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人の命を助ける事は無類の儀である

2019年12月10日 11:59

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/09(月) 14:00:37.81 ID:Z8vJYSBu
文禄の役の折

その頃毛利秀元公は広島に在り、輝元公は高麗に居られたが、秀元公に輝元公より木下半介(吉隆)殿の
ご依頼ということで、彼に同行し名護屋へと向かった。赤間関に到着したその日、豊臣秀吉公が小倉に
到着されていた。これは秀吉公の母である大政所様がお患いであるとの事で、俄に上洛をなされその日
ここに至ったのである。この事を知り、翌日にはまた京へ向かわれるとの事で、秀元公は
「赤間関より早舟を立てて、明日小倉に参るべきではないでしょうか。」と半介殿に内々に伺った所、
「明日早々に小倉に到着するようにしましょう。」とのご返事であり、夜中に赤間関を出船して
翌日早朝に小倉に参上した。

到着すると半介殿は秀元公に「早々にこちらに参った事で秀吉公の出発前に間に合ったのは一段と良かった。
現在は朝食の途中とのことですが、先に御報告しておきましょう。」と秀吉公にお知らせした所、
二人が早々に参上したことを執着に思召になり、食事の途中では有ったが「対面する」と仰せになり、
秀元公は半介殿と同道して御前に出、盃を遣わされた。そしてすぐに広島に向かうとの事で、即座に
出船して秀吉公の上洛の供をした。

秀吉公の御座船には多くの櫓がついており、早くも広島まで半分ほど進んだが、この時船が止まり、
御座船より扇子にて後の船を呼ぶ様子が見えた。秀元の船に同乗していた福原大炊がこれに気が付き、
「何か有ったのか」と各々不審に思い、船頭に「あの辺りに岩礁などは無いか?」と尋ねた所、
「岩礁があります。きっとそれに掛かったのではないでしょうか。」と申したため、秀元公は
「そういう事であればこの船にて急ぎ御座船を岩礁から押し出そう。」と、水夫一人と小姓衆
一人だけを付けて御座船を押しに向かった。この時お供の船は数多あったが、真っ先に御座船を
押しに行ったのは秀元公の船であった。

この時、秀吉公は裸で、船より木下半介殿が抱きおろし、船が座礁した岩礁の上に先に降りていた
三十歳ばかり二人がこれを請けた。この時、船がこの岩に漕ぎ着き「これは大夫船です。お召しに
なられますか」と申し上げると、秀吉公はそれに乗船され、船の屋内にお入りになると、十八、九歳
ばかりの小姓に練の羽織を後ろより持ってこさせそれを召された。

この時、秀吉公に「船を赤間関に返しましょうか、それともここから直に上洛に向かいましょうか。」と
申し上げた所、「先ずこの磯に着けろ。」との御意にて、船を海岸に寄せそのまま上陸された。
御供の船も尽く磯に付け皆上陸し、秀吉公の居られる場所に集まった。そのような中、秀吉公は
このように仰せになった

「今日の右京太夫秀元の忠義は実に浅からぬものだ。戦場において苦戦している時に横槍を入れて
勝利を得させる、という事は間々有るが、今日のように人の命を助ける事は無類の儀である。
私は常日頃から、あの子は一廉の者であり、輝元の養子として相応しいと思っていた。
今回広島においてまたそう思ったが、これとても自身の忠義とは思わぬよう分別している。
これは、輝元が大名として日本一恵まれた人物であり、常々無為でいても、それが自然に顯れて
最初に船を漕ぎ着けるような行動ができるのだろう。

私も親への孝行の道のため上洛を急いでいた。故に天道私無く、難を逃れさせたのであろう。
右京太夫も輝元への孝行が肝要であるぞ」と仰せになった。

この時、金吾(小早川秀秋)を輝元の養子にという取沙汰があると聞かれたが
「これは如何様にも有るべき事ではない。この太閤もたいへんな辛労によって得た天下を
他人に渡したくは無い。遠い親類では有るが、三好治兵衛(豊臣秀次)遣わし、関白の位に成し、
四万の人数を添て聚楽に置かせている。これに比べても輝元は親類歴々であり、何れであっても
小早川隆景と相談した上で後継を定めるのが尤もであろう。であるのに、金吾を養子になどと
いうのは一体誰が言い出したのか。曲事でありかたく糾明する。」と仰せに成られた。

御当家(毛利家)を御大切に思召し、御入魂一廉ならぬ思いは大方ならないものであった。

(老翁物語)

秀吉の御座船座礁事件の時のお話。なにげに小早川秀秋を養子にするという話が言及されてる。



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秀元は常人ではない。

2016年12月07日 17:28

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 03:49:39.97 ID:wYJHt4dP
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話

