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三楽斎の小田城乗っ取り

2019年10月12日 15:49

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/12(土) 12:05:11.95 ID:zZ547gHR
常州の小田讃岐守入道天庵(氏治)は、家の吉例の行事として。毎年十二月の大晦日の夜、
家臣を集めて連歌の会を催し、これを年忘れとした、その後夜明かしで酒宴を張るのも
恒例となっていた、

この頃太田三楽斎は片野の砦に住んでいたが、この事を知って色々と工夫をしたが、ついに
小田城を乗っ取ろうと決心した。
そのころ天庵は藤沢城に住み、小田城には息子の彦太郎守治が入っていたが、彼のもとでも
この行事は行われていたのである。

三楽斎はまず、真壁氏幹入道道無に相談し、佐竹、多賀谷も巻き込んで密議を行った。
彼はこのように説明した
「これは必ず成功する。小田城中には二、三内応する者もあり、大晦日の夜に兵を出せば
正月には城はこちらの手にあるだろう。」

これに多賀谷側より「その内応する者とは誰か」と問われると、三楽斎はそれらしき書状を
二、三出してみせた、それで安心したものか、真壁、多賀谷、佐竹も彼の企てに同意した。

その年の大晦日、三楽斎父子、同新六郎康資、真壁掃部介、坂本信濃守、佐竹より岡谷縫殿介、
根本太郎、多賀谷より家人の白井全洞などが集まり、小田城近くまで進んだ。そこで人馬を休めつつ
手引の者を待ったが、いっこうに現れない。
佐竹側が
「三楽斎殿、これはどういうことか」
と尋ねると、

「内応のものが有ると言ったが、あれは嘘だ。」

と答えた。
一同驚き
「嘘だと言うが、証拠の書状まで見せたではないか。」
「だからそれが嘘である。」
「ではあれは偽の書状か」
「いかにも。そうでもしなければあなた方は同意しないと思った。」
「それは酷い。そのような事なら我々は帰る。」

憤る彼等に三楽斎は
「まあ待て、連歌のことについてはよく調べてある。小田城の者達は必ず遊び呆けて酒に成り、
家中一同は酔いつぶれて物の役に立つものは一人も城中に居ないだろう。
ここは一つこの三楽斎に任せて頂きたい。決して悪いようにはしない。」

こうも三楽斎の術中に落ちた以上、一同も今更否とも言えず、夜明け近く、貝を吹き盾を叩き、
一斉に鬨の声を上げ小田城に攻めかかった。三楽斎の旗本である益戸勘解由、高橋上野介、石井峰岸
などの勇士は真っ先に大手門を押し破り城中へと乱入した。

小田方はこんな事が起こるとは夢にも考えておらず。連歌の後の酒宴で酔いしれていた所で、寝耳に水の
驚きようであり、周章狼狽はその極みに達し、太刀よ物具よと探す者はまだいい方で、堀を乗り越え、
狭間に潜って逃げ出し、敵を防ごうという家来は一人も居なかった。
彦太郎守治も仕方なく脇虎口より逃れ出て、菅谷金吾入道全久の木田余城へと退散した。
三楽斎はやすやすと小田城を乗っ取ったのである。そしてしばらく番兵を入れて様子を見ていたが、
取り返しに来る様子もなかった。

ところが二月に入って異常に雪が降ったのだが、その大雪の日に小田彦太郎守治は、菅谷、大藤、月岡
といった家臣を率いて不意に押しかけ、小田城を取り戻した。
こうして元のように小田守治が城主に戻ったのである。

(関八州古戦録)

続き
小田城再乗っ取り


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太田三楽斎追放

2019年10月10日 17:01

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 12:42:52.59 ID:6oB8WiqO
永禄六年五月、小田原の北条氏康太清軒は、法華の僧を使いとして岩付城へ赴かせ、太田三楽斎(資正)に
このように伝えた

「この正月、国府台の合戦で思わず我等が勝利したが、これも弓矢を取る身の運不運である。
敵と味方に別れるのも時の勢いであろうが、もし今和睦をしても良いと言うなら、嫡子源五郎(氏資)に
家督を譲り、隠居されたい。そのようにして老後を心置きなく過ごされるおつもりなら、我が子氏政の
妹を源五郎に娶せ、自分がその後ろ盾と成り長く岩槻の社稷を守るであろう。」

