柴田源左衛門勝定、勝家に追放される。その理由とは?

2010年11月08日 00:00

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 22:56:16 ID:XNFL6uOv
柴田源左衛門勝定、勝家に追放される。その理由とは?

天正七年のある日、近江坂本の明智長閑斎、その子十郎左衛門光近のもとに
柴田源左衛門と名乗る者が一族郎党百余騎随え訪ねて来た。
自分は故あって主君勝家に改易されましたので、明智家に仕官したいと願い出る。
この源左衛門、明智左馬助の妹を娶り、十郎左衛門もまた左馬助の妹を妻として
いた縁により越前より頼ってきたそうな。
十郎左衛門の父、長閑斎は明智光秀の伯父であったので、源左衛門の願いを聞き
光秀と引き合わすこととした。
さて光秀、源左衛門と対面して尋ねられる。
汝の先君柴田殿は北陸を平定してこれを良く治め、威勢盛んであると聞くが、其方
いったい何をして越前を立退くこととなったのか。
源左衛門勝定これに答えて申すには、勝家様は領内を統治するにあたって家臣の所替を
決められました。その中にそれがしも含まれており越中木船の城へ遣わされることと
なりました。けれども実はそれがし寒いのが苦手でございまして、元居た越前安居
でさえ難儀していたところ、今度は越中と聞き、これより寒い所に行くのは困ると
訴えたのですが、勝家様は既に決めたことであるのに命令に背くのかと甚だ立腹され、
たとえ一族の者であっても聞き届けるわけにはいかないと、それがしに暇を言い渡され
たので越前を立退き参ったのです。と。
光秀はこれを聞いて、それならば当家で召抱えようと、彼を丹波の国柏原の城に
入れ置かれました。

以上、寒がり柴田源左衛門のお話でした。上の方で明智軍記のことが出ていたので
便乗仕り候。想像力を働かせれば勝家なりの気遣いと思えなくもないが、こっちに
投稿します。なお、寒がりと書いたけど、原文では寒気を痛むる持病候てとあるので
もしかしたら病気か何かかもしれない。
余談であるが、この源左衛門、本能寺の変後も光秀に属し山崎合戦に従軍。光秀が
滅ぼされてからは堀秀政に仕え越前へ、久太郎没後は子の秀治に仕え越後へとどんどん
寒いところにいってるわけだが寒気痛むる持病とやらは治ったのだろうか・・・?




440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 23:04:27 ID:F7kNdUSJ
この主君に仕えていては危ないと言う悪寒がしたと言うことかw

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 23:09:32 ID:OokD/8Qd
当時の暖房や衣服の貧弱さって洒落にならないからなw
さらに雪を掻き分けて戦場に出ることを思うととんでもない寒さだろうよw

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 23:20:46 ID:F8HkL/TZ
ちょっと面倒な骨折したことがあるんだけど、寒い日には
本気で涙目になるほど痛むからなあ・・・

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/06(土) 23:31:16 ID:OIfE65EY
漢よといわれた傷が秋を知る という川柳を思い出した。
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