続き
この清水の作の脇差を帯び、




朝鮮元旦の踊り

2013年04月21日 19:01

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 09:54:55.01 ID:0BxUDqg8
朝鮮の役の時のことである

正月元日の未明、朝鮮に在陣していた毛利宰相秀元の本陣に、太鼓や鐘をかき鳴らして何者かが近づいてきたのが聞こえてきた。
その日は元旦であったので、秀元の本陣では、上下とも静まり返って朝拝の儀式を執り行っていた。
そんな時にこのような事があり、敵が攻め寄せてきたのではと申す者も有り、秀元は物見の者に、急ぎ見てくるよう命じた。

物見は馬を飛ばしそれに近づいて見ると、獅子頭、赤頭など、いろいろな面をかぶり、異形なる衣類の美麗な出で立ちをして、
旗印、笠鉾などを指した2,3千の人々が、太鼓や鐘、笙や篳篥(ひちりき)などの楽器をかき鳴らし進んでいた。

物見が、これは一体何者なのかと聞くと、通訳は
「あれは年頭の御礼に、大将軍(秀元)に踊りの興行をかけ奉る者達です。」
と言う。

急ぎ帰ってこのことを報告すると、秀元は
「日本では盂蘭盆に踊りがあるが、正月元旦に踊るとは、風俗も違っているのだな。」
と仰り、それから支度のため待たせ、大手の門を開いて彼らを尽く入れて踊らせた。

この踊りの者達は、様々な曲を仕り楽を奏し、四ツ時分(午後10時頃)まで踊った。
秀元はこれに褒美として、鳥目五十貫を取らせた。

その後彼らは加藤主計(清正)殿の所に向かい、その他諸侯を3ヶ日の間、次々と踊りまわったという。
(義殘後覺)




87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 11:26:52.99 ID:hH6Pfpc7
どんな罠かと思いながら読んでたがここはいい話スレだった

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 18:46:07.77 ID:q0Uxl8Mt
>>85
経久「正月に踊るのは実にいいぞ」

江戸城ランチタイム

2011年11月26日 22:00

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 02:25:33.43 ID:DPw1/h2X
一部既出ながら詳しい系行ってみます。

江戸城ランチタイム

昔、徳川家光公のお伽衆といって、毎晩登城して物語を申し上げ、夜話をされる10人ほどの人々があった。
毛利秀元候、丹羽長重候、蜂須賀至鎮侯、林道春といった人々であった。

この人々が登城の時は、皆、屋敷から弁当を持参してきて、蔀の間に集まって、みんなで弁当を食べた。
珍しいおかずなどがあるときは、互いに交換し合って賞味したそうである。

毛利秀元候の弁当のおかずに干し鮭があったときは、皆が「これは結構なおかずですね!珍しい!」と
殊の外に秀元から分けてもらい賞味したそうだ。
阿部重次は握り飯を包ませ、これを懐に入れて持参していた。そして昼食時にはこれを召し上がられ、
その包みの紙にくっついた飯粒も丁寧に拾って食べ、さらにその紙の端を伸ばして洟をかんだ事もあったのを、
それを見たものがいたと言うことである。

原文
(昔、大猷公御噺の衆とて、毎夜登城して居物語申し上げ、御夜話申し上げられし衆中十人あり。
毛利甲斐秀元侯、丹羽五郎左衛門長重侯、蜂須賀蓬菴至鎮侯、林道春の類也。
この衆中登城の時、皆々、屋敷より弁当参りけるに、蔀の間に寄り合いて、是を披き食い給う。
珍しき菜などある時は、互いに取り交わして賞味し玉いけるとなり。
毛利甲斐侯の弁当の菜に干し鮭のありければ、皆是は結構なる菜なり、珍しとて殊の外に賞味し玉いけるとなり。
阿部対馬守は握り飯に包みて袂へ入れ御持参ありて、御中食の時は是を召し上げられ、その包みたる
紙に付きたる飯粒を拾いて食い、紙のはしを伸ばして涕をかみ玉いし事などありしを見たるものもありとなん。)

『雨窓閑話』


関連
空弁当
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3167.html
毛利秀就の鮭の切り身・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html


749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 02:46:59.03 ID:u1xqeTqB
権現様の教え

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 04:22:57.65 ID:Fijq0F/H
どこの学食の風景だw

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:00:59.91 ID:vS0mFjkw
昼休みの女子高生みたいだなw

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:03:17.03 ID:+Z4sEyBz
>>751
恋バナで盛り上がるんだな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:30:34.13 ID:qiM0mC9+
一応
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3167.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:31:52.70 ID:qiM0mC9+
↑のはまとめスレの関連リンク用に

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 09:38:34.16 ID:tisvb3hY
>>751
えどじょう!

