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丹沢武田氏の形成過程

2010年11月15日 00:00

595 名前:前スレ401[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 01:23:19 ID:IJVByBoq

せっかく武田のカオスっぷりの話になったので、前スレ401でカットした、前振りの部分を書き込みます。
戦国時代のちょっと前あたりのゴタゴタぶりが(頭ではなく心で)わかる内容となっております。
申し訳ありませんが、また長文です。

間違いありましたらご指摘ください。



とにもかくにも甲斐源氏というのは親戚が多いが、その中の一つの家のお話。

応永年間に甲斐武田氏13代当主だったのが、甲斐国と安芸国守護を兼任した武田信満

応永というのは、大体1400年前後だと思ってよい。昭和と明治に次いで長い元号で、割と平和な時代だった。
しかし応永24年に上杉禅秀の乱が勃発、関東は再び戦乱に明け暮れることになる。
武田信満はこの上杉禅秀の縁戚であり、味方して戦うが敗れる。
やがて、幕府軍に通じた逸見氏によって甲府盆地を追われ、木賊山にて自害する(勝頼が自害した天目山と同じ山)。

ここに武田氏は甲斐源氏統領の座と国主の実権を失い、逸見氏、穴山氏、跡部氏、勝沼氏など
(彼らも甲斐源氏)が台頭。
甲斐は100年にわたる動乱に陥るのである。

さてこの武田信満は、郡内(富士河口湖方面)の領主、小山田氏の娘を妻にしていた。
その嫡男武田信重・次男信長は、国主の地位を取り戻すべく戦うが敗れ、甲斐は群雄割拠のままにらみ合いとなる。
信長は甲斐を逃れ、若狭武田氏の支援のもと、足利義教に仕える。信長は結城合戦で武功を挙げ、さらに上総を制圧。
ここに上総武田氏とその分家である真里谷氏が誕生するのである。親戚大名が増えるよ!やったね信ちゃん。

さてこの武田信長は、郡内(富士河口湖方面)の領主、小山田氏の娘を妻にしていた(二回目)。
その縁あってか、その次男・武田信武は甲斐に戻る。以後この家は上総武田氏と甲斐武田氏のパイプ役となる。
信武は和歌に優れ、新千載和歌集にも作品が取り上げられている。
京都に上ったことはなかっただろうから、人づてに都まで聞こえる才能があったのだろう。

さて、その孫・信正は郡内(富士河口湖方面)の領主、小山田氏の娘を妻にしていた(三回目)。
信正は最後の勅撰和歌集である、新続古今和歌集にその作品を残している。

ようやく本題なのだが、その子に武田正信('A` ) という口の悪い男がいた。

……と、いう予定だったのですが、あまりに長くなるので前スレ401では、本題からお届けしたのです。




596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 01:35:14 ID:YzYyrFnZ
大内氏の応永の乱とか越後の大乱とか応永の外寇とかがすぐに浮かぶから
割と平和って言われてもなぁ。

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 01:36:30 ID:Vo7pMxvP
畿内は平和ってことなんじゃないの?

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 01:38:52 ID:Q+kIgmTC
小山田の娘ワロタwwww何のフラグだwwwww
つまり、上総に逃げて地位を作った武田信長が、甲斐の実権を取り戻す支援のために信武を送り込んだというわけね。

しかし甲斐はまさにミニ東北だな。
甲斐以外でも甲斐源氏は若狭、南部、上総、真理谷、紀伊、あと北関東にもいたっけ?
カオスだ・・・。

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 01:42:18 ID:YzYyrFnZ
>>598
あと安芸も。

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 01:47:51 ID:Vo7pMxvP
郡内(富士河口湖方面)という書き方はちょっと・・・
河口湖は郡内の一番外れで、もちろん室町・戦国時代にも郡内の辺境地帯だった。

郡内(都留・大月方面)と書くべきでは?

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 01:55:15 ID:Q+kIgmTC
関東だと天気予報であのへんを、富士河口湖っていうからじゃない?
あともしかしたら大月を小山田がとったのはこの後かも。

応永だけど、朝鮮とは対馬の宗さんだけですぐ済んでいるし、
大内をのぞけば少なくとも近畿から関東は平和なんじゃ?
越後の大乱は上杉禅秀の乱としてちゃんと書いてあるぜ。

602 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/14(日) 09:25:02 ID:gSCbXPuN
戦国話でなくてすみません。信武話が出たので嬉しくて…

