386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 22:52:06.12 ID:J7a4GCWI
板倉重宗は裁判の判決を下す際、必ずすることがあった。
彼は先ず西に向いた廊下ではるかに拝礼をした。そして判決を下す部屋に至るのだが、
ここには茶臼一つを置き明障子を立て、その内に座して手づから茶を挽きながら訴えを聞いていた。
これを人々は非常に不思議に思ったが、重宗がその理由を語ることはなかった。
しかしはるか後年、重宗が相当に老いた頃、昔話の合間にふと、その理由を語ったそうだ
「私が決断所に出る前に、西面の廊下で礼拝していたのは、愛宕権現に祈っていたのです。
多くの神の中で愛宕権現は特に霊験あらたかだと聞いています。それ故、それを拝んでいました。
私の所願はこういうものでした。『今日、重宗は訴えについての判決を下します。
もし、私の判断に少しでも私心がまじっていれば、直ちに私の命を奪い給え』と。
判決の判断が曇るのは、その判断に私心が入り込む故だと思っているからです。
それから、茶臼ですが、ほんとうに出来た人というのは、自分の心を自ら動揺さないよう
出来るものだそうです。が、この重宗はそこまで出来た人間ではありません。
そのため、我心が動いているか静かであるかを、茶を挽くことで知るのです。
心が定まって静かなときは、手もそれに応じて、臼の回転も一定で、挽かれて落ちる茶も、
いかにも細やかです。
この細やかな茶が落ちた時に至って初めて、自分の心も定まったと知り、そこで判決を
下すのです。
それから、明障子を隔てて訴えを聞くのは、おおよそ人の面貌を見れば、憎々しい顔、哀れ気な顔、
信用できない顔と、沢山の種類があります。
正直そうな顔の人の言うことは誠にように聞こえ、信用できそうにない者の言うことは、何を聞いても
嘘のように感じるものです。哀れがましい人の訴えは、何か不正なことをされた被害者であると
思わせ、憎々しい人の紛争の訴えは、当人のほうが悪いように思ってしまいがちです。
こう言った事は我が目が見たものが心に移され、彼らが言葉を出さないうちから、彼は邪である、
正しくない、正直ではないなどと、先入観が生まれてしまい、訴えを聞いても、その先入観を元に
言葉を判断してしまう。そんな事は多いのです。
裁判において、哀れがましい者に憎むべきことがあり、憎々しい者に哀れなる事があり、
まことしやかな者に嘘偽りが多い、そんな事例は実にたくさん有りました。
人の心は知り難く、その容貌を以て定められるものではありません。
古には訴えを聞くには、その表情をもって聴くのだと言ったそうです。
ですがそれは、心がとらわれる事の無い人にだけ出来ることです。
この重宗がごときは見たものに心がとらわれ、先入観を作ってしまうことが多いのです。
また本来人々は、裁判の場に出ること自体が恐ろしいと思っているのに、さらに目の前に
自分の生殺を握る人間を見れば、心が萎縮して言うべきことも言えず、罪科を受けるという人も
いるかもしれません。ですから、互いに顔を見も見せられもしないほうが良いと、
あのようにしたのです。」
板倉重宗の、訴訟を判断するに当たっての姿勢である。
387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 23:14:24.30 ID:UX4B1y5T
板倉親子はソフィスティケートという言葉がしっくりくる
388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 23:31:37.79 ID:m8i/8Xcb
>>386
性格は人相に出ると思うんだけどなあ
389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/18(金) 08:07:03.21 ID:1PrpjEl0
>>387
詭弁を弄する人って事?
390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/18(金) 09:09:23.48 ID:S/gaJNjq
醜いヤシは成敗したほうが、、
391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/18(金) 09:15:10.29 ID:eG0nUjmf
>>389
たしかにsophistication
はソフィストから派生した言葉だが、
詭弁のほかに洗練されたものという意味がある
承知の上での発言だとしたらスマン
392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/18(金) 09:46:36.14 ID:qu/NMN3D
>>388
性格が悪い人でも、その訴えに関しては正しかったりするしねえ