そのように言い、それも二度までも使いが来た。その裏には、もし同心しないというのであればこちらにも
覚悟がある、という脅しの意味も含まれていた。

三楽斎も利口な男であったのでそのくらいの事は理解していた。しかし長年の兵乱に勢力は尽き果て、
この正月の合戦で兵の消耗も甚だしく、要害でもない平城でどれほど持ちこたえられるか先は知れており、
ここは一番和睦し、後日に事を謀ることが肝要であると、多年の宿意である上杉への肩入れを打ち切り、
小田原の意に従うことを決心した。

この事を伝えられた氏康・氏政父子は大いに喜び、すぐに吉日を選んで娘を岩槻へ送り、婚姻の式を挙げ、
千鶴万亀の祝をして、両家の昵懇はこの上なくまとまった。実に無意味な事である。

それからしばらく後、氏康は婿となった源五郎氏資に、垣岡越後守、春日摂津守などという太田家の
奉行職と相談させ、野州小山城、長沼城攻めを開始させた。しかしそれは氏康の策で、彼等を両城に
出陣させた後で、不意に岩付城を襲おうという密計であった。

三楽斎はその事に気づいており、またもとよりそのくらいの事は有ると思っていたので別に驚く事もなく、
何食わぬ顔で、密かに妾腹の子である梶原源太左衛門政景を招き、その場合に打つ手を色々と相談して、
政景に川崎赤次郎を添えて盟友である佐竹義昭(実際には義重 )の元に行かせ、自分は浜野修理介を
連れて、これも盟約の有る宇都宮三郎左衛門広綱の元へ向かった。

しかしこの事をすぐ、氏資に付いていた垣岡、春日が小田原に伝えた、氏政は早速太田大膳亮に兵二百騎を
付けて岩付城へ向かわせた。大膳亮はまたたく間に外郭を固めて二度と三楽斎を城に入れなかった。

ここにおいて三楽斎と梶原政景は浪々の身となり、政景のみは、弟の新六郎とともに佐竹に寄宿する
事となった。三楽斎はそのまま武州忍城の成田左馬助氏長を頼った。氏長は三楽斎の娘婿である。

ああ、世に前管領上杉憲政の旧臣は多いが、その中でも太田三楽斎と長野佐衛門大輔業正ほど
無二の忠誠を尽くし、上杉家の再興のため心を尽くした者があろうか。であるのに、時に利非ずとはいえ、
業正は箕輪にて討ち死にし(実際には病死)、三楽斎は今流浪の身となった。そして北条の武威のみが
したり顔となったのは皮肉なことである。

(関八州古戦録)

北条の謀略というより太田三楽斎が策に溺れた感強いな。



501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 23:56:01.31 ID:wCzp0YSp
太田資正って、扇谷上杉ならともかく、上杉憲政の臣下だって意識あったんだろうか
扇谷上杉壊滅後は北条(古河公方)家臣で、謙信越山以降は独立路線でやってるよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 08:34:36.97 ID:ZngsXh4S
>>501
越相一和後の行動は完全に独立勢力でそ。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 15:33:46.50 ID:tAqYfxfy
>>500
策に溺れたというより、身の危険を察して逃げたというべき
養父、義父が婿に討たれるなんてのはよくある話
北畠具教や宇都宮鎮房をみよ

今ここに二つの不思議が有る

2019年02月23日 17:25

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 12:52:27.36 ID:e/hNmUGt
小田原の役の時、太田三楽斎(資正)は豊臣方として小田原の攻口にあったが、北条方の松田尾張守(憲秀)の
陣を見て、「彼に異心あり」と言った。実はこの時、松田はすでに秀吉に欺かれて内通していたのだが、
三楽斎はこの事を知らないはずであったのに、これを指摘したのだ。

この言葉を聞いた秀吉は怪しみ、「何を見てそのように言うのか」と尋ねた所、三楽斎は

「松田の勇謀は人の恐れる所です。所が今、軍備を正さず、諸卒を戒めず、役所を巡りません。
彼はもとより臆するような人物ではない。であれば、これは心をこちらに通じているが故なのでしょう。」

この答えに秀吉は感嘆し、源君(徳川家康)に対してこれを語って
「今ここに二つの不思議が有る。それが解るだろうか。」

「一つは三楽の事でしょう。もう一つは解りません。」

秀吉は言った
「私は匹夫より起こり天下の主となった。一方で三楽にはあれほどの知がありながら、一国すら持ち得て
いない。これが二つ目の不思議でなくてなんだというのだ。」

(武将感状記)



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 17:20:42.46 ID:HuShFIb5
>>688
反北条を貫いたからだろうな、あとは本貫地に拘ったから

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 10:39:08.62 ID:Y+43REht
太田資正は上杉謙信が関東勢を従えて小田原城を包囲したときも
白倉丹波という武将の離反を見抜いて事前に防いだらしい

