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関東の馬のようではなく、弱くて異なるもの

2020年12月26日 18:06

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/26(土) 14:02:32.02 ID:JQ/PrDbx
関東の馬のようではなく、弱くて異なるもの


寛永15年(1638)、九州中の牛が病気で死ぬということがあった。【細川家史料 細川忠利文書四八二九号】
当時の忠利には知る由もなかったが、これは牛疫で西日本で五十万頭以上が死ぬ大流行であったとされる。
同時期に朝鮮半島でも牛疫が流行っており、病気の牛が漂着したのではないかと推測されている。
九州の牛死について詳しく述べている部分を抜粋して意訳。

一、九州の牛死についてですが、(どうせ牛が死んでしまうので)みな一人として世話をしようとせず
  少しも忙しくありません。また牛の薬が来ましたが、薬を飲ませるべき牛もいません。
  そうとはいえ、在所によっては一匹や二匹ずつ牛は残っているそうです。只今は馬に田畑を
  耕させていますが、(九州の馬は)関東の馬のようではなく、弱くて異なるもののようです。
  牛が二万三万も死ぬことはなかったので、(牛を家臣に用意するよう)申し付けることも出来ず
  (自分で)買うことも出来ません。上様(家光)にもどうしようもないことでしょう。
  薩摩の馬を買ったのですが、あちこちで(牛が死んでいるので)、乗る為の馬より高くなっていました。
  これも役には立たなかったので、熊本(城)の普請は止めて下々に知行をやって百姓を助けさせています。
  来年はいかほど(田畑が)荒れるか分かりません。苦々しい九州の様子です。

――『細川家史料 細川忠利文書 五〇二〇号』



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徳川秀忠の追善供養に対する違和感

2020年12月01日 19:49

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 21:35:00.62 ID:w2E/PteA
徳川秀忠の追善供養に対する違和感


将軍・秀忠が亡くなった際、譜代衆を始め国持大名の中でも追善供養をする動きがあった。
ただ家康が亡くなった際は追善供養をしていなかったこともあり、細川忠利は父・忠興に
追善供養を申しつけられるまで指図を待つことを伝えている。【細川忠利文書 四九〇号】

以下はその後の続報を意訳して抜粋。【細川忠利文書 四九八号】

一、相國様(秀忠)の御弔に、右衛門佐(黒田忠之)・松阿波守(蜂須賀忠英)・浅但州(浅野長晟)
  なども千部経を修したことについて、森作州(森忠政)が申されたので、残らず左様に
  (申し付けられるのならば)どうするべきかと話しました。(忠政は)
  「このほかははっきりと存じませんが、私は不要と強く思っていたので申し付けられませんでした。
   三斎様(細川忠興)も(不要だと思っているので)仰せつけられないでしょう」
  とのことでした。
  
――『細川家史料

寛永2年6月17日の。肥後地震被害について

2018年05月16日 21:34

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 19:06:21.10 ID:7w2utxgu
肥後へ御使に被遣御鉄砲衆両人、今日罷もとり候、御書之返事御座候、御文箱を則 を以、
上ケ申候事
肥後に先月十七日の夜、大なえゆり、殿主其外城中の家、から木立斗残り、かわらひき物
も皆々おちくづれ、城中に人五十人ほと死申候、塩硝倉ともずりに火出候て、跡もなくふ
きちらし、あたり五町八町之間の家無残ふきちらし、ゑんせう八万斤の上有之つる故に、
倉の下の石かき何もやねかわら六り五りほとふきちらし申候、斉藤伊豆守殿・防庵の家も損、少しつつ作事被仕候
 (細川家文書 万覚書寛永二(1625)年七月二十一日条)


 寛永2年6月17日の地震被害について、一月後に肥後を訪問した使者が報告している。豊
後時代の執務日誌から。


 50トン近くの火薬を貯蔵していた煙硝蔵が爆発。周囲500から800メートル四方ほどが吹
き飛び、瓦礫が3から4キロの範囲に飛散したという。黒色火薬とはいえ、50トンもあれば、
それだけの被害がでるかな。
 痕跡が残っていそうなものだが。今度の震災復旧で、見つからないだろうか。


 最初の方、「ひき物」というのが、よく分からないけど、建物が柱ばっかりになったと
いうことだろうか。「城中」の死者についても、煙硝蔵の爆発の死者がこれだけなのか、
本丸の建物被害で死者がこれだけでたのか、細かいところでよく分からない。


 地震被害の話なので、当然こっちに。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 20:27:04.77 ID:xYUxUbly
>かわらひき物

瓦葺き物かな?