>>598

薩摩にもあるんだよね、確か。ちなみにこれらの所領はほとんどのものが、武田信武(先代)やその一族が
尊氏からもらったもの。
武田信武は甲斐・若狭・安芸守護で、(真偽は諸説あるけど)九州探題にも任じられ、薩摩、紀伊にも所領を得て
、尊氏留守中の軍事権を委任されてまでおきながら、知名度がイマイチなのが寂しいところ。息子が
禅秀の乱でケチつけちゃったからなあ。
ちなみに代々の任官名である「陸奥守」も、知る限りは彼からだと思います。他にも「伊豆守」や「左馬頭」にも
任じられているから、いかにアノ尊氏の信任が篤かったかが分かろうというもの。
面白そうな逸話がないので、まだ向こうのスレには書けませんが。

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 11:59:28 ID:DKDiitDt
wiki見てたんだけど
土佐の香宗我部も武田から来てるんだね

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/15(月) 21:49:40 ID:wi+21HcP
田沢家
信州の田沢から興った滋野の一族らしい。
武田氏族と称し、代々武田家に仕えた。
田沢正忠は武田没落後、家康に属し、家康関東入国を機に、武蔵の内で知行を与えられた。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_ta.html

武田→丹沢→田沢、ってだったけど、どういうことなの・・・。
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武田正信('A` ) という口の悪い男がいた

2010年10月03日 00:00

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 12:41:51 ID:9KzlGIqo
ちょっと長くなるんだが、今構わなんかね?

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 12:44:35 ID:2OjOgQoB
>>398
レッツトライ




400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 12:58:54 ID:9KzlGIqo
武田正信('A` ) という口の悪い男がいた。れっきとした武田の一族ではあるが、嫡流からは遠く離れた分家の身である。

時は1500年前後、武田信昌(信虎の祖父)の時代。このころ武田氏は、信昌が守護代の跡部氏をようやく排除したものの、
それに功があった郡内の小山田氏や河内の穴山氏などの力も増していた。

信昌は明応元年に、一度は長男・信縄に家督を譲って隠居する。
しかし信昌は病弱の信縄よりも次男・信恵のほうが武田の頭領に相応しいと考え始め、
ついには信恵に家督を譲るよう信縄に迫った。

当然信縄は拒否する。
ここに信縄と信恵の二者の間で戦端が開かれた。両者はそれぞれ郡内領主の小山田氏と
河内領主の穴山氏を味方に取り込んだ。
戦闘は次第に大規模になり、武田宗家の元ようやくまとまりかけた甲斐を二分する争いに発展する。
油川の乱である。

両者は伊勢氏(北条)の侵攻に遭っていったんは和睦するものの(大地震の影響もあった)、外敵が去ると
再び反目し、断続的な戦闘状態が続いていた。


さて、武田正信('A` )は嫡男・信縄の陣営に入っていた。

正信の母は小山田氏の出身であり、信縄は小山田と結んでいる。信縄のほうにつくのは自然な流れであった。
しかし、隠居していた信昌が次男・信恵の正当性を主張し、ついには勝山城に入城して
信恵の後継となることで状況は一変する。
信昌に恩義ある小山田氏が、信縄から離反して信昌・信恵陣営に走ったのである。

塩山での戦いでは信縄方が大敗したものの、正信('A` )と配下の加賀美某|l l'lイ`ヮ´ノは
敗走する味方の中にあってよく敵の追撃を防ぎ、
大将である信縄の撤退に貢献した。

ならば信縄にバリバリの忠義があったのかというと、そうではない。
というかこの正信('A` )という男、骨肉の争いを繰り返す本家自体が気にくわない。
先の戦功があるとはいえ、母方の小山田氏が敵側に付いたことで、正信の立場は非常に危なくなっていた。

そんなことは百も承知なのだろうが、ついつい口にでてしまう。

  ('A`#) 「ご隠居様が跡部氏を征伐して、ようやく武田に力が戻ったのに、
      今度は兄弟と父の間で戦いか。
       跡部も甲斐源氏だったけど、今度は武田宗家の争いでしょ。もっとひどくなってね?」
|l l'lイ`ヮ´ノ「ちょ、ちょっと、アンタ口を慎みなさいよ!相手が家臣の私(かがみん)だから
        良かったけど、外でそんなこと言ったら危ないわよ!
       べ、別にアンタのことなんて心配じゃないけどお家が(ry」