太田三楽斎、今や首を掻かれようとしたが

2013年09月21日 19:52

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 05:45:08.99 ID:pBifOIl7
永禄7年(1564)第二次国府台合戦でのこと

太田資正入道三楽斎も、北条氏康の軍勢と戦い奮戦し、二ヶ所の手傷を被りながらも踏みとどまり、
北条方で勇士として有名な清水太郎左衛門の嫡子である又太郎と組み合い、競り合っている内に、
父に劣らぬ大力の又太郎に組み伏せられた。

手負いの身でもありついに力尽き、今や首を掻かれようとしたが、ふと、又太郎の力が緩んだ時、
三楽斎は目を見開き声を荒らげた

「何をうろたえる!我が首には喉輪が嵌っている、早く外してこの首を掻け!」

これに又太郎は、立派な態度だと感心し、気を取り直して言われたとおりに喉の金輪を外している所に、
三楽斎の近習である舎人孫四郎、野本与次郎たちが駆けつけ、又四郎を引き倒し、三楽斎に、逆にその首を取らせると、
そのまま逃げ去った。
(関八州古戦録)




353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:03:18.05 ID:y4mF5ILd
負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:22:23.25 ID:0jYeIXiy
>>353
天庵「ですよねー、何回かチャレンジしたら野戦で勝てると俺は信じてる!」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:49:33.47 ID:YwAXm8oJ
>>352
なんともコメントに困る逸話だなw
三楽斎はこれ分かってて言ったのだろうか?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:24:55.57 ID:d3MufPM6
>>352
殺してから首を取り外すわけじゃないんだな

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:29:50.68 ID:udAXqqDk
太田「……計算通り!!」
近習「(´-`)…………」

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:38:54.22 ID:cuNV9HT7
大声の叱咤で立派な態度と思わせつつ仲間を呼ぶ、という高等テク

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 15:56:23.25 ID:ChSpHib2
要約すると
三楽斎「タスケテー」  って事だよねw

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 17:59:19.14 ID:URCEdLHY
2コンのマイクに向かって言ったんですね

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 18:03:18.24 ID:0jYeIXiy
それはフェニックス天庵きてまうで

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 19:47:18.19 ID:mmlohXqo
なんというか、源平合戦のノリだな
そのまま逃げ去った の部分が妙に気になるが

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 23:51:29.45 ID:wElm0qam
>>352
喉輪を外せとアドバイスされ、ちんたら外してるうちに逆に討ち取られるという
どちらかというと、又四郎があほぅな気がする

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 00:19:09.54 ID:veH309aX
親父に倣って首をねじ切ればよかったのに

三楽は智がありながら

2012年09月08日 20:32

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 19:41:05.39 ID:jBL3aG4B

小田原征伐の時のこと。松田憲秀の手を見た太田資正
「裏切る腹積りだ」と言った。この時、確かに憲秀は内通して
いたが、資正はその事実を知らなかった。

豊臣秀吉は何故資正に内通が分かったのか奇妙に思い「何をもって
そのように見たのだ」と尋ねた。

「憲秀の勇謀は人の恐れる所ですが、今日は軍備を正さず、諸卒を
戒めず、役所も巡りませんでした。もとより彼は臆するような者では
ありませんから、これは心を味方に通じた故にございます」

資正の答えを聞いて秀吉は大いに感嘆し徳川家康に向かい
「今ここに二つの不思議がある。何だか分かるか」と問いかけた。

「ひとつは三楽でありましょう。もうひとつは分かりかねます」

との家康の答えに秀吉は「わしは匹夫より起こって天下の主となった。
だが、三楽は智がありながら一国をも持つことはできなかった。

これぞ二つの不思議であろう」と言った。

また別の逸話では、秀吉は資正を召して曰く「その方は智仁勇を
兼ねた良将でありながら小身であるな。わしはひとつの徳もないが、
天下を取ることはもっとも得意とするところだ」ともいう。

――『名将言行録』




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 21:16:38.44 ID:66FBQWN/
もう一つの不思議
カリスマブリーダーとしての名声が無い

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 23:30:18.49 ID:gMAi9LmC
ここらのカリスマといえば天庵様の方が大きかったからね

手引き

2010年09月03日 00:00

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/02(木) 18:47:15 ID:HVm8t3IJ
手引き

手這坂の戦い・鳥出台の戦いに敗れて小田城を失った小田氏治は、元亀元年(1569年)
に再度小田城の奪還に向け動き出した。
小田家家臣・菅谷政貞は小田城内にいる旧臣に充てて
「旧主・氏治様に対して志あるものは味方を誘って城内から手引きせよ。」と調略を仕
掛けた。
そして、城内の小田旧臣と呼応して小田城に一気に夜襲をかけて悲願の本拠地回復を果
たした。

