池田家の親子大膳

2010年11月14日 00:01

伴大膳   
251 名前:1/2[] 投稿日:2010/11/12(金) 22:02:11 ID:Pcp9T+QH
慶長19年(1614)、大阪城に置いて徳川への内応を疑われた片桐且元は大阪城から居城である摂州茨木に
逐電する。これにより大阪冬の陣が始まるのだが、この時のこと

泉州堺の津においてかねてから且元と心を通わせていた柴山小兵衛が大阪方の兵に攻められ困難な状況にある、
との知らせが入り且元は急遽兵を出した。且元の兵は、建部三十郎の収める尼崎まで至ると、茨木からの
兵だけでは心持たないと、建部三十郎に援兵を要請した。

建部三十郎はまだ幼少で、このころ尼崎城には建部の親類である池田利隆から、池田越前、宮城大蔵といった
武将が、兵と共に派遣されており、且元の軍はそれを知っていたため兵を請うたのである。

ところが尼崎の者達は且元の動向を未だ疑っており援兵を出さず、このため片桐軍は大敗を喫した。

このことは当然問題と成る。特に尼崎城に将兵を派遣していた池田利隆には世間からも、
大阪方に内通か!?と大いにとりざたされた。


さて、冬の陣の講和後、京の二条城において大御所、徳川家康直々に、この事件の詮議が行われた。
池田家からは宿老であり、家康からもよく知られている伴大膳というものが派遣された。

大膳は家康に対し様々に言い訳した。しかし家康の怒りは解けず、ついに

「今更色々言ったところで、現前に味方の兵が討たれていたのを見殺した事実は覆らぬ!
武蔵守(利隆)の心底、甚だ疑わしい!」

そう怒声を投げつけるとそのまま立ち上がって退出しようとした。その時である


伴大膳、脇差を後ろに投げ捨て、腹ばいに家康のものへと近づき小袖の裾にすがりつき

「これは何と情けのない上意でしょうか!?武蔵守(利隆)が御姫様(家康の娘で池田輝政の正妻督姫)の
お腹から生まれたのではないから、武蔵守をお孫とは思っていないということでしょうか!?

今、私の申し訳を聞きとどけて頂けないのなら、一体いつ、我が池田家の申し訳が聞かれることはあるのでしょうか!?」

そう、涙を流して訴えた。
家康は伴大膳のその姿に誠を感じ

「…よし。今お主の言うこと、聞き分けた。
早く帰って武蔵守に、安堵せよと伝えるが良い。」

これを聞くと伴大膳は手をあわせて平伏し、お礼を申し上げ急いで御前より下がった。



252 名前:2/2[] 投稿日:2010/11/12(金) 22:03:14 ID:Pcp9T+QH
大膳が退出すると家康は、その場に居た者達にこんな事を話し始めた。

「あの伴大膳の父親も大膳と言って、武蔵守(利隆)の父、池田三左衛門(輝政)がまだ若年で庄三郎と
名乗っていた頃、その馬卒をしていたのだ。

小牧長久手の戦の時のことだ。父勝入、兄庄九郎(元助)が討死したと聞いた輝政は、自分も討死せんと、
戦場に馬を乗りつけようとした。
ところが輝政の馬の轡を取っていたかの父の大膳は輝政の命を聞かず、輝政の乗るまま馬を
引き下がらせはじめた。

輝政は怒り狂い、『離せ!離せ!』と馬上より鐙をつけたままの足で大膳を蹴りつけた。
2,3町(約2,300メートル)の間蹴り続け、大膳は頭から血が滝のように流れだした。
だがそんな事も構わず彼は馬を退かせ続け、ついに輝政を無事、退却させた。

あの時輝政が討死すれば、池田の家も絶えてしまっただろう。今、彼の家が播磨一国の大名としてあるのは、
その大膳の働きによって生き残ったが故のことなのだ。

…さすがその親の子ほどもある。あの大膳も主のために自分の身を庇うことがなかった。
今の世にわしの前に出て、あれほどのことを言う者を、他には知らんよ。
武蔵守は、良き人を持っておられる。」

そう、機嫌よく語ったという。


池田家の親子大膳、についてのお話。




253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 22:31:09 ID:Ef4tJDkb
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3216.html
この逸話の某の息子か

宿老までなるなんて、息子はえらく出世したな。
利隆は見る眼があったな。
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