三ノ宮の怪異

2016年02月09日 09:56

天海   
126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 09:48:17.59 ID:9/TruwmO
慶長19年5月22日、天台宗の面々が登営し南殿に出御した時、南光坊天海がこんな事を言った

「最近、比叡山の八王子三ノ宮で珍事がありました。それは先ず、学林坊の奴である次郎を天狗がさらって
行方知れずとなった事件から始まりました。

10日ばかり過ぎて、この次郎は帰ってきてこう云いました
『私はこれまでの間、当山の大天狗、次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、鞍馬山の大僧正、
彦山の豊前坊、大山の伯耆坊、上野の妙義法印、彼ら何れにも叡山に参るべき旨を振れ回りました。』

このように大天狗たちが叡山に登る旨を聞いた人々は、皆不思議に思い、そこからかの三ノ宮に参詣してみると、
天にわかに曇り、激しい風雨が巻き起こったかと思えば、大霰まで降ってきました。
そしてあの次郎が三ノ宮の社殿の棟に飛び上がり、しかしそのまま落ちると、軒端にて起き上がり、
足を上げて立ちました。

その他天狗の眷属たち大勢が、社の上にて様々に不思議な事をし、扇を以って歌舞を行うのを人々は目撃しました。
また三ノ宮の扉を、これは普通は2,30人で持ち上げるような物ですが、その扉2枚ずつを回し投げました。
それなのに、この扉にはいささかの傷もなかった。
また、虚空より大礫を数多打っていたそうです。」

そのように云々したという。
(玉露叢)



127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 11:21:07.72 ID:RFhGQd0T
昔の人は大嘘つきが多いね
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文禄二年、夏の日照り

2013年07月11日 19:52

天海   
661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 17:42:24.24 ID:EX41pm2q
さて、蘆名修理大夫盛高は俗類の親しみにより師(天海)を会津に呼び請け、
稲荷堂の別当にした。盛重が会津を落とされて常陸国江戸崎という所に移ると
師も伴われ、その領分の不動院という旧寺があったものを修造して住まわれた。

文禄二年の夏、日照りが続いて草はみな枯れてしおれ、千里の間に青苗は見えず、
民は憂いてどうしようもなかった。里の人々は苦しんで師に雨の祈りを願ったので、
師がただちに川のふちに出て修法なさるところに、一人の女が五鈷を持ってきた。

女は「これで加持してください」と言って師に五鈷を与えて消えてしまった。
師は川のふちにのぞみ請雨の法を執り行い、仏舎利一粒を竹葉に乗せて水の上に
浮かべなさった。

すると水中より青蛇が出てきて舎利を咥えて沈んだ。少しの間に黒雲は立ち重なり、
雷はひどくうなって稲光が起こると、急に大雨が降って枯れた稲葉も色を変え、
百穀は実って人民も栄えた。

先の女についてはその行方を尋ねたが、どこの誰とも知る人はいなかったという。
五鈷は今に当山の霊堂にある。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』




663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 20:05:54.43 ID:9wcel/X/
本物の仏舎利なら、五鈷より貴重な気がするけど

南光坊大僧正・天海の仰ったことに

2013年04月05日 19:59

天海   
161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 00:35:23.55 ID:ImF6WZ28
南光坊大僧正・天海の仰ったことに、

「この頃『甲陽軍鑑』という書物が出版され、それを読んだ所、川中島合戦での信玄謙信の
太刀打ちの年月、日時、場所、これが大いに相違している。
その上信玄が軍扇にて謙信の刀を受けたとあったが、これは全くの虚説である。

その当時、私は会津の不動院にあった。武田信玄はこの不動院の大檀那でもあり、私は
信玄のための祈祷をしていた。

天文23年(1554)8月、私は甲州の旦那廻りに行った所、信玄は川中島で謙信と対陣していると聞き、
直ぐに川中島まで軍陣見舞いに赴いた。則ち8月17日であった。
信玄は私に直ぐに対面して頂き、