時は流れて元亀三年(1572年)の暮のこと。
小田城内はテンプレ通りゆるゆるの状態で、城内では連歌会が連日催されていた。
その情報をキャッチした佐竹客将の太田資正は、
「小田城内には当家に内応するものがおります。彼らの手引きの手筈が整っております
から攻撃の許可を下さい。」と進言し、大晦日に小田城に兵を向けた。

ところが、いざ小田城に到着してみると佐竹軍を手引きする者などいないことが発覚した。
「資正殿。我が方に手引きする者なぞいないではありませんか。話がちがう!」
詰問する佐竹家臣に対して、資正は涼しい顔でこう答えた。
「ははは。『佐竹方を手引きする者がいる』という情報はそれがしのでっちあげですから、
手引きする者などいないにきまってますよ。その情報は小田城攻撃の許可をもらうための
ガセ情報です。
しかし、小田城内が連歌に呆けて、士気がゆるゆるなのはホントですからさっさと小田城を
落としましょう。」

太田資正はそう言うと、正月の夜明けとともに小田城を強襲しやすやすと小田城を奪い返し
たという。




836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/02(木) 19:06:43 ID:tq98CggG
天庵様がいつもどおり過ぎて笑うしか無い。

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/02(木) 19:09:46 ID:OKrriwjO
舐められすぎワロタw

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/02(木) 23:11:18 ID:XSFbCDTu
>>835
いい話か?いい話なのかー!?

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/02(木) 23:16:02 ID:Mu5QAeGa
大事な事なので2回言ってみますたw

三楽さんの言い訳(佐竹側の記録)

2009年12月10日 00:11

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 14:38:17 ID:6dNSJ+LJ
では三楽さんの言い訳(佐竹側の記録)を

永禄10年(1567)、小田家の勢力が苦々しい佐竹義重は、家老の車丹波に小田家の
調略を命じた。しかし、車は予想を超える事態に遭遇する。

岩槻を追われた太田三楽は、小田氏治の配下にあった。一宿一飯の恩を返すため
三楽はたびたび氏治のもとに伺候し、打倒佐竹の兵法軍略を説いた。
氏治の前に侍る若侍たちは、関東有数の将の策を震えながら拝聴した。

その日も三楽は、氏治に懇々と策を語った。「…と言う訳で、常陸全土を抑える
事も出来ます。」
ついに若侍たちは、我慢出来ずに吹き出した。
「い、いやぁ片腹痛きぞ、三楽斎どの!それほどに縦横無尽の策をお持ちなら、
なぜ貴殿は北条に敗れ、こんな所に居るのかな?大言壮語も大概にされよ!」

激怒したのは三楽よりも息子の梶原景国である。彼は父を説得して小田家離反を
決め、のちに舅となる真壁道無に渡りをつけた。道無はさらにこれを車丹波に
相談し、労せずして内応者を得た車は永禄12年(以下>>888)

首謀者たる梶原はのちに美濃守政景と名乗り、馬場美濃・須田美濃と並んで
三美濃と呼ばれる武将になったという二重三重に口は災いの元な話。

小田家の侍に三楽を笑う資格があったかどうか、このスレの皆さんは
良くご存知だと思うので、俺はとやかく言わない。




897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 15:00:14 ID:Cyk/vpJ/
将校級だけそろってても上と下が馬鹿じゃ駄目だな、やっぱ

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 15:26:01 ID:v6+LaWvU
讒言は信じる癖に...

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 17:31:51 ID:FlZBU2yY
戦下手の袁紹って感じだなw

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 17:58:42 ID:q35lZYQ9
小田衆の弁護をすれば、
論だけ立派でも実績を見せない奴はホラ吹きと思われてもしょうが無い。
何時でもいるからね、弁だけで行動が伴わない奴。

まあ、弁だけじゃないってのは身を持って知ることになるんだがなw

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 18:04:27 ID:jTkfly+u
>>899
袁紹からカリスマ性以外全部差っ引いたら小田氏治だな

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 18:13:44 ID:dD2dqLNW
つか三楽斎を敗残の武将と侮ってる時点でもう駄目なんだと思うけどな。
関東の戦の動向きっちり調べて情報伝わってれば北条に敗れたからって
馬鹿に出来るもんじゃないのはすぐ分かる。