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 12:31:14.00 ID:BBCfUJaS
*全室禁煙です

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 12:32:58.20 ID:Wu6NonT7
鶏の唐揚げとかないのかな てんぷらとか

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 14:15:22.74 ID:sjFzGqQ6
>>748
登場人物が三頭身くらいのデフォルメさられたキャラで再生されるww

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 14:35:49.11 ID:Ek/fQSvQ
外国の歴史系小説とか読んでても、こんなふうに自分の食べ物を
みんなで交換しあって食べる描写って見たことがないんだよな
獲物をわけて食べてた狩猟民族のほうがやりそうに思えるのに

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 19:23:24.80 ID:RbJaqasY
殺伐とした時代だからこそ、こういう話は和むなー
秀元は分け与えてばかりだが、代わりにおかず分けてもらえんだろうか

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 20:31:45.00 ID:OWZV6+Rz
関ヶ原の時も鮭弁食ってたんすか?w
って聞いたら斬られるかな?絶縁かな

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 20:42:39.61 ID:UEkovXwU
毛利のボンが違う意味で切れそうだなw

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 21:08:40.58 ID:pxPB91XN
>>763
輝じゃなくて広家だろ?

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 22:00:33.83 ID:GEqmI+s8
>>761
育ちがいいからみんなに分けてあげたら自分の分がなくなって泣き出しちゃうタイプだな

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 09:42:18.33 ID:UoFoRsew
この時代の最高級料理は鮭だったのか・・・
ハンバーグとかカレーライスとかウインナーとか食べれないなんて嫌だな

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 10:16:07.70 ID:1opcnV6K
>>760
西洋で弁当っていわれてもサンドイッチくらいしか思いつかん俺

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 10:34:56.89 ID:rcvoOtpH
日本の歴史小説でも弁当の分け合いっこは見たことが無いがw

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 11:03:11.07 ID:PCz8tsV7
>>767
カレーは確かに不可能っぽいし
ウィンナーも環境を選びそうだが
ハンバーグは、技術的にも素材的にも不可能じゃないだろ。

食に一手間かける豊かさが無いのに問題はあるが

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 11:17:42.91 ID:Vttalziv
牛さんは食料という前に貴重な労働力かつトラクター兼乗用車だったんだろうか

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 12:28:28.27 ID:70A4zj5d
>>770
ターメリックとクミンはあるからコリアンダーの代用品に白根草を使えば一応形にはなるお

漢方薬のスープだからかなり高くつくけど…

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 12:42:01.59 ID:PCz8tsV7
>>771
牛さんが死んでから頂戴しても良いんじゃね?
いわゆる逸話だが、
牛肉食わせて貰うのに宗教をバカにした非礼を一心に詫びるってのがあったから、牛を食うのは
それ程異常じゃないと思われる。
だって、馬を食う奴だっていたんだろ?
そっちが余程基地外沙汰。
軍用としても民生用としても、非常に高性能な馬なのに。


カレーの香辛料って全部、金と等重量で交換するような希少品じゃなかったか?

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 13:33:15.40 ID:uVe1tSVS
馬は消耗品だよ、骨折した馬殺すにしてもただ埋めるだけじゃもったいないじゃない。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 14:20:24.80 ID:KUrIr5TG
>>772
大友宗麟がキリスト教じゃなくてイスラム教を保護してたら可能だったかもね
黄飯つくるくらいだからカレーの再現に挑戦するかもしれん

九州にイスラム教が浸透したら、インド→インドネシア→日本のムスリムネットワークが…できねーか

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 15:00:07.41 ID:PCz8tsV7
>>774
サラブレッドじゃあるまいし、そうそう骨折しないよw

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/27(日) 17:48:33.90 ID:4mvA5Lxz
>>760
東洋文化では割と普遍的な価値観かも

食べ物がどこからか送られて来た時には、
家臣たちに対して分配するようにしなければならぬ。
『三略』に、「古に良い将がいて兵士と苦楽をともにし、
陣中に酒や食べ物が送られて来た際には、
これらの品々を川に流し入れて、
将も兵士ともにその流れを飲んで楽しみをわかち合った」
という話が伝えられている。

武田信繁

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 21:08:48.14 ID:bkxepGwb
>>778
川に流すってどういう状態なんだろうな
つかみどり大会みたいなのを開いたってことかな?ポロリもあるよ!