『遠方まで見舞いに駆けつけてくれて、たいへん喜んでいる。しかしここ一両日のうちに
輝虎(謙信)と合戦になるであろう。貴僧は早々に帰られ、来春甲州において、緩々と語り合おう。』
そう仰られたため、私は帰ったのであるが、途中、

『寺の大檀那が近日大事の合戦を取り結ぶと言うのに、いかに私が出家だといっても聞き捨てにして
帰るのは道理にかなわない!』

そう思い直し、夜通し歩いて川中島まで戻った。途中、下米宮(あめのみや)に一泊し、翌18日、
合戦の模様を山の上から見た。

御弊川の中に両軍乗り込み、輝虎も太刀、信玄も太刀にて暫く戦っていたが、やがて敵味方押し別れて
合戦は終わった。
その夜、信玄の陣屋を訪ねて行くと、信玄は驚き、

『御坊は帰ったと思っていたのに、奇特にも立ち帰ってこられたのか!』

そう言って殊の外褒められた。その時信玄は負傷していて、床机に寄りかかっておられた。
私は信玄に

『源平合戦の時代より、大将と大将の太刀打ちなど、古今聞いたこともありません!
さてさて、なんというお手柄でしょうか!」

と申し上げた所、信玄は急に顔色を変え機嫌悪く仰った

『謙信と太刀打ちしたのは私ではない、鎧兜を同じにさせた影武者である!
知らぬ者はこの信玄本人だと思うであろうが、私ではないのだ。

よいか、奥州の伊達や会津、佐竹などの所で、信玄と謙信が太刀打ちしたなどと、
絶対に語ってはならぬぞ!』

信玄は殊の外の機嫌の悪さであったが、しかし私は山の上からはっきりと見たのだ。あれを
見間違えることはない。信玄と謙信の、直の太刀打ちであったのだ。
甲陽軍鑑は嘘を書いている!」

このように言われた。
その後、江戸城において横田甚右衛門の話に、
「謙信は太刀にて斬りかかった所に、信玄は床机に座り、軍扇にてこれを受けた」
と語った所、天海僧正は大いに甚右衛門を叱りつけられた

「甚右衛門は未だ生まれてもいなかった時のことを、どうして存じているのか!?私は直接に見た!
御幣川に乗り込み、馬上にて信玄謙信共に太刀打ちをしたのだ!その時私は45歳で、はっきりと見た!
川中にて馬上での太刀打ちである!」

伝え聞く所によると、天海僧正は足利公方義澄公の末子であり、母は会津の蘆名盛高の娘。
永正7年(1510)の生まれで、義澄公が逝去されると、母とともに会津へと下向され、そこで姓を
平氏に変えられたと言う。寛永19年(1642)に亡くなられた。この時134歳(原文ママ)であったという。
(北越太平記)


関連
ホントですか大僧正?


162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 00:37:48.22 ID:1sWt4juu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6673.html
同じ話は前にも出てるけど出典は違うのか

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 00:42:38.17 ID:1sWt4juu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4861.html
ついでに前に出てた天海僧正が義澄公と蘆名盛高の娘との間の子供説のほかの逸話

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 08:47:48.12 ID:PgVurYge
一騎討ちして負傷したなんてwww恥ずかしくて喧伝できんわな
そんなの広まったら毎回本陣突っ込まれる羽目になるぜ

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 10:11:45.73 ID:Y34eVvqp
普通本陣に突っ込まれてる時点で負けだしなw

ホントですか大僧正?

2012年08月10日 21:40

天海   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:00:10.53 ID:8Xj1weZz
ある日、南光坊天海が江戸城で語った。
「最近『甲陽軍鑑』という本を読んだが、上杉謙信が武田陣に乗り込み、武田信玄は謙信の太刀を軍配で請けた
と、書いてある。ありゃ、ウソじゃ。

わしは、あのころ会津不動院に住しておったが、武田家に祈祷師として呼ばれる事があった。
天文23年(1554)8月、わしが甲州へ檀那廻りに行くと、信玄公は信州で上杉と対陣との話。急いで川中島へ
向かい、8月17日、信玄公と対面かなった。信玄公は機嫌良く会ってくれたが、