少之御普請も御堪忍、御尤候事

2018年05月13日 17:22

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 11:57:27.51 ID:hgZsim4a
寛永十一年(1634)八月晦日 細川忠利書状案

御門わき石垣、はば五六間程くみ申候由、如元可被仰付哉与被仰越候、中々御無用にて御
座候、道へ崩れかかり候はば、人の通候道御座候程にお引のけ候而、少しも少しも石垣御
築直之儀御無用に而御座候、城之見苦事は何方も同前儀候、不被得御意候而は、少之御普
請も御堪忍、御尤候事

 ここでは、父・祖父よりも影が薄い忠利さんを、ダイマ。
 有馬直純から、城の修復について相談を受けたときのお返事。城の修理はくれぐれも慎
重に。ちゃんと幕府の許可を得よう。城のメンテナンスが行届いていないのは、どこも同
じだから気にすんなだって。
 関ヶ原以前に築かれた近世城郭が、数十年を経て、いっせいにメンテナンスが必要な状
況になってきたそうだ。ついでに、この年は家光の上洛で、この種の事務も滞っていたの
だろうな。
 しかし、道を塞いだら、人が通るところだけ石をよけて、あとはそのままにしとけって…




748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/13(日) 12:19:44.01 ID:mMOiDVzU
>>747
寛永11年なら戦国も終わって太平の世真っ盛りだしなぁ… もうちょっとしたら天草の乱が有るけれど。
しかし、届出してやるにしても金はかかるは幕府に睨まれかねないは、やらなきゃやらなかったでお咎め食らいそうだわ… しかし、平山城も草生えたり木が伸びて道が荒れる事もあるし、お手入れはどうしてたんだろうなぁ
外様大名は辛いわねぇ…

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 14:23:41.11 ID:VWNosI8F
草刈りと木の手入れは副産物貰って帰る条件で
むらかた、町方に。
草は家畜の餌とか肥料になるし木は焚き木に使える。

不届者ハかたはしよりなて切りニ

2018年05月11日 08:04

885 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/10(木) 22:34:20.70 ID:BIlSsFh8
肥後へ下候而、新国ニ候間、下々事之外成敗無之候者成間敷候条、不届者ハかたはしよりなて切りニ可仕之由、御年寄衆へも申合候へ共、一人も科人無之候故、至今日、下々迄一人も成敗人無之候、か様之不思議成儀ハ、無之と存事候
 (寛永十年二月十八日 細川忠利書状)

 肥後入国直後の細川忠利の書状から。歯向かう者は、なで斬りにする覚悟だったけど、誰も切らなくて済んで良かったねという話。国持ち大名の改易の時には、誰しもが緊張するものなのだろうか。



886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 23:31:00.75 ID:ShWcSbQT
籠城して一戦交えようとする血気盛んな老兵もいるからね

中々あふなき事にて候事

2018年05月11日 08:03

739 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/10(木) 23:39:15.98 ID:BIlSsFh8
一、熊本地震之事、少ツヽ切々淘候へ共、此程者遠のき候、あふなく候て、庭のなき本丸
にハ被居不申候、本丸ニハ二条敷と有之庭ハ無之、四方高石垣、其上矢倉、天守、中々あ
ふなき事にて候事
一、罷下、得 御意、地震屋を仕候庭を取不申候へハ、本丸ニハ被居不申候、此由を柳生
殿へ物語可申候事
  以上
 五月十一日      狩野是斎

 上は、熊大図書館で昨年行われた講演会「細川忠利の領国支配と熊本城」で紹介された
史料。細川家は、なぜ本丸御殿を使わず、花畑屋敷を新設したのかという長年の謎が解決。
建物が建て込んでいる本丸は、地震のときに避難場所がなくて危険というのが理由と。山
を登るのがきついみたいな軟弱な理由ではなかったわけだ。
 加藤家時代の寛永2年(1625)に地震で火薬庫が爆発するなどの大損害を被って、その
後、寛永9年に改易。その翌年には、群発地震にみまわれると、この時期、熊本は頻繁に
地震に襲われたらしい。それで、本丸御殿に居住するのを諦めた模様。
 熊本城本丸御殿の安全性が悪かった話。



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 03:14:55.88 ID:R+xT4pm8
建物もそうだろうし、見るからに崩れやすい石垣だから、
今回の熊本地震以前にも何回も崩れているんだろうなぁ