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 22:33:19.65 ID:zFN6ZvLi
ボケたつもりか?>>785よ
旨い酒を皆で回し飲んだ「つもり」、旨い食い物を分け合って食べた「つもり」
上下心を一にしてって奴よと釣られたクマー

毛利秀元への約束、反故になる

2011年09月09日 22:23

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:10:13.98 ID:lK534Zs3
毛利秀元は元就庶子・穂井田元清の子として生まれ、輝元の養子となっていたが、
輝元に実子が生まれると家督相続を固辞した。
自ら身を引いたというと何やらカッコイイけれども、
実はこれ、養子入り当初からの織り込み済みのコトだった。
「輝元様に実子が生まれたら相続権を放棄します」って内容の起請文を提出している。
提出させられた、と表現した方がいいかもしれない。
しかしその代わり、かなり広い領地(毛利氏領国の約四分の一)を分知してもらう約束だった。
この約束は豊臣秀吉の肝入りなのでかなり重い意味を持つ。

輝元に実子・松寿丸(後の秀就)が生まれたのは1595年、
その二年後に隆景および元清、三年後に秀吉が没した。
そろそろ後継問題もケジメをつけなきゃいけなくなった輝元は……

輝元「あのね、秀元にこんなにあげると、本家が立ち行かないんだお
   秀元にあげる約束だった山陰にはもともと吉川一門を配置してるし、
   朝鮮から戻って日も浅い今、所領替すると家中が大混乱だお」
秀元「太閤とのお約束を違えるおつもりですか!?」
輝元「死んだ太閤も、毛利家全体のためなら許してくれるお、まけてくれお」
秀元「…………」
輝元「安国寺も元康叔父上(相談役)も賛成してくれてるお!」
秀元「……仕方、ありませんね(ギリッ」
輝元「ありがとう、ありがとう(号泣)!感謝してるお!!!」

まだ年若く後ろ盾の実父もすでに亡くしていた秀元が抵抗できるはずもなく、
結果的に四万石ほどまけさせられた。
お家騒動にもならず円満に(?)事が片付いたいい話かとも思ったけど、
やっぱり泣き寝入りした秀元がかわいそうなので悪い話に。

すぐに関ヶ原で大減封くらう羽目になるしな。





795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 22:11:31.68 ID:L8cIkRY+
>>788
隆景さんが死んだ後の毛利家は哀れすぎる・・。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 22:48:50.45 ID:/oWiGQY2
>>788
そうやって養子の分け前まで取り上げてよけいな栄養与えるから
秀就はちょっと踊っただけで息切れするようなピザに…

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 22:54:19.68 ID:ytKbqLMM
>>788
秀元、最終的には泣き寝入りどころか…

毛利秀元、輝元を安心させる

2011年04月28日 00:00

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:48:29.55 ID:43WRRULe
寛永の始めの頃(1624年か)の事だそうだ。

江戸に伺候した長門長府藩主・毛利秀元の元に萩の輝元入道宗瑞(毛利輝元)より、
井原加賀、清水信濃の両名が使者として訪れた。彼らの持ってきた書状の内容に、
秀元は仰天した。

『我が家は昔領するところ、十ヶ国に及びました。ところが今入道(輝元)の身に及び
僅か二ヶ国よりの租税を以て、累代の家臣たちにあてがわねばならなくなり、上も下も
悉く貧しさに苦しみ、軍役の負担に耐えることすら出来ません。
既に公の賦役に奉仕することが出来ないのなら、国を賜ってもまるで意味のないことです。

この上はぜひとも、二ヶ国の地を将軍家にお返しし、どうにかして宰相殿(秀元)の計らいで、
我が毛利家が滅びないように頼みたいと考えている。』

あまりのことに秀元はすぐに幕府重臣、土井利勝にこれを相談。
利勝からこれを聞いた徳川秀忠はすぐに秀元を呼び、この件について相談をした。

秀忠は言う
「はてさて宗瑞殿にも困ったものじゃ。隠居した者が領地を返上すると言ったからとて、
そのようなことが出来ようか。宰相殿、そなたには何か考えはあるか?」

「はっ。この事は毛利家の意思ではなく、輝元入道一人の心配に過ぎません。
しかしこのまま放っておけば、毛利家中にいらぬ混乱を起こすことも考えられます。
…要は輝元入道を安心させれば良いのです。私に任せて頂けますか?」

秀元は秀忠の許可を得、毛利家の領地周防長門30万石余りを、その頃の最新の基準で
検地し直した。するとなんと、新しく出た数値はそれまでの倍以上、76万石であった。

この事を聞いた輝元は、それなら毛利家はやっていけると大いに安堵し、二度と
領地返上のことは言い出さなくなった。そして翌寛永2年、安らかな往生を迎えた、と言う。

毛利秀元、輝元を安心させる。と言うお話。





197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:58:45.51 ID:+NO09G5q
>>195
これって表高?
だとすると、参勤交代や賦役とかがかえって大変になりそうな気がするんだけど、どうなんだろう?

内高2倍だと、農民に恨まれそうだな。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:59:44.63 ID:5/RUJ/xm
>>195
秀元の良い話、ではあるけど、
TERUの救いの無い話でもある気が…。
ほんとダメな子だ。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:02:49.10 ID:HsCmmE8P
伊達も上杉も領地返上を考えたことがあったらしいけど、
実際に財政が立ち行かないから領地を返上します・・・しました という大名家ってあるの?