「一両日に輝虎と合戦に及ぶであろう。ひとまず御坊は会津に帰り、来年ゆるゆると甲斐に来られよ。」
と、さっさと追い出されてしもうた。

わしも一度は帰路に着いたが、「出家の身が、大檀那の大事なる戦を聞き捨てにして去るとは、道理に合わぬ」
と思い直し、夜通しかけて立ち戻り、翌18日の合戦を、近くの山に登って眼下に見届けた。
両大将は御幣川に馬を乗り入れ、太刀にて一騎打ちに及んだが、敵味方入り乱れるうち、退いて行ったわ。

その夜、わしは信玄公の陣小屋へ見舞いに行った。信玄公は手負い、壁に寄りかかっておったが、
「御坊は帰られたと思っていたわ!」と喜んで迎えて下さった。

それを受けて、わしも
「源平の合戦以来、大将の太刀打ちなど、聞いた事がありませぬ。古今に無きお手柄にございますぞ。」
と褒めたが信玄公は、にわかに顔色を変え、

「輝虎と太刀打ちしたのは、わしでは無い。知らぬ者は信玄と見ただろうがアレは、わしに似せた法師武者よ。
わしでは無いので御坊、奥州に帰られても、左様な話は無用ぞ!」

と怒られた。が、わしは近々と見たのじゃ。なかなか見間違えるハズも無し。」

話を聞いていた横田尹松が尋ねた。
「わしも謙信公の太刀にての斬り掛けに、信玄公は軍配で受けた、と聞きましたが・・・」

「しゃっ!甚右衛門は生まれてもおらぬ時の話の、何を存ずるか!?わしは直に見たのじゃ、両大将の、
騎馬にて川に乗り込んでの太刀打ちをな。わしが45歳の時の話じゃ、間違いない。」
(上杉将士書上より)

・・・ホントですか大僧正?(天文23年に45歳だと享年133、4になるw)




905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:05:38.72 ID:e8TeZ/K+
>>904
こういう事ですね
  .-、 
  ヽ、メ、〉      r~~ー-、__      ________________
  ∠イ\)      ムヘ._     ノ      |
   ⊥_      ┣=レヘ、_ 了     | え--い、信玄公は軍配で受けたんじゃないっ!
-‐''「 _  ̄`' ┐  ム  _..-┴へ   <
  | |r、  ̄ ̄`l Uヽ レ⌒',    ヽ.   | 川に乗り込んだんだ! 騎馬での太刀打ちだっ!!
  (三  |`iー、  | ト、_ソ   }     ヽ   |
  | |`'ー、_ `'ー-‐'    .イ      `、   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  | |   `ー、    ∠.-ヽ      ',
__l___l____ l`lー‐'´____l.       |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||  .|      |
               ||  |__.. -‐イ
               ||   |    ノ/


906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:39:15.96 ID:WJIhcnj1
実は光秀だったり享年100歳越えの化け物だったり忙しい坊さんだな

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:48:59.34 ID:mscTs0VD
第四次川中島って永録…

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 00:19:41.79 ID:BSV3slSp
このジジイ自分で怪情報流して楽しんでるだろw

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 10:48:22.93 ID:A8NxHFdf
享年108歳だとしても当時19の若僧じゃねーかw

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 11:25:12.62 ID:l1z91fYL
そっか、文章でも真実とは限らないんだな。幽斎さまとかならそうぶれとかないだろうけど三才さまとかまーくんだと脚色とか多そうだ

会津の稲荷社別当、喜楽坊

2011年04月13日 00:00

天海   
633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/12(火) 11:48:54.50 ID:LaKUvIAJ
天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原の戦いで大敗した、当時未だ13歳の蘆名義広の身を、
その側に付き従い守ったのは、会津黒川の稲荷社別当、喜楽坊という僧侶であった。
彼は義広の侍女たちにまで刀脇差を差させ、自分は薙刀を持って厳重に警護をし、
蘆名義広を佐竹領まで無事、退かせた。