ま、福島家の家臣たちを馬鹿にした若衆と同じ類の話なんだが
主が叱ってくれなかった代わりに自分らの城が落とされたわけだなw



903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 18:16:59 ID:2WZ6N2fJ
>>901
何を言うか!袁紹殿より決断力はありますぞ!ただ、ちょっとばかし判断力が(ry


実は官渡でも判断ミス一度も無いんだよな。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 18:49:57 ID:tsk97om3
>>903
スレチだが、烏巣救援で二兎を追ったのは痛恨のミスだと思う
それ以外には特にミスは無いというのには賛同

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 19:19:26 ID:FpcH8I25
しかし、梶原美濃はなかなかのくせものだな
一時は独断で北条についたりしてるし
旧領復帰への執念ゆえか



関連
小田氏治公、小田城を取られた顛末
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3299.html

誕生、片野の三楽斎

2009年11月21日 00:16

378 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 12:49:34 ID:NACAS0Ot
まだ氏治様の流れがギリギリ終わっていない様で安心。まだまだ行けるw
太田資正様好きとしては、便乗してこれを書かねばw

『誕生、片野の三楽斎』

太田資正という人を説明する時、大体の場合は岩槻から追放されて終了か、
追放後に佐竹家臣入りして~完~となってたり、あまり触れられていない部分がある。
そこの部分のお話。


北条を相手に、武蔵岩槻を居城とした支城と三楽犬
(まとめサイトの『太田資正の戦国トップブリーダー・いい話」を参照 )
により粘っていた太田資正だが、自分の子・氏資により居城を奪われ、各地を
放浪していた。

家臣だった小宮山弾正のいる戸塚城に寄ったかと思えば、
成田氏や上杉謙信の元へ行ったりと各地を放浪して、
1566年ごろ仕えるに至った家は、何と常陸の小田家であった。

氏治「これはこれは、武蔵国から遥々よう参られた」
資正「実は某、息子に居城を奪われまして、嫡子政景と共に放浪の日々を
   送っておりました。どうか岩槻奪還の悲願を達成するまでの間、
   我らを氏治殿の家臣へお加え願えませぬでしょうか」
氏治「あい分かった。資正殿の武勇はかねがね耳に入っておるゆえ願っても無いこと。
   資正殿には片野城、嫡子の政景殿にも柿岡城を与えるゆえ、
   それぞれ守って頂きたい」
氏治(キタコレw今は猫のも借りたいとこだし、前線に入ってもらっちゃおう)
資正(ニヤリ)

とかの会話があったかは不明だが、ここで資正は嫡子政景と共に、小田の配下となる。
この時の知行の数値は怪しく、一千貫と書いたものや、一万八干石書かれるものも
ある様で。
しかしどちらにせよ、氏治はこの時、せいぜい一武将が仕官するかのレベルにしか
考えていなかったのだろう。
だが、この太田資正。彼はこの後の常陸国に大きく影響を与えていくことになる。

……しばらく経って。
資正「どうか我等を、義重殿の配下へお加え下さい。手土産として、仇敵の小田氏治
   より片野城・柿岡城を手土産として切取って参りました」
菅えもん「太田親子が、城ごと佐竹家へ寝返りました」
氏治「どういうことなの……」

資正と政景は、なんと氏治の敵である佐竹義重へと即刻寝返ったのだ。城ごと。
片野も柿岡も、佐竹方への前線にある大事な城。
資正の登場により、常陸のミリタリーバランスは大きく崩れた。

379 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 12:50:33 ID:NACAS0Ot
寝返られた氏治は当然怒り、資正・政景を攻めるが、資正は岩槻城時代にて、
散々あの北条とやりあっていたせいか、小田軍三千騎vs太田軍千以下という戦いでも、
苦戦することはあれども最終的に勝利するなど、少なくとも片野・柿岡の両城を、
一度たりとも落城させることはなかった。

小田城にも資正の手が加えられる。
戦国期に入っても、単郭に堀があったかどうかの、城と言うより中世武士の館状態
だった小田城。奪っても氏治の謎のカリスマで取り戻されるの繰り返しだったが、

資正「じゃあ、奪い返せない様に改造しよう」

と、奪ってから政景と共に大改修していく様になる。
その結果の小田城↓
ttp://otakesumiyo.hp.infoseek.co.jp/odatk.htm
(氏治らも、ちょっとくらいは強化していったろうけど)
すぐ横の前山や、筑波山にまで関係する城跡があるとか(城域繋がってた?)。
これにより、後年になるにつれ、段々と昔の様には取り返せなくなってくる。