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:06:39.52 ID:mADC8Bm7
本当に元就さんのしたたかさとバイタリティはどこへいったのか……。
余談だが闘戦経ってどう見ても毛利家とは無関係の偽書だよなあ……。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:10:09.27 ID:43WRRULe
>>199
財政じゃないけど、加藤嘉明の息子の加藤明成がお家騒動(会津騒動)のあげく、例の
鎌倉東慶寺に兵を入れた事件で幕府を激怒させて、それに怯えたあまり
「病のため領地返上したい」と幕府に申し出て改易。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:13:16.55 ID:HsCmmE8P
>>201

>>195の場合は、輝元が「大名家でなくてもいいから、ともかく家だけは
存続させたい(高家とか寄合、旗本狙い)」ということかな

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:13:19.63 ID:kdLiuELR
明治に入ってだけど龍岡藩が財政破綻しちゃって廃藩したような

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 21:47:52.09 ID:3g3h1sMj
>>197
遅レスだけど、毛利は72万石を届け出たけど、敗戦国の毛利が勝者である市松のとこより多いってのも
あんまりだから、50数万石を表高にされた、って「毛利は残った」って小説には書いてあった。
本当かどうかは知らんが、少なくとも72万石の格式は認められてない。

それと、「測りなおしてみたら」なんて生やさしいものではなくて、とにかく使える土地は全部何かに使う、
隠し田の類は全部摘発、免税特権は取り消し、と手段を選ばずに頑張ってようやく達成した数字。
んで、そのプロジェクトのリーダーはあきらかにTERU。形式上隠居してるけど藩政の実質トップ。

仁義なき毛利家・古志清左衛門と有地九郎左衛門

2010年12月10日 00:00

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 23:28:21 ID:22qowhUG
慶長の役後、毛利家では朝鮮から帰国する際、手柄ある侍に対大将の毛利秀元から杯を与えることになった。
左に吉川広家、右に宍戸隆家等、重臣団が居並ぶ中、まず秀元は晋州城の戦いで奮戦した三刀屋監物に杯を与えた。

「次は当然わしじゃな!」
古志清左衛門がみずから進み出て二の杯を取ろうと左手を伸ばした時、横から有地九郎左衛門が進み出て
清左衛門の左手をつかむと、自分の膝の下に押さえつけ、杯を奪ってしまった。

すかさず清左衛門は空いた右手で脇差を抜き、九郎左衛門の脇にあてがい、秀元の方を見た。

「ヤッてもえぇですかいのぅ?」
「…い、いや、いいワケないだろ!?ひとまず落ち着け!」

あわてて秀元は立ち上がって二人をなだめると、両人一度に杯を与える事で場を丸く収めた。



以上、仁義なき毛利家の2話でした。なんだろう、メンツに関わると感じたら、ブチ切れて祐筆ボコろうが
大将の前で抜刀して刃傷沙汰起こそうが、構わない不文律でもあったんだろうか。





953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 00:13:18 ID:jw4ZFurA
ただ単に血の気が多いだけじゃね?

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 12:41:16 ID:Oz0iw69H
同じ地域の昭和時代の映画とかw

その御代の始めに吉兆をもたらしたとされた少年

2010年02月07日 00:12

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 12:07:44 ID:OgLwmG8T
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1664.htmlといったゴタゴタの末、天正14年(1586)初冬、
毛利宮松(のちの秀元)は秀吉への人質として大坂へ行くことになった。

大坂城では秀吉が毛利の御曹子を歓迎し、宮松に手づから則重の脇差を与えた。
七歳の少年は自分の脇差を外し、拝領したばかりのピカピカの脇差を腰に差し、胸を反らした。
「まだ小さいのに拝領品の扱いを知るとは、日本の子供ではない、唐の人物のようじゃ。
ゆくゆく一かどの者になろうぞ。」見ていた秀吉は感心した。

宮松が気に入った秀吉はある日、毛利家の一行を京に誘った。
「今日は珍しい行事があるゆえ、見物するが良かろう。」
供の者まで歓待されて、あちこちを見て回った宮松は、御所にいた秀吉のもとに一旦戻った。
「すまんな、わしはこれから大事な用がある。お前も今朝から方々見物して疲れたろう。
御所の局に相手してもらえ。」
秀吉は、菊亭晴季を呼び、宮松を長橋の局へ案内するよう預けた。