やがて豊臣秀吉の東北仕置が終わると、蘆名義広は常陸江戸崎に4万5千石を与えられた。
この頃喜楽坊は名を変え、不動院と名乗っていた。

さてそんなある時、蘆名家の家臣、家田八右衛門という者が義広に反逆、
義広の乳母を人質にして立てこもる、という事件があった。

この時喜楽坊改め不動院は家田に

「侍たるもの、人質に女人を取るというのは不覚なことである。私が代わりに人質になるので、
彼女を開放しなさい。」

と説得。家田もこれに応じ、乳母と不動院を交換した。

と、ここで、

乳母の帰ってきた事を知った蘆名義広は直ぐ様、家田八右衛門を攻めかけた。
不動院がいるのに。
この時家田は討ち取られ、不動院は運良く無事であった。が、流石にこれに怒った不動院は
寺を明け江戸崎から退転しようとした。しかし他の僧侶達がこれを説得し、達て不動院を滞留させた。

この不動院、後の東叡山南光坊。すなわち天海僧正である。




天海僧正と伊達政宗

2011年03月29日 00:01

天海   
585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 02:39:18.61 ID:MwZdKRyO
天海僧正は黒幕・妖僧のイメージが強い。
それは前半生が謎に包まれているからだろうか。
一説によると会津高田の出身で蘆名一族出身の人間とも言われている。

そんな天海僧正に伊達政宗が宛てた手紙が残っている。
一見するとあまり接点がないような二人だが、奇妙な接点がある。

天海の前半生一つとして会津に戻っていた説がある。


天海は天正元年(1573)より十数年のもの間、
蘆名盛氏の招きにより会津に定住する。

しかし、天正17年(1589)に蘆名義広と伊達政宗との間に
摺上原の戦いが勃発し、蘆名氏は破れ、蘆名氏側についていた
天海は会津を離れることを余儀なくさる。
この時、蘆名氏を滅ぼした政宗に対して天海は相当な恨みを持つ。


天海は蘆名氏を護って常陸へ行くことになり、江戸崎不動院の住職を務め、
その後、歴史の表舞台へと立った天海は家康・秀忠・家光と三代に仕える。


江戸幕府が成立し、政宗と天海は顔を合わせる機会が増える。
蘆名氏を滅亡させた仇敵政宗に対して、恨みを持っていた天海であったが
次第に政宗と恩讐を越えた関係が築かれて行く。

そんな天海に政宗はいくつかの手紙を出しており、そのうちの一通が
龍興寺(福島県会津美里町)に残っている。


伊達政宗

「天海殿にぜひともご面談したかったのですが、先客があるとのことで
そちらもお疲れのようですから、今回はこれで帰ります。」



文面からはごく親しい人を訪ねる政宗の気持ちが表れているようで
気心通じた親密さがうかがえる。


天海と言うと、大坂の陣の発端となる方広寺鐘銘事件に崇伝、本多正純と
関わったとされ、ダーティな部分を連想させる。

しかし、紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出たり、
大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出てたり
堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走したり、また民政にも
力を入れている。


後世でDQN扱いされる政宗。
黒幕・妖僧・明智光秀同一人物説などという扱いを受ける天海僧正。
彼らの本当の姿とは?




586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 02:45:51.99 ID:dNlhN9Yp
天海にダーティーなイメージなど最初からない
金地院とごっちゃにしすぎ

587 名前: 【東電 63.8 %】 [sage] 投稿日:2011/03/28(月) 05:02:01.81 ID:fi9io1lY
天海は小説やマンガ、ゲーム等で悪役・黒幕としてやたらと登場してるけど、
崇伝はそういうの無いもんね。

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 07:24:42.50 ID:03fq79X8
林羅山「ワタシには悪いイメージないな」
鳥居燿蔵「御先祖様・・・」

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 08:54:21.93 ID:fqr94LUg
>>587
金地院さんは「あずみ」でムチャクチャ悪役だよ。
あと「あずみ」の宮本武蔵はカッコよすぎ。
「バガボンド」の武蔵はバスケ部員が剣豪始めましたみたいで苦手

