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吉弘嘉兵衛尉統幸の事

2014年02月28日 18:50

592 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 20:14:49.01 ID:l7Nk7iCb
吉弘嘉兵衛尉統幸の先祖は大友の一族であり、代々先手の侍頭であった。
祖父も父も、みな吉弘嘉兵衛尉と名乗った。祖父は日向にて討ち死にし、父は後に宗甚と号し、
彼は高橋紹運の兄であり、すなわち吉弘統幸は紹運の甥である。
立花左近将監統虎(宗茂)は紹運の子であるので、立花宗茂吉弘統幸は父方のいとこである。

先年、豊臣秀吉によって大友義統が豊後を召し上げられた時、吉弘統幸も浪人したのだが、
黒田如水が彼を豊前に招き、重臣である井上九郎右衛門に預け置き、しばらく井上の領地に逗留していた。

その後立花宗茂の招きによって、筑後の柳川へ行き、浪人の間の扶持として知行二千石を与えられ、
数年居住していたのである。
この時、大友義統の嫡男である義乗は徳川家康の預りとなり、江戸の牛込という所に居住していた。

このような中、石田三成の挙兵が起こると、これを聞いた吉弘統幸は世の中の流れを考え、
「今回の事態は家康公のご理運となる事必定であろう。幸いにも義乗公は関東におられる。
これより関東に行って義乗公を盛り立て、大友の家の再興を果たそう。」と思い、立花宗茂
暇を乞うた。

宗茂は吉弘の話を聞くと、「その方の志、尤もな事である。」と暇を遣わし、その上道中の路銀として
黄金をいくらか与えた。吉弘はこれに感じ入り、申し上げた

「私は数年の間あなたに扶養して頂いたというのに、その御恩を報ぜず、只今御暇を乞い申した事は、
不義の至であり、本意にも背くことであるというのに、御暇を頂き、その上金子まで、このように多く
下されました。誠にこのお恵みは、忘れがたい事です。
これは我が先祖より伝わる刀でありますが、今度上方において、私もどのように成り果てるかわかりません。
ですのでこれを、形見としてお受取り下さい。」

そう言って忠光の太刀を差し出すと、宗茂は涙を流して

「そなたが義乗を盛りたてるため関東に参られることに、私も感じ入ったのだ。
私もその方のことを、左右の手のように、頼もしく思っていたのだが、義によりては命をも惜しまれぬ
事であるのだから、ここに留めたいとは思うけれども、力及ばぬことである。
また、その方の家に伝わる太刀を形見に賜るのは、感悦なる事である。ここにある私の脇差しも、
私が常に、身から外さず帯びているものであるが、これを、私の形見として受け取って欲しい。」

そう言って腰にさした脇差しを抜いて吉弘に与えた。吉弘はこれを受け取り、しばらくは顔も上げられず
泣いていたが、やがて暇乞し、関東に向けて出立した。

593 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 20:15:39.16 ID:l7Nk7iCb
吉弘が大阪に到着すると、その時丁度、大友義統が差し置かれていた毛利氏の元から泉州堺に
上がって来ていることを聞き、急ぎ堺に行って義統と対面した。義統は

「いかに嘉兵衛尉、久しく相見なかったな。今度毛利輝元、増田長盛より承った事には、
秀頼公より本領である豊後を下され、その上当座の合力として、具足百領、馬百頭、鑓百本、
鉄砲三百挺、銀三千枚を賜り、急ぎ豊後に下り、九州を鎮めよということである。
私のやることは決まった!お前も良い時にやって来た、我が伴をせよ!」

吉弘はこれを聞くと、こう申し上げた
「いやいや、そんな事をすれば殿のお立場をいよいよ悪くし、ただ御運を尽き果てさせてしまうでしょう。」
これには義統も、側に居た木部元琢、竹田津一卜もこれを聞いて興ざめた様子であった。義統は、
「ならば、汝はどう思うのか?」と聞くと

「必ず、天下は内府(家康)の御手に入ることとなるでしょう。此の度の乱は、石田治部少輔の天下を望む
謀計より起こった事です。逆謀に加担して、一旦利運が来たとしても、悪名は末代まで残り、浅ましいことです。
その上これは、御身も御名も共に失ってしまいます。特に、義乗様は内府に属して、江戸に居られるのですから、
御子と共に、内府の味方をする事こそ然るべきと考えます。
これは大事のご分別です。どうか、能くご思案し、御後悔の無いようにお謀りになってください。
私は義乗様を盛りたてるため、立花宗茂に暇を乞うて、関東に参ります。殿も御暇を乞われるべきです!」