キャッキャッ゚+。:.゚ヽ( ´∀`)ノ゚.:。+゚
晴季に手を引かれた、御所には珍しい元気の良い七歳児の姿は、やんごとなき御方の目にも止まった。
「…右大臣、その子は?」
「はっ、毛利一門、穂井田元清が一子、宮松にございます。関白の客人なれば、ご無礼ありとても
平にご容赦を……」
「ならば、その子は毛利元就の孫でしょう。元就朝臣と言えば、ひいお爺様の後奈良院へ多大な寄進を為し、
即位礼に大いに貢献した者。その孫が、わが代始めに参りたる事、何たる吉兆。こちらに連れて来なさい。」
「ははーッ!仰せのままに、天子様!」

天正14年11月7日、後陽成天皇、皇位に就く。

その御代の始めに吉兆をもたらしたとされた少年は、七歳にして天子に拝顔し、宿に戻っても
「京中見物の際は、心静かに何時までも逗留あるべし」とのお言葉を賜わった。
宮松同行で天皇に面目を施した秀吉は、ますます少年を気に入り、後年宮松こと秀元が秀秋をさし置いて
輝元の養子になる際も大した軋轢は起こらず、深まった皇室と毛利家の関係は、280年後に大きな意味を持つ。


>>603の有馬さんに感心したので、こんな天下御免のラッキーボーイ(?)の話を。



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 12:21:25 ID:eMVvy2WW
>>659
ところでその元記事の輝元の北の方の話だけど、
そもそも宍戸元秀って五龍の息子だから、一応毛利の血は引いてるよね

空弁当

2009年11月18日 00:17

239 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/17(火) 00:11:28 ID:kbS+ojCX
空弁当

毛利秀元が関ヶ原にてせっせと弁当作り励んでいた事は有名だが、
後に江戸城に出仕した際も彼は弁当を持参した。

 鮭 弁 当 である

「おや!秀元殿!?それは鮭ではごさらんか!?」
「流石秀元殿!弁当に鮭とは絢爛豪華ですなぁ!」

やんややんやと人があつまりあっと言う間に鮭は無くなった。

やはり空弁当である。
関連
毛利秀就の鮭の切り身・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html
江戸城ランチタイム
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6013.html


240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 00:51:14 ID:4adDEnYk
食われて空になったのかw

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 05:13:09 ID:LdgDjzaO
>>240
気に入らない家臣に空の弁当箱を送りつけようぜ!

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 09:41:57 ID:skY9OJc6
>>239
ほのぼのしていてワロタ。本人にはちょっと悪い話だが、周り的にはちょっといい話だよなw

「毛利秀元記」より、関ヶ原決戦前の、西軍評定の様子

2009年08月29日 00:37

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/28(金) 15:30:53 ID:XwWjT4eV
関ヶ原、家康の赤坂到着前のこと

美濃、岡山にまで進出して来た東軍に対し、西軍では石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、島津、
長束、平塚、脇坂と言った面々が集まり、評定を開く。
この時毛利家からも、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、天野元政といった者達がこの会議に
参加した。

評定は三度も開かれたが、これぞと言う方針も決まらず、淡々と、ただ時間だけが流れた。

これに業を煮やした毛利秀元が発言する
「ここで合戦をすべきである!そうせずに、今集結している大勢の軍兵が、うかうかと
敵を目の前にして守っているだけだとは、無念この上ないではないか!

今、岡山にいる軍勢のうち、殆どは上方勢である。人数で圧倒している以上、
味方の勝ちは必定と考える。然れば我らが先手を仕る。敵をことごとく、虜として
くれよう!」

大谷吉継はこれを聞くと
「ここに、この評定の結論は出たと言うべきであろう。我等も合戦してしかるべきと存ずる。
是非、合戦との決議をしていただきたい!」
と、賛同を示した。

ところが石田三成は、
「刑部少輔は目が薄いためそのように言うが、敵はとるに足らぬ数ではないか。
あのような連中には、合戦をせずに勝つべき物なのに、いらぬ所に手間をかけるのは、
無体な事である!」

そう言って、主戦論に反対した。
大谷吉継は、自分が目の悪い人間故に、三成が「目が薄い」と言った事に
もっての他と立腹し

「私は盲ゆえ、談合の役にも立たぬようだ!兎にも角にも、三日のうちに合戦を行わなければ
この弓矢は負けとなるぞ!」

と、言い捨て、そのまま駕篭に乗って帰っていった。


それから程ない九月十三日、赤坂に家康の旗印が立つ。

「毛利秀元記」に見える、関ヶ原決戦前の、西軍評定の様子。





743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/28(金) 15:43:13 ID:2/fcyjkB
>>742
三成は三成なりに必死だったんだろうけど、こんな風にいわれても
西軍として戦った大谷さんが切ない。
三成は悪人とかではなかったかもしれないけど、こういう面が
周りから信頼を失わせる結果に繋がったのかな。