そして、資正の寝返り以降、氏治と戦う面子にも変化が出る。
太田資正,梶原政景,真壁氏幹
大方、この3人が佐竹方として毎回立ちはだかる様になる。
……というか、氏治の矛先が、寝返った資正らに向かってるだけとも言える。
もともと戦に勝てないのは先の通りだが、1574年には土浦城までも落とされて、
氏治は一時常陸から追い出される。
ころころ落ちる小田城と違って、土浦城が落ちたことは無かった。
もはやそれほどまでに、軍事力に差が出てしまっていたのだ。

が、氏治にとっての最期のチャンスが訪れる。DQN政宗公の登場である。
勢いに乗る伊達に、佐竹は全力で当たらねばならず、
反対側に位置する、南の氏治に構ってる余裕がなくなったのだ。
今なら手薄。しかも伊達と挟撃が出来る!ということで、兵を起こしたのだが……。

???「待てゐ!」
小田城にて立ちはだかるのは、資正(もうすぐ寿命)ら、太田&梶原軍団だった。
小田城に篭城する政景、そこへ後詰する資正、その間に挟まれる氏治という
見事な後詰の図にて、小田城はついに落城しなかった。

そして氏治は秀吉により改易。
資正自身も、小田原征伐終了後しばらくして死去。


よく書かれる太田資正の列伝だと、北条と戦っているところが強調されがちで、
後年ずっと氏治キラーだったことはあんまり書かれないので、知らなかった人も
多いかと。以上です。




381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 12:56:45 ID:gGwzkcnU
>>378-379
猫の手は借りても犬の手は借りるなという教訓ですね

382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 13:11:38 ID:HMX+2DTa
たいへんよ!武田北条連合軍の攻撃で松山城が降伏しちゃったみたいで、
後詰めにきた謙信ちゃんがキレたみたい…三楽ちゃんが殺されそうだわ

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 13:45:57 ID:yIGUwd5b
常陸小田氏と言われてパッと思いつくのは小田氏治と
後は流れ着いた北畠親房だなぁ

龍造寺に攻められた肥前小田氏って常陸のと関係あったっけ?

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 13:52:01 ID:1l2mm3HS
>>383
一応常陸小田氏から分かれた家>肥前小田氏
11代当主の小田持家の弟、直家の流れ。

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:01:30 ID:/Dz+FLyU
>龍造寺に攻められた肥前小田氏

もうちょっと他の紹介の仕方あるだろw

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:07:45 ID:1l2mm3HS
肥前小田氏も、少弐氏が滅んだ後は大友と龍造寺の間をあっちに付いたりこっちに付いたりした挙句、
龍造寺隆信に、いかにも隆信らしいやり方で滅ぼされてるな。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:25:13 ID:B85SO6OL
城ごと寝返り…
なんと太田さんの悪い話だったか。

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:27:14 ID:8SzD3RGW
いくら戦国時代だからってこれはひどい

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:35:07 ID:Cos3ydHm
信秀「信頼を裏切って城を取るとか、人間として最低だな」

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:40:47 ID:gtSsrHk+
しかし見てて思うんだが城は奪われても
よくぞ謀殺されたり暗殺されたり下克上されたりしなかったよなw
するほどのものではないと思われていたのかもしれないが
隣の国に直家さんや晴信さんやまー君やそのおじさんがいたら
氏治さん安らかに死ねなかったんじゃないかと思う……

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:45:33 ID:UFgkSI3/
軒を貸したら母屋を獲られたでござる・・・ 
母屋を獲り返そうとしたらセコムされてたでござる・・・・



392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:55:34 ID:ZsZsPLNJ
小田氏治「ワシの城返して!返して!!」
篭城中の太田息子「セコム呼びますね^^」
セコム監視センターの太田父「天庵さん困るんですよね、もうあなたのものじゃないんですから。
早々にご退去願いましょうか」

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 15:17:37 ID:NACAS0Ot
>391
資正「氏治さん、セコムしてますかwセコムしてなかったんですかwww」

氏治様は本当に家臣に恵まれたってことでしょうね。
なんでも、家臣の菅谷一族は、霞ヶ浦周辺の水運利権を支配してた様で、
結構その財力も、小田の『土浦城から反撃』に相当役立っていたの
ではないかと。
当時は霞ヶ浦及び周囲の川が、今と比べられないほど広かったらしく、
土浦城は地形的にも攻め難い。

普通に土浦が居城で良いような。

あと、資正様が実際どう考えてこの行動をしたのかは不明。
仕えてみて、この当主じゃ岩槻奪還は不可能と思ったのか、
書いたように、『最初から』何かしら手土産を得るつもりで仕えたのか。
はたまた全く別で、小田に仕官せず、既に佐竹が落としていた城を、
佐竹に仕官してきた2人に与えたのが脚色されたとか、色々な説がある様子。