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 10:29:15.22 ID:j2KvLsgt
歴史的に見て、1625年の地震、明治の熊本地震、そして、今回の熊本地震と、都合三度ほど、大損害を受けているという。それより小規模なのは、よく分からない。1625年の煙硝倉爆発は、考古学的な痕跡も残ってそうだけど、発掘調査で出てこないかね。

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 13:11:49.28 ID:ScGW0x/W
熊本城は建物詰め込み過ぎで昔から有名だったしな

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/11(金) 13:38:40.04 ID:848BrPl1
その何回かの大地震でも耐えてる石垣があるのは当時の技術でも最先端だったんだろうなあ。

「肥後のからしれんこん」

2017年05月22日 18:00

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:04:20.94 ID:X+MXQU0X
「肥後のからしれんこん」

肥後国熊本、細川藩初代藩主、細川忠利公は名君で武術の腕も確かだったが、生まれつき食が細く病弱であった。
細川幽斎公・三斎公のように個性的な存在ではなく、どちらかというと律儀で真面目な人柄だった。
少食であることを心配した水前寺の玄沢和尚は、滋養のある食べ物がないかと考えていた。
そこで、加藤清正公が非常食にとお城の外堀で栽培していた蓮根に目をつけた。
賄い方の平五郎というものに煮物にさせ、忠利公に差し出した。
忠利「蓮根か・・・泥の中にあったと考えると、どうも食う気が起きんのう」
玄沢「仏教には、泥中の花という言葉がございます。例え根は泥中でも、そこから美しい花が咲くのでございます!」
忠利「ほう」
玄沢「殿にもここから一花咲いて頂きたいのでございます!!」
忠利「でも無理。こんなの食えん」

続く

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:04:44.44 ID:X+MXQU0X
蓮根の煮物を食べてもらえなかった玄沢和尚は、平五郎と相談し、今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。
そこで平五郎は毎日飽きずに食べられる、見た目の美しい蓮根料理を考えることになった。
(蓮根の穴に何か詰めたらどうだろう?見た目が美しく、食欲増進効果があるもの・・・)
(そうだ!辛子を使ってみよう。辛子には食欲を増す効果があると言うからな)
辛子を麦味噌と合わせて蓮根の穴に詰め、麦粉・そら豆粉・卵の衣をつけ、菜種油で揚げてみた。
これを忠利公にお出しすると、
忠利「美しい見た目じゃな。どれ、味は・・・」
忠利「ツーンと来て辛いけど・・・うまーい!!!」
忠利「これは誰が作ったのか?」
玄沢「賄い方の平五郎というものでございます」
忠利「すぐにその者を呼べ!」

ごめんもうちょっと続く

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:06:48.90 ID:X+MXQU0X
忠利「その方が平五郎か。この料理を考えたのはそちじゃな?」
平五郎「へい。その通りにございます」
忠利「ツンと来る辛さで食欲がわき、非常に美味じゃ。しかもこの断面を見よ」
玄沢「は?断面が何か・・・?」
忠利「わが細川家の家紋、九曜紋にそっくりじゃ。これは縁起が良い。これ平五郎よ」
平五郎「はっ」
忠利「わが細川藩門外不出の料理として、これからもこの辛子蓮根を大事に作り続けてくれ」
平五郎「ありがたき幸せにございます」
その後、忠利公は毎日辛子蓮根を食べて元気になり、辛子蓮根は藩の重要な料理として、明治維新まで庶民は食べられなかったという。
出典はテレ東日曜朝9時~放送のふるさとめぐり日本の昔ばなし「肥後のからしれんこん」より。
今朝、子供とテレビで見て、
「たしかに幽斎や三斎は個性的だなw」
「あの2人と比べたら誰でも地味だろw」
「坊主が上手いこと言ってるんだから、我慢して食えよw」
「いやいや庶民にも食わせてやれよw」
的になかなか楽しい話だったので思わず書いてみた。
庶民は食えなかったが、忠利公の体が良くなったので、いい話スレの方に。



933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:49:21.15 ID:z5SDL7DR
子供とそんな話できるのかw

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:20:47.97 ID:X+MXQU0X
「この人のじーちゃんは握撃の使い手」
「とーちゃんは手討ちが趣味のヤンデレ」
等は解説したよ。
小学校低学年の娘相手なので、ヤンデレの詳しい解説は控えたけど。

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:22:53.77 ID:7UjI6uS0
>>934
いやそもそもヤンデレって言葉を使うなよw

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:48:18.87 ID:X+MXQU0X
街中で手を繋いだカップル見かけたら、「爆発しろ」と呟く程度の基本教練は済んでるので、ヤンデレくらい教えてもいいんだけどね。