しかし、この男は人前でも自重できない。こんなことを事あるごとに言い散らかしていた。

('A` ) 「穴山様にも一分あるよね。ご隠居様が跡部氏を誅滅したのも小山田様と穴山様あってのこと。
    それなのに御舘(信縄)様は、一族の穴山様を冷遇なさった。これでは穴山様が
    ご不満に思うのは仕方のないことだよ」
 同僚「ざわ・・・ざわ・・・」
('A` )「それに先ごろ伊勢(北条早雲)の侵略を防いだのは、小山田様の手柄。これに篤く
    酬いるべきだったのにこれも地震のおかげと放置された。
    小山田様の変節は恥ずべきことだけど、御舘様も悪い」
 同僚「ざわ・・・ざわ・・・」
('A` )「そもそも穴山様と小山田様、両方と仲良くなさっていれば、ご隠居様が弟君(信恵)を
    今更推されたところで、あちら側に付く豪族たちの現れようはずもなかったのに。
    御舘様は誰のおかげで武田が再興できたのか、忘れていたね」
 同僚「ざわ・・・ざわ・・・」
('A`#) 「ご隠居様と信恵様がいるから穴山様は今川様と結ばないけど、追い詰めたら
    プライドを捨てて同盟するかもよ。小山田様も伊勢と結ぶかも知れない。
    南と東から他国の軍勢がなだれ込んだら、どうやって天険もない
    ここ(石和)を守るつもり?」
 同僚「ざわ・・・ざわ・・・」
('A`#) 「まったく、小笠原や伊勢、今川、もろもろの外患を抱えているのに、この内憂。
    まさに奴らの思い通りじゃん。宗家は百年近く同じ事ばかり。
    馬鹿じゃね?もう俺が取って代わったほうが良くね!?」
 同僚「!!!!」


401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 13:01:43 ID:9KzlGIqo
正信が穴山氏と血縁関係にあったかどうかは明らかでないが、正信は穴山氏の境遇に同情的だった。
母の実家である小山田氏を悪く言いつつ穴山氏の冷遇を諫めるあたり、立場を無視してでも正論を吐く
タイプだったのかもしれない。
最後の一文はともかくとして。

しかし正論家は嫌われるものである。何せ、小山田氏もけなし、主君信縄もけなし、隠居の信昌と信恵もけなしている。
父方の武田と母方の小山田、味方と敵方、全てを敵に回しているのである。
唯一穴山には好印象だろうが、その穴山の主君をけなしているのだからどうにもならない。当然、この報いは
彼の身に降りかかった。

   ('A` ;) 「ゴメンかがみん、俺完全ハブられてるわ。取りあえず謹慎蟄居する。でも
        御舘様は猜疑心の強い方だから、このふいんきだと粛清されるかもしんね」
|l l'lイ#;ヮ;ノ「こうなってしまっては仕方がないわ。内藤様(内藤昌豊の祖父?)に取りなしを
        頼んで、助けてもらいましょう」
   ('A` ;) 「だめだ、俺は内藤殿のことも悪く言っている(!)。御館様に疑われるかもしれないのに
        助けてくれるわけはない」
|l l'lイ#;ヮ;ノ「では上総に逃げましょう(正信は上総武田の祖・武田信長の子孫で、上総武田との
        パイプ役だった)」
   ('A` ;) 「小山田と血縁のある自分を、小山田と戦っている加藤(上野原領主)が通して
        くれるわけはないし、他の道では捕らえられてしまう。
        それにそんなことをしたら、上総の武田氏と甲斐の武田氏が反目することになる。
        必死に守ってきた所領も捨てたくはない」
|l l'lイ#;ヮ;ノ「そうなれば、弟君の側に立って御舘様と戦うしかないじゃない」
   ('A` ;) 「それも駄目だ、主君に弓は引けない・・・それに俺はご隠居様や弟君のことも
        批判していた。擁護していた穴山様ならよくして
        下さるかもしれないが、主君を批判する男を匿ったとあっては、穴山様まで
        立場が危うくなる」
|l l'lイ#;ヮ;ノ「じゃあどうするのよ!!」
   ('A` ;) 「・・・・・」

江戸時代なら腹を切るところだが、時は戦国。では兵を挙げたかというとそうでもない。
正信は信縄に所領を差し出し、丹沢山中の諸佛ヶ獄に蟄居した。今は神奈川県に属すが、当時は
小山田の領地・甲斐郡内と相模の国境だったらしい。
主君の敵である小山田氏の領地に蟄居したわけであるから、罪人として主君から罰せられたわけではない。
かといって出奔でも裏切りでもない。
丹沢山と言えば厳しい修験者の修行の場であり、諸佛ヶ獄という名前からもそれは想像される。
場所柄から考えて、出家に近い状況だったのだろう。

   ('A` ) 「もう世の中が嫌になった」
|l l'lイ`ヮ´ノ「何言ってるのよ!何のために私がついて(ry べ、別に(ry お家再興のためであって(ry」
   ('A` ) 「マンドクセ」

