「朝野雑載」から徳川忠長のこと
寛永八年十一月(1631年12月-1632年1月)、駿河大納言忠長卿は駿河国浅間において猿狩をするという触れを出した。
御家人ら「浅間山はいにしえより殺生禁断のところです。願わくば御遠慮ください」
とおのおの諌め申したけれども忠長卿は御承知せず
「かの山も我らが領分なれば、なにを咎められることがあろうかあ
と同月十五日、浅間山に入って猿狩を行い、千二百四十余を狩猟した。
こうして帰路に赴かれたとき、駕籠の窓から手を出し、駕籠かきの男の上腕を削刀で突き通しなさった。
駕籠かきが驚きあわてて逃げ去ったのを、近習に申し付けてすぐに誅殺なさった。
これが卿の人殺しのはじめである。
これより後は常に心にむらが起きて、近習のともがらはもちろん、奥方の女中にいたるまで、とがなきものをしばしば打擲なさったため、人々は愁い苦しんだ。
同年十二月二十一日、狩にいでたまい、ある寺で休息なさっていると、
小浜七之介という侍が馬に乗って、眼前三丁(330mほど)あまり隔てたところを通り、この寺に来た。
(以下
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9685.html
と同じ話)
こうして酒狂か、浅間山の祟りかと噂になったが公儀を恐れて内密にしていた。
しかしとうとう上聞(家光の耳)に達したため、寛永九年九月五日、甲州に籠居を命じられたが、その後、領地を召し上げられ高崎城主・安藤右京亮重長預かりとなった。
安藤重長は忠長卿を厚遇し、御殿の外に鹿垣を廻らせて、その内は自由に歩行できるようにさせた。
しかし寛永十年九月、上使として阿部対馬守重次が高崎城に赴き、上意を申し渡した。
上意の仔細はしれないが、重次が一旦江戸に戻ってまた高崎に来たため、世に出回った話では、
阿部重次「忠長卿の御乱行が収まらないため御自害に誘導するように」
少し考えたあと、安藤重長「将軍家のお墨付きはございますか?」
重次「それがしが上使として来たからには御証文の必要はないでしょう」
重長「もちろん上意に逆らうわけではありませんが、忠長卿は将軍御連枝で、御証文もないのに御自害をお勧めするわけにはいかないでしょう。
はやくら江戸に帰って御証文をご持参してください」
そのため重次は江戸高崎を往復したという。
その後、重長が鹿垣を御殿の縁際まで狭め、御殿の外に出られないようにしたところ
忠長卿「なぜこのように鹿垣を結ぶのだ?」と尋ねられたため
重長「将軍家の御下知にてこうしております」
それ以降、忠長卿は御殿の外に出なくなり、女中たちにも暇をやり、御前には十二、三歳の童二人だけが仕えるようになった。
ある日、忠長卿は童二人に台所に酒をとりに行かせ、一人になった。
童たちが御酒と肴をとって帰ってくると、忠長卿はみずからの脇差で自分の首を半分ほど斬り、うつむいて倒れていた。
そののち、御目付衆がきて、そのままにされていた死骸を検死し、御自害ということになった。
忠長卿は十五日ほど前から、財産、宝物の整理をし、反故は全て焼き捨てていたという。
寛永八年十一月(1631年12月-1632年1月)、駿河大納言忠長卿は駿河国浅間において猿狩をするという触れを出した。
御家人ら「浅間山はいにしえより殺生禁断のところです。願わくば御遠慮ください」
とおのおの諌め申したけれども忠長卿は御承知せず
「かの山も我らが領分なれば、なにを咎められることがあろうかあ
と同月十五日、浅間山に入って猿狩を行い、千二百四十余を狩猟した。
こうして帰路に赴かれたとき、駕籠の窓から手を出し、駕籠かきの男の上腕を削刀で突き通しなさった。
駕籠かきが驚きあわてて逃げ去ったのを、近習に申し付けてすぐに誅殺なさった。
これが卿の人殺しのはじめである。
これより後は常に心にむらが起きて、近習のともがらはもちろん、奥方の女中にいたるまで、とがなきものをしばしば打擲なさったため、人々は愁い苦しんだ。
同年十二月二十一日、狩にいでたまい、ある寺で休息なさっていると、
小浜七之介という侍が馬に乗って、眼前三丁(330mほど)あまり隔てたところを通り、この寺に来た。
(以下
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9685.html
と同じ話)
こうして酒狂か、浅間山の祟りかと噂になったが公儀を恐れて内密にしていた。
しかしとうとう上聞(家光の耳)に達したため、寛永九年九月五日、甲州に籠居を命じられたが、その後、領地を召し上げられ高崎城主・安藤右京亮重長預かりとなった。
安藤重長は忠長卿を厚遇し、御殿の外に鹿垣を廻らせて、その内は自由に歩行できるようにさせた。
しかし寛永十年九月、上使として阿部対馬守重次が高崎城に赴き、上意を申し渡した。
上意の仔細はしれないが、重次が一旦江戸に戻ってまた高崎に来たため、世に出回った話では、
阿部重次「忠長卿の御乱行が収まらないため御自害に誘導するように」
少し考えたあと、安藤重長「将軍家のお墨付きはございますか?」
重次「それがしが上使として来たからには御証文の必要はないでしょう」
重長「もちろん上意に逆らうわけではありませんが、忠長卿は将軍御連枝で、御証文もないのに御自害をお勧めするわけにはいかないでしょう。
はやくら江戸に帰って御証文をご持参してください」
そのため重次は江戸高崎を往復したという。
その後、重長が鹿垣を御殿の縁際まで狭め、御殿の外に出られないようにしたところ
忠長卿「なぜこのように鹿垣を結ぶのだ?」と尋ねられたため
重長「将軍家の御下知にてこうしております」
それ以降、忠長卿は御殿の外に出なくなり、女中たちにも暇をやり、御前には十二、三歳の童二人だけが仕えるようになった。
ある日、忠長卿は童二人に台所に酒をとりに行かせ、一人になった。
童たちが御酒と肴をとって帰ってくると、忠長卿はみずからの脇差で自分の首を半分ほど斬り、うつむいて倒れていた。
そののち、御目付衆がきて、そのままにされていた死骸を検死し、御自害ということになった。
忠長卿は十五日ほど前から、財産、宝物の整理をし、反故は全て焼き捨てていたという。
スポンサーサイト