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 15:37:19.30 ID:EttIvdFV
>>587
漫画的には天海の方が字面にインパクトあるし強敵っぽいからね

実際には崇伝の方が悪役・黒幕的な要素が濃い気がするが

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 15:43:18.83 ID:88Ew93xR
天海が黒幕という驚愕の展開が

……ごめんなさい

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 15:50:56.88 ID:iNTW8Jnl
天界へ行きたまえ

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 20:48:35.48 ID:lOGfiZDe
天海は某ゲームで悪役ボスだったからそういうイメージがw

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 21:30:16.91 ID:TtVUO1AI
水金地火木土…

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 01:07:16.00 ID:Mx/sONYQ
天海が悪役ボスってどんなゲームだw

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 02:10:30.67 ID:hls/vBwJ
正体は明智光秀で云々って感じでボスだったゲームは確かあった。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 03:32:45.13 ID:1HIW+/X9
天海春香…いや、なんでもない

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 18:10:20.77 ID:mboLT6Dz
>>602
サクラ大戦とか?
あれ1の中盤のボスが天海
ちなみに4のボスは大久保長安

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 18:53:48.80 ID:cinmdMEN
>>602
蒸気で動く甲冑が登場するゲームとか

『寛永通宝』秘話

2010年11月13日 00:00

天海   
551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 01:50:41 ID:SiS9Y7zT

室町幕府は足利義持の時代、鳴海刑部賢勝という人物が朝鮮より貢がれた永楽銭
3000貫文を幕府に献上した。
義持はこれを大層喜んだが、それでも「我が国で流通させるには量が足りぬ」と言
って、永楽銭の模造品を賢勝に作らせた。
それ以来、鳴海家では代々銭奉行を務めたという。

時は下って賢勝の孫・兵庫則賢の時。将軍足利義澄に子供が生まれた。
しかし時代は戦乱の真っ只中。京の混乱を避け、義澄は妻と子を、妻の実家に帰す
事にした。
この妻は陸奥国会津の蘆名盛隆の娘であった事から、生まれたばかりの身で遠国に
行かねばならない息子の身を案じた義澄は、則賢を側近として若君に付け、共に下
向させたのである。
義澄は結局、幕府の権力争いにより将軍職を追われ、復帰出来ぬままで死を迎えた
為、息子の安全を確保する為に、この処置は極めて的確であったと言って良いだろ
う。

やがて成長した若君だが将軍、しかも失脚した将軍の御落胤となれば政治的に利用
されかねない立場だ。一つ間違えれば蘆名家のお家騒動にも繋がりかねないし、下
手に担ぎ出す事にも抵抗がある。
様々な事情を考慮して、寺に入り出家する事になった。
僧となった若君にも則賢は変らず仕えていたが、彼が死に、息子の刑部重則の代に
なると、寺を離れ、水戸の佐竹氏に仕え始める。


552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 01:53:14 ID:SiS9Y7zT

再び時は流れて江戸時代、徳川家光の時代である。
ある時家光は不思議な夢を見た。何故かその内容が気になったので、乳母の春日局
を通じて天海僧正に夢判断を頼み込んだ。

「家光様は夢の中で、江戸城を出て南の新しい城に移るという夢を見られたそうで
すな。しかも、徒歩で新しい城まで移動されたとの事。これは吉夢と言うべきです」

家康より三代に仕えた側近、天海は春日局にそう告げる。

「まず城が変わるというのは、『代替わりする』という事です。物を買った時、銭
を支払う事を『お代を払う』と言うでしょう? そしてまた、代金の事を『お足』と
も呼ぶではないですか。これは新しい貨幣を鋳造せよ、という事を告げているので
す。銭を替え、新たな銭が国中を巡る事で国は栄える。まことに天が将軍家に新た
な政の指針を授けたと言うべき吉兆なのです」