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 22:56:58.22 ID:k0AZsbIn
>今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
>これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。


一度食べたからって同じもの3日も出すなよ・・・

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 23:25:37.77 ID:XWHSy3hI
ケンミンショーで紹介されてた熊本名物のちくわサラダ。
ちくわにポテトサラダを詰めて天ぷらにしてあるんだが、熊本人はアレか?
穴の空いた食材を見ると、何かを詰め込みたくなる習性があるのか?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 00:00:12.88 ID:rKmpoToj
ポテサラの天婦羅ってのもかなり珍しいな

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 00:58:08.32 ID:7W5Pp/hk
肥後ずいきも突っ込むためのものだしな

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:08:37.87 ID:EyVcBlKt
>>939
だがちょっと待ってほしい、それはほぼコロッケの中身ではないだろうか

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:26:11.00 ID:rKmpoToj
>>944
ほう君のところのコロッケはマヨネーズで会えたり胡瓜やら玉葱やら入ってるのか
とても変わってるね興味深い

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:35:09.11 ID:EyVcBlKt
>>945
いやいや、ポテサラを素であげてみてw
かなりコロッケの中身だからw

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 08:20:58.93 ID:mQhKxntK
穴に詰めたくなるのは男の性

948 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/22(月) 08:55:39.28 ID:Um6DWmHX
石子詰めですねわかります

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 19:21:25.43 ID:v1NKW731
秋田県にはポテトサラダの寒天があるそうだが率直に言うといたく不味そうである…

細川さんちが小倉で国産ワインの製造を命じた文書が見つかったというお話

2016年11月03日 15:13

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 22:14:22.27 ID:MIvruat+
http://news.biglobe.ne.jp/domestic/1102/mai_161102_4352371837.html

細川さんちが小倉で国産ワインの製造を命じた文書が見つかったというお話
他にも、「いかにも甘き」ワインを輸入するよう命じた忠利直筆の手紙も見つかったそうです



286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 22:54:54.53 ID:oFK8FDpW
>>285
甘いワインってことはシェリーやマデイラみたいな酒精強化ワインだったのかなあ
野ブドウを醸してワインにしても、あんまり甘くはならないだろうし
忠利が理想のワインに巡り合えたのかが気になる

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 23:06:56.57 ID:wccSttQ4
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 甘き葡萄を栽培しよう!
    (つ徳本丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 23:07:11.99 ID:RxU77vvr
ドイツの白ワイン(シュペートレーゼとアウスレーゼ)や貴腐ワインなら、文句なしの甘さ

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 00:05:13.00 ID:9LycuP5d
そういえば江戸期の茶会では、ワインが「甘味」として出されたとか。

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 00:43:33.79 ID:M2mN9eiG
葡萄酒作りの記録は以前から確認されてたけどもうちょっと詳細に古文書で確定って所なんだろうか

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 03:07:50.26 ID:Ft/TeWNl
>>286
甲州ブドウは空海が日本に伝えたんだぞ(逸話的には)

細川忠利「うつけ者!」+「おまけ」

2016年10月05日 11:54

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:15.20 ID:EUk1JjrN
細川忠利「うつけ者!」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3506.html
↑この話で森忠政の跡継ぎになった長継と細川忠利のその後の話

将軍家光公の御上洛の折、森美作守(森忠政)様が京都で亡くなられたのを、
忠利公は代々心安く(森家に)出入りされていたので既に存じられていた。

何某とか名は覚えていないが「最早お亡くなりになられました」と(忠利に)申し上げると
「うつけ者!」とお叱りになられ(忠政が)ご存命のときの如く(森家へ)直に行き
「内々お願いしていた通り、内記(長継)殿ご養子のお願いは妥当だと思われているので
正式に認められるまでの間、少しも気になさらない様に」
と高々と引き受けられ、お帰りの時にご家来共歴々に
「最期のお願いは聞き届けられました、いずれも安心して下さい」とおっしゃられたので
先程叱られていた人も感涙し、その他の歴々ご家来共もまた涙を流しありがたがった。

このような様子だったので、内記様は美作十八万石と津山城を無事拝領された。
内記様という御名も(長継の)御所望にて(忠利の初任官時の官職、内記にちなんで)
おつけになられたと承っている。