嫌われているとはいえ、小山田氏と正信は血縁である。敵方から脱落して隠棲したというのなら、
小山田氏にとっても害する理由はなかったのだろう。
そのまま十年以上の歳月が流れた。
この時、正信は二つのものを手にする。一つは鷹狩りの技術を手に入れたことである。おそらくは
厳しい山中での生活の術としてだったのだろう。
これは後々まで、正信の子孫にとって和歌に代わるお家芸となる。
そしてもう一つは・・・

|l l'lイ`ヮ´ノ「あら、飲み水にゴミが・・・こ、これは!」

|l l'lイ`ヮ´ノ「ちょ、ちょっと正信!砂金よ!この沢、砂金がたくさん!!」
('∀` )「砂金が採れるってことは・・・」

もちろん実際には正信が見つけたかどうかは分からないのだが、丹沢に大規模な金山が発見されたのは
まさしくこの頃である。
そしてこの金は、所領を失った正信('A` )にとって家運を再び開くものとなる。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 13:05:46 ID:9KzlGIqo
隠居であった信昌が病で亡くなると、信恵は次第に不利になり、永正5年(1508年)の合戦で、彼と
主だった豪族たちは討ち死にした。
しかし前年に信縄は病死しており、この見事な奇襲による勝利は、その子・信虎少年によるものだった。

穴山氏と小山田氏は正信('A` )の指摘どおり、それぞれ今川と北条(伊勢)と結んで抵抗を続けた。
小山田氏は翌年には降伏、帰参した。

正信('A` )とその子正昌が信虎の元に帰参したのは、永正年間のこのあたりと考えられる。
未来予測の正しさを評価されたのか、
頑迷ともいえる身の処し方が気に入られたのか、信虎の大好きだった鷹狩りに秀でていたためか、
市川大門周辺に所領を得ている。
ただし同時に金山は信虎直轄となった。

穴山氏は今川派と武田派に分裂して混乱したが、穴山氏から好意を持たれていることを利用して、
その諜略を行っていたらしい。
大永年間のうちには、穴山氏の与力(おそらく監視役)となったのが確認できる。

なお正信('A` )は帰参に当たって苗字を「武田」から「丹沢」に改めている。丹沢山中に
隠棲していたことからのネーミングであろう。
改姓の理由は、「もう俺が取って代わったほうが良くね?」発言が問題だったのか、それとも
どちらの味方もしなかったことを恥じたのか、わからない。
代替わりが二代続いて主君と血縁が遠くなったので、分家の分際を弁えたということかもしれない。

さて最後に。武田正信改め丹沢正信('A` )は余程苦労がこたえたのか、信虎の前では放言を
自重できるようになっていたらしい。
他の口うるさい連中と違って手打ちにされず、大永年間に死去したようだ。

彼の直系の子孫である丹沢正忠は、武田を裏切った穴山梅雪に従って徳川家に鞍替えしている。
関が原の後に旗本となり、苗字バレを恐れたか「丹沢」から「田沢」に再び姓を変えている。ちゃっかり
武田の「田」を使っている気もするが。
しかしhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-846.htmlを見る限り、この一族の口の悪さは
遺伝子レベルでは改善されなかったようである。

ずいぶん長くなってしまったが、戦国時代の大変(口の)悪い一族のお話。


補足
・なぜいきなり隠棲なのかのあたり、かなり想像で補っています。
・加賀美某は男です。
・しかもたぶん正信より年上です。
・かがみんとは呼ばれていません。
・かがみんが、正信が丹沢に改姓したころまで生きていたかはわかりません。
・金山の下りは、かなりこじつけ。1500年前後十年か十五年に見つかったのは確からしいから、
 何らかの関わりはあったんじゃないだろうか。




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 13:58:31 ID:2OjOgQoB
>>400-402
大作乙。しかし面白い人生だな、これだけで小説になりそうだ。宮城谷先生あたりが書くと
いい作品になりそう。
それにしてもいかにも戦国初期らしい話だw

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 14:28:27 ID:HtriydGw
鷹匠として家を存続させたんだからやはり先見の明があったんだろうな。

粛正されなかったことや後の帰参、徳川での扱いを見るに
口は悪いが忠義においては信頼はされてたんだろうな。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 14:43:06 ID:McvgxLqt
彦左衛門「口が悪いんじゃない、正直なだけ」

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 15:07:34 ID:D/Lmrfuh
面白かった!久々の大作だね。どれくらい掛かった?
加賀美が苗字だとは思わなかったので、武田加賀美なのか加賀・美なのかと思ったww

で、加賀美=柊かがみってのでワロタw
ちょっとやる夫スレっぽいね。作ってみたら面白いかも。

甲斐源氏の信虎以前って本当にぐちゃぐちゃだよね。
さらっとまとめてくれてあるけど、状況を理解するのが大変だった。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 16:03:02 ID:9KzlGIqo
どうも皆さんありがとうございます。初投下なので緊張しました。

>>403
どの辺が戦国初期っぽいですかね?

