○だから仕方ないと思わせる数々の実績が無いとな

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 00:03:21.41 ID:zp87iu3X
>>339
どっちかといえば松永弾正と同じ部類かな


342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 00:06:56.31 ID:sJIc8+44
>>340がとてもいいことを言ったと思います。いや、まじでそうだよ

>>341
大関さんもそっちに分別かな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 00:13:10.01 ID:bFLd78p/
四天王になってる人たちは武将や領主としては優秀なんだよな
優秀なはずなのになんで…っていうのが他の人には足りない

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 00:59:25.87 ID:ze8QBCKh
「五人目のDQN四天王」こと福島正則を忘れないでいて

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 01:04:15.24 ID:BdT7rFeQ
市松は酒入らないと意外といい奴だし
DQNというより酒乱枠だと思う

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 01:08:33.57 ID:ZJ1xku1n
あと、基本的にヘタレだしなぁ

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 21:12:51.05 ID:LFcpA/Wn
>>336
信虎「略奪の定番アイテムでもあるんだよなこれが」
正昌「しかも返品交換の対象でもあるんだよな、御屋形」

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 23:08:39.46 ID:Ht3V1DuP
>>360
氏綱「あのときはメニューをすぐに決められない男みたいなゴネ方だったよね」

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 05:26:36.60 ID:T/1x5PXR
DQN四天王の条件に世渡りは割と上手ってのはあると思う
市松や坂崎さんにはそこが後一歩足りない
的確に時代の勝利者を見抜く感覚はあるのに

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 05:47:09.27 ID:oMjZ3AjG
ただ勝手に呼ばってるだけだろ

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 19:58:15.65 ID:4EgGwTpb
>>360
まさまさェ・・・・・・。

ある日三好長治は好きな鷹狩を楽しんでいた。

2010年09月05日 00:00

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 20:54:39 ID:b/jlIf8L
三好長治は老臣篠原長房を討った後、政治を疎んじ遊興に耽るようになる。
強権を振りかざし、失政も多かった長治は次第に人心を失っていった。

ある日長治は好きな鷹狩を楽しんでいた。
鷹が獲物を捕らえ地上に降りると、たまたまそこにいた童が鷹を打ち殺してしまった。
長治は激怒し、童を捕らえさせると両足を牛2頭の角に縛りつけて牛を鞭で打った。
驚いた牛は別方向で走り出し、童の股は2つに引きちぎられた。
長治はこの一部始終をカラカラ笑いながら見物し童の断末魔を楽しげに聴いていたという。

そしてこれを見て長治を見限った一宮成助、井沢頼俊と結んだ
細川真之と戦い敗死するのだが、それは別の話。