ともかく、一つ言えるのは、

小田城奪還に固執する小田氏治と、
岩槻城奪還に固執する太田資正とが戦った。

妙な運命を感じるのは絶対気のせいじゃないwww

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 16:26:17 ID:gGwzkcnU
三楽斎には同情していたんだが、
もう同情できない!w

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 16:31:33 ID:gU2QPOpO
英雄だな、、、、ある意味。

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:11:04 ID:yR/vczHT
>>379の小田城見ると、三楽さんも物凄い気合い入れて縄張りしたもんだよな。
氏治さんもさぞかし驚いたことだろう。

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:17:10 ID:B3QAcWyn
>>396
コードギアスの紅蓮聖天八極式を見た時のラクシャータみたいな感じかな?

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:44:50 ID:av5rx39c
>>393
土浦城が毎度毎度小田城奪還の拠点になってるあたり、
城としては充分だろうから、
小田城見限ってそっちを本拠にしたほうが理にかなってるな。

もっとも小田城をあっさり捨ててたら、
氏治が今ここまで注目されることは絶対になかっただろうがw

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:06:36 ID:eH3qRvds
プチ小田氏治ブームだw
上のリンク先の小田城の写真や図面を見た限り
とても戦略的に価値があると思えないな。
まるで住居のよう。俺んち返せよ!って感じだったのかなw

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:16:34 ID:TO97nCxg
やはり名字の地だからからかねぇ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:24:29 ID:1l2mm3HS
>>400
後、地元の領民の小田氏への支持が強かったらしい。
攻め取られても相手に年貢提出を拒否したり。
家臣だけじゃなく領民からも、不思議なくらい慕われていたようだ。>氏治

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:05:39 ID:M9e38msO
>399
小田城が筑波山塊の南端の麓で、土浦城が霞ヶ浦の岸にあるから、
この2点間を制圧されると、南北交通は完全に遮断されるし、
東西の交通だって20km以上北の現在のJR水戸線が通っているあたりまで
回り道しないといけなくなる。

佐竹氏が下野、下総の反北条勢力と協力しようとするなら、
小田城の戦略的な価値は非常に大きいといえる。

403 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 19:41:46 ID:NACAS0Ot
>>402
その両城の中間に、地味に藤沢城もあったりする。

どうも小田庶流・家臣の守る城郭がそれなりの数は各地あったみたい。
海老ヶ島城もそうだけど、木田余城とかはそれなりの城郭だったみたい
……と、フォローしようと思ったけどダメだwww

なぜなら、調べたらば名が挙がってる城以外は、大体が城っていうか、
小田城初期と変わらないっぽい、館をちょいと強化した程度ってことが
分かったから。頼みますよ氏治様www

とすると、片野・柿岡城は小田の『主だった城』に数えるような城
だったんだろう。
……しっかし、地図見てると、片野・柿岡って相当面倒な部分
取られたんやなあと思うぜよ。

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:42:28 ID:x5IUdn2I
土浦から、古河や結城に直通する場所だな、小田城
関東諸侯にとって、争奪の地になるだけの価値はあったろう

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:46:37 ID:WqANowmX
名字が小田の俺としては感涙せざるを得ない流れ

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 20:01:04 ID:hp9iF3FP
>>397
その例え分かる人にしか分からんだろw俺はなるほどって思ったけど

てか、太田家は築城や縄張りに精通してたのかな
祖父の道灌も江戸城で有名だし
丹羽さん家なんかも親子で築城してるから家ごとに技術を受け継いでるのか

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 20:44:44 ID:iY21lQaa
城をわざと浪人に取らせる→鍛えたい武将で攻めて勲功upっていうのを思い出した。

太田資正「喉輪を外せ」・悪い話

2009年02月07日 00:02

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 18:59:54 ID:4+HYzei4

ということで、太田資正(の敵にとって間が)悪い話


喉輪を外せ

太田資正は国府台の合戦で北条氏に苦戦し、自らも数か所の手傷を負った。
運のないことにそんな手負いの資正に北条家の侍が組みついて、資正はマウントポジションを取られた。さらに運の悪いことに資正の郎党もそばにおらず、助太刀も期待できない。
資正絶対絶命のピンチである。