その夢判断を受けて家光は、土井大炊頭利勝を責任者として新貨幣鋳造プロジェク
トを立ち上げ、細かい計画は利勝と天海で相談して進めるよう命令を下した。
新しい貨幣は『寛永通宝』と名づけられる。これは天海が住職を務めたのが東叡山
寛永寺だったからだと言い、当時の元号が寛永と言ったからだとも言う。

『寛永通宝』の鋳造責任者として、常陸から招聘されたのが、鳴海刑部重則の孫・
鳴海兵庫賢信。
賢信は先祖から伝わる知識と技術を持って『寛永通宝』を作り上げ、銭座の棟梁と
なったのである。


しかし、常陸の片隅でひっそり暮らしていた鳴海一族に、銭の鋳造技術が伝わって
いる事を、何故土井利勝や天海が知っていたのだろう?
……そう、足利義澄の血を引き、会津で育ち、鳴海一族が仕えた僧。彼こそが後の
世の天海僧正だったのである。


え? 天海って足利将軍の落胤!?
光秀になったり将軍の息子になったり、忙しい奴だな、天海。
一応、出家した若君は常陸国江戸崎の不動院の住職になったと伝わっており、天海
が武蔵国川越の無量寿寺(後の喜多院)住職になった時、江戸崎不動院の住職も兼
務していたらしいので、辻褄は合うようですが……

いい話か悪い話か迷ったのですが……天海、あまりにもその夢判断は無茶しすぎだ
ろ、と言う事で悪い話に。
いや、本当は鳴海一族の忠誠を忘れずに取り立ててやった天海のいい話のつもりだ
ったんですが、前半を間違って悪い話に投下してしまったので、無理矢理こじ付け
てみた(笑)




553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 08:29:37 ID:UWBG0hZ/
天海いくつなんだよwwwwって感じだな~

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 09:21:12 ID:TrBe5Was
妖怪に向かっていくつとは失礼なw

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 13:09:12 ID:as+3AHTe
>>552
>光秀になったり将軍の息子になったり、忙しい奴だな、天海。
逆に考えるんだ、将軍の息子が光秀で、なおかつ天海だったと考えるんだ。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 13:38:58 ID:06EEDWpW
明智光秀「実は将軍の落胤でした」
羽柴秀吉「実は天皇の落胤でした」
柴田勝家「実は斯波高経の子孫です」

信長「お前らいい加減にしろ」

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 15:08:07 ID:zhyHBNYh
信長「かくいう俺も実は桓武平氏な訳だが」

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 18:21:28 ID:9JfZvB4b
北南それとも知らずこの糸のゆかりばかりの末の藤原

天海僧正と長生きの秘訣

2009年08月10日 00:15

天海   
214 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/09(日) 10:46:18 ID:VhgsNaYm
天海僧正と長生きの秘訣

天海は108歳まで生きたといわれ、これは戦国時代でもまれな記録である。
徳川3代に仕えたが、それぞれに長寿のアドバイスをしている。

家康に対しては、江戸入りの際に他の寺社がえりすぐりの珍品、名品を献上するのを横目に、
納豆を健康食品として献上した。
他の珍品、名品を受け取らなかった家康も、納豆は喜んで受け取り、
その後の天海と家康との対面は納豆談義と呼ばれている。

真面目な秀忠には、
「長生きするには、粗食で、うそをつかず、毎日風呂に入り、お経も読み、時々はおならもしなさい。」
という歌を送っている。

一方、短気で好色な家光には、
「気は長く、仕事は真面目に、色事はほどほど、小食にして、寛大におなりなさい。」
という歌を送っている。

人に合わせた健康法を指導できる柔軟性が、実は長生きの秘訣かもしれない。





215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/09(日) 12:41:56 ID:X+nyH292
さすが日向守惟任様

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/09(日) 12:43:58 ID:9PPK/36a
おならをしたら味噌が出ました

227 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/09(日) 19:57:17 ID:eBAheu7b
>>214
>他の珍品、名品を受け取らなかった家康も、納豆は喜んで受け取り、
その後の天海と家康との対面は納豆談義と呼ばれている。
糸を引くから納豆談義かw