――『旦夕覚書』

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:20:56.20 ID:EUk1JjrN
おまけ

寛永十四年十月十二日 森長継細川忠利書状

「一筆申し入れます。貴方から鹿毛の馬を頂いたとき『よそへやるようなことがあれば
貴方に絶対お返しします』と約束しました。この馬を肥後守(光尚、忠利嫡男)が見る度に
『乗りたい!』と言って借りるので、常時貸すことになってしまいました。
もっとも貸すことはないと言っていましたが、貸したと言っても我らの所にいるのは変わらず
(光尚は他人ではないので)この馬を借りたときのまま約束は破っていません。このことを
お聞きになられて、肥後守に勝手にやったのかと思われたら迷惑なので書きます。恐惶謹言」

――『細川家史料』




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/04(火) 23:45:37.14 ID:yrg8J4ID
>>221-222
…まあ三斎様の息子らしい、としか言えんw

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 00:29:50.65 ID:gOIwRA7i
できすぎ君忠利

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 01:14:22.18 ID:OZ+2mprs
忠利は優等生なイメージもあるけどやる事はやる

細川忠利と『南蛮起請』

2010年09月09日 00:01

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 23:33:06 ID:sYHBuVTN
細川忠興の三男で、忠興の後を継いだ細川忠利。
このスレの人たちには、伊達政宗の江戸での行状などを赤裸々に記録した『細川忠興・忠利往復書簡』などで
その名を知られているだろう。

ところでこの忠利、キリシタンである細川ガラシアを母としているにもかかわらず、いや、むしろ
母としているためと言うべきか、大のキリシタン嫌いであった。

彼は自分の領内のみらなず、幕府にも積極的に対キリシタン対策の必要を訴えていた。
そして寛永12年(1653)、忠利は幕府老中に

「日本国きりしたん改一同につかまつるべし(日本国中のキリシタンの改宗を、一斉に行ないましょう)」

との提言をした。この忠利の提言により『南蛮起請』という、非常にえぐい政策が生まれる。

さて、南蛮起請とは何か。
これはキリシタンからの改宗を宣言し、二度とキリシタンに立ち返ることはないと約束する起請文である。

が、この南蛮起請のえぐさは、ここから先である。この起請文を破ると罰がある。
その罰がどんなものか、原文から見てみよう


『上には天公・デウス・サンタマリアをはじめたてまつり、諸々のアンジョ(エンジェル・天使)の御罰を蒙り、
死にてはインフェルノ(地獄)と言う獄所において諸天狗の手に渡り、永々五衰三熱の苦しみを請け、
重ねてまた現世にては、おっつけラザル(らい病者)になり、人に白らい黒らいと呼ばれるべきもの也。
よって恐ろしきシュラメント(誓詞)、件の如し。』

そう、キリシタンに立ち返れば、キリシタンの神の罰を受ける、と言う内容を、キリシタンの言葉で記した
恐るべき誓約書であったのだ。
これは当時「きりしたんのいやがり候文言の書き物」と表現された。


細川忠利の提言によって生まれた「南蛮起請」についてのお話。




844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 11:04:32 ID:c+/CnA4y
忠利は、ガラシャの子供じゃなくて、
ガラシャが細川家に嫁いできたときに一緒にきた、
小侍従を三歳が孕ませて、ガラシャと自分の子だとした、
という話を熊本の本妙寺の一族から聞いたんだが、
アレどうなんだろうなあ。
小侍従の方は家臣に下げ渡されたんだが。


851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 13:20:19 ID:ZWK6xvSz
>>844
山田風太郎の小説でも、ガラシャの子じゃないってなってたな。
忠興が謀反人の子供に細川家の家督を継がす事はできないからって。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 22:29:43 ID:WMwx+cv6
>>844
ときたま聞く話だけど、どうなんだろうなあ。
有名な「霜女覚書」によると、当時ガラシャのそばで仕えていた忠利の乳母に、
内記様(忠利)への形見をを託した、という話が出てくるし、まあおそらく忠興の男子の
上三人はガラシャの子とみるのが自然だろうな。
小侍従というと、ガラシャの代わりに秀吉のところへ行ったという話が出てくる侍女だよね確か。

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 23:11:55 ID:GCvOMTff
どうでもいいけど「ガラシャ」と「乳」が同じ行に出てくると「ブラジャ」みたいに見えてくるな…

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 23:11:55 ID:GCvOMTff
どうでもいいけど「ガラシャ」と「乳」が同じ行に出てくると「ブラジャ」みたいに見えてくるな…

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/09(木) 02:27:03 ID:LGA3Mvz0
>>865

三斎さんが「三十六歌仙」を「百人一首」にすべく
アップをはじめました

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/09(木) 03:02:06 ID:rEIW7TRq
まとめブログなんで>>865まで含んだw