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/28(金) 16:11:20 ID:bSAyQ1ct
>>742
三成はきっと自分なりの価値観や正義が自身の中で確立されてるんだろうね。
良く言えば歪みない、悪く言えば独善的。
他人の意見に耳を貸したような逸話が存在しないのもそういったことかも。
だから、吉継の飲んだ茶の器に平然と口を着けたのも、吉継の病は他人には
うつらないものという自分なりの確信を持ってた、ただそれだけなのかも
知れないと思ってしまう。

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/28(金) 16:19:44 ID:GI3HrkQt
つか全部三成に責任押し付けて秀元マンセー記事にしただけでないの

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/28(金) 16:33:57 ID:XwWjT4eV
>>745
毛利秀元記が秀元マンセーなのはその通りだが、この評定の模様に関しては
出席した天野元政の証言があるっぽい。(それも勿論毛利側からの見方な事は間違いないが)


747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/28(金) 16:43:51 ID:8Rvfhs2q
>>744
茶会の話は有名なわりに出典すら不明の信憑性ゼロの逸話だから
引き合いに出されても検証材料にならんよ。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/28(金) 18:05:22 ID:anQnHhX4
だから逸話の真贋だのを検証するスレじゃないと何度言ったら…


秀吉の船の座礁と毛利秀元・いい話

2009年05月15日 00:07

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/14(木) 00:52:56 ID:nVeAzhQX
文禄元年、毛利秀元は朝鮮に渡海するために航行していた。
航行中に船長が座礁している船を発見した。その船を見た秀元は
我が眼を疑った。

「な、なぜ太閤殿下の船がこんな所に!?」なんとそれは豊臣秀吉の船
だった。よく見ると、裸のまま手に刀をぶら下げた秀吉が岩に乗っていた。

「太閤殿下、毛利秀元です!」秀元は名を名乗って秀吉を自分の船に
招いた。そして船頭は厳しい追求のうえで誅殺した。

秀吉は危篤の母・大政所に会うために急いでいた道中で遭難したのである。
結局、大政所は亡くなったが、その後に秀元が正四位下となり、豊臣姓を
授けられたのはこの時のお礼なのかもしれない。

関連
水手(かこ)切りと厚藤四郎


586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/14(木) 08:07:26 ID:pMMSnyEC
>>583
しかし秀吉が船で出るときなんて、ある程度船団組んで出港しそうなものだが、
そう言うわけでも無いのかね?

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/14(木) 09:15:56 ID:Wi6V9mSJ
急いでたってこともあるんじゃないの?

瀬戸内海賊の捨て身の一矢だったら面白いんだけどね
単なる注意不足の座礁だっけか?

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/14(木) 10:09:22 ID:+Bf5T6Hh
>>583
秀吉が関門海峡で海難事故で危うかった、というのは
このことですか?
たまたま毛利家がここを通った折りのことなんでしょうか。

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/14(木) 17:54:53 ID:It19W91Q
>>583
その話ほんまかいなw まあ母が危篤で急ぎすぎて座礁したとかありえそうだけど

毛利秀元、関ヶ原の退き口・いい話

2008年10月24日 00:10

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/22(水) 23:27:06 ID:Z5mc3gaA
毛利秀元の格好いい話


関ヶ原の退き口と言えば島津の名が真っ先に上がるが、この毛利秀元も島津ほどの大胆さや知名度はないにせよ
見事関ヶ原から退却せしめたのである。

最初は他の毛利勢と共に南宮山に陣取っていた毛利秀元だったが、
合戦が終わると予め東軍に内応していた吉川広家と福原広俊はさっさと山を降りてしまった。
取り残された秀元も山を降り退却を始めた。目指すは養父・輝元のいる大阪城である。
秀元は、あえて北国脇往還を進み、東軍の包囲する三成の居城、佐和山城付近を通った。
すかさず東軍が攻撃してくるが、秀元はこれを振り切り、ついには京の手前、瀬田までたどり着いた。

しかし、ここで秀元に報告に来るものが。
「前方、瀬田の橋にて、退却してきたと見られる将兵たちが殺到しており、混乱を起こしております。」
瀬田の橋さえ渡ればもはや大坂方の領域である。
しかし、こんなところで混乱に巻き込まれては埒が明かない。
そこで秀元は騒動が収まるまで全軍この場で野営することにした。
このとき秀元は大阪城で輝元とともに籠城し、東軍と一戦交える覚悟であったという。