>>404
まあ武田一族ですし、上総武田とのパイプ役ですし、一度は信虎の側にたって奮戦している訳ですからね。
徳川に登用されたのも、鷹の技術者としてより、やはりひとかどの武将だったからだと思います。

それと、確かに正信はかなり頭の良い人ではありますが、鷹狩りの技術はそこまで考えて身につけた訳じゃないと思うんですよ。

本当は、鷹狩りの技術屋として初めて名前が見えるのは正信('A` )の息子である正昌(´ω`)なんです。
ちょっと手元に本がないんですが、長尾が北条に鷹を送ろうとしたら信虎にぶんどられたという話があって、
そこに丹沢正昌(´ω`)が出てきます。


じゃあなんで正信('A` )が鷹狩りの技術を丹沢で得たとしたか、というと、以下のように考察しました。

ググってみると、
http://1st.geocities.jp/tekedadesu/shinpukuzi.html に丹沢正昌(´ω`)の記述があって、
「その子正俊は信玄に仕え、第4次川中島の合戦に22才という若さで参加、先鋒にて傷を負い翌日に死亡」とあります。

正俊は長男だったと思われます。その子が例の家康とのエピソードを残す正忠だからです。
逆算すると正俊は1540年頃に生まれたことになります。
正昌(´ω`)が20の時に正俊を生んだとすると、正昌(´ω`)は1520年頃の生まれとなります。

正信('A` )は遅くとも20年頃に帰参、30年頃には死亡しているので、正昌(´ω`)は恐らく丹沢山で出来た子ではありません。

また正昌(´ω`)は上方での鷹狩りの流行を見て技術を学ぶという暇はなかったと思うのですよ。
穴山の武田への従属、その後の関係修復と一族衆としての婚姻関係の調整に奔走していますから。

ということで、鷹の技術を手に入れたのは正昌(´ω`)ではなく、丹沢山の奥深くで下界と隔絶した状態にいた正信('A` )が、
生活のために山民から身につけたと考えるのが自然ではないかと。


ちなみにこの丹沢家、「正」を代々使っているんですが、これを何と読めばいいのか困ってしまいます。
「まさ」と読むと、息子である正昌が「まさまさ」になるんで「ただ」かなと思ったんですが、そうすると正忠が「ただただ」に……。
皆さんどう思います?www

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 16:10:09 ID:9KzlGIqo
>>406
>>どれくらいかかった?
記述自体は10時間程度です。調査もちょっと凝りましたが、それでも数時間ですよ。

>>加賀・美なのかと思った
すみません、「某」がかがみんのAAに混ざって見えにくかったですかね。

>>甲斐源氏はぐちゃぐちゃ
これでも削りに削って、分かりやすくしたんです。超・長文になってしまうので……。

>>やる夫スレ
やる夫スレも作ったことがないんですが、作ってみたいなと画策中です。
このスレなら歴史的事実にこだわらないので、一次資料が貧弱+推測で補足でも構わないのですが、
向こうだとどうなんですかね……。

歴史小説みたいな創作ものとして読んでくれ、で書けば大丈夫ですかね。

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 16:29:18 ID:qURXMArk
最初に注釈つけておけば大丈夫だと思いますよ。>やる夫スレ
戦国は戦国でも中国の戦国七雄時代の李斯スレは結構アレコレ改変されてますが特に苦情も無いですし。

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 17:07:26 ID:2OjOgQoB
>>407
> どの辺が戦国初期っぽいですかね?

君主権力が非常に弱くて国人たちが多いに幅を効かせているあたりと、
当主の継承ルールがきちんとして無くて、継承にあたって国人を巻き込んだ合戦になるあたり、
ですな。

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 02:09:01 ID:GGNSzHEQ
訂正というとアレなんだが、手元の本によると北条早雲は二回侵攻して、武田兄弟は二回和睦しているらしい。
一回目の侵攻は大地震で相模・甲斐・駿河あたりで全面停戦条約が結ばれて、二回目は
小山田氏が撃退しているとのこと。

しかし丹沢とか加賀美とか小山田とか穴山とか、珍しい苗字ばかりだね。