しかし義統は同心せず、吉弘は再三諌めたのだが承知無く、義統は豊後に下ろうと、その翌朝大阪へ行き、
そこから船で傳法という所まで出た。吉弘統幸は宿舎に帰ったが、そこで考えたことには、
『今、滅亡に極まった目の前の主君を捨てて、世に出ることになるであろう関東の義乗様のもとに参るというのは、
不義の事である。さて、もはや私の運命も尽き果てたようだ。ならば今、義統様の供をして豊後へ下り、
本国の土に成ろうではないか。』
そう決心し、大阪から船に乗って傳法に追い付くと、義統は大変に喜んだ。

その後、上関で黒田如水の使者が来て、如水からの異見状を吉弘も見て、色々と諫言したが、
やはり同心してはもらえなかった。豊後に下った後は、吉弘は宗像掃部と言い合わせ、快く討ち死にしようと
決心したが、黒田如水との決戦である石垣原の合戦に赴く時、大友義統の前に出てこう申し上げた

「今回の合戦にたとえ打ち勝ったとしても、畢竟、殿のご理運にはならないでしょう。
私はこの度、討ち死にすると決心いたしましたので、一生のご対面は、只今ばかりとお考えになってください。」
そう言うと、涙を流しながら立ち去った。そしてかねてからの言葉に違わず、終に戦死を遂げた事こそ
哀れであった。

吉弘統幸の旧恩を慕って馳集まった士卒も多かったが、彼らも一歩も引かずに討ち死にした。
吉弘のことは言うに及ばず、その家人まで、あわれ惜しき士共なりと、敵も味方も感じないものは居なかった。

その後、小石垣村と南石垣村の間、大家の西の傍らに、吉弘統幸の墓が築かれ、石碑を立て、その姓名を記した。
吉弘統幸は義あり勇あり、名高き士であったため、志ある武士はそこを通る時、必ず馬から降りて礼をなした。
彼が大剛の武士であったので近隣の民は、瘧を患った時はこの墓に祈れば必ず回復すると言い伝えた。

(黒田家譜)

黒田家譜より、吉弘統幸についての記録である。





594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 21:37:51.60 ID:feHyZ+X7
義統ぇ・・・

こんな兵力で九州制圧出来るはずないだろ
どう見ても時間稼ぎの捨石

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 23:48:52.64 ID:InhCTw8n
日向の時もそうだけど大友は下が義に厚いのに上がダメなんだよなあ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 03:10:32.56 ID:hrqRFxMJ
この人と上杉憲政は沢山の貴重な資料を後世まで残してくれた偉人なので大好きです

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吉弘統幸の刀

2014年02月28日 18:50

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 10:04:41.50 ID:uQcPSlKz
>>592
この話にでてくる刀かどうかは不明だが、統幸の刀の話を思い出したんで記載

吉弘家には室町の初期に吉弘一曇という危険人物がいて、この人は刀の切れ味を
試すため、2度に渡って千人切りの諸国行脚という凶行を行ったという。
しかし、京都でその最後の一人を切った時に刀を手放し河に落としてしまった。
その後九州に帰った一雲は博多の海辺に光る蛇が現れると聞き、行ってみると確かに
蛇のようなものが光っていた。近づくとそれは京都の河で失った自分の太刀であった。
刀を再び手に入れた一雲はそれを「蛇丸」と名づけて家宝とした。
その数百年後、吉弘家を継いだ統幸は、ある日一人旅の途中に荒寺で一夜を過ごす
ことになった。眠っていると突然なにか不気味なものに抱え込まれており身動きをとる
ことが出来なかった。その時腰に差していた蛇丸が一人でに鞘から抜け出て、統幸を
襲うものを斬ったため、統幸は難を逃れた。夜が明けると、巨大な蜘蛛の死骸があり、
統幸は故事に倣い、以後は蛇丸を「蜘蛛切り」と改めた。
統幸が戦死した後蜘蛛切りは、立花家に預けていた子の吉弘政宣が所持していたが、
政宣は主君である立花忠茂との酒の席で蜘蛛切りを忠茂に献上したいと申し出た。
忠茂は一度は断ったが、日を改めて使者を送り蜘蛛切りを受領した。
しかし、それから柳川城中で不気味な光が発生するなどの怪異が起り、家中のものも
不安がったため忠茂は「やはりこの太刀は吉弘家の元にありたいようだ」と言って政宣に
蜘蛛切りを返還した。以後蜘蛛切りは「生き剣」と呼ばれて吉弘家に代々伝えられたという。
(柳川史話)

統幸が戦死した後、どうやって政宣に伝わったのか疑問だったんだけど、形見として宗茂が
受け取ったのを政宣に与えたのだと考えると合点がいった。




610 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/28(金) 22:20:18.31 ID:c+mDWw5V
立花宗茂は元々は吉弘家の系統の人だからな…。

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 22:22:32.86 ID:EYfTdi9E
高橋紹運、立花宗茂、吉弘統幸、大友には忠義な武士が多いな
と思ったら姓こそ違え同じ一族だったでござる

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 22:37:17.43 ID:WPTBXxD9
大友家って、臣下には人材が揃っているんだよなぁ。
でも、上がアホだとどうしようもないっていい見本だわw

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 02:46:00.42 ID:DT6EEwnf
吉弘家には忠義心溢れる人物が多い
で、たいていは壮絶な討ち死にを遂げる

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 09:48:58.61 ID:Y5cgB5gu
森家の討死率の高さ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 12:31:36.99 ID:R/T0+1/0
>>614
本能寺で3人同時だからなぁ(´・ω・`)

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 15:08:44.71 ID:Us+HUH3X
安田作兵衛「森殿がまた死んでおられるぞー!」

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 15:16:22.70 ID:lwFTNeiw
あれが最後の一条信龍とは思えない!