敵の侍は脇差を抜いて資正の喉首に刃を押しあてた。ところが、資正が喉輪(首・胸元を防御する武具)を装着していることに気付かないのか、なかなか刃が通らない。

資正は郎党が駆け付けるまで時間を稼ごうとこう言った。
「貴殿に言い残したいことがある。それではワシの首は取れないぞ。まず、喉輪を外してそのあとに首を切るべきでござろう。」
「資正殿、ご忠告かたじけない。今から喉輪を外すゆえしばし待たれよ。」と敵はもどかしい手つきで資正の喉輪を外し始めた。

そうこうする内に主人のピンチを救わんと資正の郎党が駆けつけ、敵は郎党にあっさりと首を取られたという。
(続武者物語)




585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 19:28:39 ID:/7yysFKG
こんな極限状態なのに互いに礼節を忘れないってのはやはりすごいなw

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 19:37:45 ID:hscWy0OR
>>584
無防備である脇の下から心臓を突き刺すのは当時はタブーだったのかな?

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 19:38:32 ID:wv51c67d
先にトドメを刺さないあたりはむしろいい話

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 19:40:12 ID:jlqoFdJ1
>>586
その方法に気づかせないために、わざわざ「喉輪をはずせ」と言ったんじゃないの?

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 19:45:54 ID:XVBZnsHQ
さっくり止め刺させないために時間掛かる方法をわざと教えた、と。
沈着冷静だな

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 23:48:08 ID:/HKT1Ag8
>>586
当世具足だと脇の下には万智羅という鎖帷子のベストや、
脇引という鉄の小札を綴ったパッドを付けてるよ

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/07(土) 00:15:34 ID:r4421eHK
>>599
マ、マンチラ?

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/07(土) 03:02:24 ID:0BKMuQu1
>>600
畠山さん成仏して下さい。

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/07(土) 13:06:27 ID:6DEkfM/x
>>584
資正と康資の逸話は、奇しくも里見方として国府台合戦に参加したときのものだね。
同じ戦場にいたとは思えない落差だな。
資正の能力は秀吉をして「おれですら天下を取れたのに、資正ほどの人物が一国すら取れない
のは本当に不思議だ。」と言わしめた人物。よっぽど地の利を得なかったのかな。
この人の晩年は悲壮感すらあるね。
ちなみに、2人は晩年にタッグを組んでいるが、オードリーみたいな芸風だったのだろうか?

太田資正の戦国トップブリーダー・いい話

2008年10月16日 13:35

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/02(木) 00:45:06 ID:1ZwzHorE
戦国トップブリーダー

武蔵国、岩付城主、太田資正は大変な犬好きであった。居城である岩付城と、属城としていた松山城とに
五十匹ずつの犬を飼っていた。だが、城内でも場外でも、資正が犬とじゃれあっているのを見ると、
家臣も領民も、あまりに度が過ぎる「うつけ殿め」と、陰口を叩いていた。

しかし資正は気にもとめずに、何月かに一度は、岩付で飼っていた犬五十匹を松山城に連れて行き、
帰りがけにそれまで松山城で飼われていた犬たちを連れて戻って行った。

そんなある時、松山城が北条氏康に急襲された。

あまりに急なことで城は完全に包囲され、異変を知らせる使者すら、北条の忍、風魔の手にかかりり皆、殺された。
松山城は完全に孤立した。もはや開城しかないのか、城代たちがそう覚悟を決めようとしたとき、
資正から犬の世話を任されていた下人が、おずおずと言った

「殿様が、何かあればこの犬達を放せ、と言っておりました。」

何かはわからぬが、ともかくも城にいた犬を放ってみた。
すると資正の犬達は、まっしぐらに資正のいる、岩付城へと駆け出した。
風魔衆も、人は警戒していても、犬までは警戒していなかった。
犬達が駆け込んでくるのを見た岩付城の資正は異変を察知、すぐさま軍勢を繰り出した。
岩付城との連絡は取れないと、たかを括っていた北条勢はこれに驚き、慌てて囲みをといて逃走した。


大田資正の犬、その号を取って三楽犬。日本で始めての軍用犬の活躍、と言われるお話。




261 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/02(木) 00:47:49 ID:bbRjd+dn
>>260
それって確か山田風太郎「風来忍法帖」に出てきた話の元ネタにもなったね

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/02(木) 00:52:36 ID:Uk9YE/iP
>>260
この太田資正の子孫が狗法眼ガルフであることはあまりにも有名である

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/02(木) 01:00:50 ID:4Vwy1rOB


265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/02(木) 09:39:14 ID:xmEyyzox
いい話というかスゴイなこの殿様

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/02(木) 13:43:36 ID:cF3xEyUH
いやあ(ノ´∀`*)

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/02(木) 15:15:22 ID:LAzYl/p9
>>266
おいw