しばらくし、野営地で食事をとっていた秀元であるが思わぬ急報が入る。
徳川方、福島、黒田の軍勢がこちらに向かっているという。
この先、大坂城での決戦を考えていた秀元は思案した。
ここで、闘っても無駄に兵を失うだけ。友軍のいないこちら側が圧倒的に不利だからだ。
秀元がなおも迷っていると、黒田方からの使者がやってきたらしい。
「黒田どのより使者が参りまして、殿に来陣致すようになどと要求してきております。」
これを聞き秀元の陣がどよめいた。
「体よく殿をおびき寄せ、捕らえようという魂胆か!?」
「返答次第によっては殿を切り殺すつもりであろう」
様々な憶測が飛んだが、いずれも「行ってはなりませぬ」という結論で一致していた。
しかし、秀元は「さようか、されば参ろう。」と承知してしまった。
「なりませぬぞ、殿!これは罠に決まっておりまする!」
なおも反対する家臣たちであったが、秀元は部下数名のみを連れさっさと行ってしまった。

さて秀元の運命やいかに!?以下次号

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/22(水) 23:38:59 ID:Z5mc3gaA
つづき・・・

黒田の陣には福島正則も一緒にいた。
彼らの口上はこうであった。
「秀元どの、悪いことは申さぬ。今からでも徳川方につかれよ。これは、そなたの養父、輝元どののためでもござるぞ。」
しかし、秀元は即座にこれを拒絶した。
「わしは、輝元が陣代じゃ。輝元が大坂にいるのに、陣代のわしがどうして寝返ることができようか。かくなった以上は、早急に大坂まで引き上げるのみにござる。」
こう言うと、秀元は立ち上がった。そして、「では」と言うと、突然黒田長政の手を握り、そのままひきずるようにして陣幕の外に出た。
乗ってきた馬の前まで来ると、長政の手を離して、馬にまたがり
「では御免。」
と一言言って、来るときと同様にさっさと黒田陣を離れてしまった。
驚いて呆然となってしまったのは、黒田、福島の二人であった。黒田は自分がひきずられるほどの秀元の膂力に驚いたし、
福島もその気迫に圧倒されて手を出せなかった。
黒田が半ば人質のようにされて、強制的に秀元を見送ることになったのである。
結局、秀元の投降勧誘には失敗した。

この後無事に大坂城に入場し立花宗茂と共に徹底抗戦を主張するが、それが叶えられることはなかった。
関ヶ原の戦場では空弁当など不名誉な逸話を残してしまった秀元であったが
実際は、度胸も据わった勇将だったのである。




729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/22(水) 23:41:11 ID:2+5A9/D8
>>727-728

朝鮮役の秀元は凄いよね。島津や立花に劣らない活躍。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/22(水) 23:49:22 ID:oCYg0y9A
結構な勇将だったはずなのに、ここぞという時の
出番に恵まれなかった印象を受けるな、毛利秀元

731 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2008/10/22(水) 23:51:16 ID:HST8yi+L
一個人の気概で家を遺していると言えないだろうか。

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/22(水) 23:54:19 ID:2+5A9/D8
>>730
関ヶ原の代わりと言っちゃなんだけど、大阪の陣で大暴れしてるよね。>秀元
武人として徹底抗戦は主張したけど、どうも徳川家の事は基本的には好きだったらしい。
それ以上に江戸と言う新興都市が大好きで、晩年はほとんど国元に帰らなくなっちゃってるなw

毛利秀元「安芸宰相」・いい話

2008年10月16日 13:27

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/22(月) 22:11:04 ID:hzc4SQH0
安芸宰相

秀吉が、甥、秀秋を、子のいない毛利輝元の養子に送り込むつもりだ。
この情報に毛利家は危機感を深めた。そんな事をされてはたまらない。
小早川景隆、毛利輝元はすぐさま、毛利元就の四男。穂田元清の長男であり、
英明の誉れの高い秀元を輝元の養子とし、秀秋は小早川家が引き受けた。
毛利本家は守られた。

毛利家の跡継ぎである秀元は順調に出世し、豊臣秀長の娘とも結婚、
翌年には三位、参議となり、安芸宰相と呼ばれた。

ところが文禄四年(1595)、輝元に、長子秀就が誕生した。

輝元は喜んだが、毛利家は困惑した。すでに世継ぎは秀元と決めてある。
だが当然、血のつながる秀就こそ正当な後継者だとする者たちが出てくるであろう。
このままでは、間違いなく毛利家は、後継をめぐって二つに割れる。
重臣たちが思い悩む大広間に、その時、まだ16歳の少年であった秀元が現れ、
こう言った。

「私はあくまで養子であり、筋目から言って、今日産まれたご嫡男が毛利を継ぐべきです。
わたくしは後継のお話をご返上し、毛利の庶家として、ご本家を守り立てていきたいと
思います。」

こうして、お家騒動は回避された。彼の水際立った行動は、毛利家中のみならず、
天下に賞賛されたという。




まあ、そんな秀元も後年、この後継の座を譲った秀就とほとんど絶交状態になって、
毛利からの独立騒動とか起こしたりするんですけどねw
人間関係って難しい。