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 15:52:59.61 ID:wcf672mu
本能寺で親指を立てながらにっこりと熔鉱炉に沈んでいく森三兄弟の姿が

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 16:13:09.30 ID:yeCTKRpM
討ち死にといえば少弐家も忘れてはいけない

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 16:28:02.43 ID:Fbj0ww0f
>>619
少弐の場合は当主自らなのが…。

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 18:48:11.66 ID:Us+HUH3X
隆信「少弐討ち死にしすぎワロスワロス。」
四天王「ですよねーwwwww」

直茂「・・・・・」

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 23:18:59.99 ID:Y5cgB5gu
プライベートライアンのライアン2等兵ですら、戦死は兄3人なのに
森忠政は父&兄5人戦死...

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:16:50.61 ID:jZ9VtQSE
黒田家の母里一族
土器山の戦いで24人全てが討ち死にしガチ全滅

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 01:37:14.84 ID:u0UMui/K
>>623
やっぱそういうの込で1万8千石なんだろうか?

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 02:03:36.26 ID:udouv48Q
>>621
竜造寺といえば家兼だろ、河上社と祇園原も知らんのかw

吉弘加兵衛尉のご利益

2013年08月14日 19:54

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 19:39:14.86 ID:y6xeEluy
豊後国石垣原の合戦の時、大友修理大夫の味方、筧の城主・吉弘加兵衛尉という侍が、黒田如水入道の備へ物見に向かったが、
如水の郎党・井上九郎左衛門と渡り合うことになり、討死を遂げてしまった。

里人は後に、石垣原の近所の別府という所の浜に石塔を立て、吉弘加兵衛尉と書き付けて安置した。
加兵衛尉は名高い武士であったので、心ある侍はこの石塔を拝しながら通ったという。

一方、近所の人たちは、瘧で震えが止まらなくなると塩垢離をとり(海水で身を清め)、洗米やお神酒などを供えて、石塔を拝した。
すると、瘧はたちまちのうちに治ったそうだ。

後に、加兵衛尉の子どもがこの話を聞いて別府に行った。
そして、父の石塔に向かって語りかけたのである。
「父上!手向けられた洗米や神酒のせいで、墓所がめちゃくちゃ見苦しいことになっているではありませんか!
今後は、手向けなど取らず、塩垢離のみで本復させるようになさってください!
さもなくば、瘧を治すようなことなど、一切お止めになってください!」

それ以降も瘧治しの御利益は続いたが、息子の言葉通り、塩垢離をとるだけで治るようになったという。
(播陽諸所古今物語)





「吉名川悲話」

2010年09月27日 00:00

295 名前:sage[] 投稿日:2010/09/25(土) 22:25:43 ID:DQOtuNmg
やや出遅れた感があるが、大友関連で小ネタを一つ。

「吉名川悲話」

大友家臣で、大友家改易後に立花宗茂に仕えた吉弘統幸だが、まとめに、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-160.html
と、あるように石垣原の戦いで奮戦し戦死した。
戦後、吉弘の首は石垣原に晒されていた。
吉弘家の菩提寺・金宗院の住職は、彼の菩提を弔うために何とか首を取り戻した。
住職は必死の思いで、吉弘の首を担ぎ、吉弘の故郷である長岩屋まで辿り着いた。
ふと見ると、首が入った風呂敷から血が滴り落ちている。
住職は風呂敷から吉弘の首を取り出し、手前にあった長岩屋川で首を洗い始めた。
すると吉弘の眼が「カッ」と見開き叫んだ。
「あぁ!和尚よしな(吉名:やめなさい)」
和尚は驚き手厚く供養をした。
それ以来、長岩屋川を「吉名川」と呼ぶようになったそうだ。
金宗院には、首を洗った場所とされる付近に案内板があるそうです。

吉弘が首を洗うのを嫌がったか、わからなかったので、悪い方に投下しました。




296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/25(土) 22:54:02 ID:JCVhT8nD
もう少し頭髪に優しい洗い方をしてほしかったとか

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/25(土) 23:14:43 ID:ZXB1i5W5
顔は吉名
ボディボディ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 06:30:27 ID:iApd2RuZ
>>297
俺もまずそれ浮かんだわw